2026年10月1日木曜日

石上(いそのかみ)神宮

 大和の寺社・参拝紀行(8)

『日本書紀』垂仁記(すいにんき・第十一代天皇)に次のようにある。

(垂仁天皇の)39年冬10月、朝廷において造らせた剣(つるぎ)一千口(ふり)を石上神宮に納め、(天皇の)長子である五十貮敷命(いにしきのみこと・第十二代景行天皇の兄)に管理させた。のち本人が老齢となり、妹の大中姫(おおなかつひめ)にその任を譲ろうとしたが、(姫は)私はか弱い女ですからといって辞退した。大中姫はこの任務を物部十千根大連(もののべの・とちおねのおおむらじ)に委譲された。物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。


物部(もののべ)氏は、のちに石上(いそのかみ)氏と名を改めた。その後、子孫の中には再び物部氏を称した者もいた。さらに後世、子孫の中に布留(ふる)氏と称した者もいて、永くこの神宮の神主をつとめている。ちなみに、この神宮の現在の住所表示は、奈良県天理市布留(ふる)町384番地である。

『延喜式・神名帳』はこの神社のことを「石上座布留御魂(いそのかみにます・ふるのみたま)神社」と記している。平安時代以降は「フルの社(やしろ)」「振(ふる)神宮」「石上神社」など、人々は色々な呼び方をしている。現在の「石上神宮」の名称は、明治16年に内務省社寺局が定めたものである。

今まで述べたこの神社の由来からすると、この神社を「物部神宮」と呼んでもよい気がする。じつは、これとは別に「物部神社」という立派な神社が島根県大田市に現存する。明治4年に国幣小社に列した石見国の一之宮という由緒ある古社だ。第十二代・景行天皇の御代に物部氏が石見国造に任ぜられ、その後、第二十六代・継体天皇の頃にこの神社がつくられたと社伝はいう。


さて、物部氏について少しだけお話したい。もののべから、もののふ(武士)という言葉が生まれたという説もあり、物部氏は古代から武門の棟梁であった。いま一つの武門の棟梁が大伴(おおとも)氏である。両氏とも大和朝廷成立の初期からの大王家の側近であり、軍事をつかさどる家柄であった。軍事における両氏の役割の違いはどこか? 私の理解では、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という立場であったのに対して、大伴氏は大王(天皇)をお護りすることを主任務とした近衛軍団の長(おさ)であった。このように認識している。

ご祭神について語りたい。現在この神宮がお祭りしている祭神は七つだが、平安時代の『延喜式・神名帳』には、この神社の祭神は「布都御魂大神・ふつのみたまのおおかみ」一つと書かれている。これは刀剣である。その昔の国譲り神話にさかのぼる。天照大神の命を受けた武甕雷神(たけみかつ”ちのかみ)は出雲国の稲佐浜(いなさのはま)で、大国主命の前にドンと座り国譲りを迫った。このとき武甕雷神が携えていたのが、この剣(つるぎ)だといわれる。

この話からすると、先の大神(おおみわ)神社と大和(おおやまと)神社の二社が「親大国主命」であるのに比べ、この石上神宮は「アンチ大国主命」と考えることができる。古代日本史の不思議さと、面白さを感じる。


この神宮には国宝が三つある。二つは鎌倉時代に造られた拝殿で、いま一つが刀剣だ。ただし、この国宝の刀剣は先に述べた「布都御魂大神」ではない。有名な「七枝刀・しちしとう」である。七枝刀については何冊もの書物があるので、ごく簡単に紹介したい。

七枝刀は、百済王・近肖古王の世子(皇太子)が倭王のために百済で造らせたものだ。ここまでは明治期にすでにわかっていた。ただ、刻んである漢字62文字の中の年号が、長い間わからなかった。それが2025年のX線CT調査によって判明されたのである。東晋の年号「太和・たいわ」の百済読みでの仮借文字「泰和四年」と読めた。すなわち、この七枝刀は西暦369年に造られたものだと判明した。当時、百済は宗主国ともいえる東晋の元号を使用していた。この太和四年は、私が大好きな東晋の田園詩人・陶淵明が、幼少四歳、のときにあたる。そう考えるとずいぶん古いものである。

この時代、すなわち西暦350年頃の極東アジアの政治状態は次のようであった。古くからの朝鮮半島における強国は、北方の高句麗であった。半島南部の東に新羅という国が建国され、西側に百済が建国される。南には倭国の影響力が強い任那(伽耶)があった。なにかにつけて新羅は百済を目の敵にし、そのために時に高句麗の力を借りようともした。百済に残された安全保障の選択肢は、東方において勃興しつつある倭国と手を結ぶ以外になかったのだ。この頃の極東アジアの政治・軍事の動きについては、『紀』の「神功皇后」の項に詳しい。


