2019年10月28日月曜日

今東光が僧侶になったわけ

この話は講演会でも聞いたし、「極道辻説法」の中にもある。どうして仏門に入ったのか?との質問は、講演会でひんぱんに聞かれるので、準備していたのであろう。この話と先述のテンプラ学生の話は、今東光和尚の十八番(おはこ)であったようだ。


俺がなぜ天台宗の坊主になったのかって?
俺が新進作家だった頃、茨城県の鬼怒川の上流に小さな別荘を建てたんだよ。田園の生活をするから、というんでね。それで屋形船一つ注文してね。そしてその船を川に浮かべて、そこで本を読んだり、昼寝をしたり、夏場になると西瓜を網に入れて川に流しておいて、冷えた頃それを食って、そんな優雅な生活をしていた。

その時、その村にいい寺があった。そこの和尚がおかしな、そそっかしい坊主でね。でもだんだん話していたら面白いんだ。聞いてみたら、慶応義塾の1期生か2期生なんだ。とにかく非常に古い卒業生で、川上定奴(さだやっこ)の旦那になった福沢桃介という中部電力の社長と同期なんだ。福沢桃介といやあ、当時財界では有名な人だった。

それで、寺に銭がなくなると俺の別荘に寄って、「これからわしゃ、東京の福沢桃介のところに行くけど、一緒に行ってみませんか?」と言うんだ。
「それは面白そうですね。僕もいっぺん会っておこうかな」

この住職は、若い頃苦学して諭吉先生に可愛いがられた。学費といったってあの頃は私塾だから、ただでいい、なんて時もあったんだろうな。その代りに人力車を引いて、諭吉先生を乗せていたというんだから、面白い生徒だったんだろう。それが桃介のところに行くというので、俺もお供して、芝白金だったかな、そのお邸に行ったんだ。

この和尚の寺は安楽寺という寺でな。それでお邸に行っても、「ご免」とも言わず、「安楽寺じゃ、安楽寺じゃ」と言いながらかってに入っていくんだ。それが冬でも夏でも、工事用のヘルメットをかぶって入っていく。

「諭吉先生の御仏壇にちょっとお経を、、、」と書生に言うと、桃介さんが出てくる。
「こりゃあ、わしの村の今さんという人で」と俺を紹介してくれる。俺の名前を知っていたかどうか、桃介さんは「おう、おう」とかなんとか言ってんだ。

それで心得たもんで、和尚の名前ー弓削さんというんだが、「あのな弓削君、わしは今日これから出かけるので忙しい。お経はまたに、、、、」と言いながら、包んだやつを手に握らせるんだ。
つまり、銭がなくなると、同級生の桃介をゆすりにいくわけだ。二人とも豪傑だろう。

とにかくそういう人だから、面白くなって、しゅっちゅう寺に行くようになった。
「あちこち行ってお経をあげていればいいんだから、いいね、この商売。原稿書くよりいいよ、和尚さん。俺も坊主になろうかな」と言ったら、「いいとも、いいとも。なれ、なれ」と言うわけなんだよ。
「お経をあげてやるって言っただけで、銭を黙って包んでくれるからな」と和尚は大笑いして、とうとうその人の弟子になって、浅草で得度したんだ。

三十三の中年で、一番ビリの坊主になった。だから俺は寺をつくる気はないし、位なんてものは念頭にもなかった。そして得度してもその安楽寺に入らず、別荘から通った。ひどい弟子だぜ。別荘もっていて、別荘から寺に通う弟子なんて。それで銭がなくなると、「今日はどこそこへ金をもらいに行こう」と二人で行くんだから。ま、そんな因縁(いんねん)で天台に入ったわけだ。


今東光という人は、かなり尾ひれをつけて面白おかしく話す人だが、嘘は言わない人だ。
よって、この話は本当だと思う。ただ、仏門に入った理由は、ただこれだけの単純なものではなかったらしい。芥川龍之介の自殺や、文芸春秋社長の菊池寛との衝突やら、当時、出家にあこがれる心の葛藤があったのが事実らしい。








2019年10月18日金曜日

テンプラ学生・今東光(2)

