2021年12月13日月曜日

丈部浜足(はせつかべ・はまたり)の証文

 この借金証文の日付は、宝亀(ほうき)3年(771)11月27日とある。東大寺の造営を担当する「造東大寺司」に属す役所「写経所」の下級役人、丈部浜足が書いたものである。

浜足このとき54歳。式部省(しきぶしょう)から写経所に出向して二十数年になっていた。正七位上、という位階を持っていた。戦前の軍隊でいうと、一兵卒から営々三十余年勤務して、定年間際で「特務中尉か特務大尉」になったくらいの地位の人であろう。

現在の役所だと一般職で入って定年間際の「係長」といったところか。米価から換算すると彼の年収は現在の感覚で500-600万円位かと思う。(現在の役所の係長さんはそれよりは多いと思うが)

つとめ先の写経所から「月借銭・げつしゃくせん)という形で融資を受けている。「丈部浜足解 申請月借銭事」という文面で始まっている。

浜足はこの日、一貫文(1000文)の金を一ヶ月の期限で借りることを願い出た。証文に記された書き込みによると、「利息は130文、質物(しきもつ・担保)は平城京右京三条三坊にある約125坪の宅地と板屋3間の住宅、さらに葛下郡に拝領していた口分田(くぶんでん)3町8段」とある。

浜足は、この証文に、驚くべき文言を書き加えている。「若期日過者、妻子等質物成売、如数将進納」すなわち、「もし、期日までに金を工面できなければ、妻子を売ってでも返済する」と書いているのである。

金を借りるのに、全財産、そして最愛の家族まで担保にするとは、浜足はよほど追い詰められていたのだろう。病気の妻の薬代か、孫娘の結婚費用か、はたまた、ばくちで負けてやくざ者に追い詰めつめられていたのか。1240年前の人のことながら、気にかかる。


さて、この時、浜足が借りた1000文は現在でいくらぐらいの価値の金なのであろうか。正確に言い当てることは出来ないが、米価に換算すると次のような推測が出来る。

和同開珎が出来た時、(和銅元年・708)大和朝廷は、銅銭一枚の価値を一日分の労働の値(力役・りきえき)とし、米6升買えるとした。ところが10年後には、和同開珎一枚で、米が1升五合しか買えなかったという。極度のインフレである。よって、60年後の浜足の時代、和同開珎銅銭1文にどれだけの価値があったか、はっきりとはわからない。

かなり甘く見て、1文で米が一升買えたとと仮定する。そうすれば、米1000升の価値がある。米1升は1.5キロである。現在新潟産コシヒカリ5キロが2800円で売られている。1キロ560円となる。すなわち、1500キロのコメの値段は84万円となる。わずかこれだけのお金を借りるために妻子を担保にするとは、なんとも心が痛む。お金(和同開珎)が鋳造されてなかったら、このようなことにはならなかったはずだ。

それにしても、丈部浜足はこのお金を無事に返却出来たのであろうか。妻子は売り飛ばされないで済んだのであろうか。1200年以上前の家族のことながら、気になって仕方がない。















2021年12月6日月曜日

お金の話

私は貧乏ではないが、金持ちでもない。 日本では少数人種になりつつあるらしい中産階級の一人であろう、と勝手に思っている。

コロナ関連やテスラの株を買って儲けたよ、と言う友人もいるが、私にはそのような才能はない。臆病で度胸がないからだと思う。よって、資産運用の話などは、まったくできない。

「学道の人すべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う」と道元は「随聞記」に言う。「足るを知る者は富む」と老子は言う。よって、「自分ぐらいがちょうど良いのだ」と自身に言い聞かせている。

「続日本紀」やその他の古文書にある古い資料から得たうんちくを、何回かにわたってご披露したい。日本最古の貨幣「和同開珎」について、近頃興味を持って調べている。そのあたりのことを紹介したい。


奈良の正倉院には当時の宝物がたくさん残っているが、1200年前の借金の証文も残っている。宝物として残したのではない。たまたま残っていたのだ。聖武天皇が「東大寺」を造営するにあたり、「造東大寺司」という役所がつくられた。この役所の長官に任命されたのが、70歳を目前にした吉備真備である。

「奈良時代の定年七十歳」で以前ブログにこのことは書いた。吉備真備は本心から、「もう引退させてください」と聖武天皇にお願いしたのだが、「ダメダメ、いましばらく仕事をやっくれないと困る」と言われて、この仕事を引き受けた。

この東大寺建立の60年ほど前に、はじめて日本で貨幣が鋳造された。お金の誕生とともにいくつもの悲劇・喜劇ははじまる。この役所の写経所(しゃきょうしょ)で働く下級職員たちが役所から借金をするとき、証文を書いた。ただ紙は当時貴重品であった。この証文書の裏を、何年か経って、役所の購入品などを記すために再利用したらしい。

よって、書いた本人たちは夢にも思わなかったことだが、1200年以上経った今日、この不名誉な記録が我々の目に触れることになった。写りが悪く恐縮だが、下にあるのが丈部浜足(はせつかべの・はまたり)という54歳の下級役人が書いた、借金の証文である。「妻子帯質物」という文字が見える。

次回はこの内容をご披露したい。











2021年11月29日月曜日

漱石はじつは、犬が好きだった

 私は以前から、夏目漱石という人は、猫より犬が好きな人ではあるまいか、と密かに思っていた。「草枕」や「三四郎」もそうだが、特に「坊ちゃん」は、猫好きの人が書いた文章とは思えない。なぜそう思うのかと聞かれても返答に困る。第六感である。

ただ、自信もないし、人に言うほどのことでもない。ずっと心の内に秘めていた。ところが、ほんの数日前、古本屋で買ったある人の本を読んでいて、漱石自身がその筆者に語ったという。「私は、実は、猫は好きじゃないんです。犬のほうがずっと好きです」と。

「我が意を得たり」とは、まさにこの事である。陶淵明や蘇軾なら「心欽然として」と詩に書くに違いない。私はここ数日、なんだか愉快でたまらない。漱石の項を終えるにあたり、この話をご紹介したい。

ある人とは野村胡堂である。明治15年生まれというから、小宮豊隆や安倍能成と同じころ一高、東大に学んだ人だ。「銭形平次捕物控」の作者でもある。そうかといって学生時代に漱石の門下だったわけではない。法科に学び、父親の死で学資が続かず潔く退学して「報知新聞」に30余年勤務した。漱石の家を訪問したのは、若い新聞記者の時代らしい。


以下は、野村胡堂の「胡堂百話」からの抜粋である。

私が、はじめて夏目漱石氏の書斎を訪ねた時、漱石邸には猫はいなかった。「あの猫から三代目のが、つい、この間までおりましたっけ」という話。惜しいことをした。もうひと月も早かったら「吾輩は猫」の孫に逢うことが出来たのだったのに。

「どうも、すっかり有名になっちまいましてね。猫の名つ”け親になってくれとか、ついこの間は、猫の骸骨を送って来た人がありました。どういうつもりか知りませんがね」さすがに、薄気味悪い顔だった。「で、四代目は、飼わないのですか」

「それなのです。私は、実は、好きじゃないのです。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬のほうが、ずっと、好きです」猫好きなのは、夫人の方だという。漱石研究の本にも、いろいろと書かれているようだが、私は、はっきりと、この耳で聞いた。好きでないから、冷静に観察できたのかも知れない。

私は、ひょっとしたはずみで、猫の孫にも逢わず、漱石門下にも加わらなかったが、漱石のあの風格は、忘れ難いものがある。江戸っ子らしい機才と、西欧流のユーモアと、それに深い学殖とが、三位一体となっていて、ちょっと形容の出来ない複雑な風格である。「漱石」とは記さず、「夏目金之助」とだけ書いたあの黒ずんだ標札と共に・・・・。













2021年11月18日木曜日

五高時代の夏目君

 夏目君と別後二十余年を経て、余が熊本の五高に教鞭を執りつつありし或る日、夏目君が突然訪ねてきて余を驚かした。一見幼児の面差しの変わらずを見て、実に嬉しく感じた。何の為に君は此所に来たのかと先ず尋ねた。夏目君は君の学校に転任したからこれから宜しく頼むと挨拶された。余はなおさら驚きかつ喜びて、頼むも頼まるるもあったものではない、こんな喜ばしきことはまたとあるまいと答えた。

余は久しく君の名を忘れて居たが、近年松山の中学に就職されたと伝え聞いて、私は喜んでいたのである。時に松山の生徒の風は如何な塩梅かと尋ねた。

君は曰く、てんで話にならない。教師が生徒に対して其の罪をただし、或いは諭す場合にも、生徒は何時も私の損であるから犯しました、若しくは私の得であるから致しましたと答するを通例とする。毫(ごう)も事理を弁じないから、ほとんど論戒の甲斐がない。全然利己の外に一片の節操だも抱かざる有様であった。僅かの間就職していたが、生来こんな不快なる間に衣食したことがない、と長大息された。彼の「坊ちゃん」の小説も、これらの不平の間に胚胎(はいたい)したものと思わるる。


或る日、夏目君と昔話中に、余より彼の鈴木のお松さんのことを話し出して、君は覚えているかと問うた。夏目君は、忘れるどころではない、君も僕も彼女を苛めて辛い目にあわせたから、あの時の事は終生忘れまいと言った。

又、お松さんは実に可愛い女子であったが、行末は如何になったか、君は知らないかと言われた。余は、君もまた当時可愛らしいと思ったか、僕も当時その通りであった。男女七歳にして席を同うせずと云うのはこんな場合から発明したのだろうと、互いに大笑いした。

お松さんは依然加賀町に住居して、某と云う人を婿養子としたが、不幸破縁となり、今は貧困に世を送っていると云うことだけを、かねてより伝聞して居ると語った。

然るに夏目君は、にわかに真面目になり、それは実に気の毒だ、君と僕と協力して、出来得る限り不幸の旧友を救おうではないか、僕もまた上京の時は、かならず彼女を訪ねて不幸を慰めてやりう、と余に語った。

余も夏目君の昔日の如く、友情の篤きと侠気の旺盛なるに感じて、共に此の事を実行しようと固く契った。その後、余が上京してお松さんの消息を探りしが、最近病死されたと聞き、夏目君と共に力を落とした。





2021年11月15日月曜日

腕白時代の夏目君(6)

 余等は、当時の子供のあらゆる悪戯(いたずら)を仕尽くしたる中に、極めて面白く思い、今もその時の光景を思い出しては、私(ひそ)かに微笑を浮かべることがある。

毎日午後の四時頃に、余が邸の板塀の外を22・3歳位の按摩(あんま)が、杖をつき笛を吹きて通過した。此奴(こやつ)盲人に似ず活発で、よく余等を悪罵(あくば)し、時には杖を打ち振りて、喜んで余等を追い廻わした。余等も折々土塊(つちくれ)などを投げつけて、彼を怒らせた。ある時学校で、夏目君と一つ按摩を嬲(なぶ)ってやろうと色々に協議した。ただしいつも矢鱈(やたら)に杖を振り廻すから、容易にその側に寄るわけにはいかぬ。

そこである時二人して、恰も按摩が塀の外を通過する頃、塀に登りてこれを待った。一人は長き釣竿の糸の先に付ける鉤(かぎ)に紙屑をかけ、一人は肥柄杓(こえびしゃく)に小便を盛りて塀の上に持ち上げて、按摩の通過を待つほどに、時刻を違えずやって来た。

一人は手早く紙屑に小便を浸して、釣り竿伸ばして魚を釣るが如き姿勢を取りて、小便の滴る紙屑を、按摩の額上3,4寸の所に降して.1・2摘小便を額上に落した。この後の按摩の挙動を思い起こす時は、今も笑いを抑ゆることができない。

笛を持てる左手にて、晴天に怪しの水滴の降りたるに驚きて、にわかに立ち留りて、てのひらに水滴を撫でて、すぐにその手を嗅(かい)でみる所作をなす。嗅いでその臭きを知るや、たちまち憤怒の形相となり、阿修羅王の荒れたるが如く、その近傍に人ありと察してか、左右前後に杖を風車の如く振り廻して、暗中人を探るがごとき状をなせども、人の気配なき為に、再び立ち留りて試案の体(てい)をなす。

この時更に又、額上に2・3滴を落せば、いよいよ荒れて杖を振り廻わす。最後に十分小便を浸したる紙屑を鼻頭に吊り下げて、小便を塗り付け、共に静かに塀を下りて逃げたことがある。この悪戯は子供心にもそぞろ罪深く感じて、申し合わさずも再びしなかった。


この頃、牛込の原町に芸名・玉川鮎之助という、日本流の手品師の芸人がいた。余はあるとき夏目君にこんなことを言った。君の名の夏目金之助というのは、なんだか芸人の様で少しも強かりそうでない。玉川鮎之助と余り異ならない。もっとえらそうな名に変じたらどうだと。夏目君は、僕も密かに気にしているが、親の付けた名前だから、今更変えることは出来まいとあきらめていると。

当時夏目君は武張(ぶば)ったことが好きで、後日文学を専門として、人情の微をうがつような優しい小説など書く人になろうとは思い寄らなかった。






2021年11月8日月曜日

腕白時代の夏目君(5)

 悪太郎の大将が余等に接近するや否や、余等は短刀を抜き放ちて彼の前後より迫った。彼はたちまち顔面蒼白となり、すきあれば虎口より脱せんとし、又近き小路(こうじ)の門内に入りて人の助けを乞わんとする態度にて、ぐずぐず言い訳を唱えながら、二人に囲まれつつ次第に小路に中に退却した。

彼が小路に入るや、夏目君は手早く短刀を鞘に収めて、悪太郎に飛びつきて、双手にて胸元を押さえて、杉垣根に圧しつけた。悪太郎は年齢が余等より四つ五つも違い、腕力も余等二人協力しても及ぶ所ではなかったが、時代思潮上士族を恐れたのと、余が白刃を持てるによりて、夏目君の引廻わすままに毫(ごう)も抵抗しなかったのは、当時極めて愉快であった。夏目君はいよいよ彼を杉垣根に圧し付けて、彼の身体が側面より認められぬようにし、余はこの動作中短刀を彼の胸元へつきつけて、夏目君と共に彼を殺してしまうと威嚇していた。

その内通行人が彼の家人に密告したものと見えて、不意に二十歳ばかりの彼の家に養わるる鍛冶屋の弟子が来りて、太き棒切れにて夏目君の向う脛(すね)を横に払った。余も夏目君も不意の襲撃に驚きて、夏目君が倒れて手を放すと同時に、当の敵は逃げ出した。

余もまた一歩二歩後退するとたんに、夏目君は腰に差したる短刀を抜き放ちて、倒れながら弟子をめがけて短刀を投げつけた。短刀は運よく彼の脛(すね)に触れて軽からざる傷を負わした。悪太郎も弟子もこの勢いに恐れて、主従共に雲を霞(かすみ)に逃げ亡(う)せた。夏目君は打たれる脛の痛みに、一時歩行が出来なかったが、辛うじて余が家に帰りて、水をかけたり白竜膏(はくりゅうこう)を塗ったりして、日暮れに跛行(はこう)して帰り去った。

この事ありし以来、余等が柳町辺を闊歩するも、毫も町家の子供に苛めらるることがないばかりか、たまたま四、五の悪太郎の集団が会するも、彼等はなるべく見ぬふりをして、余等の視線を避くる様子であった。

夏目君はこの時代、性質活発なると共に、癇癪(かんしゃく)も著しかった。余としばしば喧嘩をしたのもこのためであった。しかるに中年以降の沈黙・憂鬱(ゆうつ)の傾向ありしは、文学思想に耽(ふけ)りし為めか、或いは修行の結果であろうと思わるる。





2021年11月1日月曜日

腕白時代の夏目君(4)

 夏目君が、牛込薬王寺前町の小学校より、学校帰り余の家に立ち寄るには、麴坂を登りて来るを常とした。又帰宅のときは焼餅坂(やきもちざか)を下りて帰った。しかるに麹坂の麹屋に一人の悪太郎が居り、焼餅坂の桝本(ますもと)という酒屋にもまた悪太郎が居って、なおこれらの悪太郎を率ゆるに、鍛冶屋の息子で余等より四つ五つ年上なる大将がいた。

夏目君はいつも彼等のため種々な方法で虐めらるるから、いつか余と協力してこの町家の大将を懲らしてやろうではないか、と相談を持ちかけた。この時代はまだ士族の勢力が盛んで、町人の子供は一般に士族の子供に対して怖れを抱いていた。夏目君が学校帰り素手で四、五人の町人の子供に虐めらるるのであるから、その総大将を一人懲らせば後日の憂いなかるべしとの考えで、その機会が来るのを待っていた。

ある時、夏目君と余が、余の邸の裏門で遊び居れる時、かの鍛冶屋の悪太郎が独り、余等の遊べる方向に歩行し来れるを遥(はる)かに認めた。

余等は好機逸すべからずと、余は家内にかけ込みて何の分別もなく短刀二振りを持ち来りて、その一を夏目君に与えし時は、すでに悪太郎は十四、五間の距離まで近つ”いていた。当時は武士の切り捨て御免とかいう無上の権威が、なお町人やその子供の頭に残れる時分であった。武士の子供が短刀一本さえ携え居れば、年長の町家の子供四、五人を相手に喧嘩して、ついに逐い散らして勝利を収むることが出来たのである。



2021年10月25日月曜日

腕白時代の夏目君(3)

