2020年6月29日月曜日

東陵の瓜(4)

広陵での生活が12年目になろうとする、ある日のこと。

正確には前209年の春、召平のもとに衝撃的な情報が飛び込んでくる。

今までも、各地にちらばる将軍・諸侯とは、時おり連絡を取りあっている。今回の便りは国都・咸陽(かんよう)から届いた。仲の良い将軍からである。

竹簡に言う。

「始皇帝は前年、東方を巡行中に崩御された。その時、帝のおそばには宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)、宰相の李斯(りし)、始皇帝の末子の胡亥(こがい)がいた。趙高は、蒙恬(もうてん)将軍がうしろだての長男の扶蘇(ふそ)が即位すると、自分の身があやういと考えた。そこで李斯とはかり、帝の崩御を隠し、同時に長男の扶蘇を後続者にするという始皇帝の遺言状を握りつぶした。そして偽りの詔勅(しょうちょく)をつくり、北方を警備中の大将軍・蒙恬とそこに身を置いている扶蘇に自害を命じた。匈奴征伐の功績なく、朕(ちん)の政治批判はなはだしきは不忠なり。との理由をとってつけた」

「辺境の地で勅命(ちょくめい)に接した長男・扶蘇は自害した。その前に蒙恬は制止した。あまりにも唐突な命令で理解できない。なにかの陰謀ではないか。一度助命を嘆願してみましょうと。
扶蘇は、それでは父の命を疑うことになり二重の不忠となる、と言って死を急いだ。蒙恬は自害をこばんだ。使者団は彼をとらえ、咸陽へ護送して獄につないだ。数ヶ月後、蒙恬は毒をあおいで死んだ。趙高と李斯は、自分たちのあやつりやすい末子の胡亥(こがい)を二世皇帝の座にすえた。
その後まもなく、趙高は李斯に冤罪をでっちあげ、皇帝の名のもとに群衆の前で宰相・李斯の首を刎ねた。現在秦の国権は、すべて宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が握っている」


中央からの正式な通達は届いていないが、始皇帝が崩御されたのでは、、とのうわさは、広陵の地にも聞こえていた。

人はいずれ死ぬ。始皇帝の死にはまったく驚かない。衝撃を受けたのは扶蘇と蒙恬の死である。
蒙恬は、秦において突出した名将である。民のしあわせを思う仁徳の将軍であり、天下人民の信望はひとしくこの将軍にあった。召平自身、かつてこの将軍のもとに従軍し、その謦咳に接したことがある。この将軍を心から尊敬していた。

長男の扶蘇が、国都の咸陽から、匈奴を防衛している北辺の蒙恬の駐屯地に移ったのは、始皇帝の死の1年前のことだ。原因は始皇帝の行なった焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)にある。すべての儒書を焼き払い、儒者460人を坑(こう・いきうめ)にした。焚書のときまでは口をつぐんでいた扶蘇は、坑儒に至って強い口調で父・始皇帝をいさめた。扶蘇は人柄がおだやかで民を思う気持ちも強く、苛酷な法家の思想を好まず、儒家の言うことが道理に合うと考えていた。

始皇帝は息子からいさめられて、はなはだ面子(めんつ)を失う。

「しばらく北方の蒙恬のところに行って修行しなおしてこい!」と、咸陽の宮殿から辺境の地に追い出してしまった。ただ、この時の始皇帝の命令は衝動的なものであり、扶蘇を抹殺する気持ちはまったくなかった。二十余人の息子たちの中で、この長男が群を抜いた人物であることは、始皇帝自身が一番よく承知していた。

ひとびとは扶蘇に同情したが、本人はむしろ喜んで北の辺境の地に向かった。蒙恬の勇敢さと優しさが大好きだったからである。

「秦はもはやこれまでである」

今までも秦の悪政を憎み、この国を滅ぼさなければ民はしあわせになれない、との気持ちを抱いていた。しかし、心のかたすみに、灯(ともしび)のようなものがかすかに残っていたのも事実である。

その灯が、扶蘇と蒙恬であった。

いずれの日か、仁徳の皇太子・扶蘇が蒙恬将軍をうしろだてとして即位し、宦官・趙高と宰相・李斯を追い払い、まっとうな政治が行われる日が来るかもしれない、との希望があった。しかし、それは今回の一件で夢と化した。


