2019年12月24日火曜日

熱田神宮の「おほほ祭り」(2)

夜7時の30分ほど前から、本宮の東側にある神楽殿(かぐらでん)の前広場に、三々五々見学者が集まり、200人を超す様子に見える。

夜7時。 境内のすべてのともしびが消され、隊列を組んだ神官十数人が行進をはじめた。

我々4人は見学者の先頭集団に位置して、神官のあとにくっついて歩きはじめる。暗いのでどこをどう歩いたのかよくわからないが、感じとしては広い熱田神宮の境内をほぼ一周したような気がする。熱田の杜(もり)の真っ暗闇のなか、古代の木沓(きぐつ)をはいた神官の集団が、ザッザッと音をたてながら玉砂利の上を進む。

その速度がずいぶん速く、優雅に歩くとはほど遠い。きっと普段から木沓をはいて速く歩く稽古をされているのであろう。もたもたしていたら後の人に追い越されてしまう。まるで競歩のレースのようだ。

うっそうとした森の中の、小さな祠(ほこら)の前らしき場所に着いた。暗くてはっきりとは見えない。私が神官について行こうとすると、「見学者はここまでです」と警備の人に制された。
静寂の中、200余人が息をひそめて固唾を飲んでいる。

やがて、ピーヒャララという笛の音(ね)が聞こえてきた。これを合図に、「ワッハッハ、ワッハッハ」という神官たちの高笑いが聞こえてくる。「おほほ祭り」というから、もっと小声で密かに笑うのだと思い込んでいた。このときは真っ暗で、神官たちの笑う姿は見えなかったが、翌日の新聞の写真を見ると、天に向かって大きな口をあけて大笑いしている。これでは「ワッハッハ祭り」だ。
「これはきっと、どこかの時点で笑い方に変化が起きたに違いない」と私は思った。

天武天皇14年(686)の第一回の酔笑人神事で、神官がこれほどの高笑いをしたとはとても考えられない。時代が下り、皇室に対する過剰な遠慮が消えてから、このように変化したのではあるまいか。頼朝による武家政権が成立した頃か?あるいは応仁の乱あたりか、はたまたずっと時代が下って太平洋戦争の敗北のあとか、、、?

このあと、第二の場所に向かって神官の木沓の音にくっついて早足で急ぐ。

すべての場所で、ピーヒャララの笛の音のあと、「ワッハッハ」の高笑いだけである。神官たちは祝詞(のりと)も唱えず、ひと言も発しない。最後の場所での「ワッハッハ」のあと、神官からは何の挨拶もなく、そのままお開きとなった。

考えてみれば、もっともな話なのだ。
我々は招待されたのではない。秘密の神事を、熱田神宮の好意で、こっそり覗かせていただいただけなのだから。あとで、熱田神宮からちょうだいした祭典・神事についての説明書と、境内地図を照らし合わせてみた。高笑いした場所は、影向間社・神楽殿前・別宮前・清雪門前の四ケ所で、地図でたどるとたしかに熱田の杜をほぼ一周したことになる。


我々4人は、運動会のあとのような心地よい疲労感をかかえて、宿泊するホテルに急いだ。
シャワーを浴びて、遅い夕食を4人で一緒した。
「それにしても偉いもんだよなあ。ただあれだけのことを、一度も欠かさないで1300年も続けているんだからなあ、、、、」とだれかが言った。  私もそう思った。








2019年12月23日月曜日

熱田神宮の「おほほ祭り」

熱田神宮の「おほほ祭り」についてご紹介したい。

この祭りを観るために、平成25年5月4日の夜、5回目の熱田神宮参拝をおこなった。

年に一度、5月4日の夜、あたりが暗くなってから、境内の森の中を木沓(きぐつ)を履いた神官十数名が歩き、数箇所の決められた場所で、「オホホ、オホホ、、」と笑う。ただこれだけの神事である。

正式名称は「酔笑人(えしょうど)神事」といい、これを1300年以上も続けているのだという。

天智天皇7年(668)、熱田神宮のご神体である「草薙剣」が新羅の僧・道行(どうぎょう)に盗まれた。道行は摂津(せっつ)国から出港を図ったが、海難に遭い難波に漂着した。危ないところでこの剣は盗難をまぬがれた。なぜ新羅の僧がこれを盗んで母国に持ち帰ろうとしたのか、その真意はさだかではない。

「尾張の田舎の神社に置いておくからこんなことになるのだ」と、天智天皇はこれを取り上げて、
近江(おうみ)の御所に保管してしまった。

私のまったくの推測であるが、東国の古社・鹿島神宮の出身であり、当時律令制度を導入して中央集権国家を建設しかけていた、側近の中臣鎌足が熱田神宮に嫉妬して天智天皇に進言したのではあるまいか。ところが、これ以降、皇室に不幸が続く。

天智天皇はこの3年後(671)、46歳の若さで崩御された。そのあとすぐに起きたのが、古代史最大の内乱である壬申(じんしん)の乱である。これに勝利した大海人皇子が天武天皇として即位するが、この天武天皇が病にかかられる。

「これは草薙剣の祟(たたり)である」ということになり、天武天皇14年(686)、18年ぶりにこの剣はもとの熱田神宮に戻された。この年の10月1日、天武天皇は崩御された。5月4日に熱田神宮に草薙剣が返還された半年後である。

草薙剣がもどった熱田神宮はおおいに喜んだ。しかし、皇室の不幸が続いていた最中なので、おもてむき祝いの行事はできない。よって、このような奇妙な神事をおこない、密かにこれを祝ったのだといわれている。


神社巡りの仲間である同じ中野区に住むU君にこの話をしたら、ぜひ観に行きたい、と言う。
郷里の広島県にも、もう一人神社好きの友人がいる。小学校1年生からの友人のD君だ。黙って抜け駆けしたらあとで文句を言われそうなので、彼にも声をかけた。「一緒に行きたい」と言う。

名古屋には、U君や私と大学時代の学友であるH君が住んでいる。同学年だが我々より2歳年長だ。このH君は、学生時代からなんとなく偉い感じがする人で、我々は昔からこの人のことを、剛堂(ごうどう)先生と呼んでいる。この剛堂先生にも声をかけたら、「わしも行く」という返事だ。
4人は名古屋のホテルで落ち合うことにした。










2019年12月12日木曜日

熱田神宮(3)

熱田神宮は長い歴史を持つ古社である。

日本武尊以外にも、空海・源頼朝・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など日本史の巨人たちが、この神社に深い縁(えにし)を持っている。

なかでも、源頼朝のこの神社に対する思い入れは尋常ではない。頼朝の母が、熱田大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘であることは知られているが、頼朝自身がここで生まれている。

現在でもその習慣は残っているが、当時は妻の実家で出産するのが普通だった。熱田神宮の道ひとつ隔てた西側にある神宮寺・誓願寺(せいがんじ)の門わきに、「右大将頼朝公誕生旧地」と記された石標がある。ここが熱田大宮司の館跡(やかたあと)で、頼朝が生まれた場所である。

頼朝が何歳までここで生活したかは知らないが、2歳・3歳のよちよち歩きの頃、熱田神宮の境内がその遊び場だった可能性は充分にある。頼朝の初陣は13歳のとき、平治元年(1159)の平治の乱である。源氏は平清盛に敗れ、父・義朝(よしとも)は殺された。母はその1年前に病死している。

頼朝は一命を許され、翌年3月伊豆に流された。天下は平家全盛の時代となる。
その厳しい監視の中の頼朝にたいして、経済的な支援を含めてなにかと温かい手を差しのべたのが、母の弟である熱田大宮司・藤原祐範(ふじわらのすけのり)であった。

古代から尾張国造である尾張氏が代々この神社の宮司であったが、11世紀の後半、その外孫にあたる藤原季範が大宮司になり、その後はその子孫がこの職を世襲した。

熱田神宮は広大な社領荘園を有し、大宮司家は武士団の頭領(とうりょう)でもあった。平安時代の末期、経済的にも裕福であった熱田大宮司の威勢は 「国司をもしのぐ」 といわれた。
天下人の平清盛ですら、藤原氏の一族であり、かつ三種の神器のひとつ「草薙剣」を抱える熱田大宮司・藤原祐範に対しては、遠慮があったかと思える。

後年、建久2年(1191)、祐範の子・任憲(頼朝のいとこ)が、代々熱田神宮が所有してきた神領を僧(寺)に奪われて争った時、頼朝は朝廷にとりなしをしている。「吾妻鑑」のなかの頼朝の副状
(そえじょう)には、「その土地には恩人の墓があり、子が父の霊を慰められないのは不憫」とあり、
頼朝の祐範に対する思いが伝わってくる。


余談ではあるが、全国の神社をお参りしていて、「それにしても、、、、!」と、深く感じ入ることがひとつある。

私がお参りした関東から中部地方にかけて、頼朝が寄進した、修理・再建したという神社がいたるところにあるのだ。頼朝の経歴からして、熱田神宮・三島大社・伊豆山神社・箱根神社・鶴岡八幡宮などを大切にしたことはよくわかる。しかし、とてもこれらにとどまらない。相模一宮・寒川(さむかわ)神社、二宮・川匂(かわわ)神社、三宮・日比多(ひびた)神社、相模国総社・六所(ろくしょ)神社などにも多額の寄進をしている。

さらには、常陸の古社・鹿島神宮を含め、下総・香取神宮、上総・玉前(たまさき)神社、安房・安房神社、安房・洲崎神社、下野・二荒山神社、武蔵・氷川神社、武蔵国総社・大國魂神社、さらには、とおく、加賀・白山比咩神社、近江・建部神社、伊予・大山祇(おおやまずみ)神社、豊前・宇佐神宮など、そしてこれら以外にも、おびただしい数の神社に源頼朝の寄進の跡が見られる。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・武田信玄・上杉謙信などの大物武将も、一様に神社・仏閣を大切にして寄進や修理・再建を積極的におこなっている。これには政治家としての人心掌握の一面がある。その土地の人たちが崇拝している神社・仏閣を大切にしてくれる為政者に対して、土着のひとびとが良い感情を抱くのは人情である。

頼朝にしても、当然そのような政治的な配慮があったには違いない。しかし、とてもそれだけでは説明できないほどの熱の入れようである。

三つ児の魂(たましい)百まで、という言葉がある。

母や祖父・叔父たちとの、幸せな幼少時代の記憶が、この熱田神宮にあったに違いない。

源頼朝という人は、よほど神社が好きな人だった気がする。



















2019年12月11日水曜日

熱田神宮(2)

この熱田神宮の主神は熱田大神(あつたのおおかみ)である。

相殿(あいどの)神として、天照大神(あまてらすおおみかみ)・素戔嗚命(すさのおのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・宮簀媛命(みやすひめのみこと)・建稲種命(たけいなだねのみこと)をお祀りしている。

熱田大神とは草薙剣(くさなぎのつるぎ)のこと、といわれている。「日本書紀」に、「草薙剣は尾張吾湯市(あゆち)村にあり。すなわち熱田祝部(ほふりべ)所掌の神これなり」と記されているところから、この剣は古くから熱田神宮の祭神であったことがわかる。

ただ私は、もともとの熱田大神とは、縄文時代にこの地で人々から尊敬を受けた、有徳の先人を祀ったものであろうと考えている。宮簀媛は尾張国造(くにのみやつこ)の娘で、東征のおり日本武尊が迎えた妃(きさき)である。建稲種はその兄で、日本武尊の副将軍として軍功を立てた人だという。

日本武尊は駿河(古事記では相模)の国造に謀反(むほん)され、草薙剣で難をのがれ、これを征伐する。景行(けいこう)天皇の御世(日本武尊は第二皇子)、天皇家は各地の国造の娘と多くの皇子とを政略結婚させたり、あるいはそれを征伐しながら、列島の大部分をその勢力下に置いていった。

大和朝廷が、東北地方をのぞく日本列島のほぼ全域をその勢力下に置いたのは、この12代・景行天皇の時代だと思われる。もちろん、国造である各地の豪族との微妙な政治バランスに立った上でのことであるが。


ここで、私の故郷である広島県東部にある、浦崎(うらさき)という小さな村の神楽(かぐら)の話をご紹介したい。神楽のさかんな村で、秋になると私は東京から帰省して、村祭りの神楽を楽しむ。
浦崎神楽隆盛の功労者は、佐藤頼久(さとうよりひさ)氏、檀上弘行(だんじょうひろゆき)氏の2人の村の長老である。

先日、これを観覧していて驚いた。

村の少年が古代の衣装を身につけて、剣を持って舞うのだが、
「やあやあ我こそは、景行天皇の第三十五皇子(たしかそう言ったと記憶する)〇〇であるぞ!」
と、大声で名乗りを上げたのだ。
景行天皇には80人以上の子供がいたというから、40人前後の皇子がいてもおかしくない。

どうやら、我が故郷の小さな村にも、その昔、日本武尊の弟皇子がいらっしゃったらしい。我が村の
ひとびとは皆温厚で人柄が良いから、謀反など起こさないでおとなしく大和朝廷に威に服したのであろう。










2019年12月9日月曜日

神社のものがたり・熱田神宮

尾張の熱田神宮は大好きな神社で、今までに5回参拝した。

そのような関係ではないが、気分的には私はこの神社の氏子(うじこ)のつもりでいる。次のようなことがあったからだ。

10年ほど前、私は農作業日誌のような軽いエッセーを出版した。その中で、
「日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東征のおり尾張の神社に立ち寄られたとき、村人が漬物を献上した。尊はその旨さに感嘆され、”神物(こうのもの)”と言われた。これが漬物を”香の物”と呼ぶ語源である。日本で唯一の漬物神社が名古屋の甚目寺(じもくじ)町に今でもある。萱津(かやつ)神社という」、と書いた。

本が出来あがったのだから、お届けするのが礼儀であろうと思い、1冊をリュックに入れてこの萱津神社を訪問した。秋の終わりの頃だった。

「よくおいでになりました」、宮司さんが親切に招き入れてくださった。
「ほう、うちの神社のことを書いてくださったのか。なになに、先生は日本武尊のことも書いておられるのか、、、、」、とこちらが恥ずかしくなるほどの持ちあげようである。
「きのう神社の秋祭りが終わったところです。今日は氏子さんたちが集まって慰労会をするんです。そろそろ料理も出来上がる頃かな、、、、」と、氏子さんたちが準備している隣の棟に向かわれた。

ぜんざいやあべかわ餅をいっぱい持って来られて、身内に言うように、「さあお食べ、さあさあ」と勧めてくださる。私は恐縮しながらも感激してしまった。

この萱津神社の由来を聞かせていただいた。農耕の神様である鹿屋野比売(かやのひめ)をお祀りしてあり、「豊作と縁結び」に絶大のご利益があるという。大きな神社ではないが、1900年以上の歴史を秘めたただならぬ古社である。

お礼を言って帰ろうとすると、
「ところで熱田さんには持っていかれましたかな。日本武尊のことを書いておられるから、1冊持っていかれたらきっと喜ばれると思いますよ」とおっしゃる。
私はおだてられるとすぐにその気になる性質(たち)だから、それは良い考えだと思い、「はい。すぐにお届けします」と答え、お礼を言って立ち去った。
(その後の市町村合併により、現在は、この神社は愛知県あま市にある)


名古屋駅近くのホテルに置いたバッグの中にもう1冊ある。それを持って熱田神宮にすっとんで行った。

社務所の受付で、自己紹介と本をお持ちしたことを説明しかけたら、奥にいる神官の一人がニッコリ笑って、手招きしながら、「どうぞ、どうぞ」と中に招き入れてくださる。
「ははあ、萱津神社から、変な男が本を1冊持っていくよ、ぐらいの電話を1本入れてくれたのだな」と思った。

聞けば、この1900年のあいだ、萱津神社は毎年自社で漬物を漬け、熱田神宮に献進されているという。中身は日本武尊が食べられたものと同じく、茄子・白瓜・蓼(たで)で、これを塩漬けにするという。この二つの神社は親分子分の関係なのか、すこぶる仲良しみたいだ。ここでもお茶とお菓子をいただき、しまいにはコーヒーまですすめてもらい大歓迎を受けた。私はとてもしあわせな気分で熱田神宮の鳥居をあとにした。

これで終わりではなかった。

数日後、私のパソコンに丁重な謝辞と読後感想文が送られてきた。最後までじっくり読んでくださったことがよくわかる。禰宜(ねぎ)・川崎日出夫とお名前が書いてある。あとで、この方は熱田神宮庁の総務部長という要職の人だと知った。

さらに数日後、熱田神宮庁の名前で正式な礼状が郵送されてきた。
「貴重な資料として永く文庫に収蔵します」と書かれてある。この丁寧さには恐れ入った。

それにしても、熱田神宮が「永く収蔵」してくださるとは心強い。
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)と同じように、2000年ほどは保管してくださるのではあるまいか」、と友人たちに自慢した。

私の神社好きにさらに拍車をかけたのは、この二つの神社とのご縁と、両神社のご親切によるところがおおきい。



























2019年12月3日火曜日

宗像大社(3)

神功皇后の朝鮮遠征、白村江の戦い、蒙古襲来など、わが国が国難に遭遇した時、我々の先祖は常にこの宗像大神(むなかたのおおかみ)に祈った。

そして、日本が滅びるかもしれないというほどの国難が、110年ほど前ふたたびおとずれた。
日露戦争での日本海海戦(外国では対馬沖海戦と呼ぶ)である。帝政ロシアが日本征服の野望を持って、大艦隊を極東まで派遣してきたのである。


日本海海戦の砲声を聞き、その戦闘を目撃した民間人は、沖ノ島にいた宗像大社の神官と雑役の少年の2人だけである。

島の山頂に設置された海軍の見張り台から、社務所までひかれていた電話線で、「バルチック艦隊が沖ノ島にせまった」との水兵の声が飛び込んできた。

それを受けた宗像大社の主典・宗像繁丸(むなかたしげまる)は、褌一本の素っ裸になり海岸へ駆け降りた。岩の上から海へ飛び込み、潔斎(けっさい)をしたあと、装束をつけて社殿へ駆けのぼった。宗像繁丸は社殿で懸命に祝詞(のりと)をあげた。

