2019年6月21日金曜日

日本一の外交官・粟田真人(3)

この則天武后の強権命令は事実であったらしい。

ヘッドハンターの仕事を始めて間もないころ、今から27・8年前、中国人の留学生20人ほどと就職相談で会う機会があった。
その中の複数の留学生が、「田頭さん知っていますか?日本と言う国号を決めたのは、唐の則天武后なのですよ」と言った。現在中国ではそう教えているらしい。

日本という国号は我々日本人が決めたもので、中国がそれを認めただけだと思っていた日本男児の私としては面白くない。違和感を感じたので、このことは鮮明に覚えている。

ただ、今になって考えれば、国名とか地名とかはその国が主張しただけでは意味がなく、周辺の国々が認めてくれなければ価値を持たない。
近頃、朝鮮半島にある某国が、世界中が認めている「日本海」のことを「東海」だと言い張って、失笑を買っている。

「日本海」が「東海」なら、半島の西にある「黄海」は「西海」になってしまう。
そうなると中国も面白くないのであろう。この問題に関しては、中国も日本に同調しているように感じられる。それでも、日本人はこのことがなんだか気にかかる。

先日、アメリカのトランプ大統領が、横須賀の護衛艦「かが」の艦上で、「シー・オブ・ジャパン」と言ってくれた。この発言だけで、単純な私などは、「トランプさんて、良い人だな!」と思ってしまう。
国名・地名とはそのようなものなのだ。

現在の世界においては、アメリカ合衆国や国際連合がそれを認めるか否かが重要なポイントとなるが、1300年前の東アジアにおいては、唐の意向が周辺国家にとってすべてであった、と言っても過言ではない。

則天武后のこの命令以降、すべての中国の正史は「日本」と表記するようになり、朝鮮半島・越南などの漢字文化圏の国々も、すぐさまこれに倣った。

中国の正史は、司馬遷の「史記」から中華民国時代に完成した「清史」に至るまで計28あり、その中で我が国の伝を載せる正史は18ある。

則天武后が命令するまでの、「後漢書・三国志・晋書・宋書・南斉書・梁書・南史・北史・隋書」のすべては「倭」、「倭人」、「倭国」と表記している。
これ以降の、「新唐書・宋史・元史・新元史・明史稿・明史・清史稿・清史」のすべては、「日本」、「日本国」で統一されている。

そして、「旧唐書」の前半には、「倭国」と記され、粟田真人の入唐以降は、「日本」と記されている。
「旧唐書」の前半の貞観22年(647)の箇所には、「日本国は倭国の別種なり、、、、、」の記述があり、我が国は、この真人の入唐の50年も前から「倭国と呼ばないで日本国と呼んでください」と唐に対して何度もお願いしていた。

ただ唐側は、「倭国の連中がなまいき言っているよ」と笑って相手にしなかったように思える。
現在の韓国が「東海」と主張して失笑を買っているのと大きくは違わない。

現在でも、中国人が非公式に日本人のことを蔑んで言うとき、「倭」という言葉を使う。
しかし、則天武后以降1300年間、日本嫌いの中国の為政者たちを含めて、中国政府は公式には「日本」と言い続けている。

則天武后の「威令」はすさまじいものであった。













2019年6月20日木曜日

日本一の外交官・粟田真人(2)

粟田真人の生年は不詳、没年は養老3年(719)と年表にある。

77歳の則天武后に拝謁して宴(うたげ)を共にしたとき、真人は何歳だったのであろうか?