次の話は、ぐっと時代がくだる。

近代日本画壇の巨匠に富岡鉄斎(とみおか・てっさい)という人がいる。天保7年~大正13年であるから、高杉晋作より3歳年長である。この人は「万巻の書を読み万里の道を往く」をモットーとして、若い頃から東奔西走の生活を送り、87歳の長寿を得ている。大変魅力的な人物だが、同時に相当変わった人でもある。本業は画家だが、若い頃から国学や陽明学を学び勤皇思想を強く持っていた。明治初年には京都の立命館で教師をしたり、いくつかの神社で神官の仕事もしている。この人は明治9年から短期間ではあるが、この石上神宮で小宮司を勤めている。

この神宮は大和盆地の中央東寄りの山沿いに位置し、布留山(266米)の北西の高台に鎮座している。大神神社、大和神社に比べると一番北側にあり、日本最古の道といわれる山の辺の道は、この神宮の目の前を通っている。境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、じつに神さびた風格ある神社である。


帰り道では苦労した。行きの天理駅に着いた時はすでに午後4時をまわっていた。多くの神社は5時で門が閉まる。あわててタクシーを拾い無事に参拝を済ませることができたのだが、帰りはタクシーがまったく見えない。歩こうぜ、という話になり、4キロ弱の道をF君とテクテク天理駅まで歩いた。足がくたびれたので、途中で天理教団の中心部にある喫茶店に立ち寄って熱いコーヒーを飲んだ。この天理市というのは現在は天理教の王国のようだ。数多くの天理教の立派な施設が見える。この日ホテルに帰ってスマホの万歩計を覗いたら、二万歩を軽く超えていた。


石上神宮


石上神宮


石上神宮


石上神宮 ご朱印

2026年9月24日木曜日

大和(おおやまと)神社

 大和の寺社・参拝紀行(7)

「やまと」と読まないで「おおやまと」と読む。長谷寺参拝のあと、この神社に到着したのは午後2時を過ぎていた。ご祭神は日本大國魂(やまと・おおくにたま)の大神といわれるが、これは大物主神(大国主神)と同一神である。すなわち、大神神社・大和神社の二社とも、主神は大国主命なのだ。大国主命という人は、大柄で頭の良い慈悲深い人だった、との伝承がある。

この神社は、良い言葉でいえば風格があり、朴訥な感じがする。「剛毅木訥仁に近し」の雰囲気があり好感が持てる。言葉を変えれば質素。さらに誤解を恐れずハッキリいえば、かつての栄光に比べると、今はいささか落ちぶれている。このような印象を受ける。

これには、わけがあるのだ。その理由は、戦艦大和が沈没し日本が太平洋戦争で敗北したからである。もし、戦艦大和が健在で日本があの戦争に勝利していたら、この神社は、大神・石上の二社よりも華やかなたたずまいだったに違いない。

じつは、この神社だけではない。神社には家門や企業と同じく栄枯盛衰がある。氏子というかその神社を敬い支持する者の興隆と衰退とを、神社は共にするのである。この神社は帝国海軍が有力サポーターであった。帝国海軍は滅びてしまった。それゆえに、現在は一時的に寂れているのだと私は考えている。源頼朝・足利尊氏・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの大物武将の栄枯盛衰と彼らが支援した神社のそれとは一致する。


上野(こうずけ)国の二之宮・赤城神社も、この大和神社と同じ運命にあった。赤城神社は長い歴史を持つ古社だが、明治六年の神祇官の格付けで「村社」となった。私などが考えてもこれはいささか格下すぎる。「国幣小社」もしくは「国幣中社」に列してもおかしくない由緒ある古社だと思う。

昭和16年12月8日、航空母艦・赤城を旗艦とする帝国海軍機動部隊は、加賀・蒼龍・飛竜・翔鶴・瑞鶴の5隻の空母を率いて、ハワイ真珠湾を攻撃して大勝した。翌17年4月のセイロン沖航空戦では、英空母・ハーミスを含む重巡2隻、駆逐艦2隻を沈めた。

これらの赫赫(かくかく)たる武勲により、「空母・赤城の艦内神社である赤城神社が村社であるのは申し訳ない」という話になり、「国幣小社」に格上げされることが決まった。赤城神社側は大喜びした。これを決めたのは内務省の外局である神祇院(じんぎいん・旧内務省社寺局)である。ところが、残念なことに、すぐあとの昭和17年6月のミッドウェー沖海戦において大敗して、赤城以下4隻の航空母艦はすべて沈没した。これによって、赤城神社の国幣小社への格上げの話はなくなってしまった。

旧海軍の軍艦は、戦艦・航空母艦・巡洋艦などの大型艦だけでなく、駆逐艦・潜水艦に至るまで、その艦にゆかりのある神社の分霊を艦内にお祭りしていた。確認していないが、現在の護衛艦も同じだと思う。もし将来、海上自衛隊が「やまと」という名の護衛艦を建造する時がくれば、防衛省の幹部がこの神社に参拝して、この神社の分霊をいただくことになる。戦艦大和では昭和17年にこの分霊の儀式が行われている。これを「特別神符遷座祭」という。

それゆえに、この大和(おおやまと)神社には、大国主命(おおくにぬしのみこと)だけでなく、第二艦隊司令長官・伊藤整一命(いとうせいいちのみこと)以下、2736柱の戦死された戦艦大和乗組員全員と、護衛した軽巡洋艦矢矧・駆逐艦数隻の英霊たちの全員が、境内祖霊社に合祀されている。一人一人のお名前のあとに、大国主命と同じく「命・みこと」の尊称が記されている。我々は、この人たちのことを忘れてはいけない。