こうして一高の寮に行って、夜の9時・10時までしゃべっている。一高の門限は9時なんだ。
「門が閉まるから、俺帰るよ」
「いや、門を越えて行けばいい。もう少しいろよ」なんて、夜遅くまで引きとめるんだ。そのうち、川端は度胸のいい奴だから、「この部屋は8人だが、1人や2人はうちに帰ったりどこかの女の所に泊まりよる。誰かの空いている布団にもぐりこんで泊まっていけばいいよ」と言う。

それで俺はもぐり込むんだけど、寝ていると夜中に帰ってくる奴がいるんだ。
「あれ?誰か俺の床にもぐっている」
「うるさいなあ。足元から入って寝ろ」
無茶苦茶だよ。俺は枕を占領して、向こうは座布団を折ってな。今日はこっち、明日はあっちで、もう家には帰らない。

一高前に「のんき」というおでん屋があって、そこに行って俺は飯を食うんだ。そうしていると川端が、「そんな無駄せんでええやないか。寮の食堂に行こうや。食いに来ない連中がいるからそいつの分を食え。別に学校に迷惑かけないし、政府にも損害をかけることにはならん」
「ああ、それはいい考えや。行こう」と俺も一緒に食堂に行って飯を食うんだ。

ただ、月謝納めてないから、教室には入れない。一高はちゃんと出欠をとるからね。東大になると、もう誰が入ってもわからない。一高の教室に入れないかわりに、奴らの使っている本を読んで勉強するんだ。当時、一高の入学式は9月だった。その9月の末か10月には、もう一高の寮に入りびたりだったから、ほとんど高校・大学を出るまで、川端と一緒に暮らしたようなもんだ。こうやって、とにかく一高の3年間が終わった。


川端たちが東大に入ったんで、俺も今度は東大にかよいはじめた。なにしろ、うちが東大のすぐ前の西片町だから、毎日のように東大に通って、いろいろな授業を聞いていた。

そうしたら、ある日、川端が、「ブラブラ大学に来ても面白くない。どうだい、劇研究会でもやらないか?」と言うんだ。「それ、どうやるの?」
「銭もあんまりないから、月に一度ぐらい芝居見て、その批評でもし合ったら面白いんじゃないか」
「ああ、面白いね」、「じゃあ、あした教室で提案しようじゃないか。それ、おまえ言えよ」
「そりゃおかしいよ。俺はここの学生じゃないんだから。川端、おまえ言えよ」
「俺は口下手だからダメだ。おまえ、おしゃべりだから、おまえ言え」
しょうがないから、俺が喋ることにしたよ。

十何人かの仲間が集まったので、みんなで歌舞伎を1・2回見に行った。すると川端がみんなの前で、「銭出して切符を買って、意味ないじゃないか。松竹に交渉して東大の劇研究会だから、と言って半額にしてもらう方法はないのか。君らの誰か、行ってくれる人はいないか?」
「いや、ぼくらは田舎から出てきたばかりだし」って、みんなおじけつ゛くんだ。
そうしたら川端がまた、「おまえ行け」と言う。みんなも、「今さん行ってください。やっぱりこういうことは東京の人がいいや」と、俺が行くことになっちゃったんだ。

それで、俺は川端をひっぱって松竹の受付まで行ったんだが、川端はどうしても中に入らない。しかたがないから、俺だけが松竹の偉い重役に会った。趣旨を話すと、「そういうわけでしたら、今後私どもでご招待します」と言って、招待券を30枚もくれたんだ。翌日教室で配ったら、劇研でない連中まで切符よこせって大騒ぎになってな。まあ、みんな大喜びだった。

こんなことをしているうちに、俺がモグリ学生だってことが、みんなにわかってきたんだな。でも、ニセ学生で女をひっかけているわけじゃなく、実際に教室で勉強しているわけだろう。だから、「今ちゃんは、きっと家の事情かなにかで学資がなくてやっているんだろう」と騒ぎ立てないで、そっとしておいてくれたんだ。それともう一つ、俺がみんなにとって必要な人間になっていたから、彼らも大目に見てくれていたんだろうな。

