2019年9月30日月曜日

爵(しゃく)

公(こう)・候(こう)・伯(はく)の等級は、殷(前1600-前1028)の時代にはすでにあったらしい。周の時代になり、これに子(し)・男(だん)が加わる。爵の等級のことである。

爵とは酒器のことで、玉(ぎょく)製がもっとも尊く、次いで金・銀・銅製や動物の角(つの)製があった。王が諸侯の功績や身分に応じて、それぞれの爵を与えた。爵と封土を与えられたこれらの諸侯は、そのみかえりとして王や皇帝に対して、貢納(こうのう)と軍事奉仕の義務を負う。

約2000年間続いたこの行政システムは、唐の時代になって変化する。爵位の名称は残るが、
行政の権力からは離れていく。

隋の文帝(在位581-604)によって開始された科挙制度が、唐の時代に入りうまく機能をはじめたからである。かつての世襲の諸侯ではなく、学科試験に合格した人材を、中央と同時に各地方長官に任命するようになる。短命ではあったが、隋という王朝は革命的な行政改革をなした王朝といえる。


後漢の光武帝(在位25-57)が北九州にあった奴国(なのくに)の支配者に、「漢委奴国王印・かんのわのなのこくおうのいん」の金印を与えたのは西暦57年のことだ。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が、魏の皇帝から「親魏倭王・しんぎわおう」の金印を受けたのは、西暦239年である。

中国の皇帝から王の印綬をもらったものの、倭の王さまが臣下に爵位を与えてこの国を統治した形跡はまったく見えない。漢字が渡来系のごく一部の人しか理解できなかったのだから、当然かもしれない。

遣隋使、その後遣唐使を送り、大和朝廷は一気に隋・唐の律令制度を導入して、国の行政制度を確立する。科挙制度を導入しようとした形跡を、「続日本紀」の中にわずかに見ることができるが、結局定着していない。機が熟してなかったからであろう。

宦官(かんがん)と纏足(てんそく)には見向きもしていない。日本列島に住む我々の先祖の中に流れていた「南方の血」が、本能的にこれを拒否したのであろう。その健康な精神を誇りに思う。

中国と陸続きであった朝鮮半島の国々は、国家統一の前に古代中国の影響を過度に受けすぎた。フィリピンは絶海の孤島であったため、仏教・儒教・律令制度にまったく触れないまま、16世紀にスペインの植民地になった。これらを考えれば、日本列島が朝鮮半島から適度な距離の海中にあったという地理的事実は、すこぶる幸運なことであった。


光武帝から金印を与えられた1800年のち、日本の為政者は突然、この公・候・伯・子・男なる「爵位」というものに注目する。明治17年(1884)の華族令の制定である。

明治新政府の中に知恵者がいたのであろう。
近衛家を筆頭とする1000家の華族をつくることにより、皇室の側近である公家のプライドをくすぐり、廃藩置県で封土を失った旧大名をなだめ、維新の元勲をいい気分にさせ、さらに次の世代の若者たちにも「功があれば爵位がもらえる」とやる気を持たせた、不思議な制度であった。

これらの人々には名誉と金が与えられたが、権力は与えられなかった。その意味で、日本の爵位は「秦の軍功爵」に似ている。爵位を与える時、酒器の爵(杯)は与えられていない。明治政府の知恵者はこのことを忘れたのであろう。

余談だが、日本の為政者はこの明治期になって、はじめて科挙制度を導入している。高等文官試験制度である。

明治17年から太平洋戦争の敗戦までの60余年間に、国庫から支払われた華族への給付金は莫大な金額であった。ざっくりではあるが、それぞれの年の国家予算の1%弱がこれに充てられたと考えられる。60年分を合計すると国家予算の半年分である。

西南戦争では、時の国家予算の半分を戦費として使った。あのたぐいの内乱がさらにいくつか起きる可能性を未然に防ぎ、明治という国家を気分良くまとめることが出来たことを考えれば、この制度は十分に「もと」がとれた気がする。

