2021年2月22日月曜日

トルーマンとバーンズの陰謀(2)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(14)

バーンズが正式にトルーマン政権の国務長官に就任するのは、ポツダムに向かってアメリカを発つ直前の45年7月3日である。しかし、トルーマンは大統領になったその瞬間から、この2歳年上の政界の実力者にすべてを頼りきりだった。バーンズはトルーマンの政治の師匠だった、と言っても過言ではない。

じつは、44年11月のルーズベルト四選の前、副大統領候補としてこのバーンズの名前も挙がっていた。しかし、ルーズベルトは個性の強すぎるこの男を見送った。バーンズは、もしかしたら大統領になっていたかもしれない大物政治家なのである。

45年2月のヤルタ会談にルーズベルトに同行したバーンズは、これを最後に政界を引退した。そして故郷のサウスカロライナに寂しく隠居する。

二人の出会いはこうだ。51歳の遅咲きで上院議員に初当選したトルーマンは、ミズーリの田舎からワシントンに出てくる。知人はいなく、ハーバードなど東部の一流大学を卒業したエリートには相手にされない。その時、高卒の彼を親切に指導してくれたのがバーンズだった。年齢は2歳だけ上だが、この時バーンズはすでに議員歴14年の民主党の実力者であった。二人は気が合ったらしい。母子家庭に育ち、高校中退の学歴で上院議員になったバーンズにすれば、トルーマンは弟のように思えたのかも知れない。これ以降、トルーマンはバーンズに頭があがらなくなる。

そのトルーマンが、よもやの大統領になった。兄貴分のバーンズが喜んでしゃしゃり出てきたのは当然であろう。バーンズの自己顕示欲だけではなかったかもしれない。可愛い弟分が大統領になったのだ。助けてやらなくてはいけない、との純粋な義侠心もあったかと思う。

いずれにせよ、トルーマンが大統領になった瞬間、二人はお互いを利用しあおうと思ったに違いない。一度引退したバーンズは、やる気満々で再びワシントンに登場した。

このバーンズは、原爆使用に関しては、アメリカの政治家・軍人のなかで飛び切りの強硬論者であった。彼は日本人を虫けらほどにしか思っていない。これは、日本人にとって不幸なことであった。バーンズはトルーマンに次のように説いた。

「いままでは原爆の開発を秘密のうちに進めることができた。しかし、戦争が終わってしまえば、原爆製造の予算20億ドル(現在の300億ドル程度?)は議会の承認が必要となる。ニューメキシコの砂漠での実験だけでは不十分だ。議員たちに ”本物の実験” を見せなければ、彼らを味方につけることはできない。敵である日本にも、そして現在は味方だが近い将来敵になるであろうソ連にも、この大量破壊兵器の恐ろしさをしっかり教えこむには、”本物の実験“ がどうしても必要である」

トルーマンはこの話に納得する。そして次のように考える。

「この途方もない力を持った ”アラジンの魔法のランプ” をまもなく自分は手に入れることができる。この ”魔法のランプ” から巨人を出して見せれば、自分を見下していた政治家・軍人・新聞記者たちを見返してやることができる。彼らの尊敬を集めることができる」

その後二人はピッタリと心を合わせ、グル-以下の国務省の役人だけでなく、政治家や陸海軍の首脳たちをけむにまき、また時にはバーンズの剛腕で押し切り、原爆投下に向けて邁進するのである。


アメリカにおける原爆投下の強硬な推進者は、じつは陸軍・海軍の軍人ではなく、文官である民主党の大統領・トルーマンと、45年7月3日に国務長官になったバーンズの二人である。

もちろん陸軍長官も参謀総長も、最終的にはこれに同意する。しかし、それはトルーマンとバーンズに押し切られてのことであり、陸軍長官・スティムソンと参謀総長・マーシャルが積極的に原爆投下を主導した形跡は見えない。このことをはっきりと認識しておく必要がある。


バーンズ





2021年2月15日月曜日

トルーマンとバーンズの陰謀(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(13)

