2025年2月6日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(2)

 シルクロードのものがたり(53)

ラクダの話(2)

戦国時代の弁舌家・蘇秦(そしん)は、楚の王様に次のように献策した。「自分の言うとおりにすれば、韓(かん)・魏(ぎ)・斉(さい)・燕(えん)・趙(ちょう)・衛(えい)の妙音(妙・たえなる音楽)と美人はかならず後宮に充ち、燕(えん)・代(だい)の駱駝(らくだ)・良馬はかならず外厩(がいきゅう・宮殿の外のウマ屋)に実(み)たん」

これからして、ラクダは美人や良馬とならんで、当時の諸侯が欲しがったものであることがわかる。唐代には火急のときは、早馬ではなく早ラクダを用いた。これを「明駝使」と呼んだ。馬は速くてもすぐにバテるが、ラクダはバテないからだ。

1970年代にNHK取材班は何度もシルクロード方面に遠征し調査している。このとき同行した記者の一人は、ラクダの性癖やその乗り心地を次のように記述している。

人間に飼いならされたラクダとはいえ、荷物を積まれるときは相当抵抗する。気の荒いラクダは後足を跳ねあげ、人を寄せ付けようとしない。荷物を振り落とすラクダもいる。長距離を旅するときは、大きなラクダでは140キロぐらい、小さなラクダなら100キロぐらいの荷物が理想的だ。歩行速度は1時間に3キロ。もちろんもっと速く歩けるし、走ることもできる。でも長距離キャラバンの場合は、それがもっともラクダの耐久力にかなう理想的な速度だと、地元の人はいう。

ラクダの乗り心地は、前後左右に揺れるが、予想したほど悪くはない。前日に砂塵にまみれ激しい振動をしたジープとトラックに比べれば、ラクダの背のほうが楽である。ただ一つ不安なのは、転落しないかということだ。ラクダの背は、乗る前の予想よりはるかに高い。


陳舜臣は、ハミウリと同時にこのラクダにも思い入れが強い。彼が地元の人から聞いたという話を含めて、いくつかの興味深い話を書き残している。

ラクダはその長い旅の道中で子を産む時もある。砂の上に生まれ落ちたばかりのラクダを、母親の背に乗せてやらないと、母ラクダは歩こうとしない。また、不幸にも子が死んだときは、母の背から降ろしてはいけない。死骸が朽ちはてるまで母とともにいなければ、母ラクダは一歩たりとも前に進もうとしないという。

また、キャラバンの先頭には、一番優秀なラクダを歩かせるという。先頭のラクダが歩けば、どんな険しいところでも、後続のラクダは黙ってついていくという。沙漠の船といわれるラクダで旅をしたいにしえの旅人は、1日におよそ30キロくらい進んだ。オアシスからオアシスまでの距離がほぼ30キロから40キロであったからである。

中国人であるこの人は、食への関心も強い。以下も陳舜臣の文章の引用である。

旅をしているうちに、ラクダの背中のコブはしだいに小さくなる。そこから栄養分を補給しているのであろう。当然コブのなかには、生命のエッセンスが詰まっているにちがいない。さぞかしそこは美味であろうと中国人が考えるのは、自然な発想といえる。

古来、中国では、ぜいたくなご馳走のことを、「駝峯熊掌・だほうゆうしょう」という。「熊のてのひら」は日本にも輸入され、それを含むコース料理が数十万円の値段になったということが新聞に出ていた。「駝峯(だほう)すなわちラクダのコブ」が輸入されたとは聞かない。清代の汚職大官のぜいたくぶりを描写する文章に、「一皿の駝峯を得るために何頭ものラクダを屠(ほふ)り、コブだけを取って残りはすてた」というくだりがあったのを覚えている。

私はイランのペルセポリスの近くでラクダを食べたことがある。ピンク色をした肉で、そんなにまずいものではない。中国の酒泉賓館(しゅせんひんかん)のレストランで「駝蹄・だてい」が出た。蹄(ひつ”め)というが、じつはラクダの足の裏の軟骨部分である。これはまず美味といってよかった。私にはこの二回の経験しかない。もちろん「駝峯(だほう)」を味わったことはない。


