2019年5月30日木曜日

岩手県の古城跡 (田頭城)

15年ほど前の6月、岩手県の農村にある小さな古城跡を訪ねた。

盛岡駅からローカル線で北上して5つ目に、石川啄木のふるさと渋民駅がある。さらに北に3つ行くと、大更(おおふけ)という小さな駅があり、古城跡はここから2キロの場所にある。

改札口を出ると、タクシーが1台停まっていた。
行き先を告げると、運転手は怪訝な顔で、「どこからおいでですか?」と聞くので、「東京からです」と答える。「大学の先生ですか?」と聞くので、「違います」と答える。

ここで長く運転手をしているが、この城跡を目指してタクシーに乗った客はあなたが2人目だと言う。10年ほど前に東京から来た人は、城跡を研究している大学の先生だった、とも言う。
遠回しだが、私がなぜこの城跡に行くのか、探っている様子だ。

田舎道で信号機もないので、すぐにその城跡の下に着いた。
人の姿は一人も見えない。

50メートルほどの高さの山城なので、30分もあれば充分散策できると思い、運転手に待ってもらおうと思った。名刺を出すほうが相手も安心すると思い、自分の名刺を出して、申し訳ないがしばらく待っていてください、とお願いした。

「田頭信博」という私の名刺を見た運転手は、「おお!」と叫び声をあげ、私の顔をまじまじと見つめる。「東京からと聞きましたが、お生まれはどこですか?」と聞く。

「広島県の生まれです」
「おお!おお!、、、やっぱり!」、「良かったです。若君は無事に西国(さいごく)に落ちのびておられたのですね!」
運転手は一人で感激している。

運転手はこの城跡のすぐ近くに住んでいると言う。戦国時代から20代以上も続いている古い農家で、農業だけでは生活が苦しいのでタクシーの運転手をしているのだと言う。

「私も一緒に登ります」と、まるで従者のようにあとについてくる。
てっぺんまで登ると、素晴らしく見晴らしが良い。雄大な岩手山が南西に大きく見える。

所領1000石と案内板に書いてあるが、たったそれだけの石高とこの立派な城跡は合致しない。
私は城についての知識は乏しいが、三万石、五万石程度の小さなお城はいくつか見学した。
もちろん、それらよりは小ぶりだが、本丸・二ノ丸・三ノ丸跡があり、少なくとも5000石程度なければ、この城は維持できないように感じる。何かわけがあって、当時石高を少なめに表示していたのではあるまいか。


運転手は、この城にまつわる地元の伝承を、次のように話してくれた。


戦国時代に、この城には田頭左衛門佐直祐という殿さまがいた。
慈悲深い、善政を敷いた殿さまだった。
農作物の出来が悪い時には、百姓が大変だからと、年貢を半分にした。凶作の時は、来年の田植えに使う籾をまず残して、残った少量の米を百姓と武士で分け合うように命じた。
「お殿様は毎日おかゆをすすっておられる」という噂が農民の間に広まった。

そして戦国時代の終わり頃、この城は敵に攻められて落城、田頭直祐は自刃した。

落城の前、二人の武士が、三歳の若君と奥方を西国(さいごく)に落ち延びさせるため、闇の中を敵の目を盗んで城から脱出した。これを知った百姓五人が、自ら申し出て、道案内としてこれに従った。
二(ふた)山か三(み)山超えて、安全地帯に脱出したら五人の百姓は村に戻る予定だった。
だが、二日後に村に戻ったのは三人だけだった。
残る二人は、「このまま四人だけで西国に向かうのは危険なので、若君が無事に西国に着くまで自分たち二人も一緒に行く」と三人に伝えて、さらに山を越えて行った。

それっきり、二人の百姓は村に戻ってこなかった。

「途中で全員が殺されたのであろう」
「いや、無事西国に落ち延びられたに違いない」
との二つの説が、400年以上経った今でも、村では語り続けられている。

この城跡の草刈りをするのは、村人の昔からの習わしです。昔の恩義を忘れてはいけない、との古老たちからの言い伝えです。もちろん私もやります。ひと月前に刈ったのにもうこんなに伸びてしまって。来月もう一度草刈りをします。そのあとで村の連中が集まって一杯飲むんです。今日お会いしたことは必ず村人たちに伝えます。若君が無事に西国に落ち延びられたことを知ったら、村の連中は大喜びしますよ!