 夏目君とは日曜日はもちろん、平日もしばしば互いに往来(ゆきき)して遊び戯れた。当時の余の邸宅は二百年も住みなれた牛込区高良(こうら)町で、夏目君の邸は町名はちょっと忘れたが、柳町を過ぎ、根来(ねごろ)を経て、早稲田に至る十丁ばかり手前の、左側の家と覚ゆる。なにぶん四十年ばかり昔のことなので町名を思い出せない。

夏目君の家は余の家より一層淋しき田舎なりしため、余は四度に一度位しか遊びに行かなかった。多くは学校の帰途、夏目君が余の家に来てあそぶことが多かった。


夏目君の家と余の家とは共に幕臣にて、両親は相互にその名を知りたるが、相識の間柄ではなかった。その時分の子供の荒々しき風も加わりて、余と夏目君と喧嘩することもあった。当時余の伯父に、今は故人となったが、いたずらなる人があった。余の夏目君と親しくせるを知りて、ある時こんなことを余に話した。

夏目の祖先は、甲斐の信玄の有力なる旗本であったが、信玄の重臣某が、徳川家に内通せし時、共にあずかって徳川の家臣となったのだ。又余の家も信玄の旗本にて、勝頼天目山(てんもくざん)に生害せられし後、徳川家に降りて家臣になった。重臣の謀反さえなければ、武田家の運命も今少しは続きならんと、真か偽か、余が耳には親友の祖先に関することで、極めて異様に感じた。

しかし当分は質(ただ)すも気の毒で、夏目君にはなんにもこの事に就きて言わなかった。あるとき大喧嘩をはじめ、口論も尽きて腕力に訴えんとせし時、手近かなこの事実を語りて嘲(あざ)けった。夏目君はにわかに色を変えて引き別れ、逃ぐるが如く立ち去ったことがある。その後も再び仲直りして常の如く遊しが、喧嘩の場合、この事が同君をへこますに有効であったから、その後も折々この策を応用した。

今更思えば子供心とはいえ、余のおこないの卑劣なりしを感ずると同時に、夏目君の廉恥(れんち)を重んずるの念の深かりしを感ずるのである。その後二十年を経て、同君に熊本にて会いたる時、色々幼年の時のことどもを話し合ったが、ついにこの事実の真偽だけは質しなかった。









2021年10月18日月曜日

腕白時代の夏目君(2)

 この小学校の机及び腰掛は三人一組で、余と夏目君はその腰掛の両端に座を占め、中央には牛込加賀町より通学せる、色白く極めて愛らしい女の子が座を占めていた。この子は、余等の算術を受け持たれたる二十歳ばかりの先生の妹で、鈴木のお松さんという子供であった。このお松さんは容色秀麗なるのみならず、身体健康にしてかつ活発で、各種の課業も余や夏目君の及ぶ所ではなかった。

殊に夏目君と余は、算術が下手で、幾度となく鈴木先生に諭された。算術の課業は今の如く先生が黒板にて練習せしめた後、類似の問題を出して生徒にやらす。出来たものは挙手するを例としたが、余と夏目君はほとんど出来たためしがなかった。

お松さんはいつも一番に挙手して問いに応じて誤ることがなかった。余と夏目君は語り合わざるも、時には景気付けに挙手したものの、人に遅れて挙手せしにかかわらず、そんな時には運悪く解答を質問されて、赤恥をかきしこと一度ならずあった。

かくして日を送る内、お松さんは余等を蔑視するがごとく、時には余等の失策をほかの子供と一様に高笑することがあった。かくすれば余等子供心に、嫉妬心と憎悪の念を生ぜざるを得ない。殊にこの時代は、婦女をさげすみて、学校にて男女席を同うして教えを受くるさえ不快を感じていたから、あるとき学校で、夏目君が言い出したのか余から始めたのか覚えぬが、ひとつお松さんを虐めてやろうと相談した。

しかし先生の妹であるから、ぶったり、つねったりすれば、先生より大変な返報を受くる。課外にお松さんが席にまだ居残れる時、お松さんの両端より腰掛ながら、余等が一度にお松さんを肩にて押しつぶして圧して苦しめてやろう、そうすれば何も証拠は残るまい、と二人は一致した。その後この愧(は)ずべきことを実行した。

お松さんは顔を赤くして大声で泣きだした。余と夏目君は今更驚き狼狽して、共に学校道具もそのままに、門外に逃げたが、たちまち捕われた。その日より十日間、毎日課外に一時間ずつ、双手(もろて)に水を盛りたる茶碗を持たされて、直立せしめられたるのみならず、その後は席を替えられて、同室中で一番薄暗き片隅に移された。








2021年10月11日月曜日

腕白時代の夏目君(1)

 余と夏目君と相識(あいし)りしは、明治6年頃と記憶する。牛込薬王寺前町に一の小学校が設立された。その近傍の子供は、士となく商となく一様に入学を許された。大抵年齢によりて、上は一級より下は六級まで分たれて、六級より三級までは、男女混合であった。

余と夏目君とは三級で、しかも同じ腰掛に座を占めていた。当時の小学校は、校舎その他の設備不完全なりしのみならず、先生も六、七十位の漢学者も交じり、又洋算など教えらるる先生には二十歳前後の人もありて、極めて乱雑なるものであった。

或時、六十ばかりの先生が、福沢塾出版の世界地図を掲げ、アフリカ北部の国々の名を覚束なく指示された。翌日また同じ地理の時間に、同じ先生が続きを教えられることになった。驚くべし。先生は南アメリカの地図を指して、昨日と同じく平然としてアフリカとして教えられた。現今ならば生徒は忽ち挙手して先生の誤解を正す所なれど、この時分は先生の権威隆々として、そんなことをすれば直ちに体罰を課せられる恐れがあった。

この時代の小学生は実に乱暴なものであった。先生・父兄には処女の如くありしも、交友間、もしくは他人に対しては、今想像も出来ぬ程あばれたものだ。殊に廃刀令前後のことであったから、小学生の中でも士族の子供が平民の子供を抑圧することも、またはなはだしかった。夏目君の如きも、のち余と共に、はからずも同じ熊本五高に教鞭を執り、中年以後顔を合わせることになったが、この中年時代の憂鬱(ゆううつ)・寡黙に似ず、小学時代にはすこぶる活発にして、よく語りよくあばれ、余の当時のあだなであった「悪太郎」にも勝って、しばしば先生より叱られたものだ。








2021年10月4日月曜日

小宮豊隆の当惑

 この原稿を読んだ小宮豊隆の当惑ぶりを想像すると可笑しい。勉強はできない。とんでもない乱暴者。と書かれてある。

「あの漱石先生の少年時代がこんなはずがない。いや、あってはならない。これは作り話に違いない」これが小宮の本心であったと思う。

しかし、六歳年長で漱石門下の最先任・寺田寅彦さんのいいつけである。しかも寺田さんは病床に伏して容態は悪いらしい。無視するわけにはいかない。小宮はこの二つの文章を、昭和10年12月号の「漱石全集・月報2号」に載せた。死のひと月ほど前、寺田寅彦は病床でこれを読んだ。寺田自身はこの篠本の話を信じていたように思える。

かたや、「漱石神社の神主」の小宮が、これを快く思ってなかったことは、ありありとわかる。月報でこれを紹介する前に、次のように記している。

「失礼を省みず、正直な所を白状すると、篠本さんのこの話は、私には、少し面白く出来すぎている感がある。盲に悪戯をする所だの、鍛冶屋の息子と喧嘩をする所だの、特にこの感が深い。しかし篠本さんはもう亡くなっているのだから、それを質す訳にもいかない。また仮に質した所で、すでに篠本さんの頭の中にこうした形で記憶されている以上、どうしょうもない。従って私達は篠本さんという人の人となりを想像しつつ、この思い出を、このまま受けとって置くより外、しかたがないようである」


しかし、普通に考えてみれば、大正五年末に漱石が亡くなったあと、篠本二郎が共通の教え子の寺田寅彦に少年時代の漱石のことを、面白おかしく作り話をする必要性はまったくないように思える。同時に篠本自身、自分の書き物が後世の人々に読まれることは、まったく想定していなかったと思う。

伝わるところの篠本氏の人柄と、彼の写真の風貌からして、田頭はこの「腕白時代の夏目君」の内容は、ほぼ100パーセント真実であると思っている。

篠本氏の原稿は案外分量が多い。ここで紹介するのはその一部である。

次回から「漱石の六歳頃の写真」を掲載しようと思う。明治9年の廃刀令の4年ほど前のものであり、古い写真を何度もコピーしたものであろう。とても写りが悪い。端午の節句の時のものであろうか。頭にハチマキをきりりと締めて、左手に大刀を握っている。「お前はサムライの子だ」と親がこのかっこうで写させたに違いない。微笑ましい写真である。

小宮豊隆






2021年9月27日月曜日

篠本二郎の原稿・20年の孤独(2)

 送り主は、東大理学部の若い教職の人だった。

「実はその手紙と原稿は私が保存している。私が理学部に勤めることになって、与えられた古い書卓を掃除しているとこの手紙が出てきた。読んでみると大変面白い。寺田先生宛の手紙だとはわかったが、こんな所に放り出している以上、きっと不要なものだと思った。自分が記念にもらっておこうと自宅に持ち帰った。今月号の「思想」で、この手紙と原稿が寺田先生にとっていかに貴重なものかわかった。即刻、同封ご返却する。どうか、伝記資料として役立ててください」との手紙が添えてあった。

寺田が急いでこれを送った先が小宮豊隆である。小説「三四郎」のモデルといわれる小宮は福岡県出身の人だ。若い頃は、純粋・朴訥でハンサムな好青年であったようだ。一高・東大では安部能成・中勘助・藤村操・岩波茂雄が同級生になる。

小宮豊隆は82歳の長寿を保ち、昭和41年まで生きた。昭和21年に東京音楽学校(のちの東京芸大)校長、その後、学習院女子短大学長に就任しているから、教育者としても成功をした人物である。

それはめでたいのだが、中年以降の小宮は、漱石を崇拝するあまり神格視するようになった。漱石の弟子仲間たちからも、「小宮は漱石神社の神主だ」と揶揄(やゆ)されるようになっていた。これを言い出したのは、寺田寅彦らしい。

寺田がこの原稿を小宮に送ったのには理由がある。大正時代から岩波書店が出版する「漱石全集」の編纂はこの小宮が中心になって行っていた。昭和10年に再度、「漱石全集」の出版がはじまっていて、小宮がこの責任者であった。

「小宮にこれを送って、漱石全集の月報に中に掲載させ、読者に知ってもらいたい」との強い思いが寺田寅彦にはあったのだ。


寺田寅彦


2021年9月21日火曜日

篠本二郎の原稿・20年の孤独(1)

 漱石が亡くなったのは大正5年12月9日である。篠本氏の書いた「腕白時代の夏目君」と「五高時代の夏目君」の原稿が、郵送で寺田寅彦の手元に届いたのは大正6年2月だから、漱石が亡くなって三月(みつき)ほど後のことだ。

寺田寅彦は明治36年に首席で東大理学部を卒業した。まもなく博士号取得、助教授、ベルリン大学留学、大正5年に東京大学理学部教授に就任している。よって、篠本からこの手紙を受け取ったのは教授就任後まもなくである。

篠本から寺田への私信の目的の第一は、「寺田君、東大教授就任おめでとう」であったかと思う。そのあとで、「二人の熊本時代からの共通の知人、夏目君が亡くなって三月(みつき)になるね。心に穴が開いたようだ。夏目君との少年時代の思い出をつつ”りながら、一人で自分を慰めている。君にだけはこれを読んでもらいたい」このような内容の手紙であったかと想像する。

これを感激して読んだ寺田は、大切に自分の書卓の引き出しの奥に仕舞い込んだ。その後、寺田は胃潰瘍を患い長く学校を休んだ。快復のあと、東大教授の肩書のまま、理化学研究所・東大地震研究所など東大キャンパスではない、別の場所で勤務した。その後大正12年の大震災に遭遇したりで、本人はこの手紙と原稿をどこかで紛失したと悔やんでいた。


ところが、寺田寅彦が亡くなる二月(ふたつき)ほど前に、ある人から、この手紙と原稿が寺田の自宅に郵送されてきた。「失くした子供が生き返ったようだ」と寺田は喜んだという。返却されたのには、それなりの理由があった。

死期を悟ったのであろうか。寺田は「思想」という雑誌の昭和10年11月号に、「埋もれた漱石伝記資料」と言う題で、この資料を紛失したことの後悔の気持ちを書いた。

便利な世の中になったものだ。スマホにこの題名を入力すると、読者はこの全文を読むことができる。寺田寅彦が亡くなったのはそれから二月(ふたつき)後の12月31日である。


寺田寅彦







2021年9月13日月曜日

漱石の幼なじみ・篠本二郎

 漱石の幼なじみの篠本(ささもと)二郎という人が、漱石が亡くなったあと、すぐに書いた「腕白時代の夏目君」と「五高時代の夏目君」という思い出話をご披露したい。

その前に篠本二郎の人となりと、彼の「書き物」が我々の目に触れるにいたった数奇な物語りを紹介したい。

矢島道子・浜崎健児両氏の「傍系の地質学者・篠本二郎」を参考にすると、篠本二郎氏とは、次のような人物である。


文久3年(1863)ー昭和8年(1933)70歳で没。漱石より20年長寿を保った。

「夏目君とは小学校で同じ長椅子に腰を掛けていた」と本人の文章にあるが、慶応3年(1867)2月9日生まれの漱石より3歳年上になる。明治6年ごろ一緒に小学校に入学した、との記述もあり、当時は小学校が設立されたばかりで、この程度の年齢差は珍しいことではなかった。

この人が東京大学理学部化学科に入学したのは明治16年というから、漱石が東京大学文学部英文科に入学した明治23年よりも7年も前である。

漱石は漢学塾二松学舎・英語塾成立学舎・大学予備門・第一高等中学校経由で東大に入学した。一高時代は虫垂炎で一年遅れている。篠本氏は東京英語学校、大学予備門に学んで、漱石より7年も早く東大に入っている。教育制度の変転と3歳年長がその理由らしい。

「自分が熊本の五高で教鞭をとっていたら、小学校で別れて以来の夏目君が英語の教授としてきたのでびっくりした」とあり、同じ時代に二人とも東京大学で学んだはずなのに、と思っていた私には、当初は合点がいかなかった。

私は東京大学には縁がないので、本で調べた限りでは、当時は文科大学・法科大学・理科大学・医科大学など、それぞれがカレッジとして独立していて、場所も分かれていたらしい。なおかつ入学が7年も違えば、互いが大学時代に顔を合わせなかったのは理解できる。

篠本二郎は、化学を専攻したが、一年生の時実験中に負傷して一度退学した。翌17年、理学部地質学科の聴講生として再度東京大学に学んだ。ただ正規の卒業生ではなく卒業生名簿には載っていない。すなわち、理学士にはなっていない。このことが学位を重んじた明治・大正時代に教職についた篠本とって、不遇の原因となる。

教職に就き、富山・徳島・岩手・徳島・大分・長崎の学校を転々としたとある。中学校とか専門学校あたりで教鞭を執っていたらしい。明治27年に熊本の第五高等学校に赴任する。これは本人にとっては栄転と考えられるが、肩書は英語・地質・鉱物の講師であった。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が急に辞任したので、英語が出来る篠本に白羽の矢が立ったらしい。

明治29年に熊本の五高に赴任した夏目漱石はいきなり教授であった。当時、教授の給料は講師の五倍もあったそうだ。明治30年に、篠本もあっぱれ教授に就任している。

五高当時の漱石・篠本二人の共通の教え子が寺田寅彦である。漱石門下には多士済々の一流の文学者がきら星のごとくいるが、最も古い時代からの弟子が寺田寅彦らしい。

篠本二郎は五高のあと鹿児島の第七高等学校(造士館)の教授に転じている。教え子の思い出話には、「先生は朝顔を洗わず、便所に行っても手を洗わなかった」など奇行の人との証言もあるが、孔子の言葉を借りると、「巧言令色」ではなく、「剛毅朴訥仁に近し」の人だったようだ。写真の風貌からしても、そのような人柄が感じられる。

漱石ほど多くの有名人を弟子に持たなかった篠本二郎にとって、寺田寅彦は数少ない自慢の弟子であった。自分と同じ理学で立身出世した寺田に、篠本は大きな愛情と誇りを抱いていた。

この原稿を、篠本が寺田寅彦に送ったのは、二人の関係からしてごく自然である。


篠本二郎










2021年9月6日月曜日

夏目漱石の「坊ちゃん」

 「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇(むやみ)をしたかと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることは出来まい。弱虫やーい。と囃(はや)したからである。小使いにおぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして、二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた」

私が広島県の田舎の中学校に入学して、最初の国語の授業の時、新任の先生は「起立!礼!」のあと、何も言わないで漱石の「坊ちゃん」の冒頭の部分をここまで読んだ。

松岡先生という名前で、この年に大学を卒業され、最初の授業だったと後で知った。22歳か23歳だったはずだ。家に帰り母に「変な先生が来たよ」と言ったら、「松岡先生の息子さんだよ」と言った。隣村に松岡先生という先生がいて母はその方を知っていた。息子さんも教師になるということでどこかの大学に通っていた、とも言う。