ヒトコブラクダ





2025年1月30日木曜日

”沙漠の船” ラクダとロバと馬

 シルクロードのものがたり(52)

ラクダの話

名産品という言葉から少しずれるが、シルクロードを語ってラクダを語らないわけにはいかない。このような題にしたのだが、主役はラクダで、ロバと馬は脇役である。

今までは歴史のうんちくを語ることが多かったので、この章では「動物学的な視点」から入りたい。といっても、これもその方面の先生方の受け売りである。

ラクダ科の動物の先祖が生まれたのは、4500万年前、場所は意外にも北米大陸だという。700万年前に現在のベーリング海峡を越えて(当時は陸続きであった)ユーラシア大陸に渡ってきたのがラクダである。動物学では「ラクダ科・ラクダ亜科」という。北米大陸と南米大陸は大昔は離れていた。300万年前にパナマあたりでくっついて陸続きになった。南に進んだ動物がリャマ・アルパカとなりアンデス高原に住みついた。これを「ラクダ科・リャマ亜科」という。すなわち、ラクダとリャマ・アルパカは ”またいとこ” くらいの親戚関係になる。

シベリアから南下したラクダのうち、モンゴル高原・ゴビ砂漠・南ロシア・新疆ウイグル・アフガニスタン北部あたりで飼育されたのが「フタコブラクダ」であり、さらに西に移動してアラビア半島・北アフリカのサハラ砂漠あたりで飼育されたのが「ヒトコブラクダ」である。どこかで進化・変化したのであろう。よってこの二つは ”兄弟” の関係である。

以上は、川本芳先生(京都大学・霊長類研究所)の論文の一部である。


ラクダは沙漠の生活に耐えるように、耳の内側に毛がはえ、まつげが長く、鼻孔は自由に開閉できる。かたい植物が食べられる丈夫な歯・舌・唇をもち、胃は牛と同じく四室にわかれて反芻(はんすう)してよく消化する。

ヒトコブラクダは体温が40度以上に上がるまで汗をかかない。必要な水分は血液だけでなく、筋肉などの体組織からも供給されるので、体中の40パーセントの水分を失っても生存できる。よって、ラクダには「熱中症」という病気はないらしい。干し肉(ビーフジャーキー)の一歩手前のようにカラカラになっても生きているというから、たいしたものだ。その直後に水を飲ませたら、10分間で92リットル飲んだという記録がある。また30数日間一滴も水を飲まずに旅を続けた記録もあるとも聞いた。これには私は首をかしげているが。

乳は飲めるし、肉は食用になり、毛は立派な織物になる。ここまでは羊と同じだが、荷物を運んだり、人を乗せたりするところは、ラクダのほうが優れている。良質な毛がとれることは、リャマ・アルパカの ”またいとこ” という氏素性からして合点がいく。

「いいことずくめ」のラクダに惚れ込んだ陳舜臣は、「シルクロードのあちこちにラクダの銅像を建てるべきだ!」とまで言っている。


フタコブラクダ




2025年1月23日木曜日

崑崙の玉の話(4・完)

 シルクロードのものがたり(51)

玉壁(ぎょくへき)の話

『中国玉器発展史』は、8000年前の玉斧(ぎょくふ)からはじまって、19世紀の清朝に至るまでの多種の玉製品を紹介している。呼び方は色々とあるが、斧(おの)・耳飾り・首飾り・祭祀用の器・亀や鳥の置物・玉人といわれる人間の像・象や怪獣の置物・儀仗用の戈(ほこ)や刀・帯留めや玉杯などが、秦漢時代までにつくられている。

隋唐以降は、玉冊(ぎょくさく)という玉の板に文字を刻んだもの・観音像・舎利を安置する玉石棺のなども作られている。宋代以降は、動物や魚の置物・玉の印鑑・筆を洗う器など、工芸品が多い。台北の故宮博物院にある有名なコオロギがとまっている白菜や、豚の角煮などの工芸品は清朝時代の作品だが、これらも玉で作られている。私も若いころ三度ほど台北の故宮を訪問したが、コウロギの白菜には感嘆した。

