2022年11月28日月曜日

安倍晋三さんお別れの会・桃李成蹊

 昨日、令和4年11月27日、母校の成蹊学園で安倍晋三さんお別れの会があり、案内をいただいたので出席した。

ずいぶん多くの参列者だな、との印象を受けた。九十代とおぼしき方から成蹊小学校の児童まで幅広い方々の参加で、安倍さんが多くの人に好かれていたことを改めて知った。

会場は成蹊学園本館大講堂と大学六号館の二か所に分かれておこなわれた。本館大講堂は大正期に造られた天井の高い立派な講堂だが、席数は二百程度であろうか、さほど広くはない。大正末期の成蹊学園は、小学生・中学生・高校生(旧制)合わせてその位の人数だった。小学1年生の少年と旧制高校の18・9歳の青年が、同じ学食で隣の席で昼食を食べ、ほぼ全員が互いの顔と名前を知っている、というほど小さな学校だった。

よって、私を含む大部分の参加者千名程度は、大学六号館でビデオで本館での式の進行を見て、献花のときは本館に移動した。

成蹊学園理事長・小林健氏(元三菱商事社長、現日本商工会議所会頭)、成蹊会会長、友人代表の「お別れのことば」はみな心のこもった素晴らしいスピーチだった。安倍晋三さんは兄の寛信さんと共に、小学校から大学まで成蹊で学んだ。祖父・岸信介のすすめによると聞いたが、どのような理由で岸さんが孫二人を成蹊に学ばせたかは知らなかった。

「岸さんは山口県の出身で、吉田松陰先生をずいぶん尊敬しておられた。多くの志士が巣立った松下村塾を教育の理想形と考えていた。すなわち、知識の詰込み型ではなく、若者各人の個性を伸ばし、創造力豊かな人材を育成するという成蹊の教育方針に共鳴していた」との小林理事長のスピーチで、その理由を知った。

式がはじまるまでの時間と、黙祷のあとの、安倍晋三さん経歴紹介の二つの箇所で、安倍さんの生前の活躍のビデオが放映された。ここで私にとって、新しい発見があった。

いずれも成蹊学園での講演のビデオである。一回目の総理就任のときは、少し肩に力が入っているという印象を受けた。二回目の総理在任中は、いくつもの実績を残し、トランプ大統領を含めて各国の要人たちと対等以上の立場でやりあった自信からか、にこやかで余裕が感じられ、ユーモラスな発言がいくつもあった。

「成蹊学園は私の心のふるさとです。成蹊の名の由来である ”桃李不言下自成蹊” を自分の座右の銘として、若いころから私なりに努力してきました。

ところが政治家になったとたん、気がついたのです。政治家というのは、しゃべるのが仕事なんですね。だんだんとおしゃべり人間になってしまい ”桃李不言” とはいかなくなってしまいました。

第一次安倍内閣のとき病気をして退陣しました。あの時はみなさんにご心配をおかけしました。なさけない奴だと思われたかもしれません。 ”桃李言わざれども下自から蹊を成す” をモットーに自分なりに努力してきたのですが、政治とは権力なんですね。総理の座を退いたとたん、多くの人たちが私の前からスーッと去っていきました。 ”桃李成蹊” とは逆の現象が私の目の前で起こったのです。

あのとき自分は、もう政治の世界から退こうと思いました。しかし、成蹊学園の学友や同窓の方々から、安倍元気を出せと、元気になってもう一度頑張れよ、と励まされました。あの時ほど嬉しかったことはございません」


安倍さんが総理在任中はあまり意識しなかったのだが、今回当時のビデオを注意深く見ていて、聞いていて、気が付いた。

「勇気をもって前進し、社会を変革していかねばならない」

「新しいことにチャレンジしよう」

「失敗してよい。やり直せばよいのだ。失敗を恐れて改革の手を緩めてはいけない」

「日本を改革して前進させて、希望に満ちた国にしよう」

などなどの、「改革・チャレンジ・前進」という言葉をひんぱんに発しておられたことを知った。


昭恵夫人のお礼の挨拶も心にしみた。

「晋三さんは成蹊が大好きでした。総理在任中はいろいろなことがありました。その時、成蹊のお仲間と食事やゴルフを一緒にしたり、また成蹊学園から呼ばれたりする時が一番嬉しそうでした。国葬をしていただき、また山口県民葬もしていただきました。ありがたいことです。でも、本日の成蹊学園の行ってくださったこのお別れの会で、私は一番多く涙が出ました。

