2023年10月4日水曜日

シルクロードを旅した野菜(4)ほうれん草

 シルクロードのものがたり(29)

菠薐草・法蓮草(ほうれんそう)

子供の頃、ポパイの漫画が流行っていた。テレビでもやっていた。船乗り姿のポパイがほうれん草の缶詰を開けて口に放り込む。すぐに右腕の筋肉がもりもりと盛り上がって、悪い奴をコテンパにやっつける。子供心にも、そんなにすぐにパワーが出るわけないだろうに、、、と思っていた。

大人になってから、このポパイの漫画には、それなりの真実の背景があることを知った。ほうれん草を食べると超人的なパワーを出すポパイの漫画は、1919年アメリカの新聞に掲載された。野菜嫌いの子供を持つ母親たちは喜んだ。子供たちは強くなりたいので「ほうれん草、ほうれん草」と母親にねだったらしい。

その後、ある缶詰会社がほうれん草の缶詰を売り出して、大儲けをしたとも聞く。

その昔、16・17世紀、オランダのアムステルダム・ロッテルダム、あるいはイギリスのサザンプトンなどの港から、数多くの帆船がアジアにアフリカにアメリカ大陸に乗り出していった。1~2年後には、多くの珍品・宝物を満載して母港に戻ってくる。乗組員の全員がヨロヨロしながら港にたどり着く。ビタミンCの欠乏による壊血病である。

どこの港でも「見張り台」を設け、昼夜を問わず(夜でも船のカンテラでそれはわかる)双眼鏡で船の到着を監視する見張り番がいた。「おお!帰ったぞ!」と船型や帰国の時期から察して、「〇〇号に違いない!」ということになり、乗組員の家族に急報する。おかみさんたちは大きな鍋を波止場まで持ってきて、急いで湯を沸かす。そして大量のほうれん草を放り込み、茹でて船員たちに食べさせる。なかには生で食べた船員もいたかも知れない。何時間もしないうちに、「ヨロヨロしていた船員が元気になった」というから、即効性があったのは事実らしい。

帆船は風がなくなると動けない。遠くに船の姿を見ながら、港に着くまで、あるいは半日とか1日かかったかも知れない。おかみさんたちは井戸端会議ならぬ波止場会議で時間をつぶしたのであろう。しかし、1年前・2年前に出帆した亭主や息子たちの乗る船が目に前にいるのである。イライラしながらも、幸福な時間であったに違いない。


バビロフ博士は、「ほうれん草の原産地はアフガニスタン周辺で、古代からペルシャでは重要野菜として栽培されていた」と著書に言う。「菠薐(ほうれん)」とは中国人がペルシャ(イラン)を指した国名である。

じつは私は、このほうれん草作りでも、上手だと郷里の村では一目置かれているのだ。この野菜は酸性土壌を嫌いアルカリ土壌を好む。私の畑ではひんぱんに草木の焚火を行うので、きっとアルカリ度が高いのだと思う。昔中国経由で日本に入ったほうれん草は葉っぱの先がとがっている。明治以降西欧から入ったものは葉に丸みがある。味は日本種のほうが美味しい気がするが、西洋種のほうが栽培が容易である。

写真は私の畑のほうれん草である。これも間引きながら食べる。あとひと月ほどしたら、一番の食べごろとなる。上に見えるのは、植えたばかりの玉ねぎの苗だ。





2023年9月24日日曜日

シルクロードを旅した野菜(3)胡瓜

 シルクロードのものがたり(28)

胡瓜・黄瓜(きうり)

中国の古書に「胡瓜は張騫が西方から漢土にもたらした」とあることから、この話は日本でも信じられてきた。ただ、先述したように、張騫自身が持ち帰ったとは考えにくく、張騫がこのルートを開拓したあと、その後の軍人や商人たちの手で漢に入ってきたと考える。

この胡瓜、現在の日本においては「大物野菜」と言ってよい。1990の統計で少し古いが、日本での生産量は93万トンで、大根・キャベツ・玉ねぎ・白菜に続き5位だが、金額ベースだと2300億円と1位なのである。当時すでに10年連続で1位だというから、スーパーに行けば一年中胡瓜の姿が見える現在でも、売り上げ金額では胡瓜が日本一だと思われる。

胡瓜の原産地は、インドのヒマラヤ山脈の南部といわれている。中国ではこれを大きく太らせて黄色になるころ収穫し、皮をむき、中の大きなタネを取り出して甘酢に漬ける。私は若いころ海運の仕事で頻繁に香港に行ったとき、この胡瓜の酢漬けを何度か食べたが、とても美味しかった。西域地方の写真集で、この胡瓜の酢漬けを老人が甕に入れて売っているのを見たことがある。「胡瓜」と共に「黄瓜」との漢字表記があるので、もともとはこの野菜は大きく黄色に売れた頃収穫したのは間違いない。


この胡瓜が中国から朝鮮半島を経て(おそらく百済経由だと思う)、顕宗天皇(在位485-487年)の御代に日本に伝来したとの説がある。聖徳太子が摂政になる100年ほど前である。ところが、それ以降、この野菜は日本ではあまり人気がなかったようである。

切り口が京都の祇園社の紋に似ているから食べると祟(たたり)があるとか、徳川家の三つ葉葵に似ているからとかの理由で、忌み嫌われたとの説もある。当時の胡瓜は苦みが多かったようである。江戸前期の「農業全書」には、「黄瓜またの名は胡瓜。下品の瓜にて田舎に多くつくるが、都にはまれなり」と評価は低い。

日本で胡瓜がかなり広く食べられはじめたのは、江戸時代も後半に入ってのことらしい。それ以降、明治・大正・昭和前期までは、庶民は「ぬか漬け」にして食べた。青い未成熟の胡瓜をサラダ感覚で生で日本人が食べ始めたのは、太平洋戦争に敗北して、アメリカの進駐軍が日本に来てからである。

この胡瓜の栽培方法は簡単である。肥料を十分やって、水を切らさなければ、だれでも立派な胡瓜を収穫することが出来る。






2023年9月17日日曜日

シルクロードを旅した野菜(2) 玉ねぎ

 シルクロードのものがたり(27)

玉ねぎ

「太郎のルーツ」の中で、私は野菜の格付表をつくった。ムーディーズやS&Pやフィッチが行っている ”勝手格付” である。味の良さ・栄養価・生産量だけでなく、その野菜が日本史においてどのような貢献をしたかを考慮して、次のように格付した。


横綱 里芋・(大根)   大関 茄子・じゃがいも・(玉ねぎ)・キャベツ・白菜・トマト・(胡瓜)・生姜    関脇 長ねぎ・(ほうれん草)・(人参)・蕪・かぼちゃ・さつまいも・(西瓜)     小結 とうもろこし・枝豆・(そらまめ)・さやえんどう・隠元・ごぼう・レタス・(ニンニク・大蒜・葫)・ピーマン


当時の私は「里芋に惚れ込んでいたので」里芋を強引に「横綱」とした。これに関しては「えこひいきだよ!」とブーイングの声が多かった。しかし、大根を含めてそれ以外の格付に関しては「なるほど、、、」と異存はなかったような気がする。

このあと、前頭・十両などの関取衆が22ほど続くのだが、ここでは省略する。(カッコ)で印をつけたのが、西域からシルクロードを通って、わが日本列島に入ってきた野菜である。これからすると、現在我々が食べている重要野菜の約30パーセントが、シルクロードを経由して日本に入ってきたことになる。


さて、玉ねぎについてである。イラン・アフガニスタンあたりが原産地だと言われる。この野菜の種もラクダの背に乗ってシルクロードを東進したのであろうが、どうも新疆ウイグル自治区あたりでストップしたようである。古代に中国や日本列島には入ってきた形跡がない。漢・三国・晋。唐・宋の時代の物語や漢詩にも、玉ねぎのことは出てこない。なぜだか分らない。ラッキョの親玉みたいな外観が嫌われたのか、あるいは当時の中国や日本の料理にマッチしなかったのか、よくわからない。


中学生の時、本を読んでいて、「古代エジプトではピラミッドの建設労働者に、ビール・玉ねぎ・ニンニクを配給していた」と知った。塩味で玉ねぎ・ニンニクと肉を炒めて、ビールを飲み、パンを食べる。精力はつきそうだが、胸やけしなかったのだろうか?と心配でエジプトの労務者に同情した。高校生になって、「一緒に大根も配給されていた」ことを知ってほっとした。「良かった!口直しに生の大根をかじったのだ!」と嬉しい気持になった記憶がある。


日本には明治になって、1871年にアメリカから北海道に入った。本格的に研究栽培を始めたのが、あの札幌農学校である。10年ほど遅れて、別ルートで大阪に入った。現在でも北海道と淡路島が玉ねぎの一大生産地であるのは、このような背景によるのかと思う。当初は人気がなかったが、明治の中頃にコレラが日本で蔓延した時、「玉ねぎがコレラに効く」とうわさがたって、市民がこぞって玉ねぎを食べるようになったという話もある。

我々「中年開拓団」は、以前は種を播き、1000株以上も植え付けていたが市場には出荷しないので余って困る。現在では一束100本の苗を二束ほどホームセンターで買って11月頃植え付ける。毎年、それなりに立派なものを収穫できている。写真は2023年6月に私の農園で収穫したものである。






2023年9月7日木曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー3

 シルクロードのものがたり(26)

大根(3)

ずいぶん大根に力こぶを入れるじゃないか、と笑われるかもしれないが、あと一章だけ大根について書かせていただきたい。

鳥居民(とりい・たみ)という在野の昭和史研家がおられた。2013年に84歳で急逝された。何冊もの著作があるが、全13巻の「昭和二十年」が先生のライフワークである。徹底した調査・考察をもとに「あの戦争」とは何であったのか、を本質から探ろうとした名著である。この中に「大根の話」が出てくる。

私は2007年に「太郎のルーツ~われらは中年開拓団~」というエッセーを出版した。東京から月に一回、一週間、郷里広島県の農園に帰り、子供の頃からの仲間たちと農作業をしているという、百姓日記のような内容である。鳥居先生の「大根の話」を引用させていただき、一冊献本したことがご縁となり、先生の晩年の数年間、ずいぶん可愛がっていただいた。

以下は、鳥居先生の大根の話を、「太郎のルーツ」で紹介した文章である。


別格の野菜・大根

大根という野菜は日本人にとって半端な野菜ではない。別格な野菜と言ってよい。東の横綱が里芋なら、西の横綱は大根である、と私は格付した。大根をどのようにして食べてきたかを調べるだけで、「日本人とは何か」 がわかるような気さえする。

いきなり他人の書物の長い引用も心苦しいが、鳥居民氏の名著「昭和二十年」(草思社刊)より一節を要約してご紹介したい。昭和二十年だけではない。貧しくつましい生活の中で懸命に生きてきた過去何千年かの日本人の姿が、この文章の中に凝縮されているような気がする。

昭和19年9月、東京都渋谷区の常盤松(ときわまつ)国民学校の児童たちは集団疎開(そかい)する。疎開先は富山県城端町(じょうはなまち)である。日本全国食糧の乏しい中、富山県の田舎の人たちは親切に懸命のもてなしをする。自分たちの食も充分でないのに、昭和20年の正月には餅や汁粉や干柿などを児童たちに振舞う。学童たちは大喜びする。多くの少年・少女たちがこの日の喜びを日記に書き残している。読んでいて、その親切な思いやりに胸が熱くなってくる。


