2020年11月30日月曜日

天皇は決意する・昭和20年6月22日

 昭和天皇と鈴木貫太郎(1)

昭和天皇が、「戦争の終結をはかりたい」と自分の考えをおおやけにされたのは、昭和20年6月22日のことである。

この日、皇居において最高戦争指導会議が行われた。会議が終わった後、天皇は6名の構成員に内大臣を加えた7名に対して、「これは命令ではなくあくまで懇談であるが」と前置きして次のように述べられた。

7名とは、総理・鈴木貫太郎、外相・東郷茂徳、陸相・阿南惟幾、海相・米内光政、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・豊田副武、内大臣・木戸幸一である。

「去る6月8日の会議で戦争指導の大網は決まった。本土決戦について万全の準備をととのえることはもちろんであるが、他面、戦争の終結について、このさい、従来の概念にとらわれることなく、すみやかに具体的な研究をとげ、これの実現に努力するよう希望する」

この天皇のお言葉を奇貨とした鈴木貫太郎は、慎重ながらも敏速に、終戦への道をまっしぐらにひた走るのである。

79歳の老提督・鈴木貫太郎が4月7日に宰相の印綬を帯びてから、終戦に至るまでの四ヶ月間の政治・軍事・外交の流れを見つめてみたい。日本という国家・国民にとって極めて重要な四ヶ月間だと思うからである。史実に即して書くつもりだが、やむを得ず、事実を背景とした想像で筆をすすめる部分もあるやも知れない。前半では日本側の動き、後半ではアメリカ側の動きを検証していく。後半では、ポツダム宣言と原爆に視点を当てたい。


鈴木大将大命拝受の現場に、ただ一人立ち会った侍従長の藤田尚徳(海軍大将)は、戦後、次のように語っている。

木戸内大臣は、後継首相候補者として「鈴木枢密院議長しかるべし」と奏上されて、鈴木閣下をお召しになりました。4月5日の夜でありました。陛下はご学問所にお出になり、小生一人のみ侍立しておりました。陛下は「卿に組閣を命ずる」と玉音朗らかに仰せられました。この時、鈴木さん(このほうが親しみを感ずる故この呼び方でお許しを願う・注・藤田大将は鈴木大将の海軍兵学校の15期後輩)は、あの丸い背を一層丸くして、深く叩頭して謹んでお答えをせられました。

「聖旨まことに畏多く承りました。ただこのことはなにとぞ拝辞のお許しをお願いいたしたく存じます。鈴木は一介の武臣、従来政界に何の交渉もなく、また何等の政見も持っておりません。鈴木は、軍人は政治に関与せざるのことの、明治天皇の聖論をそのまま奉じて、今日までのモットーとして参りました。聖旨に背き奉ることの畏多きは深く自覚いたしますが、なにとぞこの一事は拝辞のお許しを願い奉ります」

真に心の底から血を吐くの思いであられたと思います。

陛下は莞爾として仰せられました。

「鈴木がそう言うであろうことは、私も想像していた。鈴木の心境はよくわかる。しかし、この国家危存の重大時機に際して、もうほかに人はいない。頼むからどうか曲げて承知してもらいたい」

鈴木さんは深く深くうなだれて、「とくと考えさせて戴きます」として退下せられました。私はただ一人侍立して、この君臣の打てば響くような真の心の触れ合った場面を拝見して、人間として最大の感激に打たれました。

(後記)このことを筆にすべきや否や、は大いに考えました。しかし、これは他の何人にも迷惑を及ぼす性質のものではないし、また今にしてこれを伝えておかなければ、永久に煙滅すべきことと思い、あえて筆にいたしました。


鳥居民(とりい・たみ)という在野の昭和史研究家がおられた。平成25年に84歳で急逝された。私はふとしたご縁で、晩年の鳥居先生に大変可愛がっていただき、ご指導を受けた。この「昭和天皇と鈴木貫太郎」の中には、先生から直接お聞きしたこと、先生の著書から引用させていただいた箇所がいくつもある。そのことをお断わりしておきたい。

