2022年4月28日木曜日

白襷決死隊(3)

 こうして、出発の命令を今や遅しと待ちあぐんでいる我々の前へ、乃木希典閣下が幕僚とともに訪れられた。乃木将軍は集合した我々の前で、一場の決別の辞を述べられた。

「決死隊諸君、奉天の敵は益々増加し来れり。さらにバルチック艦隊の来航は近きに迫っている。従って国家の安危、戦闘と勝敗はかかって我が近囲軍に在り。このときに当り、忠勇無双なる独立隊突撃の壮挙を敢行する諸君の決心を見て、歓喜に堪えない次第である。従って諸君に対する嘱望は切実である。男子一死君国に報ゆるは今日にあるのである。願わくは、奮戦努力して、我が帝国軍隊の光威を顕揚(けんよう)せらるることを切望する次第である」

ここまで草稿を見ながら述べられた将軍は、その草稿を幕僚に渡し、ジッと将卒の顔を厳粛な表情で見渡してから、口を開かれた。

「此の一戦は国を挙げての戦(いくさ)じゃ、、、、、、」

真情の迸(ほとばし)った、切々たるひと言であった。満場粛(しゅく)として、水を打ったようである。将軍の顔も心持青ばんで、異常に引きつっていた。やがて、

「乃木希典(のぎ まれすけ)謹んで諸君にお願いする、、、、、」

と悲痛な声で言われて、又一渡り皆の顔を見渡された。三千の目はいずれも将軍の温顔に注がれている。名状(めいじょう)し難い感動に満ちた眼差しで。と、次の瞬間、ふるえる声が我々の耳を打った。

「総員必ず死んでくれッ」

将軍は言われたのだ。将軍が我々に、必ず死んでくれ、と頭を下げられたのだ。肺腑(はいふ)を貫くような悲痛な言葉だった。瞬間、将軍の心と我々三千の心とは一つのものだった。この短い言葉で、我々には将軍の苦しい胸中が手に取るように感じられた。

「よし。必ず死んでみせる。此の将軍の為に必ず任務を全うしてみせる」と泪(なみだ)を流して、我々は天に誓った。出発命令は下った。運動開始、午後六時半。




2022年4月25日月曜日

白襷決死隊(2)

 白襷決死隊(2)

第四回旅順総攻撃の第一日目、すなわち11月26日の夜である。命によって、第一師団歩兵第二旅団長・中村覚少将が指揮する一万数千の精鋭中より志願選抜された3030名がその総員である。中隊では、「この決死隊は到底生還は期し難いから、国許へ送還したい物はことごとく中隊へ預けて行け。時計その他の貴重品も携帯するには及ばぬ」との告示があった。

我々三千名は、明治37年11月26日午後5時、水師営東方凹地にその集合を完了した。直ちに門出の御祝いが始まったが、敵前に近いゆえ至って簡単、5人に1合の酒と、5人に1枚の鯣(するめ)が、この祝宴の御馳走の全部であった。これが済むと、京都東本願寺のお坊さんが来て、懇々(こんこん)と一場の訓戒を垂れた。いわば生きながら引導を渡されたのである。一言一句をも聞き漏らすまいと、全身を耳にして傾聴した。

それから三千名中、我々先頭部隊の一千名が残らず、右肩から左腹に、左肩から右腹に白木綿の襷(たすき)をかけた。死出の白装束という意味もあったが、もっと重要な理由は、暗夜を利して敵の陣中に突撃して八つ当たりの白兵戦を演ずるのだから、敵味方の見分けがつかず同士討ちの憂いがある。その識別を便ならしめるためであった。

一同極端な軽装だった。戦時には普通一人当たり120発の弾薬を持つのだが、この時は各自30発だった。二日分の糧食を背負袋に入れて、一同草鞋(わらじ)履きであった。

中村覚少将の告示があった。

「枝隊の目的は旅順要塞を中断するにあり。一人たりとも生還を期すべからず。予倒れなば渡辺大佐代わるべし。大佐倒るれば大久保中佐代わるべし。各級幹部は皆順次代わるべき者を選定し置くべし。襲撃は銃剣突撃を以てすべし。松樹山砲台に突入するまでは、敵よりいかなる猛射を受くるも応射することを厳禁す。集団する敵に遭遇せば、兵力の如何を顧慮せず突撃すべし。ゆえなく、後方に止まりまたは隊伍を離れ、もしくは退却する者あらば、幹部はこれを斬るべし。死傷者は衛生隊に一任す。ゆえに毫(ごう)もこれが保護に意を用いることなく、一意勇往邁進すべし」

恐らく、これほど悲壮を極めた命令はあるまい。




2022年4月18日月曜日

白襷(しろだすき)決死隊

 白襷決死隊(1)

香月三郎中佐と村上正路大佐が、203高地の頂上に日章旗をひるがえしたのは、明治37年11月30日午後10時である。

じつはこの4日前、別の決死隊が203高地攻略を目指して奮戦し、ほぼ全員が戦死した。中村覚少将率いる「白襷隊」である。千名が出撃して、生還したのは49名であった。

昭和11年6月、文藝春秋社は日露戦争35周年の特集を企画した。その時生存していた人は2名だった。「白襷決死隊に参加して」との題で、文藝春秋は橋爪米太郎(はしずめ・よねたろう)氏の手記を掲載している。

