2026年7月30日木曜日

大学卒の初任給50万円(1)

 3年ほど前から、お客様の人事の方にお会いするたびに、次のように言ってひんしゅくを買っていた。私が出入りしている企業の人事の方々はおおらかで懐が深い。この無遠慮な発言を理由に、出入りを禁止された会社はない。

「初任給が27~8万円では若者の生活が大変です。50万円が適当だと思います。もっと新卒の初任給を上げるべきです」

怖い顔で、「馬鹿なことを言わないでください。我が社にはとてもそんな体力はありません」とおっしゃる方が多かった。中には笑いながら、「新卒採用は少ないから50万円程度なら払うことは出来ますよ。でも、そのそうなると、入社2~10年の社員の給与が新卒より低くなってしまいますよ」と言われる方もあった。


この「初任給」については歴史のうんちくではなく、私自身の体験をベースに語りたい。次のような体験である。最初に葉書の値段についてお話したい。

昭和39年4月、私は岡山県の金光学園高等学校に入学して、山の中にある大正時代に建てられた古い寄宿舎に入った。15歳の春のことだ。一緒に入寮した同期生は約50人だった。入寮したその晩の、69歳の老舎監長・佐藤岩男先生がおっしゃった言葉を今でもハッキリと覚えている。

「週一回かならず親にハガキを書いて近況報告をしなさい。週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。書くことはいっぱいある。もし本当に書くことがないなら、今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと、1週間分の寄宿舎の夕食の料理を書き並べなさい。それだけで両親は安心される」

各人が一冊のノートを持たされ、文具でも牛乳でも、そして郵便局のハガキでも、すべてツケで買っていた。郵便局でツケでハガキを買うなんて、今思うと不思議な気がする。舎監長先生はこのノートをチェックされる。月4枚のハガキを買っていない生徒は、舎監長室に呼ばれて頭をゴツンと殴られて説教される。このような環境だったので、私はかならず週一回親にハガキを書いていた。大学生になってからもこの習慣は続いた。高校時代・大学時代のハガキの値段は1枚7円だったと記憶する。

大学を卒業して三光汽船に入社したのは、昭和47年4月だ。自宅が東京にある人が数人いたが、関西出身者が多く大部分の新入社員は横浜の寮に入った。このとき、人事総務担当専務の平山隆三さんは、新入社員47人を前に次のような訓示ををされた。私はこれを聞いて、とても驚いた。

「辞令にある通り、君たちはこれから月給5万1千円をもらう。千分の一の50円でハガキが5枚買える。週一回親にハガキを書いて近況報告をしなさい」驚いたのはこれに続く次の言葉である。

「週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。もし本当に書くことがないなら、会社の寮で今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと1週間分の寮の食事を書き並べなさい。それだけでご両親は安心される」

異なる場所と人の瓜二つの言葉に、私は長い間、不思議な気持ちを抱いていた。平山専務は太平洋戦争末期、大本営の少佐参謀で瀬島龍三中佐の部下だった、と後で他の人から聞いた。それ以前、陸大を卒業してからの1年間は大阪陸軍幼年学校の教官をされていたという。

高校寄宿舎の老舎監長の佐藤岩男先生は、戦争中は寮生の食糧確保のため、地元の教え子の自宅を一軒つ”つ回って米・麦・芋を手に入れるため努力・苦労をされていた。同時に生徒たちと共に山野を開墾して、さつま芋やじゃがいもを植えておられた、そして豚や鶏を飼っておられた、と後になって寄宿舎の大先輩からお聞きした。

食糧難の頃、15・6歳の少年多数を預かっていた先生方は、このような思いで生徒や親たちに接しておられたのかと思い、深く感じ入るものがあった。真面目人間の私は、この尊敬するお二人のいいつけをその後も守り続けた。そしてハガキを書くことが一つの楽しみになった。母親が99歳までボケないで元気でいてくれたおかげで、私は週一回のハガキ書きを60年続けるという幸運に恵まれた。


念のため、当時のハガキの値段を改めて調べてみたが、私の記憶に間違いなかった。昭和36年から46年までは7円。私が社会人になる前年の昭和46年からは10円に改正され、その4年後には20円になっている。2年前の令和6年9月から、ハガキは85円に値上がりした。現在進行中のインフレを考えると、今後2~3年の間には100円を軽く超えると思われる。

