2020年3月24日火曜日

高麗神社(4)

ここには、ほかの神社にはない不思議な建造物がある。直径50-60センチ、高さ4メートルほどの北米にあるトーテムポールに似た石柱で、二つある。

左側の石柱の上部には奇怪な男性の顔が彫ってあり、下半分には「天下大将軍」と文字が彫ってある。右の女性像の下には「地下女将軍」とある。なんだか神社には似合わない。
新しいもので、建造されてさほど年月は経ってない感じだ。

調べてみると「将軍標・しょうぐんひょう」というもので朝鮮の風習らしい。てっきり、半島の北部出身の在日の成功者が寄贈されたのだろうと思っていたら、そうではなく、「平成四年に大韓民国民団埼玉地方本部が奉納した」のだという。私は頭を抱え込んでしまった。

新羅の流れをくむ大韓民国の団体が、「あの時は申し訳ございませんでした」と詫びを入れ、度量の広い高句麗の流れをくむ宮司さんが、昔の恨みを水に流し受け入れたのであろうか。

このあたりのいきさつが知りたいと思い、再度この神社を訪問した。宮司さんはご不在で、権禰宜(ごんねぎ)という若い神官が親切に対応してくださった。ただ、右のいきさつについてはご存じなかった。のみならず、1300年以上前の高句麗と新羅との戦いなど、まったく意に介してない様子である。

「日本人の参拝者がいちばん多いですが、在日の北出身の方も、南出身の方も、みなさんお参りしてくださいます。近頃は韓国からの旅行者の参拝もずいぶん多いです。ありがたいことです」

かならずしも私の疑問を解消してくれる答えではなかったのだが、この若い神官のあっけらかんとした態度は、私の胸に響いた。考えてみれば、この若い神官の回答・ふるまいこそが、神社のあるべき本当の姿なのかも知れない。

「日本の神社はお参りしてくるすべての人を受け入れる」という。

その人の地位・貧富・人種・性別など一切とんしゃくしない。たとえ犯罪者であろうとも、神社は快く受け入れてくれる。そうであるからでこそ、日本の神社は尊いのである。私のように1300年前の高句麗と新羅の戦いの話を持ち出して、ぐちぐちと考えるのは恥ずかしいことのように思えてきた。

そう思うのであるが、奇怪な将軍標より、神社には狛犬(高麗犬)が似合う。
エジプトやオリエント地方の獅子像がシルクロードを通って中国に入り、そして高句麗を経由してわが国に入ってきたのが「狛犬」だと聞く。

なんといってもここは、高句麗王・若光を祀る由緒ある古社である。ほかの神社が度肝をぬくような巨大で迫力ある狛犬像を設置して、睨みを利かせて欲しいと思った。

2020年3月22日日曜日

高麗神社(3)

古代朝鮮半島の国々と倭国との関係を調べてみて、興味深いことがある。

倭国が任那・百済と友好関係にあったことはよく知られているが、この高句麗との関係も良い。高句麗滅亡のあと、その遺民が建国した渤海(ぼっかい・698-926)も、日本に親しみを寄せしばしば通交し、ある意味日本に対して甘えている。大和朝廷もこの渤海に対しては、とても好意的に対応している。

日本国の一部という認識なのか、あるいは親戚という意識なのか、「続日本紀」はこの国のことを「渤海郡」と表記している。「日本が兄、渤海が弟」という認識が両者にある感じがする。

唯一、新羅(しらぎ・359-935)との関係だけは、ほぼ一貫して良くない。新羅は中国の王朝から冷たくされると、時として倭国にすり寄ってくることもあるが、おおむね中国の子分筆頭をもって自らを任じ、中国の威を借りて倭国に対して「上から目線」でものを言ってくる。倭国がいかに誠意を持って対応しようとしても、新羅は倭国をつねに目のかたきにする。

