2020年4月27日月曜日

マスク2枚受け取りました

拝啓

安倍晋三様

先週の金曜日に、自宅にアベノマスクが2枚届きました。ありがとうございます。
虫も髪の毛も入っておりません。きれいで清潔です。

虫が一匹いた、汚れている、などの報道もあります。

虫がいたらつまみ出し、汚れていたら洗濯して、その後、熱湯消毒すれば問題はないのに、と私は思います。2億枚以上も用意するのですから、中に多少の不良品があるのはやむを得ないと思います。どうしてマスコミや野党の政治家は、鬼の首でも取ったかのように、あんなに安倍さんを攻撃するのでしょうか。きっと育ちが悪いのだと思います。あまり気になされないでください。

家内と娘に、「使ってみる?」と聞きますと、「いらない。お父さんにあげるよ」と言います。二人はどこかでマスクを仕入れているようです。よってこの2枚は私が使わせていただきます。

「お父さん、10万円は世帯主に届くようだよ。届いたらちょうだいね」と娘は言います。マスクはいらないが10万円は欲しいそうです。


安倍さんの今までの政治実績は、大変素晴らしいと思います。特に、世界の動きに目くばせしながらオリンピックをスムーズに1年延期した、あの政治手腕は見事です。並みの政治家にできることではありません。

それに比べると、コロナ問題では多少もたついていると感じます。
緊急事態宣言は10日前、全国民への10万円給付も最初からやるべきでした。10万円というのはさほどの金額ではありません。必要としない方も多いと思います。ただ、「気分」の問題です。このような時は、「国民の気分」を重視することが大切だと思います。

安倍さんご自身はそのつもりであった、と漏れ伝わってきます。

きっと財務省・厚生労働省・経済産業省の役人の抵抗が強かったのだと思います。
役人はけしからん、とは私は思いません。役人たちは、私利私欲ではなく、それが正しい、日本のためになると思い反対したのだと思います。官僚とは過去の延長線上でものごとを考えるものです。危機に際しては、これを正しい方向に導くのが政治家の仕事だと思います。


昭和20年の今ごろ、4月の下旬、陸軍は本土決戦をやるつもりでした。
本土決戦を行なえば、まず自分たちが先に死ぬわけですから、決して私利私欲ではありません。過去に自分たちが受けた教育や、軍人としての職務を通じて、「本土決戦を行なうことが日本にとって良いことだ」と、本当に思っていたのです。

鈴木貫太郎は、軍官僚たちをうまく導いて、良い方向に持っていきました。鈴木貫太郎だけの功績ではありません。陸軍大臣・阿南惟幾と参謀総長・梅津美治郎の二人が偉かったのだと思います。

本土決戦を叫ぶ陸軍次官、参謀本部次長以下の軍官僚の動きの中で、阿南大臣はそれに同調しているかのごとき言動でした。梅津総長は沈黙を保っていました。しかし、この二人は本心では本土決戦には反対でした。そして、本土決戦をくい止めるため、表面上の態度は別として、この二人は良い仕事をされました。

私は個人的には、麻生太郎という政治家が好きです。ズバリと本音を言う、その態度に好感を持っていました。実は私は、今回のコロナ問題で、麻生さんが阿南大臣の役割を演じてくれるのでは、と期待していました。しかし、現時点では、その役割を充分に演じているようには見えません。

でもこれは、私自身が未熟で、麻生さんの本心が理解できてないのかも知れません。
阿南陸軍大臣が、一緒になって本土決戦を叫びつつ、実は陸軍官僚のガス抜きをしていたように、麻生大臣もまた、財務省内部のガス抜きをしながら、良い方向に持っていこうと考えているのかも知れません。これから財務省を抑え・指導して良い仕事をやってくれるのではないか、と期待しています。


安倍さん。
お身体に気を付けて、麻生さんと力を合わせて、、どうぞこの国難を乗りきってください。
私は安倍さんを応援しています。ちょうだいしたマスクを着けて、コロナにかからないようにします。


追伸:

先日ブログに書いた、「天守閣のない江戸城」、安倍さんにお役に立つかも知れません。お忙しいとは思いますが、お時間があれば、覗いてみてください。


敬具

田頭信博












2020年4月22日水曜日

天守閣のない江戸城(4)

3代将軍・家光は、この異母弟・保科正之の人柄を愛し、その能力を高く評価した。数年後に山形20万石、その後、会津23万石に転封させている。

会津藩主として、「90歳以上には身分男女の区別なく終生一人扶持(ぶち)を与える」、「行き倒れの人間を見たらすぐに医者に診せろ。治療費がなかったらすべて藩が支払う」などの善政を敷き、またたくまに領民の信頼を一身に集め、会津藩の行政は全国の模範となる。

家光は臨終のとき、正之の手を握り「家綱を頼む」と後見を託し、「萌黄色(もえぎいろ)の直垂(ひただれ)」を与えた。家光は萌黄色が好みで、将軍と同じ色の直垂を着ては申し訳ないと、大名たちが遠慮したため、この色は事実上禁色となっていた。これを家光が正之に与えたことは、「将軍に準じる者として行動せよ」と命じたも同然だった。事実、大名や旗本たちはそのように理解した。

11歳の4代将軍・家綱の後見人となった正之は、江戸城を離れることができず、それ以降の23年間、会津藩の藩政のすべては名家老・田中正玄がとり仕切る。

家光の死の6年後におきたのが「明暦の大火」である。
この時の正之の行動は、果敢かつ大胆であった。そしてなによりも敏速であった。危機に遭遇すると庶民だけでなく為政者側もパニックにおちいる。断固とした指導力が必要となる。

本人の指導力も立派であったが、この時、家光が与えた「萌黄色の直垂」が正之の発言に重みを与えた。家光は将来のこのような出来事を想定していたのであろうか。


明暦3年(1657)の大火で江戸の大半が焼失し、焼死者は10万人にのぼった。
このとき保科正之が出した指示は後世の参考になる。

①現在の台東区・蔵前に幕府の大きな米蔵があった。火消し役は前日からの消火でことごとく出払っている。半日もすればここも焼け落ちる。このとき正之は、消火活動と難民救済の両方を兼ねてユニークな指示を出す。

「蔵前の米蔵に走って、その米を取り出せば取り放題だ」、とのお触れを出した。幕閣の重役たちから反対論が続出する。曰く、「取った者勝ちでは不公平になる」。曰く、「多くの人が殺到するので危険である」  すべて正論である。

それでも正之はこれを強行した。「焼けてなくなるよりは良い」と。

難民は火を消しながら米蔵に殺到し、そこから米を運び出した。人は一日に二升も三升も食えるものではない。あとで調べてみたら、多くの米を持ち帰った者はみな周辺の人たちに分け与えていた。火事場泥棒的にこれを転売して財を成したものはいなかった。正之は危機に遭遇した時の日本人の気質を知っていたのであろう。

②この時の出来事で興味深い話がある。

この大火で、火は墨田川までおよび、伝馬町の牢獄も火に囲まれた。幕閣に指示を仰ぐ時間がない。牢奉行・石田帯刀は、まかりまちがえば腹を切る覚悟で、すべての囚人を解き放った。そのとき、「火がしずまれば下谷(したや)のれんけい寺にもどって来い」と伝えた。

げんに一人をのぞき、数百人のすべてがもどってきたという。帯刀は囚人たちの義に感じ、老中に命乞いをしてすべての囚人を赦免した。ひとつには牢が焼けていて、かれらを収容する施設がなかったこともあったらしいが。

一人だけ故郷の村に潜伏して帰らなかった。村人が彼を説いて後日自首させたが、帯刀はこの男だけは許さず、できたばかりの新築の牢獄にぶち込んだという。

なんとなく良い話である。

史書には残されていないが、老中から相談を受けた保科正之の判断だったのかも知れない。

③このとき正之は、家を失った庶民たちに救済金としてすぐさま16万両を配っている。あまりに巨額の支払いに驚いた幕閣が、「それでは緊急用にたくわえている御金蔵のお金がなくなってしまう」と反対した。これに対して正之は、「御金蔵の金というものはこのような時に使うために貯めてあるのだ。今使わないといつ使うのだ!」と一喝して、すぐさま実行した。

