2022年3月28日月曜日

香月三郎の奮戦(2)

 香月三郎中佐は、おそらくこの時、兄経五郎が佐賀の役で斬に処される直前、自分宛に書いた漢詩を肌身につけていたと思う。

香月経五郎とは、日本人で最初にオックスフォード大学に学んだ人である。明治6年12月末に帰国し、すぐさま師匠の江藤新平と共に、佐賀藩士族たちの暴走を鎮撫する目的で佐賀に帰郷し、佐賀の役に巻きこまれて25歳と1ヶ月で刑死した。

次のような漢詩である。

寄懐弟香月三郎在浪花  浪花(なには)に在りし弟香月三郎に懐(おも)ひを寄す

汝是男児異女児  汝是(なんじこ)れ男児にして女児と異なる

聞吾就死又何悲  吾れ死に就(つ)くを聞くも又何ぞ悲しまんや

王師西入鶏林日  王師(おうし・皇軍)西のかた鶏林(けいりん・朝鮮)に(攻め)入るの日(こそ)

應識阿兄瞑目時  応じて阿兄(あけい)瞑目(めいもく)せる時と識(し)るべし


203高地陥落のあとの陸軍の大決戦は奉天会戦であった。日本陸軍24万、ロシア陸軍36万が戦った。明治38年2月21日ー3月10日

3月7日の戦闘で、歩兵第三十三聯隊長(名古屋)の吉岡友愛中佐が戦死し、香月三郎中佐が後任に補される。すなわち乃木希典大将の第三軍・第一師団から、奥大将の第二軍への人事異動である。名古屋の第三師団の配下である。

太平洋戦争の戦史を何冊か読んでいる私は、聯隊長は大佐だと思っていた。中佐で聯隊長というのは、兄経五郎の刑死が影響して陸軍での昇進が遅れていたのでは、と一時は考えていた。調べてみて、この考えはまったく誤りだと知った。この時の第三師団配下の各聯隊長の名簿が手元にあり、次のように記されている。

歩兵第六聯隊長    中佐 高島友武

歩兵第三十三聯隊長  中佐 香月三郎

歩兵第十八聯隊長   中佐 渡 敬行

歩兵第三十四聯隊長  中佐 川上才次郎

騎兵第三聯隊長    少佐 中山民三郎

野戦砲兵第三聯隊長  中佐 有田 恕

ほかの師団の中には大佐の聯隊長の名前も若干見えるが、日露戦争時の聯隊長の大部分は中佐であったようだ。ちなみに、香月中佐と共に203高地を攻略した村上正路大佐は、香月より年齢が10歳上である。香月三郎が第三十三聯隊長に補されたのは3月16日付で、奉天での大きな戦闘は終わっていた。ただ、これで戦争の決着がついたわけではない。ロシア側は、戦力を残したままの一時的な撤退、との姿勢を崩していなかった。日露戦争全体の決着がつくのは、5月末の日本海海戦の大勝利のあとである。


日露戦争から凱旋した三郎は、そのまま名古屋の歩兵第三十三聯隊長として勤務し、まもなく大佐に昇進する。曾孫にあたる香月康伸氏からいただいた三郎の写真の軍服の襟章に「33」と見え、肩章に星3つが見えるから、これは名古屋で大佐に昇進した時の記念写真と思える。目がらんらんと輝き精悍な顔つきである。

本人の意思と思われるが、定年の何年か前に陸軍を退いている。「晩年は戦死した部下たちの遺族を慰問して回っていたと祖母から聞いた」と康伸氏からお聞きした。大正5年5月6日、当時流行していたペストで名古屋で亡くなった。54歳。この年の12月に夏目漱石が49歳で東京で没している。

日露戦争時の陸軍兵士


                        


2022年3月21日月曜日

香月三郎の奮戦(1)

 香月三郎のことを知ったのは大学三年の頃だから、兄の経五郎を知る一年ほど前と記憶する。「坂の上の雲」は203高地での戦いを次のように描写している。


この日=白襷隊(しろだすきたい)が全滅した4日後、明治37年11月30日=ロシア軍の堡塁(ほるい・小型の要塞)に、香月三郎中佐の率いる後備歩兵第十五聯隊(群馬県・高崎)が反復突撃し、ついに白兵戦をもってロシア兵をたたき出した。ところが、占領したこの堡塁にロシア軍の銃砲火が集中して顔も出せない。

