2020年1月22日水曜日

曙覧(あけみ)の歌

正岡子規は「万葉集」を重んじ、源実朝を高く評価したと聞く。一方で「古今和歌集」・「新古今和歌集」をこきおろし、紀貫之や藤原定家を罵倒している。

「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集にて有之候」との「歌よみに与ふる書」の一文は、痛快で小気味が良い。

その辛口の子規が、幕末の勤王歌人・橘曙覧(たちばなの・あけみ)を、次のように激賞している。

「その歌、古今新古今の陳套(ちんとう)に堕(お)ちず、真淵(まぶち)・景樹(かげき)のカキュウに陥らず、万葉を学んで万葉を脱し、瑣事(さじ)俗事を捕らえ来りて、縦横に馳駆(ちく)する処、かへつて高雅蒼老些(こうがそうろうさ)の俗気を帯びず」

年表によると、文化9年(1812)生ー慶応4年(1868)没。越前の人である。
松平春嶽の招聘を断り、清貧のなかで心豊かに一生を終えた人だと聞く。
明治以降、子規をはじめ一部に熱狂的な信奉者がいたらしいが、さほど有名な人物ではない。

1994年、平成天皇・皇后がアメリカを訪問されたとき、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、この人の一首「たのしみは 朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時」を引用してスピーチをしたことで、その名と歌は脚光を浴びることになった。
ホワイトハウスの中にも知恵者がいたようである。


この曙覧の歌の中で、心惹かれるものをいくつかご紹介したい。


〇 たのしみは 草のいほりの筵(むしろ)敷き ひとりこころを静めをるとき

〇 たのしみは 炭櫃(すびつ)のもとにうち倒れ ゆすり起こすも知らで寝し時

〇 たのしみは 百日(ももか)ひねれど成らぬ歌の ふとおもしろく出(いで)きぬる時

〇 たのしみは 妻子(めこ)むつまじくうちつどい 頭(かしら)ならべて物をくふ時

〇 たのしみは 空暖(そらあたたか)かにうち晴れし 春秋(はるあき)の日に出てありく時

〇 たのしみは 朝おきいでて昨日まで無(なか)りし花の 咲ける見る時

〇 たのしみは あき米櫃(こめびつ)に米いでき 今一月(いまひとつき)はよしといふとき

〇 たのしみは 物識人(ものしりびと)に稀にあひて 古(いに)しえ今を語りあふとき

〇 たのしみは まれに魚煮て児等(こら)皆が うましうましといひて食ふ時

〇 たのしみは 雪ふるさより酒の糟(かす) あぶりて食ひて火にあたる時

〇 たのしみは 書(ふみ)よみ倦(う)めるをりしもあれ 聲(こえ)知る人の門たたく時

〇 たのしみは 銭(ぜに)なくなりてわびおるに 人の来りて銭くれし時

〇 たのしみは 昼寝目ざむる枕べに ことことと湯の煮えてある時

〇 たのしみは とぼしきままに人集め 酒飲め物を食へという時

〇 たのしみは 家内(やうち)五人(いつたり)五たりが 風邪だにひかでありあへる時

〇 たのしみは 機(はた)おりたてて新しき ころもを縫ひて妻(め)が着する時

〇 たのしみは 人も訪(と)ひこず事もなく 心をいれて書(ふみ)を見る時

〇 たのしみは 木芽煮(きのめにや)して大きなる 饅頭を一つほほばりしとき

〇 たのしみは つねに好める焼豆腐 うまく煮たてて食わせけるとき

〇 たのしみは 小豆の飯(めし)の冷えたるを 茶漬(ちゃつ¨け)てふ物になしてくふ時

〇 たのしみは いやなる人の来たりしが 長くもをらでかへりけるとき

〇 たのしみは 戎夷(えみし)よろこぶ世の中に 皇國(みくに)忘れぬ人を見るとき







2020年1月17日金曜日

三種の神器の危機

壇ノ浦の合戦だけでなく、日本史の中で三種の神器は何度も危機に瀕している。

南北朝時代はこの三種の神器の奪い合いの時代ともいえ、この時代には三種の神器をめぐる興味深い話がたくさんあるが、省略する。

ここでは、つい最近の三種の神器の危機についてご紹介したい。75年前の話だが、二千年の日本史からみたら、つい最近、と表現しても許していただけると思う。

終戦の詔書の草案は、鈴木貫太郎内閣の書記官長(官房長官)であった迫水久常(さこみず・ひさつね)が書き、安岡正篤・川田瑞穂の二人の学者が朱を入れ、昭和20年8月14日の閣議で決定し発表された。