あとで聞いてみると、若・松岡先生は、愛媛大学の教育学部の卒業だった。先生には、「坊ちゃん」というあだ名がついた。松岡先生はそれを得意としている風であった。

「坊ちゃん」の中に、松山中学の生徒と松山師範学校の生徒との喧嘩の場面がある。愛媛大学の教育学部はこの松山師範の流れをくむ学校だから、四年間松山ですごした松岡先生にとって、この「坊ちゃん」は身内の話のような気がしたのであろう。新任早々この本の紹介をされたのは、今になると良くわかる。

「中学校には暴れ者やいたずら坊主が多く、バッタを持ってきたり、引き戸の上に黒板消しをはさむやつがいると聞いていたが、この中学校の生徒はみんな品行方正でよろしい」などと言い、そのあとで「坊ちゃん」についての解説をしてくれた。

「この本の中に出てくる松山中学の先生方には、何人かのモデルがあるらしい。ただこの通りの事件があったわけではない。漱石が面白おかしく書いたユーモア小説だ。特に主人公の坊ちゃんの少年時代の話は作り話だ。漱石自身、物理学校(東京理科大学)の卒業ではなく、東大卒業の優等生だ。子供の頃はしっかり勉強したまじめな少年だった。この小説の中の腕白ぶりは、むしろそうなりたかった、という漱石の願望のようなものだ」

だから私はそれを今まで、何十年も信じていた。


ところが、最近になって「漱石の少年時代は、この坊ちゃんの通り、いやこれ以上の乱暴者であった」と知った。半端ではない、とんでもない「悪太郎」だったらしい。

「出所」もしっかりしていて、信頼できる筋の人の話である。「ブログの読者の方に読んでいただく価値がある」と思い、これから何回かにわたって、「夏目金之助の少年時代の腕白ぶり」についてご紹介したい。

あるいは、ご存じの方もいらっしゃるかも知れないが、これは私が最近知った「愉快な話」の一つである。










2021年8月30日月曜日

別れの時

 ニーチェはしばしば「別れの時」という言葉を使った。彼の超人は一面からいえば幾度か「別れの時」を経過しきたれる孤独寂寥(こどくせきりょう)の人である。私はツァラトゥストラを読むごとに、この「別れの時」という言葉の含蓄にうたれる。

ニーチェ自身もまた「別れの時」を重ねたる悲しき経験を有し、「別れの時」の悲哀と憂愁と温柔と縹渺(ひょうびょう)とに対する微細なる感覚を持っていたに違いない。

概括(がいかつ)せる断言は私のはばかるところであるが、私の心臓(こころ)の囁(ささや)くところを、何らかの論理的反省なしに発言することを許されるならば、「別れの時」の感情はあらゆる真正の進歩と革命とに欠くべからざる主観的反映の一面である。

あらゆる革命と進歩とに深沈の趣を与えて、その真実を立証する唯一の標識である。「別れの時」の悲哀を伴わざる革命と進歩は、虚為か誇張である。


進む者は別れねばならぬ。しかも人が自ら進まんがために別離を告ぐるを要するところは=自らの後に棄て去るを要するところは=かつて自分にとって生命のごとく貴く、恋人のごとくなつかしかったものでなければならぬ。

およそ進歩はただ別るるをあえてし、棄て去るをあえてする点においてのみ可能である。かつて貴く、なつかしかったものに別離を告ぐるにあらざれば、新たに貴く、なつかしきものを享受することはできない。

新たに生命をつかむ者は、過去の生命を殺さねばならぬ。真正(しんせい)に進化する者にどうして「別れの時」の悲哀なきを得よう。

思えばかくのごとくにして、進化する人間の運命は悲し。


阿部次郎の「三太郎の日記」の一節です。










2021年8月23日月曜日

(8)運の良い人

 成功された方々と夕食などをご一緒した時、「自分は運に恵まれていた」とおっしゃる方が多い。「運」とはなんだろうか、と近頃考えている。


日本海海戦の勝利は、世界史に類がないほどの大勝利であった。

「撃沈されたロシアの軍艦は戦艦六、巡洋艦四、海防艦一、駆逐艦四、仮装巡洋艦四、特務艦三。捕獲されたもの戦艦二、海防艦二、駆逐艦一。抑留されたもの病院船二。脱走中に沈んだもの巡洋艦一、駆逐艦一。マニラ湾や上海など中立国に逃げ込み武装解除されたもの巡洋艦三、駆逐艦一、特務艦二。遁走に成功しロシア領に逃げ込んだものはヨットを改装した小型巡洋艦一、駆逐艦二、運送船一。これに対して、わが日本海軍の損害は小型の水雷艇三隻沈没」と記録にある。

この海戦に参加した二人の将校が、両人とも海軍中将に昇進した後、ある晩一献しながら、この海戦のことを語り合った。梨羽時起と佐藤鉄太郎である。

「佐藤、どうしてあんなに勝ったんだろうか」と先輩の梨羽が言う。

「六分どおり運でしょう」と佐藤が答える。

梨羽はうなつ”き、「僕もそう思っている。しかしあとの四分は何だろう」

しばらく考えたあと、「それも運でしょう」と、佐藤は答えた。

梨羽は笑い出して、六分も運、四分も運ならみな運ではないかというと、佐藤は前の六分は本当の運です。しかしあとの四分は人間の力で開いた運です、といった。

秋山真之は聯合艦隊解散の辞でいう。

「神明はただ平素の鍛錬につとめ戦はずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に休んずる者よりただちにこれを奪う。古人曰く、勝って兜の緒を締めよと」

四分の強運というものは、日ごろの鍛錬と努力によって引き寄せることが出来ると、日露戦争の勇者たちは言う。

もしかしたら、六分の本当の運も、棚の下でぼたもちが落ちてくるのを口を開けて待っているようなものではなく、各人の精神・心構えによって引き寄せることができるのではあるまいか、と近頃考えている。


成功した人々を、遠くから秘かに観察していて、「もしかしたら、この人が運が良くなった理由はこれかな」と思うことが二つほどある。正しいかどうかわからない。ただ何人もの成功者に共通している。これら以外にも理由があるのかも知れないが、今は思いつかない。

一つは、「神仏を敬い先祖の供養を大切にする人」である。歴史上の成功者もそうだが、私の身近な成功者にも、これを実行している人が多い。

いま一つは、「人にものを贈るのが好きな人」が幸運を得ているような気がする。

そういえば、「徒然草」に次のような箇所がある。

「よき友三(みつ)あり。一つにはものくるる友。二つには医師(くすし)。三つには知恵ある友なり」 若い頃私はこれを読んだ時、兼好さまのような偉い方が妙なことをいうなあ、と心の中で笑った記憶がある。しかし、今になって考えれば、この言葉は真実かも知れない。


時に饅頭を送ってくれる奇特な友人がいる。その時は嬉しい。もらった饅頭が旨いからというより、自分のことを気にかけてくれている友人の心が嬉しい。自分がそうなのだから、相手もきっとそうだろうと思い、近頃は古い友人に時々饅頭を贈る。そうすると喜んでくれる。相手に喜ばれるとこちらも嬉しくなる。なんだか運が良くなったような気がする。

「運」という字は「はこぶ」と書く。饅頭でなくてもよい。手紙を含めて、相手が幸せを感じる、心がこもったものを運んでいると、もしかしたら「運が良くなる」のかも知れない。









2021年8月16日月曜日

(7)勇気ある人

 この「勇気」という言葉の定義はむずかしい。

4節の「決断力」に似ているが、違う気がする。6節の「侠気」とも少し異なるように思える。

同時にこの「勇気」というものが、先天的にその人に備わっている資質なのか、後日の本人の努力で身に着くものなのか、そのあたりのことが、いまなおよくわからない。

広辞苑には、「いさましい意気。物に恐れない気概」とある。わかったような気もするが、なんだかよくわからない。ただ、成功している人物の多くが、勇気ある人だとは感じる。


そういえば子供の頃、広島県の我々の田舎では「肝試し」というものがあった。小学校の一年生になると、村のそれぞれの集落に子供会があり、五年生、六年生のお兄さん連中がそれを仕切っていた。夏場になると「肝試し」をやる。村はずれの墓地にリンゴとかお菓子を前もって置いておく。小さな懐中電灯を持たされて、「一人で行って、取って来い」と先輩たちは一年生に命じる。途中の林の中に上級生の1-2人が隠れていて、ガサガサと小枝を揺らして一年生を怖がらせる。同級生の一人が「うちのあんちゃんが途中の藪に隠れている」とこっそり教えてくれた。だから藪の前だけは怖くはなかった。

怖いながらも頑張ってそれを持ち帰ると、「良くやった」と子供会の大将は褒めてくれた。

「肝試し」という言葉からして、昔の人はこの「勇気」というものは、頭とか胸(心)に存在するのではなく、腹の中(肝)にあるものと思っていたらしい。

この肝試しは、別に私の村の先輩たちが発明したものではないと、後日知った。幕末の薩摩藩の「若衆組」の話を本で読んでいて、昔から同じようなことを、日本全国の村々で行っていたことを知った。西郷隆盛や大久保利通はこの若衆組のリーダーであったようだ。これらから考えると、昔から「弱虫でも努力と鍛錬によって勇気は養われる」と日本人は考えていたように思える。

子供会の肝試しで、リンゴを持ち帰った私は、六年生の大将に褒めてもらった。ただ、私が勇気ある人間になれたかどうか、疑わしい。

自分自身を省みて、多少決断力はあるように思う。だが勇気となると自信がない。自己分析すると、自分は小心者で臆病な気質の気がする。かならずしも「成功した人物」になれていない理由が、この勇気の無さではあるまいか、と近頃ひそかに思っている。

勇気の無い人に「勇気を出しなさい」と言っても、なかなか勇気は湧いてこない。ただ、私が今までに観察してきた「成功した人物」には皆、勇気がある気がする。一流大学を卒業しても、いくら頭が良くても、英語がうまくても、人柄が優しくても、勇気の無い人は成功していないように思える。


しからば、自分の今後の課題は、勇気ある人間になることだ。しかし、この年になって、夜中に一人で青山墓地を散歩しても、あまり怖くはない。神経が鈍感になっているからだ。それを行なっても勇気ある人間にはなれそうにない。

それでは、どのように努力すれば自分は勇気ある人間になれるのか。これが現在の私の重要課題である。どう努力すれば良いのか。それを自問している。








2021年8月9日月曜日

(6)三分の侠気

 「友に交わるにすべからく三分の侠気を帯ぶべし。人となるに一点の素心を存するを要す」と「菜根譚」に言う。石坂泰三翁は、しばしばこのことを述べておられる。

この「侠気」である。辞書を引くと「おとこぎ」とあるが、男性にかぎった話ではない。自己犠牲の精神ともいえる。自分が損をしてでも、公共のため、正義のため、他人のために、あえて貧乏クジを引くという心意気である。

この気持ちがある人が成功している。そんなに多くなくても良い。いくぶんかの侠気がある人は良い。人間というものは、基本的には自分の利益になることばかりを考えている動物である。「種の保存」という点から考えると、当たり前のことであり、決して悪いことではない。

お金がもっと欲しい。高い地位・権力が欲しい。健康・長寿でありたい。異性にもてたい。賞賛の言葉・名誉が欲しい。人間はだれもがそう思いながら生きている。それで良いのだと思う。私自身まったくその通りの人間である。

そうはいうものの、人間だれしも多かれ少なかれ、この「侠気」の精神を持っているように思える。ゼロの人はいない気がする。0.1パーセントから5パーセントぐらいの開きで、だれもがこの精神を持っていると思う。0.1パーセントの人を見て、あの人は自己中心だ、自分勝手な小物だと世間は言う。5パーセントの人を見て、器量のある人だ、大物だと人々は言う。

思うにこの侠気が5パーセントその人物の中に存在すると、その部分が真空になり、人々はそこに吸い寄せられていくのではなかろうか。


「菜根譚」のいう三分とは、3パーセントではなく30パーセントの意味らしい。

西郷隆盛という人は、もしかしたら本当に、この「三分の侠気」を持っていた人なのかも知れない。それゆえに、幕末から西南戦争に至る戦乱の中で、幾多の英傑がこの人を慕って喜んで死んでいったのであろう。子分千人が親分のためには命がけで突進したという、清水次郎長こと山本長五郎という人も、三分の侠気、のあった人に違いない。

われわれ凡人のとうてい真似できる領域ではない。5パーセントを目指せば良い。それだけの自己犠牲の精神を持っていれば、成功すると思う。

ただ、この「侠気」というものは、他の資質に比べて後日の努力で身につくものではなく、持って生まれた先天的なもののような気がする。

そうでなくとも、幼少の頃、祖父や父親もしくは周辺の人の中にこの「侠」の気質の人がいた場合、自然に身につくもののような気がする。成人したあと、自分の努力では身につきにくい資質のように思える。






2021年8月2日月曜日

(5)親切な人・好意的に物事をみる人

 思いやりの心を持っている人(人の気持ちを察する心のある人)と言っても良い。

外資系金融機関の代表者クラスの中に「善意のかたまり」のような人が時にいる。男性にも女性にもいる。このような人から見ると大概の人が「良い人」に見えるらしい。人材を紹介すると、ほとんどの場合「良い人ですね」と言ってくださる。リップサービスかと思いきや、どうも本心らしい。人の長所を第一に見てしまうのであろう。

このような方が相手だと、逆に私のほうが、候補者選びを厳選しなくては、と慎重になる。もちろんこの人一人がOKだと言っても、採用が決まるわけではない。関連部門の何人かが面接して、OKが出たあとオファーレターが手渡される。このような人をボスに持つと、周りの人々も私と同じような気持ちになるらしい。

「うちの大将は善人だから、だれを見ても良い人に見えるのですよ。だから我々がしっかり目を光らせてないといけないんです」という声なき声が聞こえてくる。

このような善意のかたまりのような人が、生き馬の目を抜くような外資の投資銀行でうまくやっていけるのが、不思議といえば不思議である。でも現実にそのような人を私は何人も知っている。会社の業績も良く、社内の空気も明るい。中国の歴史上の人物だと劉備玄徳、日本史では北条泰時のような仁徳の人なのかも知れない。

逆のケースもある。どのような人材を紹介しても、かならずケチをつける人や会社が時たまある。やれ年齢が、やれ職歴がドンピシャでない。TOEIC850では駄目だ900は欲しい等と、どこかにかならず文句をつける採用側の方がいる。何十人も面接してやっと採用した人材に、短期間で逃げられるのもこのような会社である。入社後もその人の粗探しをするのであろう。働く人が意欲を失うのだと思う。このような会社はおおむね業績が良くない。


候補者にも色々なタイプの人がいる。両極のケースをご紹介しよう。

20年以上前の話である。英語には堪能だがずいぶん疑い深い女性がいた。英文で書かれたオファーレターの中の、ある単語の意味がハッキリせず二つの意味に解釈できる、と彼女は言う。片方の意味だと自分にいちじるしく不利になるのだと言う。このような表現をするこの会社は不誠実だとも言う。私には会社がそんなに悪意を持っているとは思えない。

「どっちだって大きくは変わらないんじゃないですか」との私の返事に失望したらしい。えらく憤慨していた。結局彼女はこの会社に入社しなかった。たしかに外資系企業で働く場合、文書にした契約書は重要ではある。ただ重箱のすみをつつくように、なんとか自分の立場が不利にならないようにと、そんなことばかりを考えている人で、成功した人を私は見たことが無い。

逆のケースもある。25年以上前の話である。その候補者は当時30歳前後の女性だった。大学を卒業して一流の銀行に入社して7-8年の人だった。英国の筋の良い会社が東京に小さなオフィスをオープンした。代表者は英国人男性、もう一人日本人女性が秘書として勤務していた。私の紹介した女性は、営業というか企画というか、フロント系の職種だった。

面接の翌朝、本人から私に電話があった。「昨夜お会いした英国人はとても立派な方でした。来てくださいと言われたので、はい行きますと答えました。先ほど今の会社に辞表を出しました」と言うのだ。こちらがあわててしまった。「ちゃんとオファーレターをもらったのですか?お給料・仕事内容はきちんと決めたのですか?」と聞いた。

「オファーレターは来週くださるそうです。現在の給料を聞かれたので800万円ですと答えました。笑いながら、そうかそうか、と言われたのでそのくらいはくださると思います。早く来て欲しいと言われたので、今日辞表を出しました。そうしないと相手の希望日に出社できないのです」 本人はあっけらかんとして、相手の言うことを全面的に信用している。

この転職は成功であった。翌週もらったオファーレターには基本給100万円アップ、ボーナスは別途、と書かれていた。彼女が言うとおり、この英国人は大変立派な方だった。彼女はこの支店長から強い信頼を得て、のびのびと良い仕事をなされ、良い成績を上げた。


この両極端の話は実話である。別に後者を真似する必要はない。いささか危険である。この二つの中間の常識的なところで行動すれば良いと思う。

ただ、前者より後者のタイプの人のほうが、成功し幸福になる確率ははるかに高い。二万人以上の人々の転職を見ていて、そう断言できる。






2021年7月26日月曜日

(4)決断力のある人

 この仕事をしていて、高学歴で判断力もありそうな人なのに、決断できない人に出会う。

立派な会社から良い条件のオファーレターをもらいながら、もっと良い条件の会社はないだろうか、とキョロキョロする人である。嫌だから辞退します、というのは立派な決断だ。それはそれで良い。断わりもせず、それを自分の手に握りながら、もっと条件の良い会社はないか、とウロウロする人がいる。このタイプの人は、不思議なことに多くは貧乏くじを引く。この決断力というものは、その人に備わっている一つの能力であると思う。