生年不詳の人物を、松本清張なみの推理をはたらかせると、この時59歳だった、と考える。もしそうであれば、養老3年に没した時は76歳となる。

そう考える理由は、この人が「白雉4年(653)の第2次遣唐使の時、留学僧として長安に渡った」ことが「日本書紀」に書き残されており、この時10歳、と私は推測する。
「若すぎる」と言わないでほしい。

この時一緒に唐に渡ったのが、中臣鎌足の長男(すなわち不比等の兄)の僧名「定恵・じょうえ」であり、この時10歳である。この人の生年は643年(大化改新の2年前)と記録にあるから、定恵が10歳で入唐したのは間違いない。

この定恵は665年9月、22歳の時、朝鮮半島経由で帰国したが、同年12月大和国で亡くなっている。病気説・暗殺説の両方がある。本来20年間の予定の留学僧が12年で帰国したのは、2年前の「白村江の戦」の敗北にその理由があるような気がする。この時、真人はこの鎌足の長男と一緒に帰国したのではあるまいか。

「日本書紀」には、鎌足の長男が「定恵」とその僧名で記録されているのに対して、真人のことは「春日粟田百済之子」と記されている。粟田真人は百済系の渡来人の子孫、というのは学者の一致した見解である。父親の名前が「粟田百済」というのだから、これは間違いない。

「定恵」のほうは父親が偉い人(中臣鎌足)だから名前が書き残されたとの想像もできるが、真人のことを、「春日粟田百済之子」と表記していることからして、真人は定恵よりもさらに2・3歳年少の7・8歳の少年だった可能性がある。

津田梅子は満6歳で渡米した。

これを考えると、昔から「語学を学ぶには若いほど良い」というのは常識だったのであろう。余談だが、少年僧・真人の僧名は「道観」といい、帰国後に還俗している。当時は便宜的に僧のほうが留学が容易だったようである。

粟田真人が則天武后に拝謁した時の情景は、次のようだったのではあるまいか。

「冠(かんむり)のいただきは花形で、四枚の花びらが四方に垂れていた」と「旧唐書」はいう。花の色彩は赤だったのか、ピンクだったのか?トランプさんの真っ赤なネクタイよりもさらに派手な格好で、粟田真人は則天武后の前に姿をあらわした。

文武天皇からの信任状と国書を手渡すと同時に、あいさつの口上を述べた。

則天武后は、そのハンサムで気品あふれるな風貌と、中国人顔負けの流暢な中国語に魅了された。儀式が終わり宴席に移り、真人は則天と対面する。

則天が発した第一声は、
「あなた、なぜそんなに中国語がお上手なの?」であったかと思う。

「じつは、653年の第2次遣唐使の時、私は幼少ながら学問僧の一人として入唐し、この長安の地で12年間勉強しました」

「あら、そうだったのね。道理で中国語が上手いはずね。私もその時、夫の高宗と一緒にみなさんとの会食の席に参加しました。そういえばあの時、10歳の子供でお国の偉い大臣、そう中臣のなんとか言ったわね、その息子さんがいらしたわね。その隣にちょこんと座っていた可愛い坊やがあなただったのね!」

その時、則天武后28歳であった。

「中国史上最大の権力者」、「英知・残虐性とも超弩級」、「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」ともいわれるこの人には、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。

「則天さまの花も恥じらうほどの美貌には、少年の私も胸をときめかしておりました」
ぐらいのお世辞は、真人なら言ったかと思う。
このような会話から始まり、宴会は大いに盛り上がっていく。

こうしたやりとりの中で、77歳の超実力女帝の胸に、18歳年下の異国の若い男(といっても59歳であるが)に対する「熟年の恋」に似た感情が芽生えたのではあるまいか。

真人をすっかり気に入った則天は、担当の大臣を呼び、「真人さんにはわが国で働いていただきます」と言って、すぐに「司膳卿」という大臣級の辞令を出させた。

並みの外交官なら、「それは困ります。私は任務が終わったら国に帰らねばなりません」と辞退するところだが、そこは大物・粟田真人である。
「ありがたき幸せ」とにっこり笑って、その辞令を受け取ったのだと思う。
事実「旧唐書」にはそう書いてある。

「則天が自分に好意を持ってくれたのは判った。この辞令は受けたほうが良い。そうすれば、今後頻繁に則天に会うことが出来る。帰国のことなど、おいおい改めてお願いすれば良い」と真人は考えた。