迫水氏の著書「大日本帝国最後の四ヶ月」の中に、その時の閣議の緊迫したやり取りが生々しく書かれている。

「戦局必スシモ好転セス」
「然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)クトコロ」
「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
などの箇所を決める時のエピソードは有名である。迫水氏は、これら以外に三種の神器に触れるか否かで激論があったと述べておられる。氏の著書から引用させていただく。


詔書の草案については、他にもニ・三箇所修正が行われた。
成文のなかに「朕ハ茲(ココ)ニ国体ヲ護持シ得テ爾臣民(ナンジシンミン)ノ赤誠ニシンキシ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」という一節があるけれども、草案の段階では「朕ハ爾臣民ノ赤誠ニシンキシ常ニ神器ヲ奉シテ爾臣民ト共ニ在リ」となっていた。

この中の「神器ヲ奉シテ」が問題になった。
草案をつくるにあたって、この部分には私もいささかこだわった。終戦の詔書は、日本の全国民に陛下のお気持ちを伝えるものだから、当時の常識として三種の神器の存在を表現に出すのは当然のことと思われたが、ある閣僚は、日本国民に読んでもらうと同時に連合国側に対しても日本の進むべき方向を示すものだから、修正したほうがよいと提案した。

その閣僚は、石黒忠篤(いしぐろただあつ)農相である。石黒農相は、つぎのような理由で「常ニ神器ヲ奉シテ」の字句を削除するべきだと主張した。

「米国などは、いまなお、日本の天皇に神秘的な力があると信じている。にもかかわらず、こんなことを書き記しておくと、天皇の神秘力の源泉が三種の神器にあると考えるにちがいない。そうなると、連合国では、神器についてあれこれ詮索しないとも限らない。無用な混乱を防ぐためにも、この部分は削除したほうが良いと思う。起草者の気持ちはよくわかるし、日本国民の一人としては同感だが、やはり、削るほうがよいのではあるまいか」

わたしもなるほどと思ったので、固執することなく、削除に同意した。


この時の閣議に参加した国務大臣(情報局総裁)・下村海南(しもむら・かいなん)氏の手記にも、
「こんなことを書くと連合国側が、三種の神器を出せ、と言ってアメリカに持ち帰る恐れがある。隠しておくにかぎる、と石黒農相は強く主張した」とある。

この石黒農相の反対がなかったら、もしかしたら三種の神器はアメリカに持ち帰られ、スミソミアン博物館に飾られていたかもしれない。

ごく最近にも、三種の神器の危機があったのである。












2020年1月14日火曜日

三種の神器は本物か?

友人たちと酒を飲みながら、草薙剣について私が熱っぽく語っていると、その中の一人が軽蔑と憐みの表情でこう諭してくれた。

「お前、馬鹿だなあ。草薙剣を含めて今残っている三種の神器はみなニセモノなんだぜ。本物はぜんぶ安徳天皇と一緒に壇ノ浦に沈んだんだよ」


「本物の三種の神器」は残っていないのか?残っているとしたら今どこにあるのか?
この辺りを検証してみたい。

平家滅亡の際、三種の神器は、壇ノ浦で安徳天皇入水のおり海に没したとされている。
「平家物語」・「吾妻鏡」その他の伝承には多少の差異はあるが、この時の様子はおおむね次のようであったらしい。

按察局(あぜちのつぼね)が安徳天皇を抱き、天皇の祖母の二品禅尼(にほんぜんに・平清盛の娘・平時子)が草薙剣を腰に差し、海に飛び込んだという。

この瞬間の鏡と勾玉についての描写はないが、その後、この二つが海上に浮いているのを片岡太郎経春という武士が取り上げて回収し、都に持ち帰ったという。剣は箱から取り出されていたので水没し、あとの二つは箱に入っていたので浮いていたという。

その後、後鳥羽(ごとば)天皇より二十数年間は、皇居清涼殿の剣を代用していたが、承元(じょうげん)4年(1210)順徳天皇が即位した時、伊勢神宮から新たに宝剣を得て、この剣が現在まで草薙剣の分身として皇居に伝わっている。


「三種の神器」の現在の所在については、稲田智宏著・「三種の神器」(学研新書)に詳しく書かれている。私はこの稲田先生の説明に全面的に納得している。

三種の神器は、実は5つある。

まず、東京都千代田区の皇居にあるものは、次の通りである。
「草薙剣・くさなぎのつるぎ」(分身)
「八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま」(本体)
「八咫鏡・やたのかがみ」(分身)

草薙剣と八尺瓊勾玉は、天皇・皇后の寝室のとなりに設置された剣璽(けんじ)の間に安置され、八咫鏡は宮中三殿の中央に位置する賢所(かしこどころ)に祀られている。勾玉だけが神話時代から伝わる本体であり、鏡は第十代崇神天皇のときに鋳造された分身であり、剣は壇ノ浦の合戦のあと伊勢神宮から得た分身である。