と興奮しながら言う。

私の広島県の実家では、このような言い伝えはまったく聞いたことがない。もしその若君が生き延びられていたとしても、私とは何の関係もない。
ただ、この運転手は、私がこの若君の子孫だと思い込んでいる。

私はその若君とはまったく関係はありません、と言おうと思ったのだが、この人の異常に喜ぶ姿を前にして、どうしても言えない。

帰りのタクシーの中でも、「良かったです。若君が西国で生きておられて本当に良かったです!」
とくり返す。

大更駅に着いて料金を聞くと、二千円前後の金額を言う。待機料金は加えてないらしい。
五千円札があったのでそれを渡して、「大変お世話になりました。おつりは少ないですが受け取っておいてください」と丁寧にお礼を言って駅に向かった。

運転手は「ありがとうございます」と深々とお辞儀をして、私が改札口に入るまで、直立不動で見送ってくれた。

新幹線に乗る前、盛岡駅で弁当とビールを買った。
ビールを飲みながら、ふと思った。
私と若君は何の関係もないのだが、運転手はその子孫だと思い込んでいる。

「五千円では少なかったのではあるまいか?」
お百姓さん達の決死隊に護られて西国に落ち延びた若君の子孫にしては、みみっちかったのではあるまいか?
「一万円渡すべきだった」
小心者の「若君の子孫」は、新幹線が東京に着くまで、気になってしかたなかった。


追記:

ちなみにこの城跡は、「田頭城(でんどうじょう)跡」と案内板に書かれてあった。
添付した写真はその時、運転手さんが写してくれた写真を、今回スマホで再度写したので、鮮明さに欠けるかもしれない。

私が訪問した時、この地は「岩手県岩手郡西根町字田頭」といったが、1年後、近くの町や村の合併があり、現在は「岩手県八幡平市田頭字館腰」という地名に変更している。
八幡平市が観光名所にすべく予算を付けて、各種の整備を整えており、近頃は観光客が増加しているらしい。

あの時の運転手さんは、私と同い年と言っておられたから、まだタクシー運転手の現役として働いておられると思う。観光客が増えているというから、以前より稼いでおられるのではあるまいか。
































2019年5月27日月曜日

奈良時代の役人の定年70歳(2)

「奈良時代の役人の定年70歳」を例に出して、それゆえ今後、日本の役所も企業も定年を70歳にすべきである、などという考えは、まったく持っていない。

物事にはプラス・マイナスの両面がある。ざっくり言って、50:50、ぐらいの気がする。
定年を何歳にするかは、企業や役所が考えれば良いことで、私はどっちでも良いと思っている。

しかし、私がどう思おうが、今後数年間で「定年70歳」は定着してくるような気がする。
同時に、役所や企業の定年が何歳になろうとも、70歳あるいは80歳まで働く人は今後増加してくると思われる。

その時、60歳の人が、今後の自分の進路をどう決めるかが重要なポイントとなる。

「70歳定年はありがたい。多少給料が下がっても同じ会社で70歳まで働きたい」
「冗談じゃない。10歳も20歳も後輩が上司でいる昔の会社や役所にしがみつくなんて、まっぴらごめんだ。俺は自分の力で、なんとか食っていくぞ」

このように、AさんとBさんとに、考え方が分かれると思う。

私はだんぜんBさんにエールを送りたい。
「私も賛成です。Bさん頑張れ!」と。

なぜかというと、

このAさんとBさん、60歳で健康であれば、たぶん両者とも90歳まで元気で生きると思う。
そして、91歳になった朝、二人ともポックリ亡くなったと仮定する。

亡くなる直前、Bさんは、「俺なりに良く生きたぞ」と微笑しながら死んでいかれるような気がする。
かたやAさんは、もしかしたら、「俺の一生はこれで良かったのかな?」と少し物足りなさを感じながら、死んでいかれるかもしれない。