毎年この季節、11月か12月になると鳥居先生から「カラスミ」を送っていただいていた。「台湾の友人が毎年送ってくれるんだよ。酒の肴になさい。田頭君がつくっている大根を薄く切ってカラスミをはさむと旨いよ」とおっしゃっていた。鳥居先生のことを思い出しながらこの作文を書いている。













2020年11月23日月曜日

りんごの話(2)

 りんごの原産地はコーカサス地方だ、といわれてきた。黒海とカスピ海に挟まれた西アジアの高原地帯だ。近頃になって、タクラマカン砂漠北の天山山脈の南ではないか、という新説も出てきた。いずれにしても、その原産地は西アジアの冷涼地帯である。

おそらく数千年以上も前、りんごのご先祖さまは西と東に向かって旅を開始した。馬かラクダの背に乗って移動したのであろう。

西に向かったりんごは大きくなった。古代ギリシャ・ローマ人は果物の王様、として珍重した。スイスのウイリアム・テルが息子の頭の上に林檎を載せて矢を射ったのは、1307年の話だ。フランスでもドイツでもりんごは大切な果物として愛される。葡萄が栽培できなかったイングランドやスコットランドでは、果物としてだけでなくりんご酒の原料として珍重される。そして、新大陸の発見と共に、りんごは船に乗って北米大陸に渡る。

かたや、東に向かったりんごは小さくなった。中国人はこの果実を林檎と呼んだ。そして船に乗って日本に渡ってきたりんごはさらに小さくなった。日本では観賞用として愛でられた。平安時代の人はこれを林檎と呼んでいる。かならずしも観賞用だけではなかったらしい。小さくてすっぱいけど、どうも身体に良いものらしいと食用にしていた人もいたらしい。室町時代の女官の日記に、「りんこ一折もらった」という記述がある。もしかしたらこの女官の子供も、私のようにりんごのおかげで助かったのかも知れない。ただ、日本においては柿・桃・蜜柑のような、一般的な果物としては普及しなかったみたいだ。


さて、なぜ苹果が林檎に代わったのかという話にもどる。

明治18年の内閣制度への移行、明治23年の大日本帝国憲法と教育勅語の発布、明治27年の日清戦争あたりにその理由があるのではないかと、私は考えている。

庶民は昔から天皇のことを、「天子さま」・「みかど」・「おかみ」などと呼んできた。「天皇陛下(てんのうへいか)」という言葉を日本人が使い始めたのは、上記の出来事の明治10年代の後半から20年代の後半にかけてである。

「今年のヘイカは出来が悪いな」、「ヘイカの値段が下がってきたよ」、「このヘイカは旨くないな」などの庶民の会話に警察官が注意したのかも知れない。いや、それよりも、多くの日本人がこの「ヘイカ」という言葉に、違和感を持ち始めたのではあるまいか。昔からわが国にある盆栽の小さな「姫林檎」と「苹果」とが同じ種類の植物であることに、この頃になって人々は気が付いたのかも知れない。そして、わずかな時間で、苹果は林檎に代わった。

この絵は、正岡子規が晩年に描いたものである。素人にしてはずいぶん上手だと思う。七月二十四日晴、西洋リンゴ一、日本リンゴ四、とある。子規が34歳で亡くなったのは明治35年の9月である。これを描いたのは明治33年か34年頃ではあるまいか。

島崎藤村の「若菜集」が発刊されたのは明治30年である。この中の「初恋」の詩に、はっきりと「林檎」とうたっている。よって、明治30年ごろには、日本人は苹果という言葉を捨て、林檎という言葉を使っていたことがわかる。この項のおしまいは、この「初恋」の詩で終えたい。


まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に 人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこころなきためいきの その髪の毛にかかるとき

たのしき恋の盃を 君が情けに酌みしかな

林檎畑の樹の下に おのつ”からなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけり








2020年11月16日月曜日

りんごの話

 「のぶちゃんはりんごのおかげで助かったんだよ」と、子供の頃に何度か母に聞かされた。この前も、広島県の実家に帰った時、年老いた母はりんごをむきながら、この昔話をする。