2020年6月23日火曜日

東陵の瓜(3)

そうした5月のある日のこと。

朝食にわずかに手をつけて湯をすすっている召平に、使用人の少年が声をかける。
「侯! これから菜園に芋を植えます。一緒にやりませんか。面白いですよ」
自分の健康を心配してくれているのであろう。召平の顔に久しぶりの笑みが浮かぶ。

外は快晴だ。

2日前に適度の雨が降り、農作業にはうってつけの日和だ。少年は椅子を持ってきて、こぼれ陽のさす大樹のもとに置く。一緒にやりませんかと言ったくせに、「侯は座って見ていてください」と言う。

東陵侯の館ではほかの諸侯と違い、使用人は召平にのびのびとものを言う。そうではあるが、草をむしってください、鍬で掘ってくださいとは言いずらいのであろう。素人にうろうろされては農作業のじゃまになる、と思ったのかも知れない。召平は言われるがままに椅子に座り、時おり散歩しながら数人の農作業をながめている。

半刻ほど経ったころ、
「もう少し畝を高くしたほうがいいんじゃないか」とつぶやいた。
「侯は農作業の経験があるのですか?」一人の少年が顔を輝かせる。
「若いころは百姓だったよ。お前さんたちより、ちと上手いかも知れんぞ」
「侯は何をつくるのが得意だったのですか?」

「わしの故郷は北西部の盆地だ。ここよりも寒い。麦以外では夏は茄子や瓜、秋は大根・蕪・葱(ねぎ)がよくできた。芋もつくったが、里芋は水と暑さが好きじゃから、あまり良い芋は出来なかったよ」 

本当は、いやいや父や祖父の手伝いをした程度なのだが、からかい半分で話を膨らませる。
これだけの会話で、「おい。うちの候は農事の名人らしいぞ」と使用人たちは噂をする。

午後からは鍬を持たされ、みんなの仲間に加えてもらう。今回の植え付けはもっぱら里芋だ。
この日から、天気の良い日には召平は毎日畑に出るようになる。体調も徐々に快復してきた。


そんなある日のこと。

使用人の葉浩という、最年少の少年が息を切らせて飛び込んでくる。
「侯! 侯!  大変です。 友人が殺されそうです!」
聞いてみるとこういうことだ。

葉浩の幼なじみの季布(きふ)という少年が、役人につかまり明日処刑されるという。まじめな葉浩にくらべ、季布は任侠の徒にあこがれるちょっと不良がかった少年ではある。ただ根は悪くない。心の優しい親孝行な少年だと、葉浩は言う。

20人ほどが二組に分かれて、戦争ごっこをしていた。たまたま1人の少年が足を踏み外して崖から落ちて死んだ。子の親が役人にうったえた。このような場合でも、リーダーの季布は秦の法律に照らせば死刑になる。

命乞いのため、召平は葉浩を連れて役所に急ぐ。郡守の下の県令の、そのまた2ランク下に位置する亭長(警察分所長)は、法律をたてに一歩も引かない。このような時はワイロしかない。実はこれを想定して、召平はいくばくかの黄金を懐にしのばせている。

ワイロを受け取った亭長は、「処刑は取り止め、東陵侯のもとに1年間お預けの身とする」と重々しく言い放った。こうして召平は、少年を館に連れて帰ることができた。

季布は召平に慕ってくる。「東陵侯どの! 東陵侯どの!」とじゃれるようにすり寄ってくる。命の恩人という気持ちもあるのだろうが、それだけではない。なによりも二人は気質が合うのだ。
召平は三十、季布は十六である。人間というものは気が合えば、年齢も身分も関係ないものらしい。季布は遠慮なく言いたい放題を言うのだが、召平にとってそれが心地よい。それに、この少年は驚くほど頭が良い。

やるべき仕事のない召平は、週三回、希望者をつのり数人の少年に学問を教えていた。これに加わった季布は、めきめきと頭角をあらわしてくる。人に好かれる気質らしい。統率力もある。またたく間に少年たちのリーダー格になる。

