2020年7月27日月曜日

東陵の瓜(16)

二年目の瓜の収穫が始まってまもなくの夕刻、突然の来客がある。

「平服を着ていますが、それなりの身分とおぼしき男が門前に車で来ています。供を二人連れて、瓜を買いたいと申しております」と、作男が取りつぐ。

召平が薄暗い玄関まで出ていくと、その男は、「東陵侯どの!」と呼ばわる。暗くて誰か判然としない。ためらいをみて、その客は、「季布でござる」と大声で名乗った。何年ぶりになるだろう。会稽郡の項梁の館以来である。

「旨い瓜があるとのうわさを聞いたので買いにまいりました!」、と季布は大声で言う。
情報通の季布はすでに昨年の暮、召平が長安郊外の実家にもどり、瓜をつくっていることを知っていた。ただ、冬場に瓜を買いに行くのは不自然と思い、二年目の瓜の収穫期を心待ちにしていたという。

召平の自慢の瓜を、旨い旨いと食いながら、広陵や会稽での思い出話に花が咲く。政治向きの話はしない。ただ一言、「劉邦という人は器量の大きいお方ですなあ」と言った。土産に持ち帰る瓜の代価だといって、市価の二倍ほどの金(かね)を出す。召平は黙ってそれを受け取る。

帰り際に季布が問う。「また時おり瓜を買いに伺います。瓜の大好きな方がもう一人おられる。今度お連れしてもよろしいでしょうか?」

「わしの瓜を買ってくださる方なら誰でも大歓迎です。わしの生活の糧は今は瓜だけですからな」


季布があたらしい瓜のお客を伴って訪ねてきたのは、それからわずか三日後だった。その客人も平服を着て下僕を二人連れている。召平がはじめて見る顔だ。

「蕭何(しょうか)どのです」

前置きもなく、肩書も付けず、季布はいきなりそう言う。

(この男が漢の高祖・劉邦の三傑の筆頭として今をときめく宰相の蕭何か!)
英雄豪傑という風情ではない。ごく普通の人、といった感じの男だ。召平は軽く頭を下げる。

「こちらが東陵侯・召平どのです」

季布がこう紹介したのには驚いた。そうであろう。漢の宰相に対して、秦の爵位を付けて紹介するなど普通ではない。蕭何はいっこうに気にする風もなく、微笑をたたえたまま、優しいまなざしで季布をながめている。蕭何が季布を信頼し、その気質を好んでいるのが見てとれる。召平は、この蕭何という人物に強い好感を抱く。

後世の漢の史書は、季布の死後まで楚人が語り継いだ言葉として、「黄金百斤(ひゃっきん)を得るとも季布の一諾(いちだく)を得るに如(し)かず」と刻んだ。また、初唐の宰相・魏微(ぎちょう)は、唐詩選の巻頭の詩に、「季布に二諾無く、侯嬴(こうえい)は一言を重んず」と、敬意をこめてその名を書き残した。

その季布である。言ったことは変えない。召平も蕭何も、笑って聞くよりほかなかった。この季布の紹介の仕方は、軍人・政治家としてのそれではない。彼の侠客としての美学であったかと思う。

召平は「蕭何どの」と呼び、蕭何は「召平どの」と呼ぶ。普通の対等な関係とのお互いの認識である。政治向きの話はしない。瓜つくりの話に終始する。蕭何は、旨い旨いと美味を礼賛しながら召平のつくった瓜を食い、土産として大量の瓜を下僕に持たせる。

代金として市価の十倍もの金を渡そうとするが、召平はそれを制し、市価の二倍を受け取る。たかが瓜の代金である。十倍としてもたいした金額ではない。しかし、いわれなき金を受け取るわけにはいかない。この甘さこの旨さであれば市価の二倍は当然、との自負が召平にはある。

以来、何十年にもわたり、召平のつくる瓜の値段は市価の二倍、というのが長安の市場での通り相場となる。

「また時おり、瓜を買いに伺いたいと思います」

「そうぞ。どうぞ。大切な瓜のお客様が一人増えて嬉しいですよ」


















東陵の瓜(15)

翌日から、浩や弟二人そして何人かの作男を連れて畑に出る。

「まあ、まあ。ゆっくりしたらええのに。せっかちは子供の時とちっとも変わらんなあ」、母親は嬉しそうに軽口をたたく。畑を見廻りながら、春の農作業の段取りを考える。農に関しては素人ではない。

同じ場所に同種類の野菜を続けて植えると出来が悪い。連作障害である。前年、そのまた前年、ここに何を植えていたのか。一つ一つを聞いて頭に入れる。大事なことは木簡に記す。
「研究熱心なことじゃなあ」、李照が顔をだして召平を冷やかす。
一ヶ月はすぐに経った。父親に申し出る。

「五反(1500坪)ほどを勝手に使わせてほしい。残りは今まで通り親父が作男に指示なされたら良いから」。「おう、おう。好きにやったらええ」、と父親は笑う。

(素人が五反に何を植える気かな。そのうち雑草に手を焼いて途中で投げ出すじゃろう。平は子供のじぶんは畑仕事を嫌がって逃げ回っていたのに。どうした風の吹きまわしじゃ?)