Bさんは失敗するかもしれない。
しかし、たとえ失敗しても、現在の日本においては、Bさんが飢え死にする可能性はまずない。
飢え死にしないことが決まっているのだから、考えようによっては、なんのリスクも無い。
そうであれば、自分の好きな「面白いこと」をやったほうが得である。

「田頭さんは勝手なことを言っているが、私はどのような選択をするのが良いと思うか?」
と聞いてくる方がいるかもしれない。
「それはご自身で考えてください。もしかしたら、江戸時代の人々の生き方がヒントになるかもしれません」と答えたい。

江戸時代の人口は、初期が2700万人前後、終わり頃が3300万人前後、と全期間を通じて3000万人前後で推移している。中期ごろ新田開発がなされ、米の生産高は多少増加しているが、GDPは大きくは増えていない。

それが原因なのか、武士の先祖代々からの石高も大きくは変化していない。息子が30歳になって仕事がなくブラブラしていてはよろしくない。息子に跡目相続させ、本人は45歳、50歳で隠居する。商家の旦那連中も、武士を見習ったのか、息子や娘婿に跡をとらせ、若くして隠居している人が多い。

この後、本物のご隠居さんになって、ブラブラと老後を楽しんだ人もいるが、今までやりたかった自分の好きなことをやって、お金を稼いだ人も案外多い。

剣術の道場、四書五経を教える塾、和歌俳諧、書道、絵描きになった武士もいる。
なかにはへんてこな仕事を始めた人もいる。落語に「あくび指南」という噺があるが、あくびの仕方を教えてお金を取っていた師匠もいる。お金を払ってそれを教わっていた人もいたというから、世の中面白い。

伊能忠敬という人は50歳で隠居した後、19歳年下の先生のもとに入門して、数年間、天文学・地理を学び、その後ワラジを履いて東北・蝦夷・樺太を歩き回って、立派な地図を作った。

あるいは32歳と若い人だが、良い収入を保証されたポジションを辞退して、洋学の塾の経営を始めた人がいる。
仕事上で冒険をしようとするとき、それに反対するのは、昔も今も「身内の人」らしい。
この人も奥様の父親に反対された。「塾の経営なぞ、たいがいはつぶれるから止めろ」と。

この人は、若いころ緒方洪庵の適塾に学んだというから、多少は医術の心得もあったのかもしれない。マッサージが得意だったらしい。
「お義父さん、塾の経営に失敗していよいよ食えなくなったら、私は按摩(あんま)さんになって、女房・子供を食わせます」と言って、その塾を始めたのだという。

義父の予想が外れ、塾の経営に成功したので、その人は按摩さんにはならなかったらしい。

その後も、この塾はつぶれないで、いまなお慶応義塾という名前で、立派な塾として世の人々から尊敬を受けている。

































2019年5月20日月曜日

奈良時代の役人の定年70歳(1)

「続日本紀」で仕入れたうんちくをひけらかして、「奈良時代の役人の定年は70歳だった」と言っても、友人の多くは納得してくれない。

「そんな馬鹿なことがあるか。当時70歳まで生きた人は少なかったはずだ」と反論してくる。

思うに友人たちがこれを否定するのは、彼らの教養がじゃまをしているのかもしれない。
「奈良時代の日本人の平均寿命は30歳前後だった」という常識である。

幼児の死亡率の高さ、天然痘の流行(藤原不比等の4人の息子全員が同時期にこれで死亡している)など、若くして命を落とす人が多かったから、平均寿命は30歳前後になるが、70代―80代で元気な人は数多くいた。

元明天皇の慶雲4年(707)7月17日の詔(みことのり)に次のようにある。
「高齢者の百歳以上には、籾二斛(こく)を与える。九十歳以上には一斛五斗、八十歳以上には一斛とする」
このような年齢の人々がそれなりの数いたからこその詔だと思う。