右翼から攻めるのが村上正路(まさみち)大佐率いる歩兵第二十八聯隊(北海道・旭川)で、左翼から攻める香月聯隊と対(つい)になって進んだ。両隊とも銃砲火を浴びつつ”け1時間ばかりすくんでいた。香月隊では、堡塁を出ようとして顔を出した一人の士官がその瞬間、顔をもぎとられた。

旅団長・友安治延(ともやす はるのぶ)少将は、村上隊に対して命令を発しようとした。「陣地を出て前進せよ」と。ところが旅団司令部そのものが、このとき飛来した巨弾のため爆破された。司令部員のほとんどが即死もしくは負傷した。伝令兵も死んだ。無傷だったのは友安少将と副官の乃木保典(やすすけ)少尉だけだった。電話線は切れている。友安は乃木に伝令を命じた。

乃木少尉は弾雨のなかを駆けに駆け、ほとんど奇跡的に村上隊の陣地にとびこんだ。「前進せよ」との命令を伝えた。前進するということは全滅するということである。ーこの状態で前進できるかーとは村上は言わなかった。「ただちに前進します、と復命せよ」と乃木に伝えた。しかし、乃木希典(のぎ・まれすけ)大将の次男であるこの少尉は復命できなかった。帰路、前頭部を射抜かれて戦死したからである。

それまでの村上聯隊の突撃は血しぶきとともにおこなわれた。配下の一部隊は敵の鉄条網の前後で一人のこらず戦死した。村上は午後6時、生き残っている残兵百人を率いて前進を開始した。「村上隊がうごいた」、これを知った香月隊はすぐに前進を開始した。

香月隊には残兵四百人がいた。日本軍五百人は、千人のロシア軍を相手に30分の白兵戦をもって、ついに午後9時、山頂に達した。山頂に残るロシア残存兵との白兵戦がさらに続いた。古来、東西を問わず、これほどすさまじい戦いはなかったであろう。そしてついに203高地を占領した。ときに明治37年11月30日午後10時

村上聯隊の残存兵は50人ぐらいであった。香月聯隊のほうは記録に見えない。100人ぐらいかと想像する。両聯隊長とも2600人の将兵を率いて出撃していた。

司馬遼太郎の筆を借り、筆者が多少の事実を書き加えると、香月三郎中佐の奮戦は以上のとおりである。


この時203高地の攻略に失敗していたら、日本人のその後の生活ぶりは、現在とは大きく異なっていたように思う。

203高地占領が出来なかったら、ロシアの旅順艦隊は港内で生き残った。それがバルチック艦隊と合流していたら、東郷元帥の日本海海戦はあれほどの勝利は難しかった。

かなりの数のロシア艦隊がウラジオストクに入港していたら、日本海軍は対馬海峡の制海権を取れなかった。そうであれば満州の日本陸軍は孤立する。日露戦争は日本の敗北で終わったかもしれない。

もしそうであったなら、我々は大学での第一外国語はロシア語を強制され、ウクライナをはじめとする東欧諸国のように、ロシアの支配下で生活していたかも知れない。


香月三郎聯隊長



2022年3月14日月曜日

神奈川県「夏島」での合宿生活

 伊東巳代治・こぼれ話(8)

明治憲法の草案を練るときの愉快なエピソードを紹介したい。伊東巳代治は井上毅(こわし)・金子堅太郎とともに「明治憲法制定時の伊藤博文の三羽ガラス」といわれている。

この時、半年以上も外部との接触を断って、横須賀の北北西に位置する「夏島」という小島で合宿生活をしている。大正時代に埋め立てされ現在は陸続きになり、日産自動車や住友重機の工場がある。江戸時代は少数の漁民が住んでいたが、明治初年に陸軍が買収して軍の管理下に置いた。東京湾防備が目的だったようだ。

ここに伊藤博文の別荘が建てられた。伊藤が私利私欲で贅沢をしようと考えたのではない。軍の管理下で機密保持のできる、東京からほど近いこの地に宿泊所を造ったのは、明治憲法制定に備えてのことであった。