だれもが召平に20年の畑仕事の経験があることを知らない。浩には、広陵や汨羅での農作業のことは絶対に言うなよ、と強く言い聞かせてある。「突然立派な瓜をつくって、みんなを驚かせてやるんじゃ」。「はっはっはっ。そいつは愉快ですね」

「瓜で勝負する」

召平はそう決心する。子供の頃、今は亡き祖父が何かのおりに、「このあたりの気候と土壌は瓜に最適なんじゃ」と漏らした言葉も頭の片隅に残っている。

後世、「東陵の瓜」と呼ばれ名声を博す、召平の美味な瓜は、広陵と汨羅での20年の経験と、このような周到な準備と研究のもとにつくられたのである。作男にはたのまず、浩・李照・二人の弟を連れて、長安の市場に瓜の種を買いに行く。3世紀の古文書が、「東陵瓜は五色に輝いていた」と書き残しているが、これは事実である。長安の町中で買い求めた瓜の種は、はじめから数種類あったのだ。

召平がつくった瓜を大きく分けると、甘みがあり果物として食べるまくわ瓜(真桑瓜)と、野菜として食べる白瓜の二種類である。前者の仲間として何種類にものメロンがある。西域から入った甘みの強いハミ瓜もつくる。後世のマスクメロンの原種のような瓜もつくっていた。すでにこの頃から長安は、シルクロードの出発点として西域との交流があったのだ。

胡瓜(きうり)と西瓜(すいか)はつくっていない。胡瓜は召平より80年ほど後に生まれる張騫(ちょうけん)という人が西域から種を持ち帰る。西瓜が中国に入るのは、はるか後世、11世紀になってからである。

1500坪の畑を、召平と浩の二人だけでたがやす。雨の降らない日は、早朝から暗くなるまで瓜畑で農作業に没頭する。召平にとって、戦(いくさ)も瓜作りもまったく同じだ。全身全霊を打ち込む。

みんなが驚いた。はじめの頃はその熱心さに驚いていたが、青々と葉が繁り、花が咲き、大きな実を結ぶころになると、百姓としてのその力量にみなが感嘆する。肉厚の甘みの強いハミ瓜を、近所の人を多数を呼び、召平の家でふるまう。弟の娘が10キロをゆうに超えるハミ瓜を、肩に背負って畑から収穫してくる。包丁で切り、各人の前にならべる。

「これほど旨い瓜は食ったことがない!」
「平は瓜作りの名人じゃ!」

みんなが口々に絶賛する。ある古老に至っては、「まったくの素人が、これほどの瓜を、、、、、」
と言ったきり絶句して、恐怖に近い狼狽ぶりを示した。
















2020年7月20日月曜日

東陵の瓜(14)

長安郊外の召平の実家に着いたのは、前199年2月である。この時、召平の懐中はまったくの無一文だった。

二人は、長安まで2日ほどの潼関(どうかん)という町で、ここ一番の高級旅館に数日間泊まる。
連日酒を飲み、軍資金の残りをきれいさっぱり使い切る。余ったかね全部を、宿の者に「旨い弁当を二日分作ってくれ」、と言って手渡した。

宿に作らせた弁当を背負い、二人は元気いっぱいで出発する。人気のない山中の大きな池の前で最初の弁当を食う。食い終わると、弁当を包んでいた竹の皮に、秦からもらった東陵侯の金印と金の爵(しゃく・酒を飲む杯)を包み、目に前の池に惜しげもなくドボンと投げ捨てた。これは召平にとってのけじめの儀式であった。

「ああ、せいせいしたわい。これで秦との縁は切れた。十五の春、身体一つで家を出た。五十の今、手ぶらで家に帰る。幸いにも身体は健康だ。これを幸運と言わないで何が幸運か。畑を耕せばちゃんと食えると爺さまはおっしゃっていた」

召平はそう思い、微笑を浮かべながら浩と一緒に旅の足を速める。


実家は何も変わっていなかった。杏(あんず)も桃も棗(なつめ)の木も、35年間で大きく成長して元の場所にある。両親は思ったより元気そうだ。

「ようもどったなあ。ようもどったなあ」

母親は嬉しそうに二度つぶやいた。父は言葉も出ないのか、何も言わず、立ったままただ笑っている。泣いているようでもある。弟二人はそれぞれ家庭を持ち、本家の敷地の中に新屋(しんや)を建てている。二人とも大喜びで迎えてくれる。

「あんちゃんは偉いよ。大将軍になったのだからなあ。戦(いくさ)で怪我はせなんだか?」

敗軍の将という表現は少し違うが、そう言われて召平は嬉しいというより気恥ずかしい。
「秦は滅びてなくなった。大将軍さまも東陵侯さまも消えてなくなったよ。今は一介の布衣(ふい)だ」

