2021年3月29日月曜日

ポツダム宣言(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(19)

トルーマンとバーンズ一行を乗せた重巡洋艦オーガスタが、アントワープに到着したのは45年7月14日である。奇妙なことに、重要人物である陸軍長官スティムソンの姿はこの艦上になかった。

トルーマンとバーンズの二人が、当初、スティムソンをポツダム会談のメンバーからはずしていたからだ。天皇条項にこだわる彼の参加を嫌がったのだ。この条項を入れて日本がすぐに降伏したのでは、原爆投下が出来なくなる。

しかし、まもなく78歳になる政界の長老スティムソンは、この会談への参加を自分の最後の晴れ舞台と考えていた。このままでは男が立たない。彼はポツダムへ行くべく巻き返しをはかる。ちなみに、このスティムソンは鈴木貫太郎と同じ年齢である。

あるいは国務次官のグルーから、ポツダム行きを強く要請されたのかも知れない。この局面で、天皇条項の挿入を大統領に説けるのはスティムソン以外にいない、とグルーは考えたと思う。グルーを駐日大使に任命したのは、当時国務長官だったスティムソンだ。二人には深い信頼関係があった。13歳年長でハーバードの先輩でもあるスティムソンに、この時グルーは拝むような気持でいたのではあるまいか。

スティムソンはトルーマンに、なぜ自分がメンバーから外されたのかと問う。

「年齢ですよ。私は貴殿の過労を心配しているのです」とトルーマンは笑いながら答えた。

大統領がこのような言い訳をするだろうと、じつはスティムソンは予想していた。これに備えて、彼は合衆国軍医総監の健康証明書を手元に用意していた。これを出されたトルーマンは断るべき理由を失い、非公式での随行を認めざるを得なくなった。

この後のスティムソンの動きはじつに素早い。陸軍の高速輸送艦に乗り、重巡オーガスタより一日早くアントワープに到着している。次官補のマックロイを同行させた。


7月16日、日本の外務大臣からモスクワ駐在の佐藤大使に宛てた「天皇は速やかな戦争終結を望んでいる」との暗号電報を、ポツダムに着いたばかりの米首脳が入手したことは先に述べた。同じ日の午後7時過ぎ、「ニューメキシコでの原爆実験成功」の報がスティムソンのもとに届く。すぐさま大統領の宿舎を訪ね、トルーマンとバーンズにこれを伝えた。

この晩、同じ宿舎に泊まるスティムソンとマックロイは夜遅くまで語り合った。そして、「天皇条項を入れた通告をいますぐ日本に渡すなら、日本側にとってもぴったりのタイミングだ」と二人は考えを一致させた。翌日早朝、スティムソンはトルーマンとバーンズにこれを説いた。

「日本に今すぐこのような通告を出すことには反対だ」、二人はにべもなく断った。ルーズベルトが存命ならば、国務長官を一度、陸軍長官を二度つとめた政界の大物スティムソンは、この二人の田舎政治家など歯牙にもかけなかったはずだ。自分の主張をまったく聞こうとしない二人に、スティムソンは憤慨する。

スティムソンは共和党の議員で、共和党の大統領・セオドア・ルーズベルトに見いだされて立身出世した。彼が最初に陸軍長官になったのは第一次大戦前の1911年である。この頃トルーマンは父親と一緒にミズーリで農業をしていた。スティムソンから見たら、トルーマンもバーンズも、政治歴からしてもまったくの小僧っ子である。

ポツダム宣言の原案は、陸軍省と国務省の共同で作成された。具体的に言えば、弁護士出身の陸軍長官スティムソンと国務省のグルー、ドーマンの三人で草案を練った。そしてこれを清書したのは、大阪生まれで東京の暁星中学出身のドーマンである。

彼らは第12項に、「天皇の地位の保証」を入れた。だが、トルーマンとバーンズの二人がこれを削ろうとしていることに、グルーとスティムソンは強い危惧を抱いていた。


ヘンリー・スティムソン


2021年3月22日月曜日

マックロイと米軍首脳の思い

 昭和天皇と鈴木貫太郎(18)