「日本書紀」や「続日本紀」を読んでいると、「新羅だけはどうにもならん。嫌な国だよ」との「空気」が大和朝廷の内部に漂っている。この新羅の遺伝子を濃厚に受けつでいるのが大韓民国だといわれている。もしかしたら100年後、北朝鮮と日本は仲良しになっているかも知れない。でも韓国と日本の関係は現在とあまり変わってないのではあるまいか。1500年間の両国の関係を眺めていてそのように感じる。

国同士の関係はそうなのだが、不思議なことに、個人と個人の関係になると、かならずしもそうではない。

少し時代は下るが、承和5年(838)から10年間入唐留学した僧・円仁は、行きも帰りも、さらに唐に滞在中も新羅人に大変世話になっている。当時、中国の山東半島一帯には多くの新羅人海商が活躍していた。円仁の人柄が気に入られたのか、在唐の新羅人は陰に日向に円仁を助けている。後日、円仁は「新羅人の助けがなかったら自分は生きて帰れなかった」とまで語っている。

日本史でいう弥生時代から奈良時代にかけて、おびただしい数の人々が、半島の政情変化や戦乱のたびに倭国に亡命してきた。大和朝廷は親切にこれらの人々を受け入れている。任那・百済・高句麗からの亡命者が多いのは理解できるが、不思議なことに新羅からの亡命者も多い。新羅国内での政争に敗れた人たちが渡来したのであろうか。

国と国との対立はさておいて、「倭国に行けば食えるぞ」との常識が、当時の新羅の人々の頭にあったからだと思う。日本列島の風土は稲作に適している。渡来系の人々が持ってきた鉄器や土木灌漑の技術により、農業の生産性が飛躍的に向上していたのである。


そう考えれば、弥生時代から奈良時代に至る千年間のわが国は、あたかも建国から現在に至るアメリカ合衆国と同じく、「移民受け入れ超大国」 だったといえる。

そしてこの移民たちのエネルギーが、農業を中心とした産業や文化の発展向上につながり、倭国すなわち日本の国力を充実させる要因になったと考える。







高麗神社(2)

名前から、ここが渡来系の人をお祀りした神社であることがわかる。

この高麗(こま)は高句麗(こうくり)のことで、新羅の滅亡後に朝鮮半島を統一した高麗(こうらい・918-1392)はまったく別の国である。高句麗はBC1世紀頃、中国の東北地方(一時期満洲と呼ばれた地域)に興り、その後は朝鮮半島の北半分も有し、平壌に都した。中国文化を取り入れた強大な先進国であった。隋は高句麗を攻略しようと遠征軍を送り、失敗して滅びている。

仏教や漢字の伝来が百済(くだら)経由であったことから、私は今まで、古代日本史に与えた百済の影響を過大に考えすぎていた。初期の大和朝廷に与えた文化的な影響力は、むしろ高句麗のほうが大きかったらしい。このことは最近になって知った。

しかし、建国から700年後、高句麗は唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた。白村江の戦いでわが国が唐・新羅に敗北した5年後であり、天智天皇の7年(667)のことである。

朝鮮半島での倭国の敗北が高句麗の立場を弱くしたのである。この時、数多くの高句麗の王族や遺臣がわが国に亡命した。これらの人々は、いわば上流階級の人々であった。
高句麗に対しての同情が強かったのであろう。大和朝廷はこれら亡命者を親切に取り扱っている。


それから数十年後のわが国の史書に、これらの人々の「その後」が書き残されている。
「続日本紀」、元正天皇の霊亀(れいき)2年(716)の箇所に次のようにある。

「五月十六日。駿河・甲斐・相模・下総・常陸・下野の七ケ国にいる高麗人、千七百九十九人を武蔵国に移住させ、初めて高麗郡(こまぐん)を置いた」

その範囲は、現在の埼玉県日高市・飯能市・鶴ヶ島市の全域と、川越市・入間市・狭山市の一部に及ぶ、というから相当広い地域である。

現在の関東地方周辺の各地に、二百人、三百人単位で散らばって生活していた高句麗の人々に対して、「埼玉県南部に広い土地を用意しました。皆さんここに一緒に住みなさい」と大和朝廷は命じたのだ。その理由は書かれていない。