今日このあと、晋三さんの遺骨を抱いて、大好きだった成蹊学園の周りの景色を、晋三さんに見せてあげます。その後、遺骨を自宅に持ち帰り、近いうちにお墓に納骨します。

骨になったとはいえ、納骨する前に、晋三さんを本人が大好きだった成蹊学園のキャンパスに連れてくることができて良かったです。本日は、本当にありがとうございました」

半旗の成蹊学園 令和4年11月27日



2022年11月20日日曜日

李将軍列伝・桃李成蹊(とうりせいけい)

 シルクロードのものがたり(2)

「李将軍列伝」は司馬遷の「史記列伝」の中の白眉だといわれている。友人の李陵の祖父にあたる人だから司馬遷も熱も入ったのだと思うが、なによりも司馬遷自身が、この李広将軍に直接会って感銘を受けたことが、一番の理由であろう。

「李将軍広は、甘粛省成紀(せいき)県の人である。広の家は、代々弓射の法を受け継いでいた。孝文帝の十四年に匈奴が甘粛省に侵入した。広は良家の子弟として従軍して匈奴を撃った。騎射にすぐれていて、敵兵を殺して首を取り又捕虜にしたのが多かったので、漢の郎官にとりたてられ八百石の俸禄を賜った」と李将軍列伝の冒頭にいう。

李広が若い頃つかえた文帝は、初代の高祖(劉邦)からして五代目の皇帝である。李広はその後、景帝・武帝にもつかえることになる。

狩猟でおとし穴に落ちたけものに、若い李広は飛びかかって格闘をしたという。文帝は李広のその勇気を愛し、称賛して言った。「残念だなあ。きみは時勢にめぐりあわなかった。もしきみが高祖さまの時代に生まれていたら、一万戸の大名になっていたのになあ」

その後、李広は合戦でしばしば手柄を立てる。しかし、戦(いくさ)は水ものである。常に百戦百勝とはいかない。時には負けいくさの責任を取らされ、官位を返上して平民に降格され、自宅でしょんぼりと暮らした時代もある。そしてまた匈奴が攻めてくると、再度将軍として出陣して大活躍をする。李広だけでなく、武官も文官も、昔の中国ではこのようなことが繰り返されている。

「広は清廉で、金品を賞賜されるとそのたびに部下に与えた。死ぬまでに四十年間も俸禄二千石の身分にあったが、家には余分の財産はなかった。広が将軍として出征したときには、物資の乏しいところでは、水を見つけても、士卒が飲み終わるまでは水に近つ”かず、士卒が食べ終わらなければ食べなかった。のびやかでこせつかなかったので、士卒は思慕し喜んでその命令に従った」

軍神・橘周太中佐の、「兵休まざれば休むべからず。兵食わざれば食うべからず」の言葉も、この列伝に由来するのではないかと考える。

ほかにも李将軍列伝に由来する格言が日本にある。軍歌「敵は幾万」の中にもある「石に矢の立つためしあり」という言葉である。「一心を込めて立ち向かえば、不可能と思えることも可能となる」との意味で、単なる精神論だと軽んじる人もいるが、私は意味のある言葉だと思っている。

「あるとき広は猟に出かけ、草の中の石を虎だと思って射ると、命中して鏃(やじり)が石の中にめりこんだ。よく見ると石だったので、さらにまた射てみたが、二度と矢を石に立てることはできなかった」と列伝にいう。

晩年、李広は大将軍・衛青(えいせい)に従って匈奴征伐に出陣するのだが、道に迷って大将軍の戦列に後れをとった。大将軍はこれを咎め、後日の日本陸軍でいう憲兵隊の係官を李広のもとに派遣して取り調べをしようとした。李広はこれをいさぎよしとせず、自害した。

列伝はいう。

「部下の将校たちには罪はない。わたしが自分で道に迷ったのだ。わたしは元服してこのかた匈奴とは大小七十余度も戦った。今回、幸いにも大将軍に従って出撃し、単于(ぜんう・匈奴の君主)と戦うところだった。ところが大将軍が私の部署を移したので、迂回路を行くことになり、道に迷って遅れてしまった。まことに天命ではなかろうか。かつまた、わたしはすでに六十余歳だ。いまさら刀筆(とうひつ)の史(憲兵隊の小役人)に対応することなどできるものか」