「爺さまが亡くなられた時、親父が竹簡を送ったので届いたと思う。あんちゃんが東陵侯になって5年目だった。八十だから古希を十も超え村一番の長寿者だった。爺さまは日ごろから ”秦の天下は長くない。平は失業してもどってくる。五十になったらかならずもどってくる” とおっしゃっていた。
 ”昔からの我が家の農地七町歩は平のために残しておけ” といつも言っておられた。大将軍になり東陵侯にまで出世したあんちゃんが、この草深い田舎にもどってくるとは親父も我々も思ってもみなかった。爺さまはどうしてわかったのだろう?」

統一後の秦の後半になると、農地を手放す農民が増えてきた。爺さまは、頼まれてそれを少しずつ買い増していったそうだ。

「亡くなる前日も、 ”余裕ができたらどんどん畑を買い増しておけ。平はかならずもどってくる。” と言われた。だから親父も我々二人もがんばって農地を増やして、今では買い増した畑が八町歩ほどある。我々二人はこの八町歩で充分食える。元の畑はあんちゃんのものだ」と二人の弟は笑う。
















東陵の瓜(13)

劉邦が項羽を倒し、天下を統一して漢という国を建てた。都を長安に定めたことも知っている。

会稽の本営で項梁・項羽の配下にいた韓信は、早い時期に劉邦のもとに走り、手柄を重ねて大将軍となり、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだとも聞いている。

あの季布は、最後まで項羽に忠義を尽くし、劉邦をさんざん痛めつけた。それゆえに、劉邦が天下を取ったのち、「一番のお尋ね者」としてその首に千金の賞金がかけられた。今は転々と地下に身を隠しているといううわさだ。

「季布は筋を通す男だったからなあ」、召平は可愛がった季布のことを時おり思い出すことがある。李照の竹簡には、季布のその後のことが書いてある。


「劉邦は季布の首に千金の賞をかけて、そのゆくえを探し求めていた。しかし、季布をよく知る周(しゅう)・朱(しゅ)という二人の大物の侠客と漢の高官・夏候嬰(か・こうえい)のとりなしにより、劉邦は季布を許した。いま季布は郎中(ろうじゅう・皇帝の護衛)という重職にある。劉邦はふところの深い人物で、長安の人心はこの男になびいている。これからは良い世の中になると思う」

弟か子供のつもりで、その成長を期待していた季布が生きていて、なおかつ漢の重職で活躍していると聞き、召平はなによりも嬉しい。「そうか。季布は助かったのか。それにしても劉邦という男は底知れぬ器量の持ち主だなあ」

そして、最後に、こう結んである。

「召平の両親は七十を超えたが、元気で下僕たちに農作業の指示をしている。弟二人も嫁をもらい、元気でそれぞれの家庭を営んでいる。召平もそろそろ長安にもどってきたらどうか。子供の時のように仲良く愉快にやろうではないか」

李照は竹馬の友だ。召平と同い年で、川や山で遊ぶときはいつも一緒だった。

「長安に帰るか」

間もなく五十になる召平は思った。裕と浩の気持ちを尋ねてみる。5年前に村の父老の孫娘を嫁にもらい、二人の子供のいる裕はこの地に残り、独身の浩は長安に同行することに決まった。



2020年7月13日月曜日

東陵の瓜(12)

三人は汨羅の地に到着する。

地元の農夫に聞き屈原が身を投じた淵におもむく。そのあと、近くにある彼の墓に詣でる。村人に聞いてその郷の父老(ふろう)を自宅に訪問する。

「三閭大夫公の霊を弔うためしばらくこの地に住みたいのですが。お許し頂けないでしょうか」
召平は身を低くして丁寧に希望を伝える。突然の来客に、はじめ父老の対応はぎこちなかった。しかし、屈原の墓に詣で花を手向ける旅人に悪い感情は持たない。

「よろしかったら、しばらく宅(うち)に泊まりなされ」と親切に招き入れてくれる。秦の東陵侯の爵位を持つことは絶対に言えない。「屈原を崇拝する旅の道者である」と述べ、この地を去る日までそれで通した。

三人は朝起きると、すぐに屈原の墓に詣でる。草を刈り、墓の周りを掃除して、花を手向ける。
ただそれだけのことを繰り返すだけで、ひと月もしないうちに村人の評判になる。「あれは賢者だ」と。礼儀正しく、律義に宿代・食事代を払う3人の旅人に、父老が心を許すのにさほどの時間はかからない。父老の好意で、彼の屋敷の一角に三人が住める程度の小さな家を建てたのは、ここに来てわずか半年後のことである。


この汨羅の地も、秦の役人は追われ無政府状態になっていたが、各郷の父老たちの団結と指導で村の治安はよく保たれている。田畑の地味は肥えている。洞庭湖の恵みも大きい。農業・漁業の収穫量は多く、人々のくらしは他の地域よりずいぶん豊かに感じられる。

父老や村人に頼まれ、召平は子供たちに論語・老子・荘子などを教える。「論語だけではだめだ。子供にも老荘を教えるべきだ」、これが召平の考えである。裕・浩の二人も長年召平のもとにいるので、子供たちへの手ほどきぐらいはできる。