ルーズベルトは、多少の譲歩をしてでも、一日でも早く日本を降伏させようとしてグルーを起用した。ところが新大統領になったトルーマンは、二発の原爆を日本に投下するまでは日本を降伏させるな、との方針に変えた。

バーンズの影響がとても大きい。これを実行するため、二人は徹底した秘密保持をはかり、入念な小細工をほどこす。

ハリー・トルーマンは小物の政治家だ。多くのアメリカ国民・政治家・軍人はそう思っていた。彼自身、自分が小物と見られているという不安と劣等感をつねに持っていた。トルーマンの経歴はこうだ。

ミズーリ州の田舎町の雑貨屋の息子に生まれた。父の店が倒産したので大学には行けなかった。高校を卒業して銀行で下働きをして、ほどなく父のやる農業を手伝った。第一次大戦では、試験を受けて州軍の陸軍大尉として欧州戦線に参戦した。このような経歴で大尉になったのだから、努力家で、それなりの才能があったのであろう。現在だと、「下から這いあがった土の匂いがする大統領」と好意的に見られたかもしれない。

しかし、4歳年長のダグラス・マッカーサーが、大佐・師団参謀長として第一次大戦に出征し、まもなく少将・旅団長、その後師団長へと昇進したのにくらべると、月とスッポンである。ウエストポイント首席卒業のマッカーサーからみれば、「そんなやついたかなあ?」程度の認識だったと思う。

ミズーリ州選出の上院議員であったトルーマンは、45年1月のルーズベルト四選のとき、まぐれ当たりのかっこうで副大統領になった。そしてルーズベルトの急死により、まさかの大統領になってしまった。


原子爆弾の開発は、当然ながら国家の最高機密である。主導したのは陸軍だ。41年10月、原爆の開発が決定した時、この秘密を知る人は6人メンバーと呼ばれた。ルーズベルト大統領・ウォーレス副大統領・スティムソン陸軍長官・マーシャル参謀総長・ブッシュ博士(MIT工学部長→科学技術開発局長)・コリント博士(MIT教授)の6人である。海軍は加わっていない。

軍需物資の戦時動員局長だったバーンズが、職務上これを知ったのはかなり早く、43年である。統合参謀本部議長の海軍元帥・レーヒーが知ったのは44年9月だ。ドイツが降伏した45年5月7日に、陸軍長官・スティムソンは、海軍長官・フォレスタルと国務次官・グルーにこの原爆の秘密を明かした。

ワシントンがこのような状態だから、現場の太平洋方面の陸軍元帥・マッカーサーも、海軍大将・ニミッツも、また大西洋方面の陸軍大将・アイゼンハワーも、45年5月においては原爆のことは知らされていない。彼らがこのことを知るのは6月以降である。

じつは、副大統領だったトルーマンも、原爆のことは聞かされていなかった。それどころか、1月に副大統領に就任して4月にルーズベルトが急死するまでに、トルーマンがルーズベルトと二人だけで面談したのは二回にすぎない。ということは、政治・軍事・外交の重要問題については、トルーマンはまったく蚊帳の外に置かれていたのだ。原爆のことは、大統領になって陸軍長官のスティムソンから聞いた。


トルーマン






2021年2月8日月曜日

一号作戦とは何か?

 昭和天皇と鈴木貫太郎(12)

一号作戦は大陸打通(たいりくだつう)作戦ともいわれ、昭和19年4月から20年1月にかけておこなわれた。支那派遣軍の半分の51万人を使っての、蒋介石の国民政府軍への大攻勢である。参謀本部作戦課長の服部卓四郎が主導した。

中国大陸を南北に走る2500キロの鉄道とその沿線を制圧する。そうすれば、日本の商船隊が沈められても、インドシナから上海や天津を経由して、長い鉄路とわずかの海路で南方の資源と兵員を日本に運ぶことができる。いま一つは、この鉄道沿線にあるアメリカ軍のB29航空基地を占領・破壊し、対日空襲を阻止できる。服部はこう主張した。

だが、この野心的で壮大な二つの目標が充分にかなえられるとは、服部を含む参謀本部は思っていない。勝ち戦(いくさ)を新聞で伝え、国民の士気を維持したいというのが、参謀本部の本心であった。

この一号作戦について語る人々は、現在まで、だれもがこれを非難してきた。無謀で愚劣な作戦だ、やみくもに断行された意味のない戦いだった、とずっと批判してきた。

ところが、この一号作戦はいくつもの要因が重なり、蒋介石と国民党政府の威信を突き崩し、その力を大きく削いでしまった。すなわち、延安の毛沢東の力を強大なものにさせた。なぜなのか?


