2020年2月26日水曜日

二荒山神社(5)

それではなぜ、昔からこの論争がおこなわれているのか?

その鍵は、山岳修験僧・勝道上人(しょうどう・しょうにん)の存在にある。この人は強烈な個性とエネルギーに満ちた、魅力あふれる人物であったらしい。

天平7年(735)下野国芳賀(はが)郡の生まれだから、地元出身の人である。父は下野介(しもつけのすけ)母は地元豪族の娘というから、名門の出である。この人は最澄より32歳年長だが、83歳まで生き最澄が亡くなる5年前に没している。最澄から見たら、ほぼ同時代を生きた仏教界の先輩という存在である。

日光開山後、延暦13年(794)、桓武天皇によって上野(こうずけ)国の講師(こうじ)に任ぜられている。あるいは、桓武天皇の側近であった最澄の推薦によるものかも知れない。
余談だが、この年に下野国都賀郡で生まれたのが、最澄の愛弟子になる円仁である。円仁は15歳で比叡山に登るため下野国をはなれる。この時勝道は健在であったから、円仁は勝道の名声はきっと聞いていたと思う。だが、二人の交流については調べた範囲では何も残っていない。

講師(こうじ)というのは、[平安時代、諸国の国分寺にあって僧尼(そうに)に関する事をつかさどり、仏典の講義をした官僧]、と広辞苑にある。現在でいうと、地方国立大学の学長・兼教授のような存在かと思う。あの行基と同じく、もとは在野の僧でありながら、その実力を天皇に認められた人傑であった。

平安時代初期といえば、神仏混淆(しんぶつこんこう)により神社に仏教色が強まってゆく時代だ。実力僧・勝道をトップにいただく日光二荒山が、宇都宮に比べて急激に存在感を増していったのは、自然のなりゆきであった。

それではなぜ、勝道はこの地方の開祖の豊城入彦命ではなく、大国主命を主神として祀ったのか、という疑問が生じる。 私が知る範囲では、どの研究者もこれには言及していない。
もしかしたら、勝道は本当に役小角(えんのおずぬ)の流れをくむ山岳修験僧だったのではあるまいか。

役小角は父親の出身が出雲であり、本人は大和朝廷によって伊豆に配流された。小角がアンチ大和朝廷で、大国主命を慕いその偉大な人柄を弟子たちに熱く語っていたとしても不思議ではない。
そして、100年後、小角の四代のちの弟子にあたる勝道が、あっぱれ師匠の志を実現してこの日光二荒山神社に大国主命を祀った。

もしそうであれば、物語としては面白いのだが、これは私のまったくの空想である。


いま一つ。
日光二荒山神社が存在感を増した大きな理由は、東照宮を建立する際、自社の境内地を割いて徳川幕府に全面協力したことにある。

東照宮が完成したとき、二代将軍・秀忠は日光山に五千石を与えている。これは日光山全体のもので、東照宮・二荒山神社・満願寺は一体とされ、これを日光山座主が統轄した。この石高は四代・安綱の時に一万石とされ、その後さらに加増されて二万五千石に達している。このうち二荒山神社のもらい分がいくらであったかは知らないが、全国の神社の中でも群を抜く優遇である。

経済的な豊かさと徳川幕府の威光とが、江戸時代に日光二荒山神社の勢力を増大させたのは間違いない。

以上の二つの理由によって、どちらが本家かわからないほどに、日光二荒山神社はその存在感を増したのであろう、と考える。


宇都宮二荒山神社の石段を下りながら、また那須与一のことを思った。
扇を射落とし、合戦に勝利したあとでのお礼参りの与一の姿を想像しながら、宇都宮二荒山神社の鳥居をあとにした。


















2020年2月21日金曜日

二荒山神社(4)

二人の神官から納得いく回答を得れなかったので、東京にもどって自分なりにどちらが古い本社かを調べてみた。すると、この問題に関しては、昔から喧々諤々(けんけんがくがく)の論争があったことを知った。

私は仕事柄数多くの方とお会いする。最近も栃木県出身の若者二人と、別々の場所でお会いした。二人とも30代前半の方で男性と女性だ。仕事の話が終わったあと、「ところで二荒山神社ですが、日光と宇都宮のどちらが本社なんでしょうかね?」と尋ねてみた。

「日光が古いに決まってますよ!」と、二人とも自信ありげにそう断言した。女性のほうは、「小学校で先生にそう教わった」と言う。栃木県人の多くは、日光のほうが古いと思っているらしい。

考えてみれば那須与一は、「日光の権現」、「宇都宮那須の湯泉大明神」と二つの神社を並べて祈念している。平安時代末期には、すでに両神社はそれぞれ独立した存在感を持っていたことがわかる。