「後生畏るべしという言葉がある。将来かならず名を残す人物になろう」、召平はそう睨んだ。
1年後、季布は丁寧な礼を述べて東陵侯の館をあとにする。

「旅に出て見聞を広めます。そして千載正史に名を残す人物になりたいと思います」
真顔でそう言う季布に、召平は法外な額の餞別を与える。少年の日の自分を見るような気がしたからである。

「季布よ!」、 召平は季布の門出に際して、はなむけの言葉をかける。

「人間は八方ふさがりになり、どう動いてよいかわからぬ時がある。その時は、無茶でも何でもよい。積極果敢に打って出るのじゃ。危険を避けようと思ってはならんぞ。人が逃げれば危険のほうから押し寄せてくる。死んだ気になり、危険の真っただ中に飛び込んでいくのじゃ。運が悪ければ死ぬ。運が良ければそこから展望が開ける」

「ありがたきお言葉。肝に命じます」
そう言って深々と頭をさげた季布は、東陵侯の館をあとにした。


これ以降、召平は晴耕雨読の毎日を送ることになる。
「俺はまるで、爺さまの言われた通りの生活を送っているではないか」
召平は一人で苦笑いする。

使用人の中に瓜作り名人の中年男がいる。なぜだかわからないが、この男の作る「まくわ瓜」は肉厚で甘みが他と格段に違う。もったいぶるその男を持ち上げて、その作り方の秘訣を教わった召平は、以来10年間この広陵の館で瓜作りに没頭する。

雨の日はもっぱら書を読む。少年の頃、すでに儒(じゅ)・道(どう)・法(ほう)の基礎知識はあった。秦の将校になってからは仕事柄法家(ほうか)の書を読むことが増えたが、商鞅(しょうおう)・韓非子(かんぴし)は好きになれなかった。広陵の館では、祖父の好んだ老子と荘子を読む。この二人の書を読んでいる時だけはしあわせな気持ちになれる。

このような生活をしながら、広陵での生活は11年が経った。民のくらしぶりは年を追うごとに困窮の度を増している。


























2020年6月19日金曜日

東陵の瓜(2)

15歳で軍に身を投じたこの少年の昇進ぶりには目を見張る。

18歳で千人の兵を指揮する都尉(将校)となる。21歳で一万二千の将軍となり、大将軍・蒙恬(もうてん)に従い匈奴征伐に功を立てる。そしてわずか26歳にして、六万の将兵に号令をかける大将軍に昇った。後世の軍制度でいえば、21歳で師団長、26歳で軍司令官になったわけだ。

このスピード出世記録は、召平の100年後に生まれる漢の大将軍・霍去病(かく・きょへい)によって塗り替えられるが、それ以前には例がない。

伯父の衛青(えいせい)大将軍に従い匈奴征伐におもむく霍去病は、18歳でいきなり驃騎(ひょうき)将軍として出陣する。匈奴に連勝を重ね20歳で大将軍となったこの天才青年は、24歳の若さで病没している。

召平は天才ではない。努力と運の人である。
驚くことは、百回の戦に出陣しながらその身にかすり傷ひとつ負わなかった。稀有なことである。
後年、このことを人に問われた召平は、「人生の出来事の9割は運である。残りの1割が努力だ。自分は運が良かった」と答えている。

秦王・政(せい)が六ヵ国をたいらげ中国を統一したのは前221年、召平が27歳のときだ。翌年、28歳のとき、「東陵侯」(とうりょうこう)に任ぜられ、揚子江下流北岸の広陵(こうりょう)の地に移る。ここはかつての敵、楚の領土である。後世の地理でいうと、上海の北・南京の東に位置する。


少年の日に憧れた爵位を、28歳という若さで手に入れたのだ。
ところがまことに奇妙なことに、この時から召平の心楽しまざる毎日が始まる。

始皇帝が中国を統一して、その後秦が滅びるまでの十数年間の 「侯」 の爵位ほど、不思議な存在は中国史に例がない。それまでの「諸侯」は、土地や財産を与えられると同時に、その地域の行政権や司法権を与えられていた。ところが中国大陸を統一した始皇帝は、今まで秦の本国だけで行われてきた 「郡県制」 を全土に施行する。中央から派遣された郡守が行政・司法・軍事のすべての権をにぎり、その下に県令が置かれた。中央集権国家を目指したのである。