ハガキが10円の時、私の初任給は5万1千円だった。ハガキが100円になろうとする現在、大卒初任給50万円は当然の話だと思う。これが、「大卒の初任給は50万円であるべきだ」と私が考える理由の一つである。


吉野山の「白桜」




2026年7月23日木曜日

定年90歳の会社

 さて、このシリーズの冒頭でお話した「定年90歳の会社」のことである。

知人の紹介で、この会社の社長に会うことができた。西新橋にある古いビルで人材紹介の仕事をされている。70代半ば過ぎだが元気そうな人だ。やる気満々の脂ぎった感じの人かと思っていたが、そうではない。ごく普通の人だ。

「90歳まで人材紹介の仕事をされるのですか。頼もしいなあ。私がクビになったら、ひとつよろしく頼みますよ」とお世辞のつもりで言ってみた。

「元気だったら当分の間、この仕事を続けますよ。くたばったら出来ませんなあ。でも90歳でヘッドハンターなんて、みっともなくてやれませんよ」と言われる。なぜみっともないのか分からないが、この人なりの男の美学のようだ。

聞いてみると、この会社には社長以外に従業員が3人いる。一人が77歳の男性、一人が80歳の女性、いま一人が84歳の男性だそうだ。三人とも有能で元気だが、そろそろ年ですから、と引退をほのめかした社員がいたらしい。辞められると困るので「会社の定年を90歳にしましょう」と衝動的に決めたのだという。自分から張り切って定年90歳にしたのではないようだ。自分ももし元気だったら、90歳位までは仕事をするつもりだ、とおっしゃる。

「ヘッドハンターを辞めたら何の仕事をされるのですか?」と水を向けるが、ニヤニヤするだけではっきりとは答えない。話をしていると、「まくわ瓜」「ハミ瓜」「東陵瓜」など、瓜(ウリ)という言葉が頻繁に出てくる。この人は、瓜にずいぶん関心を持っているようだ。

この人の話はとりとめがない。あちこちに話が跳ぶ。瓜の話をしているかと思うと、突然、「召平・しょうへい」という聞いたこともない大昔の人の名前が出てくる。我慢しながら、フムフムと興味深そうに聞いていると、私のことを気に入ってくれたようだ。

「よかったら日を改めて、夕食時においでになりませんか。近くの寿司屋で一献しましょうよ」と誘ってくれる。家族や友人に歴史のうんちくを語りすぎていつも嫌われているんだ、と自分でおっしゃる。私が興味深そうに聞いてくれるのが嬉しいみたいだ。


3日後の夕方、再びこの人のオフィスを訪問した。徒歩2~3分の場所にある寿司屋に連れていかれた。昭和の香りがする普通の寿司屋だ。まずはビールでそのあと、この人は純米酒を冷で一合注文する。私はウイスキーの水割りを頼む。お通し・刺身・焼き魚・お寿司と続くが、味はなかなか良い。この人は機嫌よく農作業のことを得意そうに話す。なんでも、会社の定款には有料職業紹介業ともう一つ、農作物の生産・加工・販売が入っていて、農業も会社の事業の一つだと説明してくれる。どこかの時点で、農業に軸足を移したいと考えているようだ。

広島県の海辺にある実家の農地を会社が借りる形にして、20年ほど前から農業をしている。少額だが農業部門の売り上げもあるそうだ。「里芋とほうれん草は村のプロの農家も一目置くほどの腕前ですよ」と自慢する。近頃は瓜に力を入れているんだが、どうもうまくいかない、とまた瓜の話にもどる。

「秦の始皇帝の頃の人ですが、君は召平(しょうへい)という人を知っていますか」と聞く。まったく知りませんと答えると、この召平という人の一代記を30分ほど聞かされる。初めは我慢して聞いていたのだが、だんだん話に引き込まれていった。面白い。

始皇帝が中国を統一する直前の話だ。召平は当時まだ草深い長安の農家の長男に生れた。15歳のとき一兵卒として秦の軍隊に志願した。武運に恵まれて30代前半の若さで将軍になった。そしてまもなく、東陵候という爵位をもらい、揚子江下流の江南の地を治めることになる。いわば大名になったのだ。