大統領トルーマンはあわてた。それでも、なにげないそぶりで、以前にスティムソンに語り、グルーに語ったのと同じ台詞(せりふ)をくりかえした。

「君が語ったことは自分が求めていることの中にある」と。そして「その案をバーンズ氏と相談してもらいたい」と答えた。またしてもトルーマンは逃げたのだ。会議書記の陸軍准将・ファーランドは、だれの指示を受けてのことか、マックロイの提案とトルーマンの応答を議事録から削除した。

それではなぜ、後世の我々がこれを知ったのか。アメリカ人のだれからも好かれたマックロイは、89年に94歳で亡くなった。マックロイと戦争中からずっと親しかったジェームズ・レストンというNYタイムズの大物記者がいた。引退したレストン氏が回想録の執筆に取りかかった時、マックロイの息子と娘が訪ねてきて、父が書き残した6月18日の会議での発言記録を彼に手渡したからである。「レストン回想録」は92年に発刊されている。マックロイとレストンは家が隣どおしで、家族ぐるみのつきあいをしていた。

このマックロイはハーバードの卒業であるが、かならずしも裕福な家庭の出身ではない。友人のレストンは、回想録の中で次のように語っている。

「マックロイは困った立場にいる人にとって、いわば磁石のようなものだった。率直で、勇気があり、快活で、人の意見を聞き、どのようなことでも、相手の立場に立って親切に解決する能力があった。生まれは貧しかったが、人生の大半を富者として暮らし、貧者と富者の双方の気持ちが理解できた。六歳で父親を失い、しっかり者の母親にペンシルベニアで育てられた。母は美容院を営み、マックロイがハーバード大学に合格すると、母親もボストンに転居してマックロイの面倒を見た」


マックロイ以外にも、ラフト・バードという海軍次官の言動にも心温まるものを感じる。この人は元シカゴの金融家である。原爆を使わなくても日本は降伏すると考えていたバードは、6月27日にスティムソンに次のような書簡を送っている。

「日本に対して原爆を投下する場合は、数日前に警告を出すべきと思います。この数週間で、日本が降伏の機会を探っているのは確実です。予定される三首脳会談(ポツダム会談)後に、我が国の使節が中国の沿岸部で日本の代表と会い、天皇の地位を認めることを含めて、降伏の条件を丁寧に説明することが大切です。このアクションで我が国が失うものは一つもありません」

海軍次官のバードは、大物陸軍長官のスティムソンが、トルーマンに対してまだ強い影響力を持っていると考えていたのだ。しかし、この書簡を受けたスティムソンにはこれを実行する権限はなく、バーンズの助言通り原爆投下を決心していたトルーマンに対して、それを変更させるだけの影響力もなかった。アメリカ合衆国の軍の最高指揮官は大統領なのである。

文官・武官を含め軍の上層部の多くが、原爆の使用に対して消極的で不快感を持っていたということが、あちこちの記録に見える。これはあながち、原爆投下のうしろめたさから逃げるための、彼ら自身の自己弁解ではない気がする。本心のように思える。

スティムソン陸軍長官の日記には次のようにある。

「ポツダムで原爆実験の結果について話している間に、アイゼンハワー将軍の気持ちが沈んでいくのを見た私は、つい心に思っていることを口に出した。つまり、日本はすでに敗北したようなものであるから、原爆の使用は必要ないと思うと。これに対してアイゼンハワーは、日本は今やなんとか面目を失うことなく降伏する道はないかと求めているのです、と答えた」

マックロイ陸軍次官補の日記には、「マーシャル参謀総長の考えは、まずこの兵器を海軍基地のような軍事目標に対して使い、それで成果がなければ、避難通告を出したうえで大工業地帯に投下するというものであった」とある。

統合参謀本部議長のウイリアム・レーヒー海軍元帥は、ルーズベルトから厚く信任された穏健派の提督である。この人の原爆に対する見方は異色であった。原爆に対しては最初から強い嫌悪感を持っていた。原爆の開発製造計画を知った時、「あんなものは科学者の妄想だ。爆発なんかするものか」と鼻で笑っていた。原爆実験が成功したあとでも、「原爆は一般市民を殺す。ハーグ条約・ジュネーブ議定書で禁止されている毒ガスや細菌兵器となんら変わらない。こんなものを使ってしまうと、アメリカの倫理は野蛮人と同じになる。合衆国の名誉のためにも絶対にこの爆弾は使うべきでない」とトルーマンに直接忠告している。