「侯」には、それなりの名誉と財産が与えられたが、政治的にはまったくの「お飾り」であった。

この秦の爵位は、明治維新ののち旧大名に与えられた公・侯・伯・子・男に似ている。いや、明治新政府の知恵者が、秦の爵位制度をまねたとみるのが正確かも知れない。すなわち、過去の功績に対して名誉と金は与える、ただし政治には一切関与させない。

ひろびろとした広陵の館(やかた)で、使用人たちに囲まれた召平には経済的な心配はない。同時にやるべき仕事もない。郡守や県令の仕事を傍観するだけの毎日である。中央から派遣されてくる郡守は、血も涙もない悪法の忠実な番犬であった。県令もまた同じである。

農民の苦しみは戦国時代よりはるかに増大する。租税は農民の収穫の三分の二という過酷なもので、一家が飢えようとも徹底的に税を徴収する。収めきれないと罰として土木現場に送る。始皇帝は六国を征服すると同時に、巨大な自分の陵墓をつくりはじめる。工事の着手時だけで人夫80万人を動員する。これだけではない。万里の長城・阿房宮(あぼうきゅう)・全国を結ぶ官用道路の建設に数百万人もの農民が徴用された。そして多くが病気と飢えで死んでいった。

「農民が可哀そうではないか」
「田植えの季節になる。労役を少し減らしてやったらどうか」
当初、召平は郡守や県令にそう意見した。しかし、それはまったく聞き入れられない。

何度も意見しているうちに気がついた。
「郡守も県令もたしかに悪い。しかし、中央から命じられた額の税を徴収しなければ彼らは左遷される。へたをすれば秦の法にもとつ¨いて彼ら自身が殺されるのだ。この国を亡ぼさないかぎり、民は幸せになれないのではあるまいか」

こう考えついた時、召平はいたたまれない気持ちになる。極度の自己矛盾におちいったのだ。
少年の日、功名を夢見て秦の軍に身を投じた。幸運に恵まれ、将になり侯にまで昇った。秦は中国統一をはたした。ここまでは良い。

しかし今、民は塗炭の苦しみにあえいでいる。戦国時代の農民の暮らしのほうがはるかにましだ。自分が直接手を下しているわけではないが、自分がやってきたことにより、民は不幸になっている。これは間違いない。


食も喉(のど)に通らず、夜も眠れない日々が続く。





















2020年6月16日火曜日

小説・東陵の瓜

長安郊外の家にある、樹齢800年と伝わる三本の欅の幹が金属色に光っている。

15歳の少年が、気負った旅姿でみやこ咸陽(かんよう)に向けて出発しようとしている。
「男児志を立てて郷関を出ず」の心意気を胸に秘めて。

秦王・政(せい)の14年(前233)、白梅が三分咲きの早春の朝である。

少年の名は召平(しょうへい)という。

はるか後世、唐の都として栄える長安であるが、このときは一面の田園風景だ。少年の家は豪農とはいえないまでも作男10人をかかえ、生活には何の不自由もない古い農家である。好んで秦の一兵卒に志願して、軍に身を投じる理由はどこにもない。

殷が滅亡する少し前、暴君・紂王(ちゅうおう)に愛想をつかした将軍が、この地に帰農したという伝承がこの家にある。事実かどうかは定かでない。ただ、当時のものと思われる古びた「矛(ほこ)」二つが代々家に伝わっている。三本の欅の巨木もその証かもしれない。


「大将軍になりたい」

なんの裏付けもない奇妙な自信と野望とが、この少年の胸にたぎっている。800年前の先祖の血が騒ぐのか。いや、それだけではあるまい。時代の流れが少年の心に火をつけた、というのが正確かもしれない。

現在の秦王・政(せい)の百年前の祖である、秦の孝公(こうこう)が法家(ほうか)の宰相・商鞅(しょうおう)の進言を採り、「軍功爵」(ぐんこうしゃく)という制度を定めた。手柄さへあげれば、身分に関係なくだれもが「将軍」・「侯」に昇る可能性が開けたのである。この制度こそ、政・すなわち始皇帝の代になって秦が中国統一する国力の源泉となる。げんに、召平のとなりの村から大将軍・侯へと立身出世した男が一人出ている。