目を覆いたくなるような戦いである。ロシアの日本侵入を防ぐため、多くの兵隊さんが必死で戦った。今眼前にひろげられているロシアのウクライナ侵入を見るにつけ、この時の日本の将兵がどのような気持ちで戦ったかを想う。橋爪上等兵の手記はこれを伝えている。


「白襷決死隊に参加して」 橋爪米太郎

明治37年3月13日、麻布歩兵第一聯隊の一員として出征渡満した当時上等兵の私が、以来、金州城・南山・営城子・双台溝(そうだいこう)・播磐溝(ばんばんこう)などに転戦し、旅順攻囲中の乃木軍に加わったのは、6月のことである。

右縦隊に属する我々は、まず9月に鉢巻(はちまき)山を落とした。この山は右翼に有名な203高地を控え、露軍にとっては誠に重要な地点である。従って敵はすこぶる頑強なる抵抗をしたため、我が聯隊も約800名の戦死者を出した。

次いで、203高地の第何回目かの大攻撃が開始されたのは、11月中旬であった。夜昼続く激戦で、彼我の屍(しかばね)が山に累積した。こうした戦死者の屍は、30分なり1時間なりの、一時的局部的の休戦によって、双方の収容隊の手で収容される。ある時、敵の衛生隊が、山麓から太く長い綱を曳いて露軍将兵の屍を引下した。あとからあとから死体がまるで芋蔓(いもつ¨る)みたいにゾロゾロと落ちてくるさまには、悲惨とも滑稽ともつかない、奇妙な気がした。

さて、203高地を死守する敵の気力は侮り難く、気負い立った我々の猛襲もおいそれと効を奏さない。といって、持久戦に頼るわけにはいかないのだ。早晩勃発するであろう奉天の大会戦までに旅順をおとさないと、我が乃木軍がそれに参加できない。奉天戦の苦戦は火を見るより明らかである。

一方、バルチック艦隊は刻刻我が国に接近しつつある。うかうかしていられないのだ。今や、焦眉(しょうび)の急は旅順を落とすことだ。かくて、乗るか反るか、白襷決死隊の強引無比の計画が実現されたのである。

白襷決死隊









2022年4月11日月曜日

香月三郎の奮戦(4・完)

 三郎の孫・香月孝氏の著書の中に、「三郎は国賊の弟ということで、陸軍では苦労したと思う。203高地攻撃の最先端を担わされたのは故なしとしない」とある。親族の方の心情としたは充分に理解できる。しかし、筆者は次のように考える。

たしかに陸大受験に関してはこのことはいえる。しかしそれ以外では、陸軍で三郎は多くの同情・理解・尊敬を受けたのではあるまいか。国賊の弟という目で見た学友・教官はいたかもしれない。同時に、憂国の士の弟との尊敬の目で見た人もいたように思う。任官後も同じと思う。むしろ後者の方が多かったのではあるまいか。西南の役ののち、西郷隆盛の人気が軍人のあいだでいっこうに衰えてないという事実から、このように推測する。

三郎は陸軍に在籍のあいだ、否その一生を通じ、兄・経五郎を誇りに思い続けていたと思う。江藤新平は、明治22年の憲法発布に伴う大赦により賊名を解かれた。かつ、大正5年4月11日に、生前と同じ正四位(しょうしい)の位階を追贈された。すなわち、兄・経五郎の賊名も完全に拭われたのである。これを見届けて、そのひと月後に三郎は亡くなった。

経五郎の弟ゆえ三郎は激戦の最先端を担わされた、という見方には賛成できない。2・26事件の決起部隊や、東條英機と対立した軍人が激戦地に飛ばされたという例は、昭和史の中には見える。しかし、日露戦争においてはこの種の話は聞かない。まして乃木希典という人がそのような判断をする人とは思えない。

北海道・旭川の兵を率いる村上聯隊と、群馬県・高崎の兵を率いる香月聯隊が共に勇敢な強兵であったからこそ、乃木軍司令官は、この二つの聯隊に困難極まりない「203高地攻略の決死隊」を命じた。こう考えるのが自然ではあるまいか。

戦術的に見れば、4日前の白襷隊(しろだすきたい)の全滅により、歩兵第一聯隊(東京)・歩兵第二十五聯隊(札幌)・歩兵第十二聯隊(丸亀)・歩兵第三十五聯隊(金沢)は壊滅していた。乃木将軍にとって頼るべき強兵の部隊は、村上大佐の歩兵第二十八聯隊と、香月中佐の後備歩兵第十五聯隊しかなかったのではあるまいか。


死を前にして経五郎が三郎に与えるため書いた漢詩の中に、気になる点がある。

「浪花(なには)に在(あ)りし弟香月三郎に懐(おも)ひを寄す」の箇所である。    佐賀に生まれ育ち、東京の陸軍幼年学校・陸軍士官学校に学んだはずの三郎が、どのような理由でこのとき大阪にいたのか不思議に思い、調べてみたがその形跡は見えない。今、筆者は次のように考えている。