70歳まで役人を務めた人、あるいはそれ以上の年齢まで働いた役人や僧侶は数多い。

たとえば、吉備真備は80歳で没したが、69歳の時に造東大寺長官になり、70歳で退任を願い出たが、結局76歳で右大臣を辞任するまで働かされている。

70歳以下ではあるが、「令和」の新元号で注目を浴びている大伴旅人が、「太宰帥・だざいのそち」に任ぜられ、10歳の息子の家持を同行して北九州に下ったのは64歳の時である。
家持は父が54歳の時に生まれている。
息子の家持が「持節征討将軍」に任ぜられたのは66歳の時だ。

僧侶をみると、行基(ぎょうき)81歳、泰澄(たいちょう)85歳、勝道(しょうどう)83歳と、長寿者が続く。そして、亡くなる直前まで、僧としての仕事を行っている。

「役人の定年70歳」というのは、唐の制度をそのまま導入したものであり、「続日本紀」のあちこちに見える。「養老律令」にも、「官人は年齢七十歳以上になれば、定年を許可する」と書かれている。

当初は、70歳になればお役目御免、ではなかった。
たとえば69歳で新たに国司に任命されて地方に赴任したとする。
元気であれば、4年の任期を終えて73歳で都に戻ってくることになる。

今でいう「認知症」になり、役目が果たせない国司が出てきたのであろう。
「任期をまっとうして帰任する時が70歳」という詔が後に出ている。

国司の任期は、当初の4年から6年に延長され、その後再度4年に戻ったようである。
4年・6年というのは、現在の衆議院議員、参議院議員の任期とオーバーラップして興味深い。

いままで中央の役人や国司(知事)の定年について述べたが、郡司(今でいえば、市長・助役・市の高級役人・税務署長などか?)に関しては、当初は定年はなく、80歳でも85歳でも死ぬまで現役であったらしい。国司は中央から任期を切って派遣されたが、郡司やその下の里長などの地方役人は、大化の改新以前の地方豪族が世襲していた。

職を失った地方豪族の反乱を防ぐ意味で、大和朝廷はその弊害を認識しながらも、このような処置をとったのではなかろうか。賢明な策だった、と私は考えている。

和銅6年(713)5月2日の記述に、元明天皇が次のように命じた、とある。
「郡司は終身を以て任期とし、年限によって代わる職ではない。しかるに善からぬ国司は、愛憎の心をもって、辞任を無理強いしたり、道理を無視して解任したりしている。今後このようなことがあってはならぬ。もし年齢が従心(じゅうしん・70歳)に達して、気が弱り、筋骨が衰え、精神が混乱して正常でないことを口走ったりする場合は、道理に従ってこれを許す。(中略)
ただし、その場合でも、国司は本人の詳しい自筆の書状を受け取り、慎重にこれを行なえ」

50代・60代の国司の言うことを聞かない、70代・80代のうるさ型の「じいさま郡司」が多数いたのであろう。これに手を焼いた若手の国司が、追い出しの首切りをしたのは、理解できる。
これに対して、「じいさま郡司」たちは連名でこのことを天皇に訴えたのであろう。
上記はこれに対応した詔と思われる。

「精神が混乱して、正常でないことを口走ったりする」ぼけ老人の郡司に対しても、「本人の詳しい自筆の書状を書かせろ」と天皇様はおっしゃっている。

この詔には、国司たちも当惑したに違いない。

そんなことが出来るわけがない。
「まいったなあ、、、」と苦笑いしながら、夜になって一人でヤケ酒を飲んでいる、若い国司の姿が目に浮かぶ。

この20年ほどのちの、聖武天皇の天平6年4月26日の記述に、
「年齢が七十歳以上の人を、新たに郡司に任ずるのを禁止した」とある。


















2019年5月13日月曜日

奈良時代のボンクラ大学生

近頃は、中途採用での良質の人材が少ない状態にある。
新卒の大学生も、いわゆる「売り手市場」であるらしい。
企業の人事の方々からも、「新卒の良い人材が採りにくい」、「学生がずいぶん強気だ」などの声が聞こえる。