母と祖父ははじめは反対だった。賛成してくれたのは父だけである。この時父親は38歳、まだ功名の血が騒ぐ年齢だ。自分が少年のとき同じ志を抱きながら、それを断念したことが、よけいに息子に夢を託したかったのかも知れない。
「うちのあんちゃんなら、きっと大将軍になるぜ」、二人の弟は無邪気に兄の成功を信じている。

出発の前夜、家族との夕食の席で父は、身体に気を付けて頑張れ、そして数万の兵を指揮する大将軍になるんだぞ、と息子を励ました。

祖父は違う。笑いながら言った。

「平、本当に行くのかえ。立身出世して大将軍になるのも良いかもしれん。しかし、それは十万人に一人だぞ。残りの多くは戦死する。それよりも、作男たちを使って畑仕事をしたらどうだ。雨が降れば書を読み、夜にはみんなで酒を飲むんじゃ。平、こっちのほうがよほど愉快だぞ」

引き留めようと思って言ったのではあるまい。己の今までの人生で得た処世訓・哲学のようなものを、可愛い孫に淡々と語っただけのことである。



















2020年6月15日月曜日

昭和万葉集(8)

ー飢餓との戦いー

〇豆かみて 書(ふみ)読みしとふいにしへ人 憶(おも)ひつつ我は芋粥(いもがゆ)を啜(すす)る
  牧野英一  明治11-昭和45  (雑炊と粥)

〇釜の底 払ひて詰めしわが昼餉(ひるげ) 妻はひとりをなに食ふならむ
  高柳金芳  明治43-  (一粒の米)

〇畑打てる 日当として得し米を 妻に見せむとひたに急げり
  土屋大吉  明治44-  (白米の飯)

〇たまさかに 白米の飯たきたれば 何の祝(いわひ)と子は問ひにけり
  藤原優  明治18-昭和50

〇たまさかに 白米食(は)めば眩(まぶ)しくて 罪にも似たるおそれありけり
  武田貞次

〇一片の レモン浮かべるレモン湯の かをりよ妻が今宵のおごり
  篠崎正夫 大正2-

〇サッカリン 千分の六を含む饅頭に お辞儀をしつつ子は頬(ほほ)ばるも
  釜田喜三郎  明治44-

ー進駐軍ー

〇黒人の 兵士と行きし一少女の 美しきことにひと日こだはる
  冷水茂太  明治44-  (進駐軍)

〇アララギを The Yew と訳し アメリカ軍司令部に届けをしぬ
  五味保義  明治34-  

ー折々の歌ー

〇あなたは 勝つものとおもつてゐましたかと 老いたる妻のさびしげにいふ
  土岐善麿  明治18-

〇たたかひに やぶれし国の秋なれや 野にも山にもなくむしのこゑ
  谷崎潤一郎  明治19-昭和40

〇戦ひに 敗れし国もあつ¨さゆみ 春としなれば千草(ちぐさ)萌(も)え出ず
  尾崎一雄  明治32-


2020年6月11日木曜日

昭和万葉集(7)

ー兵還るー

〇すり減りし 軍靴踏みしめ踏みしめて 復員船のタラップ登る
  大和田徹  大正9-(復員船上)

〇霞みつつ 紀伊の国見ゆ日本見ゆ いのちはつひに帰り来にけり
  宮地伸一 大正9- (復員船上)

〇還り来て 何をか言はむ夢にさへ 見し味噌汁のこの香りはや
  小国孝徳 大正6-  (還ってきた兵)

〇満洲より 還りし吾の頭なで まこと徳一かと母泣き給ふ
  福川徳一  大正3- (復員)