私などが良かれと思い、誠意を持ってアドバイスをしても、決して耳を傾けてはくれない。結婚然り、転職然り、病気で手術をする時などもそうであろう。これで良いのか。もっと良い相手が、もっと良い会社が、もっと良い病院があるのではないか、、、、。

人の心は千々に乱れる。当然でああろう。慎重であることは大切である。ただここで、あまりに慎重すぎて、時間をかけすぎて決断を遅らせると、良い結果にならない。決断できないということは、自分自身を大切にしすぎているのかも知れない。自分を大切にすることは良いことである。しかし、「あまりにも自分を大切にしすぎる人は」、もしかしたら、幸せになりにくい人なのかも知れない。


アンドリュー・カーネギーの15歳の時の転職の話をしたい。

13歳の時、貧困から逃れるため、両親・弟とともにスコットランドからアメリカに移民した。鉄鋼王として財を成し、カーネギーホールやカーネギー・メロン大学など、寄付・慈善事業でその富を社会に還元した人である。家計を助けるために13歳の時から働いていた。不健康な環境の地下室で、蒸気機関の釜焚きの仕事を歯をくいしばって頑張っていた。

少し長いが、彼の自伝の一部を引用する。

私はつらい仕事をしていたが、希望を高くもって、事情は変わるであろうと楽観していた。ある日、その機会がめぐってきた。ある夜、仕事から帰って来ると、市の電信局の局長のブルックスさんが、ホーガン叔父に、電報配達夫になる良い少年を知らないか、と問われたのだという。二人はチェスの仲間だった。

私は河を渡ってピッツバーグ市へ行き、ブルックスさんと会うことになった。父は私と一緒に行くといってくれたが、電信局の入り口で、私は、父に外で待っていてくれと頼んだ。

この面接は成功であった。私は慎重に最初からピッツバーグ市を知らないこと、しかし、できるだけ早く学ぶつもりであることを話し、同時に自分としては、とにかくやってみたいなど、つつましやかに話した。ブルックスさんは、いつから仕事にかかれるかと聞いた。そこで、私はもしご希望なら、今からすぐ始めることができると答えた。

私はすぐ階下に降りていき、町角に走って、父に万事うまくいったのを告げた。今日は仕事をして帰りますと伝え、私が採用されたことを母に、早く知らせてくれるように頼んだ。このようにして1850年に、私は本格的に人生の第一歩に旅立ったのであった。1週2ドルで、暗い地下室で石炭の塵でまっくろになっていた私が、急に天国に引き上げられたのである。

この場面を回顧して、私の答えは、青年たちの参考になるのではないかと思う。機会をその場で捉えないのはまちがいである。この地位は私にあたえられた。しかし、なにが起こるかもしれない。たとえば、誰かほかの少年が現れるかもしれない。私は職を与えられたのであるから、できればすぐその仕事にかかりたいと申し出したのである。


私はこの箇所を読むたびに、涙ぐみそうになる。15歳の少年が、よくぞ言ったと思う。学歴も職歴もない貧乏な少年が、仕事が欲しいのでそう答えたまでだ、と当たり前のことと思う人がいるかも知れない。私はけっしてそうは思わない。これだけの決断を即座にできる少年はめったにいるものではない。カーネギーの成功の秘訣をここに見る思いがする。








2021年7月19日月曜日

(3)一途(いちず)に努力をする人

 思い込んだら命がけ、みたいな青年にときたま出会う。義理堅く、若いくせになんだか戦前の日本人のような古風な匂いのする人である。あまり要領の良くない愚直な感じの人とも言える。映画俳優でいえば高倉健みたいな人だ。

外資金融のイメージに重ならないのだが、どういうわけかこのタイプの中に成功者が多い。人種・国籍に関係なく、人間というものはこういうタイプの人に胸をうたれ、信頼感を寄せるものなのかも知れない。

先に述べた意固地な人と、この一途な人とはまったく違う。素直な心根で、かつ、思い込んだら命がけで一途に努力する人はいい。このような人は、かならず成功する。

「外資系金融界で成功するには、自己主張を強くして、外国人と上手につきあい、要領良く立ち回らなければいけない」という話を、30年前ヘッドハンターになった頃、外資系で働く日本人からしばしば聞かされた。ある面、これは当たってなくもない。しかし、それだけでは成功しない。一途に努力するということなしで、成功した人に私は今まで会ったことがない。


人生において、どこかの時点で壁を突破しなければ次の展望が開けない、という局面がかならずある。それは一回だけではない。人によっては数回かも知れないし、数十回かも知れない。しかし、一回目の壁を立派に突破しておくと、そのコツを身体が覚える。

その壁を突破する最善の方法が、「一途に努力すること」だと近頃強く思う。一途に努力することによって知識が増し、知恵が深まる。人間として実力がつく。これも大切なことである。じつはそれ以上に重要なことがある。

「一途に努力している人を ”発見” すると、人間という動物はそれを助けてやりたいという衝動を抱く」ものなのである。他の人の好意・善意・助けがなければ、人は成功することは出来ない。

強い熱意・一途な努力は、かならず人の心を動かす。これは真理である。






2021年7月12日月曜日

(2)素直(すなお)な人

 素直な人は大きく成長し、そして成功する。

「人の言うことをよく聞く素直な人になりなさい」と、保育所や小学校の先生に言われた記憶がある。母や祖母からも言われた。自分はこれに反発していた。素直な人という意味を、強い立場にある人のイエスマンになることと誤解していたような気がする。

今考えると間違っていた。もっと素直な人間だったら、私はもう少し成功していたかもしれない。素直な人とは、「物事をあるがままに認め受け入れることのできる能力」ではなかろうか。素直な心を持つことによって、良いものは良い、悪いものは悪いと判断できる。


ヘッドハンターは、高学歴で英語力を含め基礎学力の高い、かつ努力家で前向きの若者に出会うことが多い。それはとても良いことなのだが、時おり、きわめて自己主張の強い意固地(いこじ)な人がいる。意固地は素直の反対である。

「私はこのような仕事をやりたいのです。今の会社ではやらせてくれない。このままでは自分の将来は駄目になる。次の5年間はこのような仕事をやりたい。その経験を基にして次のステップは、、、、」と、先の先まで人生のスケジュールを立てている。それにプラスにならないと思う事象に出くわすと、会社が悪い、上司が悪いと言ってすぐに転職しようとする。

これは良くない。将来の目標を立てて努力しているのだから、一見立派そうに見える。しかし、自分の考えに執着しすぎる意固地な人は成功していない。

数多くの人の転職や人生を見ていて、また自分自身のささやかな経験を振り返って、人生というものはどうも、「出たとこ勝負」、のような気がしてならない。

遠い将来の計画や予定を立てて、その通りに実現したケースを、私はほとんど見たことがない。運命に流されて、努力もしないで、のほほんと人生を送れば良い、というのでは決してない。

運命ーあるいは縁(えん)という言葉が適切かもしれないーを素直にあるがままに受け入れ、まずそれを「是(ぜ)」とする。それを是としたうえで、明るくほがらかな気持ちで懸命な努力をする。このような人が成功している。








2021年7月5日月曜日

(1)明るくほがらかな人

 男性も女性も、明るくほがらかな人が良い。そのような人が成功している。そういう人柄だから成功したのか、成功したから明るくほがらかになったのか、よくわからない。おそらくその両方であろう。日本史でいえば豊臣秀吉・伊藤博文がこのタイプの人として浮ぶ。

人間というものは「快」を好み「不快」を好まない動物である。すなわち、自分に対して快を与えてくれる(くれそうな)人に魅力を感じ、近寄ってゆこうとする。不快を与える人から遠ざかろうとする。明るくほがらかな人は、相手に快を与える。快を与えられたら、その人に対して魅力を感じ好意を抱く。好意を持たれたら仕事はもちろん、すべての人間関係はスムーズに進む。外資系金融会社にかぎらない。どの会社においてもまったく同じである。


別に無理して、多弁でニコニコする必要はない。普通で良い。普通に振る舞い、相手に好意を抱いてもらうには、明るくほがらかなことは、とても重要な美点である。日本の一流大学を卒業し、米国の有名大学でMBAを取り英語上級だとしても、陰気で人に不快感を与える人は、外資金融会社においても成功しない、と断言して良い。

誤解を恐れずに言えば、男性も女性も、見た目が良い人のほうが悪い人よりも成功の確率がはるかに高い。相手に快を与えるからである。これはかならずしもハンサムであり美人であるという意味ではない。

顔だけではない。「立ち振る舞い」という言葉がある。「立居振舞(たちいふるまい)」ともいう。広辞苑には、「立ったりすわったりする動作。挙動」とある。言葉の発し方、笑いかた、お茶の飲み方などを含めてこの言葉を使っても良い。このほんのちょっとした立居振舞の中に、人間としての気品、重厚さ、軽薄さがかならず出る。

「人間は四十歳になったら自分の顔に責任を持たねばならない」と言ったのはリンカーンだそうだ。この言葉は真実だと思う。明るくほがらかに、人に親切にして、前向きに努力している人は、かならず魅力ある顔になってくる。

顔は看板である。ずるい人はずるそうな顔をしている。親切な人は親切そうな顔をしている。ほんの少しのおしゃべり、歩き方、食事の仕方などで、その人の生きてきた何十年かの人生がどのようなものであったか、なんとなく察することができる。これは別に私にかぎったことではあるまい。それなりに人生を歩んできて、数多くの人に会ってきた人ならば、このような推察は可能であろう。

一時間の面談で、その人物のスキル・経歴・人生観・今後の希望などを聞き、その人物の全体像を掴もうとヘッドハンターは努力する。そうしながら、最初の1-2分で得た直観によるその人の人柄に誤りがなかったかを再確認する。

私は占い師ではないし、人相学の大家でもない。百発百中とはいかない。間違いもある。でも近頃は大きな誤りはないような気がする。

「明るくほがらかな人」は相手に快を与える。素晴らしい美点といって良い。







2021年7月1日木曜日

ヘッドハンターから見た成功する人物

 金融専門のヘッドハンターになって30年以上が経過し、二万人を超える方々にお会いした。どのような気質・資質の人が成功しているか、観察する機会に恵まれたといえる。

面白いことに、候補者とクライアントとは往ったり来たりする。若くて有能な方をVPとして外資系金融にご紹介したとする。数年たってマネージングディレクターに昇格され、「良い人材がいたら紹介してください」と声がかかり、クライアントに変身する。この時がヘッドハンターとして一番嬉しい。

逆の場合もある。いままでクライアントだったMDが、「今度来た外国人の支店長とはウマが合わない。転職したい」と急に候補者になったりする。このような往ったり来たりが、30年間に同じ人で、4回も5回も発生することがある。これもこの仕事の醍醐味の一つである。


よって、これから述べることは私の考えではない。観察者が見た統計的な事実、だと思っていただいて良い。ヘッドハンターは数多くの人にお会いするが、べったり・しつこいつきあいはしない。つかず離れずというか、サラリとした関係である。

ただ、互いが好意と信頼感を持った場合、その関係は長く続く。友人として、転職のみならず人生相談に乗ってあげたり、また逆に私が乗っていただいたり、時には趣味の話をしたり、お互いが信頼感と好意を持って、少し距離を置いて、気にし合う関係である。

このような関係の人が数百人いる。今までにお会いした人の2-3パーセントぐらいであろうか。そんなに高い割合ではない。30年ー20年にわたってこのような関係が続いている人が100人ほどいる。どういうわけか、これらの方々の中に成功者が多い。


これらの成功者には共通点があることに、近頃気がついた。そこを書いてみたい。14年ほど前に私は農作業に関するエッセーを出版した。この時もこのことについて触れた。基本的に大きな変化はないが、それ以降の経験を含め、今回、多少の改正・加筆を加えた。

ここで言う、「成功者」という意味は、ポジション的に高い地位に昇り高給を得ているだけの人を言うのではない。この二つは重要である。でもそれだけでは決して成功とは言えないと思う。

それらの成功を得ながら、同時に、周りの人たちから信頼され、家庭生活や趣味などを含め、心豊かに人生を前向きに楽しく生きている人のことである。

七つか八つほどに、まとめてみたい。













2021年4月26日月曜日

あとがき(完)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(23・完)

「歴史に if はない」という。その通りだと思う。後日になって、「もしもあの時」などと言っても考えても、現実はなにも変わらない。そうではあるのだが、凡人はつい夢想してしまう。「ルーズベルトの生命があと半年あったなら、広島・長崎への原爆投下はなかったのではあるまいか。7月下旬に戦争が終わっていたのではあるまいか」という夢想である。

二個の原爆が投下され、ソ連の参戦があったにもかかわらず、8月上旬、陸軍や海軍があれだけ抵抗したのだから、それは難しかった。以前、私はそう考えていた。

しかし、今回、当時のことを深く調べてみて、昭和天皇・鈴木貫太郎・米内光政・梅津美治郎の決意があれほど固かったのだから、それは可能だったのではあるまいかと思うようになった。陸軍大臣の阿南惟幾があそこまで頑張った理由はただ一つ、「国体の護持」すなわち「天皇の地位の保証」であった。

ルーズベルト大統領の下で、グルーが国務省を仕切り、「天皇の地位を保証したポツダム宣言」を発していたら、高い確率で7月中の終戦が可能だったのではあるまいか。もちろん、陸軍の一部が小さなクーデターを起こした可能性はある。それでも、先述した指導者たちが団結して動けば、少数の死者でそれは弾圧されたような気がする。

もしそうであれば、広島・長崎への原爆投下はなかった。7月下旬から8月上旬にかけて行われた、日本の地方都市への焼夷弾の投下もなかった。満洲での悲惨な出来事もなかった。北方四島にソ連が居座ることもなかった。そうであれば良かったのに、と思う。

しかし、と凡人はまた考える。それ以降の歴史で、原子爆弾というものが一切使われないで、現在までの70余年の世界史が続いていたであろうかと。あるいは朝鮮戦争やベトナム戦争で、「本当の原爆実験」が行われていたかも知れない。そう考えればきりがない。たしかに、「歴史に if はない」のかも知れない。


戦後生まれの日本人の一人として、私は鈴木貫太郎に心から感謝したい。

小堀桂一郎著、「宰相・鈴木貫太郎」の最後にある次の逸話には胸をうたれる。

この冒険的大事業を成功させたあとの、鈴木貫太郎のこうむった処遇は、救国の英雄にはふさわしからぬ奇妙なものであった。8月15日の朝、暴徒に自宅を焼かれた鈴木氏は、無一物の身柄一つをかかえて、親戚知人宅を転々と避難して歩いた。一軒の宅に落ち着けなかったのは、生命をねらう暴徒が徘徊していたので、一箇所への長逗留を避けるよう警察から要請されていたからである。

鈴木氏はそのような時、意地を張らない人であった。笑いながら素直に警察の要請に従って、転々と居を移した。三箇月のあいだに七度転居したという。終戦の大業を成し遂げたこの自分を、世間は何と思ってこのように扱うのか、といった怒りは毛ほども示さなかった。

鈴木内閣で厚生大臣を務めた岡田忠彦氏は、鈴木貫太郎の一周忌における談話で次のように語っている。終戦直後、彼が鈴木貫太郎の隠れ家を訪ねた時の話である。

「小さな家でありますので庭から入っていきました。狭い部屋に布団があって、そこで握り飯みたいなものを食べておられました。奥様も傍らにおられました。大変なことですな、と言ったら、その時に鈴木さんは、これくらいな事はありがちなことですなと言われた。私にはその一言がとても心に響きました」


八千万人の日本人を乗せ、いつ沈没するかわからない日本丸という大きなボロ船を、たくみに操縦しながら、日露戦争時の水雷艇司令・鈴木貫太郎は、なんとか岸まで持ってきた。港の岸壁にスマートに横付けしたのではない。いってみれば、浜辺に座礁させたようなものだ。それでも八千万人の日本人は生き残ることができた。これを見届けて、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。昭和20年8月15日の夜のことである。


ほぼ同じ時刻、アメリカ東部時間8月15日の午前、ワシントンでは国務次官ジョゼフ・グルーがトルーマン大統領に辞表を提出した。

84歳で没したのが65年だから、グルーは戦後20年間を生きた。日本人の留学生をサポートするグルー基金を設立したり、日本に対する友情はまったく変わらなかった。49年に渡米した高木八尺東大教授は、グルーの自宅で親切にもてなされた。53年、皇太子時代の平成天皇は、エリザベス女王の戴冠式に出席するためアメリカ経由で渡英した。この時グルーは夕食会を主催し、皇太子の成長ぶりと皇室のご安泰をわがことのように喜んだ。

60年、日本政府はジョゼフ・グルーに勲一等旭日大綬章を、ユージン・ドーマンに勲二等旭日重光章を贈った。日米修好百年を記念して渡米した皇太子夫妻がこれを持参した。原爆投下を阻止できなかったことをひどく心苦しく思っていた二人は、この叙勲をとても喜んだといわれている。

しかしながら、日本の友人たちが再三来日を促しても、グルーはとうとう日本の土を踏むことはなかった。

「征服者の顔をして日本に行きたくない」というのが本人の弁であったという。この人もまた、中世の騎士の精神を持っていた人のように思える。 














2021年4月19日月曜日

ポツダム宣言の黙殺(2)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(22)

「黙殺」についてのいきさつは、次のようであったらしい。

7月28日の朝日新聞に「政府は黙殺」との見出しをつけて記事を書いたのは、柴田敏夫記者である。この柴田記者が戦後、当時首相秘書官であった鈴木貫太郎の長男の鈴木一(はじめ)氏と対談した。この時、鈴木一氏は次のように語っている。

「当時、書記官長の迫水さんは、毎日三回、新聞記者クラブで会見をされていた。正午の会見の時、いったい政府はどうするのかという話が記者団から出た。迫水さんとしては、今、日本としてはこれを受諾するとかそういう態度はとれないんだ。だから結局まあ重要視しないというか、ニグレクト(neglect/無視・軽視)するという方向にいくことになりだろうと。じゃあ黙殺かという話が出たんですね。”黙殺?ニグレクトというのは黙殺とも言えるかなあ” というようなやりとりがあったと記憶しています。そして迫水さんからは、”大きく新聞のトップでポツダム宣言黙殺とは扱わんでくれ。なるべく小さく扱ってくれよ”と記者たちに話があった」

毎日新聞の名取記者は、戦後次のように証言している。「総理ははっきりしたことは何も言われなかった。近頃の言葉でいうとノー・コメントといったところなのですが、印刷するとああなりますかね」

この「気にもとめない」、「ノーコメント」くらいの意味での「黙殺」という言葉を、AP通信もロイター通信も、「reject/拒否」した、とアメリカ国民に伝えた。APやロイターに比べると、ワシントンポストの次の報道は、日本政府の気持ちをかなり正確に伝えているような気がする。

Japanese Premier Suzuki scorned today as unworthy of official notice allied Potsdam surrender ultimatum.