その間、砲声が矢継ぎばやにひびいた。宗像のうしろにすわっている18歳の少年・佐藤市五郎も泣きながら祝詞をとなえた。この一戦に敗ければ、日本という国は滅びると思ったからである。

結果は、日本の聯合艦隊の圧倒的な勝利に終わり、バルチック艦隊は壊滅した。

この海戦で撃沈されたロシアの軍艦は、戦艦6隻・巡洋艦4隻・海防艦1隻・駆逐艦4隻・仮装巡洋艦1隻・特務艦3隻である。捕獲されたものは、戦艦2・海防艦2・駆逐艦1、抑留されたもの病院船2、脱走中に沈んだもの巡洋艦1・駆逐艦1で、他の6隻(巡洋艦3・駆逐艦1・特務艦2)は、マニラ湾や上海などの中立国の港に逃げ込み、武装解除された。

わずかに遁走(とんそう)に成功しロシア領に逃げ込んだのは、ヨットを改造した小巡洋艦1と駆逐艦2、それに運送船1にすぎなかった。

これにたいして、わが聯合艦隊の損害は、小型の水雷艇3隻沈没、と記録に残っている。


宗像の三女神、とりわけ沖ノ島に鎮座されているしっかり者の長女・田心姫(たごりひめ)は、渾身の力をこめてわが国を護ってくださったのである。






2019年12月2日月曜日

宗像大社(2)

このあこがれの筑前・宗像大社を参拝したのは、それからずいぶん年月を経た平成26年9月のことである。他の用事で大牟田市に行き、その帰りに福岡市に1泊した。

充分な時間がなく、私がお詣りしたのは宗像市田島(たしま)町の辺津宮(へつのみや)だけである。宗像三女神の三女・市杵嶋姫(いちきしまひめ)がここに祀られている。玄界灘の海上約12キロに浮かぶ筑前大島にある中津宮に二女・湍津姫(たぎつひめ)が祀られ、沖合60キロの沖ノ島にある沖津宮に長女・田心姫(たごりひめ)が祀られている。

しっかり者の長女・田心姫がただ一人で、日本列島の西北の絶海の孤島で、わが国を護っておられるのである。

神社の創祀(そうし)は不明といわれている。
沖ノ島の古代の祭祀遺跡から発見された約12万点にのぼる神宝・祭器類のすべてが、国宝・重文に指定されており、古いものは4世紀のものと学問的に証明されている。
4世紀は日本史の年表では古墳時代に分類される。初期の大和朝廷が大陸と交流するにおいて、この沖ノ島は交通の要所であり、同時に、対外交渉にかかわる重要な祭祀が行なわれていたことがわかる。

この孤島において4世紀に祭祀が行なわれていたのだから、数多くの人々が生活していた九州本土の辺津宮では、いつごろから祭祀が取り行われていたのであろうか。弥生時代より古く、縄文時代からと考えるのが自然ではあるまいか。

天照大神と素戔嗚命(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によって生まれたといわれる、宗像三女神が祀られるはるか以前から、ひとびとを導き、ひとびとの幸せを祈った有徳の縄文人を、この地の人々は祀っていたのではあるまいか、と私は考えている。


それほどの古社である宗像大社には幾多の日本史の巨人たちが縁(えにし)を持っている。
ボランティアの案内の方の口から出たのは、弘法大師・空海と出光佐三の2人の名前だった。たまたま私が意識していた人の名前と一致したので、なんだか嬉しかった。

空海が入唐留学生(るがくしょう)として留学期間20年の予定で北九州を出帆したのは、延暦23年(804)である。遣唐大使が乗る第一船に空海が、第二船に期間1年予定の還学生(げんがくしょう)最澄が乗った。第三船と第四船は遭難し、唐に無事にたどり着いたのは第一船と第二船だけだった。

出帆の前、最澄は宇佐神宮に、空海はこの宗像大社に参拝し、それぞれ航海の安全を祈念している。最澄の入唐は和気清麻呂の息子二人の推薦であったというから、宇佐神宮との縁は理解できる。これに対して、空海がどのような縁で宗像大社に参拝したかはわからない。

20年の留学予定を2年余に短縮して帰国した空海は、この宗像の地に1年以上滞在し、宗像大社の神宮寺(じんぐうじ)である鎮国寺を建立している。国命にそむいて、20年分の留学費用を2年余で使い切った空海に対しておとがめがあったのか、そのあたりの都の情報を探るためだったのか、事情は定かではないが、それにしても1年以上の北九州滞在はずいぶん長い。

当時、裕福な神社は前途有望な留学僧に対して、スポンサー(パトロン)として巨額のお金を援助している。最澄は宇佐神宮から、空海は宗像大社から、莫大な量の砂金をもらって入唐した、とその方面の研究者は述べておられる。

宗像大神(むなかたのおおかみ)は住吉大神(すみえのおおかみ)とともに、初期の大和朝廷の大陸との交流を助けた航海の神である。この二つの大神は、神功皇后の三韓征伐のとき神助を与えたといわれている。これらの神を奉じる海人族(安曇族)が遠征軍の軍艦の艦長や航海長といった役割をになっていたのであろう。その後の白村江の戦い(天智天皇2年・663)においても、これら宗像大神・住吉大神の氏子たちが、その軍団の水先案内役をつとめたのに違いあるまい。

大化改新(645)により宗像郡が設置され、文武天皇2年(698)には宗像社が宗像郡全部を領するようになり、宗像氏は神職として神社に奉仕するとともに、郡司(ぐんじ)として政治も司(つかさど)るようになった。

天武天皇の妃(きさき)・尼子娘(あまこのいらめ)はこの宗像氏の出である。宗像徳善(とくぜん)の娘でその子供が高市(たけち)皇子である(天武天皇の第一皇子)。この高市皇子は、壬申の乱ではすぐれた判断力で父をおおいに助け、持統天皇の御世には太政大臣に任命されている。
ちなみに、奈良時代前期の政界の実力者・長屋王(ながやおう)は、この高市皇子の長男だから、宗像徳善のひ孫にあたる。


私の祖母は97歳で亡くなったが、その両親は四国・讃岐の人である。両親は結婚後、北九州の若松で生活した。残念なことに、母親は祖母が幼少のとき病死し、父親は再婚した。その再婚した相手の女性が宗像大社の流れをくむ人で、宗像という苗字の人だったと、最近になって93歳の私の母親から聞いた。

よって、私の義理の曾祖母は宗像の人である。私には宗像の血は流れていないものの、わずかではあるが宗像大社とご縁がある。そのことをとても嬉しく思っている。





















2019年11月27日水曜日

神社のものがたり・宗像大社

宗像大社には、子供のころから親近感と尊敬の気持ちを持ち続けている。

この神社は福岡県の北部にある。

私の実家は現在は広島県尾道市と表示されるが、子供の頃は、広島県沼隈郡浦崎村と呼ばれていた。宗像大社とはずいぶん離れているのだが、少年の私は、この神社には憧憬の気持ちさえ持っていた。次のような理由による。

私の祖父・田頭佐市は明治28年の生まれで、大正の後半から太平洋戦争にかけて、内航海運のオーナーだった。大きな船ではない。300トン前後の機帆船数隻を所有して、それぞれの船に6-7人の船員を乗せ、北九州の若松から大阪・神戸方面に、主として石炭を運んでいた。
遣隋使船や遣唐使船も、船型は異なるが、長さ・幅・トン数的にはこのくらいの大きさの船であったらしい。

祖父の弟に田頭芳衛という人がいた。この大叔父は、満洲国が建国されてまもなく、財産分けでもらった1隻の機帆船を自分で運転して、数人の村の若者を連れて遼東半島の大連に渡った。
その地で海上運送業をいとなみ、商売に成功した。

満洲に行ったきりというのではなく、正月・お盆など年に何回か自分の船で郷里の浦崎村に帰っていた。帰りも行きも、なんらかの荷物を積んでいたので、商売をしながら行き来していたことになる。太平洋戦争は日本の敗北に終わった。

終戦の数日後、連合軍司令部は、「日本の航空機および外地からの船舶の運航はすべて停止せよ。これに違反する飛行機は撃ち落とし、船舶は撃沈する」との命令をくだした。

ところが大叔父は、昭和20年の10月に、自分の船に家族や知人など十数人を乗せ、家財道具すべてを積んで、なおかつ、米・小麦粉・砂糖・食用油などの食料をふんだんに積み、自分の運転で村の海辺にある自分の家の沖まで帰ってきた。機帆船といっても、通常は軽油でエンジンを動かす。日本人には油を売ってはいけない、との厳命が出ていたのだが、可愛がっていた満洲の現地の人たちが闇にまみれて数本のドラム缶を運んでくれたのだという。

同乗していた人から聞いた話では、関門海峡西の六連(むつれ)島の沖でアメリカの駆逐艦につかまった.。魚雷を撃ち込まれるかと心配したが、米兵は艦上からのぞきこみ、笑いながら手を振って「行け、行け」と合図をしたという。「魚雷がもったいないと思ったのだろう」とその人は言ったが、大陸からの帰還者だとはすぐにわかる。憐れに思った米兵の人道的かつ常識的な配慮であったかと思う。

満洲からの引揚者の手記には、想像を絶する苦労話が数多く書き残されている。大叔父のこの大胆な行動には、村の人々も感嘆し、痛快な話として当時村では語り草になっていた。
私は今でも、この大叔父の「マッカーサーなにするものぞ」の気概を、はなはだ愉快に思う。


子供の私に、大叔父は何度かこの時の話を聞かせてくれた。
「自分の船で大連に行った。大東亜戦争に負けて、日本人は国に帰れという。自分の船で帰るのがあたりまえじゃ」、「何十回も行ったり来たりしとるんじゃ。大連までなら今でも海図なしで行けるぞ」、「宗像大社の沖ノ島を目印に行くんじゃ」と言ったのが、記憶に残っている。

どのようなルートで行き来したかは聞かなかったが、おそらく関門海峡を出たあと、沖ノ島を目印に対馬の東側を航海し、釜山を目指したのだと思う。釜山には入港せず、朝鮮半島の南部を西に航海して、その後半島の西海岸に沿って北北西に進路をとれば、そこがすなわち満洲国の遼東半島・大連である。

遣隋使や初期の遣唐使(1次から5次まで)もこのルートで中国大陸に渡っている。これが大陸に渡る一番安全な航路であり、卑弥呼が派遣した邪馬台国からの使者も、このルートで魏(ぎ)国に渡ったと考えられている。10ノット前後の機帆船でも、5日から6日もあれば、我が故郷の浦崎村の海辺から大連まで到達できる。
























2019年11月21日木曜日

今東光と鴎外・漱石

これも「極道辻説法」の中にあった話だ。週刊プレーボーイの「極道辻説法」は、全国の若者がハガキで質問するのに、東光和尚が答えるかたちで編集されている。


和尚は鴎外と漱石についてどう思うか?和尚はその2人に会ったことがあるか?また一番尊敬しているのは誰か? (大阪市・匿名希望)


一番尊敬しているのはやっぱり鴎外だね。いま鴎外をほんとうに読める人は少ないんじゃないか。
漱石は女子供にも読めて通俗的だけど、鴎外は苦しんで読むんだ。「渋江抽斎」は津軽だから、ああいうのを書く時、鴎外はちゃんと俺の伯父と文通して資料を集めていたよ。

この伯父というのが、例の津軽で医者をやっていた伯父でね。その伯父と鴎外・後藤新平・北里柴三郎はみんな大学予備門で一緒だったんだよ。今の東大だな。俺が中学校を放校されて東京に出てきたばかりの頃、この伯父の使いで鴎外の家に行ったことがあるんだ。

千駄木にある立派な家だったよ。玄関で家人に伯父の手紙を渡したら、ひげを生やした先生が出てらしてね。「君はどういう?、、、、」と言うから、「私は伊東重の妹の倅(せがれ)でございます。重は伯父に当たります」と言ったら、「おお、そうか。何て言うんだ?」と言うので、
「今東光と言うんです」 覚えてやしないだろうけどね。
「確かに受け取った。返事はいますぐ書かなくていいんだろう?」
「とにかく、お渡しするようにとのことでございましたから」 「ああ、そう」

俺が絵を描きに谷中の画塾へ行くのに、絵の道具を担いで歩いていると、先生がね、団子坂の上から肴町(さかなまち)ぐらいまでお歩きになるんだ。その先にお迎えが来てるんだ。

なにしろ軍医総監だから。そこまで先生は軍帽をかぶって軍服を着て、長いマントを着て、勲一等の勲章をつけてね。とてもカッコ良かった。それで俺がお辞儀するんだ。すると、「こいつ、何処かで見たな」というような顔をなさってね。そしてちゃんと敬礼をしてくれるんだよ。それが、カッコよくてね。みんなが見ている中で、サッとこうやるんだ。


漱石には一度、武者小路実篤に紹介されたな。いまの帝国ホテルの隣に華族会館というのがあってね。そこで小さな音楽会があって、武者小路に連れていかれた。そうしたら廊下で武者小路が、
「ハーッ」とお辞儀をしてしばらく話している。

「あっ、夏目さんだな」と思って俺は見てたんだよ。そしたら、「これ、今東光君」、と言って紹介してくれたんだ。なにも俺を紹介してくれなくてもいいのに、やはり、華族の社交性なんだろうな。
そうしたら夏目さんん、「ああ」、と。なに、こっちはまだガキだし、東京に出てきたばかりの18の年だから。「ああ」、と言ったきり、眼中歯牙にもかけず、なんだろうというような顔をしていた。

そこで黙ってりゃよかったのに、俺よけいなことを言っちゃった。
「胃の調子はこの頃いかがですか?」って。お世辞のつもりでね。
そしたら、ニヤッと笑って、「相変わらずだ」、と言ったんだ。やっぱり良くなかったんだろうな。
ま、それだけの話でね。それっきり会ったことはない。

鴎外の作品に比べれば、漱石の作品は、まあ、落語みたいなものだよ。だから大衆性があって、いまでも読まれているんだ。













2019年11月11日月曜日

今東光と司馬遼太郎(2)

この話は亜細亜大学の講演会では聞かなかった。
「極道辻説法」の中にある話である。.


俺はずいぶんいろんなことをやってきたが、昔、新聞社の社長もやったことがあるんだ。
(注:「中外日報」という明治30年に創刊された一宗一派に偏らない宗教専門の新聞で、現在でも続いている)

 仏教関係の小さな新聞社でね。つぶれそうになって頼まれてさ。広告っていうのが、墓石とかお線香だとか。これじゃ金にならねえからつぶれるわけだ。それでまず第一にやったことが、編集長以下全員に広告取りをさせてね。編集の野郎ども、大騒ぎしやがった。

それから、俺が目をつけていた新聞記者に長編小説を連載させた。
「今先生、とても無理です。まだ短編しか書いたことないんですから」と尻ごみする奴を、「長編だって短編だって変わりやしねえよ。ただし、原稿料は俺のポケットマネーから出すからたいしてやれねえ。その代わり、好きなことを書いていい。また何年続いてもかまわない」

その小説が終わった時、俺は講談社に頼み込んで本にしてもらった。
これが直木賞に選ばれてな。それが司馬遼太郎よ。


この時の小説「梟(ふくろう)の城」は、昭和34年(1959)下半期の直木賞に選ばれた。
海音寺潮五郎・小島政次郎・川口松太郎などの選考委員全員が絶賛したという。

思うに今東光は、「中外日報」に連載されている時から、これは直木賞がとれる、と踏んでいたのではあるまいか。今東光が直木賞をもらったのはこの2年前、「お吟さま」であるが、これは本人にしたらすこぶる遅い受賞といえる。

菊池寛の文藝春秋社が芥川賞・直木賞の二つをつくったのは昭和10年で、川端康成は第1回の芥川賞から選考委員をつとめている。菊池寛との喧嘩がなければ、第1回の直木賞の選考委員の中に今東光が入っていた可能性はきわめて高い。その意味で、今東光は本来は直木賞を与える側の作家で、もらう側の作家ではなかったともいえる。

それだけの実力者だから、「梟の城」の価値を一瞬で見抜いたのであろう。あるいは仲良しの川端や海音寺・小島・川口など文壇の実力者たちに、「この男に直木賞をやってくれ」と頼んだのかもしれない。


今東光の直木賞受賞の時の話はおかしい。
「なんで俺が直木の奴の賞をもらうために、のこのこ出かけにゃならんのだ。直木の野郎には35円の貸しがあるんだ。それを返しもせずあいつは死んでしまいやがった」
そう言って授賞式に出ないので、文藝春秋の社長が今東光の自宅に、正賞の時計と副賞の10万円を持参したのだという。

今東光の5歳年上が芥川龍之介で、6歳年上が直木三十五だ。川端も今も、芥川には一目も二目もおいていたが、直木に対しては、少なくとも今東光は、自分と同格か自分より少し劣る作家と思っていたようだ。

今東光が書いた作品を劇にして、どこかの劇場が上演することになった。その原稿料を劇場側が「今さんに渡してくれ」と直木三十五にあずけた。その金全部を直木は使ってしまった。

「35円貸しがある」というのは、直木の名前に重ねた今東光一流のユーモアで、実際はそれよりかなり多額の金だったらしい。
「よりによって預けた相手が悪すぎるよ」と今東光はぼやいたらしい。

この直木三十五という人はずいぶん金使いの荒い人で、43歳で亡くなるまで、いつも借金まみれだった。それでいて意気軒昂で、借金なんぞなにするものぞ、との態度の人だったらしい。

作家の川口松太郎は、二か所の借金取りが直木のところに金を取りに来たとき、偶然その場に居合わせたという。

「直木は”ない”と言って、それっきり黙ってしまうんだ。なにも言わないから相手は参っちゃうんだ。根負けした高利貸しが帰ろうとすると、”少し金をおいていってくれ”と直木が言うんだ。その高利貸しが少し金をおいて出ていったのを俺は見たんだよ。これにはびっくりしたねえ」