こう言って刀を引き寄せて、みずから首をはねた。広の軍では、将校も兵も全軍がみなが泣いた。庶民もこれを聞くと、広を知る人も知らない者も、老人も壮者も、みな広のために涙を流した。


列伝のおしまいの箇所に、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。

太史公曰く。

伝に、「その身が正しければ命令しなくても行われ、その身が正しくなければ命令しても人は従わない」(論語・子路篇)とある。これは李将軍のような人を言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。

ことわざに言う。「桃や李(すもも)はもの言わぬが、その木の下に自然と蹊(こみち)ができる」この言葉は小さな事を言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩(たと)えることができるのである。

諺に曰く。「桃李言わざれども、下自(おのず)から蹊(こみち)を成す」と。

私の学んだ成蹊学園の校名は、この李将軍列伝に由来する。

成蹊学園






「香月経五郎・三郎伝」出版の遅れ

 五ヶ月ぶりにブログを再開したら、二人の友人から連絡をもらった。

「本は出来たの?アマゾンで買えるの?」との、ありがたい問い合わせである。

じつはまだ、完成していないのだ。

「11月あたりに出版の予定だったのだが、なにせ知っての通り、僕は漱石や司馬遼太郎の流れをくむ作家だろ。手書きの原稿用紙に書いているので、出版社の方が校正に手間取っていて来年の2月か3月頃の出版になりそうなんだ」と弁解している。

長野県諏訪市にある鳥影社という筋の良い出版社が引き受けてくださっているので、出版できるのは間違いない。当初、編集長の方に手書きの原稿ですといったら、「今は95パーセントの作家がワードで原稿を送ってきます。手書き原稿は校正に手間と時間がかかり、校正担当者が嫌がるんですよ」と笑っておられた。

編集長は立派な方で、今なお親切に対応していただいている。ただ、校正担当の方から、「嫌な作家だなあ、たいしたこともないのに、作家気取りで手書きの原稿などを送ってきやがって」と嫌われているような気がしている。

それでも、近々二回目のゲラが私の手元に届く予定だ。三回くらい校正をやり直し来年の早春には出版できると思う。

ささやかな作文なのだが、一冊の本にまとめるのは結構骨の折れる作業だと感じている。

このような次第で、このブログを通じて、読者の方々に出版の遅れを報告して、お詫びを申し上げたい。

令和4年11月 田頭農園の干し柿









2022年11月15日火曜日

西域(さいいき)への憧れ



 シルクロードのものがたり(1)

司馬遼太郎「街道をゆく」中国・閩(びん)のみち、の中に次のような一節がある。

「日本人というのは変だなあ。なぜシルクロードが好きなんですか」と、中国人から聞かれたことがある。「漢書・かんじょ」以来「西域」とよばれた中国新疆ウイグル自治区に、私がはじめて行ったのは1972年だった。

そのときも、同行した若い中国側の人から上記の趣旨の質問を受けた。私は相手を満足させるような返事ができず、逆に質問してみた。「中国人にとって、どういうイメージがありますか」と。「単に田舎です」とそのひとは言った。

この話には、私も合点がいく。

三光汽船に勤務していたころ、シンガポール駐在時代を含め、東南アジアの仕事に長く従事した。この頃、多くの台湾人・香港人・東南アジア各地の華僑の人たちとの交流があった。ヘッドハンターになってからは、中華人民共和国からの留学生を含め、少なくても百人以上の中国人にお会いした。

子供のころからシルクロードへの憧れの強かった私は、何人かの中国人にこの話題を振ってみたのだが、強い関心を示す人はいなかった。ただ一人、シンガポール時代の部下で、私より一歳若いエディ・タン(陳)だけが目を輝かせた。

「将来ふた月ほどかけて、一緒にシルクロードの旅に出ようぜ」と約束したのだが、まだ実現できていない。彼の父親は海南島から新嘉坡にやってきたというが、なぜタン(陳)君が西域に関心を持っているのか聞かずじまいだった。十年ほど会ってないが、彼はオーナー社長としてまだ仕事をしている。今度シンガポールに行ったら聞いてみようと思う。