明治新政府は、全国のいくつかの神社で、どちらが古い本社かという問題に頭を悩ませたらしい。

たとえば吉備津(きびつ)神社の場合、備中・吉備津神社を官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)、備前・吉備津彦神社と備後・吉備津神社を国幣小社(こくへいしょうしゃ)に列格させることによって、政府(管轄は内務省神社局)はなんとか無難に行司役をはたした。

ところが、それ以上に悩まされたのが、この二荒山神社問題である。

明治4年、政府は宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社を国幣中社に列格させた。すなわち、宇都宮が古い本社、と認めたのである。ところが、明治6年になって日光二荒山(ふたらさん)神社が国幣中社に列格され、その時点で宇都宮は県社に降格させられた。日光側がどのような資料を提出して政府に説明したのかは知らないが、明治6年の時点では、政府は一転して日光を式内社と認め本社であるとした。

明治16年になって、政府はやっと宇都宮を国幣中社に復活させている。めでたく二つの神社は同格になったわけだが、この10年間に宇都宮から内務省に対して猛烈な巻き返し・働きかけがあったと想像する。両神社において、激しい本家争いがあったと思われる。

これを繰り返したくない、と両神社は思っておられるのではあるまいか。お互いが親戚だと思っているものの、もし「親戚です」と言えば、私のような野次馬が、「どちらが本家ですか?どちらがお兄さんですか?」と聞いてくるのが目に見えている。だから、「親戚のくせにそうでないふりをしているのだな」、私はそう思った。


民俗学者の大林太良氏の「私の一宮巡詣記」に二荒山神社問題が紹介されている。次の通り、一部を引用させていただく。

下野一宮は宇都宮か日光か、また両社の関係はどうかは、昔から問題であった。「下野国誌」(
嘉永元年・1848)は、宇都宮は日光の支社だという説に断固反対している。
「もし承和5年(836)に日光山より移したる社ならば、延喜式(えんぎしき)を選定せし時には、いまだ七十年の社にて、いと新しき社なれば、神名帳に加入すべき謂(いわれ)なし」
もっともな議論である。
そして宇都宮は式内社で河内郡に鎮座する。日光は式内社ではなく都賀郡に鎮座する。これらからして、宇都宮のほうが一宮であることは疑いない。
しかし、「神傳」に日光と宇都宮を親子としているように、両社が密接な関係にあったことも明らかである。


私自身は、この大林太良氏や「下野国誌」の編者の考えに素直に同意できる。すなわち、宇都宮が歴史の古い本社、日光が支社という考えである。歴史的な事実を直視すれば、宇都宮が本社という考えに自然に落ち着く。













2020年2月13日木曜日

二荒山神社(3)

日光山を下って、宇都宮市内に向かった。
宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社は、栃木県庁と宇都宮市役所に挟まれた市の中心部にある。というより、県庁と市役所はこの神社を中心として設置されたのだ。

宇都宮駅からバスで神社前に着いたのは、すでに1時をまわっていた。遅めの昼食をとってお参りすることにした。宇都宮といえば餃子が有名だ。地元の人に聞いたら、すぐ近くに数軒の有名店の出店が一堂に会している場所があるという。あてずっぽうに一軒の店に飛び込んだが、とても美味しい餃子だった。

この神社は市街地にあるが、小高い丘の上に神さまが鎮座されており、緑も豊かだ。
懲りないで、ここでもまた神官に聞いてみた。日光二荒山神社との関係である。

「まったく別です。それぞれが独立した神社です。ここがお祀りしている主神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。相殿神として大物主命(おおものぬしのみこと・大国主命)と事代主命(ことしろぬしのみこと・大国主命の子)をお祀りしています」とおっしゃる。

日光二荒山神社と申し合わせをしているかのようだ。両社とも独立自尊というか、二つの神社の関連性をはっきりと否定された。ただ、その返答があまりにもお役所的で、神官の持つおおらかさがまったく感じられない。「たのむからこれ以上は聞いてくださるな」、といった雰囲気さえ感じられる。「これはおかしいぞ」、と私は思った。二社の神官が本当にそう思っているはずはあるまい。それなりの理由があって、かたくなにそうおっしゃっているような気がした。


群馬県と栃木県は古代は一つの国で、毛野国(けぬのくに)といった。それが分かれて上毛野(かみつけの)・下毛野(しもつけの)となり、国名を二文字に統一した天武天皇の頃、上野(こうず¨け)・下野(しもつけ)という国名になった。このあたりは関東でも特に古墳が多い場所だという。
三代天台座主の慈覚大師・円仁(じかくだいし・えんにん)が下野出身の人、と昔聞いた時は、そんな辺鄙な所の出身の人が、、、と意外な気がしたが、早くから文化の開けた土地だと知り、やっと納得できた。

