2023年5月29日月曜日

シルクロードを旅した果物(2)林檎(りんご)

 シルクロードのものがたり(19)

林檎(りんご)

私はりんごはそれほど好きではない。嫌いではないが、柿や葡萄のほうが美味しい。ただ、りんごには恩義のようなものを感じている。「のぶちゃんはりんごのおかげで命が助かったんだよ」と、子供のころからしばしば母から聞かされていたからだ。このことは「りんごの話」という題で、2020年11月にこのブログで紹介した。

中学生のとき、野島先生が「りんごの原産地はコーカサス地方です」と胸を張っておっしゃったのを覚えている。「生まれ故郷が冷涼地なんです。だから日本では青森県や長野県のような寒い地方でつくられます。広島県の海辺の温暖なこの地方ではうまく育ちません」と言われたのを聞いて、フムフムと納得した記憶がある。


ヨーロッパの人々は、りんごの祖先は欧州に生育する野生のりんご、と何千年も考えていたらしい。現在では、「りんごの原産地はタクラマカン砂漠の北側にある天山山脈の西側あたり」というのが、世界の植物学者の定説らしい。

米国人・マーシャ・ライフの「りんごの文化誌」には、「BC334年、アレキサンダー大王がペルシャを征服したあと、りんごと共にペルシャ人庭師を連れて帰り、ギリシャ人にりんごの栽培方を教えた」とある。張騫の遠征より200年以上前である。よって、張騫が遠征する何百年、何千年も前から、多くの果物・野菜の種子がラクダや馬の背に乗って東西に旅をしたと考えるのが自然である。

古代ローマ人も、カール大帝の時代の人々も、また中世・近世の欧州人も、このりんごという果物をとても大切に扱った。そして現在でも、このリンゴは「果物の横綱」の地位を保ち続けている。

それゆえに、ヨーロッパにはりんごにまつわる話や、りんごに絡む歴史的事件が多い。

旧約聖書のアダムとイブが禁断の果物・りんごを食べた話は説明の要はあるまい。伝説の人物ではあるが、スイス人のウイリアム・テルが息子の頭にりんごを載せてそれを射るように命じられたのは14世紀初めの話である。英国人のアイザック・ニュートンが木から落ちるりんごを見て、万有引力の法則発見のヒントを得たのは18世紀の初めである。


現在我々が食べている大型のりんごは、明治になってアメリカから入ってきた。子供の頃「印度りんご」という旨いりんごがあったが、国光(こっこう)に比べ少し値段が高かった気がする。中学生になって、野島先生から先の話を聞いて、「インドは暑い国なのにりんごがあるなんて不思議だなあ」と思った。アメリカのインディアナ州で品種改良されたりんごとは、そのあとで知った。

明治のはじめ頃、日本人はこの果物をアメリカ人が言うとおり「アップル」と呼んでいた。尊王攘夷の生き残りの国粋主義者が「異国の言葉を使うのはけしからん」と言ったのであろうか。明治10年代に入ると、日本人はこの果物を「苹果・へいか・ひょうか」と呼ぶようになる。当時中国(清国)でそう呼ばれていた。考えてみれば、この苹果も異国の言葉である。ところが、明治30年頃になると、日本人は突如としてこの果物を「林檎」と呼ぶようになる。

盆栽の「姫林檎」と「アップル」は大きさこそ異なるが、同じ形をして味も似ている。「これは同じ種類の植物だ」と誰かが気付いたのであろう。この「林檎」も千年以上前に中国から教わった言葉である。政府が命じたわけでもないのに、日本人は明治初期の30年のあいだに、「アップル」、「苹果」、「林檎」と3回もこの果物の呼び方を変えている。この不思議について、私は以前から興味を持って調べている。まだ結論は出てないのだが、現時点では私は次のように考えている。

明治18年の内閣制度への移行、明治23年の大日本帝国憲法と教育勅語の発布、明治27年の日清戦争あたりにその理由があるのではあるまいか。

庶民は昔から天皇のことを、「天子さま」、「みかど」、「おかみ」などと呼んできた。「天皇陛下」という言葉を日本人が使いはじめたのは、上記の明治20年代に入ってかと思われる。