④そして、冒頭の天守閣の話にもどる。
大火後の復興が順調に進みはじめたころ、武断派の幕閣から、「天守閣は江戸城の象徴だから再建しよう」との声があがる。これに対して正之は、反対を主張する。

「天守閣というものは織田信長が安土城を建てた時つくったもので、たいして歴史のあるものではない。同時にそれほど役に立った例はない。てっぺんに登れば見晴らしが良いだけのものである。天守閣がないからといって徳川幕府の威信はいささかも揺るがない」、そして、「そのようなものを造る金があれば江戸庶民の生活を優先すべし」と締めくくった。


このようなわけで、現在でも江戸城には天守閣がないのである。

幸か不幸か、東京オリンピックは来年に延期された。時間は充分にある。コロナ問題が落ち着いたら、東京の一流ホテルが協力して、来年、世界中から来られるお客様に知っていただくために、「なぜ江戸城に天守閣がないか」を数か国の言語で、美しいパンフレットを作ったら良いと思うのだが、いかがであろうか?


この稿をまとめるにあたり、中村彰彦氏の名著・「会津武士道」と、司馬遼太郎著「街道をゆく・本所深川」、を参考にさせていただいた。













2020年4月13日月曜日

天守閣のない江戸城(3)

この時の見性院の返答は、すでに50歳を超えていた女性とは思えぬ堂々たるものだった。

「自分は女であるが、世にも知られた武田信玄の娘である。承知いたしました。この子は自分が引き取ります。母子ともに、すぐに自分の屋敷に連れてくるように」と即答して、翌日にはお静と幸松を田安門内の屋敷に引き取ったのである。これ以降、お江与の方の幸松に対する迫害はぴたりと止んだ。

2歳に満たない幸松という名の家康の孫は、自分の知らぬ間に、今度は武田信玄(すでに亡くなっていたが)の孫ということになった。死後40年が経っていたが、武田信玄の名前は徳川幕府内においても、当時大きな重みを持っていた。

なによりも、家康自身が信玄のことを崇拝していた。若いころ武田軍団に敗北した家康は、それをうらみとせず、むしろそれを手本として武田の軍略を学ぼうとした。

信長勢に敗れた武田の遺臣を陰で助け、自分の陣営に引き入れた。同時に信玄亡き後、勝頼に不満を持つおもだった武将に礼を厚くして、自分の側に取り込んでいた。いわば、有能な人材を積極的にヘッドハントしていたのである。

実は、見性院の夫もその一人であった。信玄の副将で武田氏の一族でもあった穴山梅雪は、信玄が死んで勝頼の代になると、勝頼の能力を見限って徳川家康の側についている。その後この人は、家康の部下として戦死する。義理堅い家康は、その未亡人を手厚く保護し、江戸田安門内に住居と600石を与えて住まわせた。見性院は尊厳を保ったかたちで江戸で余生を送っていた。

この子を養子にすることで武田家を再興できるかもしれない。見性院はそう夢見ていたのかも知れない。

しかし見性院の周辺には女性しかいない。男の子を立派なサムライに育てるには、立派な武士のもとに置かねばならない。幸松が6歳の時、見性院が一番信頼していた信濃・高遠藩主・保科正光のもとに幸松を預ける。このあたりの判断力は、さすが信玄の娘である。

織田軍団5万に包囲されながら、3千の兵をもって一歩もひかず、全員が城内で玉砕した時の高遠藩主は、見性院の異母弟で、その時26歳だった仁科盛信である。盛信の副将格であった保科正直はその時、武田勝頼の人質となっていて、高遠城にはいなかった。