だが、ご馳走は正月で終わりだった、、、、、、お汁粉をつぎに食べることができるのはいつのことだかわからない。魚を食べることが出来るのは一ヶ月に2、3回。いったい、子供たちは毎日なにを食べてきたのか。庭に積み上げられ、雪をかぶっていた大根である。これまで長いあいだ、そしてこのさきもずっと日本の準主食の座にあるであろう大根について、もう少し述べることにしよう。

なによりも大根はかて飯(めし)の材料となる。かて飯とは、ご飯を増量することである。麦かて飯といえば、米に大麦をまぜることだ。芋を入れ、南瓜を入れ、昆布も入れるが、大麦を除けば、大根を入れることが一番多い。東北地方では、冬のあいだは毎日、大根飯である。かて飯は米・麦の量の三分の一ぐらいの量の大根を加えるのが普通だが、半々といったところもある。大根は細かく刻む。大根を切るためのかて切り器といった台所道具もある。冬の夜、農家から聞こえてくるたんたんという単調な音は、かて切りで大根を切る音である。

小さく、さいの目に切った大根は、前の晩にいろりの火で水煮しておき、朝、ご飯が炊きあがったときにそれを入れる。さいの目に切ったのをそのままご飯といっしょに炊くところもある。塩はいれない。塩味をつけるとたくさん食べられてしまうからだ。大根葉飯もつくる。大根の葉を刻み、熱湯をかける。米が炊きあがったとき、上にのせる。蒸らしてから混ぜる。大根を収穫してから、まずは大根葉飯をつくることをつつ”け、新鮮な大根葉がなくなってから、大根のかて飯をつくる地域もある。

さて、大根飯を食べるところはもちろん、食べないところでも、大根は農家のいちばんの副食であることは変わりない。農家はふつう、大根が一年中食べられるように、春播きの大根にはじまって、つぎつぎと種を播いていく。そして初冬には大根を漬け込まねばならないから、8月の作付け面積はいちばん広くしなければならない。秋になって大根をとり入れ、どこの農家でも、大根を四斗樽、二斗樽に漬け込む。1月から2月ごろまでに食べる早漬けは甘塩とする。田植え時まで食べる大根漬けは、塩を多くする。初冬に漬け込むだけでなく、土にいけて囲っておいた大根を取り出し、春にもう一度漬けこむところもある。細かったり、折れた大根から干し大根もつくる。これは煮つけにしたり、はりはり漬けにする。

凍(し)み大根もつくる。囲ってあった大根を掘りおこし、洗って輪切りにし、沸騰した湯に入れ、さっとゆでる。ゆでた大根を竹の串にさし、表に吊るす。大根が凍ったり、解けたりしながら、からからに乾くのを待つ。重労働の田植えのご馳走には、この凍み大根と身欠きニシンを煮るところもある。

大根葉を塩漬けにすることろもある。冬のあいだ、この大根葉を雑炊の具にしたり、味噌汁の実にして毎日食べる地方もある。春になって、酸っぱくなった大根葉の漬物の残りをとりだし、煮てから干す。食べるときには、水でもどして味噌で煮つける。はじめに述べたことを繰り返すなら、大根はただの野菜ではない。まさしく日本の準主食なのである。




2023年9月3日日曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー2

 シルクロードのものがたり(25)

大根(2)

大根にまつわる話は、日本には昔から数多くあるが、私が気に入っている話が二つある。これをご紹介したい。

一つは「徒然草」の第六十八段にある。このブログの読者は学問のある方が多いと承知している。現代語訳は不要と思う。兼好法師の書かれた文章そのままで紹介する。


筑紫に、某(なにがし)の押領使(おうりょうし)などといふ様な者ありけるが、土大根(つちおおね)を万(よろつ”)にいみじき薬とて、朝ごとに二つつ”つ焼きて食ひけること、年久しくなりぬ。あるとき、舘(たち)の内に人もなかりける隙をはかりて、敵(かたき)襲ひ来て、囲み攻めけるに、舘の内に兵(つはもの)二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、みな追い返してけり。いと不思議に覚えて、「ひごろここにものしたまふとも見ぬ人びとの、かく戦ひしたまふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来(としごろ)頼みて、朝な朝なめしつる、土大根にさぶらふ」と言ひて失せにけり。深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。


以上が全文である。

鎌倉時代に九州に住んでいた警察署長さんの話である。若い警察官がお花見かなにかで、出払って、署には年老いた署長さん一人が留守番をしていたのであろうか。当時は警察署を襲う盗賊がいたようである。

「大根は身体に良い。薬になるのだ」と言って毎日二本ずつ焼いて食べたいたというから、相当大根に入れ込んでいた人である。味噌も醬油もない時代だから、おそらく塩をふって食べたのであろう。家族や使用人にも 「もっと食べろ!もっと食べろ!」 と勧めていたに違いない。妻子や使用人たちが、「かんべんしてください!」と逃げ回っていた姿を想像すると、なんとも可笑しい。

「深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ」という兼好法師の締めくくりも良い。「徒然草」を読むと吉田兼好という人は、当時の人としては合理的な考えの人であり、かつバランスのとれた常識人だとわかる。この話は誰かに聞いた話であろが、兼好自身がこの話を信じていたとは思えない。

それでは、なぜ、この話をあえて書き残したのであろうか。「一途に信じることの大切さ」を、後世に人に伝えたかったのではあるまいか。


私は昔から、この話が気に入っている。11月とか12月になると、自分がつくった自慢の聖護院大根の煮物を食べるとき、家族にこの話をする。「旨い、旨いと、お父さんは13回も言ったよ」と小学生の頃、娘は言っていた。その頃は神妙な顔でこの話を聞いていた娘も、大人になった今では「またか!」という顔でニヤニヤするだけである。

時おり機嫌のよい時には、「お父さんが困ったときには、きっと聖護院大根の神様が助けに来てくれるよ」と私をからかう。







2023年8月27日日曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー1

 シルクロードのものがたり(24)

大根(だいこん) (1)

このブログの林檎の箇所で、「コーカサス地方あたりが原産地のリンゴは、シルクロードを東に向けて旅をしている間にだんだん小さくなり、日本に到着すると盆栽の姫林檎になってしまった。かたや西に向かって旅したものは欧州で品種改良されて大きく甘くなった。大西洋を越えて北米大陸に渡ったものはさらに大きなアップルになった」と紹介した。

大根はその逆である。欧州に入った大根は、ラディッシュのように小型になった。東に進んだ大根は中国で大きい姿に成長し、日本列島に渡るとさらに大きくなり、同時に突然変異をうまく利用した我々のご先祖は数多くの種類の大根を栽培するようになった。「日本は大根大国」と言うのは、決して誇張ではない。

細かく分類すると、日本では数十種類の大根が栽培されている。おおざっぱに分類すると、宮重大根系の青首大根・練馬大根・三浦大根が一つのグループで、我々はこれを普通の大根と認識している。直系2-3センチだが長さは1.5メートルになるのは名古屋方面の守口大根、蕪のように丸く大きいのは聖護院大根、一個20キロと巨大なのは桜島大根、蕎麦屋で薬味で出るのは辛味大根である。私が栽培しているのは青首大根と聖護院大根の二種類だが、煮物にするとすこぶる旨い聖護院大根には力こぶを入れている。じつは「のぶちゃんは聖護院大根作りの名人」と、地元では私は一目置かれているのだ。


野菜の原産地はどこか?という学問にはそれほど古い歴史はないが、大物学者としてスイス人のル・カンドルとロシア人のニコライ・バビロフがいる。二人とも経済学でいうとアダム・スミスのような存在である。バビロフ博士も、大根はコーカサス地方が原産地だと言っている。

バビロフには「資源植物探索紀行」という名著がある。この人は日本にも探検・調査に来ている。大正時代のことだ。バビロフは日本列島が、西側の国々から流入した野菜の終着駅だと認識した。そして日本に来て調査して、野菜の種類が他の国に比べて異常に多いことに驚いている。彼の日本探検の重要な訪問地は鹿児島であった。聞いていた「桜島大根」の調査がその目的であった。「遠くから見るとこの野菜は、大きな子豚と見違えるほど大きい。この大根は品種改良の世界的傑作である」と、その感激を著書に書き残している。

大陸から日本に大根が渡来したのは、縄文時代か弥生時代と思われる。米と大根の食の相性はとても良い。日本に稲作を伝えた中国・朝鮮の人々が、稲のモミと一緒に大根のタネを大事にしながら持ってきたに違いない。

それ以来、大根は日本において「野菜の王様」という扱いを受けるに至った。葉っぱと根に含まれている栄養価もさることながら、この大根がとても作り易い野菜であったことが大きな理由だと思う。

9月上旬は、百姓・田頭にとってとても重要な時期だ。この時期に大根のタネを播くが、1週間も経たずしてすべてのタネが発芽する。ここで大事なことは、一粒ではなく2・3粒同時に播く。半月とか、ひと月してこれを間引く。この「間引き菜」がとても旨い。栄養価も高い。その後1本にして大きく育てる。無農薬栽培を心がけている私だが、白菜・キャベツにはどうしても少量の農薬(オルトラン)を使う。ところが、大根には虫が付かないので、農薬をまったく使わないで立派な大根が出来る。

写真の大根は、コロナが始まる前年の田頭農園の青首大根だ。ちょっと早く収穫したので小ぶりだが、このくらいが旨い。あとひと月畑に置いていたら、2倍ぐらいの重量になる。








2023年8月21日月曜日

シルクロードを旅した果物(6)西瓜(すいか)

シルクロードのものがたり(23)

西瓜(すいか)

ひと月ほどブログを書かないでいると、「田頭さん元気か?夏バテでくたばっているのではないか?」と心配して電話をくださる方がいる。有難いことだ。 「おかげさまで元気はつらつです。少しサボっていますがまた書きます。読んでくださいね」と答えている。読者から励ましをもらった作家のような気分になり、とても嬉しい。


さて西瓜であるが、植物学では、これは果物ではなく野菜に分類される。ただ、赤くて甘い西瓜を食べていると野菜という気はしない。よってこのコーナーでは、果物として紹介したい。

西瓜の原産地は「アフリカ中部の砂漠地帯」だといわれる。古代スーダンで栽培され、エジプトでは4000年前の西瓜の絵が残っている、との記述もある。「南アフリカのボツアナのカリハリ沙漠付近が原産地だ」という人もいるが、今アフリカの地図を見ているが、カリハリ沙漠からスーダン・エジプトまではずいぶん距離がある。私としては、アフリカ中部説を採りたい。

エジプトから中近東を経由してシルクロードに入り、その種子はラクダの背に乗って11世紀に中国に入った。北宋の時代であるから、私が大好きな蘇軾(そしょく・1036年生まれ)が生きていた時代である。

日本に入ってきた時期には諸説あるが、16世紀もしくは17世紀、中国経由らしい。この西瓜の日本入りも葡萄と同じようにヨーロッパ人がしゃしゃり出てくる。「天正7年・1579年・ポルトガル人が西瓜の種子を長崎に持ち込んだ」と欧州人は言うが、欧州人の我田引水ぶりにヘキヘキしている私は、これには首をかしげている。