あととり息子が生まれたので、家族や親戚一同が喜んだ。かわいい赤ちゃんで、賢そうな顔をしている。一歳になったころ、祖母が四国の親戚に自慢の赤ちゃんを見せにいった。そこで赤痢にかかったらしい。帰って来たら様子がおかしい。祖父と仲良しだった村の医者に来てもらったが、もう駄目だろうという。

やぶ医者ではない。第三高等学校に学び京都帝大医学部を卒業した、村にはもったいないくらいの名医である。その名医がサジを投げたのだから、本当に危なかったのだろう。

その時母は何を思ったのか、家にあるりんごをすりおろし、その果汁をガーゼにしみこませて赤ちゃんの口にあてた。一歳の私はそれを美味しそうに吸ったらしい。翌日になっても生きている。それ、りんごだ ! と祖母がかなり遠いところの店まで歩いて買いに行った。毎日りんご汁を飲ませていたら、不思議なことに元気になったのだと、母は今でも言う。


こんな話を何度も聞かされていたので、私は若い頃からりんごには、内心畏敬の念を抱いていた。果物屋やスーパーでひと山いくらで並んでいるりんごを見ても、なんだか昔お世話になった方にお会いしたような気持ちになり、少しばかり緊張する。頭を下げたり口に出したりはしないが、「やっ、その節はどうも」といった気持になり、心の中で頭をさげる。

だからといって、特別りんごが好きなわけではない。あれば食べるが、自分で買いに行くほどではない。柿は大好きだ。秋になると実家の富裕柿は丁寧に収穫する。渋柿も採って干し柿にする。しかし、りんご様にはこれほどの恩義があるのだ。もっとりんごを食べなければ、と近頃思っている。


現在我々が食べている大きなりんごは、明治維新のあとアメリカから入ってきた。当時の日本人はこの果実を「アップル」と呼んで珍重した。新政府はこのアップルに注目する。勧業寮や北海道開拓使は、アメリカやカナダから苗木を購入して、冷涼な日本各地に植えさせた。北海道は寒すぎたらしい。岩手県・青森県・長野県などで品質の良いアップルが収穫できた。

いつまでもアップルと呼んでいるのは、日本人の民度が低いような気がする。何か良い言葉はないかと思っていたら、ある人が、清国ではこれを「苹果(へいか)」と呼んでいるという。これを真似することにした。

明治10年代から20年代にかけて、日本人はこの果実を苹果(へいか)と呼び、政府はこの栽培を奨励した。今でも青森県や長野県の旧家の土蔵から、新聞の「苹果栽培のすすめ」の檄文が出てくるそうだ。その文章は、当時の自由民権運動の壮士の演説のように勇ましく憂国調である。

たとえば、明治23年版では、「嗚呼(ああ)、殖産篤志の諸君よ。奮ってこの苹果を栽培せば、ただ一家を利するのみならず、国の富を致すや期して得べきのみ」とある。

本の知識だけでは心配なので、北京大学を卒業された中国人の友人Sさんに聞いてみた。「りんごは中国では苹果といいます。発音は、ping guo です」と教えてくださった。

ところがこの「苹果(へいか)」、明治30年頃から日本人は突然、「林檎(りんご)」と呼ぶようになる。きわめて短期間で、呼び名が変わったのだ。

司馬遼太郎は、「街道をゆく・北のまほろば」の中で、「やがてこの栽培が普及するにつれ、林檎(りんご)という日本語として響きのうつくしい古い言葉がよみがえってきて、それに統一されるようになった」と言っておられる。司馬さんのおっしゃることだから、そうなのであろう。

ただ私は、これ以外に別の理由がある、と考えている。それについては次回で述べたい。






 





2020年11月9日月曜日

開いた窓(2)

 娘はかすかに身震いして、急に話をやめた。その時、伯母さんが、おそくなったことをしきりに詫びながら、せかせかと部屋に入って来たので、フラムトンはほっとした。

「ヴィアラはちゃんとお相手をしておりましたでしょうか」

「大変面白かったですよ」

「窓を開けっぱなしにしていて、お気になさらないで下さいましね」とサプルトン夫人ははきはきと言った。「主人と弟たちが、もうじき猟から戻って来ますのよ。いつもあの窓から入って来ますの。今日は鴫撃ちに沼地までまいりましたから、帰って来たら、絨毯(じゅうたん)が台なしにされてしまいますわ。男の方って、どなたも同じですわね」