子供たちを教えるだけでは時間が余り身体もなまる。父老に相談すると、快く3反(900坪)ほどの畑を使わせてくれるという。三人で耕し、何種類もの野菜を植える。ほかの野菜は二人にまかせ、召平はもっぱら、広陵の時のようにまくわ瓜の栽培に熱を入れる。

子供たちからは授業料は取らない。親たちはお礼のつもりであろう。洞庭湖で採れる魚・蝦(えび)・蟹(かに)・蜆(しじみ)などを持ってくる。なかには「精がつきますぜ!」と生きたスッポンを手にさげてくる者もいる。米・麦・酒を持参する親たちもいる。

文字通り、自給自足の楽しい日々が続く。雨の日はもっぱら書を読む。父老の家には三閭大夫・屈原公自筆の竹簡や木簡が残っていた。八十になる父老は、子供の頃屈原を見たことがあるという。これら屈原自筆の詩を見せられた時、召平は感激で身体が震えた。

近郊の父老たちの宴会に招待されたり、村祭りには主賓格で呼んでもらったりもする。
汨羅郷の父老は太鼓の名手だ。各郷の父老たちとの宴会で歌がはじまると、この老人が太鼓で音頭をとる。「やってみなされ。面白いですぞ」、父老に勧められて、召平は太鼓の稽古をすることにもなる。

当初は2-3年のつもりでいたのだが、なんとも楽しい毎日で、汨羅での生活は7年に入った。そして7年目のある晩秋の午後、久しぶりに故郷の長安から便りが届く。李照(りしょう)という名の幼なじみからである。





東陵の瓜(11)

急ぐ旅ではない。

馬でゆっくりと西に進む。15日目の昼過ぎ、目的の地に到着する。洞庭湖(どうていこ)の南に位置する汨羅(べきら)という村だ。

じつは召平は、10年ほど前から、ある人物への思いが強くなっていた。戦国時代、楚の三閭大夫(さんりょたいふ・副宰相格)であった屈原(くつげん)である。その思いは、興味から憧憬、さらには尊敬へと変化してきている。

屈原が没してすでに70年になる。召平からみれば敵の指導者だった人物で、当然快くは思っていなかった。頑固者のくせに女に手のはやい好色者だと聞いていた。秦の武将のころ、先輩の将軍からこのように教えられていた。

「楚の懐王(かいおう)が寵愛していた鄭袖(ていしゅう)という女性と情を通じた屈原は、その事実を王に悟られた。屈原は手勢を連れて楚の都から逃げる。洞庭湖の近くまで来たものの、王様の兵隊はなおも追ってくる。漁民に小舟を借りてなお逃げる。とうとう逃げきれなくなり、もはやこれまでと、汨羅に身を投げた。間男(まおとこ)が追っ手から逃げ切れなくなって自殺したのだ」と。

ところが、10年ほどまえ広陵の地に赴任して、楚の人々がこの屈原を敬慕していることを知る。
はじめの頃は、広陵の人々は秦の東陵侯である召平を警戒して、口をとざしていた。ただ、屈原の命日である5月5日になると、村人は粽(ちまき)をつくり、何か儀式のようなことをしている。

これを問うてみた。召平の人柄がわかるにつれて、村人はポツリポツリと屈原の逸話を話してくれるようになる。広陵の人々はこう言うのだ。

「屈原は博聞強記で、民のしあわせを願う仁徳の政治家だった。楚の懐王は彼をおおいに信任していた。上官大夫(じょうかんたいふ・官名)・斳尚(きんしょう)は屈原と同列であったが、王の寵愛を争って心ひそかに屈原の有能をにくんでいた。斳尚はないことまで王に告げ口をして、屈原は洞庭湖近くに流罪になった。その地で、国の将来を憂い ”楚辞” といわれるいくつもの憂国の詩を残す。何度も中央復帰を試みたが叶わず、ついに石をふところに入れて汨羅に身を投げた死んだ。汨羅の村人はそれ以来、屈原を偲び、命日の5月5日になると粽をつくり湖に投げ入れている。魚どもよ、屈原様を食べてはいけないよ。この粽を食べてくれと」

広陵の人から「楚辞」を借り受け読んでみた。同時に古老たちから話を聞き、召平は理解する。
屈原が「合従連衡・がっしょうれんこう」の「合従」派の急先鋒だったことを。すなわち、対秦外交では、「韓・魏・趙・燕・楚・斉の六ヵ国が団結し秦の領土拡大の野望を防ぐべし」との考えであった。

しかし、屈原が江南の地に流された直後、政敵の斳尚(きんしょう)は、秦王の意をくむ遊説家の張儀(ちょうぎ)が主張する「連衡策」を受けることを楚王に進言する。これにより、楚は日に日に領土を削減され、ついに秦に滅ぼされてしまった。

「70年の昔、屈原は秦の法治主義による統治が、人々に幸福をもたらさないことをすでに見抜いていたのではあるまいか」

召平はそう思った。そして、秦の悪政により日に日に困窮の度を増す農民の姿を見るにつけ、この人物に対する強い尊敬の念へと変化していった。

「できることならば、将来、屈原公の墓の近くにあばら屋を建て、その霊を弔いたい」

ここまで、召平の屈原崇拝の気持ちは高まっていたのである。













2020年7月9日木曜日

東陵の瓜(10)