司馬遼太郎は次のようにも言っている。

奈良朝・平安初期の日本は遣唐使を派遣して、唐の文明を摂取しつつ”けた。遣唐使が廃止されたのは9世紀末であり、以後日本は文化的には鎖国のかたちとなった。同時に、世界でも独自な平安文化が醸成された。その一方で、唐の記憶は文化として日本人の心の中に強烈に残った。

本場の中国では、当然のことながら唐以降も歴史が続き、遠い盛唐の文化の記憶はしだいにうすらいでいった。ところが海東の日本にあっては、唐の記憶は氷詰めにされて残った。平安期いっぱい、日本の教養人たちは飽きることなく唐詩を読みつつ”けた。中国人はその後変化したことを考えると、中国人よりむしろ日本人のほうが、唐の文化的な子孫であるといえる。小項目でいえば、唐詩の西域への異国趣味は、中国ではなく日本に残ったのである。


たしかに、そんな気がする。

子供のころからの私の西域への憧れも、多くの日本人と同じく「唐の文化の精神的子孫」であることに由来するのではないかと思う。私の西域への憧れの源は、童謡「月の沙漠」にあるような気がしている。

月の沙漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました

金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました

4番まであり最後の句は、「砂丘を超えてゆきました 黙って越えてゆきました」とある。

大学時代の友人・内島照康君も、三光汽船時代の友人・春名豪君もこの歌が好きだった。「母親がこの歌が好きだった」と両君とも言っていた。他にも同世代の友人の中に、この歌が好きな人は多い。ただ、若い世代の人の中には少ないような気がする。

加藤まさを、という挿絵画家が千葉県の御宿海岸の砂浜を見て、大正時代に作詞したものだといわれる。素晴らしい詩だと思う。

ところが、この詩にいちゃもんをつけて批判した馬鹿者がいる。本多勝一という元朝日新聞の記者だ。曰く。「現実ではありえない点がいくつもある。遊牧民は水を運ぶのに甕(かめ)ではなく革袋を使う。王子と姫が二人だけで旅をしていたら、たちまちベドウィン(アラブの遊牧民)に略奪される。うんぬん」 「もののあわれ」を感じることのできない可哀そうな人だと思う。

奈良・平安時代から千年間、日本人は、王翰(おうかん・687-726)、王維(おうい・701-761)、李白(りはく・701-763)、岑参(しんじん・715-770)たち盛唐の詩人が書いた、「西域・胡姫・葡萄の美酒」などをテーマにした詩を読み続けてきた。その間に、事実以上に美化され憧憬の域まで達した「西域感」が日本人の心の中に醸成されてきたような気がする。いわばこの千年間の日本人の西域への憧憬の結晶が、大正期に書かれたこの「月の沙漠」ではあるまいかと思っている。

私自身、この詩はシルクロードの景色を見て日本人が書いたものだと、長い間信じていた。御宿海岸の砂浜を見て書かれたと知ったのはずっと後である。しかし、それはどうでもよいことだ。この曲を聴き、歌い、幸福感を感じることができるのは、「唐の精神文化のDNA」を受け継いだ日本人のしあわせだと思っている。


先日、故郷の広島県の実家に帰ったとき、母との会話の中で、「月の沙漠の歌」が気に入っているという話をした。すかさず96歳の母は、「そりゃそうよ」と言う。「のぶちゃんが赤ん坊のとき背中に背負って、散歩に出たり買い物に行く時は、歩きながら私はいつも ”月の沙漠” を歌っていた」

調べてみると太平洋戦争が終わったあと、「リンゴの唄」「青い山脈」と共にこの「月の沙漠」が、日本中で爆発的に流行したことを知った。15年にも及ぶ暗い戦争の時代が終わり、人々が明るく希望に満ちた、そしてロマンチックな歌を好んだからに違いない。

内島君も春名君も、きっと私と同じく、赤ちゃんの時から母親の背中でこの歌を聴いていたのに違いない。「三つ子の魂百まで」という言葉を思い出した。

全部で何篇になるかわからない。心惹かれる人物に焦点をあてて、行ったことのない「シルクロードのものがたり」を私なりに書いてみたい。

辻道雄氏 提供