由緒書によると、この神社の創建は第十代・崇神天皇六年とあるから、大神神社と同じ頃の創建ということになる。神域は43ヘクタールと広い。ちょうだいしたご朱印の文字は、堂々とした達筆である。先に述べた理由により、かつての栄光に比べると現在はいささか寂れているものの、あと三百年もしたら、大神・石上両社のような輝きを取り戻すと私は考えている。

由緒書きには「神武天皇の功臣・椎根津彦(しねつひこ)の子孫である市磯長尾市をここの神主とした、その後、その子孫の大倭(おおやまと)氏がこの神社に長く奉仕した」とある。学生時代、学習院大学のヨット部に倭と書いて「やまと」と読む名字の女性がおられた。当時、歴史を感じさせる、なんだか由緒ありげな名前だなあと思っていた。

今考えると、あの人は、もしかしたら神武天皇の功臣の子孫だったのかも知れない。


当時の豪族の居住区跡と、大神・大和・石上各神社の位置関係をながめていて、興味深いことに気が付いた。一番南に位置する大神神社の近くが「大伴氏」の居住区である。その北の大和神社の西側が「大王家」であり、一番北の石上神宮の近くに「物部氏」の居住区がある。写りが鮮明ではないが写真を掲載する。この地図は、なにか大きな古代史の秘密を語っているような気がする。


大和(おおやまと)神社


天一号作戦・大和艦隊の兵士を慰霊する


大和(おおやまと)神社 ご朱印

畿内豪族分布図 
大王家の東側に大和神社がある

2026年9月17日木曜日

長谷寺(はせでら)

 大和の寺社・参拝紀行(6)

当初、大神神社参拝のあと、大和神社に向かうつもりでいた。地図を見ていたら、大神神社の反対側に、すなわち三輪山の東側に、長谷寺と書いてある。この寺についての深い知識はないが、昔話の「わらしべ長者」の舞台がこの寺だとは知っている。清少納言がこの寺の石段があまりにも急で険しいので、「私もういやだわ」と駄々をこねたと、どこかで読んだ記憶もある。行ってみたい。

「長谷寺に行く時間があるかなあ?」とF君に聞いてみる。「おお、行ってみようじゃないか。なあに、時間がなくなったら大和神社と石上神宮を明日にすれば良いだけの話だ」との気持ちの良い返事が返ってくる。一緒に旅をするとき、このような心意気は嬉しい。

三輪駅からJRで南にひと駅、桜井駅がある。そこで近鉄大阪線に乗り換え東にふた駅、長谷寺駅がある。運よく待ち時間も少なくこの長谷寺駅に着いた。小さな無人駅でタクシーは見えない。というより、人の姿は一人も見えないのだ。こうなると、地図を頼りに歩く以外にない。

駅は河岸段丘の高台のような場所で、民家や畑を縫うように下に向かって歩いていく。高度にして50~60メートル、距離にして500メートルほど下ると、川が流れていて奈良方面から長谷寺に向かう道に出る。はじめはふつうの田舎道という感じだったが、途中から食堂・土産物屋・宿屋などが見え、門前町の姿になっていく。極寒の2月5日だから人影はほとんど見えない。駅から長谷寺の門前まで、徒歩で20分ほどかかった。


「総本山長谷寺」の立派な石柱が建っている。「開山千三百年記念・大和国総本山長谷寺」と書いた下馬札のかたちの案内板も見える。399段の急な登廊(とうろう)を登っていく。F君も私も年齢の割には健脚だが、それでも二度ほど立ち止まってひと休みした。ズボンを履いてウオーキングシューズ姿の二十一世紀の我々でも、この石段は難儀だ。草履で和服姿の清少納言が「いやになっちゃうわ」と言ったというのは理解できる。

「あれをごらん、この寺の有名な牡丹だよ」とF君が右側の斜面を指さす。真っ赤なボタンの花が藁の菰をかぶって、ポツンポツンとあちこちに咲いている。ただ田舎で農作業をしている私には、2月5日に奈良でボタンが咲いていることに、不自然さを感じる。広島県の海辺にあるわが家の庭のシャクヤクが咲くのは5月上旬だ。あとで寺の女性の方にお聞きしたら、「長谷寺が持っている温室で栽培したものを2月に入ったので移植した」とおっしゃる。七千株のボタンがあり「牡丹の寺」として有名なこの長谷寺は、本格的なボタン栽培の温室を持っている。仏教系の大学の卒業生だけでなく、農学部園芸学科卒業の方もこの寺で働いているそうだ。

本堂は国宝で懸造(かけつ”くり)という建築様式だ。傾斜地に南に向き、前半部分は床下に柱を組み崖面にせり出している。広い舞台があり、下をのぞくと怖い。私は高い場所は苦手だ。この寺の百年ほど後に建立された京都の清水寺も、これと同じ懸造である。