「今年のヘイカは出来が悪いな」、「ヘイカの値段が下がってきたよ」、「このヘイカは旨くないなあ」、などの庶民の会話に警察官が注意したのかも知れない。そうではなく、人々自身が、昔からある「林檎」という優しい呼び方に親しみを感じたのかも知れない。

島崎藤村の「若菜集」は明治30年に刊行された。「初恋」にははっきりと林檎と書かれている。これが苹果であったら、いささか興ざめである。「林檎」で良かったと思う。


まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花ぐしの 花ある君と思ひけり


林檎畑の樹の下に おのつ”からなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ








2023年5月21日日曜日

シルクロードを旅した果物(1) 石榴(ざくろ)

 シルクロードのものがたり(18)

石榴(ざくろ)

張騫が西域から漢に持ち帰った果物として、中国の古書の筆頭に「石榴」の名が見える。よって、この「ざくろ」に敬意を表してこの果物からご紹介したい。

子供の頃、我が家に一本のザクロの樹があった。時々食べたがそれほど旨いものとは思わなかった。現在の日本人にとって、ザクロはそれほど存在感のある果物とは思わない。

各人の好みにもよるだろうが、「葡萄」、「りんご」は相撲でいえば大関・関脇クラスに格付けされると思う。「みかん」と「柿」が横綱だと私は考えているが、あるいは「葡萄」・「りんご」を横綱に押す人がいるかもしれない。多少えこひいきをしたとしても、ザクロを小結に押す人はおるまい。いいとこ前頭十枚目以下、多くの人は十両と格付すると思う。

2023年の5月連休に、郷里の広島県に農作業で帰った。その時、テレビで、現在日本で栽培している果物の生産高で、1位がみかん、2位りんご、3位柿、4位梨、5位葡萄と紹介されていた。そうすると、現在の日本では、りんごは横綱、葡萄は大関か関脇に格付けされていると考える。


ダミアン・ストーンというオーストラリア女性の著書「ザクロの歴史」を読んでみると、西アジア・西欧においては、現在でも小結・関脇クラスの存在感ある果物らしい。この本を読み進めてみると、古代のエジプト・メソポタミア・ペルシャ・ギリシャ・ローマにおいては、関脇・大関、ひょっとしたら横綱クラスの果物だったことがわかる。

理由の一つは、多くの種子が子孫繁栄(多産)のイメージと結びついたと考えられる。甘い果汁が乾燥地帯の人々には美味しく感じられた。どのような栄養があるのか知らないが「精力剤」という記述も多く見られる。同時に赤い花の美しさを愛でた記述も多い。


古代から中世・近世にかけて、これらの地域にはザクロをモチーフにした、おびただしい数の石像・陶器・木版画・絵画が残されている。

「ザクロの茂みから声が聞こえてくる。私の実は女主人の歯のように輝き、果実は女主人の胸のように丸い形をしている。私は彼女のお気に入りの、果樹園で最も美しい樹木である」と、BC12世紀のエジプトのパピルスに書かれている、とストーン女史は紹介している。

「ザクロは人類にとって最古の食品の一つであり、原産地はイランとトルクメニスタンの国境にあるコぺトダグ山脈あたりと考えられている。栽培が開始されたのはBC1万年頃の新石器時代と思われる」ともストーン女史は言う。

イランの地図を見ると、イランの西側に、北西から南東につらなるザグロス(Zagros)山脈という大きな山脈が見える。張騫がこの地方を旅した2100年前、このザグロス山脈一帯でこの果物がたくさん栽培されていたらしい。「これは、ザグロと言うんだよ」とアフガニスタン人が漢人に教えてくれた。よって、漢の人々は「石榴」と書いて、この果物を「ザグロ」と読ませたという説もある。

私のような素人には、この話に納得できる。

ストーン女史は、この本で、「ザクロ博士」の異名を持つ、ソビエト連邦時代の科学者(トルクメニスタン在住)グレゴリー・レビン博士を紹介している。この博士はザクロに惚れ込んでいた。「ザクロは素晴らしい滋養強壮薬」だと力説している。当時ソビエト連邦は、宇宙飛行士・潜水艦乗組員・空軍パイロットなどの健康維持にこのザクロを積極的に処方させた。世界初のソ連の人工衛星には猿が乗せられた。この猿にザクロのエキスが大量に投与されたというから、人間第一号のガガーリン少佐も、嫌になるくらい大量のザクロを食べさされたに違いない。