ここで、四人はじつに伸び伸びと、互いの意見をぶつけ合っている。おどろくほどの自由闊達さである。明治初期という「日本の勃興期でみなが希望に燃えていた」のが理由なのか、「伊藤博文という人が若者の意見広く聞く度量があった」ためか、はたまた、「伊東・井上・金子の三人の明るく前向きの気質」ゆえなのか、困難な作業の最中に、思わずくすっと笑ってしまうユーモラスなエピソードがいくつも見える。

伊東は手記に、次のように述べている。

「我々は夏島に滞在してめったに帰京することはなかったが、伊藤公だけは時に1週間くらい居られたこともあるが、たいがい2・3日で東京に帰られた。政務の関係もあったが、憲法起草の進行に伴って時々、陛下の思召しを伺はれる必要があった為である。

当時夏島では、伊藤公を始め我々一同の勉強はじつに非常なものであった。毎朝9時には井上君が旅館からやってくる。4人の顔が揃うと議論をはじめる。その間食事もせず晩まで続けたことも少なくない。なにぶん論客揃いであった上に、伊藤公から思う存分意見を言えとの命令があったから、3人は遠慮なく議論を上下した。時には伊藤公の意見を正面から排撃したことも一度や二度ではない。伊藤公も負けては居られぬ。激論の末 ’’井上は腐儒(ふじゅ)だ’’ とか ’’伊東、汝は三百的(さんびゃくてき)だ‘’ とか罵言(ばげん)されることもあった。それでも時を経てから、’’君らが余り熱心に主張するから君らの説に従っておこう’’ と言われたものである」

腐儒(ふじゅ):まったく役に立たない儒者をののしっていう言葉  三百的:明治初期、代言人(弁護士)の資格を持たないでこれを行うもぐりの弁護士をののしっていうとき、三百代言(さんびやくだいげん)と言った


水泳の話も面白い。

「それから夏の暑い日中には、浜辺に出て水泳をやったものである。井上・金子の両君は水泳が達者でほとんど毎日のように海に行く。自分はいつも留守番をして午睡をしていた。そのため両君は自分を水泳の心得が無い者と思ったらしく、我々二人が付き添っていれば危険はないから水泳に行こうと自分に勧めた。ある日3人で舟遊びをした。舟が沖にでた頃に、自分が誤って落ちたように見せかけて、ざぶんと飛び込んだ。両君の驚くまいことか。救助せんと急いで着着を脱ぎ、海中飛び込んだ。あちこちと捜索に努めている。この間に自分は深く潜って向こうに浮かび出て、それから抜手を切って泳ぎだした。その水練の達者なところをはじめて見た両君は、あまりのことに啞然とし、’’まんまとかつがれた’’ と地団太踏んで悔しがったものである」


「兎の話」も愉快である。

当時の日本人は「兎」を食用にし、その毛皮を襟巻にするなど、ペットではなく、この動物を実用的に活用していた。明治天皇が伊藤博文に「若い連中と一緒に肉を食って精力をつけよ」と食用に兎30匹を下賜(かし)された。

「あるとき、陛下から思召しをもって兎三十匹を賜った。小さい離島で逃げ去る恐れもないから、これを野飼にしておいて、時々殺して頂戴したものである。しかるに、たちまち繁殖して二倍にも三倍にもなった。いよいよ夏島を引き上げる時にはそのままにしておいた。帰京後あるとき、海軍大臣の西郷従道侯が自分に向かい、’’この前夏島に遊びに行ったら、兎が驚くほど繁殖して全島兎でいっぱいだ‘’ と言われた。猟好きの自分は、早速5,6の人を誘い鉄砲をもって夏島に出かけた。しかるに島には兎の姿は見えない。くまなく捜索してようやく一匹を発見してこれを猟して帰京した。西郷候にこれを話すと、候は自分の行く前にすでに多数の海軍の水兵を連れて島に渡り、兎狩りをして残らず捕獲したという。’’一匹も残すまいと非常に骨を折ったが、一匹残っていたとは作戦は失敗だった’’ と呵々と大笑いされた。これは自分が、’’まんまとかつがれた’’ 話である」

雉狩猟姿の伊東巳代治








2022年3月7日月曜日

伊藤博文のヘッドハンティング手法

伊東巳代治・こぼれ話(7)