〇戦ひに 敗れて帰り来たりしに 妻は赤飯を炊きて迎ふる
  平松久雄 明治37-

〇はじめて逢ふ 七つの吾子(あこ)が面(おも)はゆさ そぶりにみせてわれにつきまとふ
  山内清平  大正3-

〇北支那に ありて書きたるわが遺書が 今日届きたり吾におくれて
  田口喜一  大正14-

〇万歳の 声に送られ出でしかど 潜戸(くぐりど)押してはひとり帰りく
  武安千春  明治35-

〇還り来し 夫(つま)のかたへに飯(いひ)を盛る かかる日恋ひて十年経(ととせへ)にけり
  中本幸子  大正3-

〇黄昏(たそがれ)の 庭にまさしく子は立てり 現身(うつしみ)生きてあな還りきつ
  西川定子  明治37-昭和43  (わが子を迎える)

〇わが子帰る 生けるわが子に見入りつつ ただに喜ぶわれとわが妻
  佐藤堅司 明治25-昭和39

〇戦友(とも)あまたを 人間魚雷に死なしめて 帰る吾児(あこ)は多く語らず
  菅原俊治  

〇シベリアの 奥地に夢見し吾が妻を 還りてみれば弟の妻
  鱒元登美数



 


2020年6月5日金曜日

昭和万葉集(6)

ーはるかなる祖国ー

〇監視兵(エスコー)の 監視をさけてビルマ人 煙草の箱を落としくれたり
  守住徳太郎  明治41-  (ビルマ収容所)

〇波の上に 復員船の船体が 美しく見ゆ映画のごとく
  前田秀 大正3-  (チモール島)

〇一椀の 粥(かゆ)すすり終えおずおずと 代わりを求む瘦(や)せ瘦(や)せし兵よ
  藤原立子 大正15-  (従軍看護婦)

〇執行の 明日に迫れる弘田大尉 明るく語る落語一席

〇ひとくさり 語る落語に死刑囚皆笑ひ 減刑者身を震ひ泣く

〇友の房へ 「ひと足お先に」と礼しゆく さながら再び会はむが如く
  並河 津 明治40-  (戦犯 シンガポール・チャンギー)

〇満ちかけて 晴れと曇りに変われども 永久に冴え澄(さ)む大空の月
  山下奉文  明治18-昭和21 (戦犯 マニラ)

〇先頭に レーニン・スターリン像を掲げ持ち 感謝の笑(ゑ)まひ作りつつ出つ¨
  高橋房男  明治42-  (ソ連)

〇水筒の 水の音さへかしましと 皆捨てさせて国境を行く
  殻山松栄  明治40- (満洲から)

〇一昼夜に 十五里あまりあゆみけり 六歳の子も七歳の子も
  藤川素生  (満洲から)

〇幾組の 柩(ひつぎ)より乗船始まりて 敗れし国に帰らむとす
  首藤学郎 大正12- (引揚船)

〇今発たん 引揚船のドラの音 大連港にひびきわたれり
  岡村千代恵 明治44-

〇降り立てば 博多は雨に煙(けぶ)りゐぬ 生きて日本の雨に合ひたり
  児玉淑  大正11-

〇黒髪を かりあげし細きうなじもて 還(かへ)り来し従妹(いとこ)の多く語らず
  太田麻子  (引揚者)

〇児の骨壺 抱き来し我を羨(うらや)みぬ 遺骨かへらぬ戦死者の親
  寺田栄子  大正3-

〇牡丹江(ぼたんこう)の 河に棄(す)てたる幼な子の 溺(おぼ)るるさまを君泣きていふ
  中川尚志  大正14-







 

2020年6月4日木曜日

昭和万葉集(5)

ー戦争終結ー

〇聖断は くだりたまひてかしこくも 畏(かしこ)くもあるか涙しながる
  斎藤茂吉  明治15-昭和28

〇父母の 泣けば幼き子等までが ラジオの前に声あげて泣く
  高見楢吉 明治33-昭和40

〇立ちかへる み国の春を疑はず 七夜を泣きて心定まる
  四賀光子 明治18-昭和51

〇大君の のらす御詞(みこと)に胸せまり 声立てて誰も誰も泣きやまず
  下村海南 明治8-昭和32 (最後の御前会議)

〇身はいかに なるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて
  御製 (天皇 御名 裕仁) 明治34-

〇大君の 深き恵みにあみし身は 言ひ遺すべき片言もなし
  阿南惟幾  明治20-昭和20

ー皇軍解体ー

〇かくも広く 戦ひ得しは世界史になしと 黄女史なぐさむる気か
  橋本徳壽  明治27-  (台湾)