中国経由で日本にザクロが入ってきたのは、奈良・平安時代と思われる。12世紀に描かれた「孔雀明王・くじゃくみょうおう」は胸の前にザクロを持っている。孔雀明王は密教で尊格のある明王の一つで、この絵は高野山霊宝館にある。精力絶倫であった弘法大師・空海もきっと石榴を食べたのであろう。


ウズベキスタンのザクロ 辻道雄氏提供





2023年5月15日月曜日

シルクロードを旅した果物と野菜

 シルクロードのものがたり(17)

陶淵明が生きていた4世紀(西晋)の中国の「植物志」には、「石榴(ざくろ)・葡萄(ぶどう)・胡桃(くるみ)は張騫が大夏に使いして持ち帰った」と書かれているという。

明の時代(1596年発刊)の「本草綱目(ほんそうこうもく)」には、上記の果物に加えて「胡瓜(きうり)・胡豆(そらまめ)・胡麻(ごま)などの野菜も張騫が西域から漢に持ち帰った」と書かれている。

この「本草綱目」という書物は、当時の中国のベストセラーであったらしい。刊行から数年のうちに日本に伝来し、林羅山が徳川家康に献上したと記録にある。しかし、これらの果物・野菜の種子をすべて張騫が西域から持ち帰った、という説には無理がある。

大苑からの帰途の張騫は、すでに紹介したように匈奴に再び捕らえられ、内紛に乗じて命からがらゴビ砂漠を経由して逃げ帰ってきた。植物の種子を持ち帰る余裕はなかったと思う。張騫のたどったルートを、それ以降おびただしい数の漢の兵士や商人たちが往来した。何十年、何百年をかけて、これらの果物と野菜の種子が中国に運ばれたと考えられる。これらが中国大陸から、日本列島に入ってきたに違いない。


ラクダや馬の背に乗って、東方に旅したこれらの果物・野菜の種子は、当然のことながら西に向かっても旅をした。「本草綱目」に記述された果物・野菜だけではない。リンゴ・西瓜・大根・ほうれん草・ニンジン・玉ねぎ・ニンニクなども、中央アジア・西アジアあたりを故郷として、シルクロードを東に西にと旅をしたのである。このうち、西瓜の原産地はアフリカである。エジプトを経由してシルクロードを経由して中国に入った。

東方に旅する間に大きくなり、西方に旅する間に小さくなった野菜がある。大根だ。逆に東方に旅する間に小さくなり、西方に旅する間に大きくなった果物がある。リンゴである。

我々日本人が現在食べている西域を原産地とする、これらの植物のすべてが、東方(すなわち中国経由)ルートで入ってきたかというと、かならずしもそうではない。ニンジン・玉ねぎはシルクロードを西に旅をして、欧州大陸で重要視され、そのあと船に乗ってアメリカ大陸に渡り、アメリカを経由して日本に入っている。

「姫林檎」のように小さくなって観賞用になった林檎は、古い時代(おそらく平安時代)に中国経由で入ってきたが、大きな果実の「アップル」はアメリカ経由で明治になって日本に入ってきた。

ほうれん草は、古い時代に中国経由で入った葉っぱのとがった「日本ほうれん草」と葉っぱに丸みのある「西洋ほうれん草」の二種類が現在日本で栽培されている。私は「ほうれん草作りの名人」と郷里の仲間から言われている。両方のほうれん草を作っているが、「西洋ほうれん草」のほうが丈夫で作りやすい。


私は中学生の頃から、この果物・野菜の原産地がどこか、いつの時代に日本に入ってきたかということに強い興味を持ってきた。中学校時代の恩師の野島登先生が、力こぶを入れてこれらのことを教えてくださったからだと思う。受験勉強には役に立たなかったが、この知識は、自分の人生を豊かにしてくれたような気がする。

果物と野菜の原産地を知っておくと役に立つことが二つある。一つは、これらを栽培する時、果物・野菜に適した環境を作るヒントになる。この25年間私は郷里広島県の農園で野菜作りをしているが、原産地が乾燥地か多湿地かを知っているだけで、果物・野菜の出来に格段の差がつく。