ここまでは良かったのだが、まもなく、秦が滅びて失業してしまった。50歳のとき故郷の長安にもどり、その後50年近く瓜を作って生活した。その瓜の味が良く「東陵瓜」ともてはやされた。死の5日前まで瓜畑の手入れをしていた。そして99歳で亡くなったという。

この人は、召平という瓜作りの名人をずいぶん尊敬しているようだ。自分も召平にあやかりたいと考えているみたいだ。「いつもは日本酒は一合にしていますが、今夜は気分が良いからもう一合頼みますよ!」と女将に追加で注文している。


二合目の冷酒がくると、私の顔を覗きこむように「あまり人には話したことがないんですがねえ」と言う。秘密の話を打ち明けるかのように小声でしゃべりはじめた。初めは照れくさそうにモゾモゾと話すので、言うことがよく分からなかった。整理すると次のような話だ。

10年ほどの前のことだ。この召平という瓜作り名人のことを小説にして「直木賞」が取れないものかと考えた。直木賞を取ったらヘッドハンターを辞めて、文壇にデビューしようと考えた。どうすれば良いかと友人に相談した。ある友人が、文藝春秋社の雑誌に『オール読物』というものがあると教えてくれた。この文芸雑誌で「歴史時代小説新人賞」というのを年一回募集していて、これは新人作家の登竜門だという。南條範夫・藤沢周平・宮部みゆきなどの作家もここで一等賞を取り文壇にデビューしたらしい。これに応募したらどうかとその友人は勧める。合点だとばかりに、すぐに「東陵の瓜」という題で短編小説を書いてこれに応募した。

この年の応募数は980編だった。一等から三等までがこの雑誌に掲載される。一次選抜で30編が選ばれて二次選抜に進み、三等までが入賞となる。いきなり一等賞は無理かもしれないが、自信過剰気味のこの人は、自分の作品が三等までに入る可能性があると踏んでいた。ましてや、一次選抜の30編には軽く選ばれると思っていた。「オール読物」の発売当日、本屋がオープンする前から店の前で待っていた。なんと、一次選抜の30編の中に自分の作品名は載っていなかった。以来ひと月ほどは、ションボリして仕事も手につかなかった。

ひと月ほど経って「そうだ」と思い付いた。自分の会社のホームページのブログにこれを載せた。すると、思いのほか読者の反応が良い。機嫌を直して、またやる気を取り戻したのだという。

「もう一度直木賞にトライしてみてはどうですか」とお世辞のつもりで言ってみた。「いや。もうやりませんよ。今の直木賞の審査員のレベルが低い。今東光・海音寺潮五郎・司馬遼太郎、このあたりが審査員だったら可能性があるんですがねえ」とその人は言う。

「君、時間があるときに私の小説を読んでみてくださいよ」と頼まれた。寿司をご馳走になった手前、週末にブログに載っているこの『東陵の瓜』という小説を読んでみた。構想としてはなかなか良い。気宇壮大で、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』や『世に棲む日々』を彷彿させるような箇所もあり、面白い。ただ、文章表現が幼稚だ。素人の域を出ていない。これでは直木賞は無理だと思った。


明日香 石舞台の桜












2026年7月16日木曜日

江戸時代の定年(2)

ここでは、おもに幕末の佐賀藩を例に、当時のサムライの副業について見ていきたい。

GDPが伸びなかったから、二百数十年間ほとんどのサムライの家禄は変わらなかった。武士階級はインフレに悩まされていた。尊王攘夷という思想だけでなく、このあたりにも、もしかしたら明治維新の本質的な原因があったのかも知れない。

佐賀藩には枝吉神陽という立派なサムライがいた。この人は江戸の昌平黌に留学して舎長になり、佐賀にもどり藩校・弘道館の教授になった。「佐賀の吉田松陰」と呼ばれたこの人は、藩校の教授と同時に自分の私塾を経営している。枝吉神陽がコレラで急逝した後、実弟の副島種臣がこの私塾を引き継いだ。大木高任・江藤新平・大隈重信・山口尚芳・久米邦武・香月経五郎などの佐賀藩の英傑たちは、この私塾の門下生である。

枝吉神陽・副島種臣の兄弟が、佐賀藩の若者を教育して立派な人材を育てるという崇高な志を持っていたことは間違いない。しかしそれと同時に、経済的な理由でこの私塾を経営したのではあるまいかと私は考えている。