同じ地域に集めて安住させるのが渡来人を遇する道と考えたのか、あるいは倭人とのトラブルなどの別の理由があったのか、よくわからない。いずれにせよ、これらの人々が鉄器の使用を含めた祖国の高い技術をもって、関東地方の荒野を切り開き、ここを豊かな穀倉地帯へと変える開拓者になったことは、充分想像できる。

このとき、高麗郡長に任命されたのが高麗王若光(こまおう・じゃっこう)という人である。大和朝廷から従五位下(じゅごいのげ)という位階(いかい)をもらっている。当時の武蔵国守と同程度の位階であり、一郡長としては破格である。この若光の徳を慕い、その霊を祀ったのがこの神社の始まりである。若光の子孫が代々宮司をつとめ、現在の宮司は六十代目の高麗文康氏であると聞いた。







2020年3月17日火曜日

塩と大豆・国家非常時の輸送

昭和19年12月末、大東亜省に勤める31歳の大来佐武郎(のちの外務大臣)は、大陸出張を終え、釜山経由で帰国した。B29の落とした機雷や潜水艦攻撃で対馬海峡は危険だった。

満洲には鉄鉱石・銑鉄・石炭・アルミ原料・塩・大豆が大量にある。しかし、大陸との海上輸送を維持できるのはあと半年、昭和20年6月か7月までだろうと思った。「そうであれば何を運ぶのが一番日本のためになるのか?」と大来は考える。

20年1月早々から多くの識者に意見を聞いてまわった。その中の一人、化学工業統制会会長の石川一郎(戦後・初代経団連会長)は即座に言った。「それは塩と大豆です。塩は人間の生存に欠くことができない。大豆はカロリーの高い蛋白源です」

なっとくした大来は、「塩と大豆を輸送すべし」との報告書をまとめ、上司とともに陸軍省・海軍省を説いてまわった。軍は鉄やアルミにこだわるのではないかと懸念していたが、意外にすんなりと同意した。陸軍の軍務課長は、「それは大事だ。最後のぎりぎりには本土決戦になる。その場合にはやはり食糧がいちばん大事だ」と言った。

ただ、輸送のための船舶が極端に不足している。1万トン・五千トン級の大型船の多くは沈められている。残った大型船も港に入港できない。米軍は日本海側の大きな港を封鎖しようとして、関門海峡に続いて宮津・舞鶴・敦賀・七尾・伏木・直江津・新潟に、B29が次々と機雷を投下してきている。

頼みの綱は「八八・はちはち」だった。正式には「戦時標準船のE型」という。総トン数880トンの小型船だ。20人ほどの船員が乗り、大豆なら1150トン積める。この「八八」に加え軍の上陸用舟艇も動員した。これらのドラフトの浅い船なら小さな漁港にも入港できる。春から夏の時期で天候にも恵まれた。各船は危険覚悟で1割以上の積み増しをして続々と漁港に入港してきた。


荷揚げ作業の主力は漁師のおかみさんたちだった。1000余トンの大豆の内、いくばくかを現物支給したらしい。食糧不足のこの時、現金以上に嬉しい報酬である。

このようにして、半年足らずの間に、朝鮮半島経由で日本海側の漁港に緊急輸送された塩は26万トン、大豆などは74万トンと記録にある。これらは、8月15日以降に起こった食糧難とそれにともなう混乱に対して大いに役立った。


日本人は、本当の国難に遭遇した時には、官民が心と力を合わせて、これを克服する英知と伝統を持っているように思える。

「東奔西走」 大来佐武郎自伝
「昭和二十年」 鳥居民著






2020年3月13日金曜日

神社のものがたり・高麗神社

東京の近くに出世開運に霊験あらたかな神社があると聞き出かけてみた。高麗(こま)神社という。
自宅のある中央線沿いの駅から八王子に行き、そこで八高線に乗り換えて高麗川駅で降りる。
神社は駅から徒歩20分の場所にある。