ニミッツ提督は戦後こう語っている。「日本との戦いは原爆で勝ち取ったものではない。原爆投下の前から日本は講和を模索していた」

太平洋方面の陸軍の総司令官であったマッカーサー元帥は、広島・長崎に原爆を投下するにあたって、何ら意見を求められていない。戦後マッカーサーは、「日本はほぼ敗戦を認めていた。原爆投下はまったく必要なかった」と語っている。マッカーサー付きの輸送機のパイロットだった人は、「将軍は原爆投下の後、何日もふさぎ込んでいた」と証言している。


思うに、これらアメリカ軍を率いていた将軍や提督は、日本に対する敵愾心は強かったものの、心の底に、中世の騎士的な精神を持っていたのではあるまいか。ひきょうなやり方での勝利はアメリカの名誉のために避けたい、との気分が強く感じられる。

しかし、トルーマンとバーンズの二人の文官は、原爆投下に向けてまっしぐらに突き進む。


ジョン・マックロイ






2021年3月15日月曜日

快男児・マックロイ

 昭和天皇と鈴木貫太郎(17)

私は長い間、広島・長崎への原爆投下を主導したのは陸軍長官のスティムソンだと思っていた。理由の一つは、彼が原爆開発を決めた時の6人メンバーの一人だったこと。いま一つは、戦後、「原爆投下しなかったら、さらに100万人のアメリカ兵が死んだはずだ」と国内向けに、原爆投下の正当性をうったえた、と聞いたからである。

今回、鳥居先生の著書や戦後50年を経て公開されたいくつかの機密文書を読んで、この認識は誤りであると知った。スティムソンは陸軍長官であるが、イエール・ハーバード両大学を卒業したアメリカを代表する国際派弁護士でもある。原爆の完成が近つ"くにつれて、彼は原爆の使用は戦時国際法に違反するのではないか、との懸念を持つようになった。

原爆投下の強硬な推進者は、民主党の文官であるトルーマンとバーンズの二人であった。これに同調したのが、同じく民主党の文官で開戦時の国務長官だったコーデル・ハルである。

陸軍・海軍の制服組の首脳が、原爆投下に関し意外に消極的というか、多くの人がこれに嫌悪感を持っていたことを知り驚いている。同時に、国務省のグルーやドーマン以外にも、陸軍次官補・マックロイや、海軍次官・バードのように、日本への原爆投下を何とかして避けたい、と懸命の努力した軍の文官がいたことを知った。この事実に、日本人としてわずかではあるが心の安らぎを感じている。

45年6月18日、ワシントンで軍の重要会議が開かれた。大統領・陸軍長官・海軍長官・参謀総長・軍令部総長・統合参謀本部議長・陸軍航空隊の大将が出席した。もう一人、場違いと思われる低い官位の人物が参加していた。陸軍長官・スティムソンの右腕で、50歳の陸軍次官補(武官でいえば少将クラス)のジョン・マックロイである。

弁護士出身で、第二次大戦後に初代の世界銀行総裁になるこの人は、ハーバード法学部卒業の人格者で、かつ正義感が強かった。孤軍奮闘していたグルーにとって、この15歳年下の大学の後輩は、いわば自分の分身ともいえるほど考え方が一致していた。

スティムソンは、自分やほかの高級幹部が口にできない雰囲気の原爆使用の問題を説くには、むしろ官位の低い人物のほうが良いと考えたのかも知れない。あるいは、一緒に仕事をしているうちに、老練の陸軍長官は28歳も年下のこのマックロイの正義感・人道主義に影響を受けたのかもしれない。

この半月前、バーンズは原爆開発にかかわった科学者を集めて会議をとりしきり、「できるだけ早く日本に対して原爆を投下する」「目標は都市とする」「事前警告はしない」との三原則、いわゆるバーンズ・プランを決定していた。科学者の一人が、「事前警告をしたほうが良いのでは」と発言した。「馬鹿なことを言うな。そんなことをしたら日本は公表した都市にアメリカ人捕虜を移すにちがいない」とバーンズは一喝してこの発言を抑え込んだ。


マックロイは、このバーンズ・プランに代わる案を説いた。というより、これに対して反論したのである。マックロイの考えの底にあったのは、「アメリカ合衆国の正義と名誉」であった。