豊城入彦命は第十代崇神(すじん)天皇の第一皇子であり、実在の人物である。日本武尊の祖父の垂仁(すいにん)天皇の兄であるから、武尊より40-50歳年長であったかと思う。

この人がはじめて東国を治め、上毛野君(かみつけののきみ)・下毛野君(しもつけののきみ)の始祖となった、と「日本書紀」はいう。両豪族はこの地方の国造となり、律令時代に入るとその一族は郡司(ぐんじ)となって影響力を保った。宇都宮の二荒山神社は、この下毛野君がその祖である豊城入彦命を祀った神社である。

那須与一の一件で、武の霊験あらたかなことが天下に知れ渡った故であろうか、中世以降この神社は、源頼朝をはじめとして多くの武将の信仰が厚い。

特筆すべきことは、徳川家康が江戸幕府を開いた直後、この宇都宮二荒山神社に1700石の朱印領を与えていることだ。下総・香取神宮、信濃・諏訪大社、豊前・宇佐神宮などの大社のそれぞれ1000石を凌ぐ石高である。同時に、慶長10年(1605)家康はこの神社に経済援助を与え、社殿の造営を命じている。ただならぬ優遇といえる。




2020年2月12日水曜日

二荒山神社(2)

最初にお参りしたのは、日光二荒山(ふたらさん)神社本社だ。うっそうとした森の中にたたずむ古社である。神護景雲(しんごけいうん)元年(767)、僧・勝道(しょうどう・735-817)が男体山(なんたいざん・二荒山)の二荒神を祀ったことから始まる、と社伝にいう。

大昔の話ではない。
和気清麻呂が宇佐神宮にご神託を聞きに行く2年前のことである。この勝道は修験僧に列する一人で、山岳修験道の開祖とされる役小角(えんのおずぬ)とは100歳ほどの年齢の開きある。役小角の孫弟子のそのまた孫弟子の世代、といった時代認識で良いかと思う。

参拝のあと、静寂な境内を散策して社務所に立ち寄った。この神社の朱印帳の表紙は木でできている珍しいものと聞いていたので、ぜひ購入したいと思っていた。社務所でうかがったところ、ここには置いてなく中宮祠(ちゅうぐうし)にあります、との返事だ。近くなら行ってみようと思ったが、山道を歩いて3時間、と聞きあきらめた。中禅寺湖の北岸に中宮祠があり、男体山(2484メートル)の頂上に奥宮(おくのみや)があるという。

かねてより疑問に思っていたことを、神官に聞いてみた。
本当は日光と宇都宮のどちらが古い本社か知りたかったが、あからさまに聞くのは失礼な気がして、二つの神社はご親戚なんでしょうね、とやんわりと聞いてみた。

「まったく別です。お祀りしている祭神が違うのです。我々は大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命)・田心姫命(たごりひめのみこと・宗像三女神の長女)・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと・大国主命の子)の三柱をお祀りしています」とはっきりと否定された。

そんなことはないでしょう、読み方は違っても、「二荒山」という漢字名が同じだし、何かご縁があるのでしょう、と言いたかったのだが、神官の断固とした迫力にたじろいだ私は、それ以上は何も聞かなかった。

この日光二荒山神社の境内地は、1022万坪というからすこぶる広い。全国の神社の中で第二位である。ちなみに第一位は、伊勢神宮・1801万坪、第三位は加賀の白山姫神社・835万坪である。第十位の明治神宮の36万坪と比べても、この三つの神社はけたはずれに広い。もっとも、その大部分は山であるが。


帰り道、徳川家康公をお祀りしてある東照宮に立ち寄った。
二荒山神社の社殿から数百メートルしか離れていなく、裏の近道を歩くと2-3分で東照宮の境内に入る。ここは元は、二荒山神社の境内の一部だから当然のことだ。

二代将軍秀忠(ひでただ)によって完成した東照宮は、三代の家光の手によって幕府の総力をあげて大改築される。本社・唐門(からもん)・陽明門の逆柱(さかばしら)・眠猫(ねむりねこ)などは国宝であり、その他重要文化財も多数ある。ただ、あまりにも絢爛豪華すぎる。私自身は簡素なたたずまいの二荒山神社の風韻(ふういん)を好む。