のちの阿倍仲麻呂の例もある。もしかしたら、真人はこの「司膳卿」の仕事を半年ほど長安の都でこなしたのかも知れない。

そして10回も20回も、真人は則天と夕食の宴を共にする。
どこかの時点で、真人は則天に対して甘える仕草をしたのかも知れない。

「大宝律令のことで、お国の大臣が細々としたことを聞いてくるので困っています。則天さまのお力でなんとかして頂けないでしょうか?」

彼女はすぐさま宰相と担当大臣を呼びつける。

「立派な律令ではありませんか。真人さんがこれだけ丁寧に説明しておられるのですよ。これ以上重箱の隅をつつくような事をして真人さんをいじめると、私は許しませんからね!」と一喝する。

同時に、
「今日以降、倭国と呼ぶことは許しません。真人さんがこれだけ懇願されているのです。このまま倭国という言い方を続けていたのでは、お国に帰られたあと真人さんの面子がつぶれます。
私は皇帝の権限で、今日以降、同国のことを日本国と呼ぶことに決定します」
と一方的に命令を下した。
























日本一の外交官・粟田真人

日本史上最高の外交官は誰かと問われたら、粟田真人(あわたのまひと)だと答える。
陸奥宗光・小村寿太郎・広田弘毅の3人が束になっても、粟田真人一人に勝てない気がする。

その理由はあとで述べるが、まず「続日本紀」に出てくる粟田真人の箇所を紹介したい。

文武天皇の慶雲元年(704)の記述に次のようにある。

秋七月一日、正四位下の粟田朝臣真人が唐から大宰府に帰った。
初め唐に着いた時、人がやってきて、「何処からの使人か」と尋ねた。そこで、「日本国からの使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて、「以前は大唐であったのに、いま大周という国名にどうして変わったのか」というと、「永淳二年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后・則天武后)が即位し、称号を神聖皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。

問答がほぼ終わって、唐人側の使者が言うには、
「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭(やまと)国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今、使者をみると、身じまいも大へん清らかである。
本当に聞いていた通りである」と。言い終わって唐人は去った。


これは粟田真人が朝廷に報告した通りを、記録官が書いたものである。
真人の自画自賛もあるやも?と当初考えたのだが、「旧唐書(くとうじょ)」の「列伝・倭国・日本」の項に次のようにあり、これが真実であることを知った。


長安三年(703)、その大臣の朝臣真人、来たりて方物を貢す。
朝臣真人は、猶(なお)中国の戸部尚書(こぶしょうしょ・民部の長官)のごとく、冠は徳冠(とくかん・最も勝れた徳の者に与えられる冠)に進み、その頂は花をなし、分かれて四散し、身の服は紫袍(しほう・紫色の上着)、帛(きぬ)を以て腰帯をなす。
真人は経史(けいし・経書と歴史書)を読むを好み、文を属(つつ゛)るを解し、容止(ようし・身のこなし、ふるまい)は温雅(おんが・おだやかで奥ゆかしい)なり。
則天(則天武后)は宴(うたげ)して、麟徳殿(りんとくでん)に於いて司膳卿(しぜんきょう・官命)を授け、本国に還(かえ)るを放(や)める。
(鳥越憲三郎博士による読み下し文)


大宝2年(702)6月29日、第7次遣唐使船は北九州を出帆した。
当時、新羅との関係が悪く、朝鮮半島に沿って航海した過去6回の北ルートと異なり、南航路で一気に大陸を目指した。中国の楚州の海岸に到着したのは8月か9月頃と想像する。
陸路長安に向かい、則天武后に拝謁したのは703年の正月である。

帰路は五島列島の福江島に漂着し、704年7月1日に大宰府に帰着報告している。
これらから、真人が都・長安に滞在したのは、1年を超えたと思われる。

粟田真人は文武天皇より「節刀(せっとう)」を与えられ、節刀使と呼ばれ、この時の遣唐大使・高橋笠間より上席であった。もっとも、高橋笠間はどのような理由かわからないが、出発直前に辞任して、副使の坂合部大分という人が大使に昇格している。