日本の首相・鈴木は、本日、連合国のポツダム降伏勧告最後通牒は、公式見解表明に値せずとして笑殺した。(小堀桂一郎訳)

私は、最後の「ultimatum/最後通牒」という言葉に違和感をおぼえる。ポツダム宣言の文中には「最後通牒」の文字は見えないからである。

日本側が、「これは公式見解表明に値せず」と言ったことを、ワシントンポストで知ったトルーマンとバーンズは一瞬ヒヤリとしたのではあるまいか。彼ら自身が「公式見解とは見られないように」幾重にも小細工を施していた からである。日本側はこの宣言の背後にある真実をつかんでいるのか。二人は内心ギクリとしたかも知れない。

日本政府は、「対本邦共同宣言にあげられた条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるとの了解のもとに、帝国政府は右宣言を受諾す」との内容を英文にして、米国と中華民国にはスイス政府、英国とソ連にはスウェーデン政府を経由して、日本時間8月14日に改めて発信した。

日本人は律義である。宣伝文のような形で発信されたこの文書に対し、正式に中立国を経由して返答している。ポツダム会談に参加していたが宣言に名を連ねていないソ連に対してまでも返答している。

バーンズ三原則の通り、アメリカ政府の原爆投下に関する公式な姿勢は、「日本に対して原爆投下の事前通告をしない」ということであった。

ところが事実として、アメリカは複数の方法で、この原爆投下について日本国民に警告を発していた。


シドニー放送・ニューデリー放送は原爆投下の3-4日前から、英語と日本語の短波放送でこれをくりかえし放送した。このブログの「広島医専・20年8月5日の開校式」で触れたとおり、広島医専初代校長・林道倫博士がこれを聞いていたのは間違いない。

同時に、原爆投下の前日8月5日に、一機で広島上空を偵察したB29は、原爆投下警告のビラを広島市に投下している(写真参照)。「日本国民に告ぐ・即時都市より退避せよ」と見出しにあり、「広島」の名も、「B29・2000機分が搭載する爆弾に匹敵する」、「原子爆弾」の文字もはっきりと見える。

このガリ版刷りのビラは、テニアン島かサイパン島で捕虜になった日本人が、アメリカ軍の情報将校の指示のもとに、急いで印刷したものに違いない。それでは、これらの放送や警告ビラの投下は、アメリカ本国のどこからの指示であったのだろうか?

国務次官のグルーと特別補佐官のドーマンであった可能性が高い。そうであれば、二人の行為は、国務長官バーンズの指示に逆らっての命令違反である。

B29は陸軍の軍用機だ。陸軍次官補・マックロイもこれに加わったのではあるまいか。海軍次官のバードも、これをサポートしたのかも知れない。グルーとドーマンの国務省の二人だけでは、これだけ大がかりな作業は不可能と思うからだ。日本が敗北を認めたその日、45年8月15日に、グルーは辞表を提出した。彼は命令違反行為の責任を取ったのではあるまいか。

アメリカの心ある人たちの、このような配慮・行動は事実として存在した。このことは我々日本人は認識しておくべきだと思う。ただ、残念なことに、海外からの短波放送を聞くことは当時の一般国民は固く禁じられていた。米軍の飛行機が撒く宣伝ビラは、すぐに憲兵隊か警察に届けるようにとの国民への指示は徹底されていた。広島医専の方々のように、8月5日に広島から避難できた人はきわめて限られている。


これ以降、8月15日までの6日間、息つ”まるようないくつもの物語があるのだが、これらは数多くの書物に書かれているので、ここでは触れない。

















2021年4月12日月曜日

ポツダム宣言の黙殺(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(21)

ドイツのポツダムで米・英・ソの三巨頭会談が開かれていることは、中立国経由で日本政府は知っていた。スイスには日本公使館員・駐在武官以外に、三井物産・横浜正金銀行・各新聞社などの民間人が相当数いた。三ヶ国が発表するであろう宣言を、日本政府と軍部はかたずを飲んで見守っていた。

日本時間の45年7月27日の午前7時から、アメリカ西海岸・ハワイの短波放送、サイパンの中波放送が宣言の内容をくりかえし放送した。日本では、外務省・NHK・同盟通信社・陸軍省・海軍省がこれを受信する機能を持っていた。実際には、海軍の艦船や陸軍の大きな部隊は高性能の受信機を持っていたので、このポツダム宣言を受信している。


東郷外相が受けた第一印象は、「天皇の地位保障が入ってない点は厳しいが、全体としては悪意に満ちた内容ではない。この宣言は受諾すべきだ」というものであった。

「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得らしむべし」、「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又国民として滅亡せしめんとする意図を有するものに非ず」などの箇所は、グルーとドーマンが心血をそそいで書き上げた文章である。

東郷外相が「これは受けるべきだ」と判断した大きな理由は、「吾等の条件は下記の如し」の箇所である。「これはあきらかに無条件降伏を求めたものではない。条件付きの講和を求めた宣言である。ドイツに比べてさほど苛酷なものではない。天皇の地位保障は記載されてないが、アメリカはこれを認める腹ではあるまいか」老練の外交官・東郷はそう直感した。

外務次官の松本俊一は、「がんらい無条件降伏というのは一種の言葉の遊戯であって、停戦交渉にはかならず何らかの条件があるものだ」との考えを持っていた。この宣言文にも「無条件降伏」という表現は、第13条の「日本国軍隊の無条件降伏」と、軍隊においてのみ用いられているのを読んで、自分の見解に自信を持った。すなわち、この宣言は「日本政府との条件付での降伏勧告文書である」と確信した。

このように、外務省はこの宣言を受諾するほかない、との意見ですぐさま一致した。しかし、案の定、陸軍から受諾絶対反対の声があがる。トルーマンとバーンズが天皇条項を削ったのは、この日本陸軍の反対を期待したうえでのことである。


受けるに受けられないように周到に細工された、このポツダム宣言を受け取った日本政府の立場は苦しいものであった。総理・鈴木貫太郎としては、天皇の地位保障が記されていないこの宣言をすぐに受諾するわけにはいかない。そうかといって、外相の言うことはわかる。これを拒否するのはよくない。この時の鈴木総理の正直な気持ちは、「ノーコメント」というのが一番近い。

ところが、「鈴木総理がこの宣言を黙殺した」との表現で、日本の新聞で報道された。AP通信とロイター通信は、これを「reject(拒否)した」、とアメリカ国民に伝えた。

有名な政治学者である東大教授の岡義武氏までが、戦後、「鈴木首相がポツダム宣言を黙殺したことが、広島・長崎への原爆投下につながった」と、ずいぶん見当違いの発言をしている。ただ、現在になって、岡教授を批判するのは適当でないかも知れない。

戦後間もなくの日本の「空気」は、「すべて日本の軍部が悪であった。アメリカは善であり人道的な国家である」との認識がとても強かった。いま一つは、現在の我々が読むことができる「50年間非公開の秘密情報」が、当時はまだ開示されてなかったことにその理由があると思う。

東郷外相






2021年4月5日月曜日

ポツダム宣言(2)

昭和天皇と鈴木貫太郎(20)

 ポツダムのトルーマン大統領から、電報で指示を受けたワシントンのマーシャル参謀総長は、「8月3日以降に原爆を投下せよ」との命令書の草案をつくる。これを知ったスティムソン陸軍長官は、再度まきかえしに動く。

「日本に対する通告の中に天皇の地位の保証を加えるべきだ」と、7月23日、24日の両日説得した。しかしトルーマンは、「この宣言に蒋介石を参加させるためにこの文書をすでに重慶に送ったから、いまさら修正はできない」と逃げをうった。スティムソンは帰国のため25日にポツダムを発つ。トルーマンとバーンズの二人が、宣言を発表する前に、うるさいスティムソンを追い返したというのが真相らしい。

ここで、老陸軍長官は最後の粘り腰をみせる。「日本側は天皇の問題一つだけで決断できないはずだ。文書に入れることができないなら、天皇の地位の保証を、外交ルートを通じて口頭で伝えるべきだ」と説いた。

「自分も考えていることだから、まかせてもらいたい」とトルーマンは答えた。

このトルーマンのひと言には、とても深い意味がある。そしてトルーマンは、このスティムソンとの約束を守ったともいえる。原爆投下のための二週間の時間稼ぎをしたあとで。


「天皇の存在を認めなければ日本軍は絶対に降伏しない」と、じつは、トルーマンもバーンズも考えていた。この時、二人を含むアメリカの政治家・軍部の上層部がもっとも恐れていたのは、100万の支那派遣軍が破れかぶれになることだった。

天皇の存在を否定した場合、中国大陸にいる100万人の日本陸軍はおとなしく降伏せず、毛沢東と手を結ぶ恐れがある。そうなれば、蒋介石の国民政府など一瞬で崩壊する。毛沢東が中国大陸を制圧してソ連と組み、日本もそのグループに入る。戦後の世界秩序を考えた時、アメリカにとってこれほどの悪夢はない。これを絶対に阻止しなければならない。

日本人のだれもが気付かなかったことだが、アメリカが天皇制を認めようと考えた理由の一つに、支那派遣軍が行った「一号作戦」の成功があった、と筆者は考えている。

いま一つ、筆者には以前からとても気になっていることがある。どの歴史家も触れていないことで、筆者自身の想像に過ぎないかも知れないのだが。

ずいぶん前に、「日本の一番長い日」という映画を見た。昭和20年8月14日の二度目の御前会議のあとの映画のシーンである。「国体の護持」を心配して、ポツダム宣言受諾に納得しない阿南陸軍大臣が、なおも発言しようとする。この時、昭和天皇が「阿南、もうよい。心配するな。朕には確信がある」と優しく諭す場面である。

もしかしたら、中立国のスイス経由で、このことが天皇に伝えられていたのではあるまいか。ただ、スイス駐在公使・駐在武官の残した記録には、一切触れられていない。私が読んだ史書のいずれにも、このことは触れられていない。


天皇条項の入っていないポツダム宣言を受諾する旨の電報を、日本政府が発信したのは、8月10日午前6時45分である。「帝国政府はこの共同宣言に挙げられたる条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるとの了解のもとに、右宣言を受諾する」と返電した。

これに対する8月11日の返答は、バーズ回答といわれるもので、次のような電文である。

「降伏の時より、天皇及び日本政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする」

婉曲ではあるが、天皇制の存続を否定していない。すなわち、二個の原爆を日本に投下するために、アメリカはこの天皇条項を二週間ほど隠していたのだと思う。


場所をポツダムに戻す。

7月26日、ポツダム時間午後9時20分。トルーマンは自分の宿舎に記者たちを集め、「ポツダム宣言」を発表した。

スティムソン・グルーの草案には共同署名国にソ連の名が入っていた。それを削り、中華民国主席・蒋介石の名を入れた。日本とソ連はかたちだけは中立状態にある。しかも日本は和平の工作をソ連に頼ろうとしている。しからばここではソ連の名は出さず、日本にソ連に対する期待感を持たせ続けるほうが、この宣言の受諾を遅らせるのに好都合だ、と二人は考えた。原爆投下に向けての時間稼ぎになるからである。

もちろん「天皇の地位の保証」は消してある。「原爆」の文字も、「異常な破壊力がある新兵器」との記載も避けた。

トルーマンとバーンズは、さらに念入りな細工をする。なによりも、この宣言が正式な外交文書と読み取られないように努めた。これも時間稼ぎのためである。正式な外交文書なら、米・英・支それぞれの利益代表国である中立国のスイス・スウェーデンを経由して日本政府に伝えなければならない。同時に返事の期限を示す必要がある。これらがなされていない。だれが見ても、宣伝文書にしか見えず、降伏を要求する正式な外交文書には見えなかった。

そして二人は、さらに念入りに細工をする。これを正式文書を扱う国務省ではなく、宣伝と広報を担当する戦時情報局に指示し、これを日本国民に伝えるべく対日放送せよと命じたのである。日本政府に対してではなく、日本国民全員に対する宣伝のかたちにしたのだ。

「日本政府がすぐに受諾しないように」と幾重にも小細工をほどこしたポツダム宣言は、このようして日本に向けて発信されたのである。

ポツダム宣言









2021年3月29日月曜日

ポツダム宣言(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(19)

トルーマンとバーンズ一行を乗せた重巡洋艦オーガスタが、アントワープに到着したのは45年7月14日である。奇妙なことに、重要人物である陸軍長官スティムソンの姿はこの艦上になかった。

トルーマンとバーンズの二人が、当初、スティムソンをポツダム会談のメンバーからはずしていたからだ。天皇条項にこだわる彼の参加を嫌がったのだ。この条項を入れて日本がすぐに降伏したのでは、原爆投下が出来なくなる。

しかし、まもなく78歳になる政界の長老スティムソンは、この会談への参加を自分の最後の晴れ舞台と考えていた。このままでは男が立たない。彼はポツダムへ行くべく巻き返しをはかる。ちなみに、このスティムソンは鈴木貫太郎と同じ年齢である。

あるいは国務次官のグルーから、ポツダム行きを強く要請されたのかも知れない。この局面で、天皇条項の挿入を大統領に説けるのはスティムソン以外にいない、とグルーは考えたと思う。グルーを駐日大使に任命したのは、当時国務長官だったスティムソンだ。二人には深い信頼関係があった。13歳年長でハーバードの先輩でもあるスティムソンに、この時グルーは拝むような気持でいたのではあるまいか。

スティムソンはトルーマンに、なぜ自分がメンバーから外されたのかと問う。

「年齢ですよ。私は貴殿の過労を心配しているのです」とトルーマンは笑いながら答えた。

大統領がこのような言い訳をするだろうと、じつはスティムソンは予想していた。これに備えて、彼は合衆国軍医総監の健康証明書を手元に用意していた。これを出されたトルーマンは断るべき理由を失い、非公式での随行を認めざるを得なくなった。

この後のスティムソンの動きはじつに素早い。陸軍の高速輸送艦に乗り、重巡オーガスタより一日早くアントワープに到着している。次官補のマックロイを同行させた。


7月16日、日本の外務大臣からモスクワ駐在の佐藤大使に宛てた「天皇は速やかな戦争終結を望んでいる」との暗号電報を、ポツダムに着いたばかりの米首脳が入手したことは先に述べた。同じ日の午後7時過ぎ、「ニューメキシコでの原爆実験成功」の報がスティムソンのもとに届く。すぐさま大統領の宿舎を訪ね、トルーマンとバーンズにこれを伝えた。

この晩、同じ宿舎に泊まるスティムソンとマックロイは夜遅くまで語り合った。そして、「天皇条項を入れた通告をいますぐ日本に渡すなら、日本側にとってもぴったりのタイミングだ」と二人は考えを一致させた。翌日早朝、スティムソンはトルーマンとバーンズにこれを説いた。

「日本に今すぐこのような通告を出すことには反対だ」、二人はにべもなく断った。ルーズベルトが存命ならば、国務長官を一度、陸軍長官を二度つとめた政界の大物スティムソンは、この二人の田舎政治家など歯牙にもかけなかったはずだ。自分の主張をまったく聞こうとしない二人に、スティムソンは憤慨する。

スティムソンは共和党の議員で、共和党の大統領・セオドア・ルーズベルトに見いだされて立身出世した。彼が最初に陸軍長官になったのは第一次大戦前の1911年である。この頃トルーマンは父親と一緒にミズーリで農業をしていた。スティムソンから見たら、トルーマンもバーンズも、政治歴からしてもまったくの小僧っ子である。

ポツダム宣言の原案は、陸軍省と国務省の共同で作成された。具体的に言えば、弁護士出身の陸軍長官スティムソンと国務省のグルー、ドーマンの三人で草案を練った。そしてこれを清書したのは、大阪生まれで東京の暁星中学出身のドーマンである。