日光山(二荒山神社と神宮寺の万願寺)は、戦国時代には小田原の北条氏に味方して豊臣秀吉に反抗したため、秀吉が天下を取ったあとは神領を奪われて乾されてしまった。この当時、皆がおかゆをすすっていたらしい。余談だが、日光山(にっこうさん)という呼び名は、二荒山(にこうさん)を美しい文字に書き換えたものだと聞いたことがある。

衰微の極にあったこの神社を救ったのは徳川幕府である。慶長18年(1613)、徳川家康が厚く信任していた僧・南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)が日光山座主(にっこうさんざす)として入山する。この人は家康の知恵袋で、なんと107歳という稀有の長寿をまっとうした。(1536-1643)

天海の日光山入山は家康の死の3年前であるが、この時すでに、家康の死後その神霊をこの地に祀ることは、二人の間で合意ができていた。江戸から鬼門の方角であるこの日光の地に家康の霊を祀り江戸を守る、すなわち徳川幕府の安泰をはかる、という考えである。将来東照宮を建立するために、天海は77歳の老体で寒い日光山に移り住んだのである。

日光二荒山神社の本殿は、東照宮が完成した3年後に再建に取りかかっている。その境内地を分けてもらった徳川幕府が、恩義を感じて援助したのだろう。


東照宮の主神はいうまでもなく徳川家康であるが、相殿(あいどの)神として祀られているのが源頼朝と豊臣秀吉であると聞き、驚いた。この二人が祀られたのは明治新政府の意向によるもので、明治6年6月9日、東照宮は別格官幣社に加列し、その時この二人が配祀されたのだという。

明治新政府は、自分たちが倒した徳川氏に滅ぼされた豊臣氏に同情していたのか、はたまた下級武士から成りあがった自分たちの姿を豊臣秀吉になぞらえていたのか、秀吉びいきの政権であったような気がする。



















2020年2月6日木曜日

神社のものがたり・二荒山神社

日光二荒山(ふたらさん)神社と宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社


11月、快晴の土曜日の朝、急に思い立って中野駅から電車に乗り、下野(しもつけ)にあるこの二つの神社に向かった。

この神社についての私の唯一の知識は、中学生の頃教わった「平家物語」の中で、那須与一が二つの神社の神様に祈願したということだけだ。いまひとつ、頭の中にあったのは、この二つの神社のどちらが古い本社なのかという疑問である。


那須与一が扇の的を射抜く光景は、緊張感にあふれ美しい。
時は元暦(げんりゃく)2年(1185)2月18日酉の刻(とりのこく)、場所は讃岐国の屋島、と「平家物語」はいう。 新暦の3月下旬か4月上旬にあたるから陽(ひ)は長い。酉の刻は午後5時から7時の間である。

「今日は日暮れぬ。勝負を決すべからず」と、源平両軍は陣営を退き、勝負を明日に持ち越そうとした。その時、沖から平家側の舟一艘(そう)が岸にむかって漕ぎ寄せてきた。若い女性が竿(さお)のてっぺんに括りつけた扇を指さしている。

「あれはなんだ?」と源義経(みなもとの・よしつね)が部下に聞く。

「源氏に腕の立つ武者がいるならば扇を射落としてみよ、と言っておるのでしょう」
「味方に誰かおらんのか?」ということで、那須与一に白羽の矢が立った。
「ご勘弁ください」と与一は強く辞退する。当然であろう。「渚(なぎさ)より七、八段」と書かれている。七段として75メートル、八段であれば86メートルの距離だ。

「折ふし北風激しく吹きければ、磯(いそ)打つ波も高かりけれ。舟は揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり」、と「平家物語」にある。 いかに弓の名人でも、このような状況において尻込みするのは当然のことだ。失敗したら武士として不名誉きわまりない。しかし義経は許さない。「俺の言うことが聞けぬなら、今すぐとっとと鎌倉へ帰ってしまえ」と叱りつける。

与一は覚悟を決めた。
ふち飾りを金めっきした鞍を置いた太くたくましい黒馬に乗り、海の中に入っていった。「矢頃少し遠かりければ、海の中一段ばかり入りたりけれども、なお扇の間(あわい)は七段ばかり」というから、与一は磯から10メートルほど馬に乗って海の中を沖に進んだのだ。それでも扇との距離はまだ75メートルもある。「沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみ(馬具の一つ)を並べてこれを見る」

与一は失敗を許されない絶体絶命の窮地に追い込まれた。当時から「困ったときの神頼み」という考え方があったのだろう。ここで20歳の青年は、郷里の氏神様に必死の祈願をする。

「与一目を塞いで、´´ 南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、別しては我が国の神明(しんめい)日光の権現(ごんげん)、宇都宮那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させて給(たば)せ給(たま)へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面(ふたたびおもて)を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思し召(おぼしめ)さば、この矢はつ¨させ給ふな´´  と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにこそなったりけれ」

