2020年8月13日木曜日

東陵の瓜(あとがき)

後世のひとびとは、この東陵瓜の話をよほど好んだらしい。何人もの横綱級の詩人がこの瓜のことを書き残している。

魏(ぎ)の阮籍(げんせき・竹林七賢の筆頭・210-263)、東晋の陶淵明(とうえんめい・365-427)、唐の李白(701-762)などである。

ここに三人の詩の一部を書き写し、筆を擱(お)きたいと思う。


昔聞く、東陵の瓜

近く青門の外(そと)に在り

畛(あぜ)に連(つら)なり、阡佰(せんぱく)に到(いた)り

子母(しぼ)、相鉤帯(あいこうたい)す

五色、朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き

嘉賓(かひん)、四面より会(かい)せりと

ー阮籍ー

昔こんな話を聞いたことがある。東陵侯が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。


衰栄(すいえい)は定在(ていざい)すること無く

彼(か)れと此(こ)れと更(こもごも)之(これ)を共にす

召生瓜田(しょうせいかでん)の中(うち)

寧(な)んぞ東陵(とうりょう)の時に似(に)んや

寒暑(かんしゃ)に代謝(だいしゃ)有り

人道(じんどう)も毎(つね)に此(かく)の如(ごと)し

達人は其(そ)の会(かい)を解(かい)し

逝将(ゆくゆくまさ)に復(ま)た疑わざらんとす

ー陶淵明ー

人の栄枯盛衰は定まった所にあるわけではなく、両者は互いに結びついている。秦代の召平を見るがよい。畑の中で瓜作りに励んでいるいる姿は、かつて東陵侯たりし時の姿と似ても似つかない。自然界に寒暑の交替があるように、人の道も同じこと。達人ともなればその道理を会得しているから、めぐり来た機会を疑うような真似はしない。その時その時を楽しむのである。


青門に瓜(か)を種(う)うるの人は

昔日(せきじつ)の東陵侯

富貴故(もと)より此(かく)の如(ごと)くならば

営営(えいえい)何(なん)の求むる所ぞ

ー李白ー

秦の東陵侯の召平という人が、漢の世になって、長安の東の青門という所で瓜をつくって生活していた。これが昔日の東陵侯であろうとは、誰も思うまい。富貴というものはもとよりこのようなものである。ゆえに、忙しげにこれを求めようとするのは愚の骨頂である。

















  

2020年8月11日火曜日

東陵の瓜(20・完)

翌朝未明、 「陳豨討伐成功!」 の報は長安城に届いた。

その後の計画はすべて順調にすすむ。参内した韓信を呂后は武装兵に命じて捕縛し、すぐさまその首を刎ねた。蕭何はその現場には立ち会わなかった。

ただちに早馬が邯鄲に送られ、劉邦に報告される。劉邦は韓信が誅殺(ちゅうさつ)されたと聞くと、使者を送ってきて、丞相(宰相)の蕭何を相国(しょうごく・同じく宰相であるが丞相より高位)に任命する。それに加えて、五千戸を増封し、兵卒五百人と一都尉(将校)を蕭何の護衛につけた。

諸侯や将軍たちは皆、めでたいことだと蕭何の自宅に祝辞を述べに来た。
ただ一人、召平は蕭何に忠告する。「これは危険ですぞ」と。

「これから禍(わざわい)が始まる恐れがあります。劉邦どのは外で戦(いくさ)をされており、蕭何どのは矢の届かない場所で内を守っておられる。領地を増加し護衛の兵を置くのは、あなたを寵愛しているからではありません。韓信が謀反したので、あなたの心をも疑っているのです。増封を辞退して受けないでください。そして、私財をすべて投げ出して国家の軍事を補助なされてください。そうすれば劉邦どのはお喜びになり、蕭何どのの身も安全です」

蕭何はすべて召平の言う通りに従った。召平が予想した通り、劉邦はこれをおおいに喜んだ。



この事件が片付いてからも、今までと同じように、蕭何は召平のあばら屋を訪ねてきた。その蕭何が病気で亡くなったのは、韓信の死から五年後である。そののち、季布を助けた夏候嬰が死に、季布も亡くなる。季布が亡くなったとき、召平は七五歳で元気で瓜をつくっていた。八十代に入ってからも、召平と葉浩は瓜作りを続け、夜は村人たちと一緒に酒を飲んだ。