江戸時代に我が国に入ってきたものの、当時はあまり人気がなかった。甘味が少なかったようで、江戸時代の庶民が好んだのは西瓜ではなく「まくわ瓜」であった。日本で西瓜が好んで食べられるようになったのは明治以降、というより大正時代になってから品種改良によって甘味が増してかららしい。

私もこの25年間、郷里の田頭農園で西瓜の栽培をしているが、立派な西瓜をつくるのは結構むずかしい。

まず第一に連作を嫌う。西瓜は6年、里芋は4年、ジャガイモ・トマト・茄子は3年、連作を避けるように、というが、やってみて本当の気がする。第二に多雨を嫌う。アフリカの砂漠地帯が故郷なのだからこれは理解できる。ホームセンターで苗を買って移植するのだが、畑の何か所に高さ30-40センチの小型の砲台みたいに土を盛り、そこに植える。過度な湿気を避けるためである。私の農園は日本では雨量の少ない場所なので、適地といえば適地だが、葉っぱや茎が育つ5月・6月に雨量が少ないと生育が悪い。雨が多いと甘味が少ない。第三に肥料をやる時期が早すぎると、せっかく結んだ果実がポロリと落ちる。ゴルフボールぐらいの大きさになった時、化学肥料を追肥する。

もう一つ大切なことは、受粉である。プロの西瓜農家は朝早く起きて、人工授粉を行っている。月1回、1週間百姓の私にはこれが出来ない。もっぱら「蜜蜂・蝶・てんとう虫」などの昆虫の活躍に全面的に頼っている。

たいした手入れもしていないので、「西瓜をつくっている」というには気が引ける。「勝手に育ってくれている」というのが正確な表現である。それでも、6株ほど植えて、3年に一度くらいのペースで、豊作がある。15,6個の大きな西瓜が収穫できるととても嬉しい。写真の西瓜は、コロナが始まる前年の豊作のときのものだ。今年の西瓜の出来は、大学の成績だと「良」と「可」の間ぐらいである。










2023年7月2日日曜日

シルクロードを旅した果物(5)無花果(いちじく)

 シルクロードのものがたり(22)

無花果(いちじく)

石榴や胡桃にくらべると、このイチジクには、子供の頃から馴染みが深い。広島県東南部にある私の村ではこれを「とうがき」と呼んでいた。「唐柿」と書くのであろう。この言葉から、中国を経由して日本に入ってきた果物であろう、と子供の私は思っていた。

唐という国は長い間、日本人にとって先生ともいえる、偉大な国であった。唐が滅びて、宋・元・明・清の時代になってからも、日本人は中国のことを「唐・とう・から」と呼んで尊敬していた。

「唐柿・とうがき」以外にも「唐鍬・とうぐわ」という言葉を今でも私の故郷では使う。村の地区に「唐樋・からひ」という場所がある。「樋」というのは「木でつくった水を通すみち」のことだ。子供の頃、村の物知り爺さまから、「江戸時代に当時最先端の唐(から)の技術を導入して造った水門跡だからこう呼ぶのだ」と聞いた記憶がある。

小学生のころ、近所の富有柿の樹によじ登って柿を食って、持ち主の爺さまに「このトージンが!」と追い回されていた。「トージン」とは「盗人」と書いて「ドロボウ」の意味がと思っていたのだが、「唐人」と書いて「馬鹿者」という意味だとずいぶん後で知った。長い間中国のことを尊敬していた日本人が、このような言葉を使い始めたのは日清戦争のあとのような気がする。「イチジク」とは関係ない話になってしまった。


この「イチジク」、人類にとってずいぶん昔から縁のある果物らしい。旧約聖書の「禁断の実・林檎を食べたアダムとイブが、裸であることに気付いて下半身をイチジクの葉で隠した」というのはずいぶん新しい話である。エジプトでは4000年前、メソポタミアでは6000年前に栽培されていた、1万2000年前の石器時代の遺跡からイチジクの痕跡が発見された、などとその方面の研究者は言う。

原産地はアラビア半島、というのは間違いないらしい。ただ、半島の南部説と北部説と二つがある。アラビア半島の北西部ヨルダン川近く現在のエルサレム近郊との説があるが、私にはこの説はキリスト教徒の我田引水のように思える。私自身は、イチジクの原産地はアラビア半島の南部、現在のイエメン・オーマンあたりだと考えている。

日本への伝来は、シルクロードを通って中国経由で入ったと考えられるが、中国に入ったのは13世紀で、日本に入ったのは戦国時代か江戸時代の初めといわれるので、案外新しい。イエズス会の文書では、ポルトガル航路(リスボン・ゴア・マカオ・長崎)経由で日本に入ったと書かれている。ただ、ヨーロッパ人は我田引水(自己中心)の癖があるので、私はこの説には首をかしげている。

コルシカ島の貧乏貴族の息子だったナポレオン・ボナパルトは、「子供の頃の家庭における自分の役目は、朝早く起きて籠をもってイチジクを採ることだった」と自伝に書き残している。パパイアと同じくタンパク質分解酵素を多く含むので、食後のデザートには好都合の果物らしい。

私も子供の頃、家のイチジクの樹に登ってこれを採っていた。樹の上からヘビがぶら下がって私の顔の前でベロペロと赤い舌を出している。びっくりして樹からずり降りた。イチジクの樹の根元に座り込んでいる私を見て、祖母が「どうした?」と聞く。かくかくしかじか、と言うと、「ヘビを見たぐらいで腰を抜かず奴がいるか!」とこっびどく怒られてしまった。

自分が子供だったこともあろうが、昔のイチジクの樹はけっこうな巨木で、それによじ登って採っていたような気がする。近頃のイチジク栽培農家は樹を高くしない。原則、立ったまま手で収穫できるよう低い樹に剪定している。広島県の南東部にある私の故郷は、イチジクの栽培に適しているらしく、イチジク農家が多い。我が家の畑にも、イチジク栽培のプロの友人が10年ほど前に植えてくれたイチジクの樹が2本ある。1本の樹で、100や200は実をつける。

無花果






2023年6月18日日曜日

シルクロードを旅した果物(4)胡桃(くるみ)

 シルクロードのものがたり(21)

胡桃(くるみ)

日本では胡桃は栽培されていないと長い間、私は思っていた。東京の大学に入学して、多くの長野県出身の良友に恵まれた。小諸出身の友と千曲川を見た時か、飯田出身の友と天竜川で遊んだ時か記憶は定かではない。「あれが胡桃の樹だよ」と信州の大河のそばで聞いた時はとても驚いた。

世の中に胡桃(くるみ)というものがあることは子供のころから知っていた。中学生の時、音楽の時間に「この曲はチャイコフスキーのくるみ割り人形というのだ」と先生から聞いた。小学生の時、近所の老人が胡桃を一つか二つ手にして、握ったり離したりしているのを見た。「中風の再発防止に指を動かすのが良いんだ」とその爺さまが言ったのを覚えている。その爺さまはとても大事そうにその胡桃を扱っていたので、外国から輸入した高価なものだと子供心に思っていた。


胡桃の原産地はイラン、というのが植物学者の常識らしい。漢人がなぜ「胡桃」と名付けたのかよくわからない。「桃」は古代から中国では縁起の良い果物として大切にされてきた。「胡の桃」のつもりで名付けたのであろうが、柔らかい果実を食べる桃にくらべ、胡桃は硬い種子(仁)を食用にする。タネの形は桃にとてもよく似ている。種子に視点をあてて、このような呼び方にしたのであろうか。

中国経由で日本に入ったクルミは、奈良・平安時代には「それなりに存在感を持った果実」として扱われている。仏教の普及と関係がある気がする。仏教の広がりと共に肉食が減ってきた。人間の健康のための「脂肪分の補給」として胡桃の重要度が増したのではあるまいか。平城京跡から出土された木簡にクルミの貢進が記録されている。

平安時代の「延喜式」には、「年料別貢雑物」としてクルミが記されている。「租庸調」の「租」は原則「米」でおさめられていたが、米の収穫が少ない地方ではその国の特産物をもって可とされた。対馬では「干アワビ」、瀬戸内海地方では「塩」が米に代わる税として納められていた。平安時代の「延喜式」には、「甲斐国・越前国・加賀国では胡桃をもって納税してよい」と書かれている。

くるみの実には脂肪分だけでなく、様々なビタミン・ミネラル・タンパク質が含まれていて、高血圧・糖尿病・認知症の予防に良いらしい。適度に食べるのは健康に良いと本に書いてある。

「くるみ船長」と呼ばれた人がいる。私が尊敬する今東光のお父さん、今武平氏である。明治元年、津軽藩士の家に弘前で生まれた。函館商船学校に学び長く日本郵船の船長をした。インドの神智学に凝り菜食主義者になり、くるみを主食のようにしていたという。昭和11年に68歳で没している。当時としてはかならずしも短命ではない。

くるみというものは身体に良いらしいが、私はビールのつまみにナッツとして時たま食べるだけである。長野県を旅行した時、「くるみ味噌」というものを食べたことがある。くるみ味噌を使った「五平餅」というものが岐阜の名物と聞くが、まだ食べたことはない。

多くの日本人にとって、くるみとのかかわりは私と似たようなものではあるまいか。そう考えると、日本における「胡桃」の格付けは、いいとこ前頭15枚目あたりだと思う。

胡桃






2023年6月5日月曜日

シルクロードを旅した果物(3)葡萄(ぶどう)

 シルクロードのものがたり(20)

葡萄(ぶどう)

漢詩を読んでいて、石榴・林檎を詠んだものに出会ったことことはないが、葡萄に関しては盛唐の王翰(おうかん・687-726)が有名な詩を残している。漢代に中国に入った葡萄は、唐代にはポピュラーな果物となり、長安の酒場では葡萄酒が飲まれていたようである。

葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催(うなが)す

酔うて沙場に臥すとも 君笑うなかれ 古来 征戦 幾人(いくにん)か回(かえ)る

「涼州詞(りょうしゅうし)」という題で、涼州とは現在の甘粛(かんしゅく)省・武威県である。ここから北西に進めば、玉門関・安西・敦煌に到着する。この三地域までが現在、甘粛省の行政範囲であり、これより西は新疆ウイグル自治区となる。自治区というものの、行政を仕切っているのは中華人民共和国である。

この王翰の詩は、ワインは旨いなあ、といった明るい詩ではない。張騫の遠征以来800年にわたって、この西域の地で、中国人と異民族とのあいだに血みどろの戦いが続けられてきたことをものがたっている。

これに比べると、李白の「少年行・しょうねんこう」は、はつらつとした詩である。

五陵の年少 金市(きんし)の東 銀鞍白馬(ぎんあんはくば)春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何れの処(ところ)に遊ぶ 笑って入る 胡姫酒肆(こきしゅち)の中

葡萄酒とはどこにも書いていない。しかし、金髪青眼の西域美女がもてなす外人バーに入ったのだから、長安のエリート青年たちが、西域から輸入されたガラスのコップでワインを傾けたのは間違いない。