そんな調子で、川端がいつも俺をけしかけては、俺が音頭取りみたいなことをやっていたので、今でも役人や政治家になった法科の奴らに会うと、「あのじぶん、文科では、今さんはたいしたもんでしたね」って、みんな知ってるの。
「俺は大学卒業じゃないよ」
「でもなんだか知らないけど、よく教室に来てたじゃないですか。名前もよく聞きましたよ」なんてね。妙な一生だったな。


















テンプラ学生・今東光

社会人になって2・3年経った頃、私は月一回、武蔵野市にある亜細亜大学に通っていた。

高校時代の友人がどこかの大学院を出て、この大学の助手か講師をしていた。五島昇という東急グループの総帥がこの大学の理事長をされていて、個性ある一流の人物に話をしてもらい、大学生たちの精神の糧(かて)にさせたいとの親心で、月一回講演会が開かれていた。

ところが、大学生達はこういうものには興味がないらしい。席の3分の1ほどしか埋まらないので、五島理事長は怒ってしまった。

「講演をお願いした方々に申し訳ない。これでは俺の男が立たん。助教授以下の若手の職員は全員が参加せよ。その連中の友人にも声をかけて、ともかく大勢の人を集めて席を満席にせよ。この大学の卒業生でなくてもいっこうにかまわん」との檄が飛び、いわば「サクラ」として私にお鉢がまわってきたわけだ。

友人への義理で参加したのだが、行ってみるとすこぶる面白い。10人前後の方々の講演を聞いた。今東光と出光佐三の話は特に面白かったので、今でも鮮明に覚えている。

私がこの講演を聞いた1・2年後だと思う。「週刊プレーボーイ」の名編集長・島地勝彦氏は、最晩年の今東光に気に入られて、同誌に「今東光の極道辻説法」が連載された。この中にも、このテンプラ(ニセ)学生の話が出てくる。この話は、今東光和尚の「得意の一席」であったようだ。
40年以上も前に聞いた話なので、正確を期すために、この「極道辻説法」も今回参考にさせていただいた。


今東光のお父さん日本郵船の船長で、本人は少年期、横浜・小樽・函館・神戸などを転々としている。喧嘩に強い暴れ者で、関西学院中学を含め2つの旧制中学を退学になり、東京に出てきて画家になる勉強をするという名目で遊び呆けていた。


その頃、俺は東大のある本郷あたりのゴロでね。同棲していた女と喧嘩して、近くの西片町にある実家に帰ろうと思い、赤門の前の本郷通りを歩いていたんだ。

そうしたら向こうから下駄を鳴らしながら、まっさらの一高の帽子をかぶってこちらに歩いてくる野郎がいるんだ。そいつが俺のほうをじろじろ見るんだ。野郎、俺様にガンをつけやがって。なぐってやろうと思ったよ。だんだん近寄ってきて、そいつが、「東光さんじゃない?」と言うんだ。俺の弟と同級生の池田という男なんだ。あんまり出来の良くない。

「おまえ、いい道具を手に入れたな」
俺はそいつの着ている一高の制服と帽子を、道具だと思ったんだ。
「おまえ、そいつでコレをひっかけているんだろう?一高の奴らに捕まったらどつかれるぞ」
「阿呆なこと言ってくれるな。僕は本当の一高生だよ」
「おまえみたいな頭の悪い奴が、一高に入れるわけがないだろう」
「いや、僕は補欠で入ったんや」

参ったよ、俺、これには。こんな馬鹿な野郎が一高に入っているのに、俺は相変わらずだしな。
「おまえ、ほんまに一高生やったら、おまえのところに行ってみるぞ。何ていう寮にいるんだ?」
「北寮の何号室、、、」というから、翌日、俺、行ってみたんだ。
いたんだよ。そいつが。本当に。

「東光さん、文学好きなのが数人おるんや」と、同室の奴らを紹介するんや。
「これ、川端康成って、文学。これはだれ、あれはだれ」って。みんな文学好きなんで、もう池田などそっちのけで、大いに話が盛り上がってしまった。「今度みんなして、今ちゃんの家に遊びに行こうや」ということになったんだ。