サプルトン夫人は楽しそうに、猟のこと、鳥が減ってきたこと、この冬の鴨猟の予想などをべらべらしゃべり続けた。そのどれを聞いても、フラムトンは気味が悪くてならなかった。やっきになって、もっと愉快なことへ話をそらそうとしたが、あまりうまくいかなかった。気がつくと、夫人は客にはろくに目もくれず、フラムトンを通り越して、空いた窓と、その向こうの芝生の方ばかりちらちら見ている。よりによって、そんな悲しい出来事があったあとに来合わせるなんてなんと間が悪いんだろう。

「どの医者も、完全な休養を取って、興奮することをやめ、はげしい運動のようなものは避けるようにと言っています」とフラムトンは言った。赤の他人とか、ふとした知り合いは、人の病気、その原因、治療について、根掘り葉掘り聞きたがるものだ、という妄想が世間に行き渡っているが、フラムトンもそう錯覚していたのである。「それが食事療法のことになると、どの医者もてんでに違うことを言うんですからね」

「あら、そうですか」とフラムトン夫人はあくびをかみ殺して言った。それからしばらくして、ぱっと顔を輝かせ、急に注意深くなった。しかし、それはフラムトンの言葉に対してではなかった。

「ようやく帰って来ましたわ。ちょうどお茶に間に合いますよ。目のあたりまで泥だらけじゃありませんか」

フラムトンはかすかに身震いして、気の毒そうに、よくわかったと言わんばかりに、姪のほうを見た。姪は目に恐怖の色を浮かべ、呆然と窓の外を見ている。フラムトンは言いようのないほどぞっとして、椅子に座ったままくるりと向きを変え、同じ方向を見た。

忍び寄る夕闇の中を、三人の人影が窓に向かって芝生を歩いて来た。三人とも銃をかかえ、一人は白いレインコートを肩にかけている。茶色のスパニエル犬がそのすぐあとから、ぐったりとなってついて来る。一行は音もなく家に近つ¨いた。やがて、夕闇の中から、”バーディ、お前はなぜ跳ねるのだ” を歌う、若々しい、しわがれた声が聞こえて来た。

フラムトンは夢中でステッキと帽子をつかみ、いちもくさんで逃げ出した。玄関の戸も、砂利道も、表門も、ほとんど目に入らなかった。道を走って来た自転車が衝突しそうになり、あわてて生垣に突っ込んだ。

「ただいま」と白いレインコートを肩にかけた男が言った。「だいぶ泥だらけになったが、あらかた乾いちまったよ。今飛び出して行ったのは誰だい」

「変な方ですよ。ナトルさんという方なんですけど。ご自分の病気のことばかりお話になりましてね。あなた方がお帰りになると、挨拶もせずに飛び出して行かれたんです。幽霊にでも会ったみたいですよ」

「きっと犬のせいだと思うわ」と姪がけろっとして言った。「あの人、犬が大嫌いだと言っていたわ。いつか、ガンジス河の岸で野良犬の群れに追いかけられて、墓地の中に逃げ込み、掘ったばかりのお墓の中で一晩過ごしたことがあるんですって。すぐ頭の上で、犬がうなったり、歯をむいたり、泡を吹いたりしてたそうですよ。そんな目にあえば、誰だって臆病になりますわ」

即興の作り話をするのがこの娘は得意であったのだ。

サキ著・河田智雄訳





開いた窓

「伯母はじきに下りてまいります。それまではわたしがお相手させていただきますのでよろしく」と落ち着き払った15歳の娘が言った。

フラムトン・ナトルは、あとから姿を現す伯母さんに失礼にならないように、当たり障りのないことを言って、目の前にいる姪(めい)のご機嫌を適当に取っておこう考えた。心の中では、こんな風に赤の他人の所を次々に儀礼的に訪問などして、精神衰弱の治療にどれほどの効き目があるのだろうかと、今まで以上に危ぶんでいた。