我々は、新卒の人は扱っていない。
職歴のしっかりした30代―50代の人材が中心であるが、時として入社2-5年ぐらいの若い候補者にお会いすることがある。

基礎学力があり、人柄も素晴らしい若者もいるが、たいした職歴も実力もないのに、ずいぶんと自己主張する人もいる。

「その程度の給料ですか」、「成果報酬型の会社で働きたい」、「ストックオプションが欲しい」などと言うのはまだ良いほうで、中には、「田頭さんはCEO・COOの求人案件は持ってないのですか?」
と聞いてくる青年もいる。

志を高く持つことは悪いことではないが、25・6歳の青年がこんな発言をするのを聞くと、滑稽に思える。

「そんな考え方では駄目ですよ。若いうちは目先の給料やポジションにはこだわらないで、立派な上司のいる良い会社で、実務を覚えるのと同時に人間としての幹を太らせることが大切だと思います。アンドリュー・カーネギーを見習ってください」
などと、よかれと思い忠告することもある。

すなおに反応してくれる若者もいるが、「年取ったヘッドハンターが説教しやがって、、」
といった顔をする人もいる。


近頃の若者だけがそうなのか、と思っていたら、「続日本紀」を読んでいて、奈良時代の大学生の中にもその種の若者がいたことを知った。

「勉強せず充分修行もしてないくせに、良い就職をしたがった奈良時代のボンクラ大学生」という題名を考えたが、長すぎるので、上記のように短くした。


元正天皇の霊亀2年(716)5月22日の記述に、次のようにある。

「五月二十二日、次のように制した。
大学寮・典薬寮の学生らで、まだ充分修行していないのに、みだりに任官の推薦を求める者がある。このような者たちは、今後、国博士(くにはかせ)や医師に任命してはならぬ」

奈良時代の勉強しない大学生のことを、笑いながら読んでいたのだが、ふと自分自身の大学時代をふりかえり、思わず赤面した。


私は大学時代、体育会ヨット部に所属して、年間120日ー140日の合宿を、夏は千葉県館山市の西端の波佐間で、それ以外は葉山の森戸海岸で過ごしていた。

合宿が終わり吉祥寺の下宿にもどってからも、大学にはめったに行かなかった。
経済学の勉強はほとんどしないで、歴史書や小説を読みふけり、下宿にたむろする友人たちと連日酒を飲んでいた。

自分では、インカレ上位を目指してヨットに励み、読書にふけり、また酒を飲んで「浩然の気」を養っているつもりだった。

このような生活なので、大学の成績はすこぶる悪い。かろうじて4年間で卒業した。

そのくせ、ツテを求めて人並みに「良い会社に就職したい」と右往左往していたのだから、
世間からみたら、「親の脛をかじり遊び呆けているボンクラ大学生の見本」みたいなものだったと思う。

「奈良時代のボンクラ大学生」を笑える筋合いではない。


ただ、次のようにも考えた。

皆が皆、アンドリュー・カーネギーのような青年であれば、世の中、立派な成功者ばかりになってしまう。

それもなんだか味気ない。

自分自身を含めて、奈良時代のボンクラ大学生や現在のツッパリ青年を含め、若者というのは自意識過剰ぐらいがちょうど良いのかも知れない。

そんなことを考えながら、みずからを慰めている。










2019年5月5日日曜日

奈良時代の女医さん

「日本書紀」に続くわが国2番目の正史(青史)である「続日本紀」(しょくにほんぎ)を、1年ほどかけて丁寧に読んでみた。

文武天皇元年(697)から桓武天皇の延暦10年(791)までの95年間の記録である。

「日本書紀」が神話を含めて文学的なにおいがするのに比べ、「続日本紀」は、例外はあるものの、おおむね事実のみを淡々と書いてある歴史書である。いわば大和朝廷の行政日誌ともいうべきもので、この時代に興味を持つ人以外には、かならずしも面白い書物とは言えない。