川端を含めて一高生数人を連れて家に帰ったら、おふくろが喜んじゃってね。弟2人はまじめに勉強しているのに、長男の俺1人が退学を繰り返して喧嘩にあけくれているわけだろう。本物の一高生と友達になったので喜んでね。連中が家に遊びに来るたびに、ずいぶん御馳走するんだ。

おふくろは川端のことを特に気に入ったらしい。川端が孤児で、夏休み・冬休みに帰省する先がないことを知ると、「休み期間中はずっとうちに泊まれば良い」と言って、そうするのが川端が東大を卒業するまでのしきたりとなった。おふくろは年一回、俺たち3兄弟に新しい着物を縫っていたが、それからは川端の分も加わり、年4着の着物をつくっていた。














2019年10月15日火曜日

三女帝の遺言

持統・元明・元正の3人の女性天皇の遺言を紹介したい。

我が国2番目の正史「続日本紀」は、文武天皇元年(697)8月1日から記述がはじまる。
「8月1日、持統天皇から位を譲りうけて皇位につかれた」と冒頭にある。15歳で即位したこの少年天皇は、まことに残念なことに25歳で崩御された。

文武天皇は、持統天皇の孫・元明天皇の子・元正天皇の弟にあたる。3人の女性天皇は唐の則天武后とは異なり、自分が皇位を希望したのではなく、男性天皇に皇位をつなぐため、中継ぎとしてその地位についた。

天皇に即位するはずの草壁皇子(天武・持統の子)が27歳の若さで亡くなったことが、3人の女性の苦難の始まりであった。この時6歳だった軽(かる)皇子(文武天皇)を皇位につかせるべく、3人は心を合わせて努力する。そして文武天皇は15歳で即位された。

あろうことか、この文武天皇が25歳の若さで崩御されたのである。この時、持統太上天皇はすでに崩御されていたので、孫の死という不幸を見ないですんだ。母元明・姉元正の悲しみはいかほどであったことか。

この時6歳であった文武天皇の子首(おびと)皇子(聖武天皇)に皇位を継承させるべく、その祖母・元明天皇、伯母・元正天皇の奮戦がはじまる。すぐさま元明が天皇に即位し、8年後に元明が老齢になると、はつらつとした35歳の伯母の元正が即位して、その後、みごとに聖武天皇にバトンを渡す。


「続日本紀」を読むと、この3人の女性天皇がそろって聡明で慈悲深い人柄であったことがわかる。

天智・天武の両男性天皇は、いわば実力派の天皇であった。自らの判断で臣下に指示を与え、中国の皇帝に似たかたちでこの国を統治した。同時にこの国の将来の青写真をつくった。

それに比べ、3人の女性天皇は、聡明ではあるが女性でもあり、大筋だけは自らが指示して、政治の実務は太政官(太政大臣・左大臣・右大臣)にほぼ任せていたことが「続日本紀」から推測される。そしてこのことが、それ以降の日本の国柄が、中国や朝鮮半島の国々とはまったく異なるものになる原因の一つではあるまいかと考える。

よって、これら女性天皇の遺言には、政治向きの言葉は一切ない。
「自分の葬儀はつとめて簡素におこなえ。費用を切り詰めて倹約して民を煩わせるな。喪(も)の期間を短くして役人や民が仕事を中断しないようにせよ」などの言葉がくどいほど述べられている。


「続日本紀」には、次のように記載されている。


持統天皇の遺言

大宝2年(702)12月22日、太上天皇が崩御された。遺詔に次のように述べられた。

「素服(麻の白い無地の喪服)を着たり、挙哀(こあい・死者を悼んで泣き叫ぶ中国・朝鮮式の儀礼)をすることがないようににせよ。内外の文官・武官は任務を平常の通りに行なえ。葬儀の儀礼については、つとめて倹約にせよ」