大隈重信の家禄120石を別格にすると、大木高任45石、枝吉神陽30石、副島種臣15石などの家禄を見ると、経済的には楽ではなかった。江藤新平の場合、なんと家禄7石と記録に見える。これは極貧といってよい。

佐賀藩ではないが、勝鱗太郎だったか福沢諭吉だったか、もしかしたら両者だったかも知れない。知人から英語の辞書を借りてそれを写して二冊の英和辞典を作った。一冊を手元に置き、あとの一冊を3両で売ってお金を得たと聞いたことがある。英語の勉強と同時に収入を得ていた。さすが後世に名を残すだけの人だ。あっぱれだと思う。

佐賀藩士、香月経五郎・三郎兄弟の父親は香月三之允という人だ。幕末にこの人が描いた「拝殿 天井絵馬」が佐賀県有田町の山田神社に奉納され、町の重要文化財として保存されている。この神社は平安時代からこの地を領有していた松浦党有田氏の神社で千年近い歴史を持つ古社である。この人は香月洞谷(淡水)という雅号を持っていた。大正9年に時の宮司であった椎谷孟保氏が著した『山田宮沿革誌』には「狩野派の画伯にて鍋島藩の武士であった香月洞谷がこれを描いて奉納した」とある。この人は当時、代官のような立場で佐賀からこの地に派遣されていたようだ。代官様みずから「俺が描いてやる」とおとこ気を出されたのであろう。本人は経済的には豊かで、「奉納」であるから当然無報酬だったと思う。副業の話からは少しずれるが、江戸時代には、渡辺崋山だけでなくプロ並みの画伯サムライが多くいたことを伝えたく、この話を披露する。

サムライ身分ではないが、伊能忠敬の生き方も興味深い。婿入りした下総の造り酒屋の再興を終えた後、50歳で隠居した。江戸に出て高橋至時という若い先生に入門して、5年間、天文学・測量・地理の勉強をした。55歳のとき蝦夷地の正確な地図をつくるため、江戸を出発して北へ向かった。その後日本列島の海岸線全域を測量して歩き、きわめて正確な「大日本沿岸海與地全図」を幕府に納めている。74歳で没したこの人は、いわば一人で二人分の人生を体験したといって良い。素晴らしい生き方だと思う。

人は、役所や会社が決める定年という概念の中で生きるのではなく、自分に合った生活スタイルの中で、70でも80でも、あるいは90歳でも、元気なうちは働き続けるのが良いと、私は思っている。


1・2年前まで「失われた30年」という、日本の経済成長のなさを揶揄するような言葉がよく使われていた。私はこの言葉に反発する気持ちを持っていた。GDPの拡大・所得の増加・株価の上昇だけをもって善とする、品のないアメリカ式の考え方に日本人が染まってきたことへの反発と嘆きの気持ちである。

この論法でいえば、江戸時代は「失われた270年」ということになる。事実は決してそうではない。戦乱のない平和・文化芸術の興隆・世界に類を見ない国民の高い識字率・高い道徳観、これらがあったからこそ、明治維新後、短期間をもって西欧文明を導入することができたのだと考えている。

GDPの拡大はなかったが、この30年間、日本では国家分断のきざしは見えていない。言論の自由が保障された国であるから、人それぞれの考えや主張は異なる。それはそれで良い。しかし、アメリカをはじめとする西欧の国々に比べて、国民の意思はけっこう統一されている気がしている。これは素晴らしいことであり、同時に日本の強みであると考える。日本人が謙虚な気持ちを失わないで前向きに努力を続ければ、今後30年の日本の将来は明るいのではないか。私は日本の将来を楽観している。

ただ、一つ解決しなければならないことがある。現在のアメリカの属国という立場から、平和的な方法によって、普通の独立国家にもどる必要がある。真の独立国になりたい。あの戦争に敗北してあと20年で100年になる。そろそろ、この問題をかたずけなくてはいけない。私はこれは可能だと考えている。

吉野山 下千本の桜









2026年7月9日木曜日

江戸時代の定年(1)