今一つ、お客様や知人と夕食をする際に、この知識が役に立つ。食事のときの話題としてあたりさわりがなく、多くの方が興味を持って耳を傾けてくださる。英語の下手な私が外国人と食事をしたとき、下手な英語をごまかして、これらの「うんちく」で座が盛り上がったことが何度かある。

次回から、これらの果物・野菜の原産地や渡来のルートについての「うんちく」をご披露したい。











2023年5月10日水曜日

シルクロードの日本人伝説

 シルクロードのものがたり(16)

これから数回に分けて、シルクロードを旅した果物と野菜の話をしたいと思っている。その前に、2100年ほど時代を下り、日本の兵隊さんの話をしたい。


張騫が「大苑・だいえん」の南「康居・こうきょ」を訪問したのはBC120年ごろである。「康居国」とは現在のキルギス西部・ウズベキスタン東部にあたる。

それから2100年後、この地方を大地震が襲った。1966年4月26日のことである。震源地はタシケント市の中央部地下、マグネチュード5・2の直下型の大地震である。当時のタシケント市の人口は約200万人。民家の多くは日干レンガ作りであったので被害は甚大だった。約8万の家が崩壊し、約30万人の人々が戸外に放り出された。

余震が続くなか、36歳の主婦ゾーヤは、「みんな外へ出て! ナボイ劇場の建っている公園に行くのよ!噴水の周りに集まりましょう」 こう言って子供たちの手をつかんで外に飛び出した。近所に人々にも、「ナボイ公園に逃げましょう!」と声をかけ続けた。

ゾーヤがとっさにそう思ったのは、16歳の時、ナボイ劇場建設を手伝った時に聞いた日本人捕虜の言葉を思い出したからだ。たとえナボイ劇場が倒れていたとしても、公園には広い空き地があり安全である。ゾーヤはそう思った。

タシケントは天山山脈の西側に位置し、日本ほどではないが、地震が時々ある。

ソ連の捕虜となり、満洲からこの地に連行された日本人457人(隊長・永田行夫大尉)の工兵隊員が、ソ連の命令によりこの地に劇場を建設していた。ゾーヤたち現地の少女たちは、事務や軽作業であったが、この作業を手伝っていた。日本人捕虜たちはみな働き者で、ゾーヤたち現地の少女たちに親切だった。休息時間には日本の歌を教えてくれた。ゾーヤは今でも「さくら・さくら」や「草津節」を歌うことができる。

歌を教えるだけでなく、日本の兵隊たちは次のようにタシケントの少女たちに教えた。「日本は地震が多い。これは大きいぞ、家が倒れるかもしれないぞと思ったら、迷わずすぐに外に出て広場などに避難するのが良い」ゾーヤはとっさにその言葉を思い出したのだ。


ナボイ公園に着いた人々は、みんなが息を呑んだ。

ナボイ劇場はどこも崩れることなく、なにごともなかったかのように、すっくと建っていた。タシケント市のシンボルであるナボイ劇場が凛として建ち続けている姿を見て、多くのタシケント市民の目は潤んだ。この劇場の建設に携わったことを誇りに思っていたゾーヤは、涙が止まらなかった。

大地震にびくともしなかった日本人捕虜が造ったナボイ劇場の話は、またたくまに、当時のウズベク・カザフ・トルクメン・タジクなど中央アジア各地に伝わった。

この劇場が完成した時、ソ連邦政府は「日本人捕虜が建てたものである」とウズベク語・ロシア語・英語のプレートを劇場裏手の外壁に埋め込んだ。

1991年、ウズベキスタンはソ連から独立した。カリモフ大統領は「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことはない。日本人を捕虜にしたこともない」と指摘したうえで、「捕虜」という文字を削除させた。そして新しいプレートを作らせた。

「1945年から46年にかけて、極東から強制移送された数百名の日本国民がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と。文章の順番も、ウズベク語・日本語・英語・ロシア語の順に刻まれているという。

これをまとめるにあたり、嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜」を参考にさせていただいた。

ナボイ劇場 辻道雄氏提供






2023年5月1日月曜日

張騫とシルクロード(9)

 シルクロードのものがたり(15)

「中国とインドは近い!」 驚くべき武帝への報告(2)

武帝の肝いりで実行された「蜀(四川)からインドを経由してのアフガニスタン入り」の遠征は失敗に終わった。現在の中国・雲南省、ミャンマー北部に、いくつもの勇敢で狂暴な民族がいたからである。