大正の後半から昭和初期にかけて、この神社にお参りした何人もの人が、たちまち立身出世をしたのだという。それほど大きくはないが、うっそうとした樹木に囲まれた、歴史を感じさせる風格ある神社だ。社務所発行の由来書(ゆらいがき)はコンパクトだが良くまとめられている。

水野錬太郎氏
大正11年6月7日参拝  同年同月12日内務大臣
若槻礼次郎氏
大正14年9月13日参拝  翌年1月30日内閣総理大臣
浜口雄幸氏
昭和3年9月15日参拝  翌年7月2日内閣総理大臣
斎藤実氏
大正14年1月29日参拝  昭和7年5月26日内閣総理大臣
児玉秀雄氏
昭和9年9月30日参拝  同年翌月25日拓務大臣

水野錬太郎という人は、初期の東京大学を出て官僚になり、その後政治家に転じた人で、大学予備門では正岡子規や夏目漱石と同級である。児玉秀雄は日露戦争時の陸軍大将・児玉源太郎の長男で、太平洋戦争中はジャワの軍政顧問のトップとして、今村均大将を助けた人だ。

あらたかな霊験で世間を唖然とさせた神社だが、その後は鳴かず飛ばずの時期が続く。

世間がこの神社のおそるべき霊験を忘れかけていた70年後、この神社はふたたびホームランをかっ飛ばす。なんと、あの鳩山由紀夫氏がこの神社を参拝してすぐに、内閣総理大臣に就任したのである。

「なに、あの鳩山さんでも総理になったのか!」
ひとびとは、この神社の霊験に恐れ入ってしまった。以来、参拝者が絶えないらしい。私が参拝した時も、数多くの参拝者がひしめいていた。

ただ、御利益がある人とない人がいるらしい。私はこの神社に二度参拝したのだが、自分の身辺には何の変化もない。今のところ、そのきざしも感じられない。



 

2020年3月5日木曜日

役小角の話(2)

ところが、「続日本紀」を読んでいて、この役小角のことが出ていて驚いた。
「続日本紀は日本書記にくらべて物語性はまったくない。すべてが史実である」と聞いている。そうであれば、役小角は実在の人物だ。


「続日本紀」の最初あたりに、次のようにある。

文武天皇3年(699)5月24日
役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛木山(かずらぎやま)に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足(からくにのむらじ・ひろたり)の師匠であった。
のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流(おんる)の罪に処せられた。世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、もし命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。

正史である「続日本紀」に書かれているのはこれだけである。
これがどうして海の上を歩いたり、雲に乗って飛んで行ったという話に変化したのだろうか。私なりに考えぬいて、浮かんだのは次のような光景である。


偉大な人格の持主である役小角は、伊豆大島の獄舎の役人たちを、みな弟子にしてしまったのではあるまいか。このような話は日本史の中に数多くある。

吉田松陰が萩の野山獄に収監されたとき、他の囚人たちは、富永有隣・高須久子を含めてみな松陰の弟子になってしまった。看守の福川犀乃助(さいのすけ)までが、松陰の講義に耳をかたむけたという。

西郷隆盛も同じである。奄美大島・徳之島・沖永良部島とあちこちに流されるが、いずれの地でも島民から慕われ、看守たちから尊敬を受けている。人間というものは、自分に学問や教育がなくても、目の前にいる人物の重みが、なんとなく判るものらしい。

これと同じようなことがおこったのではあるまいか。
伊豆の八丈島は本土から300キロも離れた絶海の孤島だが、それに比べ、大島は伊豆半島から東にわずか30キロほどの距離である。

我々の36フィートのクルーザーで下田や東伊豆から出帆すると、風を真横から受けるアビームの順風だと3-4時間で大島に着く。飛鳥・奈良時代の帆かけ舟でも、朝出帆すれば夕方までには到着できる。無風で手漕ぎの場合でも大丈夫で、日没前に島に着く。


弟子になった看守たちを前に、役小角はこう言ったのではあるまいか。

「富士のお山というのが駿河にあるだろう。わしはあのお山に登ってみたいなあ」
看守たちはハイハイと、すぐに米や路銀を含めて旅支度をととのえた。「行者さまお一人では心配です。うちのせがれを含めて島の屈強の若者三人を手下に使ってください」
「そうか、そりゃありがたいのう」