彼らは第12項に、「天皇の地位の保証」を入れた。だが、トルーマンとバーンズの二人がこれを削ろうとしていることに、グルーとスティムソンは強い危惧を抱いていた。


ヘンリー・スティムソン


2021年3月22日月曜日

マックロイと米軍首脳の思い

 昭和天皇と鈴木貫太郎(18)

大統領トルーマンはあわてた。それでも、なにげないそぶりで、以前にスティムソンに語り、グルーに語ったのと同じ台詞(せりふ)をくりかえした。

「君が語ったことは自分が求めていることの中にある」と。そして「その案をバーンズ氏と相談してもらいたい」と答えた。またしてもトルーマンは逃げたのだ。会議書記の陸軍准将・ファーランドは、だれの指示を受けてのことか、マックロイの提案とトルーマンの応答を議事録から削除した。

それではなぜ、後世の我々がこれを知ったのか。アメリカ人のだれからも好かれたマックロイは、89年に94歳で亡くなった。マックロイと戦争中からずっと親しかったジェームズ・レストンというNYタイムズの大物記者がいた。引退したレストン氏が回想録の執筆に取りかかった時、マックロイの息子と娘が訪ねてきて、父が書き残した6月18日の会議での発言記録を彼に手渡したからである。「レストン回想録」は92年に発刊されている。マックロイとレストンは家が隣どおしで、家族ぐるみのつきあいをしていた。

このマックロイはハーバードの卒業であるが、かならずしも裕福な家庭の出身ではない。友人のレストンは、回想録の中で次のように語っている。

「マックロイは困った立場にいる人にとって、いわば磁石のようなものだった。率直で、勇気があり、快活で、人の意見を聞き、どのようなことでも、相手の立場に立って親切に解決する能力があった。生まれは貧しかったが、人生の大半を富者として暮らし、貧者と富者の双方の気持ちが理解できた。六歳で父親を失い、しっかり者の母親にペンシルベニアで育てられた。母は美容院を営み、マックロイがハーバード大学に合格すると、母親もボストンに転居してマックロイの面倒を見た」


マックロイ以外にも、ラフト・バードという海軍次官の言動にも心温まるものを感じる。この人は元シカゴの金融家である。原爆を使わなくても日本は降伏すると考えていたバードは、6月27日にスティムソンに次のような書簡を送っている。

「日本に対して原爆を投下する場合は、数日前に警告を出すべきと思います。この数週間で、日本が降伏の機会を探っているのは確実です。予定される三首脳会談(ポツダム会談)後に、我が国の使節が中国の沿岸部で日本の代表と会い、天皇の地位を認めることを含めて、降伏の条件を丁寧に説明することが大切です。このアクションで我が国が失うものは一つもありません」

海軍次官のバードは、大物陸軍長官のスティムソンが、トルーマンに対してまだ強い影響力を持っていると考えていたのだ。しかし、この書簡を受けたスティムソンにはこれを実行する権限はなく、バーンズの助言通り原爆投下を決心していたトルーマンに対して、それを変更させるだけの影響力もなかった。アメリカ合衆国の軍の最高指揮官は大統領なのである。

文官・武官を含め軍の上層部の多くが、原爆の使用に対して消極的で不快感を持っていたということが、あちこちの記録に見える。これはあながち、原爆投下のうしろめたさから逃げるための、彼ら自身の自己弁解ではない気がする。本心のように思える。

スティムソン陸軍長官の日記には次のようにある。

「ポツダムで原爆実験の結果について話している間に、アイゼンハワー将軍の気持ちが沈んでいくのを見た私は、つい心に思っていることを口に出した。つまり、日本はすでに敗北したようなものであるから、原爆の使用は必要ないと思うと。これに対してアイゼンハワーは、日本は今やなんとか面目を失うことなく降伏する道はないかと求めているのです、と答えた」

マックロイ陸軍次官補の日記には、「マーシャル参謀総長の考えは、まずこの兵器を海軍基地のような軍事目標に対して使い、それで成果がなければ、避難通告を出したうえで大工業地帯に投下するというものであった」とある。

統合参謀本部議長のウイリアム・レーヒー海軍元帥は、ルーズベルトから厚く信任された穏健派の提督である。この人の原爆に対する見方は異色であった。原爆に対しては最初から強い嫌悪感を持っていた。原爆の開発製造計画を知った時、「あんなものは科学者の妄想だ。爆発なんかするものか」と鼻で笑っていた。原爆実験が成功したあとでも、「原爆は一般市民を殺す。ハーグ条約・ジュネーブ議定書で禁止されている毒ガスや細菌兵器となんら変わらない。こんなものを使ってしまうと、アメリカの倫理は野蛮人と同じになる。合衆国の名誉のためにも絶対にこの爆弾は使うべきでない」とトルーマンに直接忠告している。

ニミッツ提督は戦後こう語っている。「日本との戦いは原爆で勝ち取ったものではない。原爆投下の前から日本は講和を模索していた」

太平洋方面の陸軍の総司令官であったマッカーサー元帥は、広島・長崎に原爆を投下するにあたって、何ら意見を求められていない。戦後マッカーサーは、「日本はほぼ敗戦を認めていた。原爆投下はまったく必要なかった」と語っている。マッカーサー付きの輸送機のパイロットだった人は、「将軍は原爆投下の後、何日もふさぎ込んでいた」と証言している。


思うに、これらアメリカ軍を率いていた将軍や提督は、日本に対する敵愾心は強かったものの、心の底に、中世の騎士的な精神を持っていたのではあるまいか。ひきょうなやり方での勝利はアメリカの名誉のために避けたい、との気分が強く感じられる。

しかし、トルーマンとバーンズの二人の文官は、原爆投下に向けてまっしぐらに突き進む。


ジョン・マックロイ






2021年3月15日月曜日

快男児・マックロイ

 昭和天皇と鈴木貫太郎(17)

私は長い間、広島・長崎への原爆投下を主導したのは陸軍長官のスティムソンだと思っていた。理由の一つは、彼が原爆開発を決めた時の6人メンバーの一人だったこと。いま一つは、戦後、「原爆投下しなかったら、さらに100万人のアメリカ兵が死んだはずだ」と国内向けに、原爆投下の正当性をうったえた、と聞いたからである。

今回、鳥居先生の著書や戦後50年を経て公開されたいくつかの機密文書を読んで、この認識は誤りであると知った。スティムソンは陸軍長官であるが、イエール・ハーバード両大学を卒業したアメリカを代表する国際派弁護士でもある。原爆の完成が近つ"くにつれて、彼は原爆の使用は戦時国際法に違反するのではないか、との懸念を持つようになった。

原爆投下の強硬な推進者は、民主党の文官であるトルーマンとバーンズの二人であった。これに同調したのが、同じく民主党の文官で開戦時の国務長官だったコーデル・ハルである。

陸軍・海軍の制服組の首脳が、原爆投下に関し意外に消極的というか、多くの人がこれに嫌悪感を持っていたことを知り驚いている。同時に、国務省のグルーやドーマン以外にも、陸軍次官補・マックロイや、海軍次官・バードのように、日本への原爆投下を何とかして避けたい、と懸命の努力した軍の文官がいたことを知った。この事実に、日本人としてわずかではあるが心の安らぎを感じている。

45年6月18日、ワシントンで軍の重要会議が開かれた。大統領・陸軍長官・海軍長官・参謀総長・軍令部総長・統合参謀本部議長・陸軍航空隊の大将が出席した。もう一人、場違いと思われる低い官位の人物が参加していた。陸軍長官・スティムソンの右腕で、50歳の陸軍次官補(武官でいえば少将クラス)のジョン・マックロイである。

弁護士出身で、第二次大戦後に初代の世界銀行総裁になるこの人は、ハーバード法学部卒業の人格者で、かつ正義感が強かった。孤軍奮闘していたグルーにとって、この15歳年下の大学の後輩は、いわば自分の分身ともいえるほど考え方が一致していた。

スティムソンは、自分やほかの高級幹部が口にできない雰囲気の原爆使用の問題を説くには、むしろ官位の低い人物のほうが良いと考えたのかも知れない。あるいは、一緒に仕事をしているうちに、老練の陸軍長官は28歳も年下のこのマックロイの正義感・人道主義に影響を受けたのかもしれない。

この半月前、バーンズは原爆開発にかかわった科学者を集めて会議をとりしきり、「できるだけ早く日本に対して原爆を投下する」「目標は都市とする」「事前警告はしない」との三原則、いわゆるバーンズ・プランを決定していた。科学者の一人が、「事前警告をしたほうが良いのでは」と発言した。「馬鹿なことを言うな。そんなことをしたら日本は公表した都市にアメリカ人捕虜を移すにちがいない」とバーンズは一喝してこの発言を抑え込んだ。


マックロイは、このバーンズ・プランに代わる案を説いた。というより、これに対して反論したのである。マックロイの考えの底にあったのは、「アメリカ合衆国の正義と名誉」であった。

「今すぐ、大統領が日本の天皇にあてて強硬な通達を送るのが望ましいと思います。すなわち、アメリカが圧倒的に軍事力優位にあることを伝え、日本政府に正面から降伏を求めるべきです。そしてこの通達の中で、戦後において日本が国家として存続する権利を認めることを明らかにすることです。すなわち、天皇の地位の継続を認めることです。このような申し入れをしても日本が降伏しない場合は、アメリカは革命的な威力を持つ、一つの都市を一撃で破壊できるほどの恐ろしい兵器を所有しているのだと明かすべきです。なおも降伏しないなら、これを使用せざるをえないと通告すべきです。なにも通告しないで、いきなりこの恐ろしい兵器を使用するのは、合衆国の正義と名誉を汚します」

このマックロイの正面きっての発言に、言いたくても言えない雰囲気の中に置かれていた軍の最高幹部のすべての顔に、驚愕の色が浮かんだ。


ジョン・マックロイ









2021年3月8日月曜日

アメリカは日本の終戦希望を知っていた

 昭和天皇と鈴木貫太郎(16)

この日、45年6月18日の時点で、アメリカ大統領・国務省・陸海軍の首脳たちは、日本が戦争を終わらせたいと思っているとの情報をはっきりとつかんでいた。日本と欧州・ソ連間の暗号電報を、アメリカ陸軍の暗号解読班が完全に解析していたからだ。

昭和20年5月5日、東京のドイツ大使館付武官・ヴェネッカー海軍大将は、本国のデーニック海軍元帥に次のような暗号電報を送った。

「日本海軍のある有力幹部から次のような説明を受けた。戦況はあきらかに絶望的と見られることから、条件が厳しくても、どうにか名誉が保てる条件付きの降伏をアメリカが要求するなら、日本軍のあらかたは反対しないだろう」

このヴェネッカーという人は、戦艦大和の艦内に入ったただ一人の外国人である。呉鎮守府司令長官の海軍大将・野村直邦と仲が良かった。ドイツ駐在の長かった野村の骨おりで、彼は「大和」を見学したのだ。電報の中の海軍の有力者とは、野村大将のことだと思われる。

ところが、ベルリンのデーニック元帥がこの電報を読むことはなかった。4月30日に自殺したヒトラーは、デーニックを後任に指名した。そのため、彼は国家元首として5月5日には英・モントゴメリー元帥、8日には米・アイゼンハワー大将との降伏調印の現場にいた。この電報を読むどころではなかった。それではなぜ、この電報が残っているのか。いうまでもあるまい。この電報はアメリカ側に残っていたのだ。アメリカの政府高官と軍首脳は、その日のうちにこの電文を読んでいた。


7月に入って、トルーマンとバーンズはポツダムに向かう。ポツダムの宿舎に着いた直後、二人は驚くべき内容の電報を陸軍の暗号解読班から受けた。7月16日のことだ。それは、東京の東郷外相からモスクワ駐在の佐藤大使にあてた、次のような訓令電報である。

「天皇は速やかに戦争を終結することを念願している。戦争終結に向けてソ連の支援を要請する主旨を盛り込んだ親書を携えて、近衛文麿を特使として派遣したい」

日本政府、そして天皇までが乗り出してきた。日本は降伏してしまうのではないか。トルーマンとバーンズはあせった。

しかしこの電報の中にある、「無条件降伏でないところの講和の早急な実現を」天皇が希望しているという箇所を見て、二人は安堵する。日本が求める条件がなんであるか、二人にははっきりとわかっている。

このことは国務次官のグルーから、うるさいほど聞かされている。5月28日の会議でも、グルーはこの一点をトルーマンに強く迫った。その二日後の5月30日、共和党の元大統領・ハーバート・フーバーは、「降伏すれば天皇のことは問わない、無条件降伏の対象となるのは軍国主義者だけだと日本に告げるべきだ」とトルーマンに強く説いた。

なによりも、陸軍長官のスティムソンが7月2日に提出した対日宣言案(ポツダム宣言の原案)の中に、「天皇の地位の保全」がはっきりと記載されている。ちなみにこのスティムソンは、フーバー大統領の時に国務長官を務めた弁護士出身の共和党員である。イエール大学卒業の後ハーバードのロースクールに学んだ。

「宣言文の中からこれを削れば、当面日本が降伏することはあるまい。そうすれば、8月初旬に予定している原爆投下まで時間稼ぎができる」一瞬の不安のあと、トルーマンとバーンズの二人は安堵の色を浮かべたのである。

老練な政治家バーンズは、ポツダムに向け出発する直前、コーデル・ハルに電話して彼の意見を聞いている。日米開戦時の国務長官で、あの「ハルノート」で有名な対日強硬派の国務省の長老だ。ハルとグルーはおりあいが悪い。このハルの「おすみつき」を取っておくほうが後日のために都合が良い、とバーンズは考えたのだ。

案の定、ハルは「天皇条項の削除」をバーンズに強く勧めた。なおかつ、ありがたいことに、ハルはポツダムまで電報を打ってきて、執拗にこの自分の考えを主張した。トルーマンとバーンズにとって、この対日強硬派の元国務長官は、心強い援軍であった。


コーデル・ハル






2021年3月1日月曜日

ジョゼフ・グルーの孤独な奮戦

 昭和天皇と鈴木貫太郎(15)

ドイツが降伏したあと、5月8日にトルーマンは日本に対して声明文を発表した。これは無条件降伏を呼びかけたもので、天皇の地位を保証するとの文言はなかった。この一文を入れない声明にはなんの効果もない、とグルーはくどいほどトルーマンに説いていた。

グルーの孤独感は、新大統領が自分の対日政策にまったく耳を傾けてくれないことにあった。トルーマンの背後にバーンズがいることは、グルーははっきりと感じている。しかし、アメリカのためにも日本のためにも、一刻も早く戦争の終結を急がねばならない。これがルーズベルトの考えを引き継ぐグルーの基本的な考えである。

5月23日と25日の夜、B29の落とした焼夷弾で東京の中心部は焼き尽くされた。皇居内の建物も焼けたとのニュースを聞いたグルーは、居ても立ってもいられなくなった。5月28日、グルーは行動に出た。


彼は大統領に向かって、「現在の皇室の存在を容認するとの条件を日本政府に示し、日本を戦争終結に誘うような大統領演説をおこなうべきだ」と説いた。同時に、「2日あとの5月30日に行う全米向けの、戦没将兵記念日の演説の時これを宣言するのが効果的だ」とも付け加えた。この対日声明文の原稿は、部下のドーマンに命じて昨日の27日(土曜日)に作成させ、グルーはこれを手に持ってトルーマンを訪問した。

これに対してトルーマンは、正面からの返答をせず、「明日の陸海軍長官および両参謀総長との集まりで、その考えを各人に聞いてみるように」と答えた。トルーマンは逃げたのだ。

陸軍長官のスティムソンは、「タイミングが悪い」と言った。ほかの軍首脳も、「いますぐは軍事上の理由により不得策である」と答えた。

グルーは、沖縄戦がまだ続いているからだな、と理解した。弱気になっていると日本側に受け取られるのが陸軍・海軍は嫌なのだ、と思った。

グルーがそう考えたのは、陸軍長官・スティムソンも海軍長官・フォレスタルも、天皇制を存続させるというグルーの考えに、いままではっきりと賛成していたからである。陸海軍の長官にすれば、「天皇制ぐらいは認めてやり、アメリカ側の戦死者を増やさないで、早めに終戦に持ち込むのが得策」と考えるのはごく自然である。

事実上の沖縄戦が終わった6月18日、グルーはふたたびこのことをトルーマンに迫った。しかし再び拒否された。このトルーマンのかたくなな態度は理解できない。なぜなのか?とグルーは考え込む。

このときトルーマンとバーンズは決心していたのだ。最初の原爆実験はニューメキシコの砂漠でやるが、ほんとうの実験は日本の都市でやらなくてはならないと。さらにいえば、「日本の都市での原爆の実験を完了するまで、絶対に日本をして降伏させてはならない」ということだった。天皇の地位を保証する宣言を出すと、原爆を投下する以前に日本は降伏するかもしれない。これだけは絶対に避けねばならない。

このことは、トルーマンとバーンズ二人だけの秘密であった。国務次官のグルーはもちろんのこと、二人は陸海軍の首脳たちにもこの考えを語っていない。


ジョゼフ・グルー





2021年2月22日月曜日

トルーマンとバーンズの陰謀(2)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(14)

バーンズが正式にトルーマン政権の国務長官に就任するのは、ポツダムに向かってアメリカを発つ直前の45年7月3日である。しかし、トルーマンは大統領になったその瞬間から、この2歳年上の政界の実力者にすべてを頼りきりだった。バーンズはトルーマンの政治の師匠だった、と言っても過言ではない。