みんな行ってしまった。召平と二人の部下だけが残った。

30人の身の振りようは、昨日の朝決めている。みなを集め、会計係の男に命じた。
「残りの軍資金を40等分せよ」と。10人の戦死者の遺族にも渡そうと考えたのである。一家の生活費の2年分ほどの金・銀を配り終えて、召平は言う。

「今まで本当に良くやってくれた。厚く礼を言うぞ。軍は明朝出発する。これからはみなの思い思いの行動をとるがよい。広陵に帰るのもよし。項梁・項羽の軍に従うもよし。わしについてくるのもよし」

そして、付け加えた。

「広陵の県令は、孫義(そんぎ)によって先月首を刎ねられた。孫義のことはお前たちもよく知っておるだろう。いま広陵の地は無政府状態だが、実質孫義が支配している。だからお前たちの身にはなんの心配もない。むしろ義士として迎えられるであろう」

先日建康を発つとき、一人を郷里の広陵に派遣していた。広陵の現状がどのようになっているかの偵察のためだ。その男が昨日持ち帰った、最新の情報である。

孫義は30過ぎの広陵の無頼漢だ。県の役人と衝突した時、二度ほど助けたことがある。季布とは違うタイプだが、この男も召平を慕っていた。というより、召平が決起したとき、孫義は自分が副将格として召平と一緒に行動するつもりでいた。

「それはならぬ。今は重病の母親のもとにいて看病をしてやれ。時機がきたらわしに合流せよ」
食い下がる孫義を、召平はこのように諭し、決起の仲間からはずした。ふた月まえにその母親は亡くなった、と伝令は言う。

「侯はどうなさるのですか。一緒に広陵に帰らないのですか?」

「わしには考えがある。十年もすれば世の中は落ち着くであろう。当分のあいだ旅に出ようと思うのだ。わしのことは一切心配はいらん。まだ四十ゆえ、一人でも大丈夫じゃ。おのおの自分の思う通りに決めよ」

21人が広陵に帰り、7人が軍に従うことに決めた。朱裕と葉浩の二人が召平に同行を申し出て、召平はこれを許す。裕は召平が東陵侯になる以前から従っていた下僕で31歳になる。浩は芋を一緒に植えたとき最年少の少年で、季布の友人である。27歳になる。三人は会稽の宿に二晩泊まる。

二日目の夕食のとき、「侯の今までのご努力はなんだったのでしょうか。その苦労ははたして報われたのでしょうか、、、」と裕が独り言のようにつぶやく。しばらくの沈黙のあと、召平は答える。

「人生の禍福はにわかに論じがたし。と昔の賢人は言われた。報われるとか報われないとかは眼中に置くべきではない。正しいと思うことを突き進めば、人間はそれで充分生きたことになるのだ」

三日目の朝、「西に行こう!」
召平は二人に静かに言った。








2020年7月8日水曜日

東陵の瓜(9)

「張楚上柱國印」の金の印綬を渡そうとすると、項梁はそれをさえぎる。

「しかるべき儀式が必要かと思います。その儀式の席で、今一度、兵や群衆の前で勅命を賜りたいと存じます。そのあとで印綬をお受けしたいと思います」

なるほど、もっともである。この男、馬鹿ではない。召平は妙に感心する。

項梁は現状を次のように語る。

「兵は現在六千おります。将校は五百。将軍は甥の項羽(こうう)を筆頭に、鍾離昧(しょうりまい)・季布(きふ)・韓信(かんしん)を含めて十人。いずれも十万の兵を指揮する力量がございますゆえ、百万の兵であれば今すぐにでも統率できます。項羽はいま、南方で兵を募っており、あと三日もすれば二千の兵を連れてもどってまいります。そのあとで、儀式の日取りを決めさせてください。近郊の群衆を多数集めて、盛大な儀式を執り行いたいと思います。それまでは、ごゆるりとお身体を休められてください」

翌日から、毎夜の宴会になる。仮の駐屯地ながら、山海の珍味がぞくぞくと運ばれてくる。これをもってしても、会稽の民衆が項梁を強く支持していることがよくわかる。接待係の将軍は日ごとに替わる。召平の目から見ても傑物がそろっている。

三日目の晩、季布が接待係として顔を出す。給仕係の男女は入れかわり料理や酒を運ぶが、他の将軍や将校は同席しない。召平と季布は、それ以降のことを存分に語り合うことができた。

「項梁殿と項羽殿が、会稽の郡守・殷通(いんつう)の首を斬ったのは三ヶ月ほど前です。自分は7年前から項梁殿に仕えております。同時に、甥の項羽殿に剣術や学問を教えておりました。項羽殿は気性が激しく個性の強いお方ですが、いわば天才です。ゆくゆくは、項梁殿はこの甥に総大将の地位を譲る気でおられます。ほかの将軍の意見は聞かないが、私の言うことには耳を傾けてくれます。項羽殿が十七歳のときから、兄弟分として付き合ってきたからでしょう」