第一回の直木賞を受賞した川口松太郎の証言である。


















2019年11月5日火曜日

今東光と司馬遼太郎

司馬遼太郎は、25歳年上の今東光を心から尊敬していた。というより、慕い、そして時に甘えていた、という表現が適切かも知れない。この人の今東光についての描写には、とても暖かいものを感じる。司馬遼太郎は今東光のおかげで世に出た。要は、お互いの気質・感受性がぴったり合っていたのだと思う。

司馬遼太郎の「街道をゆく・北のまほろば」に次のようにある。


昭和28・9年前後、私は大阪の新聞社の文化部にいた。ある日、編集長から今東光氏を紹介され、その後、この人の係になった。

今東光氏は当時伝説的な作家で、すでに大正末年から昭和初年に世にあらわれていた。
昭和5年、にわかに筆を折って比叡山にのぼり、僧になった。以後、世間との交渉はかすかだった。昭和26年、大阪府にきて、いわゆる「河内(かわち)」の八尾の天台院という小さな寺の住職になり、すこしずつ執筆活動を再開した。再度の盛名を得てから母堂をひきとられた。


以下は、東光氏から伺った話ばかりで、記憶だけが頼りである。

父君の今武平(ぶへい)は津軽弘前の旧藩士の家に生まれた。明治初年、函館にできた商船学校にまなんだ。後半生は日本郵船の欧州航路の船長をつとめ「くるみ船長」とよばれた。インドの神智学に凝り、菜食主義者でくるみを主食のようにしていたという。

「旧藩の家格は、おふくろのほうが上だったんだ」
東光氏が、母堂の人柄についておかしく語ったとき、弘前の城下でご典医だった伊東家についても聞いた。母堂は、年幼いころ、はるかに東京に出て、明治女学院に学んだという。伊東重(いとう・しげる)やその妹に高度の教育をつけさせた伊東家久という人の先取性がうかがえる。

(注):伊東重(いとう・しげる)
安政4年(1857)-大正15年(1926) 今東光の母・あやの兄。青森県医師会会長・弘前市長・衆議院議員。北里柴三郎・森鴎外は東京大学予備門・東大医学部の同窓生。

今家の母堂の学力はおそるべきものだったという。東光氏が旧制中学に入った時、息子の英語のリーダーを一読してみな暗唱してしまった。「平家物語」のほとんどをそらんじていた、と東光氏から聞いた。

東光氏は、ふれたように、早熟といえるほどの若さで世に出た。大正10年(1921)に東大在学中の川端康成らと共に、第六次「新思潮」を興し、翌々年、菊池寛によって創刊された「文藝春秋」の同人にもなった。ところが、昭和5年には、僧になった。ほとんど世にわすれられたころ、昭和31年に直木賞を受賞して、文字どおり流行作家になった。


晩年の一時期、なにをおもったか参議院選挙に出た。その選挙の事務長を川端康成がつとめたのは、奇観というべきだった。そのころ、川端さんに出会うことがあり、初対面に近いながら、真顔で理由を聞いてみた。
「私は東光の母上に恩があります」と、川端さんは目をすえて言われた。学芸会の口調のような言葉つ゛かいだった。

このことは、川端さんの生い立ちを知らねばわかりにくい。川端さんは肉親に縁が薄く、幼いころ両親をうしなった。祖父母に育てられたが、旧制中学の頃、最後に残った祖父もなくなった。
大正6年、18歳で一高に入学したとき、当然ながら寮に入った。正月の冬休みが、孤児にはつらかった、という。

今家に遊びに行ったとき、母堂はその事情を察した。母堂は、川端青年に、正月はずっと今家で過ごすようにすすめてくれた。それが、川端さんにとって大学を出るまでのしきたりになった。

今家の子供は、男ばかり3人だった。母堂は、毎年、ご自分の習慣として、年末になると絣(かすり)の着物を縫いあげて、3人に着せた。川端さんを迎えた年から、絣の着物は、3人分が4人分になった。

「ですから、私は、東光がたとえドロボウをしても、手伝わねばなりません」
なぜドロボウなのかー川端さんが笑わずに言っただけにーおかしかった。
津軽弘前人だった今家の母堂は、そういう人だった。
















2019年10月28日月曜日

今東光が僧侶になったわけ

この話は講演会でも聞いたし、「極道辻説法」の中にもある。どうして仏門に入ったのか?との質問は、講演会でひんぱんに聞かれるので、準備していたのであろう。この話と先述のテンプラ学生の話は、今東光和尚の十八番(おはこ)であったようだ。


俺がなぜ天台宗の坊主になったのかって?
俺が新進作家だった頃、茨城県の鬼怒川の上流に小さな別荘を建てたんだよ。田園の生活をするから、というんでね。それで屋形船一つ注文してね。そしてその船を川に浮かべて、そこで本を読んだり、昼寝をしたり、夏場になると西瓜を網に入れて川に流しておいて、冷えた頃それを食って、そんな優雅な生活をしていた。

その時、その村にいい寺があった。そこの和尚がおかしな、そそっかしい坊主でね。でもだんだん話していたら面白いんだ。聞いてみたら、慶応義塾の1期生か2期生なんだ。とにかく非常に古い卒業生で、川上定奴(さだやっこ)の旦那になった福沢桃介という中部電力の社長と同期なんだ。福沢桃介といやあ、当時財界では有名な人だった。

それで、寺に銭がなくなると俺の別荘に寄って、「これからわしゃ、東京の福沢桃介のところに行くけど、一緒に行ってみませんか?」と言うんだ。
「それは面白そうですね。僕もいっぺん会っておこうかな」

この住職は、若い頃苦学して諭吉先生に可愛いがられた。学費といったってあの頃は私塾だから、ただでいい、なんて時もあったんだろうな。その代りに人力車を引いて、諭吉先生を乗せていたというんだから、面白い生徒だったんだろう。それが桃介のところに行くというので、俺もお供して、芝白金だったかな、そのお邸に行ったんだ。

この和尚の寺は安楽寺という寺でな。それでお邸に行っても、「ご免」とも言わず、「安楽寺じゃ、安楽寺じゃ」と言いながらかってに入っていくんだ。それが冬でも夏でも、工事用のヘルメットをかぶって入っていく。

「諭吉先生の御仏壇にちょっとお経を、、、」と書生に言うと、桃介さんが出てくる。
「こりゃあ、わしの村の今さんという人で」と俺を紹介してくれる。俺の名前を知っていたかどうか、桃介さんは「おう、おう」とかなんとか言ってんだ。

それで心得たもんで、和尚の名前ー弓削さんというんだが、「あのな弓削君、わしは今日これから出かけるので忙しい。お経はまたに、、、、」と言いながら、包んだやつを手に握らせるんだ。
つまり、銭がなくなると、同級生の桃介をゆすりにいくわけだ。二人とも豪傑だろう。

とにかくそういう人だから、面白くなって、しゅっちゅう寺に行くようになった。
「あちこち行ってお経をあげていればいいんだから、いいね、この商売。原稿書くよりいいよ、和尚さん。俺も坊主になろうかな」と言ったら、「いいとも、いいとも。なれ、なれ」と言うわけなんだよ。
「お経をあげてやるって言っただけで、銭を黙って包んでくれるからな」と和尚は大笑いして、とうとうその人の弟子になって、浅草で得度したんだ。

三十三の中年で、一番ビリの坊主になった。だから俺は寺をつくる気はないし、位なんてものは念頭にもなかった。そして得度してもその安楽寺に入らず、別荘から通った。ひどい弟子だぜ。別荘もっていて、別荘から寺に通う弟子なんて。それで銭がなくなると、「今日はどこそこへ金をもらいに行こう」と二人で行くんだから。ま、そんな因縁(いんねん)で天台に入ったわけだ。


今東光という人は、かなり尾ひれをつけて面白おかしく話す人だが、嘘は言わない人だ。
よって、この話は本当だと思う。ただ、仏門に入った理由は、ただこれだけの単純なものではなかったらしい。芥川龍之介の自殺や、文芸春秋社長の菊池寛との衝突やら、当時、出家にあこがれる心の葛藤があったのが事実らしい。








2019年10月18日金曜日

テンプラ学生・今東光(2)

こうして一高の寮に行って、夜の9時・10時までしゃべっている。一高の門限は9時なんだ。
「門が閉まるから、俺帰るよ」
「いや、門を越えて行けばいい。もう少しいろよ」なんて、夜遅くまで引きとめるんだ。そのうち、川端は度胸のいい奴だから、「この部屋は8人だが、1人や2人はうちに帰ったりどこかの女の所に泊まりよる。誰かの空いている布団にもぐりこんで泊まっていけばいいよ」と言う。

それで俺はもぐり込むんだけど、寝ていると夜中に帰ってくる奴がいるんだ。
「あれ?誰か俺の床にもぐっている」
「うるさいなあ。足元から入って寝ろ」
無茶苦茶だよ。俺は枕を占領して、向こうは座布団を折ってな。今日はこっち、明日はあっちで、もう家には帰らない。

一高前に「のんき」というおでん屋があって、そこに行って俺は飯を食うんだ。そうしていると川端が、「そんな無駄せんでええやないか。寮の食堂に行こうや。食いに来ない連中がいるからそいつの分を食え。別に学校に迷惑かけないし、政府にも損害をかけることにはならん」
「ああ、それはいい考えや。行こう」と俺も一緒に食堂に行って飯を食うんだ。

ただ、月謝納めてないから、教室には入れない。一高はちゃんと出欠をとるからね。東大になると、もう誰が入ってもわからない。一高の教室に入れないかわりに、奴らの使っている本を読んで勉強するんだ。当時、一高の入学式は9月だった。その9月の末か10月には、もう一高の寮に入りびたりだったから、ほとんど高校・大学を出るまで、川端と一緒に暮らしたようなもんだ。こうやって、とにかく一高の3年間が終わった。


川端たちが東大に入ったんで、俺も今度は東大にかよいはじめた。なにしろ、うちが東大のすぐ前の西片町だから、毎日のように東大に通って、いろいろな授業を聞いていた。

そうしたら、ある日、川端が、「ブラブラ大学に来ても面白くない。どうだい、劇研究会でもやらないか?」と言うんだ。「それ、どうやるの?」
「銭もあんまりないから、月に一度ぐらい芝居見て、その批評でもし合ったら面白いんじゃないか」
「ああ、面白いね」、「じゃあ、あした教室で提案しようじゃないか。それ、おまえ言えよ」
「そりゃおかしいよ。俺はここの学生じゃないんだから。川端、おまえ言えよ」
「俺は口下手だからダメだ。おまえ、おしゃべりだから、おまえ言え」
しょうがないから、俺が喋ることにしたよ。

十何人かの仲間が集まったので、みんなで歌舞伎を1・2回見に行った。すると川端がみんなの前で、「銭出して切符を買って、意味ないじゃないか。松竹に交渉して東大の劇研究会だから、と言って半額にしてもらう方法はないのか。君らの誰か、行ってくれる人はいないか?」
「いや、ぼくらは田舎から出てきたばかりだし」って、みんなおじけつ゛くんだ。
そうしたら川端がまた、「おまえ行け」と言う。みんなも、「今さん行ってください。やっぱりこういうことは東京の人がいいや」と、俺が行くことになっちゃったんだ。

それで、俺は川端をひっぱって松竹の受付まで行ったんだが、川端はどうしても中に入らない。しかたがないから、俺だけが松竹の偉い重役に会った。趣旨を話すと、「そういうわけでしたら、今後私どもでご招待します」と言って、招待券を30枚もくれたんだ。翌日教室で配ったら、劇研でない連中まで切符よこせって大騒ぎになってな。まあ、みんな大喜びだった。

こんなことをしているうちに、俺がモグリ学生だってことが、みんなにわかってきたんだな。でも、ニセ学生で女をひっかけているわけじゃなく、実際に教室で勉強しているわけだろう。だから、「今ちゃんは、きっと家の事情かなにかで学資がなくてやっているんだろう」と騒ぎ立てないで、そっとしておいてくれたんだ。それともう一つ、俺がみんなにとって必要な人間になっていたから、彼らも大目に見てくれていたんだろうな。

そんな調子で、川端がいつも俺をけしかけては、俺が音頭取りみたいなことをやっていたので、今でも役人や政治家になった法科の奴らに会うと、「あのじぶん、文科では、今さんはたいしたもんでしたね」って、みんな知ってるの。
「俺は大学卒業じゃないよ」
「でもなんだか知らないけど、よく教室に来てたじゃないですか。名前もよく聞きましたよ」なんてね。妙な一生だったな。


















テンプラ学生・今東光

社会人になって2・3年経った頃、私は月一回、武蔵野市にある亜細亜大学に通っていた。

高校時代の友人がどこかの大学院を出て、この大学の助手か講師をしていた。五島昇という東急グループの総帥がこの大学の理事長をされていて、個性ある一流の人物に話をしてもらい、大学生たちの精神の糧(かて)にさせたいとの親心で、月一回講演会が開かれていた。

ところが、大学生達はこういうものには興味がないらしい。席の3分の1ほどしか埋まらないので、五島理事長は怒ってしまった。

「講演をお願いした方々に申し訳ない。これでは俺の男が立たん。助教授以下の若手の職員は全員が参加せよ。その連中の友人にも声をかけて、ともかく大勢の人を集めて席を満席にせよ。この大学の卒業生でなくてもいっこうにかまわん」との檄が飛び、いわば「サクラ」として私にお鉢がまわってきたわけだ。

友人への義理で参加したのだが、行ってみるとすこぶる面白い。10人前後の方々の講演を聞いた。今東光と出光佐三の話は特に面白かったので、今でも鮮明に覚えている。

私がこの講演を聞いた1・2年後だと思う。「週刊プレーボーイ」の名編集長・島地勝彦氏は、最晩年の今東光に気に入られて、同誌に「今東光の極道辻説法」が連載された。この中にも、このテンプラ(ニセ)学生の話が出てくる。この話は、今東光和尚の「得意の一席」であったようだ。
40年以上も前に聞いた話なので、正確を期すために、この「極道辻説法」も今回参考にさせていただいた。


今東光のお父さん日本郵船の船長で、本人は少年期、横浜・小樽・函館・神戸などを転々としている。喧嘩に強い暴れ者で、関西学院中学を含め2つの旧制中学を退学になり、東京に出てきて画家になる勉強をするという名目で遊び呆けていた。


その頃、俺は東大のある本郷あたりのゴロでね。同棲していた女と喧嘩して、近くの西片町にある実家に帰ろうと思い、赤門の前の本郷通りを歩いていたんだ。

そうしたら向こうから下駄を鳴らしながら、まっさらの一高の帽子をかぶってこちらに歩いてくる野郎がいるんだ。そいつが俺のほうをじろじろ見るんだ。野郎、俺様にガンをつけやがって。なぐってやろうと思ったよ。だんだん近寄ってきて、そいつが、「東光さんじゃない?」と言うんだ。俺の弟と同級生の池田という男なんだ。あんまり出来の良くない。

「おまえ、いい道具を手に入れたな」
俺はそいつの着ている一高の制服と帽子を、道具だと思ったんだ。
「おまえ、そいつでコレをひっかけているんだろう?一高の奴らに捕まったらどつかれるぞ」
「阿呆なこと言ってくれるな。僕は本当の一高生だよ」
「おまえみたいな頭の悪い奴が、一高に入れるわけがないだろう」
「いや、僕は補欠で入ったんや」

参ったよ、俺、これには。こんな馬鹿な野郎が一高に入っているのに、俺は相変わらずだしな。
「おまえ、ほんまに一高生やったら、おまえのところに行ってみるぞ。何ていう寮にいるんだ?」
「北寮の何号室、、、」というから、翌日、俺、行ってみたんだ。
いたんだよ。そいつが。本当に。

「東光さん、文学好きなのが数人おるんや」と、同室の奴らを紹介するんや。
「これ、川端康成って、文学。これはだれ、あれはだれ」って。みんな文学好きなんで、もう池田などそっちのけで、大いに話が盛り上がってしまった。「今度みんなして、今ちゃんの家に遊びに行こうや」ということになったんだ。

川端を含めて一高生数人を連れて家に帰ったら、おふくろが喜んじゃってね。弟2人はまじめに勉強しているのに、長男の俺1人が退学を繰り返して喧嘩にあけくれているわけだろう。本物の一高生と友達になったので喜んでね。連中が家に遊びに来るたびに、ずいぶん御馳走するんだ。

おふくろは川端のことを特に気に入ったらしい。川端が孤児で、夏休み・冬休みに帰省する先がないことを知ると、「休み期間中はずっとうちに泊まれば良い」と言って、そうするのが川端が東大を卒業するまでのしきたりとなった。おふくろは年一回、俺たち3兄弟に新しい着物を縫っていたが、それからは川端の分も加わり、年4着の着物をつくっていた。














2019年10月15日火曜日

三女帝の遺言

持統・元明・元正の3人の女性天皇の遺言を紹介したい。

我が国2番目の正史「続日本紀」は、文武天皇元年(697)8月1日から記述がはじまる。
「8月1日、持統天皇から位を譲りうけて皇位につかれた」と冒頭にある。15歳で即位したこの少年天皇は、まことに残念なことに25歳で崩御された。

文武天皇は、持統天皇の孫・元明天皇の子・元正天皇の弟にあたる。3人の女性天皇は唐の則天武后とは異なり、自分が皇位を希望したのではなく、男性天皇に皇位をつなぐため、中継ぎとしてその地位についた。

天皇に即位するはずの草壁皇子(天武・持統の子)が27歳の若さで亡くなったことが、3人の女性の苦難の始まりであった。この時6歳だった軽(かる)皇子(文武天皇)を皇位につかせるべく、3人は心を合わせて努力する。そして文武天皇は15歳で即位された。

あろうことか、この文武天皇が25歳の若さで崩御されたのである。この時、持統太上天皇はすでに崩御されていたので、孫の死という不幸を見ないですんだ。母元明・姉元正の悲しみはいかほどであったことか。

この時6歳であった文武天皇の子首(おびと)皇子(聖武天皇)に皇位を継承させるべく、その祖母・元明天皇、伯母・元正天皇の奮戦がはじまる。すぐさま元明が天皇に即位し、8年後に元明が老齢になると、はつらつとした35歳の伯母の元正が即位して、その後、みごとに聖武天皇にバトンを渡す。