そして何年かのち、召平は煙のごとく忽然(こつぜん)とこの世を去る。九十八とも九十九ともいわれている。死の5日前まで、瓜畑の手入れをしていたという。死の前日、床で横になっていた召平は、目は閉じていたが顔に笑みを浮かべて、ひと声つぶやいた。

「爺さまの言われたことは、やはり本当だったなあ」

そばにいた数名の者は、その言葉をはっきりと聞いた。だが、それが何を意味するのかは誰にもわからなかった。














東陵の瓜(19)

「蕭何どの」、召平は笑いながら言う。

「今夜打つべき手はすべて打ちました。他にやることはありません。久しぶりに一献やりませんか? 珍しい肴があるんです」

そういって台所に向かう。瓶(かめ)の中を掻き混ぜているらしい。しばらくしたら、水で洗い包丁で切る音が聞こえる。右手に酒瓶を持ち、左手にその肴を持って蕭何の前に置く。

「一体なんですか、これは?」蕭何は珍しそうにその肴をながめている。白瓜の漬物のようだが、いつもの塩漬や酢漬とは違う。見たことのない不気味な褐色の漬物である。

「旨いのですか?」

「いや。わかりません。幼なじみの李照にもらって食べたのは旨かったですが、自分でつくったのを食べるのは今日がはじめてなのです」。召平は正直に答える。

李照の友人に酒蔵の主人がいる。大量の酒糟(さけかす)を李照にくれた。このあたりの酒は麦でつくる。よってこの酒糟は麦でできたものだ。そのままあぶって食べても旨いし、汁にしても良い。しかし、量が多かったので、ためしに塩漬けにしてある白瓜をこの酒糟で漬けなおしてみた。旨いので召平に少し届けてくれたのである。

「李照の真似をしてみたのです。何回か新しい酒糟に漬けなおしたほうが味が良い、というので三度漬けなおしました」

先に召平が口に入れ、それを見て蕭何は、恐る恐る一片を口に運ぶ。

「旨いものですなあ!」蕭何は感嘆のうなり声をあげる。酒を飲み、この瓜の漬物を食いながら、植えて間もない今年の瓜の成長ぐあいを召平は話す。明日の朝一番で、蕭何には大仕事がある。一刻ほどで、二人のささやかな酒盛りはお開きとする。

帰る段になって、蕭何は何か言いたげにもじもじしている。そして、「それを少々分けてくださらんか」と小声で遠慮げに言う。よほど気に入ったらしい。

「これをつくるにはけっこう手間がかかるのです。つくり方は、長安でも李照と私以外は知りませんからなあ。値段は高いですぞ」。召平は得意顔で言った。

召平が竹の皮に包んでくれた四切れの褐色の漬物を、蕭何は下僕にも渡さず、自分の手にしっかり握りしめて大事そうに持ち帰った。

これは一体どのような漬物だったのか。米糟と麦糟との違いはあるが、後世の日本で発明されたといわれる奈良漬のご先祖様のような味ではなかったか、と筆者は想像している。






2020年8月3日月曜日

東陵の瓜(18)

ことは急を要す。

大将軍としての韓信の実力と名声は群をぬいている。今ここで韓信が反乱をおこせば、長安に残る他の将軍たちでは官軍の敗北は明らかである。季布がいれば、韓信に対抗できるだろうが、季布のいる河東郡までは早馬で片道3日を要す。

こうなれば、何かの理由をつくり、韓信を単身で長安城の中におびき寄せ、一気に誅殺する以外に方法はない。韓信を宮中に呼び寄せるにはどうすれば良いか?召平は瞑目したまま考える。

「そうだ!」

と召平はつぶやいた。劉邦からの偽りの伝令をつくり、明朝まだ夜が明けるまえ、長安城の正門前に到着させる。

「陳豨が討伐された!」と伝令に大声で叫ばせて、その噂(うわさ)を一気にみやこ中に触れまわす。そして、宰相・蕭何の名で韓信のもとに使いを送り、誠意のこもった忠告をする。
「病身であることは知っている。しかし、貴殿にもかけられている疑いを晴らすためにも、遠征成功の祝辞を皇后・呂后(りょこう)に述べに、急ぎ参内したほうが良い」と。

慎重で用心深い韓信のことだ。ほかの誰が言っても出てこないだろう。しかし、蕭何の言うことなら信用して出てくるに違いない。

かつて、韓信は項羽から劉邦の陣営に寝返った。下級将校から這い上がり大将軍にまで昇りつめた。その間に、同僚の嫉妬により何度も殺されそうになる。それをかばって、そのつど韓信の命を助けたのが蕭何である。