「草薙剣」の本体は愛知県の熱田神宮にあり、「八咫鏡」の本体は三重県の伊勢神宮にある。

このように、神話時代からの「本物の三種の神器」のすべてが、日本に現存している。
私はこう固く信じている。











2020年1月8日水曜日

草薙剣(くさなぎのつるぎ)(2)

3、天智天皇と中臣鎌足の心の内(うち)

天智天皇は次のように考えておられたのではあるまいか。


そもそも草薙剣が熱田神宮にあること自体がおかしい。皇室もしくは伊勢神宮に返還されなければならない。

元をただせば素戔嗚命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治して取り上げた剣であり、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上された皇室の至宝である。以来、皇居において八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と共に三種の神器の一つとして大切に保管されてきた。

第十代崇神(すじん)天皇の6年、疫病を鎮(しず)めるべく、天照大神の神霊を皇居の外、大和国・
笠縫邑(かさぬいむら)に移した。その時、鏡と剣の本体は天照大神の神霊のもとに置き、皇居には勾玉の本体と新たに鋳造した鏡と剣を保管した。

第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代になり、天照大神の神霊が、「ここで祭られるのはいやだ。どこかもっと良い場所に移してほしい」と言われ、皇女倭姫(やまとひめ)が、美濃から伊勢方面で鎮座にふさわしい場所を求めて旅をされた。「ここが気に入った」と神霊が言われた場所が伊勢神宮であり、ここに鏡と剣の本体が祀られた。

第十二代景行天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が九州の熊襲(くまそ)を平定したすぐあと、天皇は武尊に東国平定を命じた。その途中、伊勢神宮に立ち寄った日本武尊は叔母の倭姫に不平を言ったらしい。

「叔母上、父は私を疎ましく思っているのでしょうか。死ぬように仕向けているようにみえます」
「そんなことはないです。お父様はあなたを頼りにされています。東国で危険な目に遭ってもこの剣を持っていれば大丈夫ですよ」と叔母の倭姫はやさしく甥をさとし、草薙剣と火打石を渡した。

東国を平定したあと日本武尊は、妃(きさき)である宮簀姫(みやすひめ)のもとを訪れ、尾張ですごされた。この姫は尾張国造の娘で、尊の東征のおり副将軍として活躍した建稲種(たけいなたね)の妹である。伊吹山の賊を退治に出かける時、尊は草薙剣を宮簀姫のもとに置き、これを持たないで出かけた。賊を征伐したあと、日本武尊は伊勢の能褒野(のぼの)において病没された。

もともと、草薙剣は皇室の至宝であり、日本武尊の東征の時、一時的にこれを貸し与えたもにである。皇室に返却されるのが当然である。

天智天皇のこの考えは、まったく正しいと思う。

この草薙剣は、妃である宮簀姫が「夫の形見です」と言って、実家に保存できるような代物ではないのだ。これは決して宮簀姫の実家の尾張氏や熱田神宮を軽視して言っているのではない。むしろその逆である。この事実からして、当時尾張氏がいかに強大な実力を持っていたかがわかる。
もし尾張氏が反逆すれば大和朝廷は崩壊するかもしれない、それほどの勢力を持っていたのだと私は考えている。よって、この時、大和朝廷は尾張氏に対して、草薙剣の返還を強く迫ることができなかったのではあるまいか。


さて次に、中臣鎌足の心の内をのぞいてみたい。

「おほほ祭り」の箇所で、次のように述べた。
「私のまったくの推測であるが、鹿島神宮の出であり、当時律令制度を導入して中央集権国家を建設しかけていた側近の中臣鎌足が、熱田神宮に嫉妬して草薙剣を取り上げるよう、天智天皇に進言したのかも知れない」

これに対して、鎌足は次のように答えるかもしれない。

私はそんなケチな嫉妬心で天智天皇様に進言したのではありません。たしかに私の実家の鹿島神宮は東国に鎮座する古い大社です。ご先祖の武甕槌(たけみかつ¨ち)神は天照大神の命を受けて出雲に出向き、大国主命とその息子の建御名方(たけみなかた)神を相手に、大活躍をして国譲りを実現させました。熱田神宮(尾張氏)にくらべても負けないほど大和朝廷の成立に貢献しました。

でも、これからは文明開化の世の中です。

地方豪族が先祖のかつての武功を誇り、大和朝廷の中央集権政策に水をさすようなわがままを許してはいけないのです。一刻も早く、天皇を中心とする律令国家を建設して有能な官僚を育成して、この国を豊かに強くしなければなりません。もたもたしていると、唐や新羅に攻め込まれます。

そのためには、熱田神宮が皇室の至宝を抱えているのを放置するのは問題があります。これを取り上げることが、他の豪族に対してのけじめとなり、皇室の威信を高めることになります。すなわち、これから行おうとする国家運営に好影響を与えるのです。

中臣鎌足は、このように考えていたのではないか、と想像する。.








