2021年9月27日月曜日

篠本二郎の原稿・20年の孤独(2)

 送り主は、東大理学部の若い教職の人だった。

「実はその手紙と原稿は私が保存している。私が理学部に勤めることになって、与えられた古い書卓を掃除しているとこの手紙が出てきた。読んでみると大変面白い。寺田先生宛の手紙だとはわかったが、こんな所に放り出している以上、きっと不要なものだと思った。自分が記念にもらっておこうと自宅に持ち帰った。今月号の「思想」で、この手紙と原稿が寺田先生にとっていかに貴重なものかわかった。即刻、同封ご返却する。どうか、伝記資料として役立ててください」との手紙が添えてあった。

寺田が急いでこれを送った先が小宮豊隆である。小説「三四郎」のモデルといわれる小宮は福岡県出身の人だ。若い頃は、純粋・朴訥でハンサムな好青年であったようだ。一高・東大では安部能成・中勘助・藤村操・岩波茂雄が同級生になる。

小宮豊隆は82歳の長寿を保ち、昭和41年まで生きた。昭和21年に東京音楽学校(のちの東京芸大)校長、その後、学習院女子短大学長に就任しているから、教育者としても成功をした人物である。

それはめでたいのだが、中年以降の小宮は、漱石を崇拝するあまり神格視するようになった。漱石の弟子仲間たちからも、「小宮は漱石神社の神主だ」と揶揄(やゆ)されるようになっていた。これを言い出したのは、寺田寅彦らしい。

寺田がこの原稿を小宮に送ったのには理由がある。大正時代から岩波書店が出版する「漱石全集」の編纂はこの小宮が中心になって行っていた。昭和10年に再度、「漱石全集」の出版がはじまっていて、小宮がこの責任者であった。

「小宮にこれを送って、漱石全集の月報に中に掲載させ、読者に知ってもらいたい」との強い思いが寺田寅彦にはあったのだ。


寺田寅彦


2021年9月21日火曜日

篠本二郎の原稿・20年の孤独(1)

 漱石が亡くなったのは大正5年12月9日である。篠本氏の書いた「腕白時代の夏目君」と「五高時代の夏目君」の原稿が、郵送で寺田寅彦の手元に届いたのは大正6年2月だから、漱石が亡くなって三月(みつき)ほど後のことだ。

寺田寅彦は明治36年に首席で東大理学部を卒業した。まもなく博士号取得、助教授、ベルリン大学留学、大正5年に東京大学理学部教授に就任している。よって、篠本からこの手紙を受け取ったのは教授就任後まもなくである。

篠本から寺田への私信の目的の第一は、「寺田君、東大教授就任おめでとう」であったかと思う。そのあとで、「二人の熊本時代からの共通の知人、夏目君が亡くなって三月(みつき)になるね。心に穴が開いたようだ。夏目君との少年時代の思い出をつつ”りながら、一人で自分を慰めている。君にだけはこれを読んでもらいたい」このような内容の手紙であったかと想像する。

これを感激して読んだ寺田は、大切に自分の書卓の引き出しの奥に仕舞い込んだ。その後、寺田は胃潰瘍を患い長く学校を休んだ。快復のあと、東大教授の肩書のまま、理化学研究所・東大地震研究所など東大キャンパスではない、別の場所で勤務した。その後大正12年の大震災に遭遇したりで、本人はこの手紙と原稿をどこかで紛失したと悔やんでいた。


ところが、寺田寅彦が亡くなる二月(ふたつき)ほど前に、ある人から、この手紙と原稿が寺田の自宅に郵送されてきた。「失くした子供が生き返ったようだ」と寺田は喜んだという。返却されたのには、それなりの理由があった。

死期を悟ったのであろうか。寺田は「思想」という雑誌の昭和10年11月号に、「埋もれた漱石伝記資料」と言う題で、この資料を紛失したことの後悔の気持ちを書いた。

便利な世の中になったものだ。スマホにこの題名を入力すると、読者はこの全文を読むことができる。寺田寅彦が亡くなったのはそれから二月(ふたつき)後の12月31日である。


寺田寅彦







2021年9月13日月曜日

漱石の幼なじみ・篠本二郎

 漱石の幼なじみの篠本(ささもと)二郎という人が、漱石が亡くなったあと、すぐに書いた「腕白時代の夏目君」と「五高時代の夏目君」という思い出話をご披露したい。

その前に篠本二郎の人となりと、彼の「書き物」が我々の目に触れるにいたった数奇な物語りを紹介したい。

矢島道子・浜崎健児両氏の「傍系の地質学者・篠本二郎」を参考にすると、篠本二郎氏とは、次のような人物である。


文久3年(1863)ー昭和8年(1933)70歳で没。漱石より20年長寿を保った。

「夏目君とは小学校で同じ長椅子に腰を掛けていた」と本人の文章にあるが、慶応3年(1867)2月9日生まれの漱石より3歳年上になる。明治6年ごろ一緒に小学校に入学した、との記述もあり、当時は小学校が設立されたばかりで、この程度の年齢差は珍しいことではなかった。

この人が東京大学理学部化学科に入学したのは明治16年というから、漱石が東京大学文学部英文科に入学した明治23年よりも7年も前である。

漱石は漢学塾二松学舎・英語塾成立学舎・大学予備門・第一高等中学校経由で東大に入学した。一高時代は虫垂炎で一年遅れている。篠本氏は東京英語学校、大学予備門に学んで、漱石より7年も早く東大に入っている。教育制度の変転と3歳年長がその理由らしい。