看守の長(おさ)が手配してくれた舟に乗り、三人の手下を連れて伊豆半島に渡り、小角はゆうゆうと富士登山を終えた。帰ってきてしばらくは島でおとなしくしていたのだが、また山登りの血がむずむずと騒ぐ。「武蔵国の秩父あたりにも三峰山とかいう良いお山があるらしい。旅支度をととのえてくれんか」

看守を含め、島の人たちは準備を急いだ。出発の朝、看守の長が小角に言った。
「行者さま。10月1日には都から役人が視察にやってきます。それまでにはかならず帰ってきてくださいね。そうでないと、私の立場がありませんから」
「わかった、わかった、大丈夫じゃ」

役小角はそう笑って、供の三人を連れて秩父方面に出かけた。そして9月29日の夕方、島に戻ってきた。ところが、都から派遣された役人たちは前日すでに島に到着していた。予定が早まったらしい。

「あいつがおらんではないか!」と大騒ぎになった。

「あれっ、あれっ、さっきまでしんみょうにして獄の中にいたのですがねぇ」看守の長は部下に目くばせをしながら、とぼけた返事をした。

「そうですねぇ。さっきまで獄の中におりましたが。でも、あいつは仙人ですから、時々すーっと、獄からかってに出て、雲に乗ってブラブラと空を飛んで遊んでいることもありますよ」と部下たちは口を合わせた。その翌日、日が暮れてから、小角たち四人は元気いっぱいで帰ってきた。

「都からの役人たちは、今となりの棟で酒を飲みながら大騒ぎをしています。ともかく急いで湯を使い旅の疲れを流して、獄の中に入って休まれてください。酒と食事はすぐにお届けしますから」
看守の長は、そう言って小角に風呂をすすめた。

この役人たちが、「役小角のやつ、雲に乗って空を飛んだり、海の上を歩いていやがった」と、都に帰って報告したのではあるまいか。


















2020年3月4日水曜日

役小角(えんのおずぬ)の話

子供のときから役小角(役行者・えんのぎょうじゃ)のことは知っている。

保育所の頃だから4歳か5歳のときだ。我々の保育所は海のそばにあったが、裏手に小高い山が迫っていた。山の上に小さな祠(ほこら)があり、ここにみんなでよく遊びにいった。

そこには白い髭をはやした老人がいて、役行者の話を聞かせてくれた。老人はここに住んでいたのか、別の場所に住んでここで修行をしていたのか、はっきりとは記憶にない。

「わしはまだまだ修行中じゃ!」というのが、自分たちの祖父より年長のその老人の口癖だった。
老人は、子供たちを相手に目を輝かせて、役行者の偉大さを語ってくれた。


〇役行者は、都の仲間のつげぐちによって罪人にされ、天皇さまの命令で、伊豆の大島というところに島流しにされた。

〇ところがこの人は立派な仙人で、海の上を歩いたり、雲に乗って自由に空を飛ぶこともできた。

〇ふだんは獄の中でおとなしくしておるんじゃが、気が向くと雲に乗って飛んでいき富士山やほかの山々に行って修行をしておった。都から役人が見廻りに来るころには、また雲に乗ってその島に帰り、獄の中でしんみょうにしておった。

〇何年かたって、仲間のつげぐちが偽りであったことを天皇さまが知って、許されて都に戻った。


「あのお爺さんは変わったお人じゃけぇ、あんまりあの近くに行ったらいけんよ」と、親たちは言っていたが、我々はこの老人が好きで、おかまいなしでそこによく行った。夏にはヤマモモ、秋には山葡萄をふるまってくれた。晩秋から冬にかけて行くと干し柿をくれた。山々に自生するしぶ柿を、大量に干柿にして保存していた。

「爺様も雲に乗って空を飛べるんか?」あるとき、私は老人に聞いた。
「うん。もうちょっとじゃ。もうちょっと修行をしたら、わしも雲に乗って空を飛ぶぞ」、と老人ははっきりと言った。