またその後、韓信は劉邦が自分を重要な地位に登用しないことを憤り、劉邦の陣営から逃亡したことがある。この時も、蕭何は自分の命の危険をかえりみず逃亡した韓信を連れ戻した。死刑になるところだった韓信を、「国士無双」 と称えて劉邦に命乞いをしてやり、なおかつ、大将軍に推挙したのもほかならぬ蕭何である。

その蕭何に、一世一代の嘘をついてもらう。これ以外に漢帝国の危機を救う道はない。ここで漢帝国が滅びたら、天下はふたたび大混乱におちいる。秦のような法家主義の国がふたたび生まれて、人々が塗炭の苦しみにのたうちまわる恐れがある。韓信という男にはその匂いが感じられる。
六千万人の人々の幸せのためだ。今こそ、至誠の人蕭何どのに、誠心誠意の嘘をついていただく以外に他に方策はない。召平はそう結論し、静かに目を開く。

「蕭何どの」、と爽やかな表情で声をかける。そして、この考えを淡々と語る。

蕭何も稀代の名宰相である。瞬時にこれを理解する。自分が悪役を演じることについても不満げな顔をしない。もしかしたら蕭何自身が、同じ筋書きをすでに描いていたのかもしれない。

「いや、お恥ずかしい。少しうろたえておりました。仰せのお考えにまったく同意します」
そう答え、下僕に命じて外で待機している将校を呼び寄せる。そして、右の一部分だけを伝える。
すなわち、邯鄲にいる高祖・劉邦からの伝令になりすまし、明日の未明、長安城の正門を叩き、「陳豨討伐成功 !」の報を大声で知らせよ、と。

召平は、若い将校に真新しい軍服を脱ぐように勧め、自分が野良仕事で来ている普段着を渡す。その後一人で台所に向かう。かまどに付いている煤(すす)を少量皿に乗せ、それを将校の首筋や顔に塗らせる。

蕭何は優しい言葉で将校に命じる。

「ご苦労だが、今すぐ出発して邯鄲のある東北東の方角に馬を走らせてくれ。適当な時刻になったら逆戻りして、明朝未明、疲れ切った姿で長安城の正門を叩いてくれ」

若い将校はすぐさま馬に飛び乗り、その方角に向かって走り去った。












東陵の瓜(17)

以来、蕭何はひんぱんに召平の荒屋(あばらや)を訪ねてくる。はじめの頃は季布と一緒であったが、一年ほどたって、季布が河東郡(こうとうぐん)の郡守に赴任してからは、下僕だけを連れて一人でやってくる。

瓜の季節が終わり、冬になっても春になってもやってくる。「瓜を買いに来る」という名目なので、冬場には白瓜の塩漬や甘酢漬を土産として持ち帰る。

いつ頃からか、蕭何は身の回りの相談ごとをするようになる。そのうち、政治向きのことも話しだす。蕭何自身、智謀の宰相であるが、思い悩むことも多いのであろう。召平に自分の考えを聞いてもらい、それを再確認したいと思っている様子である。召平は口の堅い知恵ある男だ。直接の利害関係がないのも良い。

それはそれとして、じつは蕭何が召平を訪問する一番の理由はほかにあった。蕭何にとって召平という男と話をすること、それ自体がなによりも楽しかったのだ。召平の持つ老荘的な匂いが好きだったようである。

この蕭何という人は、若いころから老荘を好んだという。戦国時代の末期の混乱の世に少年時代をおくり、その後秦を倒すことに陰謀のかぎりを尽くし、そして漢の大宰相になった男が老荘の徒であったとは。信じがたい思いがする。

この後も中国史は続く。 蕭何のあとの張良・蜀漢の諸葛亮孔明・宋の趙普(ちょうふ)・司馬光、
そして近くは中華人民共和国の周恩来。 中国史はおびただしい数の名宰相を生み出した。
これらの中で史上最高の宰相はだれか?ということになると、現在でもこの蕭何を一番に推す人がもっとも多いらしい。


それから一年ほどして、漢帝国の屋台骨をゆるがしかねない大事件が勃発する。前196年の5月のある日の夜半遅く、なんの前触れもなく蕭何が召平の荒屋を訪ねてくる。訪問の時刻、その顔つきからして、ただごとではないことはすぐに判る。下僕のほかに、一人の信頼できる将校を外で待たせているという。