じつは、44年11月のルーズベルト四選の前、副大統領候補としてこのバーンズの名前も挙がっていた。しかし、ルーズベルトは個性の強すぎるこの男を見送った。バーンズは、もしかしたら大統領になっていたかもしれない大物政治家なのである。

45年2月のヤルタ会談にルーズベルトに同行したバーンズは、これを最後に政界を引退した。そして故郷のサウスカロライナに寂しく隠居する。

二人の出会いはこうだ。51歳の遅咲きで上院議員に初当選したトルーマンは、ミズーリの田舎からワシントンに出てくる。知人はいなく、ハーバードなど東部の一流大学を卒業したエリートには相手にされない。その時、高卒の彼を親切に指導してくれたのがバーンズだった。年齢は2歳だけ上だが、この時バーンズはすでに議員歴14年の民主党の実力者であった。二人は気が合ったらしい。母子家庭に育ち、高校中退の学歴で上院議員になったバーンズにすれば、トルーマンは弟のように思えたのかも知れない。これ以降、トルーマンはバーンズに頭があがらなくなる。

そのトルーマンが、よもやの大統領になった。兄貴分のバーンズが喜んでしゃしゃり出てきたのは当然であろう。バーンズの自己顕示欲だけではなかったかもしれない。可愛い弟分が大統領になったのだ。助けてやらなくてはいけない、との純粋な義侠心もあったかと思う。

いずれにせよ、トルーマンが大統領になった瞬間、二人はお互いを利用しあおうと思ったに違いない。一度引退したバーンズは、やる気満々で再びワシントンに登場した。

このバーンズは、原爆使用に関しては、アメリカの政治家・軍人のなかで飛び切りの強硬論者であった。彼は日本人を虫けらほどにしか思っていない。これは、日本人にとって不幸なことであった。バーンズはトルーマンに次のように説いた。

「いままでは原爆の開発を秘密のうちに進めることができた。しかし、戦争が終わってしまえば、原爆製造の予算20億ドル(現在の300億ドル程度?)は議会の承認が必要となる。ニューメキシコの砂漠での実験だけでは不十分だ。議員たちに ”本物の実験” を見せなければ、彼らを味方につけることはできない。敵である日本にも、そして現在は味方だが近い将来敵になるであろうソ連にも、この大量破壊兵器の恐ろしさをしっかり教えこむには、”本物の実験“ がどうしても必要である」

トルーマンはこの話に納得する。そして次のように考える。

「この途方もない力を持った ”アラジンの魔法のランプ” をまもなく自分は手に入れることができる。この ”魔法のランプ” から巨人を出して見せれば、自分を見下していた政治家・軍人・新聞記者たちを見返してやることができる。彼らの尊敬を集めることができる」

その後二人はピッタリと心を合わせ、グル-以下の国務省の役人だけでなく、政治家や陸海軍の首脳たちをけむにまき、また時にはバーンズの剛腕で押し切り、原爆投下に向けて邁進するのである。


アメリカにおける原爆投下の強硬な推進者は、じつは陸軍・海軍の軍人ではなく、文官である民主党の大統領・トルーマンと、45年7月3日に国務長官になったバーンズの二人である。

もちろん陸軍長官も参謀総長も、最終的にはこれに同意する。しかし、それはトルーマンとバーンズに押し切られてのことであり、陸軍長官・スティムソンと参謀総長・マーシャルが積極的に原爆投下を主導した形跡は見えない。このことをはっきりと認識しておく必要がある。


バーンズ





2021年2月15日月曜日

トルーマンとバーンズの陰謀(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(13)

ルーズベルトは、多少の譲歩をしてでも、一日でも早く日本を降伏させようとしてグルーを起用した。ところが新大統領になったトルーマンは、二発の原爆を日本に投下するまでは日本を降伏させるな、との方針に変えた。

バーンズの影響がとても大きい。これを実行するため、二人は徹底した秘密保持をはかり、入念な小細工をほどこす。

ハリー・トルーマンは小物の政治家だ。多くのアメリカ国民・政治家・軍人はそう思っていた。彼自身、自分が小物と見られているという不安と劣等感をつねに持っていた。トルーマンの経歴はこうだ。

ミズーリ州の田舎町の雑貨屋の息子に生まれた。父の店が倒産したので大学には行けなかった。高校を卒業して銀行で下働きをして、ほどなく父のやる農業を手伝った。第一次大戦では、試験を受けて州軍の陸軍大尉として欧州戦線に参戦した。このような経歴で大尉になったのだから、努力家で、それなりの才能があったのであろう。現在だと、「下から這いあがった土の匂いがする大統領」と好意的に見られたかもしれない。

しかし、4歳年長のダグラス・マッカーサーが、大佐・師団参謀長として第一次大戦に出征し、まもなく少将・旅団長、その後師団長へと昇進したのにくらべると、月とスッポンである。ウエストポイント首席卒業のマッカーサーからみれば、「そんなやついたかなあ?」程度の認識だったと思う。

ミズーリ州選出の上院議員であったトルーマンは、45年1月のルーズベルト四選のとき、まぐれ当たりのかっこうで副大統領になった。そしてルーズベルトの急死により、まさかの大統領になってしまった。


原子爆弾の開発は、当然ながら国家の最高機密である。主導したのは陸軍だ。41年10月、原爆の開発が決定した時、この秘密を知る人は6人メンバーと呼ばれた。ルーズベルト大統領・ウォーレス副大統領・スティムソン陸軍長官・マーシャル参謀総長・ブッシュ博士(MIT工学部長→科学技術開発局長)・コリント博士(MIT教授)の6人である。海軍は加わっていない。

軍需物資の戦時動員局長だったバーンズが、職務上これを知ったのはかなり早く、43年である。統合参謀本部議長の海軍元帥・レーヒーが知ったのは44年9月だ。ドイツが降伏した45年5月7日に、陸軍長官・スティムソンは、海軍長官・フォレスタルと国務次官・グルーにこの原爆の秘密を明かした。

ワシントンがこのような状態だから、現場の太平洋方面の陸軍元帥・マッカーサーも、海軍大将・ニミッツも、また大西洋方面の陸軍大将・アイゼンハワーも、45年5月においては原爆のことは知らされていない。彼らがこのことを知るのは6月以降である。

じつは、副大統領だったトルーマンも、原爆のことは聞かされていなかった。それどころか、1月に副大統領に就任して4月にルーズベルトが急死するまでに、トルーマンがルーズベルトと二人だけで面談したのは二回にすぎない。ということは、政治・軍事・外交の重要問題については、トルーマンはまったく蚊帳の外に置かれていたのだ。原爆のことは、大統領になって陸軍長官のスティムソンから聞いた。


トルーマン






2021年2月8日月曜日

一号作戦とは何か?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(12)

一号作戦は大陸打通(たいりくだつう)作戦ともいわれ、昭和19年4月から20年1月にかけておこなわれた。支那派遣軍の半分の51万人を使っての、蒋介石の国民政府軍への大攻勢である。参謀本部作戦課長の服部卓四郎が主導した。

中国大陸を南北に走る2500キロの鉄道とその沿線を制圧する。そうすれば、日本の商船隊が沈められても、インドシナから上海や天津を経由して、長い鉄路とわずかの海路で南方の資源と兵員を日本に運ぶことができる。いま一つは、この鉄道沿線にあるアメリカ軍のB29航空基地を占領・破壊し、対日空襲を阻止できる。服部はこう主張した。

だが、この野心的で壮大な二つの目標が充分にかなえられるとは、服部を含む参謀本部は思っていない。勝ち戦(いくさ)を新聞で伝え、国民の士気を維持したいというのが、参謀本部の本心であった。

この一号作戦について語る人々は、現在まで、だれもがこれを非難してきた。無謀で愚劣な作戦だ、やみくもに断行された意味のない戦いだった、とずっと批判してきた。

ところが、この一号作戦はいくつもの要因が重なり、蒋介石と国民党政府の威信を突き崩し、その力を大きく削いでしまった。すなわち、延安の毛沢東の力を強大なものにさせた。なぜなのか?


日本側はこの作戦のため、内蒙古・山西・山東・河北などの中国北部の兵力を大きく引き抜いた。この結果、延安にある毛沢東の軍隊と工作隊は、中国北部で大手を振って活動するようになった。村々の住民を宣伝教化し、国民党政府の組織をかたっぱしから潰していき、共産党の支配地域を拡大したのである。

日本軍の攻撃の矢面に立ったのは100万人の国民党軍である。50万人以上を失った。日本軍の戦死・戦病死は10万人である。両者の戦力の差はこのくらいはある、と思っていたアメリカはこれには驚かなかった。ただ次の事実は、重慶にいるアメリカの高級軍人・外交官・新聞記者たちを唖然とさせるに充分だった。

戦いは44年4月に河南省ではじまった。5月、そこを守っていた5万人の国民党軍が、日本軍に攻撃される直前に、農民に武装解除され四散するという異常な出来事がおきたのだ。重税に怒っていた農民は、国民党政府を敵と思っていた。勇敢に戦った国民党軍もいたが、なかには将軍が家財を貨車に積み込みまっさきに逃げ出し、つつ”いて将校たちが逃げ出すという戦場もあった。

中国にいるアメリカの軍人・外交官・新聞記者は、口をそろえて国民党を非難した。蒋介石の反対など構うことではない。アメリカは毛沢東の共産軍に武器を与えるべきだ、と彼らは主張しはじめた。

蒋介石を支援するために重慶に派遣されていた米陸軍大将・ジョゼフ・スティルウィルは、この一号作戦がはじまる半年前に、「次に日本軍による大規模攻撃があれば、蒋介石の国民党軍は倒壊する」と、ルーズベルトに警告していた。その予言通りになってきたのだ。

このような背景のなかで、蒋介石はアメリカに対して少しばかり妥協した。今までアメリカ側から要請があったが断わり続けていた、アメリカ軍人と新聞記者の一隊が視察のため毛沢東の延安に行くのを許すことにした。ところが、延安地域を訪問したアメリカの記者たちが、共産党の指導者と兵士たちを褒めたたえたことから、蒋介石の国民党政府の権威はさらに下落することになった。


ルーズベルトは、日本との戦争が長引けば毛沢東はますます勢力を拡大すると考えた。日本が降伏したあとまもなく、中国では内戦が起こり、国民党政府は崩壊するかもしれない。そうなれば、デラノ家が経営するラッセル商会の中国利権などふっとんでしまう。いや、ルーズベルトは、そんな小さな個人的利益だけで判断したのではあるまい。アメリカ合衆国の利益に反すことになる、と強い危機感を抱いたのである。

このような状況のなかで、ルーズベルトは日本との戦争の終結を急いだ。その結果、ホーンベックの更迭、グルーの登場となったのである。

このルーズベルトの予感は的中するのだが、その結果を見ないで、彼は45年4月12日に急死した。そのあと、多くのアメリカ人が小物の政治家と軽視していたハリー・トルーマンが大統領に就任するのである。





2021年2月1日月曜日

ルーズベルトとグルー

昭和天皇と鈴木貫太郎(11)

民主党の大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは中国好きで日本嫌いだった。彼にかぎらずアメリカの民主党政権の多くはそうであった。現在でもこの傾向は感じられる。ちなみに日露戦争当時、日本に好意的に動いてくれたセオルド・ルーズベルトはフランクリンの親戚だが、この人は共和党選出の大統領である。

フランクリンが中国好きになったのは、母親が富豪デラノ家の娘だった ことに理由がある。デラノ家は、中国貿易で成功したラッセル商会の最初の六人の共同経営者の一員である。

英ジャーディン・マディソン商会と同じく、1830年代から広州・香港をベースに、トルコ・インド産アヘンを中国に売って巨富を得ていた。彼のミドルネームの「D」はデラノ家の「D」である。このようなわけで、フランクリンは幼い頃から、母の兄弟がおみやげで持ち帰る中国製の玩具や絵画・工芸品にかこまれて育った。中国に強い親しみを持っていた彼が、日本の軍事的な中国進出を中国いじめと感じたのは、無理からぬことである。

43年1月のチャーチルとのカサブランカ会談では、「日本に対して無条件降伏を要求する」と説き、「条件付き講和が現実的」と考えていたチャーチルを白けさせている。その年の11月、蒋介石を含めたカイロ会談では、日本に対してさらに苛酷な内容の宣言を主張した。

ところが、44年5月、ワシントンの国務省でおかしなことがおきた。

その年の1月に新設された極東問題局長に就任したばかりのホーンベックが更迭され、グルーが後任になったのだ。ホーンベックは国務省きっての中国びいき日本嫌いであり、ルーズベルトとはそこが一致していた。かたやグルーは、自他とも認める親日派である。

この時65歳のジョゼフ・グルーの経歴はこうである。異例の10年におよぶ東京での駐日大使をつとめ、42年の交換船で帰国していた。ボストンの名門家庭に生まれた彼は、全寮制のグルトン校に学び、ハーバード大学に進んだ。ルーズベルトは両校でグルーの2年後輩になる。もっとも二人が学生時代に深い交流があったという形跡はない。いま一つ、グルーとルーズベルトには接点がある。グルーの父の兄は、ラッセル商会の共同経営者であったことだ。

極東問題局長になったグルーは、東京の大使館時代の部下たちで周辺をかためる。参事官だったドーマンを特別補佐官に、一等書記官だったオーヴァを日本課長に任命する。ドーマンは宣教師の息子として大阪に生まれた。東京の暁星中学に学んだドーマンは、日本語を母国語として話す。彼は東京の大使館時代には、本物の歌舞伎役者を大使館に招き、同好のアメリカ人に着物を着させて歌舞伎の稽古をしていたほどの日本通である。

この年の12月、グルーは国務次官に就任する。20年前に一度やっているので二度目になる。国務省は東京のアメリカ大使館に占領された、と軽口をたたくアメリカ人もいた。

中立国経由でこのニュースを聞いた外務省・陸海軍・宮廷の高官たちは、だれもが首をかしげた。首をかしげながらも、親日派のグルーの登場に期待を寄せた。

実はグルーは、大使として日本に赴任する以前から日本の文化・歴史に造詣があった。理由は、夫人のアリスの曽祖父(オリバー・ペリー)の弟が、幕末に日本に開国を迫ったあのマシュー・ペリー提督だったからだ。かつ、アリスの父は明治30年代に三年間、慶應義塾で英文学を教えたので、母も本人も東京で生活して、アリスは日本語が出来た。昭和7年、グルーが大使として信任状を提出したあとのお茶会で、このことを聞いた昭和天皇がとても喜ばれたという話が残っている。


当然ながら、このような重要人事はルーズベルトの指示があってのことだ。じつは、ルーズベルトは考えを変えたのだ。いくばくかの譲歩をしてでも、日本との戦争を早く終わらせるほうが、アメリカにとって得策だと判断したのである。なぜ彼はそう考えたのか。

このことについてはっきりと触れた歴史家は、不思議なことに、アメリカにも日本にもほとんどいない。これについてはっきりと述べたのは、鳥居民先生一人ではあるまいか。

ルーズベルトの考えを一変させたのは、支那派遣軍が昭和19年4月から20年1月にかけておこなった「一号作戦」にある、と鳥居先生はおっしゃる。

今までだれも語らなかった、この「一号作戦」について語りたい。

フランクリン・D・ルーズベルト










2021年1月25日月曜日

大根の話(2)

 中学生の時、野島先生が「大根の原産地はコーカサス地方だ」と胸を張っておっしゃったのをはっきりと覚えている。野島先生の担当する学科がなんであったか記憶にない。ただ、不思議なことに、この先生の授業の大半は、野菜の作り方や野菜の原産地・いつ頃日本に渡来したかなど、野菜の話ばかりだった。

戦前に農業の学校を卒業して農業に従事された。いってみればお百姓さんだ。兵隊にも行かれた。戦後の混乱の中で中学校教師の資格を取った、と自分でおっしゃっていた。だから、農業の話以外にはネタがなかったのかも知れない。野菜の話になると先生はいきいきされていた。

今だったら、「高校受験の役に立たない」と父兄から文句が出そうだが、当時そんなことを言う親はいなかった。この先生は、私の両親より5歳年長だったから、今年で100歳になられる。少し認知症がはじまったようだと地元の友人から聞いたが、今なおご健在である。教師を辞めてからも農作業をされていた。それが長寿と関係あるのかも知れない。

野島先生は、コーカサス地方だと言われたが、そうとは断定できないらしい。ロシアにニコライ・バビロフという有名な植物学者がいた。野菜の起源・原産地などを研究する人にとって、この人は経済学におけるアダム・スミスのような存在らしい。

バビロフは、中央アジア・西南アジア(トルコ・エジプト)・インド北部の三カ所で、別々に発祥したと説いている。コーカサス地方はトルコのすぐ北だから、野島先生の話は間違いではない。近頃では、欧州東部のバルカン半島も発祥の地だという学者もいる。

そして多くの書物に、「中国が第二原産地」と書かれている。りんごがヨーロッパで品種改良されたように、大根は中国で品種改良されたらしい。学者の誰も言ってないのだが、私は「第三の原産地は日本である」とひそかに考えている。

青首大根・三浦大根・亀戸大根・聖護院大根・辛味大根だけではない。1メートルをゆうに超える守口(もりぐち)大根、でかいのは40キロを超える世界最大の桜島大根など、日本は世界一の大根の品種改良大国なのである。赤大根などを含めると、日本には50種類もの大根があるそうだ。