この時、真人には重大な使命が二つあった。

一つは、40年前の「白村江の戦」の終戦処理をおこない、唐と正式に国交を回復して、残っている老齢の日本人捕虜を連れ帰ることである。敗戦のあと、さみだれ式に捕虜たちは帰国していたが、正式な国交回復はなされていなかった。

いわば、太平洋戦争の敗戦処理を行い、戦後憲法を作り、講和条約までこぎつけた幣原喜重郎・吉田茂の役目、日中国交回復を果たした田中角栄の役目、北朝鮮から5人の日本人を連れ帰った小泉純一郎の役目、を担っていたといえる。

いま一つは、さらに「困難かつ重要」な役目である。

完成したばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、「これだけの律令を完成させて立派な法治国家になった」ことを認めてもらい、今までの「倭国」、「倭国王」の呼び方を、「日本国」、「天皇」との呼び方に変えてもらうべく、唐側を説得することであった。

「大宝律令」を見せて、「このような律令を作りました」だけでは唐側は納得しない。
唐の専門家から、その内容や漢文の表現に至るまで、細かい質問をされることは、大和朝廷としては想定していた。

「大宝律令は忍壁(おさかべ)親王・藤原不比等・粟田真人らが中心になって編纂した法令集」と高校時代の日本史で教わったが、実務を仕切った中心人物はこの粟田真人である。
藤原不比等が唐に行っても、法律の専門知識・語学力の両方からして、唐側の質問に対して充分な返答ができない。

「粟田先生、他に人がおりません。なにとぞよろしくお願い致します」
と、時の政界の最高実力者・藤原不比等は、自分の兄と一緒に唐に留学した12歳年長の真人に丁寧に頭を下げたに違いない。
真人自身、この大役をこなせるのは自分しかいないことを、充分認識していた。

そして、粟田真人はこの二つの大役を「パーフェクト」にやり遂げて帰朝する。

なぜ真人は、これに成功したのか?

答えは、
「中国史上最大の権力者といわれる則天武后が、異常なまでに粟田真人を気に入ったから、の一言に尽きる」と私は考えている。


粟田真人という人は、「才と徳」とを兼ね備え、人間的な深みを持ち、魅力に満ち溢れた人物だった。それに加えて、大柄でハンサムな人であったらしい。




























2019年6月18日火曜日

昭和20年秋、脱穀機の故障

これも20年以上前に読んだ本の中にあった話である。
こちらはノートに写してなく私の記憶だけが頼りなので、いささかおぼつかないが、次のような話であった。

主人公の名前は、仮に山田五郎さんとする。
何人かのお兄さんがいて、本人は当時24・5歳だった。

国内にあった海軍航空隊の整備兵曹長で終戦となり、8月下旬には郷里に復員していた。
海軍の兵曹長と言う位は少尉の下に位置し、かなり偉い人である。
20歳で召集され兵役が終わった後も、故郷に帰っても良い仕事がない場合、海軍に就職する形で引き続き勤務する人もかなりいた。これらの人が兵曹長にまで昇進するのは、平時では早くても15年はかかる。すなわち35・6歳で兵曹長になる。

五郎さんは甲飛か乙飛か予科練の出身で、普通の水兵さん出身より昇進はずいぶん早い。
それでも、24・5歳で兵曹長になるのは、戦時ということもあるが、元々優秀な人だったのであろう。

それゆえに、バリバリの軍人気質で、戦争に負けたことが悔しくてたまらない。
「村の人たちに合わす顔がない」と、日中は自分の部屋にこもったきりで外には出てこない。
夜になると、時おり人目を避けて散歩していた。

実家は村の素封家で、父親はすでに隠退していたが戦前は村長をやり、10歳年長の長兄は村役場で助役をしていた。父も兄も親切な人柄で村人たちから慕われていた。

「戦争が終わったというのに、うちの五郎には困ったものだ。このままじゃ身体をこわしてしまう。みなさん五郎に声をかけて、時には外に連れ出してやってください」と、お願いしていた。