話は飛ぶが、先述した「人間魚雷・回天」で第一陣として、ウルシーの敵艦隊に突撃した仁科関夫中尉は長野県出身と聞いている。この仁科盛信とご縁のある方なのであろうか。


後日、おそらく家康の配慮であろう。この高遠藩主に正直の息子の正光が充てられている。この保科正光という人は勇者かつ律義者で、武田家が滅びて20年も経つのに、見性院に対して中元・歳暮などの季節のあいさつを欠かさなかった。見性院はこれを徳としていた。

見性院からの頼みを快諾した正光は、2代将軍・秀忠の意向もたしかめ、「養子分にいたし養育せよ」との秀忠の返事を得る。このとき高遠藩は2万5千石だったが、幸松の養育費として徳川家から5千石を加増され、3万石となった。

幸松は20歳の時、保科正之の名で高遠藩主となる。母のお静も一緒に高遠で暮らしたというから、お静の晩年は幸福なものであった。

保科正之の聡明で勇敢、かつ慈悲深い人間性は、この草深い信州の小さなお城で養われたのである。













2020年4月8日水曜日

天守閣のない江戸城(2)

この ものがたり を続けるには、数奇な運命のもとに生まれた幸松(こうまつ)という名の赤ちゃんのことを語らなくてはならない。

この赤ちゃんは、慶長16年(1611)5月7日、お静という女性を母として、神田白銀町にある静の姉むこの家でひそかに産み落とされた。父親は2代将軍・徳川秀忠であるから、3代将軍・家光の7歳年下の異母弟になる。

2代・秀忠には、父が浅井長政・母が織田信長の妹である、お江与の方(おえよのかた)という正室がいた。秀忠より6歳年上で、気性が激しく嫉妬心が強かった。当時は血統を保つために側室を置くことはあたりまえだったが、お江与の方はこれを許さなかった。

しかし、秀忠は自分のかつての乳母にお付きの静という若い女性に手をつけた。手をつけたというより、元乳母が手引きをしたように思える。

男子を出産したことは、静の義兄が町奉行所に届け、さらに老中の土井利勝を通じて秀忠に伝えられた。しかし秀忠は、「覚えはある」と言うだけで、お江与の方が怖くて認知しない。老中を通じて、お静に徳川の子としての証である 「葵の紋付の小袖」を届けるものの、生まれた子を江戸城に呼ぼうとしない。いわば、私的には認知するが、公的には認知しないという態度だった。

しかしやがて、幸松の存在をお江与の方が知るところとなる。この人はご落胤情報に敏感で、配下に命じて情報網を張りめぐらせていた。いるとわかれば抹殺する考えである。実際に、幸松に対して刺客が放たれた形跡がある。

父である将軍からは認知も援助もなく、御台所(みだいどころ・お江与の方)からは刺客を放たれる母子を救ったのは、武田信玄の次女・見性院(けんしょういん)であった。幸松1歳10ヶ月の時だ。

土井利勝と本多正信(ともに家康の側近で、この時の老中と大老)の二人が見性院を訪問し、「幸松様をそのもとのお子として御養育するようにお頼みしたい」との秀忠の内々の上意を伝えた。
史書はこのように伝えている。

しかし筆者は、この指示は当時34歳の秀忠ではなく、70歳の徳川家康から出たものだと考えている。幸松誕生の報は、すぐさま幕府の重役から駿府に隠居している家康に伝えられていた。
幸松は家康にとって実の孫である。

息子・秀忠の嫁のお江与の方の動きには問題があるものの、お江与は家光・忠長の二人の男子を産んでいる。自分がお江与の方を説教するよりも、幸松を見性院のもとに預けるほうが万事穏便に解決する。家康はこう考えたのではあるまいか。

翌年、大阪冬の陣に出陣する徳川家康は、この時70歳ながら頭脳明晰、体力気力共に充実していた。見性院自身、これが家康からの指示であることを認識していたようである。ということは、幸松の命を助けたのは祖父の家康であったといえる。







2020年4月7日火曜日

天守閣のない江戸城

15年ほど前のことである。皇居前のパレスホテルでお茶をして内堀通りを歩いていたら、ボランティアの人たちが署名運動をしていた。その演説やパンフレットから、「江戸城の天守閣を再建しよう」という活動らしい。