「自分が熊本の五高で教鞭をとっていたら、小学校で別れて以来の夏目君が英語の教授としてきたのでびっくりした」とあり、同じ時代に二人とも東京大学で学んだはずなのに、と思っていた私には、当初は合点がいかなかった。

私は東京大学には縁がないので、本で調べた限りでは、当時は文科大学・法科大学・理科大学・医科大学など、それぞれがカレッジとして独立していて、場所も分かれていたらしい。なおかつ入学が7年も違えば、互いが大学時代に顔を合わせなかったのは理解できる。

篠本二郎は、化学を専攻したが、一年生の時実験中に負傷して一度退学した。翌17年、理学部地質学科の聴講生として再度東京大学に学んだ。ただ正規の卒業生ではなく卒業生名簿には載っていない。すなわち、理学士にはなっていない。このことが学位を重んじた明治・大正時代に教職についた篠本とって、不遇の原因となる。

教職に就き、富山・徳島・岩手・徳島・大分・長崎の学校を転々としたとある。中学校とか専門学校あたりで教鞭を執っていたらしい。明治27年に熊本の第五高等学校に赴任する。これは本人にとっては栄転と考えられるが、肩書は英語・地質・鉱物の講師であった。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が急に辞任したので、英語が出来る篠本に白羽の矢が立ったらしい。

明治29年に熊本の五高に赴任した夏目漱石はいきなり教授であった。当時、教授の給料は講師の五倍もあったそうだ。明治30年に、篠本もあっぱれ教授に就任している。

五高当時の漱石・篠本二人の共通の教え子が寺田寅彦である。漱石門下には多士済々の一流の文学者がきら星のごとくいるが、最も古い時代からの弟子が寺田寅彦らしい。

篠本二郎は五高のあと鹿児島の第七高等学校(造士館)の教授に転じている。教え子の思い出話には、「先生は朝顔を洗わず、便所に行っても手を洗わなかった」など奇行の人との証言もあるが、孔子の言葉を借りると、「巧言令色」ではなく、「剛毅朴訥仁に近し」の人だったようだ。写真の風貌からしても、そのような人柄が感じられる。

漱石ほど多くの有名人を弟子に持たなかった篠本二郎にとって、寺田寅彦は数少ない自慢の弟子であった。自分と同じ理学で立身出世した寺田に、篠本は大きな愛情と誇りを抱いていた。

この原稿を、篠本が寺田寅彦に送ったのは、二人の関係からしてごく自然である。


篠本二郎










2021年9月6日月曜日

夏目漱石の「坊ちゃん」

 「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇(むやみ)をしたかと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることは出来まい。弱虫やーい。と囃(はや)したからである。小使いにおぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして、二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた」

私が広島県の田舎の中学校に入学して、最初の国語の授業の時、新任の先生は「起立!礼!」のあと、何も言わないで漱石の「坊ちゃん」の冒頭の部分をここまで読んだ。

松岡先生という名前で、この年に大学を卒業され、最初の授業だったと後で知った。22歳か23歳だったはずだ。家に帰り母に「変な先生が来たよ」と言ったら、「松岡先生の息子さんだよ」と言った。隣村に松岡先生という先生がいて母はその方を知っていた。息子さんも教師になるということでどこかの大学に通っていた、とも言う。

あとで聞いてみると、若・松岡先生は、愛媛大学の教育学部の卒業だった。先生には、「坊ちゃん」というあだ名がついた。松岡先生はそれを得意としている風であった。

「坊ちゃん」の中に、松山中学の生徒と松山師範学校の生徒との喧嘩の場面がある。愛媛大学の教育学部はこの松山師範の流れをくむ学校だから、四年間松山ですごした松岡先生にとって、この「坊ちゃん」は身内の話のような気がしたのであろう。新任早々この本の紹介をされたのは、今になると良くわかる。

「中学校には暴れ者やいたずら坊主が多く、バッタを持ってきたり、引き戸の上に黒板消しをはさむやつがいると聞いていたが、この中学校の生徒はみんな品行方正でよろしい」などと言い、そのあとで「坊ちゃん」についての解説をしてくれた。

「この本の中に出てくる松山中学の先生方には、何人かのモデルがあるらしい。ただこの通りの事件があったわけではない。漱石が面白おかしく書いたユーモア小説だ。特に主人公の坊ちゃんの少年時代の話は作り話だ。漱石自身、物理学校(東京理科大学)の卒業ではなく、東大卒業の優等生だ。子供の頃はしっかり勉強したまじめな少年だった。この小説の中の腕白ぶりは、むしろそうなりたかった、という漱石の願望のようなものだ」

だから私はそれを今まで、何十年も信じていた。


ところが、最近になって「漱石の少年時代は、この坊ちゃんの通り、いやこれ以上の乱暴者であった」と知った。半端ではない、とんでもない「悪太郎」だったらしい。

「出所」もしっかりしていて、信頼できる筋の人の話である。「ブログの読者の方に読んでいただく価値がある」と思い、これから何回かにわたって、「夏目金之助の少年時代の腕白ぶり」についてご紹介したい。

あるいは、ご存じの方もいらっしゃるかも知れないが、これは私が最近知った「愉快な話」の一つである。