「続日本紀」を読むと、この3人の女性天皇がそろって聡明で慈悲深い人柄であったことがわかる。

天智・天武の両男性天皇は、いわば実力派の天皇であった。自らの判断で臣下に指示を与え、中国の皇帝に似たかたちでこの国を統治した。同時にこの国の将来の青写真をつくった。

それに比べ、3人の女性天皇は、聡明ではあるが女性でもあり、大筋だけは自らが指示して、政治の実務は太政官(太政大臣・左大臣・右大臣)にほぼ任せていたことが「続日本紀」から推測される。そしてこのことが、それ以降の日本の国柄が、中国や朝鮮半島の国々とはまったく異なるものになる原因の一つではあるまいかと考える。

よって、これら女性天皇の遺言には、政治向きの言葉は一切ない。
「自分の葬儀はつとめて簡素におこなえ。費用を切り詰めて倹約して民を煩わせるな。喪(も)の期間を短くして役人や民が仕事を中断しないようにせよ」などの言葉がくどいほど述べられている。


「続日本紀」には、次のように記載されている。


持統天皇の遺言

大宝2年(702)12月22日、太上天皇が崩御された。遺詔に次のように述べられた。

「素服(麻の白い無地の喪服)を着たり、挙哀(こあい・死者を悼んで泣き叫ぶ中国・朝鮮式の儀礼)をすることがないようににせよ。内外の文官・武官は任務を平常の通りに行なえ。葬儀の儀礼については、つとめて倹約にせよ」


元明天皇の遺言

養老5年(721)10月13日、太上天皇(元明)が右大臣・従二位の長屋王と、参議従三位の藤原朝臣房前を召し入れて、次のように詔された。

「朕は万物の生命には必ず死があると聞いている。これは天地の道理であり、どうして悲しむべきであろうか。葬儀を盛大に行い、人民の生業をこわし、服装を飾って人民の生活を傷つけることは、朕の取らないところである。朕が崩じた後は、大和国添上(そうのかみ)郡佐保山の北の峰に、竈(かまど)を造って火葬に付し、改めて他の場所に移してはならない。天皇は通常と同じように政務万般をとり行なえ。皇親や公卿および文武の百官は、簡単に職場をはなれて、柩車につき従うべきではない。それぞれ自分の本務を守り、平素と同じように仕事をするように」

10月16日、太上天皇はまた次のように詔した。

「葬儀に用いるものは、すべて先に出した勅に従い、欠けるところがあってはならない。その轜車(じしゃ・棺をのせる車)や天皇の乗る車のこしらえは、金玉を刻みちりばめたり、絵具で描き飾ってはならない。彩色しない粗末なものを用い、卑しく控え目にせよ」

12月7日、平城京の中安殿で太上天皇は崩御された。時に御年61歳であった。

12月13日、太上天皇を大和国添上郡椎山(ならやま)の陵(みささぎ)に葬った。葬儀は行なわなかった。遺詔にしたがったのである。


元正天皇

実はこの元正天皇の遺言は、先の持統・元明天皇のように「続日本紀」の中には書き残されていない。遺言を残す直前に崩御されたのであろうか。ただ、記述された事実からして、この元正天皇も、同じように質素な葬儀を望んでおられたことが察せられる。

天平20年(748)夏4月21日、太上天皇(元正)が寝殿で崩御された。享年69歳であった。

4月28日、天皇(聖武)は勅して、天下のすべての人々に白の喪服を着させた。この日、太上天皇の遺骸を佐保山陵(さほやまのみささぎ)において火葬した。

6月5日、百官および諸国の人々に命じて喪服をぬがせた。

持統・元明両天皇のように葬儀に関する遺言がなかったので、甥にあたる聖武天皇は、簡素ながらも過去のしきたりに沿って、葬儀をとりおこなったのであろう。6月5日は、現在でいう四十九日の喪があけた日である。熱心な仏教徒であった聖武天皇は、「簡素といってもせめて四十九日までは」、と役人や人民にこの期間喪に服させたのであろう。

これを先例としたのであろうか。現在でも「四十九日」という仏教のしきたりは、我々日本人の日常で行われている。「続日本紀」には「七・七(しち・しち)」と表記されている。当時の中国や朝鮮では皇帝や国王の死に際しては1年以上の喪に服したというから、きわめて簡素な葬儀であったのは間違いない。

この元正天皇は、崩御される1年半ほど前に、次のような詔(みことのり)をされたと、「続日本紀」は記している。あるいはこれが、元正太上天皇の国民向けの遺言といえるかも知れない。

天平19年5月5日、この日、太上天皇(元正)は次のように詔した。

「昔、5月5日の節会(せちえ)には菖蒲(あやめ)を髪飾りとしていたが、近頃はその風習が行われなくなった。今後は菖蒲の飾りをつけないと宮中に入ってはならぬこととする」

いささか唐突で、わがままな詔の気がしないでもないが、弟文武天皇のひとつぶだね・首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を次の天皇にすべく、独身を通し35歳でさっそうと即位した、美貌の女性天皇らしい詔で、なんともほほえましく思える。


おしまいに、万葉集に記載されている3人の女性天皇の御製を紹介したい。

〇春過ぎて夏来るらし白妙(しろたえ)の 衣干(ころもほ)したり天(あめ)の香久山(持統天皇)

〇これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる 紀路(きじ)にありといふ名に負ふ勢(せ)の山
 (元明天皇・勢の山は、この歌をつくる1年前に亡くなった夫草壁皇子を重ねたものといわれる)

〇あしひきの山行きしかば山人(やまびと)の 我に得しめし山つとぞこれ (元正天皇)
 (「山つ゛」とは、山で採れたみやげもの。花か紅葉か山の果実か、山の民のささやかな献上物)
















 











2019年10月3日木曜日

終戦の日の鉄道列車

昭和20年8月14日午前6時、北九州の門司(もじ)駅を出発した列車は、翌日15日12時13分に東京駅に着いた。予定の到着時刻の正午を13分過ぎていた。

運転士は急いでホームに飛び降り、助役室に走った。
「申し訳ございません!予定より13分も遅れました」と大声で詫びた。

「静かにしろ!」とだれかが叱咤した。天皇陛下の玉音放送が終わり、総理大臣・鈴木貫太郎の声がラジオから流れていた。


20年ほど前に読んだ本の一部を、記憶を頼りに書いたので、正確には13分ではなかったかも知れない。しかし、終戦の日、日本全土の鉄道はほぼダイヤ通りに運行されていたのは間違いない。

下関・岩国・福山・岡山・姫路・神戸・大阪・名古屋・浜松・静岡・横浜・東京などの各駅舎は、B29による焼夷弾で焼かれていた。9日前には、広島は原爆で消滅していた。この列車が通過した3・4時間後、すなわち8月14日の正午過ぎに、山口県の光海軍工廠はB29爆撃機157機の攻撃により、学徒動員の133人の生徒を含む738人が犠牲となった。40分の間に885トンの爆弾が投下されたという。

このような状況の中でも、鉄道省の作業員と陸軍工兵隊の兵隊たちの徹夜の復旧作業により、日本全土の鉄道路線は、ほぼ正常に動いていたのである。ドイツの敗戦の日の光景とはまったく違う。

この本を読んだ時、「そうなんだ。日本人というのは凄いなあ」と思ったが、以来、年を経るごとに、この記述の感激が日増しに強くなってくる。「出典はどの本だったのか?」と気になって、関係ありそうな本に出くわすと、手にとってページをめくるのだが、今なお出典は不明である。


宮脇俊三著・「時刻表昭和史」という名著があると聞き、もしかしたら、と思い読んでみたのだが、残念ながらこの話は出ていなかった。しかし、筆者自身が体験した、別の場所でのこの日の実話が書かれてあった。

宮脇俊三は、昭和20年3月に成蹊高校を卒業し、同年4月に東京帝国大学文学部に入学している。(宮脇氏と同じ大学を卒業された畏友のTさんから、宮脇さんは最初は理学部に入学しその後文学部西洋史学科に転じた、と最近聞いた)。母と姉は新潟県の村上に疎開した。父親と本人は東京に残ったが、食糧調達のため東京・村上間をひんぱんに往復していた。父親は山形県の大石田に工場を持つ、東京の軍需会社の経営者なので、鉄道切符の取得では普通の人に比べて優遇されていたようだ。

宮脇氏は、次のように書いている。

父の工場に立ち寄り体調を崩した私は、8月14日は父と共に山形県の天童温泉で一泊した。15日は村上に帰る日である。

宿の主人が、正午に天皇陛下の放送があるそうです、と伝えに来た。
「いったい何だろう」と私が思わず言うと、「わからん。いよいよ重大なことになるな」と父が言った。
宿の主人が部屋を出ると、「いいか、どんな放送があっても黙っているのだぞ」と小声で言った。

今泉に着いたのは11時30分だった。今泉駅前の広場は真夏の太陽が照りかえしてまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。

正午が近つ゛くと、人々が黙々と集まって来た。この日も朝から艦載機が来襲していた。ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。11時55分を過ぎても、「敵機は鹿島灘上空にあり」といった放送が続くので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。

けれども、正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つつ゛いて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾(かたず)を呑(の)んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。

天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。
放送が終わっても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉(せみ)しぐれの正午であった。


時は止まっていたが汽車は走っていた。

まもなく女子の改札係が、坂町行きが来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米沢線の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。

けれども、坂町行109号列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。

機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。

昭和20年8月15日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻通りに走っていたのである。




























2019年9月30日月曜日

爵(しゃく)

公(こう)・候(こう)・伯(はく)の等級は、殷(前1600-前1028)の時代にはすでにあったらしい。周の時代になり、これに子(し)・男(だん)が加わる。爵の等級のことである。

爵とは酒器のことで、玉(ぎょく)製がもっとも尊く、次いで金・銀・銅製や動物の角(つの)製があった。王が諸侯の功績や身分に応じて、それぞれの爵を与えた。爵と封土を与えられたこれらの諸侯は、そのみかえりとして王や皇帝に対して、貢納(こうのう)と軍事奉仕の義務を負う。

約2000年間続いたこの行政システムは、唐の時代になって変化する。爵位の名称は残るが、
行政の権力からは離れていく。

隋の文帝(在位581-604)によって開始された科挙制度が、唐の時代に入りうまく機能をはじめたからである。かつての世襲の諸侯ではなく、学科試験に合格した人材を、中央と同時に各地方長官に任命するようになる。短命ではあったが、隋という王朝は革命的な行政改革をなした王朝といえる。


後漢の光武帝(在位25-57)が北九州にあった奴国(なのくに)の支配者に、「漢委奴国王印・かんのわのなのこくおうのいん」の金印を与えたのは西暦57年のことだ。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が、魏の皇帝から「親魏倭王・しんぎわおう」の金印を受けたのは、西暦239年である。

中国の皇帝から王の印綬をもらったものの、倭の王さまが臣下に爵位を与えてこの国を統治した形跡はまったく見えない。漢字が渡来系のごく一部の人しか理解できなかったのだから、当然かもしれない。

遣隋使、その後遣唐使を送り、大和朝廷は一気に隋・唐の律令制度を導入して、国の行政制度を確立する。科挙制度を導入しようとした形跡を、「続日本紀」の中にわずかに見ることができるが、結局定着していない。機が熟してなかったからであろう。

宦官(かんがん)と纏足(てんそく)には見向きもしていない。日本列島に住む我々の先祖の中に流れていた「南方の血」が、本能的にこれを拒否したのであろう。その健康な精神を誇りに思う。

中国と陸続きであった朝鮮半島の国々は、国家統一の前に古代中国の影響を過度に受けすぎた。フィリピンは絶海の孤島であったため、仏教・儒教・律令制度にまったく触れないまま、16世紀にスペインの植民地になった。これらを考えれば、日本列島が朝鮮半島から適度な距離の海中にあったという地理的事実は、すこぶる幸運なことであった。


光武帝から金印を与えられた1800年のち、日本の為政者は突然、この公・候・伯・子・男なる「爵位」というものに注目する。明治17年(1884)の華族令の制定である。

明治新政府の中に知恵者がいたのであろう。
近衛家を筆頭とする1000家の華族をつくることにより、皇室の側近である公家のプライドをくすぐり、廃藩置県で封土を失った旧大名をなだめ、維新の元勲をいい気分にさせ、さらに次の世代の若者たちにも「功があれば爵位がもらえる」とやる気を持たせた、不思議な制度であった。

これらの人々には名誉と金が与えられたが、権力は与えられなかった。その意味で、日本の爵位は「秦の軍功爵」に似ている。爵位を与える時、酒器の爵(杯)は与えられていない。明治政府の知恵者はこのことを忘れたのであろう。

余談だが、日本の為政者はこの明治期になって、はじめて科挙制度を導入している。高等文官試験制度である。

明治17年から太平洋戦争の敗戦までの60余年間に、国庫から支払われた華族への給付金は莫大な金額であった。ざっくりではあるが、それぞれの年の国家予算の1%弱がこれに充てられたと考えられる。60年分を合計すると国家予算の半年分である。

西南戦争では、時の国家予算の半分を戦費として使った。あのたぐいの内乱がさらにいくつか起きる可能性を未然に防ぎ、明治という国家を気分良くまとめることが出来たことを考えれば、この制度は十分に「もと」がとれた気がする。

そして、近代教育を受けた日本国民の多くが、この制度に疑問・不自然さ・反発を感じてきたころ、この制度は外部要因によって突如廃止された。昭和22年5月のことである。


西欧においても、この公・候・伯・子・男の爵位の制度があった。今なお残っている国もある。
英・独・仏語のそれぞれに、これらを意味する言葉がある。我々日本人には西欧の小説の中によく出てくるバロン(男爵・Baron)という言葉に馴染みがある。西欧人は、この制度は西欧で独自に発生したものだと思っているらしい。

英語で公爵のことをDukeという(Princeともいう)。古代ローマの将軍ドウクス(Dux)が語源とされているが、古代ローマといえども殷から見たらはるか後世である。この爵位という制度は、ラクダに乗ってシルクロードを通って、東から西へ入ったと考えるのが自然な気がする。




















2019年9月20日金曜日

札幌から来たヘッドハンター(3)

長州藩士の堀誠太郎は、明治元年に東京に出てきて、森有礼の書生になり、英語の勉強をしていた。ここでまた、高橋是清の名前が登場する。

高橋は当時16・7歳の少年だったが、すでに幕末にアメリカでの生活経験があり、森家の書生の中では一番英語が出来た。森は一番年少の高橋一人に英学を教え、高橋が他の数名の年長の書生に教えるというシステムになっていた。

明治3年、24歳の森有礼は抜擢され、アメリカ駐在小弁務使(実質的な公使)として赴任することが決まる。書生たちは皆、森にアメリカに連れて行ってもらいたいと思っていた。

本来なら、一番出来の良い高橋が行くのが妥当なのだが、「堀さんは年齢がいっているので、(森より2歳年上の26歳)この機会を逃すと可哀そうだ」と言って、高橋は自分は辞退して、もう一人の友人の矢田部良吉(コーネル大学卒・東大教授)と堀誠太郎の2人を森に推薦する。この2人は森に同行してアメリカに渡った。高橋是清という人は、ケタ外れの好人物であった。そして、この多くの人々への好意と親切が、後年、高橋自身の身にはね返ってくる。

堀はマサチューセッツ農科大学でクラーク博士のもとで学位を取り、クラークが札幌農学校教頭に決まったので、通訳兼農学校職員という肩書で札幌に赴任する。

クラーク博士が札幌を去る時の有名な絵が残っている。ニ頭の馬に乗った右側がクラークで、見送りの学生たちを振り向いて、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言った。この時、左側の馬に乗っているのが堀誠太郎である。

それから2・3年して、この人は札幌農学校を辞めて、東京大学の植物学の教授に転職しているのが面白い。この堀誠太郎の長男も、後日、一高・東大の教授になり、一高同窓会報で次のように語っている。

「札幌農学校に父が務めていた頃は、顔を洗っていると鮭(さけ)や鱒(ます)がやって来たという野蛮な時代でしたので、学生はあまりやって来なかったらしいです。それで父は学生募集によく上京して、予備門の生徒に旨いこと言って引張っていったそうです。学士院会員の宮部金吾先生も、君のお父さんの口の旨いのに皆ひっかかって連れていかれたものだ、と話しておられました」

この長男の証言によれば、堀が第二期学生募集のため、東京大学予備門で演説した時、その時の予備門の校長・服部一三は、長州出身でしかも堀の親戚筋にあたる人だったという。
開拓使と文部省との表向きの喧嘩の裏では、このような人間関係があったらしい。

ウイリアム・クラークという人は、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言っただけあって、冒険心に富み英雄的行為を好む人だった。南北戦争の時は、北軍の義勇連隊に少佐で身を投じ、英雄的な奮戦をして大佐にまで昇進している。

月給600円で札幌農学校に来た。当時の日本人の給料の最高額は、太政大臣・三条実美の800円である。陸軍大将・西郷隆盛が600円だから、開拓使長官・陸軍中将の黒田清隆よりもクラークのほうが高かった。ちなみに、お雇い外国人の筆頭のフルベッキ・開成学校教頭は600円(明治2年)、フェノロサ・東京大学教師は300円(明治11年)である。

開拓使はクラーク博士を2年間の契約で雇いたかった。これに対して本人は、「2年分の仕事を1年間でやってみせるから、1年で2年分の給料1万4千400円をください」と言ったらしい。かなり山っ気のある人だったようだ。

事実、クラークが札幌に到着したのは明治9年7月31日で、堀誠太郎と共に馬で札幌の地を後にしたのは明治10年4月16日である。札幌滞在は8ヶ月半にすぎない。この短い期間で、学生たちにあれほどの影響を与えたのだから、ただならぬ教育者であったのは間違いない。