本当かどうかわからないが、その時案内してくれた友人の台湾人の船長は、「膨大な財宝が倉庫にある。年二回新しいものを展示する。全部を展示するのに50年ほどかかる。年二回毎年台北に見学に来たとして、全部を見終わるのは田頭さんが80歳過ぎた頃だ」と説明してくれた記憶がある。


このような流れの中で、新石器時代から清朝に至るまでの8000年間、一貫して作り続けられてきた不思議な玉の製品がある。「玉壁・ぎょくへき」という。

玉をうすく輪のかたちに磨きあげたもので、これを作るには巨大な玉(ぎょく)の原石を必要とする。同時に、これを削り磨くためには膨大なエネルギーと時間を必要とする。まんなかに丸い穴がある。もともとは、「日月を象徴する祭器として祭礼用の玉器のうち最も重要なもの」とされたらしい。それが、春秋戦国時代あたりから、長寿・権力・財力などの幸運をもたらすものとして珍重されたようである。(各時代の玉壁の写真を下に添付する)

出典を忘れたので記憶を頼りに紹介すると、中国の古い本に次のように書かれていた。

「高級な玉壁は部屋に置いておくと、夕方にはぼおっと光を放ち部屋が明るくなる。夏は部屋が涼しくなり、冬には部屋が暖かくなる」 まるで、蛍光灯と冷房・暖房のエアコンを兼ねた電気製品のようである。

蛍光物資の入った蛍石(ほたるいし)などの鉱物であれば、夕方部屋で光を放つことはありうる。でも、それにより部屋が涼しくなったり暖かくなるとは考えにくい。玉は冷たいので夏には少し涼しくなったのだろうか。冬に外に出して太陽にあてれば熱を得る。夕方これを部屋に入れれば少し暖かくなったのかな?とも思うが、信仰だから、「気のせい」の部分が多かった気がする。

『淮南子・えなんじ』は、漢の武帝のころ、淮南王・劉安(えなんおう・りゅうあん)が学者を集めて編纂した思想書だ。この中に、「聖人は尺の玉壁を貴ばずして、寸の陰を重んず」という言葉がある。「賢人は直径一尺もある玉壁を愛することなく、寸陰の時間を惜しんだ」との意味である。この当時、人々が玉壁を珍重したことがこれから分かる。


中国の戦国時代、趙(ちょう)の恵文王(けいぶんおう)の有名な話を紹介したい。この人の弟が、食客数千人を集めていた、あの有名な平原君(へいげんくん)である。

この恵文王は「和氏の壁・かしのへき」というすぐれた玉壁(ぎょくへき)を持っていた。西の強国である秦の昭王(しょうおう・始皇帝の曾祖父)はこれが欲しくてたまらない。秦の領内にある15の城(町・領土)とこの玉壁を交換して欲しいと申し出てきた。秦は強さにモノをいわせて「和氏の壁」を取り上げるだけで、15の城を渡すつもりはないのではあるまいか、と恵文王もその側近たちも懸念した。そうかといってこの申し出を無視すれば、秦は兵力にものをいわせて趙に侵攻してくるかもしれない。

どうしよう、どうしよう、と趙の宮廷内部は思案に暮れた。このとき使者として秦に派遣されたのが、藺相如(りんしょうじょ)という人物である。彼は「和氏の壁」を持って秦に向かう。出発のとき相如は恵文王に言った。「秦王が15の城を本当に趙に渡すなら、この壁を秦王に渡します。城を入手できないなら、壁を完う(まっとう)して趙に持ち帰ります」

趙(ちょう)側が懸念した通りだった。秦王はああだこうだと言って、約束の15の城を渡そうとしない。強さにモノをいわせて、玉壁だけを取り上げる魂胆だったのだ。これを見破った藺相如は、敵ともいえる秦の宮殿の中で、秦の昭王を相手に命がけのかけひきをおこなう。(この話は『史記列伝・藺相如列伝』の中にある。列伝の中では長い文章だが、とても面白い。興味ある方は司馬遷の原文を読まれると良い)