召平は気になっていることをたずねる。

「俺のことは項梁にどこまで話しているのだ?」

「すべて本当のことを話しました。項梁殿は勘の鋭いお方です。そのほうが良いと思いましたので。長安の農民の出で一兵卒から大将軍・東陵侯になられた。自分は一年間その館でお世話になった。ただ、軍歴は蒙恬大将軍のもとで北方の匈奴征伐が中心であり、楚への遠征軍の中には加わっていない。しかし、このことは項梁殿の胸に秘めて、激情家の項羽殿の耳には入れないほうが良いと思います。と述べ項梁殿も同意されました。ただ陳王の勅使ということは間違いのない事実です。と言ってあり、項梁殿はそれを信じておられます。先日、侯の部屋を訪問した時は、同僚の韓信が何かを感じたのか、部下の将校に私を尾行させていたのが判ったので、早々と失礼した次第です」

完璧な対応である。それにしても季布は項梁によほど信頼されているらしい。


軍団が出発する朝である。空は快晴だ。色とりどりの旗やのぼりが風にはためいている。
項梁は項羽以下の将軍に命じ、今日の儀式のことを四方八方の住民たちに喧伝していた。
八千の将兵を、十万の群衆が仰ぎ見るようなまなざしで取り囲んでいる。

召平は、しんみょうな顔で直立する項梁に重々しく命令を下す。項羽以下の将軍たちも緊張した顔つきでかたずを飲んでいる。

「卿(けい)を張楚国の上柱国に任ず。江南の地はすでに平定された。ただちに兵を率いて北進し秦を滅ぼすべし」

同時に金の印綬を項梁に手渡す。

そのあと、項梁が檀上に立ち、ひと声大きく発す。

「前へ!」

八千の将兵は、「大楚! 大楚! 」と叫びながら、一団、また一団と隊列を組んで、北に向かって進軍していった。十万の群衆は狂ったように、「大楚! 大楚!」の歓呼の声を張り上げて、最後の兵士の一人が見えなくなるまで、その軍団を見送った。



















2020年7月5日日曜日

東陵の瓜(8)

一行は非常な厚遇を受ける。館の中に招き入れられ、湯を浴びるようにすすめられる。
その後、召平は一人で貴賓室に、他の者たちは別棟に案内され夕食をふるまわれた。

夕食の膳がさげられたあと、季布が一人で召平の部屋をたずねてくる。
「お懐かしゅうございます。その節は大変お世話になりありがとうございました。項梁どのが明朝、勅使どのにお目にかかりたいと申しております」

季布はこれだけ言って、すぐに部屋から出て行った。召平には二人だけで語りたいことが山ほどある。おそらく季布も同じであろう。ただ、季布がこのような態度をとるには、それなりのわけがあるに違いない。信を季布の腹中に置く召平は、彼を呼び止めることはしなかった。


翌朝、季布に連れられて項梁との会見の場所に移動する。「帯剣のままで」と季布は言う。項梁がそのように指示したのであろう。誰もいない貴賓向けの部屋の上席に座らされる。季布はすぐに出ていく。

「帯剣のまま俺を上座に座らせるということは、項梁は勅命を受ける腹だ。説明はいらぬ。頭ごなしに勅命を申し渡すのが一番良い」

一人の男が剣を帯びないで入ってくる。この男が項梁か。自分より十歳ほど年長であろうか。召平の前に来ると、両ひざをまげ、頭を床につけて拝礼する。あきらかに勅使をむかえる作法である。
召平は威厳を込めて声を励ます。

「秦の悪政により民は塗炭の苦しみにあえいでいる。張楚王・陳勝は卿(けい)を楚の上柱国に任ず。江南の地はすでに平定された。ただちに兵を率いて北進し、秦を滅ぼすべし」

項梁はだいたいの予想はしていた。しかし、「楚の上柱国」という官名を聞いたとたん、その身体に熱いものがこみあげてくる。大宰相を意味するこの官名は、楚の国独自のものだ。父の項燕は大将軍に昇ったものの、上柱国の地位には就けなかった。この「楚の上柱国」の官名を御旗に掲げて北進すれば、楚の豪傑どもはあらそって俺の傘下に入ってくるに違いない。


「謹んでお受けつかまつります」

項梁は緊張した声で、はっきりと答えた。












2020年7月1日水曜日

東陵の瓜(7)

建康では最高級の旅館を宿とする。

軍資金はたっぷりある。部下を充分に慰労することができた。呉服商を呼び全員の衣服を新調する。項梁・項羽の陣営に行くにはそれなりの格好をしておかなくては、との計算もある。

もう一つ大事なことがある。

建康の町で一番の鋳物師(いものし)を宿に呼び、法外な金(かね)を渡して言った。
「純度の高い金(きん)を使い、急いでこの文字の印綬を造ってくれ」
ー張楚上柱國印ーと書かれてある。このような準備に十日間を要し、召平一行は会稽に向かう。