日本側はこの作戦のため、内蒙古・山西・山東・河北などの中国北部の兵力を大きく引き抜いた。この結果、延安にある毛沢東の軍隊と工作隊は、中国北部で大手を振って活動するようになった。村々の住民を宣伝教化し、国民党政府の組織をかたっぱしから潰していき、共産党の支配地域を拡大したのである。

日本軍の攻撃の矢面に立ったのは100万人の国民党軍である。50万人以上を失った。日本軍の戦死・戦病死は10万人である。両者の戦力の差はこのくらいはある、と思っていたアメリカはこれには驚かなかった。ただ次の事実は、重慶にいるアメリカの高級軍人・外交官・新聞記者たちを唖然とさせるに充分だった。

戦いは44年4月に河南省ではじまった。5月、そこを守っていた5万人の国民党軍が、日本軍に攻撃される直前に、農民に武装解除され四散するという異常な出来事がおきたのだ。重税に怒っていた農民は、国民党政府を敵と思っていた。勇敢に戦った国民党軍もいたが、なかには将軍が家財を貨車に積み込みまっさきに逃げ出し、つつ”いて将校たちが逃げ出すという戦場もあった。

中国にいるアメリカの軍人・外交官・新聞記者は、口をそろえて国民党を非難した。蒋介石の反対など構うことではない。アメリカは毛沢東の共産軍に武器を与えるべきだ、と彼らは主張しはじめた。

蒋介石を支援するために重慶に派遣されていた米陸軍大将・ジョゼフ・スティルウィルは、この一号作戦がはじまる半年前に、「次に日本軍による大規模攻撃があれば、蒋介石の国民党軍は倒壊する」と、ルーズベルトに警告していた。その予言通りになってきたのだ。

このような背景のなかで、蒋介石はアメリカに対して少しばかり妥協した。今までアメリカ側から要請があったが断わり続けていた、アメリカ軍人と新聞記者の一隊が視察のため毛沢東の延安に行くのを許すことにした。ところが、延安地域を訪問したアメリカの記者たちが、共産党の指導者と兵士たちを褒めたたえたことから、蒋介石の国民党政府の権威はさらに下落することになった。


ルーズベルトは、日本との戦争が長引けば毛沢東はますます勢力を拡大すると考えた。日本が降伏したあとまもなく、中国では内戦が起こり、国民党政府は崩壊するかもしれない。そうなれば、デラノ家が経営するラッセル商会の中国利権などふっとんでしまう。いや、ルーズベルトは、そんな小さな個人的利益だけで判断したのではあるまい。アメリカ合衆国の利益に反すことになる、と強い危機感を抱いたのである。

このような状況のなかで、ルーズベルトは日本との戦争の終結を急いだ。その結果、ホーンベックの更迭、グルーの登場となったのである。

このルーズベルトの予感は的中するのだが、その結果を見ないで、彼は45年4月12日に急死した。そのあと、多くのアメリカ人が小物の政治家と軽視していたハリー・トルーマンが大統領に就任するのである。





2021年2月1日月曜日

ルーズベルトとグルー

昭和天皇と鈴木貫太郎(11)

民主党の大統領、フランクリン・D・ルーズベルトは中国好きで日本嫌いだった。彼にかぎらずアメリカの民主党政権の多くはそうであった。現在でもこの傾向は感じられる。ちなみに日露戦争当時、日本に好意的に動いてくれたセオルド・ルーズベルトはフランクリンの親戚だが、この人は共和党選出の大統領である。