中学生の時、野島先生が「葡萄の原産地はコーカサス地方です」と教えてくださった。林檎も大根もコーカサスだとおっしゃる。コーカサス地方原産の果物や野菜はずいぶん多いなあ、と中学生の私は驚いた。この野島先生の説明は正しいのだが、葡萄にはもう一つの原産地がある、というのが現在の植物学者の常識らしい。そこは、アメリカ合衆国・オハイオ州・デラウェアだという。

葡萄は奈良時代に遣唐使によって日本に持ち込まれた。当然ながらコーカサス地方原産でシルクロード経由で中国に入った種類である。鎌倉時代の初期に甲斐国(山梨県)の勝山で本格的な栽培がはじまった。「勝沼や 馬子も葡萄を食いながら」という松尾芭蕉の句がある。江戸時代には、葡萄は甲斐の名産品、と認知されていたようである。

明治に入るとアメリカ原産のデラウェアや、コーカサス原産ではあるがヨーロッパにおいて品種改良された何種類もの葡萄が、アメリカや欧州経由で日本に入ってくる。

令和元年の日本の果物の生産量は、1位みかん、2位林檎、3位梨、4位柿で、5位が葡萄である。葡萄の生産高の順位を県別でいうと、1位山梨県、2位長野県、3位山形県、4位岡山県、5位福岡県、6位北海道となる。

世界全体で見れば、葡萄の生産量が果物のダントツ一位で、世界の果物の生産高の80パーセントを占める。ただし、生でフルーツとして食べられている果物の1位はバナナ、2位は柑橘類(オレンジ・みかん・レモンなど)で、葡萄は3位となる。その理由は、葡萄の80パーセントがワインに加工されているからだ。10パーセント程度が干し葡萄にされ、残りの10パーセントをフルーツとして生で食べているのだという。

これらからすると、葡萄は世界で見れば横綱、日本では関脇に格付けするのが適当と思える。

おしまいに「ぶどう」という名前についての「うんちく」を披露したい。

現在のウズベキスタン共和国の東のはずれに、フェルガーナという都市がある。北がキルギス、南がタジキスタンで、張騫が遠征したころはこのあたりは「大苑国」と呼ばれていた。当時、この地方の人々はこの果物を「ブーダウ」と呼んでいた。これを聞いた漢人が中国に帰って「これはブーダウと言うんだよ」と教え、「葡萄」と書いて「ブーダウ」と読ませた。遣唐使の日本人留学生・留学僧がそのまま日本に伝えた、と考えられている。「ザクロ」と同じく「ブドウ」という言葉も、原産地に近い「西域」を源とする言葉のようである。

葡萄の画像が必要と思い、近くのスーパーに買いに行った。5月の下旬では日本の葡萄は無い、南半球の輸入物があるだろうと思った。あるにはあったのだが鮮度が悪い。島根県産「種なしデラウェア」というのを購入した。温室栽培のものらしい。残念だがこの葡萄の画像は、コーカサス地方ではなくアメリカが原産の葡萄である。

葡萄





 


2023年5月29日月曜日

シルクロードを旅した果物(2)林檎(りんご)

 シルクロードのものがたり(19)

林檎(りんご)

私はりんごはそれほど好きではない。嫌いではないが、柿や葡萄のほうが美味しい。ただ、りんごには恩義のようなものを感じている。「のぶちゃんはりんごのおかげで命が助かったんだよ」と、子供のころからしばしば母から聞かされていたからだ。このことは「りんごの話」という題で、2020年11月にこのブログで紹介した。

中学生のとき、野島先生が「りんごの原産地はコーカサス地方です」と胸を張っておっしゃったのを覚えている。「生まれ故郷が冷涼地なんです。だから日本では青森県や長野県のような寒い地方でつくられます。広島県の海辺の温暖なこの地方ではうまく育ちません」と言われたのを聞いて、フムフムと納得した記憶がある。


ヨーロッパの人々は、りんごの祖先は欧州に生育する野生のりんご、と何千年も考えていたらしい。現在では、「りんごの原産地はタクラマカン砂漠の北側にある天山山脈の西側あたり」というのが、世界の植物学者の定説らしい。

米国人・マーシャ・ライフの「りんごの文化誌」には、「BC334年、アレキサンダー大王がペルシャを征服したあと、りんごと共にペルシャ人庭師を連れて帰り、ギリシャ人にりんごの栽培方を教えた」とある。張騫の遠征より200年以上前である。よって、張騫が遠征する何百年、何千年も前から、多くの果物・野菜の種子がラクダや馬の背に乗って東西に旅をしたと考えるのが自然である。

古代ローマ人も、カール大帝の時代の人々も、また中世・近世の欧州人も、このりんごという果物をとても大切に扱った。そして現在でも、このリンゴは「果物の横綱」の地位を保ち続けている。

それゆえに、ヨーロッパにはりんごにまつわる話や、りんごに絡む歴史的事件が多い。

旧約聖書のアダムとイブが禁断の果物・りんごを食べた話は説明の要はあるまい。伝説の人物ではあるが、スイス人のウイリアム・テルが息子の頭にりんごを載せてそれを射るように命じられたのは14世紀初めの話である。英国人のアイザック・ニュートンが木から落ちるりんごを見て、万有引力の法則発見のヒントを得たのは18世紀の初めである。


現在我々が食べている大型のりんごは、明治になってアメリカから入ってきた。子供の頃「印度りんご」という旨いりんごがあったが、国光(こっこう)に比べ少し値段が高かった気がする。中学生になって、野島先生から先の話を聞いて、「インドは暑い国なのにりんごがあるなんて不思議だなあ」と思った。アメリカのインディアナ州で品種改良されたりんごとは、そのあとで知った。

明治のはじめ頃、日本人はこの果物をアメリカ人が言うとおり「アップル」と呼んでいた。尊王攘夷の生き残りの国粋主義者が「異国の言葉を使うのはけしからん」と言ったのであろうか。明治10年代に入ると、日本人はこの果物を「苹果・へいか・ひょうか」と呼ぶようになる。当時中国(清国)でそう呼ばれていた。考えてみれば、この苹果も異国の言葉である。ところが、明治30年頃になると、日本人は突如としてこの果物を「林檎」と呼ぶようになる。

盆栽の「姫林檎」と「アップル」は大きさこそ異なるが、同じ形をして味も似ている。「これは同じ種類の植物だ」と誰かが気付いたのであろう。この「林檎」も千年以上前に中国から教わった言葉である。政府が命じたわけでもないのに、日本人は明治初期の30年のあいだに、「アップル」、「苹果」、「林檎」と3回もこの果物の呼び方を変えている。この不思議について、私は以前から興味を持って調べている。まだ結論は出てないのだが、現時点では私は次のように考えている。

明治18年の内閣制度への移行、明治23年の大日本帝国憲法と教育勅語の発布、明治27年の日清戦争あたりにその理由があるのではあるまいか。

庶民は昔から天皇のことを、「天子さま」、「みかど」、「おかみ」などと呼んできた。「天皇陛下」という言葉を日本人が使いはじめたのは、上記の明治20年代に入ってかと思われる。

「今年のヘイカは出来が悪いな」、「ヘイカの値段が下がってきたよ」、「このヘイカは旨くないなあ」、などの庶民の会話に警察官が注意したのかも知れない。そうではなく、人々自身が、昔からある「林檎」という優しい呼び方に親しみを感じたのかも知れない。

島崎藤村の「若菜集」は明治30年に刊行された。「初恋」にははっきりと林檎と書かれている。これが苹果であったら、いささか興ざめである。「林檎」で良かったと思う。


まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花ぐしの 花ある君と思ひけり


林檎畑の樹の下に おのつ”からなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ








2023年5月21日日曜日

シルクロードを旅した果物(1) 石榴(ざくろ)

 シルクロードのものがたり(18)

石榴(ざくろ)

張騫が西域から漢に持ち帰った果物として、中国の古書の筆頭に「石榴」の名が見える。よって、この「ざくろ」に敬意を表してこの果物からご紹介したい。

子供の頃、我が家に一本のザクロの樹があった。時々食べたがそれほど旨いものとは思わなかった。現在の日本人にとって、ザクロはそれほど存在感のある果物とは思わない。

各人の好みにもよるだろうが、「葡萄」、「りんご」は相撲でいえば大関・関脇クラスに格付けされると思う。「みかん」と「柿」が横綱だと私は考えているが、あるいは「葡萄」・「りんご」を横綱に押す人がいるかもしれない。多少えこひいきをしたとしても、ザクロを小結に押す人はおるまい。いいとこ前頭十枚目以下、多くの人は十両と格付すると思う。

2023年の5月連休に、郷里の広島県に農作業で帰った。その時、テレビで、現在日本で栽培している果物の生産高で、1位がみかん、2位りんご、3位柿、4位梨、5位葡萄と紹介されていた。そうすると、現在の日本では、りんごは横綱、葡萄は大関か関脇に格付けされていると考える。


ダミアン・ストーンというオーストラリア女性の著書「ザクロの歴史」を読んでみると、西アジア・西欧においては、現在でも小結・関脇クラスの存在感ある果物らしい。この本を読み進めてみると、古代のエジプト・メソポタミア・ペルシャ・ギリシャ・ローマにおいては、関脇・大関、ひょっとしたら横綱クラスの果物だったことがわかる。

理由の一つは、多くの種子が子孫繁栄(多産)のイメージと結びついたと考えられる。甘い果汁が乾燥地帯の人々には美味しく感じられた。どのような栄養があるのか知らないが「精力剤」という記述も多く見られる。同時に赤い花の美しさを愛でた記述も多い。


古代から中世・近世にかけて、これらの地域にはザクロをモチーフにした、おびただしい数の石像・陶器・木版画・絵画が残されている。

「ザクロの茂みから声が聞こえてくる。私の実は女主人の歯のように輝き、果実は女主人の胸のように丸い形をしている。私は彼女のお気に入りの、果樹園で最も美しい樹木である」と、BC12世紀のエジプトのパピルスに書かれている、とストーン女史は紹介している。

「ザクロは人類にとって最古の食品の一つであり、原産地はイランとトルクメニスタンの国境にあるコぺトダグ山脈あたりと考えられている。栽培が開始されたのはBC1万年頃の新石器時代と思われる」ともストーン女史は言う。

イランの地図を見ると、イランの西側に、北西から南東につらなるザグロス(Zagros)山脈という大きな山脈が見える。張騫がこの地方を旅した2100年前、このザグロス山脈一帯でこの果物がたくさん栽培されていたらしい。「これは、ザグロと言うんだよ」とアフガニスタン人が漢人に教えてくれた。よって、漢の人々は「石榴」と書いて、この果物を「ザグロ」と読ませたという説もある。

私のような素人には、この話に納得できる。

ストーン女史は、この本で、「ザクロ博士」の異名を持つ、ソビエト連邦時代の科学者(トルクメニスタン在住)グレゴリー・レビン博士を紹介している。この博士はザクロに惚れ込んでいた。「ザクロは素晴らしい滋養強壮薬」だと力説している。当時ソビエト連邦は、宇宙飛行士・潜水艦乗組員・空軍パイロットなどの健康維持にこのザクロを積極的に処方させた。世界初のソ連の人工衛星には猿が乗せられた。この猿にザクロのエキスが大量に投与されたというから、人間第一号のガガーリン少佐も、嫌になるくらい大量のザクロを食べさされたに違いない。