「どうなるかわかってるわよ」フラムトンがこの人里離れた田舎に引き移る準備をしていた時、姉さんが言ったものだ。「そこにすっかり腰を落ち着けて、誰とも口をきかなくなり、ふさぎ込んで、ますます神経が参ってしまうのが落ちよ。いいわ、知り合いの人たちにかたっぱしから紹介状を書いてあげるわ。中にはいい人たちだっていたのよ」

フラムトンは、これから紹介状を差し出そうとしているサプルトン夫人が、そのいい人の部類に入るのだろうか、と考えていた。

「このあたりに、お知り合いは大勢いらっしゃいますの」黙って腹の探り合いをするのはもうこのくらいで十分と判断した上で、姪がたずねた。

「それが一人もいないんですよ。四年ほど前、姉がこの牧師館にご厄介になってたことがありましてね。それで、このへんの方々に紹介状を書いてくれたんですよ」

最後の言葉を口にした時、フラムトンはいかにも迷惑そうだった。

「じゃ、伯母のことは、あまりよくご存じじゃないんですね」と落ち着いた娘はたたみかけて聞いた。

「お名前と住所しか存じません」とフラムトンは言った。サプルトン夫人が亭主持ちなのか、それとも後家さんなのか、それさえもわからなかった。部屋には何となく男っ気がありそうではあったが。

「ちょうど三年前、伯母の身にとても悲しい出来事が起こったのです。それはお姉様がここを引き払われたあとだと思います」

「悲しい出来事ですって」とフラムトンは問い返した。こんな平和な田舎に、悲しい出来事など、何となく場違いのように思われた。

「10月の午後だというのに、なぜあの窓をあけっぱなしにしておくのか不思議にお思いでしょうね」と姪は、芝生に面した、床まで届く大きなフランス窓を指さした。

「今時分にしちゃ、暖かいですからね。でも、あの窓がその悲しい出来事と何か関係があるのですか」

「ちょうど三年前のことです。伯母の連れ合いと伯母の二人の弟があの窓から鉄砲を撃ちに出かけたんです。三人はそれっきり戻って来ませんでした。どこよりも気に入っていた鴫(しぎ)の狩場へ行こうとして荒野を歩いているうちに、沼地に足をとられて、呑み込まれてしまったのです。その年の夏はとても雨が多かったので、いつもの年なら危険のない場所が、何の前ぶれもなく突然くずれてしまったんですね。三人のなきがらはとうとう見つかりませんでした。それだから困ってしまったのです」ここで娘の口調は冷静さを失い、胸が一杯になって、たどたどしくなった。

「かわいそうに、伯母は、三人と、それから一緒にいなくなった茶色のスパニエル犬が、いつかきっと戻って来て、いつもの通り、あの窓から入って来ると、信じているのです。それで、毎晩、真っ暗になるまで、あの窓をあけっぱなしにしておくのです。伯母は、三人が出かけた時の様子をよくわたしに話してくれます。伯父は白いレインコートを腕にかけ、末の弟のロニーは、” バーティ、お前はなぜ跳ねるのだ ” の歌を歌っていたそうです。その歌を聞くと伯母は神経にさわると言って怒るので、弟がいつも面白がって歌っていたのです。今夜のようにおだやかな、静かな晩など、三人そろってあの窓から入って来るような気がして、思わずぞっとすることがあります」






2020年11月2日月曜日

ロビンソン・クルーソー

 今年はコロナ禍があったので、例年よりも読書の時間が増えた気がする。ふと思い立ち、子供の頃に血湧き肉踊らせた「ロビンソン・クルーソー」を購入して読んでみた。


荒れ狂う嵐の中の航海・ただ一人助かり絶海の孤島に上陸する・島を探検して自生のオレンジや葡萄を発見する・自分でパンをつくり舟を作る・スペインの難破船から食糧や酒や火薬を運び出す・フライデーと一緒に野蛮人や英国船員の悪党をやっつける。

子供の頃、この冒険物語を興奮しながら読んだ。大人が読んでも面白い。今回もハラハラドキドキしながらこれを読んだ。ただ今回、自分の記憶になかったことを二つほど発見した。読んだはずなのだが、子供の私には興味なかったので忘れてしまったのだろう。この本の最初と最後の部分である。

最後の記述によると、このロビンソン・クルーソーという人は、結果的に大富豪になっている。28年間も一人で無人島にくらした男がなぜ富豪になったのか?