「今すぐ、大統領が日本の天皇にあてて強硬な通達を送るのが望ましいと思います。すなわち、アメリカが圧倒的に軍事力優位にあることを伝え、日本政府に正面から降伏を求めるべきです。そしてこの通達の中で、戦後において日本が国家として存続する権利を認めることを明らかにすることです。すなわち、天皇の地位の継続を認めることです。このような申し入れをしても日本が降伏しない場合は、アメリカは革命的な威力を持つ、一つの都市を一撃で破壊できるほどの恐ろしい兵器を所有しているのだと明かすべきです。なおも降伏しないなら、これを使用せざるをえないと通告すべきです。なにも通告しないで、いきなりこの恐ろしい兵器を使用するのは、合衆国の正義と名誉を汚します」

このマックロイの正面きっての発言に、言いたくても言えない雰囲気の中に置かれていた軍の最高幹部のすべての顔に、驚愕の色が浮かんだ。


ジョン・マックロイ









2021年3月8日月曜日

アメリカは日本の終戦希望を知っていた

 昭和天皇と鈴木貫太郎(16)

この日、45年6月18日の時点で、アメリカ大統領・国務省・陸海軍の首脳たちは、日本が戦争を終わらせたいと思っているとの情報をはっきりとつかんでいた。日本と欧州・ソ連間の暗号電報を、アメリカ陸軍の暗号解読班が完全に解析していたからだ。

昭和20年5月5日、東京のドイツ大使館付武官・ヴェネッカー海軍大将は、本国のデーニック海軍元帥に次のような暗号電報を送った。

「日本海軍のある有力幹部から次のような説明を受けた。戦況はあきらかに絶望的と見られることから、条件が厳しくても、どうにか名誉が保てる条件付きの降伏をアメリカが要求するなら、日本軍のあらかたは反対しないだろう」

このヴェネッカーという人は、戦艦大和の艦内に入ったただ一人の外国人である。呉鎮守府司令長官の海軍大将・野村直邦と仲が良かった。ドイツ駐在の長かった野村の骨おりで、彼は「大和」を見学したのだ。電報の中の海軍の有力者とは、野村大将のことだと思われる。

ところが、ベルリンのデーニック元帥がこの電報を読むことはなかった。4月30日に自殺したヒトラーは、デーニックを後任に指名した。そのため、彼は国家元首として5月5日には英・モントゴメリー元帥、8日には米・アイゼンハワー大将との降伏調印の現場にいた。この電報を読むどころではなかった。それではなぜ、この電報が残っているのか。いうまでもあるまい。この電報はアメリカ側に残っていたのだ。アメリカの政府高官と軍首脳は、その日のうちにこの電文を読んでいた。


7月に入って、トルーマンとバーンズはポツダムに向かう。ポツダムの宿舎に着いた直後、二人は驚くべき内容の電報を陸軍の暗号解読班から受けた。7月16日のことだ。それは、東京の東郷外相からモスクワ駐在の佐藤大使にあてた、次のような訓令電報である。

「天皇は速やかに戦争を終結することを念願している。戦争終結に向けてソ連の支援を要請する主旨を盛り込んだ親書を携えて、近衛文麿を特使として派遣したい」

日本政府、そして天皇までが乗り出してきた。日本は降伏してしまうのではないか。トルーマンとバーンズはあせった。

しかしこの電報の中にある、「無条件降伏でないところの講和の早急な実現を」天皇が希望しているという箇所を見て、二人は安堵する。日本が求める条件がなんであるか、二人にははっきりとわかっている。

このことは国務次官のグルーから、うるさいほど聞かされている。5月28日の会議でも、グルーはこの一点をトルーマンに強く迫った。その二日後の5月30日、共和党の元大統領・ハーバート・フーバーは、「降伏すれば天皇のことは問わない、無条件降伏の対象となるのは軍国主義者だけだと日本に告げるべきだ」とトルーマンに強く説いた。

なによりも、陸軍長官のスティムソンが7月2日に提出した対日宣言案(ポツダム宣言の原案)の中に、「天皇の地位の保全」がはっきりと記載されている。ちなみにこのスティムソンは、フーバー大統領の時に国務長官を務めた弁護士出身の共和党員である。イエール大学卒業の後ハーバードのロースクールに学んだ。