「大阪城・名古屋城・姫路城には天守閣がある。江戸城にも立派な天守閣があったのです。火事で焼けて今はない。外国からの観光客は不思議に思っている。このままでは日本の恥です。これを再建すれば日本の人も喜び海外からの観光客も増える」というのが彼らの主張らしい。
「まずは100万人の署名を集め、東京都と国に陳情する」とおっしゃっていた。

たしかに明暦の大火(1657)で江戸城の天守閣は焼け落ちた。徳川4代将軍・家綱の後見人であった保科正之(ほしな・まさゆき)という人が、「そのようなものを造る金があれば江戸庶民の生活を優先すべし」と一喝し、鶴の一声で、天守閣の再建は取り止めになったのだという。

以来、15代・徳川慶喜に至るまで、歴代の将軍のだれもがこれに手をつけなかった。維新ののち江戸城は皇居となったが、5代の天皇のだれからも、天守閣再建の声はあがっていない。江戸城の主のすべてが、この保科正之の考えを「是」としていたからであろう。

同時期の欧州であれば、おそらく早々と城の再建がなされたに違いない。中国や朝鮮なら、民の生活を犠牲にしてでも、すぐさま実行されたと思う。徳川幕府の威光が隆々たる時であったから、その気になれば天守閣の再建など楽々とできた。しかし行わなかった。これが日本の「お国柄」である。


私はボランティアの方々にこの話をした。
「恥ではありません。天守閣のない江戸城はむしろ日本の誉(ほまれ)だと思います。なぜ江戸城に天守閣がないのか、外国の人々にていねいに説明してあげるのが良いと思いますよ」と。

しかし彼らの反応はかんばしくない。わからずやのおじさんが変なこと言っているよ、といった感じで白い目で睨まれてしまった。価値観の違う人に説明しても分かってもらえるものではない。私はそれ以上は語らず、しょんぼりとその場を立ち去った。

あれから15年ほど経つが、江戸城の天守閣再建の話は聞こえてこない。もしかしたら、私以上にこの話をよくご存じで、保科正之の考えを「是」とする日本人が数多くいらっしゃるのかも知れない。嬉しいことである。





2020年4月1日水曜日

人間魚雷・回天(3)

先述したように「回天」の意味は、この新兵器により負け戦(いくさ)の続いている戦局を逆転させたい、天を回すように戦局を一変させたい。このような乾坤一擲の思いを込めて、黒木大尉は「回天」と名付けることを提案した。長い間、私はそう考えていた。

ところが20年ほど前、中国の古典を読んでいて、「回天」という言葉にまったく別の意味があることを知った。「誤った天子さまの心を、もとの正しい心にひきもどす」という意味があるのだという。

残念ながら出典は覚えていない。うろ覚えの記憶だけが頼りなので、多少の間違いがあるかもしれない。たしか、唐か宋の時代の話だったと記憶する。

古来中国においては、天子さま(皇帝)が一度くだした言葉(勅語・ちょくご)をくつがえすことはできない。しかし、皇帝の誤った命令によって多くの民があきらかに不幸になると考えられる時は、臣下は皇帝に進言できる。制度上これは可能だったという。これを直諫(ちょっかん)という。

ただし直諫した臣下は、このあとすぐに自決しなくてはならない。これを諫死(かんし)という。進言が当初の案に比べて悪い結果を招くことがある。これでは天子さまにも民にも申し訳ないので、一死をもって償うという考えには納得できる。進言が正解で、国家にも民にも良い結果をもたらしたとする。この場合でも自決しなくてはならない。なぜなら、本人の存命中は問題ないであろうが、本人の死後、忠臣の子孫が政治勢力を拡大させ、何十年か後、国政を誤らす可能性があるからなのだという。