 伊藤博文と伊東巳代治の面接の時間はどのくらいだったのだろうか。工部卿の伊藤は超多忙だ。1時間か長くて1時間半位だったかと思う。この短い時間で、人物チェック・英語の試験・口頭でのオファー提示・候補者の受諾・入省後の仕事の説明のすべてが完了している。

ヘッドハンターの私から見ても、理想的な面接である。伊東が優秀だったからが一番の理由だが、伊東以上に伊藤博文の対応に目を見張る。「人たらし」として多くの若い俊英を惹きつけ、彼らの実力をいかんなく発揮させ、日本の国難を乗り切った、「英傑・伊藤博文」の面目躍如たる姿をここに見る。

① 伊東が伊藤を訪問したのは、午後3時か4時頃かと思える。伊藤にすれば夕食前にこの面接を片付けるつもりだった。そこに陸奥宗光たちが飛び込んできて、会議は予想以上に延びた。若者とはいえ2時間以上も待たせるのは失礼だ、と伊藤は思った。このあたりのセンスが良い。腹が減ったら人間は短気になる。まずは飯を食わせておけ、と書生に命じた。

幕末の頃、伊藤俊輔は桂小五郎の秘書役として、長州藩の京都藩邸で働いていた。腹を空かせて飛び込んでくる各藩の脱藩浪人たちの対応には慣れていた。江藤新平が血相を変えて長州藩邸に飛び込んだ時も、まずは飯を食わせた。

2時間以上も待たされたのに、ご馳走を出された伊東巳代治は悪い気はしない。伊東の自己重要感が満たされる。

② 伊藤博文はいきなり英語の試験をする。駐日米国公使から工部卿宛の手紙だから、重要書類である。それを伊東に見せる。「君を信用している」との意味になる。これに対して伊東は、すぐさま伊藤が満足する内容の英文をしたためる。この時の両者の英語の実力は、今ふうにTOEICでいえば、伊東950点、伊藤850点ぐらいではないか、と想像する。

伊藤は一読して、これにサインして自分の唾で封をして、「これを発送してくれ」と書生に命じる。面接OKの表示である。給料の金額こそ言わないものの、「当分は兵庫県の時と同じく課長補佐程度でやってくれ」と条件提示をする。伊東はすぐさま謝意を表して受諾する。

③ この時の伊東の対応も面白い。ここで伊東は、言わなくても良いことを口走る。「嬉しいです。無給でもやらせてください」と。「それでは君の口が乾あがるぞ」と伊藤は大笑いするが、これを聞いた伊藤博文は悪い気はしなかったはずだ。

この時の伊東巳代治の気持ちは良くわかる。伊東はこの仕事を、「海外に留学する以上に価値がある」と直感したのであろう。高給を得ていた過去4年間の貯蓄で、伊東には2,3年は充分食えるだけのお金があった。伊藤はこれを知らなかったであろう。「無給でも良い。授業料タダの海外留学だ」と伊東が考えたのは正しい判断である。


じつは伊東巳代治にとって、少年時代からの最大の夢は、「海外への留学」であった。明治4年、本人が14歳のとき、工部省・電信頭の石丸安世は、英語のできる若者が多い長崎まで出張してきて、英語のできる少年数名を採用した。明治5年には上海・長崎間に電信海底ケーブルが設置される。この時の電信はすべて英文であった。石丸は、「東京での1年間の研修ののち、成績優秀者は官費にて欧米留学させる」と少年たちに語った。

こころがこれは「カラ手形」だった。首席で卒業した伊東巳代治に与えられた辞令は、郷里の「長崎勤務」であった。「話が違うではないか」と憤慨した伊東は、半年で辞表を出し、神戸に向かう。そして、「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社したという、過去のいきさつがあった。

よって、歳は若いものの、伊東にとって工部省への入省は2度目である。伊東のことだから、オープンマインドに、「じつは、工部省へは出戻りとなります」ぐらい言ったかと思う。これに対して伊藤は、「おお、そうか、それはちょうど具合がいいな!」と笑って答えた。大らかな時代であった。




伊藤博文との邂逅

 伊東巳代治・こぼれ話(6)

伊東巳代治が伊藤博文にはじめて会ったのは、明治9年12月27日の夕方である。根回しは神田孝平がおこなった。実際に伊東と伊藤の面談を手配したのは静間健介という長州人である。この人は、かつて神田県令の部下で参事として兵庫県庁に勤務していた。木戸孝允の兄弟分といわれた人だ。