ご本尊の十一面観音立像(重文)の前で手を合わせて拝む。朱鳥(しゅちょう)元年(696年)天武天皇の病気平癒のため道明(どうみょう)上人が建てたという古いお寺だが、室町時代までに7回も焼失している。現在の国宝の本堂は徳川家光の寄進を得て、1650年に建てられた。十一面観音立像は室町時代の1538年の作品で、高さ10メートルを超える木の巨像である。

奈良時代には東大寺の末寺、平安時代中期以降は興福寺の末寺と、この長谷寺は歴史の荒波のなかで幾たびかの変遷があった。戦国時代の1588年に新義真言宗門徒がここに入山して以降、「真言宗豊山派総本山・長谷寺」と名乗っている。真言宗という言葉から、この寺の上にある総本山は高野山・金剛峰寺の気がするのだが、現在はここは独立した総本山だとおっしゃる。このあたりのいきさつや仏教宗派の分類については、不勉強の私にはよくわからない。

その後、寺務所(じむしょ)でご朱印をいただく。堂々たる達筆にも感動したが、それ以上に感激したのは、三人の僧の立派な風貌と立ち居振る舞いである。三人とも三十代に見うけたが、そろってハンサムで大柄なお坊さまだ。優しげな和顔で、私の質問にも親切丁寧に答えてくださる。それでいて威厳がある。「威あって猛からず」という言葉があるが、このような雰囲気の人をいうのだろうと思った。


そのあと、登り下りのある境内を散策すると、ずいぶん多くの桜の巨木が目に入る。2月初旬なので蕾は固いが、春になるとこの寺はどんなにか美しいだろうと思った。機会があれば、もう一度春の花の季節にこの寺を訪問したい。

寺を出るところに、お守りや絵葉書など売っている売店がある。立派な風貌の三人のお坊さまのことが気にかかる。真言宗を名乗るからには、あの方々は高野山大学の卒業生だろうと思って、このことを売店の女性に聞いてみた。

「この寺の僧は全員が大正大学の卒業生です」と答えてくださった。調べてみると、東京都豊島区西巣鴨にある仏教系の大学だが、一つの宗派にこだわらない大学らしい。現在は天台宗・真言宗(豊山派・智山派)・浄土宗・時宗が運営している大学だそうだ。いずれにしても、この大学のトップクラスの卒業生がこの長谷寺に派遣されるのだろう。この寺の三人のお坊さまの顔つきを見るだけで、この大正大学という大学のレベルの高さがわかる。あるいは大学を卒業された後の修行の賜物なのかも知れない。若い頃の最澄様も、道元様も、きっとこの長谷寺のお坊さまのような顔つきであられたに違いない。そう思った。


長谷寺



長谷寺 長い石段の一部



長谷寺 本堂遠望

長谷寺 本堂

長谷寺 ご朱印





2026年9月10日木曜日

大神(おおみわ)神社

 大和の寺社・参拝紀行(5)

F君と一緒の、奈良の寺社・参拝紀行がはじまった。

この神社は「日本最古の神社」と多くの書物で紹介されている。「おおかみ」と読まないで「おおみわ」と読む。漢字の読み方は便利というか、いいかげんだ。ある意味自由自在ともいえる。百済を「ひゃくさい」と読むことはまれにあるが、多くは「くだら」と読むのに似ている。いずれの読み方にも、いにしえ人の深い思い入れがあるようだ。

よってこの神社を最初に参拝して、次に大和(おおやまと)神社と石上(いそのかみ)神宮をお参りするのが日本人としての礼儀であろうと考えた。ただ、あとでお参りした大和・石上の二社の由緒書にも、それぞれ「日本最古の神社」と書かれてあった。

先に述べた「神社の起源は縄文時代」から、話がずれてしまう。しかし、それはそれとして、ここでは、おおらかで素直な気持ちで対応する。屁理屈は言うまい。神道には「言挙(ことあげ)せず」という言葉があるそうだ。「神々のことについてはあれこれ議論すべきではない」というほどの意味らしい。「この三つは大和朝廷が成立して以降の、この地における古い神社の大物三人衆」との認識で筆をすすめていく。


JR奈良駅から桜井線に乗り南に30分、三輪という小さな無人駅で降りる。駅から歩くこと5分、うっそうと茂る樹木をバックに「大神神社」と刻んだ立派な石柱と大きな鳥居が見える。

境内に足を踏み入れると「日本最古の神社」の言葉が頭にあるせいか、いささか緊張して、霊感のようなものを身体に感じる。私は単純なところがあり、話を聞くとすぐにその気になる弱点がある。快晴に恵まれたが、2月5日の午前10時なのでずいぶん寒い。でも、神社をお参りするには寒い時期が気が引き締まって良いなあ、と思った。

「うしろにひかえる三輪山がご神体なのでこの神社には本殿はない」と聞いている。私が参拝した立派な建物は拝殿らしい。

学生時代から師匠の故・鮫島豪太郎さんから教えを受けている。「神社にお参りして家内安全・健康長寿をお願いするのは悪いことではない。しかし、同時に、かならず国家の安寧(あんねい)を祈らなくてはいけない」と。近頃は神社参拝の時は、国家の安寧だけをお祈りしている。心を込めて「日本国の安寧」をお祈りする。お賽銭は500円。これも、5年玉や10円玉では神さまに失礼だ、という鮫島さんの教えである。