そして、近代教育を受けた日本国民の多くが、この制度に疑問・不自然さ・反発を感じてきたころ、この制度は外部要因によって突如廃止された。昭和22年5月のことである。


西欧においても、この公・候・伯・子・男の爵位の制度があった。今なお残っている国もある。
英・独・仏語のそれぞれに、これらを意味する言葉がある。我々日本人には西欧の小説の中によく出てくるバロン(男爵・Baron)という言葉に馴染みがある。西欧人は、この制度は西欧で独自に発生したものだと思っているらしい。

英語で公爵のことをDukeという(Princeともいう)。古代ローマの将軍ドウクス(Dux)が語源とされているが、古代ローマといえども殷から見たらはるか後世である。この爵位という制度は、ラクダに乗ってシルクロードを通って、東から西へ入ったと考えるのが自然な気がする。




















2019年9月20日金曜日

札幌から来たヘッドハンター(3)

長州藩士の堀誠太郎は、明治元年に東京に出てきて、森有礼の書生になり、英語の勉強をしていた。ここでまた、高橋是清の名前が登場する。

高橋は当時16・7歳の少年だったが、すでに幕末にアメリカでの生活経験があり、森家の書生の中では一番英語が出来た。森は一番年少の高橋一人に英学を教え、高橋が他の数名の年長の書生に教えるというシステムになっていた。

明治3年、24歳の森有礼は抜擢され、アメリカ駐在小弁務使(実質的な公使)として赴任することが決まる。書生たちは皆、森にアメリカに連れて行ってもらいたいと思っていた。

本来なら、一番出来の良い高橋が行くのが妥当なのだが、「堀さんは年齢がいっているので、(森より2歳年上の26歳)この機会を逃すと可哀そうだ」と言って、高橋は自分は辞退して、もう一人の友人の矢田部良吉(コーネル大学卒・東大教授)と堀誠太郎の2人を森に推薦する。この2人は森に同行してアメリカに渡った。高橋是清という人は、ケタ外れの好人物であった。そして、この多くの人々への好意と親切が、後年、高橋自身の身にはね返ってくる。

堀はマサチューセッツ農科大学でクラーク博士のもとで学位を取り、クラークが札幌農学校教頭に決まったので、通訳兼農学校職員という肩書で札幌に赴任する。

クラーク博士が札幌を去る時の有名な絵が残っている。ニ頭の馬に乗った右側がクラークで、見送りの学生たちを振り向いて、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言った。この時、左側の馬に乗っているのが堀誠太郎である。

それから2・3年して、この人は札幌農学校を辞めて、東京大学の植物学の教授に転職しているのが面白い。この堀誠太郎の長男も、後日、一高・東大の教授になり、一高同窓会報で次のように語っている。

「札幌農学校に父が務めていた頃は、顔を洗っていると鮭(さけ)や鱒(ます)がやって来たという野蛮な時代でしたので、学生はあまりやって来なかったらしいです。それで父は学生募集によく上京して、予備門の生徒に旨いこと言って引張っていったそうです。学士院会員の宮部金吾先生も、君のお父さんの口の旨いのに皆ひっかかって連れていかれたものだ、と話しておられました」

この長男の証言によれば、堀が第二期学生募集のため、東京大学予備門で演説した時、その時の予備門の校長・服部一三は、長州出身でしかも堀の親戚筋にあたる人だったという。
開拓使と文部省との表向きの喧嘩の裏では、このような人間関係があったらしい。

ウイリアム・クラークという人は、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言っただけあって、冒険心に富み英雄的行為を好む人だった。南北戦争の時は、北軍の義勇連隊に少佐で身を投じ、英雄的な奮戦をして大佐にまで昇進している。

月給600円で札幌農学校に来た。当時の日本人の給料の最高額は、太政大臣・三条実美の800円である。陸軍大将・西郷隆盛が600円だから、開拓使長官・陸軍中将の黒田清隆よりもクラークのほうが高かった。ちなみに、お雇い外国人の筆頭のフルベッキ・開成学校教頭は600円(明治2年)、フェノロサ・東京大学教師は300円(明治11年)である。

