2022年2月28日月曜日

兵庫県令・神田孝平のヘッドハンティング(2)

 伊東巳代治・こぼれ話(5)

神田県令の、伊東巳代治獲得の話はヘッドハンターの私にも興味深い。良い人材を得たいと考えている企業経営者にも参考になると思う。ヘッドハント成功のカギを整理してみる。

① 有望と思う人材を見つけた時には、採用したい旨を敏速に本人に伝える。神田県令は伊東に会った2、3日後に、部下で伊東と同郷の彭城(ほうじょう)という課長を経由して、「伊東を兵庫県官吏に採用したい」と口頭で伝えている。

② これを拒絶されると、すぐに、伊東巳代治に一番影響力を持つのは長崎にいる両親と判断し、彭城課長を使い両親経由で伊東を口説いている。

③ 兵庫県官吏の給与水準が、現在伊東が得ている報酬より低いことから、これに対して柔軟に対応している。この時神田県令は、「本業に差支えない範囲で、今までの新聞社と通訳の仕事を続けて良い」と伊東に言い渡している。すなわち官吏でありながら、副業を認めている。事実、このあと伊東はこれらの副業で官吏の給料以上の収入を得ている。

④ じつはこの四番目に、私は一番感動している。自分が見込んで採用した伊東の地位を、ものすごいスピードで昇格させているのだ。明治6年8月に6等訳官で兵庫県庁に就職した伊東は、24日後の9月1日に5等訳官、翌明治7年1月7日に4等訳官、同年8月13日には3等訳官に昇り、明治8年6月2日には二等訳官に進み、同年10月15日には権大属・外務副課長に就任している。この時、伊東巳代治、満18歳である。

伊東巳代治に能力があったからであろうが、県令・神田孝平にそれだけの権限が与えられていたのだろうか。あるいは、権限を超えて神田が押し切ったのかも知れない。現在の硬直した役所や大企業の人事制度では、とうてい考えられないことである。


公的だけでなく、私的にも神田は伊東を可愛がった。当初は自分の県令官舎に伊東を寄寓させている。英語はできるが漢学の素養不充分と見た神田は、夜は自分の部屋に伊東を招き、漢学・作文を徹底的に教えた。「今日いささか漢文学を解するは、これ神田氏の指導の賜物にて、氏は自分の第三の師父とする所なり」と伊東は後日、手記にしるしている。

この伊東巳代治の日本語の文章力が発揮されるのは、日清戦争の時である。

日清戦争の宣戦布告の詔勅(しょうちょく)が渙発(かんぱつ)されたのは明治27年8月1日である。この原案を起草したのが、当時第二次伊藤博文内閣の書記官長(官房長官)であった伊東巳代治である。

「天祐ヲ保全シ萬世一系の皇祚(こうそ)ヲ践(ふ)メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆(ゆうしゅう)二示ス」にはじまるこの詔勅は格調が高い。

並みの書記官長ならおしまいの部分を「汝臣民」と起草したかもしれない。

奈良・平安時代であれば、汝臣民(なんじしんみん)という表示で良い。立憲君主国としての国体である大日本帝国の明治憲法では、天皇が国民に対しての呼びかけとしては、「汝有衆」が正しい。法律に精通した伊東巳代治ならではの表記である。

今一つ、「天皇」と表記せず「皇帝」と記している箇所が興味深い。





兵庫県令・神田孝平のヘッドハンティング(1)

伊東巳代治・こぼれ話(4) 

神田孝平(かんだ たかひら・通称こうへい)について少し紹介したい。

天保元年(1830)生まれというから、西郷隆盛より2歳若く、木戸孝允より3歳年長である。伊東巳代治に会ったときは44歳。美濃の旗本(代官)の側室の子であるから幕臣である。蘭学を学んだ洋学者で、オランダ語はわかるが英語はできない。幕末のころは、江戸幕府の「蕃書調所・ばんしょしらべしょ」の教授だった。「開成学校(大学南校)」の前身だから、東京大学の源流ともいえる。

伊藤博文は明治元年に27歳で、初代の兵庫県令になった。その次の次、3代目の兵庫県令に就任するのが、42歳の神田孝平である。幕臣だが、長州の木戸・伊藤と親しかった。その後、文部少輔(局長)・元老院議官・貴族院議員となり、正三位・男爵となっているから、旧幕臣としてはずいぶん出世した人である。もっとも、神田孝平が正三位・男爵に叙された頃は、伊東巳代治が権力の真っ只中にいた時期と一致するから、伊東が師匠に対する恩返しのつもりで汗をかいたのではあるまいか、と想像する。

この神田は伊東をすこぶる気に入り、兵庫県の役人に採用したいと思い、長崎の巳代治の両親を説得して、伊東巳代治獲得に全力投入する。伊東の手記に戻る。

「自分は別に求むるところなき為、行くつもりなかりき。しかるに県令は、自分が若年ながら英語に堪能なる上に、法律上の知識も有りたるに驚きたるものと見え、自分と別れたる夜、長崎出身にて彭城(ほうじょう)という人が、兵庫県の外務課長なるを知り、自分のことを彭城に問いたりという。彭城は、一面識なきも郷里の評判にてよく知れりとて、’’彼は長崎にて有名な書生にて、家柄もまずまず’’ と答えしかば、神田県令より彭城を経由して、自分を採用したしとの申し込みあり。自分は官吏になる考え無きにより、ていよく謝絶したるところ、この話がその後、両親の耳に入りたり。