参拝を終えて、社務所でご朱印と由緒書をいただく。この神社の由来についてはお参りする前から調べていたが、分からないことだらけだ。東京に戻りこの神社の元宮司・中山和敬氏の書かれた『大神神社』を購入して読み、同時に『記紀』の中にあるこの神社に関係する箇所を丁寧に読んでみた。しかし、読めば読むほど矛盾が出てきて、いよいよわからなくなる。『古事記』と『日本書紀』では言うことが違うので困ってしまう。迷路に迷い込んだ気になる。

しかし、分かりません、では読者の方々に対して男が立たない。私のわかる範囲で語ってみたい。基本は『日本書紀』をベースに話をすすめたい。


『日本書紀』には次のようにある。

五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの半ば以上に及ぶほどであった。 六年、百姓の流離(りゅうり)するもの或いは反逆するものあり。その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。七年、天皇の夢に一人の貴人が現われ、自ら大物主(おおものぬし・大国主)と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。わが子大田田根子(おおたの・たねこ)に吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう」と告げた。 あまねく天下に告げて大田田根子を探し求め、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)(現在の大阪府八尾市付近)に見つけてお連れした。この人を大物主を祀る祭主とした。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。


五年というのは、第十代・崇神(すじん)天皇の即位五年の意味だが、これがいつなのかわからない。令和八年(西暦2026年)は皇紀では2686年にあたる。「神武天皇が日本という国を建国されて今年で2686年になる」というのはロマンがあって良いのだが、常識で考えるとずいぶん無理がある。その頃はまだ縄文時代だ。

水野祐博士が言われるように、崇神天皇と神武天皇は同一人物であり、二代・綏靖(すいぜい)天皇から九代・開化(かいか)天皇までの八代の天皇は、後世に創作された架空の天皇(欠史八代)との説明のほうが納得感がある。私だけでなく、大方の日本人はこれを是としているように思える。

『日本書紀』は唐に見せることを前提に、完璧な漢文で書かれている。聖徳太子以降、我が国の指導者たちは司馬遷の『史記』を丁寧に読んで、中国の長い歴史については充分に認識していた。日本の建国史の「皇紀」は、中国にあなどられないために、無理に無理を重ねて日本史を引き伸ばしたのだと私は考える。

『紀』が言う通りの、初代・神武127歳、二代・綏靖(すいぜい)84歳、三代・安寧(あんねい)57歳、四代・懿徳(いとく)77歳、五代・孝昭(こうしょう)113歳、六代・孝安(こうあん)137歳、七代・孝霊(こうれい)128歳、八代・孝元(こうげん)116歳、九代・開化(かいか)111歳の九代の天皇の享年を合わせると950年になる。全員が100歳以上ではあまりにも不自然だ。よって、84歳・57歳・77歳の天皇をつくった。要するに、『日本書紀』の編纂者は、苦労に苦労を重ねて日本史を950年ほど引き伸ばした、と私は考えている。

今年の皇紀2686年からこの950年を引くと、1736年という数字が出る。これが大和朝廷が成立して以降の日本の歴史だと私は考えている。西暦2026年からこれを引くと、崇神天皇の即位は西暦290年頃ということになる。そうであれば、前後の多くの出来事とのつじつまが合う。


『紀』は、大田田根子(おおたの・たねこ)を大物主の子供のような表現で記しているが、多くの書物には「数代のちの子孫」と書かれている。こちらのほうが自然に感じられる。有名な『延喜式・神名帳』(延長5年・928年)にはこの神社は、「大神大物主(おおみわの・おおものぬし)神社」と書かれている。いくつかの書物には「崇神天皇よりも昔から、この神社には大物主命(大国主命)は祀られていた」とも書かれている。

子供の頃、私は親や学校の先生に「大国主命・おおくにぬしのみこと」と教えてもらった。この表現のほうが自分は親しみを感じる。よって、今後、大国主命という言葉を使うことが多いかも知れない。

出雲族の大国主命は、出雲の地から大和の地に打って出て、一度は中原を支配した。その後、天照大神ら高天原の神々に国を譲り、その代わりに立派な宮殿(出雲大社)で祀られることを条件に身を引いた。これが「国譲り神話」であり、私もそのように理解していた。

司馬遼太郎はこれと異なる考えを持っていたようだ。彼はイズモ(出雲)というのは地名ではなく、種族の名だという。しかも大和土着の種族であり島根県とはまったく関係ないという。イズモ族の中に二つのグループがあり、一つが大和盆地の南東のミワ(三輪)・グループで、いま一つが盆地の南西のカモ(鴨)・グループだという。大国主命はこのイズモ族の中のミワ・グループの大王であり、大和盆地の南東部を仕切っていた。そこに現れたのが渡来系の崇神天皇だと、司馬遼太郎はいう。カモ・グループは後に、鴨、加茂、加毛、蒲生などと書き、日本各地にちらばっていった。「イズモ族の使っていた言語がこんにちの日本語の原型であろう」と彼は言っている。渡来系である崇神天皇を含めたそれ以降の倭王たちは、故郷の大陸の言葉を捨てて、このイズモ族の言語に同化したに違いない、とまで司馬遼太郎は語っている。この考え方も魅力的である。