命を危険にさらしながら、藺相如はこの玉壁を取り上げられることなく、無事に趙の国に持ち帰った。彼の抜群の交渉力の結果である。その後も秦が武力で趙に侵攻することはなかった。あっぱれ、あっぱれである。すなわち、「壁を完うする・へきをまっとうする」ことができたのである。現在日本でも使われている「完璧・かんぺき」という言葉はこの故事に由来する。

この藺相如という人は故事逸話の多い人で、「刎頸の交わり・ふんけいのまじわり」という言葉もこの人に由来する。この話も『史記・欄相如列伝』の中にある。道元禅師は藺相如が好きだったようで、『正法眼蔵随聞記』の中にも、この「完璧」の話が紹介されている。


石器時代から周の時代








春秋戦国時代

秦漢時代から宋清時代

2025年1月16日木曜日

崑崙の玉の話(3)

 シルクロードのものがたり(50)

玉門関(ぎょくもんかん)は玉(ぎょく)の密輸入防止のために造られた


殷代や漢代の王族のお墓から大量の玉が出土していることからして、当時の中国の貴族や高級官僚、あるいは裕福な庶民たちが、この玉に憧れ、これを欲しがったのは間違いない。

人々が欲しがる嗜好品に税金をかけてこれを国の収入にすることは、古代から為政者が常に考えたことである。21世紀の日本でも行われている。酒もタバコもやる私などは、庶民の一人としてかなりの税金を支払っているわけだ。玉は嗜好品ではないが、殷・周・春秋戦国・秦・漢の王様や皇帝が、これに税を課すことを考えたのは当然のことである。

現在残っている玉門関の遺跡は漢代と唐代に造られたものらしい。ただこれは一つの象徴的な建造物であって、殷代にも周代にも、玉の密輸入を取り締まる関所があったと考えるのが自然である。これに税を課して国庫収入を増やす。野放図な玉の流入を防ぎその価値の暴落を抑える。この二つが目的であった。素晴らしい珍品を見つけた時には、「これは王様用だ」と言って関所の役人が取り上げた。これをうやうやしく王様に献上して、その役人はご褒美をもらったという光景も想像できる。


崑崙の玉が、当時どの程度日本列島に入ってきたかは、私は知らない。三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま」は、だれも見たことがないので、どのようなものかは誰も知らない。「名称から推察して、大きな勾玉とも長い紐に繋いだ勾玉ともされる」と、どこかで誰かが解説していた。もしかしたら、崑崙の玉でつくったものかも知れない。

日本武尊(やまとたけるのみこと)の像や、尊の肖像画が描かれた紙幣を見ると、勾玉(まがたま)らしきものを身につけている。日本の勾玉の多くは翡翠(ひすい)・めのう・水晶・琥珀(こはく)などでつくられているが、その多くは日本列島で産出されたものらしい。中には少量の崑崙(ホータン)産の玉があったかも知れない。「玉に対する信仰」という精神文化は、この当時中国大陸から日本列島に入ってきたのは間違いない気がする。

現在の中国経済は下降気味だが、10年ほど前には、ホータン産の原石を加工した高級な玉製品には5億円・10億円の値が付き、中国の富裕層が競って購入したという。美しい石を集めるのを趣味にしている日本人に会ったことはあるが、何億円も払って玉を買ったという日本人は聞いたことがない。日本武尊から1700年。その間に、日本人は玉への信仰心を失ったように思える。別に悪いこととは思わない。

古代から漢代初期までは、中国人はこの玉がホータン産であるとは認識していなかったらしい。楼蘭(ろうらん)で産出されていてると考えていたようである。楼蘭に行けばこの玉が買えたからである。中国人がこの玉がホータンで産出されたものだと認識したのは、漢の武帝の御代に張騫が西域に遠征した後である。ホータンの南に連なる山々を、当時の中国人は「南山」と呼んでいた。この山脈に「崑崙・こんろん」という名前を付けたのは、漢の武帝だといわれる。

漢の武帝がこの山に「崑崙」という名前を付けて二千年後、中国の東方にある列島の若者たちは自分たちの寮歌にこの山のことを詠った。明治38年の第三高等学校の「逍遥の歌」の三番に次のようにある。崑崙(こんろん)という言葉にロマンチックな響きがあるからだろうか。武帝は夢にも思っていなかったに違いない。