神田孝平が兵庫県令を辞め、栄転のかたちで元老院議官として東京に向かったのは、明治9年9月3日だ。自分を引っぱってくれた神田が去るので、伊東も、そろそろ転職をと考えていたのかも知れない。今まで資格を必要としなかった代言人(だいげんにん・のちの弁護士)に、資格試験が導入されたのは明治9年である。

巳代治の実力なら軽く合格できる。この頃、伊東はこの資格を取って「国際弁護士」として身を立てようと考えていたふしがある。そうすれば収入も大幅に増える。これに待ったをかけたのが神田孝平である。「そんなチマチマした資格試験なぞ止めてしまえ。これからの日本を引っ張っていく男は、いま工部卿をやっている長州の伊藤博文だ。自分が手配するから一度伊藤にあってみろ。君を生かす仕事があるかもしれない」と伊東に話した。

この時の伊藤・伊東の面談のやりとりは、なんとなく可笑しい。ヘッドハンターの仕事をしている者として、とても興味深い。少し長くなるが、伊東の手記を紹介する。


「静間健介(長州人にて桂の兄弟分なり)の紹介にて伊藤博文公を霊南坂の工部卿官邸(いまの米国大使館)に訪問したのは、明治9年12月27日の午後であった。来客ありし待つこと2時間余。この時の来客は元老院議官の陸奥宗光・元の大蔵省紙幣頭の吉川顕正(あきまさ)他2・3人なり。夕方となりすこぶる空腹を感じぜし頃、給仕が自分の膳を持ち来れり。馳走を食しそれが終わりし頃、奥の間に案内され、はじめて伊藤公に面会したり。

その時伊藤公は自分を一見して、君は思いたるより若いな、と言いながら先ず歳を聞かれたり。君は英語が堪能なりと聞いたが、書く方はいかがかと聞かれたるに付き、一人前には出来るつもりなりと答う。公が、一人前とは日本人の一人前か英人の一人前かと笑いながら聞かれたるにより、それは閣下の御鑑定を願うと、自分も笑いながら答えり。

時に伊藤公は、傍らの書棚より英文の手紙を取り出して自分に渡し、これは米国公使からの来翰なり、これに対し返書を書いてくれと申されたり。この手紙を拝見したる上、伊藤公口授の趣旨に従い返事を認めて、悪(あ)しき所はご指示により改むべしと申し述べ、これを供したり。伊藤公はこの文書を一見したる後、直ちに署名し、自ら封筒に唾(つば)して書生を呼び発送を命じられたり。

君は文章もなかなか良く出来るな、ただし出来るからといって高ぶってはいかぬ。兵庫県にては権大属を務めたりと聞く、まず当分その位にて我慢すべし。勉強次第にて出世すべし、と笑いながら申し渡されたり。自分は頭を低うして謝意を表せり。

その後、公は口を開きて、実は来春英国より雇い入れたる法律家「ビートン」なる者が到着す。先年雇いたる「デニアン」という法律家も帰朝するに付、貴殿はこの両人に附随して工部省にて取り扱うすべての法律事務に従事し、同時に両人より法律の教授を受くるべし、との内意を申し渡され、実に天に昇るような思いをなせり。

自分は明治4年、洋行の念、勃々(ぼつぼつ)たりしに、この望みなしと落胆したことありき。今かようなる良師に就くことは留学すると同じく、なによりの仕合わせなり。俸給等はもとより望所にあらず。無給にてもご奉公すべしと申したるに、伊藤公は言下に、俸給なしでは君の口が乾上(ひあが)るぞと哄笑(こうしょう・大声で笑う)されたり。

急ぎ神田邸に帰り、委細を神田氏に話したるところ、氏は大いに喜ばれたり。1月10日に至りて、工部権大録(ごんたいろく・課長補佐クラスか)に任ぜらるる辞令を受けたり」


ヘッドハンターが面接をセットしてそれを終えたのちに、なにも連絡しない候補者が近頃はいる。それに比べ伊東巳代治は、すぐに神田孝平の自宅を訪問して報告している。成功する人物はこのあたりが違うなあと、老ヘッドハンターは感心している。