10月になると稲刈りがはじまる。
ある日、一人のおばさんが、「五郎さん、五郎さん!」と戸をたたく。
「脱穀機が動かんのじゃ、なおしてくれんかのう。五郎さんは零戦のエンジンの修理をしとった海軍航空隊の偉いさんじゃろう。脱穀機の修理なぞわけもなかろう」

五郎さんはしぶしぶと家の外に出る。
ひと月ぶりの太陽がまぶしい。
田圃のわきに置かれた脱穀機の前に立つ五郎さんを、5・6人のおじさん・おばさん連中が頼もしそうに見つめる。

気になる2・3箇所を点検して油をさし、エンジンをまわしてみるが動かない。
このままでは、海軍航空隊の元整備兵曹長として男が立たない。五郎さんは
脱穀機のエンジンをばらし始める。30分ほどかけて全部をバラバラにして、汚れを取り油をさしてまた組み立てる。これで大丈夫と、エンジンをかけようとするが、ウンともスンとも動かない。
日も暮れ始めてきた。

その時、村役場での仕事を終えた長兄が帰ってきた。
「どうしたんじゃ?」と道から声をかける。
「かくかく、しかじかです」と村人の一人が説明している。
長兄はそのまま乾いた田圃に降りてきた。

脱穀機の前にかがんで、2・3箇所をいじくった長兄はエンジンを回した。
トン・トン・トンと快調な音を立てて脱穀機のエンジンは動いた。

「海軍航空隊の整備兵曹長さまがこのザマじゃ、日本は戦(いくさ)に敗けるはずだよなあ」
と長兄が言った。

数人の村人は、「あっはっはっ!!」と大声で笑った。
五郎さんもそれにつられて、「ふっふっふ!」と小声で笑った。





















2019年6月13日木曜日

ゆで卵ふたつ

20年以上も昔に読んだ文章を、ふと思い出すことがある。
これも、その一つである。

ご本人が新聞に寄稿されたものだと記憶する。写していたノートを最近開いてみた。

大分県に住む宮田誠さんという方の寄稿文で、昭和18年生まれとメモしてあるので、現在は75歳だと思う。きっとお元気で、ここに出てくるお姉さんも80代前半で、お元気であられると想像する。

本人の了解を得たほうが良いと思ったのだが、連絡先が分からない。
そんなこと必要ありませんよ、とおっしゃってくださる人柄の方だと思い、お二人の幸せを祈りながら、このブログでご紹介したい。


昭和22年の春。
当時、私の家族は祖父母・父母・姉3人・3歳の私と弟の9人で、大分県に住んでいました。
日々の暮らしは手探りの中で、台所事情もゆとりはありません。
一家を担う父は、大分県の庄内町の父の実家に食料の調達に行くことになりました。実家では収穫した農産物を準備していてくれました。血縁ならではの厚意です。

父は別府の脇浜から徒歩で高崎山の裏を越えてゆきます。
ひとりでの山越えは少し寂しかったのか、10歳の二女を誘いました。少女には無理な道程なのは言うまでもありません。父は途中でグズれば背負って行けばよいと考えながら家を出ました。

急な山道の鳥越峠を越え、幾重にも折れ曲がった古賀原、赤野を過ぎ由布川を渡り、庄内町の小野屋からさらに雨乞岳の東側の奥深い集落に父の実家はありました。

二女は小さな意地で頑張りとおし、一度も甘える仕草を見せずにたどり着きました。父のかたわらに、おかっぱ頭のリンゴのホッペをした少女が、ちょこんと立っていました。
実家ではびっくりして、胸を詰まらせました。イガグリ頭のいとこたちが珍しそうに土間からのぞいていました。