中国経由で日本にザクロが入ってきたのは、奈良・平安時代と思われる。12世紀に描かれた「孔雀明王・くじゃくみょうおう」は胸の前にザクロを持っている。孔雀明王は密教で尊格のある明王の一つで、この絵は高野山霊宝館にある。精力絶倫であった弘法大師・空海もきっと石榴を食べたのであろう。


ウズベキスタンのザクロ 辻道雄氏提供





2023年5月15日月曜日

シルクロードを旅した果物と野菜

 シルクロードのものがたり(17)

陶淵明が生きていた4世紀(西晋)の中国の「植物志」には、「石榴(ざくろ)・葡萄(ぶどう)・胡桃(くるみ)は張騫が大夏に使いして持ち帰った」と書かれているという。

明の時代(1596年発刊)の「本草綱目(ほんそうこうもく)」には、上記の果物に加えて「胡瓜(きうり)・胡豆(そらまめ)・胡麻(ごま)などの野菜も張騫が西域から漢に持ち帰った」と書かれている。

この「本草綱目」という書物は、当時の中国のベストセラーであったらしい。刊行から数年のうちに日本に伝来し、林羅山が徳川家康に献上したと記録にある。しかし、これらの果物・野菜の種子をすべて張騫が西域から持ち帰った、という説には無理がある。

大苑からの帰途の張騫は、すでに紹介したように匈奴に再び捕らえられ、内紛に乗じて命からがらゴビ砂漠を経由して逃げ帰ってきた。植物の種子を持ち帰る余裕はなかったと思う。張騫のたどったルートを、それ以降おびただしい数の漢の兵士や商人たちが往来した。何十年、何百年をかけて、これらの果物と野菜の種子が中国に運ばれたと考えられる。これらが中国大陸から、日本列島に入ってきたに違いない。


ラクダや馬の背に乗って、東方に旅したこれらの果物・野菜の種子は、当然のことながら西に向かっても旅をした。「本草綱目」に記述された果物・野菜だけではない。リンゴ・西瓜・大根・ほうれん草・ニンジン・玉ねぎ・ニンニクなども、中央アジア・西アジアあたりを故郷として、シルクロードを東に西にと旅をしたのである。このうち、西瓜の原産地はアフリカである。エジプトを経由してシルクロードを経由して中国に入った。

東方に旅する間に大きくなり、西方に旅する間に小さくなった野菜がある。大根だ。逆に東方に旅する間に小さくなり、西方に旅する間に大きくなった果物がある。リンゴである。

我々日本人が現在食べている西域を原産地とする、これらの植物のすべてが、東方(すなわち中国経由)ルートで入ってきたかというと、かならずしもそうではない。ニンジン・玉ねぎはシルクロードを西に旅をして、欧州大陸で重要視され、そのあと船に乗ってアメリカ大陸に渡り、アメリカを経由して日本に入っている。

「姫林檎」のように小さくなって観賞用になった林檎は、古い時代(おそらく平安時代)に中国経由で入ってきたが、大きな果実の「アップル」はアメリカ経由で明治になって日本に入ってきた。

ほうれん草は、古い時代に中国経由で入った葉っぱのとがった「日本ほうれん草」と葉っぱに丸みのある「西洋ほうれん草」の二種類が現在日本で栽培されている。私は「ほうれん草作りの名人」と郷里の仲間から言われている。両方のほうれん草を作っているが、「西洋ほうれん草」のほうが丈夫で作りやすい。


私は中学生の頃から、この果物・野菜の原産地がどこか、いつの時代に日本に入ってきたかということに強い興味を持ってきた。中学校時代の恩師の野島登先生が、力こぶを入れてこれらのことを教えてくださったからだと思う。受験勉強には役に立たなかったが、この知識は、自分の人生を豊かにしてくれたような気がする。

果物と野菜の原産地を知っておくと役に立つことが二つある。一つは、これらを栽培する時、果物・野菜に適した環境を作るヒントになる。この25年間私は郷里広島県の農園で野菜作りをしているが、原産地が乾燥地か多湿地かを知っているだけで、果物・野菜の出来に格段の差がつく。

今一つ、お客様や知人と夕食をする際に、この知識が役に立つ。食事のときの話題としてあたりさわりがなく、多くの方が興味を持って耳を傾けてくださる。英語の下手な私が外国人と食事をしたとき、下手な英語をごまかして、これらの「うんちく」で座が盛り上がったことが何度かある。

次回から、これらの果物・野菜の原産地や渡来のルートについての「うんちく」をご披露したい。











2023年5月10日水曜日

シルクロードの日本人伝説

 シルクロードのものがたり(16)

これから数回に分けて、シルクロードを旅した果物と野菜の話をしたいと思っている。その前に、2100年ほど時代を下り、日本の兵隊さんの話をしたい。


張騫が「大苑・だいえん」の南「康居・こうきょ」を訪問したのはBC120年ごろである。「康居国」とは現在のキルギス西部・ウズベキスタン東部にあたる。

それから2100年後、この地方を大地震が襲った。1966年4月26日のことである。震源地はタシケント市の中央部地下、マグネチュード5・2の直下型の大地震である。当時のタシケント市の人口は約200万人。民家の多くは日干レンガ作りであったので被害は甚大だった。約8万の家が崩壊し、約30万人の人々が戸外に放り出された。

余震が続くなか、36歳の主婦ゾーヤは、「みんな外へ出て! ナボイ劇場の建っている公園に行くのよ!噴水の周りに集まりましょう」 こう言って子供たちの手をつかんで外に飛び出した。近所に人々にも、「ナボイ公園に逃げましょう!」と声をかけ続けた。

ゾーヤがとっさにそう思ったのは、16歳の時、ナボイ劇場建設を手伝った時に聞いた日本人捕虜の言葉を思い出したからだ。たとえナボイ劇場が倒れていたとしても、公園には広い空き地があり安全である。ゾーヤはそう思った。

タシケントは天山山脈の西側に位置し、日本ほどではないが、地震が時々ある。

ソ連の捕虜となり、満洲からこの地に連行された日本人457人(隊長・永田行夫大尉)の工兵隊員が、ソ連の命令によりこの地に劇場を建設していた。ゾーヤたち現地の少女たちは、事務や軽作業であったが、この作業を手伝っていた。日本人捕虜たちはみな働き者で、ゾーヤたち現地の少女たちに親切だった。休息時間には日本の歌を教えてくれた。ゾーヤは今でも「さくら・さくら」や「草津節」を歌うことができる。

歌を教えるだけでなく、日本の兵隊たちは次のようにタシケントの少女たちに教えた。「日本は地震が多い。これは大きいぞ、家が倒れるかもしれないぞと思ったら、迷わずすぐに外に出て広場などに避難するのが良い」ゾーヤはとっさにその言葉を思い出したのだ。


ナボイ公園に着いた人々は、みんなが息を呑んだ。

ナボイ劇場はどこも崩れることなく、なにごともなかったかのように、すっくと建っていた。タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凛として建ち続けている姿を見て、多くのタシケント市民の目は潤んだ。この劇場の建設に携わったことを誇りに思っていたゾーヤは、涙が止まらなかった。

大地震にびくともしなかった日本人捕虜が造ったナボイ劇場の話は、またたくまに、当時のウズベク・カザフ・トルクメン・タジクなど中央アジア各地に伝わった。

この劇場が完成した時、ソ連邦政府は「日本人捕虜が建てたものである」とウズベク語・ロシア語・英語のプレートを劇場裏手の外壁に埋め込んだ。

1991年、ウズベキスタンはソ連から独立した。カリモフ大統領は「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことはない。日本人を捕虜にしたこともない」と指摘したうえで、「捕虜」という文字を削除させた。そして新しいプレートを作らせた。

「1945年から46年にかけて、極東から強制移送された数百名の日本国民がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と。文章の順番も、ウズベク語・日本語・英語・ロシア語の順に刻まれているという。

これをまとめるにあたり、嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜」を参考にさせていただいた。

ナボイ劇場 辻道雄氏提供






2023年5月1日月曜日

張騫とシルクロード(9)

 シルクロードのものがたり(15)

「中国とインドは近い!」 驚くべき武帝への報告(2)

武帝の肝いりで実行された「蜀(四川)からインドを経由してのアフガニスタン入り」の遠征は失敗に終わった。現在の中国・雲南省、ミャンマー北部に、いくつもの勇敢で狂暴な民族がいたからである。

現在の四川は、漢の武帝の頃にはすでに漢の勢力圏に入っていたが、雲南はその影響力の届かない「蛮夷の地」であった。

この時(BC126)から約350年たって、四川の地に劉備玄徳が諸葛亮孔明の力を借りて「蜀漢」という国を建国する。諸葛孔明の時代になっても、雲南は以前と同じく「蛮夷の地」であった。諸葛孔明はその晩年、蜀(四川)からみずから兵を率いて雲南方面に遠征している。この話は面白いので、ここでご紹介する。

そこには孟獲(もうかく)という狂暴な少数民族の頭(かしら)がいた。孔明は「孟獲を生きたまま捕らえろ」と全軍に命じ、その通り、孟獲は生きたまま孔明の前に引き出された。

「わが軍をどう思うか」と孔明は孟獲に聞いた。「お前たちの軍勢の実態を知らなかったので今回は負けた。たいしたことはないとわかったので、この次は負けはしない」と孟獲は答えた。孔明はそのやんちゃで勇気ある返答に好感を抱いた。「そうかそうか。でもこれからは我々に逆らうでないぞ」と笑いながら孟獲を釈放してやった。

ところが、孟獲はふたたび、蜀漢に対して謀反した。こうして、孟獲は七たび戦って七たび捕虜になった。そのたびに孔明はこの孟獲を釈放してやったという。孔明はこの孟獲というやんちゃで一本気な男がよほど好きだったようだ。

最後のとき、孟獲は立ち去ろうとせず、「丞相(孔明)は天帝のようなご威光をお持ちです。わたしたち南中の者は二度と謀反することはありません」と言って、心から降伏した。雲南地方の平定を完了した孔明は、孟獲を御史中丞という官職に任じ、土着の豪族たちにそれぞれ官位を与えたという。私はこの話がとても好きである。

私は雲南には行ったことなないが、今でも雲南地方には、この時の孔明の徳を慕って、「諸葛亮孔明を祭る廟」が各地にあると聞く。350年ほど先に進みすぎた。張騫と武帝の時代に戻る。


天明4年(1784)に発見された「漢委奴国王印」の金印は、後漢の光武帝がAD57年に、北九州にあった奴国の首長に与えたものだという。これと同じ大きさの「滇(てん)王之印」という金印が1955年に雲南省晋寧県で発掘された。この金印は「史記・西南夷列伝」の中に、漢の武帝が元封2年(BC109)に滇王(てんおう)へ王印を与えたという記述に一致する。北九州の金印と166年の差があるものの、同じ字体と形・大きさから察して、この二つの金印は「長安の同じ工房」で鋳造されたものであろう、と中国の研究者は語っている。