父母双方より、手紙にて自分の不心得を叱責し来れり。ことに母の手紙は、ほとんど泣いて訴うるごとき有様にて、実に自分もこれには大いに困却(こんきゃく・困り果てる)したり。両親とも自分が外国人の使用人になりたるを快く思わざるところに、はからずも県令より所望され官途に出る運に向かいながら、これを謝絶するとは不心得なりと言うにあり。かかる両親の心配には自分も抗し難く、遂に意を決し、これを承諾したるなり」

神田孝平




2022年2月21日月曜日

神戸の英字新聞社に入社・伊東16歳(2)

 伊東巳代治・こぼれ話(3)

ここから先が本題になる。

半年ほどして、キュッリー社長のもとに、神戸の大物アメリカ人から、伊東巳代治を急いで派遣して欲しいとの緊急依頼が入る。

「明治6年の7月頃と覚ゆ。米国領事館(領事ダニエル・ターネル)へ、当時の兵庫県令・神田孝平氏が、県属の通詞堀某を連れて、海岸通りの地先権の事につき、面倒なる法律問題についての談判に来(きた)るあり。しかるに、県属の通詞にては通訳意の如くならず。アメリカ領事も耐えかねて、新聞社社長に対して、急いで伊東を派遣してくれとの急報あり。社長も米国領事館にはしばしば出入りがあり、領事の歓心を得ておく必要あり。ぜひ行きて、なるべく丁寧にやってくれとの懇諭(こんゆ)あり。

ただちに領事館に至りたるに、2階の客間にて神田県令と米国領事との対談の席に引見せらる。概要を領事より聞き取り、これを通訳して神田県令に話し、追々(おいおい)議論が進行したり。しかるに、県令の所説に面白からざる所ありたるをもって、少年の生意気ながら、自分も日本人なれば、日本の不利益にならぬようしたりき一念より、談判中にしばしば神田県令に注意を試みたり。県令も大いにうなずきたるをもって、自分の思い通りを先方に英訳し、アメリカ領事も次第に受太刀(うけだち)となりて、当日の談判は結局県令側が有利となりたり。神田県令はこれを非常に喜び、別れる際、自分の姓名と国所(くにどころ)を聞き、県令の官舎に話しに来てくれと所望せられたりしも、自分は別に求めるところなき為、行くつもりなかりき」


この時の通訳費用は、だれが負担したのであろうか?アメリカ領事館からの依頼なので米国側が支払ったと考えるのが妥当だが、もしかしたら兵庫県と折半したのかも知れない。ところが伊東巳代治は、日本人として日本の不利益を避けたいとの一念で、神田県令が有利になるように誘導し、英訳している。

「単なる英語屋ではない。少年ながら大和魂を持った男だ。この少年は大成する」神田県令はこのように、伊東巳代治を高く評価したのであろう。この席のアメリカ側に、日本語を理解する人がいなかったのも幸いであった。

「県令の官舎に遊びに来い」という神田の好意に対して、「別に行きたくもないので放っておくつもりだった」と伊東は記している。

この神田孝平という男はただ者ではなかった。

このあと、神田県令の敏速かつ熱意ある、「伊東巳代治ヘッドハンティング作戦」がはじまる。これは次回で紹介する。一流の人材を確保しようと思う、企業の経営者に役に立つ話だと思う。






2022年2月14日月曜日

神戸の英字新聞社に入社・伊東16歳(1)

 伊東巳代治・こぼれ話(2)

伊東巳代治が神戸にある英国人キュッリーが経営する、英字新聞社「兵庫アンド大阪ヘラルド」に入社するのは、明治6年2月、本人が満16歳の時である。

英字新聞編纂の仕事で月給30円であった。当時の感覚では、1円は旧幕府時代の1両に相当する。明治5-6年の巡査や小学校教師の月給が4円で、明治13年の第一回の東京大学卒業の官吏の初任給が18円だったから、この30円は破格である。これに加え「キュッリー社長は自分に兵庫ホテルの一室を借り与え、英国の法律書を何冊も買い与え、衣服は英国人の仕立て屋で作ってくれ、自分を子供同様に厚遇してくれた」と巳代治はその感激を手記に書き残している。

この兵庫ホテル(英語名・オリエンタルホテル)は明治3年に開業した日本最古の西洋ホテルで、明治23年開業の帝国ホテルよりはるかに古い。

弁護士の仕事もしていた英国人社長が、巳代治をこれほど優遇したのは、彼の能力と人柄を愛したことが一番の理由であろうが、経済的な面での裏話がある。巳代治の手記を続ける。