開拓使はクラーク博士を2年間の契約で雇いたかった。これに対して本人は、「2年分の仕事を1年間でやってみせるから、1年で2年分の給料1万4千400円をください」と言ったらしい。かなり山っ気のある人だったようだ。

事実、クラークが札幌に到着したのは明治9年7月31日で、堀誠太郎と共に馬で札幌の地を後にしたのは明治10年4月16日である。札幌滞在は8ヶ月半にすぎない。この短い期間で、学生たちにあれほどの影響を与えたのだから、ただならぬ教育者であったのは間違いない。

気になって、開拓使がクラークに2年分の給料を払ったのかどうか、調べてみたのだがよく分らなかった。


注:この文章を纏めるにおいて、「大志の系譜・一高と札幌農学校」 著・馬場宏明を参考にさせていただいた。










2019年9月4日水曜日

札幌から来たヘッドハンター(2)

黒田清隆はこの男・堀誠太郎に、「なんとしてでも生徒を集めろ。開拓使には金がある。金にものを言わせてでも生徒を獲得せよ」と命じた。

当時の開拓使の予算は国家予算の1割に近く、陸軍省・海軍省よりも多かった。新政府はただならぬ決意で、ロシアの北海道侵入を防ごうとしていたのである。

相手は陸軍中将兼参議である。反論はしなかったが、「何を言うか!人は金だけでは動かぬ。ましてサムライの子は」と堀は腹の中で笑った。この時、黒田37歳・堀32歳である。

黒田が薩摩武士、西郷隆盛・大久保利通の直系の子分なら、堀は長州男児だ。久坂玄瑞と供に京都御所に突入した「禁門の変」の生き残りだ。その後、長州藩の海軍に入っているから、いわば久坂玄瑞・高杉晋作の子分にあたる。ただ者ではない。
予備門の生徒たちから見ても、ボルテージ(voltage)の高い魅力あふれる硬骨漢であった。

堀はまず、ロシアが北海道に手を伸ばそうとしていることへの危機感を煽った。このままでは日本国は危うい。屯田兵だけでは北海道は守りきれない。頭脳明晰な「憂国の志士」が欲しい。
農業・漁業・林業を含めて殖産興業を大いに起こし、北海道を豊かな土地に変えて日本人の人口を増やさねばならない。諸君は「屍(しかばね)を北辺にさらす」との気概を持って札幌に来てほしい。こう説いて、少年たちの冒険心・義侠心に火をつけた。

そのあとで、実利を説いた。

札幌農学校は農業の専門学校ではない。4年制の単科大学である。英文では、「Sapporo Agricultural College」という。卒業すれば農学士の学位を与える。その後開拓使が高給(月30円)で採用し、成績優秀者はアメリカの一流大学に官費で留学させる。(この月給30円は、明治13年の東京大学卒業者の初任給18円に比べると破格である)

札幌農学校の官費制度が魅力に富むことは、前年の先輩たちから聞いて、生徒たちは皆知っていた。すなわち、宿舎・食費・衣服・履物・寝具・学用品・日用品・そして小遣銭に至るまで、すべてを学校が負担した。金額でいうと1人月13円になる。もちろん授業料は無料である。

明治10年代初め、東京大学の給費性への支給月学は5円であり、巡査や小学校教員の初任給は5円前後であった。

この堀誠太郎の1時間の演説で、内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾など11名の少年は北海道に渡った。









札幌から来たヘッドハンター

札幌農学校が開校したのは、明治9年8月14日である。クラーク博士を含む3名の教授をマサチューセッツ農科大学から招聘した。

1期生の定員は24名だったが、英語のできる生徒が少なく、定員に満たない恐れが出てきた。
あわてた北海道開拓使は、文部省に頼み込んで東京英語学校の生徒10名を譲ってもらう。