気になって、開拓使がクラークに2年分の給料を払ったのかどうか、調べてみたのだがよく分らなかった。


注:この文章を纏めるにおいて、「大志の系譜・一高と札幌農学校」 著・馬場宏明を参考にさせていただいた。










2019年9月4日水曜日

札幌から来たヘッドハンター(2)

黒田清隆はこの男・堀誠太郎に、「なんとしてでも生徒を集めろ。開拓使には金がある。金にものを言わせてでも生徒を獲得せよ」と命じた。

当時の開拓使の予算は国家予算の1割に近く、陸軍省・海軍省よりも多かった。新政府はただならぬ決意で、ロシアの北海道侵入を防ごうとしていたのである。

相手は陸軍中将兼参議である。反論はしなかったが、「何を言うか!人は金だけでは動かぬ。ましてサムライの子は」と堀は腹の中で笑った。この時、黒田37歳・堀32歳である。

黒田が薩摩武士、西郷隆盛・大久保利通の直系の子分なら、堀は長州男児だ。久坂玄瑞と供に京都御所に突入した「禁門の変」の生き残りだ。その後、長州藩の海軍に入っているから、いわば久坂玄瑞・高杉晋作の子分にあたる。ただ者ではない。
予備門の生徒たちから見ても、ボルテージ(voltage)の高い魅力あふれる硬骨漢であった。

堀はまず、ロシアが北海道に手を伸ばそうとしていることへの危機感を煽った。このままでは日本国は危うい。屯田兵だけでは北海道は守りきれない。頭脳明晰な「憂国の志士」が欲しい。
農業・漁業・林業を含めて殖産興業を大いに起こし、北海道を豊かな土地に変えて日本人の人口を増やさねばならない。諸君は「屍(しかばね)を北辺にさらす」との気概を持って札幌に来てほしい。こう説いて、少年たちの冒険心・義侠心に火をつけた。

そのあとで、実利を説いた。

札幌農学校は農業の専門学校ではない。4年制の単科大学である。英文では、「Sapporo Agricultural College」という。卒業すれば農学士の学位を与える。その後開拓使が高給(月30円)で採用し、成績優秀者はアメリカの一流大学に官費で留学させる。(この月給30円は、明治13年の東京大学卒業者の初任給18円に比べると破格である)

札幌農学校の官費制度が魅力に富むことは、前年の先輩たちから聞いて、生徒たちは皆知っていた。すなわち、宿舎・食費・衣服・履物・寝具・学用品・日用品・そして小遣銭に至るまで、すべてを学校が負担した。金額でいうと1人月13円になる。もちろん授業料は無料である。

明治10年代初め、東京大学の給費性への支給月学は5円であり、巡査や小学校教員の初任給は5円前後であった。

この堀誠太郎の1時間の演説で、内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾など11名の少年は北海道に渡った。









札幌から来たヘッドハンター

札幌農学校が開校したのは、明治9年8月14日である。クラーク博士を含む3名の教授をマサチューセッツ農科大学から招聘した。

1期生の定員は24名だったが、英語のできる生徒が少なく、定員に満たない恐れが出てきた。
あわてた北海道開拓使は、文部省に頼み込んで東京英語学校の生徒10名を譲ってもらう。

文部省や東京英語学校にしては不愉快な話である。英語学校を翌年に東京大学予備門に昇格させ、近々開校予定の東京大学に進ませるために、生徒の英語教育に全力を注いでいたからである。

文部省が押し切られたのは、開拓使長官・黒田清隆が豪腕であったことに加え、この時文部大臣・木戸孝允が病気で退任しており、大臣不在で文部省側に実力者がいなかったからだ。

1年後、生徒不足はまたしてもおこり、事態は昨年より深刻だった。開拓使は再び文部省に、英語学校(この時は東京大学予備門)の生徒20名を譲って欲しいと、文書をもって要請する。これに対して文部省は、「札幌農学校へ転学を願う者これ無きなり」と完全な拒否回答をする。

この年から東京大学が開校しており、予備門の一定レベル以上の生徒全員が東京大学に入学できる。「いいかげんにしてくれ!」と文部省が怒ったのは無理からぬことだ。

しかし、学生がいなければ札幌農学校は廃校になる。この時、開拓使長官・黒田清隆の意を受けた1人の壮士が、昼休み中の予備門の教室に乗り込んできて、熱烈な演説を行なった。


その時の生徒で、この演説を聞いてすぐに退学して北海道に渡った宮部金吾(ハーバード留学・北大教授・文化勲章)は、後日次のように述べている。

「明治10年6月14日、東京大学予備門の1級に在学中、開拓使の官使でクラーク氏の通弁を務めておった堀誠太郎という人が学校に来て、1級と2級の生徒なら無試験で札幌農学校に入学を許可する故応募せよと、1時間にわたって面白い演説をした。大いに心を動かされ、意を決して僕とともに札幌農学校に来たのは11名。その中には内村(鑑三)・新渡戸(稲造・旧姓太田)・岩崎(行親)・藤田(九三郎)・足立(元太郎)などがいた」

いかに明治の初期とはいえ、ずいぶん乱暴な話である。一つの国立学校の職員が、自校の学生を確保するために、昼間に他の国立学校に乗り込んで集団退学を促し、ごっそり引き抜いたのである。しかも、これら予備門の生徒は、新設したばかりの最高学府・東京大学に進学できた優秀な生徒ばかりであった。

それを捨てて、11名の若者は未開の地・蝦夷が島に渡った。不思議な話である。












2019年9月2日月曜日

東京湾クルージング(2)

風光明媚な土地ではあるが、こんな辺鄙な漁村に生まれた少年が、「見返り美人図」のような上品な美人画を描いたのが不思議な気がする。気になって、東京に戻り少し調べてみた。なるほどそうであったのか、、、と思った。

師宣の祖父は藤原七右衛門といい、代々京都に住んでいた。師宣はあの藤原氏の一族なのだ。父の藤原吉左衛門がこの地に移住して菱川氏を称した。都の貴人がこの僻地の安房国・保田郷に移り住んだのには、よほど深い物語があったに違いあるまい。

もしかしたら、慶長20年(1615)に徳川幕府が制定した「公家諸法度」により、京都の公家の生活が困難になったのであろうか。師宣がこの地で生まれるのは、その4年後の元和4年(1618)である。

師宣の母親は、この安房・保田郷から藤原氏に行儀見習いに来ていた地元有力者の娘だったのではあるまいか。「いっそのこと私の故郷の安房に移り住みませんか。米も魚も野菜も充分に採れます。生活には不自由はさせません」と吉左衛門に言ったのかも知れない。

少年の師宣が江戸に絵の修業に行くときは船を使った。良い風だと保田から三浦半島に1-2時間で渡れる。我々のヨットと同じで、順風の南風だと半日で江戸に到着する。

菱川師宣は浮世絵の祖、と聞いていたので、葛飾北斎より40-50年前の人だろうと思っていた。調べてみると、師宣は元和4年(1618)、北斎は宝暦10年(1760)の生まれである。私は昭和23年生まれなので、天保10年生まれの高杉晋作は109歳先輩になる。師宣と北斎の年齢の差はそれよりも30年も長い。


この保田の漁業組合が経営する宿の夕食には恐れ入った。

舟に乗った大量の新鮮なお刺身がどんと出る。捕れたばかりの大きな魚が煮魚・焼き魚・酢の物・お鮨に姿を変え、これでもか、というほど大量に出てくる。3人とも大食漢だが、少々食べ残した。「全部を食べ切る人はめったにいませんよ」と漁業組合の職員でもある給仕の女性が笑いながら言う。

客が食べ残すことを承知の上で、「これでもか」と大量の魚料理でもてなすのが、この土地の流儀らしい。京都からこの地に移り住んだ藤原吉左衛門も、このような「おもてなし」を受けたのであろう。びっくりしながらも、大いに喜んだに違いあるまい。

翌日も順風に恵まれて、午後3時半に浦安のハーバーに戻った。











東京湾クルージング

ヨット部時代の友人のN君が浦安マリーナに36フィートのクルーザーを置いているので、時々乗せてもらう。中野の自宅から1時間ちょっとでハーバーに着く。

日帰り・1泊・2-3泊の3種類のコースがある。
日帰りコースは、2時間半ほどかけて羽田空港の沖を南下して横浜に行く。山下埠頭に横付けして15分ほど歩くと中華街に着く。しゅうまいか春巻きで生ビールを1杯、そのあと焼きそばを食べる。又ぶらぶら埠頭まで歩き、今度は北に2-3時間航海して、4時過ぎには浦安のハーバーに帰る。

東に進路を取り、千葉港(五井)や姉ヶ崎でラーメンを食べて帰ることもある。N君が旨い店を知っている。1泊だと、三浦半島・富浦・館山方面に行く。2-3泊だと大島・三宅島に向けて太平洋に乗り出す。

50日コースというのがプランではあるのだが、まだ実行していない。小笠原諸島の父島をベースに母島まで足を延ばし、さらに硫黄島(いおうとう)の沖まで行き、海上から亡くなられた兵隊さんたちを慰霊したい。

36フィートだから定員は12人だ。ただ何泊かで遠出する時は、ベッドの数が限られているので3-5人がちょうど良い。今回はもう一人の学友のU君を加え、3人で安房の保田(ほた)漁港に行った。U君はヨット部ではないのだが、平家の子孫だけあって風をつかむセンスが良い。近頃めきめきとセーリングの腕を上げている。

保田は浜金谷の南、安房勝山の北にある風光明媚な漁港だ。浦賀水道を抜けて、三浦三崎よりかなり南に位置する。西は相模湾で富士山がくっきりと見える。南は太平洋だから海はエメラルド色に輝いている。地中海のカプリ島やベトナムのハロン湾の海の色とまったく同じだ。

普通は港に着いたらすぐに銭湯に駆け込み、そのあと居酒屋でビール・夕食を済ませて、ヨットに戻って寝るのが安上がりなのだが、今年の夏は異常に暑い。ヨットの中で熱中症で倒れたら笑われるぞ、とだれかが言って、今回は奮発して宿をとることにした。N君が以前に泊まったという保田の漁業組合が運営する民宿で、1泊2食付で1万円だ。

2ノットほどの追い潮に乗ったらしく、2時半頃に漁港のバースに横付けできた。平均6-7ノットの航海で、予定よりずいぶん早い。宿ですぐに風呂を浴びるが、夕食まではだいぶ時間がある。

菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)の生家が徒歩で数分の場所にありますよ、と宿の人が教えてくれた。明日の飲み物や氷を買う予定のスーパーの近くらしい。3人で歩いて行った。

菱川師宣記念館という美術館を目指して行ったのだが、月曜日は休館日とのことで閉まっている。目の前の小さなお寺の立派な梵鐘の前に、浮世絵師として成功した師宣が大金を寄進してこれを造ったと書いてある。その横に「見返り美人」の大きな銅像が建っている。













2019年8月14日水曜日

伊東巳代治(4)

伊東巳代治の日本史への貢献は、大日本帝国憲法の制定と日清戦争勝利の2つが大きい。

彼より4歳・3歳年長の金子堅太郎と高橋是清の2人の人生の名場面が、日露戦争勝利であったことに比べると10年早い。
その証拠に、伊東は日清戦争勝利の直後、明治28年8月20日に「男爵」を授けられている。ちなみに、金子堅太郎は明治33年、高橋是清は明治40年に「男爵」になっている。

明治5年からフランス・ドイツで法律を学んだ井上毅や、ハーバード・ロースクールで学位を取った金子堅太郎に一歩もひけを取らず、伊東は3羽ガラスの1人として、見事に大日本帝国憲法を作りあげた。これが可能であったのは、16歳の時からの実質的な弁護士活動、その後のお雇い外国人法律家2人から学びながら工部省の法律実務を取り仕切ったことにある。法律家としての実力は、井上や金子より伊東のほうが上だったかも知れない。

日清戦争での功績は、情報官僚として日本や世界のメディアを操作して、世界の世論を日本有利に誘導したことにある。ロイター通信を含めて外国の通信社にも、日本有利の記事を書かせるべく
裏金を渡している。伊藤博文の了解を得た上でのことである。


人生の前半において2つの大仕事をやり遂げた伊東は、大正から昭和になると、「いじめっ子」ぶりを発揮する。「弱い者いじめ」ではない。「強い者いじめ」である。長寿を保った晩年の山形有朋のイメージにも似ている。

大正の後半から昭和の初めにかけて、伊東巳代治は「内閣の鬼門」と恐れられ、大物政党政治家たちから忌み嫌われる。多くの内閣総理大臣が伊東に虐められ、そして泣かされた。

若槻礼次郎がその晩年に書き、昭和25年に出版された「明治・大正・昭和政界秘史」という本がある。伊東巳代治はすでに亡くなっていたが、実名では書きにくかったのか、「枢密院の老顧問官」という表現で伊東のことが書かれている。

昭和2年の話である。

「果たせるかな、枢密院はこの事は憲法七十条に当たらんと言い出した」

「枢密院の老顧問官は、この案を討議する時、政府の外交が軟弱であるといって攻撃した。これは問題外であるから、私も外務大臣の幣原喜重郎も、黙って答えなかった」

「枢密院は頑として応じない。枢密院議長の倉富勇三郎君は私に非常に好意を持ってくれていたが、彼は枢密院の中心勢力ではない」

「その老顧問官は、ますます調子に乗って、陛下の御前をも顧みず、町内で知らぬは亭主ばかりなり、という俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。まるで枢密院を自分一人で背負っているような勢いであった。私はもう癪にさわって、一つ相手になって喧嘩をしたかったが、場所が場所であり(注・宮中)、立場が立場だから、じっと腹の虫を抑えて黙っていた。政府も閣僚全部出席したが、わずか十人ばかり、枢密院のほうは二十何人で、とうとう政府案は否決され、内閣は総辞職した」

よほどくやしかったのであろう。若槻はこのように伊東のことを悪口言っている。若槻だけではない。田中義一、浜口雄幸などの総理大臣も伊東に虐められている。


ただ、伊東には伊東の言い分があった。

議会制民主主義を想定した明治憲法を制定するにあたり、当時の自由民権運動の動きから察して、将来、過度に大衆迎合するデモクラシー政治が行われる可能性があった。同時に左翼思想を抑える必要もある。この制御機能を持ったのが枢密院である。

枢密院は天皇の諮問機関で、「憲法の番人」とも呼ばれ、日本だけでなく、国王・皇帝を戴く欧州の国々にも存在した。伊東の権力の源泉は、この枢密院のボスであったことにある。枢密院のボスには時の内閣を総辞職に追い込むだけの力があった。

「自分が頑張らなければ皇室に災いが及ぶ恐れがある」との使命感が伊東には常にあった。

今一つは、昭和2年のこの時点では、伊東のほうが若槻よりも位階(いかい)がはるかに上で、その分「若槻より伊東のほうが格段に偉かった」ともいえる。
この時、伊東巳代治70歳、伯爵・正二位である。かたや若槻礼次郎60歳、爵位無し・正五位である。(若槻は昭和6年に男爵、昭和17年に従二位)

爵位は血統による世襲、または国家功労者への栄誉称号だから、伯爵だから俺は偉い、とはかならずしもいえない。本人も世間もそのように認識している。

これに比べ、位階とは国家の制度に基つ゛く個人の序列であり、天皇との距離を示す。
正二位の人が正五位の人に対して、「俺のほうが偉い」と思うのは、当時としては自然な感覚である。ちなみに伊東は死去の際、従一位を追叙されている。

戦後の総理大臣で従一位は、幣原喜重郎・吉田茂・佐藤栄作の3人で、鳩山一郎・岸信介・池田勇人などはその下の正二位である。


ただし、その後の日本史を結果論から判断すると、この時の政策論争(台湾銀行の救済)の正否は若槻に軍配があがる気がする。


このような「いじめっ子」ぶりの度が過ぎて、晩年の伊東は時の総理大臣から煙たがられていたが、死の前年(76歳の時)、後世に光るみごとな政治判断をしている。

「国際連盟脱退反対運動」である。

松岡洋右の国際連盟脱退演説は、当時、軍部を筆頭に、朝野、左右を問わず、国を挙げて熱狂的に支持された。

伊東巳代治ただ1人、これに対して絶対反対の論陣を張る。

第一に、このことにより日本は国際的に孤立して軍事的危機におちいる恐れがある。第二は、もし脱退するのであれば、国際連盟からの委任により日本が統治しているサイパン・テニアン・トラックを含む南洋群島を引き続き日本が統治する法的根拠がない。というのが伊東の言い分であり、まさに正論である。

首相・斉藤実にこの意向を伝えると同時に、内大臣の牧野伸顕・元老の西園寺公望・陸軍大臣・海軍大臣、そして望月圭介以下の政友会の実力代議士たちに、これを強く主張している。
当時、伊東邸に出入りしていた外交官・吉田茂に対して、「英国に頼って1ヵ年の猶予を求むべく動くべしと内田外相に伝えよ」とも指示している。

結果的には、この伊東の主張は実現しなかった。これ以降、軍部が政党政治家や枢密院を抑え、日本の政治を動かしていく。そして太平洋戦争に突入する。



参考文献:
「伊東巳代治関係文書」 編集・国立国会図書館 憲政資料室
「明治・大正・昭和政界秘史」 著・若槻礼次郎
「日本叩きを封殺せよー情報官僚伊東巳代治のメディア戦略ー」 著・原田武夫























 


伊東巳代治(3)

英語のできる少年弁護士・伊東巳代治に最初に目をつけた日本人は、兵庫県令の神田孝平だ。
三顧の礼で本人とクリュッチリーを説得して、新聞社と弁護士の両方の仕事を続けて良いという条件で、「兵庫県官史に採用する」との辞令を出している。本人が17歳の時だ。翌年、長崎より神戸に両親を迎えて一家を構え、その翌年の明治8年、19歳で結婚している。ずいぶん親孝行な息子である。

この当時の月給は、3つの仕事を合わせると、軽く150円を超えていたと思える。先のブログで紹介したように、21歳の高橋是清と20歳の末松謙澄が、巳代治の少年時代の英語の師匠・フルベッキの読み終えた英字新聞を翻訳して、日日新聞から50円を貰っていたのはこの頃の話である。