大根をつくって感じることは、この野菜には多くの料理方法があり、また保存がきくことである。収穫したばかりの大根は、大根おろし・刺身のつま・薄切りのサラダなどでなまで食べる。なまの大根には強力な殺菌効果がある。「酢牡蛎」に大根おろしを入れるのはこのためだ。昔の人は風邪薬として大根を食べたと聞いた。風邪のバイ菌をやっつけるならコロナにも効くはずだ、と考え近頃私はせっせと大根を食べている。

煮物やおでんも旨い。沢庵漬けだと3か月・半年先に美味しく食べられる。よく干して多めの塩で漬けると1年先、2年先でも食べることができる。

大根は三月にとうが立ち、四月に花が咲く。二月に入っての我々の大切な農作業は、切り干し大根をつくることだ。小さく切ってむしろに干す。聖護院大根は5つか6つに輪切りにして、竹の串に通して寒風にさらす。ひと月ほどして、これを油揚げと一緒に煮るとじつに旨い。味噌汁に入れても旨い。二月まで畑に置いた大根は甘みが強い。

「古代エジプトでは、ピラミッド建設の労務者にタマネギ・ニンニクを配給した」と昔本で読んだ。ビールも配給されたらしい。タマネギ・ニンニクを油でいためビールを飲み、肉を食べれば精力がつきそうだ。でも、これではむねやけするのでは、と今まで労務者に同情していた。

今回、青葉高先生の「日本の野菜」という本を読んで、「大根も一緒に配給された」と知った。口直しに、なまの大根をかじったのであろう。なるほど、これなら合点がいく。ピラミッド建設の労務者のことを思い、なんだか安心した。

不思議なことに、大根のヨーロッパでの普及は意外に遅く、イギリスでは15世紀、フランスでは16世紀といわれる。ラディシュという小型の大根である。現在でもヨーロッパでは大根は東アジアの国々に比べ、さほど重要な野菜とは見られてないようだ。


コロナ問題で、日本を含む東アジア人が欧州人に比べて極端に患者が少ないことが話題になった。ある学者は「ファクターX」と言った。このファクターXとは、実は大根ではあるまいか。私はひそかにそう考えて、せっせと大根おろしを食べている。気のせいか、なんだか効能があるような気がする。








2021年1月18日月曜日

大根の話

 日本という国ができて今日まで、日本人が一番大量に食べた野菜は何か、と空想している。

日本の建国がいつかというのはむずかしい問題だ。縄文・弥生時代には国はなかった。天照大神・スサノオノミコトの実在性には自信が持てない。神武天皇も自信がない。日本武尊(やまとたけるのみこと)なら大丈夫だろう。

3-4世紀に活躍した人で、仁徳天皇の曽祖父にあたる。日本武尊の時代に日本という国の基礎ができた、と私は考えている。以来1700年、日本人が一番多く食べた野菜は、「大根に違いあるまい」と思う。

日本人が現在食べている野菜の95%以上は外国から入ってきた。太古の昔から日本列島に自生していた野菜は、「やまいも・蕗(ふき)・芹(せり)・三つ葉・野蒜(のびる)・独活(うど)・山葵(わさび)・蓼(たで)」ぐらいだと、その方面の研究者は述べておられる。渡来の時期は、縄文・弥生時代から古墳・奈良・平安・鎌倉・室町・江戸・明治以降とそれぞれに分類される。古い時代に渡来した野菜に強みがある。

大根は、大豆(だいず)・牛蒡(ごぼう)・生姜(しょうが)・瓜(うり)と共に、第一陣として縄文時代に日本列島に入ってきた。よって、日本武尊も弟橘媛(おとたちばなひめ)も大根を食べていたことになる。

大根に間違いないと思うのは、自分の20年間の野菜作りの経験で、この栽培がとても容易だからだ。虫がつかないので農薬はまったく不要である。我々は無農薬栽培を目指しているのだが、白菜やキャベツにはどうしても少量の農薬・オルトランを使う。昔の人にとって、大根は作りやすい野菜だったと思う。

茄子の渡来も弥生時代と古いのだが、ナス科の野菜は連作を嫌う。同じ場所に続けて植えると連作障害で虫がつきやすく、収穫量も落ちる。この点、アブラナ科の大根は毎年同じ場所でうまく栽培できるので助かる。このようなわけで、大根という野菜は日本人にとって半端な野菜ではない。昔から今に至るまで、格別に重要な野菜だと言っていい。

私があらためて力こぶを入れなくても、「徒然草」の中に、「熱狂的な大根ファン」が登場する。これを読むたびに、いろいろと想像をめぐらせて、クスリと笑ってしまう。第68段に次のようにある。

「九州に何某(なにぼう)とかいう押領使(警察官)がいた。大根を万事によく利く薬だと言って、毎朝かならず2本つ”つ焼いて食うこと長年におよんだ。あるとき、屋敷に賊がおし寄せてきて一人で戦っていたら、武士が二人現れて、命を惜しまず戦って敵をみな追い返してしまった。” 普段は見かけないお二人ですがどなたさまですか ” と聞くと、” 長年頼みにして毎朝召しあがっていただいている大根です ” と言って消えてしまった。深く信心するとこういう功徳もあるものとみえる」

ここまでくると、大根大好きというより、一種の信仰である。味噌も醤油もない時代だ。焼いた大根に塩をふって食べたのだろうが、本当に毎朝2本の大根を食えるものかと首をかしげる。

きのどくなのは家族と使用人である。「大根は身体にいいんだ。もっと食べろ!」と主人に強制され、「勘弁してください」と逃げまわっている妻子や使用人の姿が目に浮かぶ。

これほど熱狂的な人は少なかったと思うが、こういう話があるところを見ると、大根は身体に良いんだぜ、と当時の人々はせっせと大根を食べていたのだと思う。


私はこの20年間、月1回1週間、東京から郷里の広島県の農園に帰り農作業をしている。昨年はコロナで帰れなかった。「東京からコロナを持って帰られたらたまらん。今帰ると村八分になるよ」と、一緒にやっている小学校時代の友人二人に言われて、郷里に帰らなかったからだ。そのようなわけで、この写真は一昨年につくった青首大根だ。

何年も中断すると百姓の腕がにぶってしまう。今年はぜひ農作業をやりたい。早くコロナが片付いて欲しい。近頃は奈良・平安時代の人々のように「疫病退散」を神仏に祈っている。英語は下手だが、祝詞(のりと)と「般若心経」は得意である。






2021年1月12日火曜日

天皇の受けた衝撃・6月9日

 昭和天皇と鈴木貫太郎(10)

6月9日の午前、天皇は内大臣の木戸を通じて二人の東大教授が説いたことを聞き、大きな衝撃を受けた。その日の午後3時、参謀総長の梅津美治郎が参内して、大連出張の報告を行う。

梅津は天皇に書面を添えて、支那派遣軍と関東軍の現状を報告する。軍令部総長の豊田副武が、根拠のない希望的観測や楽観論を述べ続けているのにくらべ、梅津の報告は正直でかつ客観的なものである。

天皇は梅津に向かって「沖縄のあと揚子江下流方面に米軍の来攻があるとして、敵は何個師団を上陸させるだろうか」と聞く。

梅津は「沖縄には敵は4個師団、予備部隊として3個師団、計7個師団を用意した。上海周辺に上陸するとすれば、8個師団を準備するのではないか」と答える。

「それに対してわが軍はどのように戦うのか」と天皇は聞く。

「この地域の日本軍は第13軍の担当地域であり、師団が8つと、航空師団が1つ、それに独立旅団がいくつかある。ただ米軍の8個師団と対等に戦うことはできない。士気は旺盛だが弾薬が欠乏しており一合戦すら戦うことはできない」と答える。さらに続けて、「支那派遣軍の全ての戦力(約105万人)をあわせても、アメリカ軍の8個師団(約16万人)の力ぐらいしかない」と梅津は答える。

天皇はびっくりする。支那派遣軍こそが、帝国陸軍最強の兵力と実力を持っている、と固く信じていたからだ。梅津が退出したあと、天皇は考えに沈んだ。目眩がする思いだった。


そのあとで天皇は散歩に出た。昨日からの雨はあがったばかりだ。皇居の木々の緑はかがやいている。あじさいの花は濡れている。背の高い栗の小道を天皇は歩く。歩きながら頭に浮かぶのは、「陛下はどうなされているのかという国民の声なき声がある」と語ったという二人の東大教授の言葉である。

侍従武官の一人から、沖縄の梅雨が明けるのは6月23日ごろだとも聞いた。しかし梅雨が明ける前に、沖縄の戦いは終わってしまうのではないかと思う。そうだ。6月23日には田植えをしなければならない。毎年この日に、吹上御所の圃場(ほじょう)で田植えをおこなっている。

田植えのことを思えば、根こそぎ動員がはじまって、農家の田植えの手は足りているのだろうかと考える。そして天皇は、宮中でもっとも大切な祭儀である新嘗祭(にいなめさい)のことを思う。新嘗祭のお供えやお神酒をつくる米は吹上の圃場のものだけではない。全国の篤農家から各府県ごとに、精米1升・精粟5合が毎年10月30日までに宮内省に納められるように決めてある。しかし、たとえ1升であっても、今の国民にとってこの供出は苦しいのではあるまいか。今年の新嘗祭の儀式は古式どおりにおこなうことはできないかもしれない。

天皇はひとりうなずいたのであろう。

もしかしたら、天皇が終戦をひそかに決意したのは、6月9日の夕刻であったかもしれない。







2021年1月4日月曜日

鈴木総理は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(9)

鈴木貫太郎も自分の考えをだれにも話していない。外務大臣に入閣を求められた東郷が、今後の戦局の見通しを問うたのに対し、「なお2ー3年は戦争を続けることができるだろう」と答え、東郷を呆れさせている。

もちろんこれは鈴木の本心ではない。腹心ともいえる書記官長の迫水にも、海軍の後輩である海軍大臣の米内光政にも、自分の本心を漏らしていない。

鈴木は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いの逸話が好きだ。

閣僚や秘書官の多くはこの話をしばしば聞かされて、あきあきしていた。前年、米内光政・井上成美の二人から”極秘の終戦工作”を命じられていた海軍少将の高木惣吉は、「こんな話を繰り返しているようでは鈴木内閣での終戦は到底無理だ」とあきらめていた。そして鈴木の悪口をあちこちで言いふらしていた。高木は鈴木の真意を見抜けなかったのだ。

これは、武田信玄と徳川家康とが戦い、家康がこっぱみじんに負けた時の話だ。

三万の兵を有す信玄は、家康の部下が守る二俣城(ふたまたじょう)を攻撃しこれを落とした。天竜川沿いにあるこの城は家康の居城・浜松城の北20キロにある。これを落とした信玄の軍は、浜松城の北に広がる三方ヶ原の台地にむかった。一万の家康の軍隊がこれを迎えうったが、徳川軍は総崩れとなり、三千人の死者を残して敗退した。午後六時、家康はかろうじて浜松城の北口から城内に逃げ込んだ。

ここからが鈴木の得意とする話である。

家康はこの北の口を守る鳥居元忠に、城門を閉じないで開けておけ、外から見えるように薪を焚かせよと命じた。武田軍の先鋒隊が城門前まで来た。城門は開かれており、見えるのは赤々と燃えるかがり火だ。武田軍は躊躇して進まなかった。

鈴木は閣僚や秘書官に、つぎのように解説する。

家康は城門を開け放し、来るなら来てみろと敵方に叫んだ。武田側はなにか策略があるなと思い、城攻めを断念して撤収したのだと。

だれにも語らなかったが、鈴木はこの時、次のように考えていたのだ。

「どこまでも戦い抜くぞとの決意を示すのだ。そして和平の用意があることをわずかに匂わせば、敵側は荒っぽい無条件降伏の要求をしてこないのではないか。敵はなんらかの譲歩をおこない、こちら側に戦いの継続を断念することができる条件を提示してくるに違いない」


6月14日の重臣懇談会でも、鈴木のこの姿勢は一貫している。参加した重臣は、近衛・平沼・若槻・岡田・広田・東條・小磯たちである。複数の証言を合わせると次のようなやりとりがあった。

元首相の若槻礼次郎が言う。「この戦争に勝つ見込みがないとすれば、何らかの手段で和平の考えをすべきだ。ドイツが降伏した以上は、日本も何らかの決意をしなければならない」

東條・小磯の二人はこれに対し、「絶対反対」を称えた。総理の鈴木も、この二人の陸軍大将に同調して若槻にくってかかった。若槻はこれに対して、「このような状態においてなお抗戦することにいかなる意味があるのか」と問うた。

これに対する鈴木の反論はまったく論理的なものではない。腕白小僧の破れかぶれの返答のようだ。「徹底抗戦して利あらざる時は死あるのみだ」と机を叩いて大声を張り上げた。この時、東條英機ただ一人がおおいにうなずいたという。

この時点においても、鈴木は当面の敵である陸軍を、さしあたって今なお陸軍内部に影響力を持っている東條元首相を、徹底的にたぶらかしておく必要があると考えていたのだ。東條大将は鈴木老人のたぶらかしに見事に引っかかった。そして、わが意を得たりとばかりに大いにうなずいたのである。







梅津参謀総長は何を考えているのか?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(8)

戦争を終結するにおいて、6人の中でその職務権限からして一番の重要人物は、参謀総長の梅津美治郎であろう。陸軍の大物である梅津は表には自分の考えを一切出さない。しかし、彼は確固たる自己の考えを持っている。

部下である参謀本部次長の河辺虎四郎、作戦部長の宮崎周一以下は、本土決戦を唱え、その準備に没頭している。本気で本土決戦を行なうのであれば、関東軍・支那派遣軍・朝鮮軍の中から精鋭を選び出し、日本本土に移す必要がある。梅津はそれを行なおうとしない。部下たちからの報告を黙って聞きながら、総長室で葉巻の煙をゆっくりと吐き出すだけである。関東軍のごく一部の戦車部隊は本土に移動したが、これは例外といえる。

梅津は戦争遂行の最高責任者として、当然しなければならない決定を避けている。その態度保留の姿勢に、本土決戦派の次長・河辺、作戦部長・宮崎、作戦課長・天野の梅津を批判する声は日に日に大きくなっている。それでも梅津はあがってくる書類に判を押さず、黙って葉巻をくゆらせている。この葉巻は南方からの戦利品らしい。

梅津は決断できない男なのか。

いや。そうではない。昭和11年の2・26事件の時に、彼はほかの師団長のように右顧左眄(うこさべん)しなかった。仙台の第二師団長だった梅津がすぐ陸軍中央に打った電報は、「断固反乱軍を鎮圧すべし。命令あれば第二師団長はただちに兵を率いて上京する」であった。梅津は必要な時には決断できる男なのである。

あの東條英機ですら、陸士で2期先輩にあたり、陸大首席卒業の梅津美治郎に対してものを言う時は、襟を正して遠慮げに発言したという。梅津は日露戦争に陸軍少尉で出征した。東條たち陸士17期以降は日露戦には参加していない。この時、陸軍の中で一番人望があったのはこの梅津美治郎であろう。近衛内閣が総辞職した時、東條よりもこの梅津を次期首相に推す声が強かった。しかし、関東軍総司令官を今交代させるわけにはいかないとの理由で、梅津ではなく東條が総理大臣に選ばれた経過がある。河辺や宮崎など中将・少将クラスの若輩がいかにわめこうとも、梅津は微動だにしない。ゆうゆうと葉巻の煙を口から吐き出すばかりである。

じつは梅津は何もしていないわけではない。何一つ決めることができないと部下たちに批判されていること自体が、じつは彼がやりたかったことなのである。

そう。陸軍の作戦の最高責任者である梅津は、本土決戦をやる前に戦争をやめるべきだと考えているのだ。陸軍大臣の阿南も、軍令部総長の豊田も、そして天皇もまた、一度勝利を収めてからの終戦を考えている。もちろん梅津もそうであってほしいとは思う。しかし聡明な梅津はそれは絶対に無理であると考えている。

そうかといって、梅津は戦争をやめるべきだと自分から言うつもりはない。戦争を直接指揮している参謀総長の立場としてはそれは言えないのだ。梅津はこのこと、すなわち終戦への方向転換についての発言を、海相の米内と総理の鈴木にひそかに期待している。

最後の土壇場になったら、同じ大分県出身で陸士3期後輩の阿南陸軍大臣を抑え切れる自信があったのであろう。梅津が歩兵第一連隊の新任の中尉のとき阿南は見習士官だった。梅津が陸軍次官のとき阿南は人事局長だった。また梅津が関東軍総司令官だった時、阿南はその配下の方面軍司令官だった。同郷の後輩の阿南は、つねに梅津に兄事し、尊敬してきた。

事実、8月9日の最初の御聖断のあと、阿南陸軍大臣が次官や軍務局長の突き上げにあい、陸軍のクーデター計画について梅津の意見を聞きに来たとき、「絶対にまかりならぬ。ただ御聖断に従うべし」と一喝している。


総理・鈴木貫太郎、海相・米内光政が終戦に向けて渾身の力をふりしぼったことは、後世に語り続けられている。陸相・阿南惟幾もまた、8月15日の未明に割腹自殺して全陸軍の不満を抑え切った。多くの人はそれを徳としている。それに比べ、参謀総長・梅津美治郎のかくれた功績については多くの日本人は気がついていない気がする。

終戦の時、梅津美治郎が参謀総長であったことは、日本国にとって最大の幸運であった。


梅津美治郎