『紀』に言う「崇神天皇の五年、国内に疫病多く、民の半ばが死亡した」の疫病とは、「天然痘」のことだ。「弥生時代から平安時代に至る千年間の日本史は、天然痘との戦いの歴史」ともいえる。島国に住むゆえに、この病気に対する免疫力のなかった倭人は、大陸からの渡来人、そして隋や唐・三韓各国との交流によって列島に侵入したこの天然痘によって、すさまじい苦しみを味わった。この当時、ずいぶん多くの人々が天然痘で亡くなっている。

じつは、日本列島に、今なおこれほど多くの神社と仏閣が残っているのは、天然痘と深い関係がある。我々の先祖たちが、この天然痘に打ち勝つべく強い力を得たいと、神様と仏様に助力を求めた結果なのだ。現在、我々が参拝している多くの神社や仏閣には、いにしえの日本人の苦難と涙、そして希望のなごりが残っているのである。神社・仏閣にお参りするとき、私はいつもこのことを思う。


大神(おおみわ)神社

由緒書

拝殿


大神神社 ご朱印


2026年9月3日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(3・完)

 大和の寺社・参拝紀行(4)

古代のひとびとは、山を見て、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げた。と先に述べた。それと同じく、人々の幸せを念じ、人々の幸せのために努力した有徳の人の霊にも、敬慕の気持ちを抱いて祈りを捧げたようである。

縄文人たちは、きっとこのような人を神としてお祀りしたに違いない、と思える話が『街道をゆく・北のまほろば』の中に出てくる。

青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺蹟が発見されたのは1994年だから、司馬遼太郎にとってその晩年にあたる。「4500年前の巨大木柱出土」という朝日新聞の夕刊記事を読んで興奮した彼は、すぐに現地に取材に出かけている。ここから出土した高楼と巨大な翡翠(ひすい)を見ながら、次のような縄文時代の光景を想像したと語っておられる。


さて高楼のことである。現場で、私はただ一つの想像をするだけにした。農耕時代になって政治的権力者があらわれる。だから、採集の世の楼閣は、首長の権力をあらわすものではなかったろう。ひとびとは、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのに違いない。夜、漁からもどらない者があると、「高く、火を焚け」というのが、首長だったにちがいない。闇の海で方角をうしなった者は、望楼の火を見つつ帰ってくる。首長は情義の機関だったのではないか。むしろ宗教的存在といってもいい。

翡翠(ひすい)も出てきた。越後の糸魚川の産である。岡田主査が、現場で二個の翡翠をみせてくれた。野球のボールほどのもので、二つとも紐(ひも)通しの孔(あな)が、きれいに貫通されている。掌(て)にのせると、ばかに重かった。人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が =この翡翠をくびからぶらさげて= 待っていたであろうことを想像した。


このような人を、その方が亡くなったあと、縄文時代の人々は神として祀ったのであろうか。


おしまいに、西行法師の和歌一首を紹介したい。

「なにごとのおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

西行法師が伊勢神宮を参拝したときに詠んだ歌だといわれる。この歌の解釈にはいろいろの説がある。僧である西行が信じていたものは、古代の自然信仰のようなものであろうという人がいる。山や森・滝や河・岩や岬など、古代人があこがれ、感謝し、また恐れていたものを、西行もまた体で感じたのであろうという人もいる。私もそのように思っている。

西行法師は、この神宮の祭神である天照大神(あまてらす・おおみかみ)に対して、かたじけない気持ちで涙を流したのではないような気がする。

皇大神宮(内宮・ないくう)は天照大神を祀る二千年の古社だといわれる。これを否定する気持ちはまったくない。同時に私は、伊勢神宮を崇拝する気持ちは人一倍強い。そうではあるが、私の心の中には、それよりもはるか以前から、ここに「なにか」が祀られていたような気がしてならない。もしかしたら、西行法師も同じように感じておられたのではあるまいか。





2026年8月27日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(2)

 大和の寺社・参拝紀行(3)

奈良の神社・仏閣の紹介に入りたいのだが、今しばらく余談話におつきあい頂きたい。日本の神社の起源は縄文時代にあるということを、お伝えしたいからである。ここでは相模国一之宮・寒川神社と、安房国一之宮・安房神社での私の体験をお話ししたい。


寒川神社は八方除(はっぽうよけ)の神さまとして有名だ。私がこの神社が好きなのは、この神社の狛犬(こまいぬ)像が巨大で怖そうな顔をして迫力満点だからだ。時に、笑っているような、にやけた顔の狛犬に出会うことがある。可愛らしい、と女性に評判だと聞くこともあるが、狛犬は怖い顔でなければものの役には立たない。悪い奴の進入を防ぐ門番であるからだ。