この四川から雲南を経由してのインド・アフガニスタン行きの試みが失敗した17年後である。4つのルートから山脈を超えようとした、と司馬遷は記録している。雲南省の地図を見ると、「大理石」で有名な大理、「プ―アール茶」で有名なプ―アールという地名が、雲南省西部の山脈のふもとに見える。遠征隊はおそらくこのあたりを通過したのであろう。

「滇(てん)族は漢の遠征隊を助けたが、昆明(こんめい)族は反抗した」と司馬遷は書き残している。武帝からの先ほどの金印は、滇族はこのとき漢の遠征隊に協力したことへのご褒美かと思える。

すなわち、当時の漢の皇帝から見れば、東方の北九州の奴の首長も、南方の雲南の首長も同じような蛮族の首長であった。南方の雲南は中国の一部になってしまった。かたや東方の民族は、いまだ踏ん張って独立を保っている。


おしまいにもう一つ、張騫の武帝への報告書の中で、私がはっと驚いた新鮮な記述を紹介したい。

「大苑(カザフスタン)から安息国(イラン)に至るまでは、言語は異にしていますが習俗は大いに似かよっています。その習俗は女子を尊重し、女子の言葉によって男子は事を決定します」と、女性の地位が高かったことが記されている。

2023年4月11日の日本経済新聞の朝刊には、次のようにある。

「アフガニスタン、女性100万人登校できず。タリバンが女性の教育と就労を禁止」

2100年前、この地方ではそうではなかったことが、司馬遷の記述で我々は知ることができる。







2023年4月25日火曜日

張騫とシルクロード(8)

 シルクロードのものがたり(14)

「中国とインドは近い!」 驚くべき張騫の武帝への報告

張騫のシリーズはあと2回でおしまいにしたい。いままでご紹介したものは、司馬遷が「張騫の伝記」として記述したものである。この10倍ぐらいの分量が「史記・大苑列伝」に続くのだが、これらはみな張騫の武帝への報告書である。

2100年以上前に書かれたこの古い書物を読んで、「我が意を得たり」との新鮮な驚きを覚えた。「中国とインドは近いはずだ」と張騫は武帝に報告しているのだ。


4世紀・5世紀(東晋)の法顕(ほっけん)は、シルクロードの西域南道を進み、タクラマカン砂漠では死者の白骨を道標にして6年かけてインドに到着した。帰路はスリランカから船出して、荒れ狂うインド洋・南シナ海を経由して中国に戻っている。また、7世紀(唐)の玄奘三蔵は、行きも帰りもシルクロードを通り沙漠を超えて、ウズベキスタン・アフガニスタン・パキスタンを経由して、重い荷物を背中に背負い、中国とインドを往復した。

大きなアジア地図を前に置いて、この二人の高僧の旅路のあとをたどったとき、「どうしてこのような遠回りをしてインドに行ったのか? 高い山脈があるにしても、蜀(四川)から雲南に入り、ミャンマー北部を経由して西進すれば、インドはすぐそこではないか」と私は若い頃からいつも不思議に思っていた。このことを二千年以上も昔の前漢の時代に、張騫がすでに武帝に報告していたことを知り、とても驚いた。

張騫の武帝への報告を、司馬遷は次のように報告している。

「臣(張騫)が大夏(アフガニスタン)におりましたとき、蜀(四川)の竹杖(たけつえ)と布を見かけました。 ”どこでこれを手に入れたのか” とたずねましたところ、大夏の人は ”われわれの商人が出かけて行って身毒(インド)で購入してきたのです” と申しました。身毒は大夏の東南数千里にあり、その習俗は大夏と似通っています。その土地は暑熱で、人民は象に乗って戦い、その国は大河に臨んでいます。

騫が計算してみますと、大夏は漢を去ること一万二千里で漢の西南にあたります。身毒国は大夏の東南数千里に位置し、蜀の物資があります。つまり蜀から身毒(インド)までは遠くありません。今後は大夏(アフガニスタン)に使いする場合は、蜀(四川)から身毒(インド)を経由してゆけば近道ですし、匈奴や羌族に捕らえられることはないでしょう」


今、アジア地図をながめながらこれを書いているが、張騫の武帝はの報告の地理的な正確さに驚いている。

この報告を聞いた漢の武帝は大いに喜んだ。大苑(ウズベキスタン)および大夏(アフガニスタン)・安息(イラン)などはみな大国で珍奇な物品が多く汗血馬(名馬)も多い。それでいて軍事力は弱い。これらの国々を属国化すれば漢の国土は広がり、すなわち北方の匈奴を打ち負かすことができる。武帝はこう考えたのである。

そこで武帝は張騫に命じて、遠征隊を四班に分けて蜀(四川)から出発させた。ところがこのルートでの遠征は失敗に終わった。








2023年4月17日月曜日

張騫とシルクロード(7)

シルクロードのものがたり(13)

「史記・大苑列伝」を続ける。

「1年余り拘留されているうちに単于が死んだ。サロクリ王が単于の皇太子を攻めて自立し、匈奴の国内が乱れたので、張騫は胡妻(匈奴で娶った妻)および従者の甘父とともに漢に逃げ帰った。漢では騫 を大中太夫に任じ、従者の甘父に奉使君という称号を与えた。

張騫は意志が強く、辛抱して堅実に事にあたり、心が寛やかで人を信じたので、蛮夷もこれを愛した。従者の甘父は、もともと匈奴人であり、弓が上手で、困窮したときには禽獣を射て食用に給した。はじめ張騫が出発したときには、一行は百余人であったが、13年たってただ2人だけが帰ることができたのである。

張騫がみずから行ったところは、大苑(カザフスタン南部)、大月氏(ウズベキスタン南西部)、大夏(アフガニスタン)、康居(カザフスタン西部・ウズベキスタン西部)で、ほかにその近郊の5・6の大国についても伝え聞いてきて、つぎのようにつぶさに言上した」


司馬遷が伝える「大苑列伝」の中で、張騫の人となりを伝える文章は以上がすべてである。「大苑列伝」にはさらにこの10倍以上が書かれているが、これらはすべて張騫が漢の武帝に言上した報告書である。

「張騫はその胡妻および従者の甘父とともに漢に逃げ帰った」の部分に私は注目する。私だけではあるまい。司馬遷が「史記」を書いたのは二千年以上も昔である。それ以来、幾多の中国人・朝鮮人・越南人・日本人が漢文でこの箇所を読み、張騫の人柄に感激したのではあるまいか。私はその一人にすぎない。

張騫は大柄で、その性格は寛大で人を信じ、その人柄を蕃夷も愛したという。張騫が「胡妻」をつれ帰ったことは、その優しい人柄を物語っている。

命がけの逃亡をするには、女・子供は足手まといになる。ましてこの胡妻は、匈奴の単于のはからいで与えられた現地妻である。普通ならそんな女性など、捨てて逃げ帰るところだ。しかし張騫はそのように切迫した時にも、胡妻をつれて漢に帰国した。この優しい張騫の人柄に感激するのは私一人ではあるまい。

黄金や銀を得るために原住民に虐待の限りを尽くしたコロンブスなら、このような行動はとらなかったと思う。コロンブスに比べ、張騫がはるかに上等の人間だと思う理由はここにある。


ところで、二人の間に生まれた子供はどうしたのであろうか?

司馬遷が書き忘れただけで、一緒に漢に連れて帰ったのであろうか?それとも、張騫と胡妻の二人が考えぬいたすえ、逃亡時の危険を避けるため、胡妻の両親に子供たちを預けたのであろうか?2000年以上昔のことながら、なんだか気にかかる。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供


2023年4月9日日曜日

張騫とシルクロード(6)

 シルクロードのものがたり(12)

張騫「大月氏国」に向かう(4)

あと二回、「史記・大苑列伝」を続けさせていただく。

「大月氏は王が匈奴に殺されたので、その太子を立てて王にしていた。そして、このときは、新しい王は大夏国(現在のアフガニスタン北部)を臣従させて、その地に居住していた。地味は肥沃で侵攻してくる者はほとんどなく、安楽に日を送っていた。そして、漢とは遠く離れているので、漢と同盟して匈奴に報復しようという心がなかった。騫は月氏国から大夏に行ったが、ついに月氏の同意を得ることができず、1年余り逗留して帰途についた。南山(なんざん)に沿い、羌族(きょうぞく)の地を通って帰ろうとしたが、ふたたび匈奴に捕らえられた」

漢の武帝にすれば、「月氏王は匈奴に殺され、匈奴はその頭蓋骨を酒器にして酒盛りをしている」と聞いていたので、月氏の新王はきっと仇き討ちしたいはずだ、と考えていた。

しかし、ウズベキスタン南西部からアフガニスタン北部の、気候の良い豊饒な地で平和に暮らしている月氏の新王が、これに応じなかったことは現在の我々にも理解できる。短い年月でこの地域を支配下に置いたという事実は、月氏の新王は軍人・政治家としてよほど優れた能力を持っていたのであろう。

張騫の熱意ある雄弁をもってしても、月氏の新王は首を縦にはふらなかった。

「騫は月氏国から大夏に行った」というから、現在のウズベキスタン、トルクメニスタンを経由してアフガニスタンの北部まで行ったことになる。


「南山(なんざん)に沿い羌族(きょうぞく)の地を通って帰ろうとした」の部分が、どのようなルートか、私にはわかりにくい。「南山」と表記する山は、古代中国の本を読むとあちこちに見える。ただ、「羌族の地」という記述と、北アフガニスタンから長安に帰るルートを中央アジアの地図を眺めながら想像すると、張騫は「チベットの北部、すなわち崑崙(こんろん)山脈の南を東進したのではあるまいか」と考える。

「1年あまり逗留して」の記述から、月氏の新王は漢と同盟して匈奴を討つ話には同意しなかったものの、漢の外交官である張騫に対しては、敬意を表して彼を優遇したように思える。

ところがふたたび匈奴に捕らえられる。

このルートには匈奴人は住んではいなかったが、「羌族」というのが匈奴に敗北した後、匈奴の子分(属国)のような存在で、匈奴の見張り役的な存在であったからだ。

林檎とハチミツ売り・サマルカンド 提供辻道雄氏





2023年3月26日日曜日

張騫とシルクロード(5)

 シルクロードのものがたり(11)

張騫「大月氏国」に向かう(3)

「史記・大苑列伝」を続ける。

「ところで、大苑(カザフスタン南部)の王は漢が物産豊かであると聞いて、交易したいと思っていた。そこで、騫を見ると、喜んで問うた。”そなたは、どこへ行きたいのか”

”漢のために月氏に使いしようと思ったのですが、匈奴に道を閉ざされてしまい、逃亡してきたのです。どうか王様、案内者に命じてわたしを送らせてください。わたしが月氏に到着して漢に帰ることができたら、漢は王様にたくさんの財物を贈ることでしょう”

大苑の王は、そのとおりだと思って、案内者と通訳とをつけて騫をおくり、一行は康居国(こうきょ・キルギス)についた。康居国では、中継ぎして大月氏国(現在のウズベキスタン・サマルカンドからプハラあたり)にとどけた」