翌朝荷造りを終え、帰路に発つ際、父の長兄の嫁は二女に「途中でお食べ」と、ゆで卵ふたつを小さな手のひらに乗せてくれました。
当時の卵は生産が少なく、ぜいたくなものでした。
何よりの心つ゛くしを大事にポケットにしまい、二女は家路に向かいました。帰路は荷物が多い。
家族への土産で、二女の小さなリュックも満杯でした。

往きにくらべて休憩は増えます。またしばらく長い距離の山道を歩き、別府湾が一望の峠で足を休め、額の汗をぬぐいました。我が家へはあとひと踏ん張りです。父娘はたわいのない話をします。
二女はもらったゆで卵をまだ口にしていません。

ついぞ食べる様子がないので、父は理由を聞きました。
すると二女は、「弟ふたりに食べさせてあげたい」と、笑顔で言いました。
「お前がもらったのだから」と父は何度もすすめたが、二女は結局、口にしませんでした。

その二女も元気で還暦を迎えます。

今でもゆで卵を目にすると、昔母から聞いた話が、古びた記憶と共によみがえります。









2019年6月5日水曜日

6月6日、沖縄県民カク戦ヘリ

6月になると、海軍少将・大田実が海軍次官宛てに発信した電報のことが頭に浮かぶ。

あまりにも有名な電報なので、あえて、私がここでご紹介する必要はない気もするが、もしかしたら読んでおられない方もいらっしゃるかと思ったのが、気持ちの半分である。
残りの半分は、この電文をブログに書くことにより、私自身がこれを時々読み返すことが出来る、と思ったからである。

これだけ豊かになった日本で、その恵みに浴しながらも、時として不平不満が出そうになる自分自身の心を叱咤するために、時おりこの電文を、「声に出して」読む必要がある、と考えたからである。

「根拠地隊」とは「海軍陸戦隊」とも言い、海軍に属しながら、小銃・機関銃・戦車などを武器として、島嶼部において陸兵として戦う部隊である。
米軍の「海兵隊(マリン)」と同じような任務と理解してよい。

(カッコ)内は、暗号電報の解読不能のため、海軍省において推定により挿入したものと聞いている。

なおこの暗号電報は、米軍に傍受され、日本語のできる米軍の語学将校によって英訳され、その日のうちに米軍司令官の手に渡されている。



昭和20年6月6日、午後8時16分

発:沖縄根拠地隊司令官
宛:海軍次官

062016番電、
左ノ電ヲ次官ニ御通報方、取リ計イヲ得タシ

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ、県ニハ既ニ通信力ナク、
第三十二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラレルニ付、本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非サレドモ、現状ヲ看過(カンカ)スルニ忍ビズ、之ニ代ッテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来、陸海軍ハ方面防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ殆ド顧ミル暇(イトマ)ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ、県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ相ツグ砲爆撃ニ家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ、僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支エナキ場所ノ小防空壕ニ避難、尚、砲爆撃下(行クベキアテモナク)風雨ニ曝サレツツ、乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

シカモ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ、看護炊事婦ハモトヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ル者アリ

所詮敵来タリナバ、老人子供ハ殺サルベク、婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラレルベシトテ、親子生キ別レ、娘ヲ軍門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ、衛生兵既ニ出発シ、身寄無キ重傷兵ヲ助ケテ(ソノ看護ニ専念セリ、マコトニ)真面目ニシテ、一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ワレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ、自給自足、夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ、輸送力皆無ノ者、黙々トシ雨中ヲ移動スルアリ

之ヲ要スルニ、陸海軍沖縄ニ進駐以来、始終一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレテ(モ尚奉公ノマゴコロヲ)胸ニ抱キツツ、遂ニ(何ノムクイラルル)コトナクシテ本戦闘ノ末期トナレリ

沖縄島実情形(容ヲ絶スル有様ニテヤガテ)一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯支ウルノミナリト謂(イ)フ

沖縄県民カク戦へリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ


この電報を発信した7日後、大田少将は根拠地隊司令部のある洞窟内で自決された。
享年53歳。