千載(せんざい)秋の水清く 銀漢(ぎんかん)空に冴(さ)ゆる時

かよへる夢は崑崙(こんろん)の 高嶺(たかね)ここなたゴビの原


ホータン産の玉の原石を楼蘭まで運んだのは、ホータンや楼蘭の商人たちだが、この地域で彼らを支配していたのが「月氏・げっし」である。中国の文献には、美しい玉を「禺氏・ぐうし・の玉」と書いてあるが、禺氏とはすなわち「月氏」のことである。

匈奴(きょうど)に追われて西方に移住するまで、モンゴル平原南部から河西地方・ホータン地方にかけての広大な西域一帯に勢力を張っていた民族らしい。この月氏が、中国に大量の玉を運び、中国はその見返りとして膨大な絹を月氏に与えた。そして月氏は、西トルキスタン・ペルシャ王国などを経由して、この絹をはるか西方のローマまで運んだ。この当時、すでにローマには中国産の絹の市場があったという。そのため月氏は、西方の国の人々からは「絹の民族」としてとらえられていたという。


白玉河で玉を探すホータンの人々







2025年1月10日金曜日

崑崙の玉の話(2)

 シルクロードのものがたり(49)

ずいぶん古い、中国人の玉(ぎょく)への信仰

「8000年前の中国の遺跡から玉器が発見された」と聞いてびっくりしたのだが、冷静になって考えれば、これは別に驚くことではない。8000年前の新石器時代には、世界中の人々が硬い石を割り、削り、磨いて、斧(おの)・包丁(ほうちょう)などの生活用品としていた。また、鏃(やじり)・槍(やり)・刀などをつくり、狩猟や武器に使っていた。

青森県・三内丸山の縄文時代の遺跡からは、北海道産の黒曜石の斧や鏃(やじり)が数多く出土している。糸魚川産の翡翠(ひすい)製品もたくさん出ている。「石器時代からの流れ」の中で考えれば、高級石器である「玉製品」が古くから珍重されていたのは、自然なことだと思われる。

石器時代には、世界中の人々が石を加工して生活用品として使っていた。その中にあって、唯一、古代中国人だけが「玉には禍(わざわい)を遠ざける神秘的な霊力がある」と信じていたようである。硬くて光沢のある玉に不死の生命力や霊の力があると感じ、玉を身につけることでその霊力を借りようとしたのであろうか。


1928年、西安から南東400キロに位置する殷墟の墓から、1928点の出土品が見つかり、このうちなんと4割に近い756点が玉器であった。この墓は、殷王朝22代の王・武丁(ぶてい)の妃(きさき)である婦好(ふこう)という人のものであると、青銅器の銘文により確定されている。この女性は、単に武丁の妃の一人との認識でははかることのできない大物女性である。

この婦好という女性は、祭祀をとりおこない占いを得意とした。また自ら一万三千の兵を率いて周辺の敵を征伐した。古代の日本でいうと、卑弥呼(ひみこ)と神功皇后(じんぐうこうごう)を合わせたような女傑であったらしい。酒池肉林におぼれて滅亡した殷朝最後の30代・紂王(ちゅうおう)が死んだのはBC1048年だから、この婦好(ふこう)はその200年ほど前の人だと考えられる。今から3300年ほど昔の人である。

材質を分析したところ、その大部分が西域のホータンやヤルカンド(ホータンの北西300キロ・タクラマカン砂漠の最西端)のものだとわかった。すなわち、これらは崑崙(こんろん)産の玉であったのだ。

これより1000年のちの漢代のお墓からの出土品について紹介したい。1968年に河北省・満城(まんじょう)県の満城漢墓(まんじょうかんぼ)から出土した金縷玉衣(きんるぎょくい)は非常に豪華なものである。この墓は、前漢の武帝の異母兄である中山靖王・劉勝(ちゅうざいせいおう・りゅうしょう)とその妻のなきがらを葬ったもので、二人は金縷玉衣に包まれていた。劉勝の玉衣は、2498枚の玉片一枚一枚の四隅に孔(あな)をあけ、金の糸でつつ”りあわせたもので、金糸だけで1100グラムにおよんでいる。