匈奴の地のどのあたりに拘留されていたのかわからないが、ゴビ砂漠の西側あたりに10年間いたと仮定して、その行進のルートを次のように推測する。

アルタイ山脈の南を、西に向かって下僕の甘父と二人で馬に乗って進んだのであろう。すなわち、現在のウルムチあたりを通過して、天山山脈の北側を通って現在のカザフスタンの東側にたどりついた。いわゆる「天山北路」というルートである。その後、カザフスタン南部・キルギス北部あたりを通過して、現在のサマルカンド・プハラあたりにあった「大月氏国」に到着したと考える。


中学生の私は「月氏(げっし)」という漢字名から、中国人や日本人のような顔をしたモンゴロイドを想像していた。今回調べてみて、「月氏」はイラン系の民族だと知った。もともとはタリム盆地東部(ハミ、トルファン)あたりに住んでいたのだが、匈奴の攻撃を受けていったんは西方のイリ盆地(天山山脈の北東部)あたりに逃げた。その後トルコ系の烏孫(うそん)がイリ盆地に進出してきたので、月氏は再度移動して、現在のサマルカンド・プハラあたりに落ち着いた。この国を「大月氏国」と呼ぶ、と認識している。

ウズベキスタンの西瓜 辻道雄氏提供




2023年3月19日日曜日

張騫とシルクロード(4)

 シルクロードのものがたり(10)

張騫「大月氏国」に向かう(2)

司馬遷の「史記・大苑列伝」を続ける。

「単于は張騫を拘留して言った。” 月氏はわが北方にある。漢はどうして使者を往復させることができようか。考えてもごらん。わしが越(漢の南方の地)に使者を送ろうと思ったら、漢はあえて許すか。それと同じことだろう” 

かくして、騫をとどめること10余年、妻をあたえ、子もできた。しかし、騫は漢の使者の節(しるし)を身につけていて失わなかった。匈奴人のなかに居住していて、取り締まりがますます寛大になったので、騫はそのともがらとともに逃亡して、月氏に向かい、西に走ること数十日で大苑(カザフスタン南部)にいたった」

匈奴の単于の対応は、なんとなくユーモラスでおおらかだ。先述の李陵は蘇武に対する対応も、同じような寛大さを感じる。「漢人の良質人材を優遇して自国の発展に使いたい」との考えがあったように感じる。捕虜として虐待しないで、むしろヘッドハントした人材として優遇していたようである。

蘇武の羊飼い19年もたいしたものだが、張騫の10余年、漢の使者の節(しるし)をを身につけてその志を失わなかった事にも感激する。

司馬遷の生年については諸説ある。もっとも古いBC145年説を採ると、彼が5歳のとき、張騫は大月氏国への使者として長安を出発したことのなる。張騫の遠征は漢帝国にとって、国威をかけた大イベントであったと思える。

司馬遷はその時は当然知らなかったが、張騫が10年の拘留ののち匈奴陣営を脱出して再度大月氏国に向かったのは、司馬遷が15歳の時となる。

司馬遷の家系は(どこまで本当かわからないが)、堯・舜の時代から歴史・天文をつかさどる一族といわれる。父親の司馬談が、「張騫はどうなったのか?生きているのか?殺されたのか?」と心配顔で人に語る姿を、少年の頃に何度も見ていたに違いない。

このように想像してみると、後日、司馬遷は張騫から直接聞き取り調査をして、「史記・大苑列伝」を書いたと考えるのが自然である。

干上がったアラル海 
張騫が通過した頃は、満々たる湖であったに違いない
辻道雄氏提供






2023年3月12日日曜日

張騫とシルクロード(3)

 シルクロードのものがたり(9)

張騫、大月氏国に向かう(1)

司馬遷の「史記・大苑列伝」は言う。

「大苑(だいえん・天山山脈の北西部にあたるカザフスタン南部・キルギス北部あたり)の事跡は、張騫が西方に使いしてから明らかになった。当時、天子が匈奴の投降者に問うと、みな言った。 ”匈奴の単于(ぜんう)は月氏(げっし)の王をやぶり、その頭骨で飲酒の器をつくりました。月氏は遁走し、つねに恨んで匈奴を仇(かたき)視しております”

時あたかも漢は匈奴を撃滅しようと考えていたので、これを聞いて月氏に使者を送ろうとした。月氏への道はどうしても匈奴領内を通過しなければならなかった。そこで、よく使者となりうるものを募集した。騫(けん)は郎官の身分で募集に応じ、月氏に使いすることになった。

堂邑県(どうゆうけん・現在の江蘇省)出身の、もとの奴僕であった匈奴人の甘父(かんほ)とともに、隴西(ろうせい・現在の甘粛省)を出て匈奴領を通過した。匈奴はこれを捕らえて単于のもとに送った」


漢の武帝が16歳で即位したのはBC140年で、張騫が100人余を率いて長安の都を出発したのはその翌年である。張騫の年齢はハッキリとはわからないが、20代の近衛将校だったと想像する。冒険心に富んだ若者だったのであろう。

漢の初代の皇帝・劉邦が即位したのはBC202年だから、その63年後である。劉邦が即位したころの匈奴の王は冒頓単于(ぼくとつぜんう)という指導力のある大物で、匈奴の軍事力はすこぶる強大だった。劉邦は何度も匈奴と戦っているが、ことごとく敗戦している。「当時の漢は、項羽と攻防を展開し、中国は戦争で国力が衰退していた。それ故に、冒頓は自国の軍事力を強化することができた」と司馬遷は「匈奴列伝」に、その理由を冷静に分析して記述している。

以来60年間、漢は匈奴と条約をむすび、「穀物や絹など、匈奴の欲しいものを毎年与えるから攻め込まないでくれ」と匈奴に対して下手に出て、ひたすら自国の経済力と軍事力の強化に励んだ。5代目の皇帝・武帝が若くして即位すると同時に、漢帝国は北へ西へと、一気に勢力拡大路線に打って出たのである。


私が「月氏」、「大月氏」という言葉をはじめて聞いたのは、中学か高校の授業だった。「中国の西にある国だ」と社会の先生は説明してくれたが、どんな顔をした人々で、どのあたりに住んでいるのかわからず、雲のかなたのおとぎの国、のような印象を持った記憶がある。先生も深く理解していなかったような気がする。それから数十年。大月氏国がどこにあったかやっとわかった。自分にとって大発見で昂奮している。

さてその前に、張騫はどのあたりで匈奴の軍団に捕まったのか? 私の認識では、今日の中国の領土である「玉門」、「安西」、「敦煌」あたりの気がする。

800年後の盛唐の頃には、このあたり一帯は唐の支配の最西端にあたる。王維や李白の詩の中に、これらの地名は頻繁に出てくる。しかし漢の時代には、このあたりは中国の支配下に入っていなかった。

南ゴビ砂漠 辻道雄氏提供



2023年3月6日月曜日

張騫とシルクロード(2)


 シルクロードのものがたり(8)

張騫の活躍については、できるだけ司馬遷の「史記・大苑(だいえん)列伝」から直接引用して紹介したい。ただ、これをまとめるにあたり、長澤和俊先生の著書「張騫とシルクロード」をずいぶん参考にさせていただいた。

私は学生時代から「史記列伝」が好きで、おもだった人物の列伝はだいたい読んでいる。大好きな「屈原」、「魯仲連」、「東陵侯召平」、「季布」の箇所は、ノートに写して大声で読んでいた時期があるので、これらの人々は今でも身近な「お友達」のような気がする。

このように、「史記列伝」をある程度読んでいると思っていたのだが、張騫については見落としていた。現代の学者や作家の本を読んでいて、いくつかの箇所に「司馬遷の史記列伝によれば」と張騫のことを紹介している。「見落としていたのかな?」と手元にある「史記列伝」・野口定男訳を、改めてひも解いてみた。やはり見落としていた。

「大苑(だいえん)列伝」の8割が張騫の伝記であることを最近になって知った。大苑というのは地名なので見落としていたのだ。

考えてみれば張騫は司馬遷より20-30歳年長で、漢帝国の英雄であった。武帝が張騫に与えた「博望公(はくぼうこう)」という称号は、現在の日本でいえば国民栄誉賞くらいの価値があったかと思う。後世、中国から外国に使いする者は皆、この「博望公」を名乗ったというから、当時の中国における張騫の名声がうかがい知れる。

司馬遷は、自分は張騫に会ったとは史記の中では語っていない。しかし、漢帝国のお抱え歴史家の家系に生まれた者として、司馬遷は張騫に直接面談して取材して、この「大苑列伝」を書いたに違いあるまい、と私は想像している。


「史記」や「漢書」を読んでいて閉口するのは、西域の国々の名前が数多く漢字で登場することである。鳥孫・大苑・康居・大夏・安息・身毒などなど、ほかにも数多く漢字の国名が登場するのでわかりにくい。身毒以外のこれらの国々には遊牧民族が多いので、一か所に定住せず移動しながら生活している。なおかつ、数十年程度で、これらの国の勢力が拡大したり縮小したりしているので、始末が悪い。

ここでは「だいたいの場所」として現在の国名でご紹介したい。専門家の方から見れば、私の認識は少々雑かもしれない。もし誤りがあればご指摘いただきたい。

おおざっぱに、私は次のように理解している。「大苑」とは天山山脈の北から西にあたる。カザフスタン南部・キルギスあたり。「康居」とは現在のタシケントあたり。「大夏」とはアフガニスタン。「安息」とはイラン北部。「身毒」とはインドである。張騫は大夏(アフガニスタン)で聞いた話として、「条枝」についても武帝に報告している。これは現在のシリア・レバノンあたりにあった国のようだ。その北西には「ローマ」という国があることまで報告している。

司馬遷の「史記大苑列伝」を丁寧に読んでいて、それぞれの国々に関する位置関係を含めてその情報がとても正確なことに驚く。張騫の武帝への報告が正確だったこともあろうが、司馬遷が張騫から直接聞き取り調査したのは間違いないと思っている。

次回から、司馬遷の書いたものを直接引用しながら、張騫の歩いたシルクロードのルートを探ってみたい。


ウズベキスタンの西瓜とハミ瓜 辻道雄氏提供









2023年2月10日金曜日

「香月経五郎と三郎の美学」 出版のお知らせ

 推敲にもたもたと時間がかかっていましたが、一昨日、最終原稿を長野県諏訪市にある出版社・鳥影社に送りしました。


題名:香月経五郎と三郎の美学ー副島種臣・江藤新平の憂国の志を継ぐー

出版社:鳥影社(長野県諏訪市)

筆者:田頭信博

出版予定日:令和5年3月13日


一昨日、最終原稿をお送りしたのですが、

すぐに出版社から、「Amazonなどで、もう予約受付が出来ますから」と連絡がありました。スピーディーでありがたい話です。「たいして売れない本だと思うから、しっかり宣伝してくださいよ」との意味と理解しました。

この題名で今、インターネット検索しましたら、

Amazon、honto、Rakutenブックス、紀伊国屋書店 などで購入できるようです。紀伊国屋書店の中でも、「東京大手町の紀伊国屋書店」と「佐賀市の紀伊国屋書店」に注文していただければ、鳥影社から手配します、とのことです。

「本の画像が写ってないのでインパクトが少ないかも?」と言いましたら、「近いうちに各販売ルートに画像を載せます」とのご返事でした。

ヘッドハンティングの話はどこにも出ていないので、このコーナーで宣伝するのは恥ずかしいのですが、歴史好きの方に読んでいただければ思い、ご案内させていただきます。

本がまだ出来上がっていないので、下記の写真は、出版社から見本としていただいた表紙の写真です。


(目次より)