「ほどなく、’’通詞(通訳)の伊東さん’’ と呼ばれて、居留地の外国人や貿易商人の間に名前を知られ信用を博した。各国の領事館にも出入り交際したる結果、通詞を置かざる領事館より、社長を介して自分を借りに来るようになった。1時間約30円、安きは20円位の金額で、これがみな社長の収入となる次第にて、社長は大いに自分を厚遇したり」とある。

なんのことはない。たとえば月に10時間ほど巳代治を通訳の派遣に出せば、社長のふところには200-300円のお金が入ったわけで、現在の人材派遣会社よりも、はるかに良い実入りがあったことになる。

明治15年頃の兵庫ホテル
前に見えるのは人力車







2022年2月7日月曜日

伊東巳代治・こぼれ話

 伊東巳代治・こぼれ話(1)

2年ほど前にこのブログで紹介した「伊東巳代治」を、いまでも内外の多くの方々が読んでくださっているのは嬉しい。

これといった門閥・藩閥のない少年が、満7歳で長崎の英語塾・済美館に入門してグイド・フルベッキの弟子になる。死に物狂いの努力の結果、15-6歳で抜群の英語使いになる。幸運に恵まれ、20歳のとき、工部卿・伊藤博文の面接を受け工部省に入省する。その後も、英語を武器にすさまじいスピードで立身出世していく。

このスピード出世が太閤秀吉を彷彿させるのか。それとも、最晩年になって、軍部に睨まれるのをものともせず、吉田茂などの配下を使い、「国際連盟からの脱退には絶対反対」の論陣を張ったその勇気に、人々は感動するのであろうか。このように思っていた。

この伊東巳代治の曾孫にあたる方・伊東武様・との知己を得て、昭和13年に発刊された大冊「伯爵伊東巳代治」をお借りして熟読する機会を得た。

この本を読んで感じたことは、「英語上級はたしかに伊東の強みではあるが、それ以外の能力があったからこそ、この人物は大きな成功をおさめた」ことを知った。

「大久保利通伝」や「木戸孝允伝」のように明治前期に発刊された偉人の伝記は、はっきり言って面白くない。編纂者が本人を褒め称えすぎる「ヨイショ」の部分が多すぎて鼻につく。これらに比べ、「伯爵伊東巳代治」は、昭和10年代という日本全体の教育水準が高まってきた時ゆえ読者に配慮したためか、あるいは編纂者がフェアな人柄であったゆえか、この種の嫌味が少ない。

この本の何よりの魅力は、伊東巳代治自身が生前に書き留めた「自伝」があちこちに引用されていることだ。正直で率直、簡潔でユーモラスな筆運びで、実にわかりやす文章である。今回紹介するのは、この巳代治自身が書いたものの中から得たエピソードが多い。


ここで少し余談話をしたい。

私は若いころ、三光汽船という船会社で18年間勤務した。同期入社は47人だったが、その中に同志社出身のA君というとても英語の良くできる、同時に個性の強い男がいた。入社して2年が経ったころ、社長の河本敏夫さんは三木内閣の通産大臣に就任し、三光汽船を去られた。主力銀行の大和銀行から、重役の亀山さんという方を社長にお迎えした。東大卒の温厚な人格者で、社員の評判も良い。当時の三光汽船は、業績も良く世界最大の運行船腹量を誇り、さらに積極的に船腹拡大を図っていた。シティバンクやチェースマンハッタン銀行をはじめ、米欧の有力銀行から多額の融資を受けていた。同時に、香港や欧州の船主から多くの船舶を傭船していた。よって、亀山社長はひんぱんに海外出張をされる。

入社3年目のA君は、その英語力を見込まれれて、社長秘書兼通訳に抜擢された。亀山社長と一緒にファーストクラスに乗ってアメリカに出張するA君を、私を含めた同期の連中は、「すごいなあ」と羨望のまなざしで眺めていた。ところがこのA君、2-3度社長に同行して海外出張しただけで、まもなくクビになった。クビといっても、社長秘書をクビになっただけで、古巣の部署にもどり仕事を続けている。

「A、どうしたんだよ?」と私が聞いても、「まあ、出張中にちょっとしたことがあってなあ」と苦笑するだけだ。しばらくしたら、同期の一人から、「ちょっとしたこと」の中身が私の耳に入ってきた。

「Aのやつなあ。チェースマンハッタン銀行の頭取と亀山社長との会食に同席したのだが、亀山さんの言ったことを伝えないで、自分の考えを滔滔(とうとう)と演説したらしいよ。’’A君、僕は英語は得意ではないが、いま君がしゃべったことは僕の言ったことと違うぐらいはわかるよ‘’ と亀山社長が注意したら、’’社長、でも僕はこのほうが正しい考えだと思います’’と言ったものだから、温厚な亀山社長もブチ切れて、帰国したらすぐにクビになったわけさ」同期の一人は、A君の無茶ぶりを面白がって、愉快そうに話してくれた。


じつは、伊東巳代治もこのA君と似た通訳ぶりを発揮している。そしてこのことが、伊東巳代治の出世のきっかけとなる。似ているものの、A君と伊東では、そのやり方と中身がかなり違う。このあたりのことをご紹介したい。

33歳頃の伊東巳代治