シルクロードのものがたり(61)
東奔西走、中国各地への旅(2)
玄奘が不良青年だったとは思わない。しかし、従順でまじめ一筋の若者ではなかったように思える。漢の高祖・劉邦は、若い頃は不良青年たちに慕われた彼らの兄貴分だった。玄奘という人にもこの種の「任侠・おとこぎ」の血が流れていたような気がしてならない。
古代の中国では季布(きふ)や候嬴(こうえい)、日本では清水次郎長や吉良仁吉、そして近くでは高倉健の「昭和残侠伝」の世界の「侠」の血である。そしてこの「侠の血」こそが、この人がその後何度も遭遇する生死の瀬戸際を助けたような気がしてならない。困難に遭遇したとき助けてくれる人がいるということは、こちらも何かを備えておく必要がある。「友に交わるにすべからく三分の侠気を帯ぶべし」という言葉がある。玄奘というひとは、この「三分の侠気」を持っていた人のように思える。
兄の忠告に逆らい、寺のおきてを破り、「そこで玄奘はひそかに商人たちと仲間になり、舟で三峡を経て揚子江を逃げくだり、荊州(洞庭湖の北)の天皇寺に至った」とその伝記にある。商人やその配下の船頭や馬方など、気の荒い連中のサポートを得たのであろう。
「お兄さん、本気でおきてを破り、寺を出奔する覚悟がおありでござんすか?そんなら、俺たちもひと肌脱ぎますぜ!」任侠の徒たちからこのような声援を受けた可能性を感じる。
長江を下り、重慶を経由して荊州に到着し天皇寺に宿を求めたのは22歳の頃と思える。荊州都督の漢陽王・李瑰(りかい)の求めにより、この寺で玄奘の講座が開かれ聴衆が殺到する。お布施が山のように積まれたが玄奘は受け取らず、それを寺に喜捨した。さらに、長江を東に下り揚州(南京)に向かい、名僧・智琰(ちえん)を訪ねている。
その後、進路を北にとり、北方の相州(そうしゅう)に名僧・慧休(えきゅう)法師を訪ねる。ここは黄河の北側に位置し、殷墟(いんきょ)の近くである。「世に稀なる若者よ」、慧休が玄奘を送り出すときにつぶやいた言葉として残っている。その後、玄奘はさらに北上して趙州に向かい道深(どうしん)法師を訪ねる。この人は慧休の兄弟分にあたる人なので慧休の紹介であったのは間違いない。このように、面談した高僧が玄奘の人柄と知識に感服して、さらに次の高僧を紹介するということが繰り返し続いている。
これらの旅の途中で、故郷の洛陽にも立ち寄ったと思えるが、伝記には何も記されていない。ぐるり一周の中国北域の旅を終えて、再度長安に到着したのは25歳の頃と思える。
インドに向けて出発するまでの1年程度は、長安で過ごしたようである。10年前の長安に比べると、治安や経済も落ち着きはじめていた。「天竺に行きたい。二百数十年前、法顕三蔵は65歳で天竺に向かわれたではないか。それから見れば自分は孫のような年齢ではないか。やればできる」 このような気持ちが玄奘の心に沸いてきたのは自然なことである。再度の1年間の長安では、法常(ほうじょう)や僧弁(そうべん)という高僧たちから教えを受けると同時に、インドや西域諸国から来た外国人僧侶たちから、語学を含めてインドへの道順や注意点などを教えてもらったと思える。
準備を整え、玄奘は数人の同志と共に、出国の許可を役所に申請した。しかし許可は得られなかった。唐王朝が建国されてまだ10年足らず、国内治世はまだ安定していない。政府は国境の往来をきびしく制限していて、いわば半鎖国の状態であった。唐王朝政府のこの対応は理解できる。友人たちはあきらめる。しかし玄奘は諦めきれず、国禁を冒してでも天竺に行くことを決意する。
彼の持つ「侠」の血を抑えることが出来なかったのであろう。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」 このときの玄奘の心の内は、この吉田松陰の気持ちに似ていたように思える。
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西安 西大門 ここがシルクロードの出発点 画 及川政志氏 |