 江戸時代の定年についてながめてみたい。この時代の定年は、幕府や藩が定めたのではなく自分自身が決めていたようだ。表向きは江戸時代の定年はずいぶん早い。各人それぞれなので、正確には言えないが、おおざっぱな数字でいえば45歳とか50歳ではあるまいか。

それは、武士階級では50歳ぐらい、早い人では45歳ぐらいで「隠居」していたからである。江戸時代のサムライの家禄は、よほど大手柄を立てないかぎり、何百年間も変わらなかった。理由はGDPが増えなかったからだ。しかし貨幣経済なのでインフレはあった。よって、幕末のサムライの多くは副業(アルバイト)に精を出していた。

江戸時代中期の少し前、全国の多くの大名が、堤防を築いて干拓をし、また荒野を開墾して田畑を増やすべく努力している。これにより、ある程度の国土の農耕面積は拡大している。しかし世界各地に植民地を獲得し、また産業革命に成功したオランダ・イギリスをはじめとする欧州列強のような、急激なGDP増加と人口増加は江戸時代の日本では起きていない。

当時は結婚が早かった。父親が50歳になると長男が30歳を超えることも珍しくなかった。30を過ぎた息子を無職でブラブラさせるわけにはいかない。父親が隠居して長男に家督をゆずるケースが多くなる。武士階級のこのようなやりかたを、豪商たちも真似るようになる。


鬼頭宏という歴史人口学者が書いた『人口から読む日本の歴史』という良書がある。これによると、慶長5年(1600)の日本の人口は3128万人、246年後の弘化3年(1846)は3230万人とある。ちなみに、この本には明治6年3330万人、大正9年5596万人とある。GDPが増えないから二百数十年間、人口が増えなかったわけだ。

興味をそそられるのは、若くして隠居した(定年になった)サムライたちが何をしたかということだ。もちろん、本当に隠居して盆栽の手入れをしたり、歌舞伎などの芸能を楽しみながらブラブラ遊んだ人もいたであろう。

しかし、隠居したあとも、多くのサムライたちは何かしら仕事をしていたようだ。剣術指南や四書五経を教える儒学の師匠、このあたりは常識的である。絵師・書家・和歌俳諧の師匠になったサムライも多い。なかにはヘンテコな仕事を始めた人もいる。古典落語に「あくび指南」という演目がある。あくびの仕方を教えてお金を取っていたサムライがいたとういうから驚く。

ユーチューブで、「小三治 あくび指南」と検索するとこれを聞くことができる。何人もの噺家の「あくび指南」があるが、小三治が群をぬいて面白い。


談山神社の桜







2026年7月2日木曜日

奈良時代・平安時代の定年

 奈良時代・平安時代、日本人は定年というものについてどのように考えていたのか。これを振り返ってみたい。その頃は株式会社というものはないので、該当する人々は役人ということになる。農民や漁民・商工業に従事する人々は、元気であれば、いわば死ぬまで働いていたという認識で正しいと思う。

月一回、数日間、郷里広島県の農園で畑仕事を続けている私には、現在でも農村では昔と変わらないように思える。元気な者は80歳でも85歳でも働いている。90を超えて畑仕事をしている人は私の村には何人もいる。ポツンと一軒家だけでない。日本全国の農村・山村・漁村では、同じように80歳を過ぎた人が数多く働いている。


「奈良時代の役人の定年70歳」という題で7年ほど前このブログに掲載したので、重複は避けたい。ポイントを整理すると次のようになる。

①奈良時代の中央官庁の役人(国司・現在の県知事・を含む)の定年は70歳だった。これは唐の律令制度をそのまま導入したからである。

②かたや、地方の役人(郡司およびその部下たち)の定年はなかった。飛鳥時代・奈良時代には70代・80代の老齢の、中には認知症でよぼよぼした、地方役人が何人もいたのだ。

大化の改新のあと、天智天皇と中臣鎌足は中央集権国家をつくったのではあるが、それは地方豪族たちの協力(サポート)を前提としていた。西欧と異なり大和朝廷の基本方針は、敵対する者を皆殺しにして絶対的強権を持つのではなく、地方豪族たちの協力と支持のもとに、共に存在しようとしたゆるやかな政権であった。「和をもって尊し」を基本としたようだ。