蕭何は言う。

「長安にいる准陰侯(じゅんいんこう)・韓信が謀反を企らんでいる。数日以内に決行するのはまちがいない。陳豨(ちんき)と通じているふしがある。いかに対処すべきかお知恵を借りたい」

二ヶ月前、劉邦がもっとも信頼していた将軍の陳豨が鉅鹿(きょろく)の地で反乱をおこした。激怒した劉邦は、鎮圧のためみずから将として出陣し、現在は鉅鹿近くの邯鄲(かんたん)にいる。長安から東北東に馬で10日の場所である。

陳豨平定はまだ終わっていない。本来なら、大将軍の韓信がこの征伐軍の総司令官になるのが順当な人事である。ところが韓信は、病気を理由にこれを断った。陳豨は日ごろから韓信を師と仰いでいる。この二人は、いわば直系の親分子分の関係なのだ。なにかの密約ができていることは疑う余地がない。

劉邦と蕭何は、一面では韓信の辞退に胸をなでおろした。二人が連合して長安の都に攻め上るという、最悪の辞退は避けられたからである。このような背景のなかで、劉邦みずから兵を率いて遠征するという、異例の措置がとられたのだ。

召平は目を閉じた。そして考える。







2020年7月27日月曜日

東陵の瓜(16)

二年目の瓜の収穫が始まってまもなくの夕刻、突然の来客がある。

「平服を着ていますが、それなりの身分とおぼしき男が門前に車で来ています。供を二人連れて、瓜を買いたいと申しております」と、作男が取りつぐ。

召平が薄暗い玄関まで出ていくと、その男は、「東陵侯どの!」と呼ばわる。暗くて誰か判然としない。ためらいをみて、その客は、「季布でござる」と大声で名乗った。何年ぶりになるだろう。会稽郡の項梁の館以来である。

「旨い瓜があるとのうわさを聞いたので買いにまいりました!」、と季布は大声で言う。
情報通の季布はすでに昨年の暮、召平が長安郊外の実家にもどり、瓜をつくっていることを知っていた。ただ、冬場に瓜を買いに行くのは不自然と思い、二年目の瓜の収穫期を心待ちにしていたという。

召平の自慢の瓜を、旨い旨いと食いながら、広陵や会稽での思い出話に花が咲く。政治向きの話はしない。ただ一言、「劉邦という人は器量の大きいお方ですなあ」と言った。土産に持ち帰る瓜の代価だといって、市価の二倍ほどの金(かね)を出す。召平は黙ってそれを受け取る。

帰り際に季布が問う。「また時おり瓜を買いに伺います。瓜の大好きな方がもう一人おられる。今度お連れしてもよろしいでしょうか?」

「わしの瓜を買ってくださる方なら誰でも大歓迎です。わしの生活の糧は今は瓜だけですからな」


季布があたらしい瓜のお客を伴って訪ねてきたのは、それからわずか三日後だった。その客人も平服を着て下僕を二人連れている。召平がはじめて見る顔だ。

「蕭何(しょうか)どのです」

前置きもなく、肩書も付けず、季布はいきなりそう言う。

(この男が漢の高祖・劉邦の三傑の筆頭として今をときめく宰相の蕭何か!)
英雄豪傑という風情ではない。ごく普通の人、といった感じの男だ。召平は軽く頭を下げる。

「こちらが東陵侯・召平どのです」

季布がこう紹介したのには驚いた。そうであろう。漢の宰相に対して、秦の爵位を付けて紹介するなど普通ではない。蕭何はいっこうに気にする風もなく、微笑をたたえたまま、優しいまなざしで季布をながめている。蕭何が季布を信頼し、その気質を好んでいるのが見てとれる。召平は、この蕭何という人物に強い好感を抱く。

後世の漢の史書は、季布の死後まで楚人が語り継いだ言葉として、「黄金百斤(ひゃっきん)を得るとも季布の一諾(いちだく)を得るに如(し)かず」と刻んだ。また、初唐の宰相・魏微(ぎちょう)は、唐詩選の巻頭の詩に、「季布に二諾無く、侯嬴(こうえい)は一言を重んず」と、敬意をこめてその名を書き残した。

その季布である。言ったことは変えない。召平も蕭何も、笑って聞くよりほかなかった。この季布の紹介の仕方は、軍人・政治家としてのそれではない。彼の侠客としての美学であったかと思う。

召平は「蕭何どの」と呼び、蕭何は「召平どの」と呼ぶ。普通の対等な関係とのお互いの認識である。政治向きの話はしない。瓜つくりの話に終始する。蕭何は、旨い旨いと美味を礼賛しながら召平のつくった瓜を食い、土産として大量の瓜を下僕に持たせる。