文部省や東京英語学校にしては不愉快な話である。英語学校を翌年に東京大学予備門に昇格させ、近々開校予定の東京大学に進ませるために、生徒の英語教育に全力を注いでいたからである。

文部省が押し切られたのは、開拓使長官・黒田清隆が豪腕であったことに加え、この時文部大臣・木戸孝允が病気で退任しており、大臣不在で文部省側に実力者がいなかったからだ。

1年後、生徒不足はまたしてもおこり、事態は昨年より深刻だった。開拓使は再び文部省に、英語学校(この時は東京大学予備門)の生徒20名を譲って欲しいと、文書をもって要請する。これに対して文部省は、「札幌農学校へ転学を願う者これ無きなり」と完全な拒否回答をする。

この年から東京大学が開校しており、予備門の一定レベル以上の生徒全員が東京大学に入学できる。「いいかげんにしてくれ!」と文部省が怒ったのは無理からぬことだ。

しかし、学生がいなければ札幌農学校は廃校になる。この時、開拓使長官・黒田清隆の意を受けた1人の壮士が、昼休み中の予備門の教室に乗り込んできて、熱烈な演説を行なった。


その時の生徒で、この演説を聞いてすぐに退学して北海道に渡った宮部金吾(ハーバード留学・北大教授・文化勲章)は、後日次のように述べている。

「明治10年6月14日、東京大学予備門の1級に在学中、開拓使の官使でクラーク氏の通弁を務めておった堀誠太郎という人が学校に来て、1級と2級の生徒なら無試験で札幌農学校に入学を許可する故応募せよと、1時間にわたって面白い演説をした。大いに心を動かされ、意を決して僕とともに札幌農学校に来たのは11名。その中には内村(鑑三)・新渡戸(稲造・旧姓太田)・岩崎(行親)・藤田(九三郎)・足立(元太郎)などがいた」

いかに明治の初期とはいえ、ずいぶん乱暴な話である。一つの国立学校の職員が、自校の学生を確保するために、昼間に他の国立学校に乗り込んで集団退学を促し、ごっそり引き抜いたのである。しかも、これら予備門の生徒は、新設したばかりの最高学府・東京大学に進学できた優秀な生徒ばかりであった。

それを捨てて、11名の若者は未開の地・蝦夷が島に渡った。不思議な話である。












2019年9月2日月曜日

東京湾クルージング(2)

風光明媚な土地ではあるが、こんな辺鄙な漁村に生まれた少年が、「見返り美人図」のような上品な美人画を描いたのが不思議な気がする。気になって、東京に戻り少し調べてみた。なるほどそうであったのか、、、と思った。

師宣の祖父は藤原七右衛門といい、代々京都に住んでいた。師宣はあの藤原氏の一族なのだ。父の藤原吉左衛門がこの地に移住して菱川氏を称した。都の貴人がこの僻地の安房国・保田郷に移り住んだのには、よほど深い物語があったに違いあるまい。

もしかしたら、慶長20年(1615)に徳川幕府が制定した「公家諸法度」により、京都の公家の生活が困難になったのであろうか。師宣がこの地で生まれるのは、その4年後の元和4年(1618)である。

師宣の母親は、この安房・保田郷から藤原氏に行儀見習いに来ていた地元有力者の娘だったのではあるまいか。「いっそのこと私の故郷の安房に移り住みませんか。米も魚も野菜も充分に採れます。生活には不自由はさせません」と吉左衛門に言ったのかも知れない。

少年の師宣が江戸に絵の修業に行くときは船を使った。良い風だと保田から三浦半島に1-2時間で渡れる。我々のヨットと同じで、順風の南風だと半日で江戸に到着する。

菱川師宣は浮世絵の祖、と聞いていたので、葛飾北斎より40-50年前の人だろうと思っていた。調べてみると、師宣は元和4年(1618)、北斎は宝暦10年(1760)の生まれである。私は昭和23年生まれなので、天保10年生まれの高杉晋作は109歳先輩になる。師宣と北斎の年齢の差はそれよりも30年も長い。