親たちはこの人のことを良く言わなかったが、子供たちは「偉い爺様だ」と尊敬していた。この爺様は大きなほら貝を持っていた。大事そうにしていて、子供達には触らせてくれなかった。


私のふるさとは、当時、広島県沼隈郡浦崎村といい、となりに山南(さんな)という村があった。
このあたりには昔から、「山南坊主(さんなぼうず)に浦崎山伏(うらさきやまぶし)」という言葉がある。山南にはお寺さんが多い。小学校5・6年の担任だった山辺昭乗先生の実家も山南村の小さなお寺だった。「檀家の少ない小さな寺じゃけぇ、坊主だけじゃ食えんのよ。だから学校の先生になったんよ」と笑いながらおっしゃっていた。寺には建物や檀家があるので、山辺先生の実家のお寺は今でも残っている。山辺先生は93歳で、今もご健在だ。

かたや、浦崎山伏のほうは、今はあとかたもない。
明治新政府は、この山伏を神社の神主か仏閣のお坊さんに分類するかで、頭を悩ませたらしい。
「どちらかというと坊主に近かろう」との判断で、お坊さんのほうに分類した。

山伏はほら貝を吹いて、山にこもって修行する。修験僧という意味では仏教徒の一面もあるが、古神道の色彩と同時に道教的なにおいも持っている。正確には、神主でも坊主でもなく、「深山幽谷に分け入り厳しい修行をして霊験を得て、衆生の救済を目指す」という宗教であった。山に自生する薬草を見つけ出し病人を救う、という医者・薬剤師的な側面も持っていた。

この老人は、もしかしたら、「浦崎山伏」の最後の一人だったのかも知れない。


このようなことがあったので、私は子供のころから「役行者は偉い仙人さまだ」とずっと思っていた。

高校生か大学生の頃、今昔物語にある久米の仙人の話を読んだが、
「雲に乗って飛んでいる時、下の川べりで洗濯をしていた若い女の太ももを見て、煩悩が浮かび神通力を失って落下した久米の仙人なぞ、役行者さまに比べたらずいぶん小物だ。修行が足りんかったのだなあ」と馬鹿にしていた。

ただ、私でも大人になると、だんだん知恵がついてくる。
雲に乗って空を飛んだり、海の上を歩くなど、できるわけがない。役行者にしても久米仙人にしても、架空の人物であり、この話は史実ではなく、だれかが作り上げた物語なのだと気がついた。



















2020年3月2日月曜日

今村大将・豪マヌス島での農作業

陸軍大将・今村均は、オランダによるジャワでの軍事裁判で無罪を言い渡され、昭和25年1月22日に日本に帰国した。すぐにアメリカ軍が管理する巣鴨刑務所に収監された。オーストラリア軍事裁判所がくだした禁固10年の刑に服すためである。

今村はGHQに、「自分だけが東京で刑に服すのは部下に対して心苦しい。自分も部下たちが収監されている豪・マヌス島の刑務所に移して欲しい」と申し入れ、マッカーサーはこれを許可した。マヌス島はパプアニューギニア島の北東にある孤島で、高温多湿の島である。


以下は本人の手記による。

このようにして、私はマヌス島の刑務所生活にはいった。
ラバウル以来私は、´´幽閉生活の中では野菜が不足する´´ と承知していたので、日本を出発するまえ、家内に依頼し、いろんな野菜の種を買わしめ、マヌス島に持っていった。日本ネギの一種のワケギの種やトマトの種も含まれていた。

私は、刑務所長に対し、50歳以上の戦犯者、私を含めた6人には野菜をつくらせてくれとたのんでみた。その結果、刑務所から500メートルくらいはなれた良い土質のところに畑を作ることを許された。6人は、ひとり五反歩(1500坪)ぐらいずつを受け持ち農作に従事した。私の分担の畑には、日本から持ってきたワケギとトマトの種をまいた。気候・土壌が合ったとみえて、立派にできる。