そういえば、「うつけ者」と呼ばれていた少年時代の織田信長を直諫した家老が、そのあとすぐに自決したのを、昔、映画で観た記憶がある。


気になって手元にある広辞苑(第二版・昭和51年刊)を開いてみた。たしかに、そう書いてある。
[ 回天 ](天をひきまわす意)
①時勢を一変すること。衰えた勢いをもりかえすこと。
②天子の心をもとの正しさにひきもどすこと。  とある。
念のため、平成19年の第六版の広辞苑を開いてみた。こちらには旧版②の意味は削られていて、②第二次大戦末期、日本軍が敵艦への体当たり攻撃に用いた人間魚雷。とあった。

東洋思想に造詣の深かった黒木大尉は、この二番目の意味を知っておられたのではあるまいか。
もしかしたら。もしかしたら。と私は思った。

「天皇陛下様。この戦(いくさ)は勝ち目がございません。このままでは日本国民に塗炭の苦しみを与え、民族は滅亡します。我々は敵の艦隊に体当たりして立派な戦果をあげてみせます。戦局を好転させてみせます。これを講和の材料として、名誉ある形でこの戦をやめて下さいませんか」

黒木大尉はこのような思いを込めて、この兵器に「回天」と名付けることを提案したのではあるまいか。

このような気持ちを持って、私はこの20年、回天に関する新しい書籍が出るたびに購入して、目を皿のようにして読んでいる。しかし、どの書物にもこのようなことはひと言も書かれていない。黒木大尉・仁科中尉の遺書や日記をたんねんに読んでみたが、これを裏付ける言葉は片言もない。

私の誤った想像であろうか。それとも、回天という言葉が持つ二つの意味の、まったくの偶然なのであろうか。私は不思議な気持ちを抱きながら、この20年、時々このことを考えている。


そして、出撃の時、すでに走航開始した伊号潜水艦の艦上から、軍刀を振りながらこちらを向いて、あとに残る日本人に別れの挨拶をする回天隊の若者たちの姿が見える。

じっと耳を澄ませば、彼らの声が聞こえてくる。

「日本人よ負けないでください。そして、どうぞ幸せになってください!」  




















人間魚雷・回天(2)

いつ、誰が名付けたか、表向きわかっている。昭和19年8月1日、海軍大臣の決裁がおり、「06金物1型」は正式に兵器に採用され、黒木大尉の提案通り、「回天1型」 と命名された。

この時、米内光政海軍大臣が命名したのである。開発した黒木大尉の意をくんだといわれる。それでは黒木大尉はどのような意味を込めて、この兵器に「回天」と名付けようとしたのか。常識的に考えれば、この兵器の出現によって天を回すように、時勢・戦局を一変させたいとの思いであろう。

しかし、私はこの20年ほど、回天の持つ別の意味について考え続けている。

19年8月1日という日は、戦局的にみて重要である。6月19日・20日のマリアナ沖海戦での日本海軍の大敗北から2ヶ月余、7月7日のサイパン・テニアンでの陸海軍の玉砕から1ヶ月後である。
マリアナ群島からの米軍機による本土爆撃が現実のものとなり、大本営がはっきりと負け戦を意識した、その時である。

「回天」が黒木博司大尉・仁科関夫中尉の二人によって研究開発されたことは知られている。黒木大尉は大正10年9月生まれ、海軍機関学校51期(兵学校70期コレス)、岐阜県の医者の次男。
仁科中尉は大正12年4月生まれ、海軍兵学校71期、長野県出身の教育者である父親の勤務地の滋賀県で生まれている。

両人とも大変な読書家で、特に黒木大尉は東洋思想・国学に造詣が深かった。仁科が潜水学校を卒業後、呉海軍工廠魚雷実験部ではじめて黒木に会ったのは、18年の12月である。黒木は1年前からこの基地にいた。同室となった二人は、兄弟のような親密さで体当たり兵器の開発を共にすすめた。

二人は人間魚雷の設計図を携え、18年12月28日、海軍省軍務局を訪問している。第一課長の山本義雄大佐(46期)に面会を求め、新兵器として採用されることを強く懇願した。