この神社近くのJR宮前駅は現在は相模湾の海岸線から8キロほど北に位置するが、7千年前はこのあたりが相模川の河口になる。すなわち寒川神社のある場所の目の前が相模湾だった。私の手元に7千年前の相模湾の海岸線を示した地図があるが、現在のJRの平塚・茅ヶ崎・藤沢駅はすべて海の中である。

地球の寒暖はCO2の増減だけが原因ではなく、何千年周期で繰り返されているらしい。太陽活動の変化で気温が上がったり、火山の大爆発で火山灰が飛び散り太陽光が遮断されて気温が下がる、などの現象が過去何万年ものあいだ繰り返されている。1万2千年続いた縄文時代で一番気温が高かったのは今から4300年前、というのが考古学者の一致した見解である。この時が縄文時代の人口のピークで、日本列島全体で26万人、気温は現在より2度高かったと、その方面の研究者は言う。

現在、CO2の増加による地球の温暖化が大きな問題になっている。このままだと南極・北極の氷がとけて海洋の水位が上がり、太平洋の小島のいくつかが水没する恐れがあるといわれている。じつは、現在以上の地球の温暖化現象が4300年前にすでにあったのだ。それゆえに、南極・北極の氷がとけて、寒川神社のすぐ前までが海だったのである。

この神社をお参りして私が興奮したのは、寒川神社の周辺から縄文時代の住居の遺跡が数多く発掘されていることだ。寒川町にある岡田遺跡は、日本で最大級の縄文住居跡である。確認された住居の数は600軒で、専門家は1000から1500軒の集落があったであろうと推測している。約4300年前のものといわれている。

古代の人々は、山を見て祈り、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げたといわれる。この寒川の縄文人が畏れ敬い、祈りを捧げたのは相模川の水霊(すいれい)であった。豊かな魚介類や生活用水を恵んでくれるこの大河は、時として獰猛(どうもう)になって氾濫を起こし、人も住居もすべてを押し流してしまう。この水霊を鎮(しず)めるために、彼らは常緑樹の枝を縄文式土器に飾り、木の鳥居を建てて、心を込めて祈りを捧げたに違いない。


安房神社での体験は簡単に述べたい。

ご朱印をいただく時、若い神官に聞いてみた。「この神社は由緒ある古い神社と聞きますが、いつ頃できたのでしょうか?」「創建は養老元年(717)だと聞いています」多くの神社はこのように、神社の創建を飛鳥・奈良時代の年号で答えてくださる。これは多くの場合、寺院の真似をして、瓦ぶきの建物を建築したときの年代のようである。

「そうですか。私はもっともっと古い歴史を持つ神社だと睨んでいますがねえ」と無遠慮に言った。私の声は大きいらしい。社務所の奥に座っておられた80歳ぐらいの神官(おそらく宮司さんだと思う)が、にっこり笑って私のほうに近つ”いて来られた。「おぬし、なかなかわかっているな」といいたげな、すこぶる好意的な眼差しで次のように話してくださった。

「じつは、一昨年、この神社の裏山の洞窟で人骨が発見されました。古い人骨のようで事件性はないと思ったのですが、一応警察に届けました。警察は念のためにと千葉大学に鑑定を依頼しました。約4500年前の縄文人の人骨ということでした」

ひと言つけ加えておきたい。

日本の神社の起源が縄文時代というのは、私の奇説・珍説ではない。神道考古学者のほぼ一致した見解である。学者の中には、それ以前の石器時代から人々は神への祭祀(さいし)を行っていたと主張する人もいるが、それを裏付ける祭祀跡は今のところ発見されていない。縄文遺跡からは、あきらかに古代人が祭祀したと確認できる遺物がいくつも出土している。

ただ、カナダの鳥居については、私の新発見ではないかとひそかに思っている。私が知る限り、今までこれに言及した神道考古学者の論文や記事を見たことがないからだ。





寒川神社の狛犬








2026年8月20日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(1)

 大和の寺社・参拝紀行(2)

私は30代の半ばから3年間ほどシンガポールに駐在していた。勤務していた海運会社が会社更生法を申請したので、いわば人質の形で帰国できなかった。その後、東京地裁が更生手続き開始を決めてくれたので1年後に帰国することができた。このようなわけで、後半の1年間はわりあい暇だった。

この頃、日本とはいったいなんだろうかと、ぼんやりと考えていた時期がある。シンガポールは暑い。雨季と乾季はあるが四季はないので、次のようなことをよく夢想していた。今思うと、日本恋しさのホームシック気味だったのかも知れない。

日本に帰ったら、ひんやりとした晩秋の頃、信州か東北地方のひなびた温泉宿に数日間、続けて泊まりたい。芭蕉の『奥の細道』を読み、利休の真似をして抹茶をたてて飲みたい。私は高校時代は剣道部にいたが、部の友人の一人が茶道に凝っていて彼の手ほどきを受けた。門前の小僧程度の茶の湯の知識はある。道元禅師が懐かしい。西行法師の和歌にも心が癒される。そして、新古今・古今・万葉集へと思いはさかのぼる。そこから先の「懐かしいもの」はなんだろうかと考えたあげく、私がたどり着いたのが「神社」だった。「つまるところ、日本人の心のふるさとは神社ではあるまいか」と思った。この気持は現在も続いている。