慶應4年(明治元年)12月に、大村益次郎の献策により、新政府は陸海軍の将校を養成する「兵学校」を京都に設立した。明治2年1月に「兵学所」と改名され、9月に大阪に移転し「大阪兵学寮」となった。そして12月に最初の33名が入寮し、すぐに授業が開始された。明治4年、大阪兵学寮は陸軍兵学寮と海軍兵学寮に分離され、同年いずれも東京に移転した。明治5年、陸軍兵学寮幼年学舎が独立して、「陸軍幼年学校」が設立された。

ながながと書いているが、要するに筆者は、「香月経五郎は、弟の三郎は大阪にある陸軍将校養成学校にいると思い込んで、この漢詩を書いた」のだと思う。詩の中身は、将校の卵に与えるにふさわしい内容である。

香月経五郎が弟・三郎の陸軍幼年学校合格の吉報に接したのは、英国滞在中である。明治5、6年ごろ、横浜ーサザンプトン間の船便はかなり多く、人と郵便物の往来は意外に多かった。経五郎の明晰な頭脳は、明治3年に横浜を発ったときの、「陸軍将校を養成する学校は大阪にある」とのままで記憶していたように思える。


香月三郎の陸軍幼年学校合格は栄光につつまれていた。経五郎がこの吉報を、すぐにオックスフォード大学で一緒に勉強していた佐賀の若殿様・鍋島直大に報告したのは間違いない。「なに、三郎が最年少で兵学寮に合格したのか。よくやった!じつにめでたい。佐賀藩の誉(ほまれ)である。経五郎、どうだ。祝杯をあげようではないか」

この時オックスフォードの高級レストランで、若殿様のおごりで祝いの宴会が開かれたのは間違いあるまい。筆者はそう考えている。

中列中央が香月聯隊長






2022年4月4日月曜日

香月三郎の奮戦(3)

 香月三郎は陸軍士官学校旧3期の卒業である。この期の入校は明治10年5月、卒業は12年12月、卒業生96名とある。同期に陸軍元帥・上原勇作、陸軍大将・秋山好古、陸軍大将・柴五郎の名前が見える。

各人の生年月日は、上原1856年12月6日、秋山59年2月9日、柴60年6月21日、香月62年8月8日である。香月三郎は上原勇作より6歳若く、群を抜いた若さで陸軍士官学校に入校したのがわかる。当時、幼年学校も士官学校も入校時の年齢の範囲は一応定められていたが、かなり柔軟に対応されていたらしい。年齢を1つ超えていたが入れてもらった、年齢に達してないが優秀なので入校を許された、などの事例は他にもいくつか見られる。

香月三郎の陸軍幼年学校入校は、明治6年3月と思われる。陸士同期の柴五郎の幼年学校入校がこの年と記録にあるからだ。そうであれば、三郎の入校時の年齢は11歳7ヵ月となる。この年の入校の年齢制限規定は見えないが、大正12年の陸軍規定には、「満13歳以上、満15歳未満」とある。三郎は規定より2-4歳若くして入校したように思える。

本人の学力が高かったのが一の理由であろうが、明治初期に佐賀藩出身者が政府や陸軍の要所に多数いたことも、有利にはたらいたかと思う。「佐賀のあのオックスフォード大学に留学している切れ者・香月経五郎の弟だ。年齢に達してないがともかく受けさせてみろよ」との声が、入学願書を受け付けた陸軍幼年学校の事務局内部であったのかもしれない。良い成績だったので合格させた。

このような例は、明治初年においてあちこちで見える。

ちなみに、三郎と同い年の森鴎外(鴎外のほうは6ヶ月早く生まれている)は、この年(明治6年)に年齢を2歳いつわり、満12歳で東京医学校(以前の大学東校・のちの東大医学部)予科に入校している。後日、鴎外は本科を首席で卒業している。いずれにせよ、陸軍幼年学校入校までは、兄・経五郎の存在は三郎にとってプラスに作用したと思われる。

ただし、三郎は陸軍大学校に入学していない。陸士同期の上原勇作と秋山好古が少将で、柴五郎が大佐で日露戦争に従軍したのにくらべ、香月三郎が中佐であったのは、陸大を卒業してないことに理由があると思える。陸士旧3期の卒業名簿を見ると、あいうえお順ではないので、おそらく卒業時の成績順だと思われる。前から2割ぐらいの箇所に香月三郎の名前が見える。3人の大将の名前は香月のうしろに記載されている。これから察して、陸士卒業時の成績は香月のほうが良かったと考える。

陸軍大学校の入学試験は中尉の頃受けるが、成績優秀・身体壮健・人格高潔に加え、所属の聯隊長の推薦が必要となる。国事犯の弟ということで、この推薦状がもらえなかったのではあるまいか。聯隊長個人の判断というより、陸軍中央よりその種の通達が出ていたような気がする。

日露戦争・司教によるロシア兵へのミサ