現在の四川は、漢の武帝の頃にはすでに漢の勢力圏に入っていたが、雲南はその影響力の届かない「蛮夷の地」であった。

この時(BC126)から約350年たって、四川の地に劉備玄徳が諸葛亮孔明の力を借りて「蜀漢」という国を建国する。諸葛孔明の時代になっても、雲南は以前と同じく「蛮夷の地」であった。諸葛孔明はその晩年、蜀(四川)からみずから兵を率いて雲南方面に遠征している。この話は面白いので、ここでご紹介する。

そこには孟獲(もうかく)という狂暴な少数民族の頭(かしら)がいた。孔明は「孟獲を生きたまま捕らえろ」と全軍に命じ、その通り、孟獲は生きたまま孔明の前に引き出された。

「わが軍をどう思うか」と孔明は孟獲に聞いた。「お前たちの軍勢の実態を知らなかったので今回は負けた。たいしたことはないとわかったので、この次は負けはしない」と孟獲は答えた。孔明はそのやんちゃで勇気ある返答に好感を抱いた。「そうかそうか。でもこれからは我々に逆らうでないぞ」と笑いながら孟獲を釈放してやった。

ところが、孟獲はふたたび、蜀漢に対して謀反した。こうして、孟獲は七たび戦って七たび捕虜になった。そのたびに孔明はこの孟獲を釈放してやったという。孔明はこの孟獲というやんちゃで一本気な男がよほど好きだったようだ。

最後のとき、孟獲は立ち去ろうとせず、「丞相(孔明)は天帝のようなご威光をお持ちです。わたしたち南中の者は二度と謀反することはありません」と言って、心から降伏した。雲南地方の平定を完了した孔明は、孟獲を御史中丞という官職に任じ、土着の豪族たちにそれぞれ官位を与えたという。私はこの話がとても好きである。

私は雲南には行ったことなないが、今でも雲南地方には、この時の孔明の徳を慕って、「諸葛亮孔明を祭る廟」が各地にあると聞く。350年ほど先に進みすぎた。張騫と武帝の時代に戻る。


天明4年(1784)に発見された「漢委奴国王印」の金印は、後漢の光武帝がAD57年に、北九州にあった奴国の首長に与えたものだという。これと同じ大きさの「滇(てん)王之印」という金印が1955年に雲南省晋寧県で発掘された。この金印は「史記・西南夷列伝」の中に、漢の武帝が元封2年(BC109)に滇王(てんおう)へ王印を与えたという記述に一致する。北九州の金印と166年の差があるものの、同じ字体と形・大きさから察して、この二つの金印は「長安の同じ工房」で鋳造されたものであろう、と中国の研究者は語っている。

この四川から雲南を経由してのインド・アフガニスタン行きの試みが失敗した17年後である。4つのルートから山脈を超えようとした、と司馬遷は記録している。雲南省の地図を見ると、「大理石」で有名な大理、「プ―アール茶」で有名なプ―アールという地名が、雲南省西部の山脈のふもとに見える。遠征隊はおそらくこのあたりを通過したのであろう。

「滇(てん)族は漢の遠征隊を助けたが、昆明(こんめい)族は反抗した」と司馬遷は書き残している。武帝からの先ほどの金印は、滇族はこのとき漢の遠征隊に協力したことへのご褒美かと思える。

すなわち、当時の漢の皇帝から見れば、東方の北九州の奴の首長も、南方の雲南の首長も同じような蛮族の首長であった。南方の雲南は中国の一部になってしまった。かたや東方の民族は、いまだ踏ん張って独立を保っている。


おしまいにもう一つ、張騫の武帝への報告書の中で、私がはっと驚いた新鮮な記述を紹介したい。

「大苑(カザフスタン)から安息国(イラン)に至るまでは、言語は異にしていますが習俗は大いに似かよっています。その習俗は女子を尊重し、女子の言葉によって男子は事を決定します」と、女性の地位が高かったことが記されている。

2023年4月11日の日本経済新聞の朝刊には、次のようにある。

「アフガニスタン、女性100万人登校できず。タリバンが女性の教育と就労を禁止」

2100年前、この地方ではそうではなかったことが、司馬遷の記述で我々は知ることができる。