ただ、長いあいだ、日本の神社は大和朝廷の成立と深い関係があると、漠然と思っていた。天照大神・須佐之男命・神武天皇・応神天皇(誉田別尊・ほんだわけのみこと)・日本武尊・神功皇后・仲哀天皇、などなど、皇室のご先祖様を祭神とした神社が多いからだ。


この考えは間違いかも知れない、と思ったのは45歳の頃である。人材紹介の仕事に入って5年ほど経った頃だ。「不思議なもの」を私は見たのだ。

仕事でカナダの銀行の部長さんを訪問した。約束の時間に伺ったら、恐縮しながら会議が長引いているので30分ほど待ってくださいとおっしゃる。旧知の人で、急ぐ用もないので応接間でお待ちした。その部屋には、カナダ観光庁が発行した美しい写真付きの観光案内のパンフレットが高く積まれていた。この銀行の協力を得て、日本からカナダへの観光客を増やしたい意向のように思えた。

これを何気なく見ていた私は、一枚の写真にクギ付けになった。石でできた古代の大きな鳥居がそのパンフレットに写っているのだ。私の記憶では、形は日本の鳥居とほぼ同じだが、もう少し太かった気がする。グラマーな鳥居だった。

場所は、米国アラスカ州に接するカナダの西の地である。今、これを書きながら、カナダ西部の大きな地図を見ている。北極海の近くにイヌビク、フォート・マクファーソンという町が見える。そこから南西に位置する山奥の川沿いにドーソンという町が見える。これらの近くだった気がするのだが、どの町かはわからない。美しい夏の緑の森林の中に、どっしりとした立派な鳥居が建っていた。

この銀行の部長さんの快諾を得て、私はこのパンフレットを二部いただき、宝物のようにしてオフィスに持ち帰った。大事に仕舞い込んだようだ。今回、心当たりの場所を探したが見つからない。出てきたら、すぐにこの「カナダの鳥居の写真」をこのブログに掲載したい。


北米・南米の両大陸には人類は独自には誕生しなかった。新人類のモンゴロイドが、当時氷結していたベーリング海峡をシベリアから徒歩でアラスカに渡った。1万5千年前だといわれる。そして2千年という短時間で、彼らの一部は南米最南端のケープホーンまで到達している。食糧探しや仲間割れもあったかも知れない。しかし、前進に前進を重ねたそのエネルギーの大半は、「好奇心」であったと私は考えている。この先に何があるのか?という好奇心である。人間というものの偉大さを思う。好奇心の強い人が本物の人間だと思う。好奇心のない人は、人間の顔をしているが実は人間ではない、私は思っている。

この時、私は一つの想像をした。

この鳥居を造った人々は、1万5千年前の第一陣ではなかったと思う。着の身着のまま、食うや食わずで、地球の最北端の海峡を歩いて渡ってきた人々に、これほど巨大な石造物を造るエネルギーはあるまい。彼ら第一陣はこの地に住みついて集団で生活を営み、人口も増加していった。何百年かのち、ここをシベリア方面からの新たな集団が通過した。彼らは先住の人々の好意でしばらくこの地にとどまった。

先住の人々の行う神事や祭りを見ていた彼らが言った。「我々のシベリアの村では、鳥居を設けてお祈りしていました。こんな格好のものですよ」と、地面に鳥居の絵を描いてくれた。「そういえば昔、死んだ爺さまからそんな話を聞いたことがある。爺さまも、そのまた爺さまから聞いたと言われていた」土着の長老は、遠くを見つめるような眼差しで、そうつぶやいた。

新たな集団の指導のもとで、みんなが力を合わせて10年の歳月をかけ、この立派な石の鳥居は完成した。このような物語があったのかもしれない。

幸運なことは、この地には鳥居の材料となる軟らかい石材と、これを加工するに充分な硬い石材の両方があったことだ。カナダに比べると日本列島の鳥居向けの石材は硬かった。1万年前・5千年前の縄文人が使う石器では歯が立たなかった。やむをえず、縄文人は木で鳥居をつくった。木材は時が経てば朽ち果ててしまう。それゆえに、縄文遺跡から鳥居が発見されていないのだと私は考えている。


このカナダの鳥居の写真を見て以来、鳥居の原型は1万数千年前に、シベリアもしくは中国東北部に住んでいたモンゴロイドが造ったものであり、そのころ日本列島にこれを持ち込んだのも彼らであったろうと私は考えている。

日本の神社の起源は、大和朝廷が成立した千五百年前・二千年前といった、そんな真新しいものではなく、一万年以上昔だと私は考えている。

日本列島に渡来して支配者階級となった大和朝廷の倭王(天皇)たちは、これに「上乗り」したように思える。「上乗り」の意味は、古い祭神と同時に天皇家の先祖を相殿神としてお祭りしたということだ。中国東北部(満州)方面から渡来したといわれるこの騎馬民族の故郷には、もしかしたら同じような鳥居の文化が残っていたのかも知れない。彼らは日本列島に先住する人々の木の鳥居に、なつかしいもの感じたのかも知れない。