2024年7月24日水曜日

65歳の法顕(ほっけん)、天竺に向かう

 シルクロードのものがたり(30)

張騫の500年後の僧・法顕

張騫(ちょうけん・BC200-BC114)について9回に分けて紹介した。司馬遷の「史記」にも記述がある「漢の武帝の御代にシルクロードのルートを切り開いた豪傑」である。

その張騫が、その後続者たちが、シルクロードを通って東方に運んだくだもの・野菜についても何回か紹介した。その後、筆が止まり、十ヶ月も経過してしまった。


「ネタが尽きたんだな」と口の悪い学友はひやかすが、じつは、そうではない。ネタが多すぎて自分の頭の中の整理整頓が出来ず、困っていたというのが実情である。

玄奘三蔵の伝記を含めシルクロード関係の書物を50冊以上も買い込み、狭い書斎の壁に中国西部の大きな地図を貼った。天山(てんざん)山脈・タクラマカン砂漠・崑崙(こんろん)山脈にかこまれた西域の古代・現代の地名はほぼすべて頭に入った。少し気取って言えば、書物を読みながら古地図をながめながら、一年近く西域を一人で旅していたような気がする。

当初の構想は、玄奘三蔵の苦難の西域紀行について書き、その後、唐の詩人・王維・李白・王翰(おうかん)などの西域にまつわる詩を紹介しようと考えていた。そうしているうちに、私の眼前に大きな姿を現したのが「年寄りのくせにやたら元気で前向きな」法顕というお坊さまである。

張騫のあと玄奘三蔵(602-664)の登場となると800年の時間を飛ぶことになる。法顕が偉いお坊さまであると同時に、年代的にも張騫と玄奘三蔵との間に、法顕三蔵(337-422)に登場していただくのが良いと考えた。

法顕のライバルともいえる同時代の名僧で、今に名を残す鳩摩羅什(くまらじゅう・334-413)という人がいる。この人の父親はインド人で、元々の名は現在でもインド人に多い「クマール」という名前らしい。岩波文庫の「高僧伝」には、この鳩摩羅什は37ページにわたり紹介されている。同じ本に紹介されている法顕は13ページにすぎない。

「高僧伝」は梁(りょう)の慧皎(えこう・497-554)の著作だが、当時の中国の仏教界では37対13ぐらいで、鳩摩羅什のほうが高い評価を受けていたようである。私は仏教に関しては素人なのであまり自信はないのだが、もしかしたら、現在の中国・日本の仏教界における二人の評価も同じくらいかも知れない。これにはわけがある。これについても、どこかで触れたいと考えている。私は法顕のほうが好きなので、7-8回に分けて法顕を紹介したい。この中で鳩摩羅什について少しだけ触れたいと思う。

インド人で中国に仏教を伝えた偉いお坊さまに達磨(だるま)という人がいる。達磨のほうが鳩摩羅什より古い人だと私は思っていたのだが、これは私の誤りであった。今回調べてみると達磨が船で広州に上陸したのが520年とあり、鳩摩羅什のほうが達磨より100歳以上年長であることを知った。


この法顕は中国人だと陶淵明(366-427)より30歳ほど年長で、書の達人の王義之(おうぎし・303-361)より30歳ほど若い。日本人だと仁徳天皇と同じ頃に生きた人である。


東晋の隆安3年、西暦でいえば399年、65歳の法顕は長安を出発して徒歩で天竺に向かった。十人ほどの僧が従った。往路に6年を要し、インドに滞在して経典を集めるのに5年、その後、師子国(ししこく・セイロン)から商船に便乗して中国に戻った。法顕が77歳の時である。他の僧侶の多くは往路で死亡したり中国に引き返した。法顕を含めて二人が天竺に到着した。一人はインドが気に入ってそのまま残ったので、船で中国に戻ったのは張騫一人であったという。