それまでは代言人といって無試験でやれていた弁護士に、明治9年、試験制度が導入される。巳代治の実力なら軽く合格できるので、本人は受験を考えた。

これに対して、恩人の元兵庫県令の神田は、「そんなチマチマした資格試験など止めてしまえ」と反対し、「今後の有望株である工部卿・伊藤博文に会ってみろ」と伊藤との面談をセットしてしまった。


この面談は、明治9年12月27日、場所は現在のホテルオークラに近い霊南坂の工部卿邸で行われた。伊藤博文36歳、伊東巳代治20歳である。「君は思ったよりずいぶん若いな。英語ができると聞くが書くほうはどのくらいか?」と伊藤が聞く。「一人前にはできると思います」と伊東が答える。

伊藤は書棚から、来たばかりのアメリカ公使からの手紙を見せて、だいたいの返事のアウトラインを話し、「これに対して返事を書いてみろ」と命じる。巳代治はすぐさま英文をしたためた。それを読んだ伊藤は、「良いだろう」と言って末尾に自分のサインをして、自分で封筒の糊をなめて、「この手紙を出しておいてくれ」と書生に命じた。

伊東の書いた英文を、伊藤が100%理解したかどうかは疑わしい。この時の英語力を今風にTOEICでいうと、伊藤850点、伊東950点ぐらいではないか、と想像する。

伊藤博文という人は、幕末に長州藩から井上馨らと半年ほどロンドンに留学しているが、もともとたいした英語力ではない。志士仲間には、「俺は長崎でフルベッキ先生から英語を教わった」と自慢していたらしいが、実際はフルベッキの孫弟子の日本人から習ったらしい。巳代治にはばれてしまうから、フルベッキの弟子とは言わなかった。

ただ、伊藤という人は努力家で、それ以降も暇をみては自分で英語の勉強を続けていた。
陽性であけっぴろげの人だから、「君は若いけれど、英語に関しては吾輩の兄弟子だな」ぐらいのことは言った可能性がある。

「米国人法律家・デニアンと英国人法律家・ビートンを工部省で雇った。君はこの2人から法律を習って、同時に2人と一緒に工部省で取り扱う法律事務を全部処理してくれ」と伊藤は言う。

給料の話になった。神田元県令から伊東が高給を取っていることを聞いていたので、伊藤は工部省の給与レベルだと安くなるのでは、と気にしていたらしい。これに対して伊東は、カーネギーがスコット大佐に答えたのとまったく同じ返答をしている。

「このような素晴らしい法律家の先生2人と一緒に仕事ができるなら、留学するのと同じです。給料などいくらでも良いです。ぜひご奉公させてください」
「それじゃ、君が干上がってしまうじゃないか」と伊藤は大笑いしたという。

カーネギーにしても、巳代治にしても、大成功する人はこのあたりの呼吸・心意気を理解しているようである。

長くなってきた。伊東巳代治の少年時代の小伝はこのあたりで終える。











伊東巳代治(2)

20歳で伊藤博文の知遇を得るまでの少年時代を、足ばやにたどってみたい。

安政4年(1858)、長崎奉行職の下級武士の第3子として生まれた。他の四天王、井上毅は13歳年上、金子堅太郎4歳、末松謙澄は2歳年上である。

8歳の時、オランダ系アメリカ人・フルベッキの門を叩き英語の勉強を始める。本物の英語を8歳から学んだことも幸運であったが、「明治のお雇い外国人の筆頭・フルベッキの長崎時代の直弟子」という事実が、のちの巳代治の人脈形成に大きな意味を持つ。

その3年前、来日早々のフルベッキから英語の個人授業を受けていたのが、佐賀藩の大隈重信・副島種臣の2人だ。

少年の語学の上達は早い。10歳の頃には巳代治はすでにかなりの英語使いになっていた。
その頃、20歳を過ぎてフルベッキから英語を習い始め、なかなか上達せずもたもたしていたのが、大山巌・陸奥宗光である。陸奥はこの頃、阪本竜馬の海援隊に属し長崎にいた。ただ、竜馬がフルベッキの門を叩いた形跡はない。

明治4年、工部省電信寮は、英語のできる青少年を官費生として採用する必要に迫られた。当時の電信は英文電報のみを扱っていた。英語のできる青少年は長崎に多い。電信頭・石丸安世は自分で長崎まで出張して試験を行い、15歳になったばかりの巳代治はこれに合格する。

東京での1年間で卒業、郷里の長崎配属になったものの、半年足らずで辞めてしまう。「約束が違う」というのが巳代治の言い分だった。英語人材を数多く集めるために、「成績優秀者は卒業のあと欧米に留学させる」というカラ手形を、工部省は生徒たちに切っていたのである。

その後、まだ16歳だが、巳代治は神戸の英字新聞「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社する。英語と電信の知識がものをいった。

社長のクリュッチリーは弁護士でもあった。巳代治の英語力と向上心を高く買い、その可愛がりようは尋常ではなかった。自分の宿泊先の兵庫ホテル(日本最古の洋式ホテル)に1室を与え、法律書を買い与え、法律家として鍛えあげる。彼はこのホテルに法律事務所を置き、国際弁護士としてアメリカ領事館と兵庫県との訴訟案件などを手掛けていた。巳代治を国際弁護士に育て上げることは、クリュッチリーにとっても都合がよい。
巳代治は新聞社の社員、国際弁護士の両方の仕事で大車輪の活躍をする。



伊東巳代治

伊東巳代治は伊藤博文の四天王の1人、というのが歴史家の評である。他の3人は年齢順に、井上毅(こわし)・金子堅太郎・末松謙澄となる。このうち井上・金子・伊東は「チーム伊藤の3羽ガラス」として、大日本帝国憲法の制定に奔走する。4人の中では巳代治が一番若い。

明治18年、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任すると、巳代治は総理秘書官になる。28歳。
明治21年4月、明治憲法案は伊藤総理より天皇に提出される。明治25年、第二次伊藤内閣が成立すると内閣書記官長(現在の官房長官)に就任する。この時36歳である。

このスピード出世のキーワードは、「英語」・「電信」・「法律」の3つだ。もちろん人物としての底力があったことは言うまでもない。

「幼少にして英語と電信の知識を身に着け、すさまじいスピードで立身出世した」伊東巳代治の経歴は、アンドリュー・カーネギーの成功物語に似ている。

本人の人柄と電信知識を買って、ペンシルベニア鉄道重役のスコット大佐が自分の手元に引き抜いたのは、カーネギーが19歳の時である。しばらくして南北戦争が勃発し、スコット大佐は陸軍次官に抜擢され、カーネギーも一緒にホワイトハウスで勤務する。リンカーン大統領がひんぱんに電信室に顔を出し、「アンディ君、グランド将軍からの電報はまだかね?」と聞いていたのは、彼が20代前半のことだ。

かたや、巳代治が博文の知遇を得たのは明治9年の年末で、本人が20歳の時である。博文の側近として岩倉具視を味方につけて、大隈重信を追いつめていたのは、巳代治が20代の前半の頃である。

若い頃から超大物たちに囲まれて仕事をしたのが2人の共通点であり、これらの人脈が大きな財産になる。

この2人は、いわば早熟の人である。言葉を換えれば、若くして世間に出て、仕事をしながら実力を増大させていった人ともいえる。カーネギーが本格的に仕事を始めたのは15歳、巳代治は16歳の時である。

実業家・政治家として大成功した2人だが、人生における出発点が2人とも電信局勤務というのが興味深い。

明治5年、上海―長崎間に電信海底ケーブルが設置された。当時、「電信とはすなわち文明」といっても過言ではなかった。今風に言えば、伊藤巳代治は16歳にしてハイレベルのITスキルを身に付けた英語の達人であった。現在でも、どこからでも声がかかる1流の人材である。


2019年8月8日木曜日

末松謙澄と高橋是清

明治7年、21歳の高橋是清は、開成学校の教頭・フルベッキの洋館のひと間で、居候のかたちで先生の手伝いをしながら英語の勉強をしていた。

フルベッキのお嬢さんのところに、佐々木高行のお嬢さんが、若い書生を供にして英語を学びにくる。その書生は20歳で、飾りっ気のない素朴な好青年で、漢学の素養があり詩をつくる。

高橋は、この豊前(福岡県)の庄屋の息子だという青年が気に入った。君どうだ英学をやらんか、僕が教えてあげるよ。その代り僕は漢学が出来ぬから教えてくれよ、と言う。話がまとまり、お嬢さん同士の勉強の時間、高橋とこの青年・末松謙澄(すえまつけんちょう)の交換教授が始まった。

2人は兄弟同様の親しい間柄になる。
ある日、末松が師範学校の入試に合格したことを嬉しそうに高橋に告げた。高橋は心の中に、なんだ師範学校なんぞという気がして、末松のために喜んでやる気がしない。では君は、一生学校教師で暮らす気か、と高橋が突っ込むと、末松はどぎまぎして、いや、そう決めたわけではない。と言う。

高橋は反対を唱えた。師範学校などよし給え。それより僕ら2人して稼いで収入を得て学問しようではないか。末松は不安で、そうしてもいいけど、一体何をするの?と尋ねる。
高橋は一案を出した。フルベッキ先生のところに外国の新聞がいろいろ来る。その英字新聞の記事を翻訳して、日本の新聞社に売って原稿料を取ろう。末松もなるほどそれはいいと、その勧めに従った。

ところが末松が師範学校の校長に会ってそのことを伝えたら、たちまち小言をいわれた。佐々木夫人も、心得違いをしてはならぬ、と説教する。末松の心はまたぐらついて、高橋のところに来て、僕はやっぱり官費生になるよ、と言う。

高橋は、そこでまたしても、師範学校をやめるべしと末松を説いた。その上に、自分で師範学校へ出かけて校長の箕作秋坪(みつくりしゅうへい)先生に直接会って談じた。はじめは難色を示した校長を説き伏せて、ついにその承諾を得た。こうなっては末松も高橋の言に従わざるをえない。


2人は翻訳の仕事を始めた。2人がかりで原稿を書き、ではどこに売りに行こうか、という段取りになった。当時の一流新聞は、「郵便報知新聞」・「朝野新聞」・「読売新聞」・「日日新聞」の4社である。高橋は順番に原稿の売り込みに出かけたが、前の3社はまったく相手にしてくれない。高橋は当てが外れてしまった。最後の頼みの綱は「日日新聞」(のちの毎日新聞)だけだ。

びくびくしながら訪問すると、甫喜山(ほきやま)という人が会ってくれた。
ともかく原稿を見せ給え。採用したら1枚につき50銭払おうと言ってくれた。2人は張り切って原稿を持ち込んだが、なかなか新聞に出ない。しばらくするとポツリポツリと出るようになった。

月末に原稿料をもらいに行った。甫喜山氏がまた会ってくれ、枚数はまだかぞえてないが、一体君たちはひと月どのくらいあればやっていけるのかと聞く。2人でどうしても50円かかります、と高橋が言うと、それでは50円あげよう、と気持ちよく渡してくれた。
(明治8年の巡査の初任給が4円、明治13年頃の東大や慶応卒の初任給が18円だったことを考えれば、高橋はずいぶんふっかけたものだ)

何ヶ月か経って、日日新聞から帰った末松が、浮かぬ顔をして、もう駄目だという。高橋が聞いてみると、日日新聞に福地源一郎という偉い先生が入社された。先生は外国語ができるから、もう我々は要らなくなる。口の乾上りだ。と末松はしょげている。

高橋は、ここでもまた、末松を励まして言う。
なるほど福地先生は偉い人だろうが、年もいっているだろう。若い僕らを追い出したりはなさるまい。あたって砕けろだ。とにかく出かけて話をしてみようではないか。(この時福地は34歳。日日新聞には社長含みで入社している)

果たして高橋の予想した通りであった。福地は末松の学才を認め、その人柄を愛し、その庇護者になる。福地の紹介で、伊藤博文・西郷従道などの大官の許に出入りするようになる。そして役人になり、外国へも留学し、その出世の途が大きく開かれていった。

高橋はかように語り、福地をもって末松一生の恩人と言っている。しかし以上の談話を通して考えると、福地のほうは第2の恩人といってよく、第1の恩人は高橋是清その人だといわなくてはなるまい。しかし、高橋は、末松君とは兄弟分だというだけで、恩人ぶったりしていないのが奥ゆかしい。


この文章は、高橋是清の懐旧談を森銑三が整理して、「明治人物夜話」の中で紹介したものを、筆者がさらに短くまとめ、少しだけ注を入れた。


この末松謙澄という人は、伊藤博文内閣で逓信大臣・内務大臣と出世するのだが、他の大官にくらべて一風変わった人だった。

明治11年、24歳の時、抜擢されてロンドンの駐在日本公使館付一等書記官見習いで赴任するが、まもなく依願免官する。

勉強に専念したいといって、ケンブリッジ大学のセント・ジョンズカレッジに自費留学している。お金が充分にあったわけではない。学費は三井財閥からの借金と、在英中の前田利武(のちの男爵)の家庭教師でまかなっている。外交官の身分を捨てて、このように身を処すのは相当な勇気が要ったかと思う。

兄貴分の高橋是清に相談して、「やってみろよ、なんとかなるぜ。一等書記官なぞ辞めてしまえ」と、超楽観主義者の高橋是清に背中を押されたのかも知れない。

ケンブリッジで法学士の学位を得るが、この人は文学好きであった。明治12年にロンドンで「義経ージンギスカン説」を唱える論文を英語で発表し、明治15年には「源氏物語」の英訳本をロンドンで発刊している。

話は前後するが、伊藤の紹介で知己を得た山県有朋の秘書官として、末松は明治10年の西南戦争に従軍している。同年9月、西郷隆盛宛ての降伏勧告文を起草したのはこの人で、一代の名文といわれた。23歳の時である。

大正9年、流行していたスペイン風邪で急逝したのは残念である。享年65

























2019年8月1日木曜日

6歳の酒飲み宮司

富山県選出の代議士で綿貫民輔という人がいる。すでに政治家は隠退されたが、今なお元気で
神社庁の「長老」をされていると聞く。92歳になられる。

10年ほど前、この人が新聞か週刊誌に書かれた話が面白かった。記憶を頼りにご紹介したい。

綿貫さんは、富山県井波の古い神社の跡取り息子に生まれた。祖父が宮司だったが、4期目の町長を務め会社の経営者でもあったので、毎日が宴会でほとんど家にいない。
養子に入った父が神職を継ぐ予定だったが、当時県会議員をしていて、これまた祖父同様ほとんど家を留守にしている。お二人とも、神官の仕事が嫌だったのかも知れない。

2人に愛想を尽かした祖母は、後継ぎとして孫に目を付ける。厳しい祖母は、小学校にあがる前からこの人に神主の儀礼を教え込む。まだ読み書きもできない孫に祝詞(のりと)を暗唱させてしまった。

6歳で宮司初デビューの時は、わけもわからないまま袴をはかされ、船に乗せられた。
宮司の代理として、河の上流にある30軒ほどの集落に祝詞をあげに行った。

村人総出で出迎えてくれた。
「若様が来てくれた!」と集落を挙げての大歓迎であった。なんとか無事に神事を終えたら、宴席が用意されており酒が出た。

「私は子供ですから」と一度は酒は断ったのだが、
「宮司代理だから御神酒(おみき)を少しだけ飲んでください」と集落の長老が言う。
子供心にも、「これも仕事だ」と思い、思い切って、おちょこ1杯飲んだら旨かった。もう一杯、と勧められてまた飲んだ。そして酔っぱらってしまった。というのが本人の述懐である。
家に帰って、親に叱られたか褒められたかは書いてなかった。


この人は衆議院議員に13回当選して、いくつかの大臣をやり、衆議院議長まで務めている。

第1回から最後の13回まで、この時祝詞をあげてお酒を飲まされたこの30軒の集落の票は、1票たりともほかの候補者に渡らず、すべて私に入れてくださった。ありがたいことだ。と書かれてあった。


92歳の今なお、元気で仕事をされ、お酒も飲んでおられるらしい。
きっとおなかの中に、立派な「酒虫」が1匹いるのだと思う。


2019年7月30日火曜日

酒虫(しゅちゅう)

世界の古典の中でも、とびきり短い短編小説をご紹介したい。
このブログで全文をご披露できる。

蒲松齢(ほしょうれい)の「聊斎志異」(りょうさいしい)の中にある「酒虫」という小説だ。

蒲松齢を紹介するのに格好の材料がある。福田定一という20代の新聞記者が書いた「黒色の牡丹」の一節である。プロの作家ではない。いわば修行中の作家の卵の作品だが、後の司馬遼太郎
だから、その筆力には迫力がある。ここでは、この福田さんの筆を借りる。


西紀1700年前後といえば、中国の清、康熙帝(こうきてい)のころである。山東省淄川(しせん)の人蒲松齢は、八十を過ぎてなお、神仙怪異を好むことをやめなかった。

鄙伝(ひでん)によれば、この人、毎日、大きな甕(かめ)をかついで往来に据え、旅人を見れば呼びとめて茶を馳走したという。さらにその横にタバコが用意してあって、喫茶がすむとそれを勧める。

無料である。しいていえば、談話取材料がその茶とタバコとみるべきであろうか。旅人を呼びとめては、咄(はなし)をせがむのである。それも通常のものではなく、何か諸国を歩くうち、妖怪奇異を見聞しなかったかということなのだ。

「聊斎志異」十六巻、四百三十一節の怪異譚はかくて出来あがった。こんにち、世界最大の奇書といわれ、中国人の卓越した想像力と、ふしぎなリリシズムを代表する説話文学として不朽の賞讃をうけている。


「酒虫」はこの四百三十一節の中でも、とびきり短い作品だ。本文は次のとおりである。



酒虫(しゅちゅう)     立間祥介 訳

長山県(山東省鄒平・すうへい)の劉某(りゅうなにがし)はまるまると肥っていた。

酒好きで、一度飲み出すと一甕(ひとかめ)空けてしまうのが常だった。城外に百畝(うね)あまりの田畑を持っていて、その半ばに酒を醸(かも)すための黍(きび)を植えていた。
素封家だったので、酒代くらい高がしれたものだったが、ひとりの異人の僧がその顔を見て言った。