会稽は古くからの地名である。西周(せいしゅう)が殷を滅ぼしたすぐあとに、この辺りに大きな都市ができる。のちの地理でいえば、蘇州・杭州・紹興一帯である。項梁は後世の浙江省(せっこうしょう)のほぼ全域を抑えていると考えてよい。

六千の軍団をかかえていると聞く。以前の郡庁と郡守の館を接収した仮の本営だが、立派なものだ。正門を、10人ほどのいかめしい衛兵が警護している。

「何者だ! 名を名乗れ!」 衛兵の長(おさ)らしき下士官が大声で叫ぶ。

「ひかえろ! 頭が高い。お前たちではわからん。責任者を呼べ!」

召平の側近の王猛という猛者が、声を励まして一喝する。30人のきらびやかな服装に、衛兵たちはただならぬものを感じたらしい。1人が走って本営に入る。
しばらくたって、偉丈夫の将軍が3人の将校を連れて出てくる。年齢は案外若い。

「とっ、とっ、とっ・・・・・・・」その将軍はびっくりした顔でそこまで言って押し黙った。「東陵候どの」の言葉はかろうじて飲み込んだ。一瞬の判断が、この若い将軍の頭を走ったのであろう。

おどろいたのは召平も同じである。なんとその男は、10年ほど前に命乞いをしてやり、1年間広陵の館に預かったあの季布である。王猛をはじめ、30人の供の中には季布を知る者は何人もいる。供の一人の葉浩は季布の幼なじみだ。召平はうしろをふりむいて目で合図する。「まったく素知らぬふりで通せ」、みなは召平がそう命じたと理解する。

ここで東陵候などと呼ばれたのではたまったものではない。すべてが水の泡に帰す。項梁の父・項羽の叔父である楚の大将軍・項燕(こうえん)は、秦の将軍・王翦(おうせん)に首をとられた。当時、召平は蒙恬に従って北方警備の任にあり、楚の項燕討伐の軍には加わってない。しかし二人にとってはそれは関係ない。秦の大将軍ならすべて親の仇である。

「謹め! 吾は張楚国の陳王の勅使である!」召平は高飛車に一喝する。

季布は身を縮めるようにして頭を下げた。聡明な季布は、この一言で、召平が何を考えているのかをほぼ理解したようである。

(東陵候どののお芝居につきあわねばなるまい)

季布は瞬時に腹をくくる。召平の供の中にはなつかしい顔が何人も見えるが、季布は彼らをまったく無視する。「すぐに項梁どのにお取りつぎ申し上げます」と、勅使に対しての丁重な礼をつくし、門の中に入っていった。







東陵の瓜(6)

4ヶ月も大陸の東部を流浪しているが、兵の数は増えるどころか逆に減っている。秦の役人とのこぜりあいや、流賊団から襲われて手勢は30人になる。陳勝のいる陳のみやこへ接近することさえできない。

そのうち、秦の官軍が東進して、あちこちで陳勝の軍を撃破しているといううわさが耳に入る。召平は行くべき方角を失ってしまった。このような状況に至っても、召平は希望を捨てない。楽天的な智謀の人なのである。一晩の熟考ののち、次のように決心する。

「陳王・陳勝の勅使(ちょくし)になりすまし、会稽郡(かいけいぐん)の項梁(こうりょう)・項羽(こうう)の陣営に乗り込む。そして、項梁に張楚国の上柱国(じょうちゅうごく・宰相)の印綬を与え、秦を滅ぼすべしとの命令を下そう」

恐るべき大胆な発想である。

「陳勝軍は負けるかもしれない。残念だがそれはそれでやむを得ない。しかし、打倒秦の炎を消すわけにはいかない。沛(はい)で挙兵したという劉邦という男より、会稽(かいけい)の項梁のほうがはるかに有望に思える。なによりも氏素性が良い。項梁は秦に殺された楚の大将軍・項燕(こうえん)の息子だ。この男に (張楚上柱国) の印綬を与えれば、楚の人民は雪崩を打って項梁に従うに違いない」

召平には確信がある。
「項梁は馬鹿ではない。かならずこの印綬をありがたく受けるに違いない」

冷静に考えてみればわかる。項梁・項羽はすでに江南の地を制し、みずからを義軍と称しているものの、はたから見ればあちこちで決起している流賊団の一つの頭目にすぎない。陳勝自身がその最大の頭目ではあるが、彼はすでに張楚国を建て自らを陳王と称し、人々はそれを認めている。名前だけの張楚国であり、名前だけの陳王ではあるが、歴史はすでにそのように動きはじめているのだ。

項梁が今いちばん欲しいものは 「錦の御旗」 のはずだ。彼は自分が陳王の勅使(ちょくし)だということに疑問を抱くかもしれない。しかしたとえ疑問を持ったにせよ、かならずこの話に乗ってくるに違いない。