この「日光の権現」が「日光二荒山(ふたらさん)神社」、「宇都宮那須の湯泉大明神」が「宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社」である。

南無八幡大菩薩と与一が祈っていることから、下野国に有名な八幡神社があるのかと思っていたが、それらしき神社は見当たらない。これは源氏の武士として、その守り神である八幡大菩薩、すなわち鶴岡八幡宮、石清水八幡宮、もしくは宇佐八幡宮に祈願したように思える。
そして、郷里の二荒山の神さまは、窮地に追い込まれた氏子であるこの青年の願いを叶えてやる。みごと、一矢で扇を射落とせさせたのだ。

那須与一という人は、弓の名人で力は強かったが小柄な武士だったらしい。使った矢は普通の長さである。放たれた矢はうなりをあげて飛び、扇の要(かなめ)3センチ下を射ぬいた。

「鏑(かぶら・矢の先に付けるもの)は海に入りければ、扇は空へぞ揚(あ)がりける。春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。皆、紅(くれない)の扇の、夕日(せきじつ)の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷(ふなばた・舟のへり)を叩いて感じたり、陸(くが)には源氏箙(えびら・武士が腰につけている矢を入れる容器)を叩いてどよめけり」

「平家物語」の圧巻である。






















2020年2月3日月曜日

巣鴨拘置所での軍艦マーチ

昭和26年12月9日、東京消防庁音楽隊は巣鴨拘置所において、いわゆる戦犯の前で慰問の演奏をおこなった。

演奏曲目は「豊年祭り」・「浜辺の歌」・「胡蝶の舞」などであったが、演奏が進むにつれて満員の会場のあちこちから嗚咽がもれはじめた。指揮者の内藤清五隊長をはじめ隊員たちは胸がつまった。

最後は行進曲で締める。行進曲は「星条旗よ永遠なれ」をレパートリーに入れ楽譜を用意していた。その時、突然、 「軍艦をやる!」 と内藤隊長が大きな声で言った。旧海軍では軍艦マーチのことをこう言う。演奏している隊員全員が耳を疑った。同時に、皆に戦慄がはしった。

敗戦以来、絶対に演奏してはいけない曲だと、GHQから命令されている。この音楽隊は、内藤隊長以下全員が旧海軍軍楽隊の出身だ。軍艦マーチは十八番(おはこ)である。楽譜なしでも目をつぶってでも演奏できる。楽譜が用意されてなかったからではない。隊員たちがうろたえたのは、この曲の演奏が終わった後、米兵に射殺されるのではないか、と思ったからである。

内藤隊長は日本海海戦の翌年、明治39年、16歳で海軍に志願した。以来、海軍軍楽隊ひとすじで、軍楽隊の最高位・海軍軍楽少佐まで昇った。隊員たちからみたら神様のような人である。
その内藤隊長が、「やれ!」というのである。隊員たちは腹をくくった。

「軍艦行進曲」の演奏がはじまった。

戦犯たちの顔が一瞬にして変わった。そして、涙、涙、涙であった。肩をふるわせて泣く将軍や提督がいる。あたりをはばからず号泣する佐官・尉官・下士官・兵がいる。この時A級戦犯だけでなく、B・C級戦犯も多数この巣鴨拘置所に収監されていた。

海軍大将・島田繁太郎、海軍中将・岡敬純がこの中にいた。陸軍では、大将・荒木貞夫、大将・畑俊六、大将・南次郎、中将・佐藤賢了、中将・大島浩、中将・鈴木貞一がいた。文官では、木戸幸一、賀屋興宣、平沼騏一郎、星野直樹がこのこの軍艦マーチに泣いた。

あとで内藤隊長が語ったところによると、前もって米軍の責任者に、「旧海軍のマーチを演奏してもよいでしょうか?」と問い合わせしていたという。

戦前から、米・英・独・伊などを含め頻繁に海外遠征演奏をしていた内藤隊長は、国際情勢や外国人のものの考え方や、心理に敏感であった。効力の発生は来年の4月28日ではあるが、すでにこの年の9月8日に、サンフランシスコ講和条約は吉田茂首席全権の手で、連合国側と締結されていた。しかもクリスマスの直前である。米軍側は理解してくれるのではなかろうか、と踏んでいた。

案の定、「ああ、マーチの演奏ぐらい、別にやっても構わんよ!」と米軍の将校は、いとも簡単にOKを出してくれたのだという。


「海軍軍楽隊ー花も嵐もー」針尾玄一編・著の一部を参考にさせていただいた。