元明天皇の遺言

養老5年(721)10月13日、太上天皇(元明)が右大臣・従二位の長屋王と、参議従三位の藤原朝臣房前を召し入れて、次のように詔された。

「朕は万物の生命には必ず死があると聞いている。これは天地の道理であり、どうして悲しむべきであろうか。葬儀を盛大に行い、人民の生業をこわし、服装を飾って人民の生活を傷つけることは、朕の取らないところである。朕が崩じた後は、大和国添上(そうのかみ)郡佐保山の北の峰に、竈(かまど)を造って火葬に付し、改めて他の場所に移してはならない。天皇は通常と同じように政務万般をとり行なえ。皇親や公卿および文武の百官は、簡単に職場をはなれて、柩車につき従うべきではない。それぞれ自分の本務を守り、平素と同じように仕事をするように」

10月16日、太上天皇はまた次のように詔した。

「葬儀に用いるものは、すべて先に出した勅に従い、欠けるところがあってはならない。その轜車(じしゃ・棺をのせる車)や天皇の乗る車のこしらえは、金玉を刻みちりばめたり、絵具で描き飾ってはならない。彩色しない粗末なものを用い、卑しく控え目にせよ」

12月7日、平城京の中安殿で太上天皇は崩御された。時に御年61歳であった。

12月13日、太上天皇を大和国添上郡椎山(ならやま)の陵(みささぎ)に葬った。葬儀は行なわなかった。遺詔にしたがったのである。


元正天皇

実はこの元正天皇の遺言は、先の持統・元明天皇のように「続日本紀」の中には書き残されていない。遺言を残す直前に崩御されたのであろうか。ただ、記述された事実からして、この元正天皇も、同じように質素な葬儀を望んでおられたことが察せられる。

天平20年(748)夏4月21日、太上天皇(元正)が寝殿で崩御された。享年69歳であった。

4月28日、天皇(聖武)は勅して、天下のすべての人々に白の喪服を着させた。この日、太上天皇の遺骸を佐保山陵(さほやまのみささぎ)において火葬した。

6月5日、百官および諸国の人々に命じて喪服をぬがせた。

持統・元明両天皇のように葬儀に関する遺言がなかったので、甥にあたる聖武天皇は、簡素ながらも過去のしきたりに沿って、葬儀をとりおこなったのであろう。6月5日は、現在でいう四十九日の喪があけた日である。熱心な仏教徒であった聖武天皇は、「簡素といってもせめて四十九日までは」、と役人や人民にこの期間喪に服させたのであろう。

これを先例としたのであろうか。現在でも「四十九日」という仏教のしきたりは、我々日本人の日常で行われている。「続日本紀」には「七・七(しち・しち)」と表記されている。当時の中国や朝鮮では皇帝や国王の死に際しては1年以上の喪に服したというから、きわめて簡素な葬儀であったのは間違いない。

この元正天皇は、崩御される1年半ほど前に、次のような詔(みことのり)をされたと、「続日本紀」は記している。あるいはこれが、元正太上天皇の国民向けの遺言といえるかも知れない。

天平19年5月5日、この日、太上天皇(元正)は次のように詔した。

「昔、5月5日の節会(せちえ)には菖蒲(あやめ)を髪飾りとしていたが、近頃はその風習が行われなくなった。今後は菖蒲の飾りをつけないと宮中に入ってはならぬこととする」

いささか唐突で、わがままな詔の気がしないでもないが、弟文武天皇のひとつぶだね・首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を次の天皇にすべく、独身を通し35歳でさっそうと即位した、美貌の女性天皇らしい詔で、なんともほほえましく思える。


おしまいに、万葉集に記載されている3人の女性天皇の御製を紹介したい。

〇春過ぎて夏来るらし白妙(しろたえ)の 衣干(ころもほ)したり天(あめ)の香久山(持統天皇)

〇これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる 紀路(きじ)にありといふ名に負ふ勢(せ)の山
 (元明天皇・勢の山は、この歌をつくる1年前に亡くなった夫草壁皇子を重ねたものといわれる)

〇あしひきの山行きしかば山人(やまびと)の 我に得しめし山つとぞこれ (元正天皇)
 (「山つ゛」とは、山で採れたみやげもの。花か紅葉か山の果実か、山の民のささやかな献上物)
















