シルクロードのものがたり(96)
唐代のシルクロードの詩を紹介する前に、盛唐の三傑ともいえる王維・李白・杜甫について、自分が感じている人物像を語ってみたい。私には三人の詩そのものについて評論する学識はない。「人柄と各人の雰囲気」といった視点で、三人のことをお話ししたい。
王維(701-761)
私が一番好きな盛唐の詩人は王維だ。一緒にお酒を飲むとすればこの王維と飲みたい。人物が誠実で、かつ人柄に艶(つや)があり、おとこ気もある。安心して楽しい酒が飲めそうな気がする。李白は皇帝の呼び出しにも応じず仲間と酒を飲んでいた人だ。その強烈すぎる個性に圧倒されそうで、気が進まない。杜甫は陰気くさく、旨い酒が飲めそうにない。
王維の母親は篤い仏教信者で本人も仏教に帰依している。三十歳のころ妻を亡くし生涯独身で通したというから、当時としては珍しい。名門の出で、父・母の親族から何人かの宰相が出ている。本人も二十歳で進士に及第しているから超エリートだ。それでいて、威張ることのない優しい親切な人柄で、兄弟仲も良かった。
12歳年長で、田舎の山中から都に出てきた貧乏な野人・孟浩然を慕い、役所の実力者への紹介や経済的なサポートなど、なみなみならぬ援助を行っている。三分の侠気というか、漢気(おとこぎ)を感じさせる人物だ。四百年前の賢人・陶淵明を尊敬し、再び世の人々に広く知らしめたのは王維だといわれる。どの学者も言ってはいないが、陶淵明の偉大さを王維に教えたのは、孟浩然ではあるまいかと私はひそかに思っている。
安碌山の乱では逃げ遅れて捕虜になった。脅迫されたとはいえ、安禄山政権の官職に就いたので、後日、玄宗皇帝が復権したときこれが問題となり、反逆罪で死刑になる可能性があった。多くの友人たちの助命運動により、同時にのちに宰相になる弟の王縉(おう・しん・この人は82歳の長寿を得ている)が兄を助けるため自分の官職を捨てるという行為により、本人はわずかに官位を下げられただけで復権している。
この事件をのぞけば、王維の人生は全体としては平安で、大きな左遷や失脚もなく天寿をまっとうしている。杜甫も同じように安禄山の乱で逃げ遅れているが、王維のような進士合格のエリートではないので、安禄山政権からの官職への誘いはなかった。
李白(701-762)
李白は天才、という説にはまったく同感だ。生年は王維と同じで、没年は王維より1年遅い。王維の人柄に仏教の香りが感じられるのにくらべ、李白には道教の匂いを感じる。
余に問う 何の意ぞ碧山(へきざん)に棲(す)むと
笑って答えず 心自(おのず)から閑なり
桃花流水 杳然(ようぜん)として去る
別に天池の人間(じんかん)に非ざる有り
この「山中問答」には、道教の匂いが特に強い。
李白の氏素性ははっきりとはしない。父親の名前も残っておらず、西域から中国にやってきた商人の息子だといわれている。じつは、玄奘の『大唐西域記』の中に、現在のキルギス・タジキスタンあたりに「中国から亡命した漢人三百家族が住む村がある」との記述がある。玄奘がここを通過したのは、李白が生まれる70年ほど前である。
現在の中国では「李白は西域に移住した漢人の家に生まれ、幼少のころ裕福な商人であった父と共に蜀の国(四川)に住みついた」というのが有力な説らしい。これによって、以前いわれていた漢人ではなく西域の人種という説は否定されている。李白が西域にまつわる詩を多く残しているのは、その出生によるのかも知れない。李白にくらべると、杜甫の詩の中には西域に関係する詩は発見できない。もっとも、私が読んだのは千四百あるといわれる杜甫の詩のほんの一部だから、丁寧に読めばあるのかも知れないが。
杜甫(712-770)
杜甫は貧乏して苦労した人という印象を我々は持っている。潭州(湖南省長沙市)から岳州(湖南省岳陽市)を経由して故郷に向かう途中、59歳で舟中で病死した。息子にはその亡骸(なきがら)を700キロ北方の郷里、洛陽の東の河南府鞏県(現在の河南省鄭州市)に運ぶ資力がなかった。
杜甫の死後43年を経て、孫の嗣業(しぎょう)という人が辛苦して金をつくり、その遺骨を郷里に運び先祖の墓地に葬ったという。
中唐の詩人に元稹(げん・しん・779-831)という人がいる。白居易(白楽天)の親友で唐詩においては関脇クラスの人だ。当時この人は江陵(湖北省江陵県)に左遷されていた。孫の嗣業が移葬の途中、杜甫の遺骨を背負ってこの人の自宅を訪問して、墓石に彫る銘文を依頼した。杜甫を尊敬していた元稹は、その名誉に感激しながら文章を練ったという話が残っている。
この元稹という人は、科挙試験では白居易と同期で、元稹が一番、白居易が四番で進士に合格したと記録にある。役人・政治家としては元稹のほうが出世して、短期間ではあるが元稹は宰相を勤めている。ただ、詩人としては白居易がだんぜん上で、白居易が中唐詩壇の横綱とすれば、元稹は関脇クラスであろう。
関脇だ、大関だと、私は無責任に言っているが、唐代の高級官僚は全員が漢詩をつくった。唐王朝三百年を合わせると、何万人、何十万人もの科挙試験合格の高級役人がいたはずだ。その中で『唐詩選』に選ばれている作家は128人にすぎない。これを考えれば、これら全員が横綱クラスと言うのが正しいのかもしれない。そのような判断をすれば、この元稹も横綱である。
貧乏ではあったが、血統・家柄からすると、杜甫は唐の詩人の中でも飛びぬけた名門の出身である。名門出身の王維ですら、とてもかなわない。
父方の祖父・曾祖父・それ以前の先祖たちの中には、唐・西晋、さらにさかのぼって漢の時代に、当時の歴史に名を留めた官僚・学者・将軍が何人もいる。かたや、母親(崔・さい氏、崔氏は唐代の超名門)の父(杜甫の祖父)は唐の初代皇帝高祖・李淵の曾孫にあたり、母親の母(杜甫の祖母)は二代皇帝太宗・李世民のこれまた曾孫であるというから、ただごとではない。
杜甫には「春望」という有名な詩がある。「国破れて山河あり」のあの詩である。長安が安禄山の軍隊に占領され、杜甫はその賊軍の虜(とりこ)になった。唐王朝空前の国難の中で書かれた憂国の詩だ。杜甫が初代高祖・二代太宗の血を引く人だと知っていると、この詩をより深く味わうことができると思う。
李白は洛陽での宴会の席で、ひとまわりほど年下の杜甫に会った。すでに天下の大詩人の名声を得ていた李白が、末席で小さくなっている無名の貧書生の杜甫に声をかけた。「おい杜甫君、こっちに来いよ。一緒に飲もうではないか!」と呼び寄せたといわれる。それ以来、李白は杜甫を可愛がり、二人で一緒に一年以上も旅に出たりしている。杜甫の詩才を愛したのがその理由であろうが、名門に対する憧れの気持ちが強かった李白が、杜甫をあれほど可愛がった理由だと説く学者もいる。
『唐詩選』という書物は、明代の李攀竜(り・はんりょう・1514-1570)が編纂したもので、全部で465首が収録されている。ちなみに掲載数の多い詩人の四傑は次の通りである。杜甫51、李白33、王維31、岑参28。