よって、大化の改新の後、大和朝廷は地方の有力豪族たちの反乱を恐れていた。彼らの職を奪うことへの反発を極度に恐れていたのだ。それゆえに、定年無しの障害を承知の上で、郡司以下の地方役人たちの人事をすべて地方豪族に一任している。郡司以下の地方役人に70歳の定年制が導入されたのは、じつに、大化改新から89年後の聖武天皇の御代・天平6年(734)4月26日のことだと、『続日本紀』は記している。この頃になってやっと、大和朝廷の権力基盤は盤石となったのだ。


平安時代末期のサムライの話をしたい。これを「定年」という言葉でいうのはどうか、とも思うが、89歳で死んだこのサムライはその死の瞬間までバリバリの現役であったことを考えれば、「89歳で現役を退いた」というのは間違いではない。

私はこの話が気に入っている。物語的なタッチになるが、このサムライ・三浦大介義明(みうらのおおすけ・よしあき)のことを紹介したい。

源頼朝が伊豆で挙兵したのは、治承4年(1180)8月である。平家側の反撃により敗北した頼朝は、相模湾をわたり安房に脱出すべく、落ち武者たちと共に小舟で真鶴港を出帆した。

平家側から頼朝寄りと見られていた三浦大介は、このとき三浦半島の衣笠山の城にいた。頼朝は「支援を頼む」、と使者をこの城に派遣していた。平家側は多数の軍勢をもってこの衣笠城を攻撃した。ここから先は、迫力ある司馬遼太郎の筆にゆだねたい。


三浦大介義明はこの城のそばで生まれ、ここで死んだ。生涯は89年で当時としては奇跡のような長寿である。大介は病床にいた。床(とこ)を払わせ、一族をあつめ、戦え、と命じた。「われらは累代の源氏の家人(けにん)である」ともいったらしい。一日、平家側との攻防戦があった。

夜に入って大介義明は子供らを招き、「わしは十分に生きた」と言い、このわし一人をこの城にのこせ、といった。一同は海へ落去せよ、しかるのちに佐殿(すけどの・頼朝)をさがし、御行末(おんすえ)を共にすべし、と命じた。これは、わしの命令(げち)である、抗(あがら)うな、とも言った。一同は、結局そのようにせざるをえなかった。翌朝、義明はわずかな郎党とともによく戦い、やがて自刃した。城は落ちた。

落人の頼朝は、いまの東京湾口を小舟で漂っていた。そこへ衣笠城からきた三浦勢と海上で出会う。たがいに、奇跡だった。その上、三浦勢は無傷の新鮮な兵力であり、そのおかげで、房総半島に上陸しても、土地の者たちからあなどられずに済んだ。頼朝は、この海上での邂逅を、終生わすれなかった。

はるかのち、頼朝は、三浦大介義明の十七忌がこの衣笠山で営まれたとき、鎌倉から来、墳墓に拝礼した。そのとき、頼朝は、生ける大介に語りかけるように、「私はあなたとともに生きている」と、ふしぎなことをいった。どうやら論理的にいえば、あなたはあのとき死んだのではない、私とともにこの十七年生きてきた、私はそのようにみなす、という意味だったらしい。

この時代、恩賞は、生者に厚く死者に薄かった。頼朝は義明を生者とみて、その菩提寺に多くの禄を寄進したのである。義明の死は数え年89だった。それに17年足せば百六つになる。江戸時代のめでためでたやの門付け歌の、「鶴は千年、亀万年、三浦大介百六つ」の「三浦大介百六つ」が鶴や亀よりもめでたいとされるのは、死んでもなお生けるがごとく禄をもらったからというのである。


吉野山 奥千本の桜 西行庵前











2026年6月25日木曜日

明治以降の定年(2)

 それでは、陸軍の大佐(聯隊長)の定年を55歳に定めた理由はどこにあるのか。「体力」というのが第一の理由の気がする。


私は以前、『香月経五郎と三郎の美学』という小冊を書いた。その中での話である。

明治37年11月30日、乃木第三軍の配下にあった後備歩兵第十五聯隊長の香月三郎は、聯隊の三分の一の900人の決死隊を率いて203高地を攻略した。頂上の占領に成功した後、生き残った15人の部下と共に山を下りたのは12月6日である。この聯隊の203高地での戦闘は8日間におよんでいる。出撃するとき各人は2日分の食糧と水を背負っていた。旅順の山頂の寒風の中で岩肌にしがみつきながらの戦闘で、この間、香月聯隊長はほとんど睡眠をとっていない。戦死した戦友やロシア兵の持つ水・食糧で命をつないだのであろうが、この成功の裏には聯隊長の強い精神力と同時に強靭な体力があった。