 











2019年10月3日木曜日

終戦の日の鉄道列車

昭和20年8月14日午前6時、北九州の門司(もじ)駅を出発した列車は、翌日15日12時13分に東京駅に着いた。予定の到着時刻の正午を13分過ぎていた。

運転士は急いでホームに飛び降り、助役室に走った。
「申し訳ございません!予定より13分も遅れました」と大声で詫びた。

「静かにしろ!」とだれかが叱咤した。天皇陛下の玉音放送が終わり、総理大臣・鈴木貫太郎の声がラジオから流れていた。


20年ほど前に読んだ本の一部を、記憶を頼りに書いたので、正確には13分ではなかったかも知れない。しかし、終戦の日、日本全土の鉄道はほぼダイヤ通りに運行されていたのは間違いない。

下関・岩国・福山・岡山・姫路・神戸・大阪・名古屋・浜松・静岡・横浜・東京などの各駅舎は、B29による焼夷弾で焼かれていた。9日前には、広島は原爆で消滅していた。この列車が通過した3・4時間後、すなわち8月14日の正午過ぎに、山口県の光海軍工廠はB29爆撃機157機の攻撃により、学徒動員の133人の生徒を含む738人が犠牲となった。40分の間に885トンの爆弾が投下されたという。

このような状況の中でも、鉄道省の作業員と陸軍工兵隊の兵隊たちの徹夜の復旧作業により、日本全土の鉄道路線は、ほぼ正常に動いていたのである。ドイツの敗戦の日の光景とはまったく違う。

この本を読んだ時、「そうなんだ。日本人というのは凄いなあ」と思ったが、以来、年を経るごとに、この記述の感激が日増しに強くなってくる。「出典はどの本だったのか?」と気になって、関係ありそうな本に出くわすと、手にとってページをめくるのだが、今なお出典は不明である。


宮脇俊三著・「時刻表昭和史」という名著があると聞き、もしかしたら、と思い読んでみたのだが、残念ながらこの話は出ていなかった。しかし、筆者自身が体験した、別の場所でのこの日の実話が書かれてあった。

宮脇俊三は、昭和20年3月に成蹊高校を卒業し、同年4月に東京帝国大学文学部に入学している。(宮脇氏と同じ大学を卒業された畏友のTさんから、宮脇さんは最初は理学部に入学しその後文学部西洋史学科に転じた、と最近聞いた)。母と姉は新潟県の村上に疎開した。父親と本人は東京に残ったが、食糧調達のため東京・村上間をひんぱんに往復していた。父親は山形県の大石田に工場を持つ、東京の軍需会社の経営者なので、鉄道切符の取得では普通の人に比べて優遇されていたようだ。

宮脇氏は、次のように書いている。

父の工場に立ち寄り体調を崩した私は、8月14日は父と共に山形県の天童温泉で一泊した。15日は村上に帰る日である。

宿の主人が、正午に天皇陛下の放送があるそうです、と伝えに来た。
「いったい何だろう」と私が思わず言うと、「わからん。いよいよ重大なことになるな」と父が言った。
宿の主人が部屋を出ると、「いいか、どんな放送があっても黙っているのだぞ」と小声で言った。

今泉に着いたのは11時30分だった。今泉駅前の広場は真夏の太陽が照りかえしてまぶしかった。中央には机が置かれ、その上にラジオがのっていて、長いコードが駅舎から伸びていた。

正午が近つ゛くと、人々が黙々と集まって来た。この日も朝から艦載機が来襲していた。ラジオからは絶えず軍管区情報が流れた。11時55分を過ぎても、「敵機は鹿島灘上空にあり」といった放送が続くので、はたして本当に正午から天皇の放送があるのだろうかと私は思った。

けれども、正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つつ゛いて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾(かたず)を呑(の)んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。

天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。
放送が終わっても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉(せみ)しぐれの正午であった。


時は止まっていたが汽車は走っていた。

まもなく女子の改札係が、坂町行きが来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米沢線の列車が入って来るのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。

けれども、坂町行109号列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。

機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。

昭和20年8月15日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻通りに走っていたのである。