〇南無帰依仏 救ひ給へと子を抱きて ソ連兵の持つ燈(あかり)の中に
  佐竹安子 明治44- (満洲)

〇命かけ 守るべき受話器ふき浄め 今は渡さむ国敗れたり
  鈴木政子  昭和2- (朝鮮)

ー無言の帰還ー

〇帰り来ぬ 人と思へど復員の 似たる姿に心ときめく
  小須田房子 大正15- (恋人を偲ぶ)

〇戦ひに はてしわが子と対(むか)ひ居し 夢さめて後(のち)身じろぎもせず
  釈迢空  明治20-昭和28  (子を憶う)

〇兄死せる 知らせは聞けど帰る日を 待ちゐる母に伝え難(がた)しも
  光橋英子  (兄の死)

ー還りを待つー

〇復員の 噂(うわさ)聞きたり真夜中の 小さき音にも胸とどろかす
  津金美佐子 大正10- (夫を待つ)

〇船ひとつ おくれて還ると言ひしとぞ 子の伝言を人の来て告ぐ
  稲垣浩 明治30-昭和53 (父・母の思い)

〇俘虜(ふりょ)葉書 僅か三十字(みそじ)のカナ文字に 愛(かな)しや夫の癖の見えたる
  中村敏子 大正1- (俘虜郵便)

〇俘虜の身の 兄が文(ふみ)あはれ サムサニモマケズゲンキとかな文字の文
  太田幸三  大正13- (俘虜郵便)

〇五人(いつたり)の 兵を出せる農家あり 五人の兵いまだ帰らず
  横尾健三郎 明治40-昭和51  (未復員兵)






2020年6月1日月曜日

昭和万葉集(4)

ーアメリカ強制収容所ー

〇いくたびか 香をなつかしむ遠く来し 慰問の醤油の瓶とり出でて
  富田ゆかり (強制キャンプ)

〇聞くさへや わが胸いたむ米機五百 故郷襲ふとけふのニュースは
  内田静 (強制キャンプ)

ー連合軍の反攻ー

〇一線は 全滅せりと喚(おら)びつつ 熱に狂ひし若き隊長
 田中富雄 大正3- (ビルマの戦場)

〇腹一杯 安倍川を食ひたいと言いし戦友(とも)を 遮放(しゃほう)の山に埋めて来にけり
  渡辺勇  大正5-

〇アッツ島の 兵みな死すとしばらくは 草鞋(わらじ)も解かず身じろぎもせず
  片桐勘蔵  明治37-昭和47

〇吾が頭を 撃つべき拳銃を磨きゐる ジャングルは又雨期に入るなり
  小国孝徳 大正6- (南方にて)

〇餓死したる 友の袋に一合の 米包まれてありたるあはれ
  森 誓夫 明治44- (南方にて)

〇くもりなき をみなのいのち黒髪を 梳(くしけつ¨)るなり死すべきまへに
  加藤木久子  明治43- (サイパン島)

〇大君の 御楯(みたて)となりて吾はいま 翼休めん靖国の森
  田熊克省 大正8-昭和20 (神風特別攻撃隊 法政大学)

〇國民(くにたみ)の 安きを祈り吾は征く 敵艦隊の真っただ中に
 森 茂士 大正14-昭和20  (神雷部隊第七建武隊・桜花隊)

〇国の為 重きつとめを果たし得で 矢弾尽(やだまつ)き果て散るぞ悲しき
  栗林忠道  明治24-昭和20 (硫黄島)

〇硫黄噴(ふ)く 島の岬にたちぬれて 皇国(みくに)の栄(さかえ)けふも祈りぬ
  作者未詳  (硫黄島)

〇秋をまたで 枯れゆく島の青草は 皇国の春に蘇(よみが)へらなむ
  牛島満  明治20-昭和20  (沖縄)

ー愛と死ー

〇かにかくに あきらめかねつ愛(めぐ)し子の 在りし日の想出(おもひで)になみだ流るる
  石坂泰三  明治19-昭和50

〇配給の わずかな食糧(かて)を背負ひ来る 母は季節の花も忘れず
  太田幸子