この玉の成分を分析したところ、これらもホータン産の玉と同じであった。玉衣とは、これで包めば遺体は完全に保存できるという信仰にもとつ”いており、玉崇拝の極みともいえる考えである。

これらの事実から考えると、ユーラシア大陸を東西に通じるシルクロードと呼ばれるこの道は、「絹(シルク)の道」よりも「玉の道」としての歴史のほうが、より古いような気がする。西から来るのが「玉」、西に行くのが「絹」という時代が何千年も続いたと思われる。


漢代の玉衣






2024年12月23日月曜日

崑崙(こんろん)の玉(ぎょく)の話

 シルクロードのものがたり(48)

玉(ぎょく)とはいったい何なのか?

三光汽船のシンガポール駐在員の頃は、マレーシア・インドネシア・タイ・香港が守備範囲だったので、この方面には頻繁に出張していた。出張というと聞こえがいいが、日本からの荷主・現地での受け荷主・代理店の方々と一緒に本船を訪問したり、食事やゴルフをしたり、時には彼らと一緒に1-2泊で旅行をすることもあった。

日本郵船・商船三井を含め海運会社の駐在員は、お客様との信頼関係を築くのが仕事のメインで、事務的な仕事はローカルスタッフにまかせ、自分ではほとんどしない。だから、船会社以外の商社や銀行などの駐在員からは、「船会社の人っていつも遊んでいるみたいだね」とよく言われていた。

各地をウロウロと旅をしていて、これらの国に住む中国系の人々の指輪の「へんてこな石」が気になって仕方なかった。ダイヤモンドやルビーなどの宝石ではない。ただの石っころを、嬉しそうに指輪にしているのだ。

二度・三度食事を一緒しているうちに心やすい関係になる。「その指輪の石、いったい何なの?」と聞いてみる。「これは石ではないよ。玉(ぎょく)なんだ。ルビーやサファイヤより値段が高いんだぜ」と口をとがらせる。そして、この玉なるものがどれほど貴く自分の身の安全を守ってくれるかを、長時間とうとうと弁じる。何人もの人が、同じように得意げに説明してくれた。「石に対する一種の信仰だな」と私は思った。

今回シルクロードに関する本を読んでいて、この玉に対する中国人の愛着・信仰の歴史は、私が考えていた以上に古いものだということがわかった。当初は3500年ほど昔の殷の時代がその起源かと考えていたのだが、どうももっと古いらしい。


「8000年前の新石器時代の興隆窪(こうりゅうわ)文化の遺跡から玉器が発見された」と常素霞著「中国玉器発展史」の中に書かれている。中国人が書いたものなので、少し眉唾ではあるまいかと当初は疑っていたのだが、何冊かの他の本を読んでみて、どうも本当のようだ。

じつはこう書いている今でも、「玉とはいったい何なのだろう?」との気持ちが自分の心の中にある。広辞苑にはこう書いてある。「たま。宝石。珠(じゅ・貝の中にできる丸い球)に対して美しい石をいう。硬玉・軟玉の併称。白玉・翡翠(ひすい)・黄玉の類」 わかったようで、よくわからない。40年前に私が持った認識は、かならずしも間違っていなかったような気もする。

ただ、玉というものはその言葉からして、貴く、得難く、価値あるものであることはわかる。玉体(ぎょくたい)・玉顔(ぎょくがん)・玉璽(ぎょくじ)・玉音(ぎょくおん)・玉酒(ぎょくしゅ)・玉杯(ぎょくはい)などは、皇帝や天皇に関係する言葉のような気がする。玉砕(ぎょくさい)という言葉からは太平洋戦争を思い浮かべるが、中国の古書「北斉書」の中に見える。玉石混淆(ぎょくせきこんこう)・金科玉条(きんかぎょくじょう)という言葉も中国の古典の中にある。私の文章はいわば「石稿」だが、優れた文章のことを「玉稿」という。すべての言葉に、「すぐれて貴い」という意味が込められているようだ。