はじめの頃の航海で、クルーソーはカナリヤ諸島近くで西アフリカのムーア人に捕まり2年間奴隷になる。勇気を出してボートで脱出して運良くポルトガル人の船長に助けられる。この船長が良い人だった。ブラジルに渡った後、船長の助言で貿易に従事してかなりの財産を作る。そのお金でブラジルに農園を買い、4年間農園オーナーとして幸福な生活を送る。そのまま農園主として生活しておれば良かったのだが、またしても冒険の血が騒ぎ船に乗って奴隷を買いに西アフリカに向かう。この航海で難破して28年間の孤島での生活となる。

この間に、ブラジルの農園の生産利益・不動産の価値が巨額の資産にふくれあがっていた。当時の英国の民事の法律は、現在と同じようにキッチリしていたようだ。登記簿・権利証・契約書・委任状などの書類をもとに、自分の財産をキッチリと全額回収している。

お世話になったポルトガル人船長やその息子、他の人々に充分なお礼をしてもなお巨額のお金が残った。それを慈善事業に寄付している。ロビンソン・クルーソーは経済的には成功者であった。このことは子供の時の読書の記憶からまったく忘れていた。

いま一つ、冒頭の記述も忘却していた。経済的に恵まれた家に生まれたこの少年は、幼い時から船乗りになって世界中を旅したいと考えていた。父親は法律家にする考えで、少年を良い環境で学問させる。そのままいけば、どこかの大学に入学して法律を学んでいたはずだ。ところが18歳の時、友人が彼の父の船に乗ってハルからロンドンに行くので一緒に行かないかと声をかけ、クルーソー少年は衝動的にこれに飛びつく。

その1年前、船乗りになって海外を冒険したいという息子に、父は次のように愛情に満ちた忠告をしている。この父親の言葉はじつに含蓄に富む。

「どうしておまえは親の家を飛び出さなければならないのか。自分の生まれ故郷にいて勤勉に努力すれば、安楽な生活が約束されているではないか。海外で一旗あげようとするのはそうする以外に道のない困窮したものか、あるいは野心的な財産家のすることだ。さいわいお前はその中間に置かれている。自分の長い人生経験からして、これが人間の一番幸福な身分なのだ。低い身分の人間のように貧乏に苦しむこともない。高い身分の人につきまとう体面や、驕りや、妬みに悩まされることもない。貧乏も富も共に避けたいと願った賢者がいた。この言葉こそが本当の幸福がどこにあるか教えてくれる」

この父親のありがたい忠告をふりきって、少年は危険な冒険の旅に出る。困難に遭遇するたびに、少年は父の意見のありがたさを思い出す。ところが、困難が目に前を通り過ぎると、少年はけろっとして再び危険な旅に出るのである。

気骨ある若者は親の意見を聞かないものらしい。そして、それはかならずしも悪いことではないのかも知れない、と近頃思う。このような若者の勇気ある冒険心によって、人間の歴史は進歩してきたような気がするからである。


いささか唐突だが、高倉健の「唐獅子牡丹」の歌詞も若者らしくて良い。私はこの歌がとても気に入っている。

親の意見を承知ですねて、曲がりくねった六区の風よ、つもり重ねた不孝の数を、なんと詫びよかおふくろに、背中で泣いてる唐獅子牡丹

おぼろ月でも隅田の水に、昔ながらの濁らぬ光、やがて夜明けの来るそれまでは、意地でささげる夢ひとつ、背中で呼んでる唐獅子牡丹


ヘッドハンターの仕事に従事して30年が過ぎた。2万人以上の方々とお会いした。成功された人には共通した特徴があることに近頃気がついた。それは「好奇心・冒険心・勇気・親切心」である。これがないと、いくら高学歴・高い語学力・頭の良さがあっても、大きくは成功しないのではないかと思う。

無鉄砲に船乗りになる必要はない。背中に入れ墨をして、ドスをふところに殴り込みをかけるのは良くないことだ。ただ、成功を目指す若者には、「好奇心・冒険心・勇気・親切心」がどうしても必要のような気がしてならない。