代金として市価の十倍もの金を渡そうとするが、召平はそれを制し、市価の二倍を受け取る。たかが瓜の代金である。十倍としてもたいした金額ではない。しかし、いわれなき金を受け取るわけにはいかない。この甘さこの旨さであれば市価の二倍は当然、との自負が召平にはある。

以来、何十年にもわたり、召平のつくる瓜の値段は市価の二倍、というのが長安の市場での通り相場となる。

「また時おり、瓜を買いに伺いたいと思います」

「そうぞ。どうぞ。大切な瓜のお客様が一人増えて嬉しいですよ」


















東陵の瓜(15)

翌日から、浩や弟二人そして何人かの作男を連れて畑に出る。

「まあ、まあ。ゆっくりしたらええのに。せっかちは子供の時とちっとも変わらんなあ」、母親は嬉しそうに軽口をたたく。畑を見廻りながら、春の農作業の段取りを考える。農に関しては素人ではない。

同じ場所に同種類の野菜を続けて植えると出来が悪い。連作障害である。前年、そのまた前年、ここに何を植えていたのか。一つ一つを聞いて頭に入れる。大事なことは木簡に記す。
「研究熱心なことじゃなあ」、李照が顔をだして召平を冷やかす。
一ヶ月はすぐに経った。父親に申し出る。

「五反(1500坪)ほどを勝手に使わせてほしい。残りは今まで通り親父が作男に指示なされたら良いから」。「おう、おう。好きにやったらええ」、と父親は笑う。

(素人が五反に何を植える気かな。そのうち雑草に手を焼いて途中で投げ出すじゃろう。平は子供のじぶんは畑仕事を嫌がって逃げ回っていたのに。どうした風の吹きまわしじゃ?)

だれもが召平に20年の畑仕事の経験があることを知らない。浩には、広陵や汨羅での農作業のことは絶対に言うなよ、と強く言い聞かせてある。「突然立派な瓜をつくって、みんなを驚かせてやるんじゃ」。「はっはっはっ。そいつは愉快ですね」

「瓜で勝負する」

召平はそう決心する。子供の頃、今は亡き祖父が何かのおりに、「このあたりの気候と土壌は瓜に最適なんじゃ」と漏らした言葉も頭の片隅に残っている。

後世、「東陵の瓜」と呼ばれ名声を博す、召平の美味な瓜は、広陵と汨羅での20年の経験と、このような周到な準備と研究のもとにつくられたのである。作男にはたのまず、浩・李照・二人の弟を連れて、長安の市場に瓜の種を買いに行く。3世紀の古文書が、「東陵瓜は五色に輝いていた」と書き残しているが、これは事実である。長安の町中で買い求めた瓜の種は、はじめから数種類あったのだ。

召平がつくった瓜を大きく分けると、甘みがあり果物として食べるまくわ瓜(真桑瓜)と、野菜として食べる白瓜の二種類である。前者の仲間として何種類にものメロンがある。西域から入った甘みの強いハミ瓜もつくる。後世のマスクメロンの原種のような瓜もつくっていた。すでにこの頃から長安は、シルクロードの出発点として西域との交流があったのだ。

胡瓜(きうり)と西瓜(すいか)はつくっていない。胡瓜は召平より80年ほど後に生まれる張騫(ちょうけん)という人が西域から種を持ち帰る。西瓜が中国に入るのは、はるか後世、11世紀になってからである。

1500坪の畑を、召平と浩の二人だけでたがやす。雨の降らない日は、早朝から暗くなるまで瓜畑で農作業に没頭する。召平にとって、戦(いくさ)も瓜作りもまったく同じだ。全身全霊を打ち込む。

みんなが驚いた。はじめの頃はその熱心さに驚いていたが、青々と葉が繁り、花が咲き、大きな実を結ぶころになると、百姓としてのその力量にみなが感嘆する。肉厚の甘みの強いハミ瓜を、近所の人を多数を呼び、召平の家でふるまう。弟の娘が10キロをゆうに超えるハミ瓜を、肩に背負って畑から収穫してくる。包丁で切り、各人の前にならべる。

「これほど旨い瓜は食ったことがない!」
「平は瓜作りの名人じゃ!」

みんなが口々に絶賛する。ある古老に至っては、「まったくの素人が、これほどの瓜を、、、、、」
と言ったきり絶句して、恐怖に近い狼狽ぶりを示した。