切磋琢磨(せっさたくま)という言葉は『詩経』の中にある。当時から現在と同じく、自己研鑽ぶりを表した四文字熟語であるが、本来はそれぞれの文字が、材料を加工する作業を表示しているのだという。「切」は骨を切って加工する作業。「磋」は象牙をといで加工する作業。「琢」は玉(ぎょく)を打って加工する作業。「磨」は石を磨いて加工する作業。このような意味らしい。








2024年12月16日月曜日

ハミウリ(哈密瓜)の話(3)

 シルクロードのものがたり(47)

ハミウリ(哈密瓜)の話(3)

陳舜臣の「シルクロード旅ノート」を読んでいて、はっとした。私の大好きな人物の名前が目に飛び込んできたからだ。阮籍・陶淵明・李白・杜甫・陸游など中国の横綱級の詩人が、この人を敬慕して詩に書いている。ただ、散文の中でこの人について語っているのは、私が知る限り今までに二人しかいない。

司馬遷は「項羽本紀・こううほんぎ」と「蕭相国世家・しょうしょうこくせいか」で、この人物について記している。今一人、司馬遼太郎は「項羽と劉邦」に中にこの人物を登場させている。陳舜臣が三人目である。私はこの人物に惚れ込んでしまって、2年ほど前に「小説・東陵の瓜」と題し、このコーナーで紹介した。この人物の名前は、東陵候・召平という。


陳舜臣は次のように書いている。

18世紀半ばに、新彊に左遷された紀昀(きいん・1724-1805)の「烏魯木斉・ウルムチ・雑詩」の中に、次のような詩がある。

種(しゅ)は東陵子母(とうりょうしぼ)の瓜に出つ”

伊州(いしゅう・哈密のこと)の佳種(かしゅ) 相誇る無し

涼(りょう)は冰雪(ひょうせつ)と争い 甜(てん)は蜜(みつ)と争う

消(しょう)し得たり 温暾顧渚(おんとんこしょ)の茶

秦の東陵候であった召平は、秦がほろびた後、故郷の長安の城東で瓜をうえ、それがたいそう美味であったという。子母とは繁殖を象徴することばである。その種が伝わってできたように、つめたく、また甜(あま)い。それにあたためた顧渚の茶(浙江産の銘茶)を飲めば消化もよろしいのである。

以上は陳舜臣の筆による。


この紀昀(きいん)という人が読んだのは、阮籍(げんせき)の詩に間違いあるまい。紀昀は「召平の瓜の種が伝わってきたかのようだ」と言っているが、私は「西域のハミウリを漢代初頭に、召平は長安の地でつくっていた」と考えている。魏の阮籍(竹林七賢人の筆頭・210-263)は次のように詠(うた)う。

昔聞く 東陵の瓜 近く青門の外に在り

畛(あぜ)に連なり 阡陌(せんぱく)に到(いた)り 

子母(しぼ)相鉤帯(あいこうたい)す

五色 朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き 嘉賓(かひん)四面より会(かい)せりと

昔こんな話を聞いたことがある。東陵候が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。


召平の瓜畑では、五色の瓜が朝日を受けて輝いていたという。そして、「季布に二諾なく」のあの季布(きふ)が、「中国史上群を抜く名宰相」といわれたあの簫何(しょうか)が、召平のあばらやに瓜を買いに来たのだという。秦が滅びて東陵候の爵位を失った召平は、故郷の長安郊外に帰り農夫になって瓜を作った。そして楽しく充実した人生を送り、百歳近い長寿を保ち、死んでいった。これを多くの人々が讃え、また羨ましがったようである。日本でも掛け軸に、かっぱを着た老人が畑で農作業をしている絵を見ることがある。召平がウリ畑の手入れをしている姿である。

二千年前、長安郊外の畑で、召平がこのハミウリをつくっていたのは間違いないと、田頭は考えている。そして、召平の真似をして、郷里広島県の畑で西瓜やまくわ瓜をつくっているのだが、なかなか良いものが収穫できない。

白く見えるのがハミ瓜 ウズベキスタン 提供
辻道雄氏