ただ、それゆえに昔から「日本書紀」に比べ「続日本紀」の歴史書としての信頼性ははるかに高い。「事実のみが記載されている」との定評がある。

もともと私は、神社についての興味からこの書物を読み始めたのだが、ヘッドハンターの立場からも興味深い記述をいくつか発見したので、何回かに分けてこのブログでご紹介したい。


元正天皇の養老6年(722)11月7日の記述に次のようにある。

「冬十一月七日、初めて女医の博士を置いた」

わが国最古の貨幣「和同開珎」が鋳造された14年後である。
この時代にすでに、女性のメディカル・ドクターがいたことに驚いたものの、ただこれだけの記述であり、女性の名前や経歴や、その背景も理由も書かれていない。
どのような女医さんだったか、想像をめぐらす以外にない。


近代日本における最初の女医は、荻野吟子(おぎのぎんこ)という人である。
嘉永4年(1851)-大正2年(1913)
この人が「女医第1号」の医師免許を取得して、湯島に「産婦人科荻野医院」を開業したのは明治18年(1885)、本人が34歳の時である。

荻野吟子は武蔵の国、現在の埼玉県熊谷市、に代々苗字帯刀を許された裕福な名主の末娘として生まれた。
慶応3年、16歳の時、望まれて近郊の豊かな名主の長男と結婚する。
ただ、旦那さんは相当な遊び人だったらしい。明治3年、夫からうつされた淋病がもとで離婚し、上京して順天堂医院に入院する。順天堂というのはずいぶん歴史のある病院だと今回知った。

幸いにも病気は完治するが、その時治療にあたった医師の全員が男性で、男性医師に下半身を晒して診察されるという体験から、女医となって女性たちを救いたい、と決意する。

当時、医学校はたくさんあったものの、女性の入学は前例がない、ということですべての医学校から入学を断られる。
明治8年、女性教育者の育成を目的とした、東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)が開校される。「将来医学校に入るために一般教養を身につけたい」との思いで、荻野はこの学校の1期生として入学し、明治12年、首席で卒業する。

同学校の永井教授は、荻野の女医になりたいとの強い熱意を知り、陸軍軍医の実力者である石黒軍医総監を介して、私立の医学校への入学をあっせんしてくれる。
荻野は男子学生に混じり、ハカマをはいてこの医学校に通い、3年後に優秀な成績で卒業する。
しかし、医学校を卒業しただけでは医師にはなれない。

医師になるための国家試験の願書を提出するが、東京府からも郷里の埼玉県からも拒否される。
総元締めの内務省衛生局におもむき懇願するも、結果は同じであった。
「過去に女性が受験した前例が無い」というのがその理由であった。

本当に前例はないのであろうか?荻野は必死で前例探しに没頭する。
そしてついに、その前例を発見するのである。


「吟子ちゃん、前例があるわよ!」
と教えてくれたのは、お茶の水師範学校時代の文科系の女子学生だったのではあるまいか。
荻野は医師になるための準備段階としてこの学校に入学したのだから、おそらく理科系の勉強に力を入れており、「続日本紀」は深くは読んでいなかったような気がする。


「養老六年、冬十一月七日、初めて女医の博士を置いた」

この一文を書き写し、彼女は当局に突きつけた。
「前例があるではございませんか!」と役人を相手に啖呵を切った。
「この印籠が目に入らぬか!」の格さん・助さんと同じである。

平安時代の初期、桓武天皇の御世に編纂された、「事実のみが記載されている」との定評のある
「勅撰史書」である。役人たちはぐうの音も出ない。
「ははー、参りました」と、東京府や内務省の役人たちが頭を下げたかどうかは知らない。
ただ、すぐさま医師試験の受験を許され、あっぱれ荻野吟子はこれに合格する。


「続日本紀」に記載されて1000年以上も経って、この短い一文は、ずいぶん大きな役割を果たしたといえる。