偽りの勅使になりすますことにも、ニセの印綬をつくることにも、罪悪感はまったくない。
「今にあってはこれが正義だ」とのゆるぎない信念がある。

しかし一抹の不安もある。項梁は冷静な男だが、甥の項羽は激情家だと聞く。項梁が不在で項羽が対応して話がこじれると、六千の軍団の中に30人で飛び込むのだから「袋の鼠」だ。全員が殺されることもある。

「ままよ、男一匹出たとこ勝負だ!」

馬の踵(きびす)をかえし、30人の部下に南進を命じる。そして、さらに半月の旅を続ける。揚子江を渡り、建康(けんこう・現在の南京)という大都市に着く。ここから会稽までは5日間の旅である。召平たちの一行は、ここで10日間逗留する。召平がこの建康の地に入った時、陳勝は部下に殺されていた。兵を挙げてわずか6ヶ月後のことである。だが、このことは召平はまだ知らない。正月早々の建康の地は、すでに梅の花が満開である。

長寿であることを貴とするならば、二十代で死んだであろう陳勝という男の一生は、まことに可哀そうなものだ。しかし、己の身を挺することで歴史の流れを一変させることが男子の本懐であるならば、それを実現できた幸運な人ともいえる。打ち上げ花火のような華麗な六ヶ月間を送って死んでいったこの青年は、後世の数多くの少年を奮い立たせる名言を残す。

「王侯将相(おうこうしょうしょう)、寧(いずく)んぞ種(しゅ)あらんや」
「燕雀(えんじゃく)寧(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」

ともに陳勝の口から出た言葉だ。名言の宝庫のような男である。
ただの土民ではなかったのかも知れない。

















東陵の瓜(5)

「秦を滅ぼさねばならない。自分もどこかで兵を挙げる」
短時間の熟考の末、召平は次のように当面の方針を決める。

「金(かね)は勝者についてくるというが、当初兵を食わせるには、それなりの種銭(たねせん)が要る。館にある金目の骨とう品や重い銭(ぜに)を、持ち運びやすい玉(ぎょく)・金・銀に換えておくのがよかろう」

使用人に命じ、県令や商人たちのうわさにならぬよう気を配りながら、すぐさま実行に移す。後日、これがおおいに役に立つ。


四ヶ月後、決起のときが来る。前209年7月のことだ。
陳勝(ちんしょう)という男が友人の呉広(ごこう)と共に、「打倒秦」 ののろしをあげたのだ。その勢いは燎原の火のごとくに広がっているという。すぐに人をやって情報を集める。事実であった。

二人は楚の土民である。何の準備もないやぶれかぶれの挙兵が、大成功しているという。他の農民と共に、兵士要員として北辺の地に送られる旅の途中であった。この年の7月は中国全土に大雨が降る。大沢郷(だいたくきょう)という土地まで来たとき、豪雨で道路が不通になり動けなくなる。

秦の法律では、徴発された兵士や労役夫が期日までに目的地に着かない場合、全員が死刑になる。この天候では絶対に到着できない。「逃げるも死だが行くのも死だ!」二人は仲間900人を前に、一世一代の大演説を吼える。すぐさま秦の監督官を殺し、反乱ののろしをあげる。

出たとこ勝負で立ち上がったこの陳勝という男のもとに、みるみる兵が集まる。わずか二ヶ月ののち、陳(ちん)という町にたどりついた時には、なんとその勢力は数万にふくれあがっていた。陳は楚(そ)が最後に国都とした町である。

陳勝が数万の兵を率いてこの町に迫った時、郡守は恐れをなして逃げだしてしまった。町の人々は歓呼の声で迎い入れた。陳勝は、民衆の代表である父老たちに押されて陳王となり、国号を「張楚」(ちょうそ)と称した。「大いなる楚」という意味である。

「人心は秦からまったく離れている。実行の時だ」

報告を聞いて召平は立ち上がった。県令を殺し、広陵の町を乗っ取り、これを手土産に陳勝の軍に合流する。そう考えて、召平は行動に移る。

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しかし、この企ては失敗に終わる。


作戦は正しかった。この反乱の直後、沛(はい)において劉邦(りゅうほう)が、会稽(かいけい)において項梁(こうりょう)・項羽(こうう)が挙兵する。そのとき、両者とも一番はじめに県令や郡守の首を刎ねている。その後、みずからを義軍と称し、県庁や郡庁の金庫にある国庫金を没収し、自分に従うことを約束した秦の兵士を義兵とした。召平が考えた通りの作戦で成功している。

しかし、広陵において召平は失敗した。

人がついてこなかったのである。

その理由はただ一つ。召平が秦の爵位を持っていたことにある。やむなく40人ほどの手勢をつれて逃げた。当初はこれをふくらませつつ、陳勝の軍に合流するつもりだった。ところが兵の数はいっこうに増えない。

「よほど俺に徳がないのか」

一時期、召平は暗い気持ちになる。じつは旅の途中でも、この秦の爵位がじゃまをしていた。もちろん、東陵侯だとは名乗らない。部下にも秘するように命じている。しかし、近郊の主だった者たちは召平のことをよく知っていたのだ。

「東陵候の爵位がこれほどじゃまになるとはなあ、、、」、召平は一人苦笑いする。