この保田の漁業組合が経営する宿の夕食には恐れ入った。

舟に乗った大量の新鮮なお刺身がどんと出る。捕れたばかりの大きな魚が煮魚・焼き魚・酢の物・お鮨に姿を変え、これでもか、というほど大量に出てくる。3人とも大食漢だが、少々食べ残した。「全部を食べ切る人はめったにいませんよ」と漁業組合の職員でもある給仕の女性が笑いながら言う。

客が食べ残すことを承知の上で、「これでもか」と大量の魚料理でもてなすのが、この土地の流儀らしい。京都からこの地に移り住んだ藤原吉左衛門も、このような「おもてなし」を受けたのであろう。びっくりしながらも、大いに喜んだに違いあるまい。

翌日も順風に恵まれて、午後3時半に浦安のハーバーに戻った。











東京湾クルージング

ヨット部時代の友人のN君が浦安マリーナに36フィートのクルーザーを置いているので、時々乗せてもらう。中野の自宅から1時間ちょっとでハーバーに着く。

日帰り・1泊・2-3泊の3種類のコースがある。
日帰りコースは、2時間半ほどかけて羽田空港の沖を南下して横浜に行く。山下埠頭に横付けして15分ほど歩くと中華街に着く。しゅうまいか春巻きで生ビールを1杯、そのあと焼きそばを食べる。又ぶらぶら埠頭まで歩き、今度は北に2-3時間航海して、4時過ぎには浦安のハーバーに帰る。

東に進路を取り、千葉港(五井)や姉ヶ崎でラーメンを食べて帰ることもある。N君が旨い店を知っている。1泊だと、三浦半島・富浦・館山方面に行く。2-3泊だと大島・三宅島に向けて太平洋に乗り出す。

50日コースというのがプランではあるのだが、まだ実行していない。小笠原諸島の父島をベースに母島まで足を延ばし、さらに硫黄島(いおうとう)の沖まで行き、海上から亡くなられた兵隊さんたちを慰霊したい。

36フィートだから定員は12人だ。ただ何泊かで遠出する時は、ベッドの数が限られているので3-5人がちょうど良い。今回はもう一人の学友のU君を加え、3人で安房の保田(ほた)漁港に行った。U君はヨット部ではないのだが、平家の子孫だけあって風をつかむセンスが良い。近頃めきめきとセーリングの腕を上げている。

保田は浜金谷の南、安房勝山の北にある風光明媚な漁港だ。浦賀水道を抜けて、三浦三崎よりかなり南に位置する。西は相模湾で富士山がくっきりと見える。南は太平洋だから海はエメラルド色に輝いている。地中海のカプリ島やベトナムのハロン湾の海の色とまったく同じだ。

普通は港に着いたらすぐに銭湯に駆け込み、そのあと居酒屋でビール・夕食を済ませて、ヨットに戻って寝るのが安上がりなのだが、今年の夏は異常に暑い。ヨットの中で熱中症で倒れたら笑われるぞ、とだれかが言って、今回は奮発して宿をとることにした。N君が以前に泊まったという保田の漁業組合が運営する民宿で、1泊2食付で1万円だ。

2ノットほどの追い潮に乗ったらしく、2時半頃に漁港のバースに横付けできた。平均6-7ノットの航海で、予定よりずいぶん早い。宿ですぐに風呂を浴びるが、夕食まではだいぶ時間がある。

菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ)の生家が徒歩で数分の場所にありますよ、と宿の人が教えてくれた。明日の飲み物や氷を買う予定のスーパーの近くらしい。3人で歩いて行った。

菱川師宣記念館という美術館を目指して行ったのだが、月曜日は休館日とのことで閉まっている。目の前の小さなお寺の立派な梵鐘の前に、浮世絵師として成功した師宣が大金を寄進してこれを造ったと書いてある。その横に「見返り美人」の大きな銅像が建っている。