そのうち、豪海軍の将校や下士官が、毎土曜日になると、私の畑にやってきて、ワケギをくれと言い出した。どうしてワケギが必要なのかと問うと、「進駐軍として日本に行ったときに覚えました。´´すき焼き´´ぐらいうまいものはない。すき焼きには玉ネギではだめです。あなたのネギを分けてください」と言う。

私は、「よろしい。持っていきなさい」と言うと、みんな適当に数株をぬいていき、お礼のしるしだと言い、スリーキャッスルという巻きたばこをひと缶ずつ置いてゆく。私はたばこはのまないので「いらない」と言ったのだが、いっしょに畑仕事をやっている5人の戦友が「あなたはのまんでも私たちがのみます」というので、それ以後はもらっておくことにした。

いく月かのうちに、私以外の5人がサツマイモを作りはじめた。どうしてかなと思っていると、ドラム缶などで実に上手にイモ焼酎をつくりはじめた。なんの楽しみもない絶海の孤島での唯一の楽しみにしようとしたのである。

そのうち、土人の看守たちが、手に手に小瓶をもってきて、「トアン、どうか一杯」とせがみ、焼酎をわけてやると大喜びした。その後もたびたびやってきて焼酎の製造をさいそくし、しかも、焼酎を作るときになると、いつも私たちを監視するために中を向いている土人看守たちは、500メートル四方の畑の四隅に立ち外を向き、豪州人たちの来るのを見張っていた。

またトマトも土質が合うとみえて、りっぱに赤くみのった。私のトマト畑には、よく土人の子供らがやってきて、トマトをせがむ。与えてやると、お礼に畑のはしに生えているヤシの木に登り、その実をとってきてくれたりする。

数か月あとになると、豪・海軍司令官の官舎で給仕勤務させられていた日本人戦犯者の一人が、「昨晩、司令官舎の会食で、オーストラリア本国から送られてきたメロンが数個供された。種子はすべて捨てるように言われましたが、畑にまいてみてはどうですか」と言う。

芽がはえるかどうか確信はなかったが、ためしに翌日まいてみた。三か月ぐらい後には50個ほどの大きな実をむすんだ。以来ずっとこれをつつ¨け、メロンだけは戦友たちの医務室内の病人用に使用した。


「遊戯三昧」という言葉がある。このような生き方をいうのであろうか。


















小泉信三、六本木で花を買う

昭和20年1月26日、午後4時すぎのことだった。
慶応大学から三田網町の自宅に戻っていた小泉信三は、ふたたび身支度をした。ゲートルを巻き、外套を着こみ、ステッキを持った。

今日は妻とみ子の誕生日だった。夜には妻の弟を招くことになっていた。妻に花を贈ろうとかれは考え、出かけようとしていた。このとき、玄関まで送りに出てきた下の娘のタエに、内証だよと念を押した。

小泉信三が向かう花屋は六本木の後藤だった。あらかたの花屋は店を閉じていた。花どころではなかった。百合の根やチューリップの球根を煎じ、代用コーヒーに変えてしまったのは4年前のことだ。

2キロ近い道を早足で歩いてきて、かれは爽快な気分だった。われ知らず上機嫌になった。
「女の人の誕生日に贈るんだから、適当にえらんでください」と言ってから、余計なことを言ったものだと思い、いかにも西洋の通俗小説にありそうな言い方をしたことに、自分でおかしく思った。

選ぶほどの花の種類はなかった。カーネーションも、アイリスも、バラも、チューリップもなかった。花屋がとってくれたのは、水仙・ストック・エリカだった。いずれも房総南部安房郡の露地栽培の花だった。水仙は日当たりのよい土手で蕾をつけていたのであろう。

帰り道、外は十二夜か、十三夜の月で明るかった。この戦いのさなか、妻の誕生日に花を買いにきたことが、なにかわくわくする冒険のようで、愉快だった。同時に、東京でまだ花が買えるのがなんとも頼もしい気がした。

鳥居民「昭和二十年」の一節です。