「なにかおかしなことがおありでしょう」
「いや」
「いくらお飲みになっても、酔わないとかいうことはありませんか」
「そういえばそうだ」
「それは酒虫のせいです」

驚いた劉が、治療ができるものだろうかと問うと、「簡単になおせます」、
「薬は」と聞くと、「何もいりません」と言って、劉を日向に俯(うつぶ)せにさせ、手足を縛りつけて、顔の先三尺ばかりのところにうまい酒を入れた椀を置いた。
劉はまもなく喉がからからになってきた。渇きは鼻を衝(つ)く酒の香りによってますます激しくなり、どうにも堪えられなくなった。

そのとき、喉の奥が急にむずむずしたかと思うと、わっと何かを吐出し、それがもろに酒のなかに落ちた。

縄を解かれ、つくつ゛く見てみれば、長さ三寸ばかりの赤い虫が魚のように酒の中を蠢(うごめ)いていた。目も口も揃っている。
劉が驚いて礼を言い、礼金を差し出すと、僧は受けようとせず、ただその虫を貰いたいという。

「こんなものが何かお役に立つのですか」と聞くと、
「これは酒の精で、これを水を入れた甕に入れてかき回せば、うまい酒になるのです」という。

試させてみると、その通りだった。

以来、劉は酒を敵(かたき)のように憎むようになった。そのうち次第に痩せ細り、日毎に貧しくなって、三度の飯にも事欠くようになった。


以上がこの作品の全文である。


私がブログでこれをご紹介するのには訳がある。
というのは、何回これを読んでも、筆者の蒲松齢が何を言いたいのか、さっぱり分らないのだ。

怪異譚だから、不思議で気味悪ければ、それだけで充分価値があるのかも知れない。しかし、他の節を読むと、なるほど筆者はこういうことが言いたいのだな、となんとなく見当がつく。
この「酒虫」だけは、それがまったく分らない。

これを読まれた方から、「こういうことを言いたいのだと思うよ」とのご意見があれば、ぜひとも教えていただきたいのだ。


追記:
この「酒虫」の画像探しに苦労した。
これから察すると、みみずに目と口を付けた魚らしきものを想像する。ドジョウの子供を赤っぽくすればこれに近いか、とも思う。
しかし、ぴったりの画像がない。何もないのも淋しい。よって家のどんぶりに高級な純米酒(天狗舞)を2合ほど入れて写真に写した。
「酒虫」の姿は、読者の方に想像して頂ければと思う。




























2019年7月25日木曜日

日本史の人気者・6位―9位

「日本史の人気者・番付表」を読んでくださった方々から、たくさんの声援を頂いた。
多くは、「なにをモタモタしているの。早く6位ー9位を発表したら」との声だった。

「俺は江川英龍を尊敬している。偉い男だよ。番付の中に入れてくれないか」との意見もあった。
確かにこの人は偉い。お台場や伊豆・韮山に反射炉を建設し、佐久間象山・橋本佐内・桂小五郎の師匠でもある。ただ、日本史の人気者・10傑には無理があるような気がする。

意外だったのは、最澄と北条泰時の名前が、何人もの方々から挙がったことである。
「むむ、おぬし、できるな!」と思った。
この2人の名前を挙げた人は、相当深く日本史を勉強された方だと思う。今回の人気者10傑には当たらないが、日本史の偉人10傑には入れるべき人物と考える。

先日、畏友のAさんとランチを一緒して、これらを含めてお話を伺った。
この人は、歴史検定1級に5回合格して、「歴研日本史博士」の称号を持っている。
日本史の達人で、並みの大学教授などこの人の前に出ると「青菜に塩」だ。

そのAさんがおっしゃる。

「この設問自体に無理がありますね。時代時代において人物の評価は変わります。たとえば日本武尊を例にとると、明治以降の日本人から見たら突出した英雄でしょう。ただ、当時の九州や東国の人々からしたら、とんでもない侵略者です。嫌な奴だというイメージは、それらの地域では数百年以上は続いたのではないでしょうか」

玄人ならではのコメントである。なるほどと思った。

「人気者6位―9位」の表をお見せしたら、「まあ、こんなところですかね」と肯かれた。あまり難しいことを言うと、私がいじけて、やる気をなくすと思われたのかも知れない。

日本史の流れを変えたという視点からして、私は源頼朝という人をすこぶる尊敬している。
弟の義経の、武人としての才能と功績は高く評価するものの、平家打倒のあと鎌倉への帰路、兄の了解もなく後白河法皇から官位を受け取ったのはいただけない。兄・頼朝の怒りはよく理解できる。

それでも、人気者ということになると、頼朝より義経が格段に上、ということは認めざるを得ない。

北条時宗好きの私としては、なんとかして時宗をこの表に入れたかった。しかしそうすると、他の誰かを落とさなくてはいけない。涙を呑んで、時宗はリストに入れなかった。

さて、Aさんのお力を借りながら、私が選んだ人気者の6位―9位は次の通りである。

6位  源義経
7位  坂上田村麻呂
8位  和気清麻呂
9位  楠木正成





2019年7月22日月曜日

吉良仁吉と清水次郎長

名古屋に学友3人がいる。
「一献やらないか」という話になり、同じ中野区に住むU君と出かけた。

U君は神社巡りの友人でもある。この数年、東日本の神社100社ほどを一緒にお詣りした。
「酒を飲むのは夜だろう。朝8時頃の新幹線に乗って伊勢一宮の椿大神社にお詣りせんか」と言う。良い考えだ、と話はすぐにまとまった。

四日市駅からバスで1時間ほどで神社に着く。
猿田彦命をお祀りした神社だ。天照大神の孫のニニギノミコトをお導きした神様だからずいぶん古い。境内を歩いているとなんとなく霊気を感じる。

お詣りのあと昼食をしていたら、「帰りは別のルートが良い。そのほうが早い」と言う。
「万巻の書を読み万里の道を旅した人」だから、こういう時にはU君の言に従うのが無難だ。

加佐登駅に着く5分ほど前、「こうじんやまぐち!」とバスがアナウンスする。
「あの荒神山だよ」とU君が言う。
「あの荒神山か?」
「そうだ。あの荒神山だよ」
キョロキョロと左右を見るが、山らしい山は見えない。右側にこんもりした林が見えるだけだ。

荒神山の喧嘩の話は聞いているが、吉良仁吉は三洲吉良の出身だ。荒神山は愛知県にあるものと思い込んでいた。
吉良仁吉は幕末の侠客と聞いている。清水次郎長や大政・小政とどちらが偉いんだろう、と長い間気になっていた。小旅行から帰り、2冊ほど本を買って調べてみた。


我々が映画や小説や浪曲で知っている「東海遊侠伝」や「血煙荒神山」は、事実とはずいぶん違っていることが判った。
明治の文筆家・山本五郎(一時期、清水次郎長の養子)、大正の講釈師・神田伯山、昭和の作家・長谷川伸・尾崎士郎、そして浪曲師・広沢虎造らの手によって、我々が知る吉良仁吉・清水次郎長・大政・小政のイメージが作られている。

地元の実業家・味岡源吉氏の「実録荒神山」という本がある。同氏が昭和30年代から、多くの古老たちの話を取材したのがベースになっていて興味深い。

事実は次のようであったらしい。


慶応2年4月、三重県の高神山(こうじんさん)観音寺というお寺の境内で、神戸(かんべ)藩の侠客・長吉と桑名藩の侠客・穴太徳との間に、賭場を巡っての喧嘩がおきた。
人数的に不利だった長吉は、西三河の大親分・寺津間之助に加勢を求める。
この親分のもとで若いころ修行をしたのが、清水次郎長・神戸長吉・吉良仁吉である。仁吉の年齢は若いが、この3人は兄弟分にあたる。

荒神山の喧嘩の時の各人の年齢は、
寺津間之助55歳・神戸長吉52歳・清水次郎長47歳・大政35歳、吉良仁吉27歳である。寺津と次郎長の2人はこの喧嘩には参加していない。これらから判断すると、次郎長は仁吉より格上であるが、大政は仁吉より格下、というのが侠客の世界での常識である。

長吉は弟分にあたる仁吉にも加勢を頼み、義理と人情の男・仁吉は、よしきたと、子分18人を連れて荒神山に乗り込む。ちょうどこの時、大政と子分5人は次郎長の勘気に触れて、一時的に寺津一家に身を寄せていて、それ出陣、となった。

この時の喧嘩は意外にあっけない。

穴太徳側は猟師10人を雇っていた。長吉・仁吉・大政の3人が大男だったので、「大男を狙え」と猟師たちに命じていた。そして仁吉はこの鉄砲玉にあたって死ぬ。この喧嘩での死者は、長吉側が仁吉とあと2人。穴太徳側の死者は1人である。
勝ったのは長吉側ではあるが、この寺を囲んでいた神戸藩の役人に追われて、両陣営ともすぐに逃げ出している。刀を使っての血煙が舞う派手な斬り合いはなく、あっという間に終わった喧嘩のようである。

映画や浪曲で有名になったからであろう。昭和6年、三重県は荒神山喧嘩の調査班を作り、地元の古老たちから聞き取り調査を行っている。朝日新聞の記者が1人加わり、これを朝日新聞の伊勢版に連載している。

味岡氏は著書の中で、この中の「おだい婆さんの証言」を紹介している。この時87歳の女性で、この人の旦那・久居の才次郎は神戸長吉の子分で、この喧嘩に参加して生き残り、後日51歳で亡くなっている。

このお婆さんは次のように証言している。

「神戸の長吉は立派な親分さんだったが、敵側の穴太徳も立派な親分だった。吉良仁吉は喧嘩のはじめに鉄砲玉にあたって死んだ。大政たちは懐に手を入れて眺めているだけで、清水の連中はものの役には立たなかった。この喧嘩で大活躍したのは、わしの旦那の久居の才次郎さ」

旦那から聞いた話であろう。

旦那自慢は割り引いて考えるにしても、敵側の親分を評価していることからして、このお婆さんは嘘は言ってない気がする。大政たち清水の6人衆がぼんやりと眺めていたというのは、どうも本当のような気がする。

吉良仁吉という人は六尺近い大男で、顔にアバタがあったという。幕末に流行した天然痘に罹っていたのだと思う。50-60人の子分を持ち義理人情に厚い魅力ある人物だった、というのは本当のようだ。

次郎長や大政の明治期の写真は残っているが、仁吉の写真は残っていない。大政という人は結構ハンサムである。88歳の長寿を保った仁吉の3歳上の姉「いち」の80歳前後の写真が残っている。勝ち気で、キリリとした顔つきで、若いころはさぞかし美人だったろうと思われる。

ちなみに幕末の志士で、天保10年生まれの吉良仁吉と同い年の人は、高杉晋作である。


小学校5年生の時だった。
村田英雄の「人生劇場」の唱が気に入って、悪童仲間たちに教えて、みんなでよく歌っていた。
今回の小旅行と2冊の読書を終えて、いい年齢になった自分の体の中に、少年のころの熱い血がたぎるのを感じる。


時世時節は 変わろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界

















2019年7月16日火曜日

棚田での農作業

月1回、数日間の日程で郷里の広島県に帰り、子供の頃の友人2人と農作業をするようになって20年になる。

我が家の200坪ほどの畑には、大根・白菜・キャベツ・玉ねぎ・じゃがいも・茄子・トマト・胡瓜・西瓜などを植える。筍が生える竹林の手入れもする。

今時分は、仲間の棚田に植えた里芋の土寄せが大事な農作業である。400株ほど植えてあるから、うまく生育すると1トン前後の収穫になる。市場には出荷しない。3人で自慢しながらあちこちに配り歩く。

梅雨の合間の好天の日を選んで、今年も3人で里芋の手入れをした。
まず草むしりをしながら、青虫が葉っぱを食っているのを見つけると手と足でつぶす。その後、肥料を株と株の間に一掴み置いて土寄せをする。この土寄せがかなりの重労働だ。

畑仕事をやらない小学校時代の友人たちは、農作業に熱を入れている我々3人のことを奇人変人扱いしている。無理をして熱中症になると彼らに笑われるので面白くない。よってこまめに休息を取る。うぐいすのさえずりを聞きながら、持参した冷たいお茶を3人で飲む。

仲間の1人は畳屋のやっさんで、もう1人は電器屋のテー坊という。2人は私のことをのぶちゃんと呼ぶ。

やっさんは小学校1年生からの友人だ。古い日本語に、竹馬の友という良い言葉がある。

テー坊はさらに古い。同じ浦崎村の同じ高尾地区の生まれなので、保育所から一緒だ。
親が皆仕事をしていたので、2年・3年保育だから、3歳・4歳からの仲良しである。竹馬にも乗れない、まだ「おむつ」がとれたばかりの幼児からの友人である。

「おむつ外れの友」というのもかっこ悪い。このように古い時代からの友人のことを表現する良い日本語はないのであろうか。


2019年7月8日月曜日

日本史の人気者・番付表

「ヘッドハンターって土曜・日曜も人と会うから忙しいのでしょ?」
と同情のまなこで聞かれることがある。
週末に候補者にお会いすることもあるし、農作業やヨットで週末をつぶすこともあるが、暇な週末も結構多い。

この前の週末は雨模様で、近くの本屋と喫茶店に行く以外は、終日中野の自宅でブラブラしていた。このような時は、暇にまかせて空想をめぐらす。これが案外楽しい。

大化改新でも大宝律令の制定でも、どちらでもかまわない。
日本が文明国家としてスタートした時点から、その後1300年の間に生まれた日本人全員に生き返っていただき、墓場まで取材に行く。そして、「あなたが一番好きな日本人は誰ですか?」とインタビューする。そんな空想をしてみた。

このようなアンケートだと、古い時代に生まれた人ほど得である。西郷隆盛は明治以降の人には絶大の人気があるが、それ以前の1000年間の人は知らないから分が悪い。

「尊敬する人物」というと、なんだか堅苦しい。
結果的には、日本史に貢献した一流の人物ということになるのだが、あくまでも「人気者の番付表」だから、「あなたの一番好きな人」という問い方に徹する。「お父さんお母さんという回答は駄目ですよ」と念を押す。


ダントツ日本一の人はすぐに頭に浮かんだ。だれがどう言おうと、この人の1位は絶対に揺るがないと思う。順位は別として2位から5位までもスラスラと名前が出た。

問題は6位から10位である。20名近い人物の名前を書いては消し、消しては書いた。1000年のハンディはあるものの、やはり西郷隆盛は入れなくてはいけないと思い10位に入れた。
50番台には、美空ひばり・石原裕次郎・高倉健が入るかもしれないと思った。

6位から9位は案外むずかしい。
うんうん唸っているうちに、日曜日の夜9時になった。
「お父さん早くご飯を食べてくださいよ。あとかたつ゛けに困ります」と家内にせっつかれて、あわてて風呂に入り、ビールを1缶飲んで夕食を済ませて、10時半に寝た。

よって、10名のうち6名だけ名前が出たので、ここで披露させていただく。1位は誰からも文句は出ないと思うが、2位以下は人それぞれの好みがあるので、10人10色の名前が出るかと思う。

学のある方から、「聖徳太子と伝教大師・最澄が入っておらぬではないか!」とお叱りを受けるかも知れない。この二人は偉い人であり、「尊敬する人」だと票が入るものの「好きな人」との問いかけには票が少ないように思う。不思議なことに弘法大師・空海は、そのいずれに対しても多くの票が入る気がする。

私の考えた未完成の番付表は次の通りである。

1位 :日本武尊
2位 :西行法師
3位 :弘法大師・空海
4位 :行基
5位 :豊臣秀吉
6位 :
7位 :
8位 :
9位 :
10位 :西郷隆盛

ダントツ日本一のヒーローは日本武尊であり、これは絶対に揺るがない気がする。
6位から9位は、暇な日をみつけて、また改めて考えてみたい。「この人はぜひ入れるべきである」
とのご意見があれば、ぜひとも聞かせていただきたい。


 








2019年6月21日金曜日

日本一の外交官・粟田真人(3)

この則天武后の強権命令は事実であったらしい。

ヘッドハンターの仕事を始めて間もないころ、今から27・8年前、中国人の留学生20人ほどと就職相談で会う機会があった。
その中の複数の留学生が、「田頭さん知っていますか?日本と言う国号を決めたのは、唐の則天武后なのですよ」と言った。現在中国ではそう教えているらしい。

日本という国号は我々日本人が決めたもので、中国がそれを認めただけだと思っていた日本男児の私としては面白くない。違和感を感じたので、このことは鮮明に覚えている。

ただ、今になって考えれば、国名とか地名とかはその国が主張しただけでは意味がなく、周辺の国々が認めてくれなければ価値を持たない。
近頃、朝鮮半島にある某国が、世界中が認めている「日本海」のことを「東海」だと言い張って、失笑を買っている。

「日本海」が「東海」なら、半島の西にある「黄海」は「西海」になってしまう。
そうなると中国も面白くないのであろう。この問題に関しては、中国も日本に同調しているように感じられる。それでも、日本人はこのことがなんだか気にかかる。

先日、アメリカのトランプ大統領が、横須賀の護衛艦「かが」の艦上で、「シー・オブ・ジャパン」と言ってくれた。この発言だけで、単純な私などは、「トランプさんて、良い人だな!」と思ってしまう。
国名・地名とはそのようなものなのだ。

現在の世界においては、アメリカ合衆国や国際連合がそれを認めるか否かが重要なポイントとなるが、1300年前の東アジアにおいては、唐の意向が周辺国家にとってすべてであった、と言っても過言ではない。

則天武后のこの命令以降、すべての中国の正史は「日本」と表記するようになり、朝鮮半島・越南などの漢字文化圏の国々も、すぐさまこれに倣った。

中国の正史は、司馬遷の「史記」から中華民国時代に完成した「清史」に至るまで計28あり、その中で我が国の伝を載せる正史は18ある。

則天武后が命令するまでの、「後漢書・三国志・晋書・宋書・南斉書・梁書・南史・北史・隋書」のすべては「倭」、「倭人」、「倭国」と表記している。
これ以降の、「新唐書・宋史・元史・新元史・明史稿・明史・清史稿・清史」のすべては、「日本」、「日本国」で統一されている。

そして、「旧唐書」の前半には、「倭国」と記され、粟田真人の入唐以降は、「日本」と記されている。
「旧唐書」の前半の貞観22年(647)の箇所には、「日本国は倭国の別種なり、、、、、」の記述があり、我が国は、この真人の入唐の50年も前から「倭国と呼ばないで日本国と呼んでください」と唐に対して何度もお願いしていた。

ただ唐側は、「倭国の連中がなまいき言っているよ」と笑って相手にしなかったように思える。
現在の韓国が「東海」と主張して失笑を買っているのと大きくは違わない。

現在でも、中国人が非公式に日本人のことを蔑んで言うとき、「倭」という言葉を使う。
しかし、則天武后以降1300年間、日本嫌いの中国の為政者たちを含めて、中国政府は公式には「日本」と言い続けている。

則天武后の「威令」はすさまじいものであった。













2019年6月20日木曜日

日本一の外交官・粟田真人(2)

粟田真人の生年は不詳、没年は養老3年(719)と年表にある。

77歳の則天武后に拝謁して宴(うたげ)を共にしたとき、真人は何歳だったのであろうか?