 

2020年1月6日月曜日

草薙剣(くさなぎのつるぎ)

熱田神宮の「おほほ祭り」の箇所で、草薙剣の盗難事件と、その後天智天皇がこれを取り上げて近江の御所に保管したことを述べた。

ただ、この話はもっともらしいのだが、前半の盗難事件を事実と考えるには無理がある。いくつかの事象を一つ一つ検証していくと、これが作り話であることがわかる。
この話は、「日本書紀」・「熱田太神宮縁記」・「古語捨遺」(大同2年・807)などに記載されている短い記述を集め、皇室にも熱田神宮にも傷がつかないように、後世の人が作りあげた玉虫色のものがたり、と考えるのが適切だと思う。

推測するに、真相は、
天智天皇が中臣(藤原)鎌足の進言に同意し、信頼する僧・道行(どうぎょう)を勅使(ちょくし)として派遣して、熱田神宮に対して草薙剣を朝廷に差し出すよう命じた、のではあるまいかと私は考えている。

次のような理由による。

1、僧・道行という人物
この道行という僧は新羅の皇族の出身らしいが、わけあって若いころ日本に亡命し長く日本で生活している。天智天皇の病気を祈祷で平癒させたり、また天智天皇の援助により法海寺(ほうかいじ)を含めていくつもの寺を建立した等の伝承がある。中臣鎌足と同じく天智天皇が信頼する側近と考えるのが妥当だと思う。

熱田神宮に清雪門(せいせつもん)という門がある。
私も熱田神宮参拝のおりに見学したが、この門は「開かずの門」ともいわれ、現在でも閉じられたままである。「新羅僧・道行が草薙剣を盗みこの門を通って逃げていった」との言い伝えが熱田神宮に残っており、以来1300年以上もこの門は閉じられたままだという。

少し考えれば分かることだが、この話は奇妙である。
僧が宝剣を持ってこの門を出ていく姿を、熱田神宮の人たちは見ていたことになる。一介の僧の盗みであれば、これを見た神官たちが取り押さえればよいだけの話だ。だまってこれを見送ったという事実は、この僧の背後に強い権力があったと考えるのが自然ではあるまいか。

2、当時の東アジアの政治状況
この草薙剣が盗まれたという天智天皇7年(668)は、700年間続いた高句麗が唐・新羅の連合軍によって滅ぼされたその年でもある。その5年前、天智2年の白村江の戦いで日本・百済遺民の連合軍が唐・新羅の連合軍に大敗北したことが、半島における高句麗の立場を弱体化させた。

すなわち、このとき新羅は国威隆々としており、むしろしょんぼりしていたのは天智天皇を頭にいただく日本の人びとであった。「新羅が日本の国威増強の源となっている草薙剣を欲しがった」という考えにはまったく同調できない。この話は、それ以降の日本人が作ったものがたりである。

天智天皇と中臣鎌足の二人はしょんぼりとはしていなかった。
大変な緊張感を持って、天皇を中心とした律令国家の建設に全力投入していた。

まずは火の粉を払わねばならない。
十中八九、唐・新羅の連合軍が日本に攻めてくると予測して、これに備えた。九州北部に防人(さきもり)を配備し、北九州から瀬戸内海・大和にかけていくつもの朝鮮式の山城を築造した。各地に峰火台(ほうかだい)を置き、敵の侵入時にはかがり火や煙で交信すべく準備した。そして都を飛鳥から近江の大津に移した。もし敵が攻め寄せてきたら琵琶湖の水路を北上して若狭方面、もしくは美濃・尾張方面に脱出するためであったといわれている。

結果的には、その後、唐と新羅の両国が争ったため、日本への侵攻はなかった。

白村江での大敗、高句麗の滅亡に肝(きも)を冷やした天智天皇と中臣鎌足は、国家の危機を感じ、急いで中央集権化と律令制度を整備し、国家を強くせねばならないと考えた。そのためには、単に文書による「律・りつ」(刑法)、「令・りょう」(行政法)の制定だけでは現実的な行政は機能しない。地方豪族の勢力を削ぎ天皇の威信を高めなければならない。

このような考えのもとで、熱田神宮に対して草薙剣を差し出すよう命じたのではあるまいか。