1、香月経五郎略伝

2、佐賀・弘道館と長崎・致遠館

3、明治二年五月、岩倉・鍋島連立政権

4、大学南校・江藤新平宅に寄宿

5、幕末の日本人はすべて「攘夷派」だった

6、アメリカへの旅立ち

7、岩倉使節団・鍋島直大と久米邦武

8、イギリスに向け大西洋を渡る

9、経五郎の帰国

10、「征韓論」と香月経五郎

11、佐賀の乱をどう呼ぶべきか

12、経五郎、江藤と共に佐賀に向かう

13、弟・香月三郎






2023年2月6日月曜日

張騫(ちょうけん)とシルクロード(1)

 シルクロードのものがたり(7)

張騫に「アジアのコロンブス」という名を付けたのは19世紀の欧州の学者らしいが、私としては面白くない。そもそもが、大航海時代以降、ヨーロッパ人はそれ以外の地域の人々に対して「上から目線」の態度がある。この風潮は現在でも続いているような気がする。アジア人の一人として、それがなんとも不愉快である。

欧米人にとって、コロンブスはアメリカ大陸を発見した英雄らしいが、黄金を得るためにアメリカインディアンを大虐殺したことを知っている日本人の私は、コロンブスをそれほど立派な人とは思っていない。いや、けしからん男だと思っている。


19世紀以降、スエーデンの探検家・ヘディンや、ハンガリー出身でイギリスの考古学者・スタインなどが、タクラマカン砂漠を含む西アジア探検のきっかけをつくった。この中央アジア探検ブームに、20世紀にはいると我々日本人も乗り出した。1902年から14年にかけて(明治35-大正3)三次にわたって、浄土真宗西本願寺派第二十二代法主・大谷光瑞(25歳)が隊長をつとめた大谷探検隊である。

じつは、我々日本人が憧れを感じている「シルクロード」という言葉の歴史は極めて短い。

ドイツの地理学者・リヒトホーフェンが1867-1872年にかけて中国大陸を調査して「シナ」という本を出版した。その中に、「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」という言葉をはじめて使った。このドイツ語が英語に訳されて「シルクロード」となったわけで、この言葉の歴史は150年に満たない。

これらヨーロッパの探検家たちが、この地域を探検して、また司馬遷の「史記・大苑伝」を読んで、「2000年前に張騫とかいう、とんでもない大冒険家がいたぞ」と驚いて「アジアのコロンブス」という有難くもない名前の付けたのであろう。「新しい交通ルートを発見した英雄」との気持ちであろうが、張騫を尊敬している私としては、余計なことをしやがって、、、という気持ちである。

この張騫という人はただならぬ豪傑である。勇気と智謀だけでなく、人情味があり、誰からも好かれた。人間としてはコロンブスよりよほど上質の人である。

「シルクロードのものがたり」は、桃李成蹊の李広将軍から始めた。よって、その孫の李陵、友人の司馬遷、蘇武と続けたのだが、歴史の流れの順番からすれば、李広将軍の次にこの張騫を書くのが順番としては正しかった。

張騫の生年は不明、とあるが、細かく推測することにはあまり意味がないと思う。だいたいのイメージとして、この張騫は李陵や司馬遷の父親と同じ世代の人と考えて良い。李広将軍が衛青(えいせい)大将軍に従って匈奴征伐に出陣して道に迷って、責任を取って自ら首を刎ねた話は先に述べた。

この時、同じく道に迷い合戦の期日に遅れて、斬罪を言い渡されたのがこの張騫である。この斬罪の刑というのは、いきなり首を刎ねるものではないらしい。自分の財産をすべて朝廷に差し出し、官位はく奪の上庶民への格下げを甘んじることによって、命は助かるケースが多かった。張騫は李広と異なり、この道を選び命をつないでいる。

李広はこの時「自分は六十を過ぎた」と言っているが、張騫はこの時四十前後だったと思われる。李広と同じ規模の軍団を率いているので、この張騫もまた陸軍中将クラスの軍人であったと思われる。

ウズベキスタンのざくろ 辻道雄氏提供



2023年1月30日月曜日

中島敦のこと



 シルクロードのものがたり(6)

前回の「李陵と蘇武」をまとめるにあたり、中島敦の「李陵」を参考にさせてもらった。「山月記」・「弟子」・「名人伝」を今回改めてじっくり読んで、その簡潔で美しい文章に感服した。中島敦は明治42年(1909)に生まれ、昭和17年(1942)に33歳で没している。

彼の作品の中に、「和歌(うた)でない歌」という55編の作品がある。中島の読んだ古今東西の古典の内容と自身の気持ちを重ねた感じの、「超短い読書感想文」 のようなおもむきのものである。これを読んで感激してしまった。

29歳の時に書いたもののようであるが、これだけの古典を読破し、それを自分の血と肉として、古の賢人と一体になった、その境地に憧れの気持ちを強く持った。いくつかをここで紹介したい。

文豪・中島敦と張り合おうとの気持ちはみじんもないのだが、これを読んで、「いたずらに馬齢を重ね」という日本語が、自分に向かって迫ってくるのを強く感じる。


〇ある時はヘーゲルの如(ごと) 万有をわが体系に統(す)べんともせし

〇ある時はアミエルが如 つつましく息をひそめて生きんと思ひし

〇ある時は若きジイドと 諸共(もろとも)に生命に充ちて野をさまよひぬ

〇ある時は淵明(えんめい)が如 疑わず かの天命を信ぜんとせし

〇ある時は観念(イデア)の中に 永遠を見んと願ひぬプラトンのごと

〇ある時は李白の如 酔ひ酔ひて歌ひて世をば終らむと思ふ

〇ある時は王維をまねび 寂(じゃく)として幽葟(ゆうおう)の裏(うち)にあらなむ

〇ある時は阮籍(げんせき)が如 白眼に人を睨(にら)みて琴を弾ぜむ

〇ある時はフロイトに行き もろ人の怪しき心理(こころ)さぐらむとする

〇ある時はバイロンが如 人の世の掟(おきて)踏みにじり呵々(かか)と笑はむ

〇ある時はパスカルの如 心いため弱き蘆(あし)をば賛(ほ)め憐れみき

〇ある時は老子の如 この世の玄(げん)のまた玄空(むな)しと見つる

〇ある時はストアの如 わが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか

〇ある時はバルザックの如 コーヒーを飲みて猛然と書きたき心

〇ある時は西行が如 家をすて道を求めてさすらはむ心

〇ある時は心咎めつつ 我が中のイエスを逐(お)ひぬピラトの如く

〇ある時は安逸(あんいつ)の中ゆ 仰ぎ見るカントの「善」の巌(いつ)くしかりき

〇ある時は整然として澄(す)みとほるスピノザに来て眼をみはりしか

〇ある時は山賊多き コルシカの山をメリメとへめぐる心地

〇ある時はツァラツストラと山に行き 眼(まなこ)鋭るどの鷲(わし)と遊びき

〇遍歴(へめぐ)りていつ”くに行くかわが魂(たま)ぞ はやも三十に近しといふを





2023年1月23日月曜日

李陵と蘇武(2)

 シルクロードのものがたり(5)

蘇武が漢へ帰国する6年前、武帝が崩御するとまもなく、漢の上層部で李陵を帰国させようとの作戦が練られた。わずか8歳の皇太子が即位するや、遺詔(いしょう)により霍光(かくこう)が大司馬大将軍として新帝を補佐した。この人は李陵の友人である。

ナンバー2の左将軍となった上官桀(じょうかんけつ)もまた李陵の親友であった。二人のあいだで、なんとかして李陵を呼び戻そうとの相談が出来上がった。

武帝の崩御をきっかけとして、漢と匈奴の双方に和平の気運が高まり、「友好関係を結ぶための和平の使節派遣」が決まったのだ。霍光と上官桀は、その使節に李陵の若いころからの親友たちを選んだ。任立政(じんりつせい)を首席とする三人である。

このとき、陵と親しかった左賢王が匈奴の単于の座にあった。孤鹿姑単于(ころくごぜんう)という。単于の前で使者の表向きの用事が済むと、次に盛んな酒宴が始まる。

当時、李陵はこの地で賓客として遇されていた。李陵の友人が使節としてきたので、単于の好意で李陵もその宴席に連なった。親友の任立政は陵と目が合ったが、匈奴の大官がいならぶ前であからさまに漢に帰るれとは言えない。

公式の宴が終わったあと、二次会として李陵と少数の陵の側近が漢使をもてなした。これも李陵を信頼している単于の配慮であった。その席で、使節筆頭の任立政は、漢への帰国を熱心に李陵に説いた。しかし、「帰るのは易い。だが、丈夫再び辱めらるる能わず」と言って、陵は頭を横にふった。

それから五年が経った。

先述したように、蘇武は19年目にしてバイカル湖近くの掘っ建て小屋から単于の前に呼び出されて、漢に帰国するよう告げられた。別れに臨んで李陵は、友・蘇武のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。

李陵は杯をあげて、次のように慶賀の辞を述べた。

「いま蘇武どのは晴れて帰国の途につかれる。名声はここ匈奴の地でも響き、功績は漢室にあっても光り輝くことでしょう」 そして続けた。

「わたし陵は、意気地のないものではありますが、漢がしばし大目に見てくださり、老いた母親や妻子を生かして、私に屈辱を晴らす機会を与えてくださったなら、自分は単于に単身でもいどもうと考えていました。しかし私の一家は収監の上誅殺されました。これ以上ないはずかしめを受けました。私にとってはもはやこれまで、万事終わりと言わなければなりません。もはや二人は別世界に住む人間です。これで永遠の別れです。さらばです」

その後、二人は黙って酒を飲んだ。宴たけなわにして、李陵は立ち上がり、舞い、かつ歌った。

「万里を経て 沙漠を渡る  君が将と為りて 匈奴を奮(ふる)わす

路(みち)は窮絶(きわま)り 矢刃(しじん)摧(くだ)かる

士衆 滅びて 名はすでに隤(お)つ

老母 已(すで)に死して 恩に報いんと欲すると雖(いえど)も 将(まさ)にいずくにか帰せん」

この詩は「漢書・蘇武伝」に載せられている。


蘇武が漢に帰国したのは始元六年(BC81)夏、59歳ぐらいであったと思える。この人は長寿を保ち80歳ぐらいまで生きた。

司馬遷は、蘇武の帰国の6年前に「史記」を完成させ、その翌年、おそらく58歳ぐらいで没した。

李陵は蘇武と別れて7年後、63歳前後でバイカル湖の南の地で没した。


今から20年ほど前だったと思う。日経新聞の文化欄で次のような記事を読んだ。記憶だけが頼りなので、多少の間違いがあるかも知れない。

「バイカル湖の南、モンゴルとの国境に近いロシアの領内で、石と木材で造られた中国式の住居跡が発見された。内容は判明しないが、発掘された木簡や竹簡に漢字が書かれている。これは匈奴の地で没した、漢の将軍・李陵の屋敷跡ではあるまいか、とロシアと中国の専門家たちは語っている」

ゴビ砂漠 辻道雄氏提供