生年不詳の人物を、松本清張なみの推理をはたらかせると、この時59歳だった、と考える。もしそうであれば、養老3年に没した時は76歳となる。

そう考える理由は、この人が「白雉4年(653)の第2次遣唐使の時、留学僧として長安に渡った」ことが「日本書紀」に書き残されており、この時10歳、と私は推測する。
「若すぎる」と言わないでほしい。

この時一緒に唐に渡ったのが、中臣鎌足の長男(すなわち不比等の兄)の僧名「定恵・じょうえ」であり、この時10歳である。この人の生年は643年(大化改新の2年前)と記録にあるから、定恵が10歳で入唐したのは間違いない。

この定恵は665年9月、22歳の時、朝鮮半島経由で帰国したが、同年12月大和国で亡くなっている。病気説・暗殺説の両方がある。本来20年間の予定の留学僧が12年で帰国したのは、2年前の「白村江の戦」の敗北にその理由があるような気がする。この時、真人はこの鎌足の長男と一緒に帰国したのではあるまいか。

「日本書紀」には、鎌足の長男が「定恵」とその僧名で記録されているのに対して、真人のことは「春日粟田百済之子」と記されている。粟田真人は百済系の渡来人の子孫、というのは学者の一致した見解である。父親の名前が「粟田百済」というのだから、これは間違いない。

「定恵」のほうは父親が偉い人(中臣鎌足)だから名前が書き残されたとの想像もできるが、真人のことを、「春日粟田百済之子」と表記していることからして、真人は定恵よりもさらに2・3歳年少の7・8歳の少年だった可能性がある。

津田梅子は満6歳で渡米した。

これを考えると、昔から「語学を学ぶには若いほど良い」というのは常識だったのであろう。余談だが、少年僧・真人の僧名は「道観」といい、帰国後に還俗している。当時は便宜的に僧のほうが留学が容易だったようである。

粟田真人が則天武后に拝謁した時の情景は、次のようだったのではあるまいか。

「冠(かんむり)のいただきは花形で、四枚の花びらが四方に垂れていた」と「旧唐書」はいう。花の色彩は赤だったのか、ピンクだったのか?トランプさんの真っ赤なネクタイよりもさらに派手な格好で、粟田真人は則天武后の前に姿をあらわした。

文武天皇からの信任状と国書を手渡すと同時に、あいさつの口上を述べた。

則天武后は、そのハンサムで気品あふれるな風貌と、中国人顔負けの流暢な中国語に魅了された。儀式が終わり宴席に移り、真人は則天と対面する。

則天が発した第一声は、
「あなた、なぜそんなに中国語がお上手なの?」であったかと思う。

「じつは、653年の第2次遣唐使の時、私は幼少ながら学問僧の一人として入唐し、この長安の地で12年間勉強しました」

「あら、そうだったのね。道理で中国語が上手いはずね。私もその時、夫の高宗と一緒にみなさんとの会食の席に参加しました。そういえばあの時、10歳の子供でお国の偉い大臣、そう中臣のなんとか言ったわね、その息子さんがいらしたわね。その隣にちょこんと座っていた可愛い坊やがあなただったのね!」

その時、則天武后28歳であった。

「中国史上最大の権力者」、「英知・残虐性とも超弩級」、「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」ともいわれるこの人には、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。

「則天さまの花も恥じらうほどの美貌には、少年の私も胸をときめかしておりました」
ぐらいのお世辞は、真人なら言ったかと思う。
このような会話から始まり、宴会は大いに盛り上がっていく。

こうしたやりとりの中で、77歳の超実力女帝の胸に、18歳年下の異国の若い男(といっても59歳であるが)に対する「熟年の恋」に似た感情が芽生えたのではあるまいか。

真人をすっかり気に入った則天は、担当の大臣を呼び、「真人さんにはわが国で働いていただきます」と言って、すぐに「司膳卿」という大臣級の辞令を出させた。

並みの外交官なら、「それは困ります。私は任務が終わったら国に帰らねばなりません」と辞退するところだが、そこは大物・粟田真人である。
「ありがたき幸せ」とにっこり笑って、その辞令を受け取ったのだと思う。
事実「旧唐書」にはそう書いてある。

「則天が自分に好意を持ってくれたのは判った。この辞令は受けたほうが良い。そうすれば、今後頻繁に則天に会うことが出来る。帰国のことなど、おいおい改めてお願いすれば良い」と真人は考えた。

のちの阿倍仲麻呂の例もある。もしかしたら、真人はこの「司膳卿」の仕事を半年ほど長安の都でこなしたのかも知れない。

そして10回も20回も、真人は則天と夕食の宴を共にする。
どこかの時点で、真人は則天に対して甘える仕草をしたのかも知れない。

「大宝律令のことで、お国の大臣が細々としたことを聞いてくるので困っています。則天さまのお力でなんとかして頂けないでしょうか?」

彼女はすぐさま宰相と担当大臣を呼びつける。

「立派な律令ではありませんか。真人さんがこれだけ丁寧に説明しておられるのですよ。これ以上重箱の隅をつつくような事をして真人さんをいじめると、私は許しませんからね!」と一喝する。

同時に、
「今日以降、倭国と呼ぶことは許しません。真人さんがこれだけ懇願されているのです。このまま倭国という言い方を続けていたのでは、お国に帰られたあと真人さんの面子がつぶれます。
私は皇帝の権限で、今日以降、同国のことを日本国と呼ぶことに決定します」
と一方的に命令を下した。
























日本一の外交官・粟田真人

日本史上最高の外交官は誰かと問われたら、粟田真人(あわたのまひと)だと答える。
陸奥宗光・小村寿太郎・広田弘毅の3人が束になっても、粟田真人一人に勝てない気がする。

その理由はあとで述べるが、まず「続日本紀」に出てくる粟田真人の箇所を紹介したい。

文武天皇の慶雲元年(704)の記述に次のようにある。

秋七月一日、正四位下の粟田朝臣真人が唐から大宰府に帰った。
初め唐に着いた時、人がやってきて、「何処からの使人か」と尋ねた。そこで、「日本国からの使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて、「以前は大唐であったのに、いま大周という国名にどうして変わったのか」というと、「永淳二年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后・則天武后)が即位し、称号を神聖皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。

問答がほぼ終わって、唐人側の使者が言うには、
「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭(やまと)国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今、使者をみると、身じまいも大へん清らかである。
本当に聞いていた通りである」と。言い終わって唐人は去った。


これは粟田真人が朝廷に報告した通りを、記録官が書いたものである。
真人の自画自賛もあるやも?と当初考えたのだが、「旧唐書(くとうじょ)」の「列伝・倭国・日本」の項に次のようにあり、これが真実であることを知った。


長安三年(703)、その大臣の朝臣真人、来たりて方物を貢す。
朝臣真人は、猶(なお)中国の戸部尚書(こぶしょうしょ・民部の長官)のごとく、冠は徳冠(とくかん・最も勝れた徳の者に与えられる冠)に進み、その頂は花をなし、分かれて四散し、身の服は紫袍(しほう・紫色の上着)、帛(きぬ)を以て腰帯をなす。
真人は経史(けいし・経書と歴史書)を読むを好み、文を属(つつ゛)るを解し、容止(ようし・身のこなし、ふるまい)は温雅(おんが・おだやかで奥ゆかしい)なり。
則天(則天武后)は宴(うたげ)して、麟徳殿(りんとくでん)に於いて司膳卿(しぜんきょう・官命)を授け、本国に還(かえ)るを放(や)める。
(鳥越憲三郎博士による読み下し文)


大宝2年(702)6月29日、第7次遣唐使船は北九州を出帆した。
当時、新羅との関係が悪く、朝鮮半島に沿って航海した過去6回の北ルートと異なり、南航路で一気に大陸を目指した。中国の楚州の海岸に到着したのは8月か9月頃と想像する。
陸路長安に向かい、則天武后に拝謁したのは703年の正月である。

帰路は五島列島の福江島に漂着し、704年7月1日に大宰府に帰着報告している。
これらから、真人が都・長安に滞在したのは、1年を超えたと思われる。

粟田真人は文武天皇より「節刀(せっとう)」を与えられ、節刀使と呼ばれ、この時の遣唐大使・高橋笠間より上席であった。もっとも、高橋笠間はどのような理由かわからないが、出発直前に辞任して、副使の坂合部大分という人が大使に昇格している。


この時、真人には重大な使命が二つあった。

一つは、40年前の「白村江の戦」の終戦処理をおこない、唐と正式に国交を回復して、残っている老齢の日本人捕虜を連れ帰ることである。敗戦のあと、さみだれ式に捕虜たちは帰国していたが、正式な国交回復はなされていなかった。

いわば、太平洋戦争の敗戦処理を行い、戦後憲法を作り、講和条約までこぎつけた幣原喜重郎・吉田茂の役目、日中国交回復を果たした田中角栄の役目、北朝鮮から5人の日本人を連れ帰った小泉純一郎の役目、を担っていたといえる。

いま一つは、さらに「困難かつ重要」な役目である。

完成したばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、「これだけの律令を完成させて立派な法治国家になった」ことを認めてもらい、今までの「倭国」、「倭国王」の呼び方を、「日本国」、「天皇」との呼び方に変えてもらうべく、唐側を説得することであった。

「大宝律令」を見せて、「このような律令を作りました」だけでは唐側は納得しない。
唐の専門家から、その内容や漢文の表現に至るまで、細かい質問をされることは、大和朝廷としては想定していた。

「大宝律令は忍壁(おさかべ)親王・藤原不比等・粟田真人らが中心になって編纂した法令集」と高校時代の日本史で教わったが、実務を仕切った中心人物はこの粟田真人である。
藤原不比等が唐に行っても、法律の専門知識・語学力の両方からして、唐側の質問に対して充分な返答ができない。

「粟田先生、他に人がおりません。なにとぞよろしくお願い致します」
と、時の政界の最高実力者・藤原不比等は、自分の兄と一緒に唐に留学した12歳年長の真人に丁寧に頭を下げたに違いない。
真人自身、この大役をこなせるのは自分しかいないことを、充分認識していた。

そして、粟田真人はこの二つの大役を「パーフェクト」にやり遂げて帰朝する。

なぜ真人は、これに成功したのか?

答えは、
「中国史上最大の権力者といわれる則天武后が、異常なまでに粟田真人を気に入ったから、の一言に尽きる」と私は考えている。


粟田真人という人は、「才と徳」とを兼ね備え、人間的な深みを持ち、魅力に満ち溢れた人物だった。それに加えて、大柄でハンサムな人であったらしい。




























2019年6月18日火曜日

昭和20年秋、脱穀機の故障

これも20年以上前に読んだ本の中にあった話である。
こちらはノートに写してなく私の記憶だけが頼りなので、いささかおぼつかないが、次のような話であった。

主人公の名前は、仮に山田五郎さんとする。
何人かのお兄さんがいて、本人は当時24・5歳だった。

国内にあった海軍航空隊の整備兵曹長で終戦となり、8月下旬には郷里に復員していた。
海軍の兵曹長と言う位は少尉の下に位置し、かなり偉い人である。
20歳で召集され兵役が終わった後も、故郷に帰っても良い仕事がない場合、海軍に就職する形で引き続き勤務する人もかなりいた。これらの人が兵曹長にまで昇進するのは、平時では早くても15年はかかる。すなわち35・6歳で兵曹長になる。

五郎さんは甲飛か乙飛か予科練の出身で、普通の水兵さん出身より昇進はずいぶん早い。
それでも、24・5歳で兵曹長になるのは、戦時ということもあるが、元々優秀な人だったのであろう。

それゆえに、バリバリの軍人気質で、戦争に負けたことが悔しくてたまらない。
「村の人たちに合わす顔がない」と、日中は自分の部屋にこもったきりで外には出てこない。
夜になると、時おり人目を避けて散歩していた。

実家は村の素封家で、父親はすでに隠退していたが戦前は村長をやり、10歳年長の長兄は村役場で助役をしていた。父も兄も親切な人柄で村人たちから慕われていた。

「戦争が終わったというのに、うちの五郎には困ったものだ。このままじゃ身体をこわしてしまう。みなさん五郎に声をかけて、時には外に連れ出してやってください」と、お願いしていた。


10月になると稲刈りがはじまる。
ある日、一人のおばさんが、「五郎さん、五郎さん!」と戸をたたく。
「脱穀機が動かんのじゃ、なおしてくれんかのう。五郎さんは零戦のエンジンの修理をしとった海軍航空隊の偉いさんじゃろう。脱穀機の修理なぞわけもなかろう」

五郎さんはしぶしぶと家の外に出る。
ひと月ぶりの太陽がまぶしい。
田圃のわきに置かれた脱穀機の前に立つ五郎さんを、5・6人のおじさん・おばさん連中が頼もしそうに見つめる。

気になる2・3箇所を点検して油をさし、エンジンをまわしてみるが動かない。
このままでは、海軍航空隊の元整備兵曹長として男が立たない。五郎さんは
脱穀機のエンジンをばらし始める。30分ほどかけて全部をバラバラにして、汚れを取り油をさしてまた組み立てる。これで大丈夫と、エンジンをかけようとするが、ウンともスンとも動かない。
日も暮れ始めてきた。

その時、村役場での仕事を終えた長兄が帰ってきた。
「どうしたんじゃ?」と道から声をかける。
「かくかく、しかじかです」と村人の一人が説明している。
長兄はそのまま乾いた田圃に降りてきた。

脱穀機の前にかがんで、2・3箇所をいじくった長兄はエンジンを回した。
トン・トン・トンと快調な音を立てて脱穀機のエンジンは動いた。

「海軍航空隊の整備兵曹長さまがこのザマじゃ、日本は戦(いくさ)に敗けるはずだよなあ」
と長兄が言った。

数人の村人は、「あっはっはっ!!」と大声で笑った。
五郎さんもそれにつられて、「ふっふっふ!」と小声で笑った。





















2019年6月13日木曜日

ゆで卵ふたつ

20年以上も昔に読んだ文章を、ふと思い出すことがある。
これも、その一つである。

ご本人が新聞に寄稿されたものだと記憶する。写していたノートを最近開いてみた。

大分県に住む宮田誠さんという方の寄稿文で、昭和18年生まれとメモしてあるので、現在は75歳だと思う。きっとお元気で、ここに出てくるお姉さんも80代前半で、お元気であられると想像する。

本人の了解を得たほうが良いと思ったのだが、連絡先が分からない。
そんなこと必要ありませんよ、とおっしゃってくださる人柄の方だと思い、お二人の幸せを祈りながら、このブログでご紹介したい。


昭和22年の春。
当時、私の家族は祖父母・父母・姉3人・3歳の私と弟の9人で、大分県に住んでいました。
日々の暮らしは手探りの中で、台所事情もゆとりはありません。
一家を担う父は、大分県の庄内町の父の実家に食料の調達に行くことになりました。実家では収穫した農産物を準備していてくれました。血縁ならではの厚意です。

父は別府の脇浜から徒歩で高崎山の裏を越えてゆきます。
ひとりでの山越えは少し寂しかったのか、10歳の二女を誘いました。少女には無理な道程なのは言うまでもありません。父は途中でグズれば背負って行けばよいと考えながら家を出ました。

急な山道の鳥越峠を越え、幾重にも折れ曲がった古賀原、赤野を過ぎ由布川を渡り、庄内町の小野屋からさらに雨乞岳の東側の奥深い集落に父の実家はありました。

二女は小さな意地で頑張りとおし、一度も甘える仕草を見せずにたどり着きました。父のかたわらに、おかっぱ頭のリンゴのホッペをした少女が、ちょこんと立っていました。
実家ではびっくりして、胸を詰まらせました。イガグリ頭のいとこたちが珍しそうに土間からのぞいていました。

翌朝荷造りを終え、帰路に発つ際、父の長兄の嫁は二女に「途中でお食べ」と、ゆで卵ふたつを小さな手のひらに乗せてくれました。
当時の卵は生産が少なく、ぜいたくなものでした。
何よりの心つ゛くしを大事にポケットにしまい、二女は家路に向かいました。帰路は荷物が多い。
家族への土産で、二女の小さなリュックも満杯でした。

往きにくらべて休憩は増えます。またしばらく長い距離の山道を歩き、別府湾が一望の峠で足を休め、額の汗をぬぐいました。我が家へはあとひと踏ん張りです。父娘はたわいのない話をします。
二女はもらったゆで卵をまだ口にしていません。

ついぞ食べる様子がないので、父は理由を聞きました。
すると二女は、「弟ふたりに食べさせてあげたい」と、笑顔で言いました。
「お前がもらったのだから」と父は何度もすすめたが、二女は結局、口にしませんでした。

その二女も元気で還暦を迎えます。

今でもゆで卵を目にすると、昔母から聞いた話が、古びた記憶と共によみがえります。