フランクリンが中国好きになったのは、母親が富豪デラノ家の娘だった ことに理由がある。デラノ家は、中国貿易で成功したラッセル商会の最初の六人の共同経営者の一員である。

英ジャーディン・マディソン商会と同じく、1830年代から広州・香港をベースに、トルコ・インド産アヘンを中国に売って巨富を得ていた。彼のミドルネームの「D」はデラノ家の「D」である。このようなわけで、フランクリンは幼い頃から、母の兄弟がおみやげで持ち帰る中国製の玩具や絵画・工芸品にかこまれて育った。中国に強い親しみを持っていた彼が、日本の軍事的な中国進出を中国いじめと感じたのは、無理からぬことである。

43年1月のチャーチルとのカサブランカ会談では、「日本に対して無条件降伏を要求する」と説き、「条件付き講和が現実的」と考えていたチャーチルを白けさせている。その年の11月、蒋介石を含めたカイロ会談では、日本に対してさらに苛酷な内容の宣言を主張した。

ところが、44年5月、ワシントンの国務省でおかしなことがおきた。

その年の1月に新設された極東問題局長に就任したばかりのホーンベックが更迭され、グルーが後任になったのだ。ホーンベックは国務省きっての中国びいき日本嫌いであり、ルーズベルトとはそこが一致していた。かたやグルーは、自他とも認める親日派である。

この時65歳のジョゼフ・グルーの経歴はこうである。異例の10年におよぶ東京での駐日大使をつとめ、42年の交換船で帰国していた。ボストンの名門家庭に生まれた彼は、全寮制のグルトン校に学び、ハーバード大学に進んだ。ルーズベルトは両校でグルーの2年後輩になる。もっとも二人が学生時代に深い交流があったという形跡はない。いま一つ、グルーとルーズベルトには接点がある。グルーの父の兄は、ラッセル商会の共同経営者であったことだ。

極東問題局長になったグルーは、東京の大使館時代の部下たちで周辺をかためる。参事官だったドーマンを特別補佐官に、一等書記官だったオーヴァを日本課長に任命する。ドーマンは宣教師の息子として大阪に生まれた。東京の暁星中学に学んだドーマンは、日本語を母国語として話す。彼は東京の大使館時代には、本物の歌舞伎役者を大使館に招き、同好のアメリカ人に着物を着させて歌舞伎の稽古をしていたほどの日本通である。

この年の12月、グルーは国務次官に就任する。20年前に一度やっているので二度目になる。国務省は東京のアメリカ大使館に占領された、と軽口をたたくアメリカ人もいた。

中立国経由でこのニュースを聞いた外務省・陸海軍・宮廷の高官たちは、だれもが首をかしげた。首をかしげながらも、親日派のグルーの登場に期待を寄せた。

実はグルーは、大使として日本に赴任する以前から日本の文化・歴史に造詣があった。理由は、夫人のアリスの曽祖父(オリバー・ペリー)の弟が、幕末に日本に開国を迫ったあのマシュー・ペリー提督だったからだ。かつ、アリスの父は明治30年代に三年間、慶應義塾で英文学を教えたので、母も本人も東京で生活して、アリスは日本語が出来た。昭和7年、グルーが大使として信任状を提出したあとのお茶会で、このことを聞いた昭和天皇がとても喜ばれたという話が残っている。


当然ながら、このような重要人事はルーズベルトの指示があってのことだ。じつは、ルーズベルトは考えを変えたのだ。いくばくかの譲歩をしてでも、日本との戦争を早く終わらせるほうが、アメリカにとって得策だと判断したのである。なぜ彼はそう考えたのか。

このことについてはっきりと触れた歴史家は、不思議なことに、アメリカにも日本にもほとんどいない。これについてはっきりと述べたのは、鳥居民先生一人ではあるまいか。

ルーズベルトの考えを一変させたのは、支那派遣軍が昭和19年4月から20年1月にかけておこなった「一号作戦」にある、と鳥居先生はおっしゃる。

今までだれも語らなかった、この「一号作戦」について語りたい。

フランクリン・D・ルーズベルト