「宣言文の中からこれを削れば、当面日本が降伏することはあるまい。そうすれば、8月初旬に予定している原爆投下まで時間稼ぎができる」一瞬の不安のあと、トルーマンとバーンズの二人は安堵の色を浮かべたのである。

老練な政治家バーンズは、ポツダムに向け出発する直前、コーデル・ハルに電話して彼の意見を聞いている。日米開戦時の国務長官で、あの「ハルノート」で有名な対日強硬派の国務省の長老だ。ハルとグルーはおりあいが悪い。このハルの「おすみつき」を取っておくほうが後日のために都合が良い、とバーンズは考えたのだ。

案の定、ハルは「天皇条項の削除」をバーンズに強く勧めた。なおかつ、ありがたいことに、ハルはポツダムまで電報を打ってきて、執拗にこの自分の考えを主張した。トルーマンとバーンズにとって、この対日強硬派の元国務長官は、心強い援軍であった。


コーデル・ハル






2021年3月1日月曜日

ジョゼフ・グルーの孤独な奮戦

 昭和天皇と鈴木貫太郎(15)

ドイツが降伏したあと、5月8日にトルーマンは日本に対して声明文を発表した。これは無条件降伏を呼びかけたもので、天皇の地位を保証するとの文言はなかった。この一文を入れない声明にはなんの効果もない、とグルーはくどいほどトルーマンに説いていた。

グルーの孤独感は、新大統領が自分の対日政策にまったく耳を傾けてくれないことにあった。トルーマンの背後にバーンズがいることは、グルーははっきりと感じている。しかし、アメリカのためにも日本のためにも、一刻も早く戦争の終結を急がねばならない。これがルーズベルトの考えを引き継ぐグルーの基本的な考えである。

5月23日と25日の夜、B29の落とした焼夷弾で東京の中心部は焼き尽くされた。皇居内の建物も焼けたとのニュースを聞いたグルーは、居ても立ってもいられなくなった。5月28日、グルーは行動に出た。


彼は大統領に向かって、「現在の皇室の存在を容認するとの条件を日本政府に示し、日本を戦争終結に誘うような大統領演説をおこなうべきだ」と説いた。同時に、「2日あとの5月30日に行う全米向けの、戦没将兵記念日の演説の時これを宣言するのが効果的だ」とも付け加えた。この対日声明文の原稿は、部下のドーマンに命じて昨日の27日(土曜日)に作成させ、グルーはこれを手に持ってトルーマンを訪問した。

これに対してトルーマンは、正面からの返答をせず、「明日の陸海軍長官および両参謀総長との集まりで、その考えを各人に聞いてみるように」と答えた。トルーマンは逃げたのだ。

陸軍長官のスティムソンは、「タイミングが悪い」と言った。ほかの軍首脳も、「いますぐは軍事上の理由により不得策である」と答えた。

グルーは、沖縄戦がまだ続いているからだな、と理解した。弱気になっていると日本側に受け取られるのが陸軍・海軍は嫌なのだ、と思った。

グルーがそう考えたのは、陸軍長官・スティムソンも海軍長官・フォレスタルも、天皇制を存続させるというグルーの考えに、いままではっきりと賛成していたからである。陸海軍の長官にすれば、「天皇制ぐらいは認めてやり、アメリカ側の戦死者を増やさないで、早めに終戦に持ち込むのが得策」と考えるのはごく自然である。

事実上の沖縄戦が終わった6月18日、グルーはふたたびこのことをトルーマンに迫った。しかし再び拒否された。このトルーマンのかたくなな態度は理解できない。なぜなのか?とグルーは考え込む。

このときトルーマンとバーンズは決心していたのだ。最初の原爆実験はニューメキシコの砂漠でやるが、ほんとうの実験は日本の都市でやらなくてはならないと。さらにいえば、「日本の都市での原爆の実験を完了するまで、絶対に日本をして降伏させてはならない」ということだった。天皇の地位を保証する宣言を出すと、原爆を投下する以前に日本は降伏するかもしれない。これだけは絶対に避けねばならない。

このことは、トルーマンとバーンズ二人だけの秘密であった。国務次官のグルーはもちろんのこと、二人は陸海軍の首脳たちにもこの考えを語っていない。


ジョゼフ・グルー