「山本課長は二人の説明のあと沈思熟考していたが、二人の憂国の熱情に敬意を表し、その研究努力を賞賛した。だが、兵器採用については種々問題があることを諄々と説き、時機到来を待つよう説得した」と、水雷参謀・鳥巣建之助中佐は、著書「人間魚雷」に中で記述している。

「帝国海軍としては、まったく生還の可能性がないものを兵器として採用することは出来ない」というのが、山本大佐の考えであった。理性ある合理的な考え方が、海軍省には残っていた。

却下されたものの、二人は呉に帰り、引き続きこの兵器の研究に没頭する。そして艦政本部・海軍省に対して具申を続ける。19年2月末、人間魚雷の試作が海軍省により決断され、「06兵器」と名付けられた。日に日に戦局が悪化していたからである。7月に入り、2基の試作兵器が完成し、7月25日、有人航走テストに成功した。その日の午後、呉基地でこの兵器の研究会がが開かれた。

この会議でも、生還の見込みがまったくないことが問題になった。兵器の性能を多少犠牲にしてでも脱出装置を考えられないか、という意見が海軍省や軍令部の一部から出た。この事実には注目してよい。

しかし、敵地に単独で乗り込んで奇襲するこの兵器からの脱出は、捕虜になることを意味する。黒木・仁科二人の必死の要請で脱出装置の件は取り止められた。このような経緯のあと、8月1日海軍省はこれを兵器として採用し、黒木大尉の提案を受け入れ、「回天」と命名した。


黒木大尉はこの1ヶ月後、山口県の大津島で訓練中に殉職した。仁科中尉が黒木大尉の遺骨を胸に抱き、ウルシーの敵艦隊に突入したのは19年11月20日のことである。










人間魚雷・回天

「カイテン」という言葉をはじめて聞いたのは15歳の春だった。

広島県の中学を卒業した私は岡山県の高校に入学し、山の中にある寄宿舎に入った。大正時代に造られた古ぼけた建物で、北寮と南寮とがあった。同級生は約50人で、岡山県の人が半分、残りは四国・九州を含む西日本の各県から集まっていた。東京・京都から来た少年もいた。

夕食のあと、気の合う友人の部屋で雑談した。皆15歳の少年だ。たわいもない郷土自慢である。
別府から来た少年は、口をとがらせて温泉の熱でゆで卵ができると力む。岡山県最北端出身の少年は、清流の水が飲める。そこには岩魚がうようよいるんだ、と自慢する。

各人のお国自慢が終わりかけたころ、部屋の片隅で暗い顔をして我々の会話に加わらなかったSという少年が、突然口を開いた。

「カイテンタイの人たちはだまって死んでいかれたんじゃ。わしらはこのことを忘れてはいけんのじゃ」 「なんじゃ、そのカイテンタイというのは?」
「いや。この話はよその人に話してはいけん、とお爺ちゃんが言うちょった」

自分から言いだしたくせに、その少年はそれだけ言って口をつぐんだ。少年は山口県の光市の出身だという。その時、「カイテンタイ」というのは恐ろしいもの、悲しいものとの印象を持った。ただそれ以降、この話は高校時代は話題にならなかった。

これが「人間魚雷・回天特別攻撃隊」のことだと知ったのは、大学に入ったあとである。以来、回天に関す本に出くわすと、かたっぱしから購入した。今手元にあるものを数えてみたら16冊ある。
著者はこの作戦に従事した参謀や、生き残られた回天隊の士官や下士官で、みずからの体験を書き残されている。戦後70年以上経った今でも、新たに回天関係の書籍が出版されている。

日本の現状を憂い、あとに残る家族や国民の幸せを願い、黙って死んでいかれた若者たちの行為が、今なお多くの日本人の胸を打つからであろう。

回天作戦にかかわった方々の名著が数多くある中、戦後生まれの私が改めて回天特攻について語るつもりはまったくない。

私が考えているのは、この兵器につけられた「回天」という名前そのものについてである。いつ、誰が、どのような意味・思いを込めて、この必死必殺兵器に「回天」という名をつけたのであろうか。