戦場においては、ときに、このような過酷な環境に身を置くことがある。聯隊長に強靭な体力が求められたことは理解できる。

先表の大佐の定年「陸軍55歳・海軍54歳」に、私は首をかしげている。海軍大佐の場合、大型艦の艦長・航空隊の司令だから、陸軍の聯隊長にくらべると戦闘時においてもそれほど体力を要しない気がする。これが逆であれば納得できるのだが、海軍大佐の定年が陸軍大佐より1歳若いことの理由は、私にはわからない。

数年前、私は役職定年という制度に興味を持った時期がある。お客様の人事の方々にお会いするたびに「おたくの役職定年は何歳ですか?」としきりに聞いていた。「うちは54歳です、うちは55歳です」と決まってこの二つの年齢を答えられた。他の年齢は聞いたことがない。ははあ、ここは海軍式だな、ここは陸軍式だな、と思った。

軍が定年を定めた二つ目の理由は、「新陳代謝」という考え方であろう。陸士・海兵を卒業した若い将校に対して、適度なインターバルで、昇進の機会を与えてやらなばならない。

この二つの考えを基に陸海軍の定年制が決まり、それを真似して明治以降の大企業は定年・役職定年を定めたのだろうと私は考えている。

第二の理由については今なお考慮する必要があるが、第一については現在は大きな意味を持たない。企業はすでにこのことに気付いて、役職定年および定年そのものを伸ばしているのだと思う。


私は、定年を65歳にあるいは70歳に延長すべきだという、積極的な自分の考えは持っていない。ものごとには一長あれば一短がある。各企業が考えれば良いことで、正直どっちでも良いと思っている。定年問題について国が指針を出すのもどうかな、と否定的に考えている。

ただ、私がどう思おうが、多くの日本企業の定年は今後3年以内に65歳になり、5年以内に70歳になるに違いない、と考えている。

国家が行うべきことは、定年延長の指針を示して企業に圧力をかけることではなく、健康で働く意欲がある60代・70代・80代の人たちが、やる気が出る政策を実行することではあるまいか。改革すべきと考えるのは、たとえば年金支給の問題である。65歳以上の人で一定金額以上の収入のある人には、基礎年金は支給されるが厚生年金は支給されないと聞く。

この考え方の背景には、奈良時代から現在まで続く、貧富の差を少なくしようとする日本特有の平等思想がある気がする。ある意味、社会主義的なものの考え方であり、これは仏教の影響から来たものだと思う。私自身はこの考え方は立派で尊重すべき考えだと思っている。西欧文明にはあまり見ない優れた点だと思う。ただ、年金支給の問題に関しては、元気な高齢の日本国民のやる気を削いでいるのではないかと心配している。

「年金は貴殿が支払ったものが原資なので、その年齢が来たら希望者には全額支給します。その後、働ける人は年収一千万円でも二千万円でも稼いでください。そして、それにふさわしい所得税を国に収めてください」このような考えを国民に示し、元気な60代・70代・80代の国民にやる気を起こさせることが大切ではあるまいか。そうすれば、国全体が明るくなり活力がみなぎり、日本全体の国力が強化されるのではないか。私はこのように考えている。


吉野山 中千本の桜








2026年6月18日木曜日

明治以降の定年(1)

 長いあいだ「シルクロードのものがたり」という題で、転職に関係ないことを掲載してきた。「人材紹介会社だろ、もっと仕事に関係あることを書いたら」と、お叱りに近いアドバイスをいただいたこともある。もっともだと思う。

ごく最近のことだが、「小さい会社だが定年90歳の会社が東京の港区にあるらしい」という噂を聞いた。この会社のことは、後半でお話ししたい。

ここでは、「明治以降の定年」・「奈良時代・平安時代の定年」・「江戸時代の定年」・「定年90歳の会社」・「大学卒の初任給50万円」という題で、日本企業の「定年」と「初任給」の問題について、数回にわたり考えてみたい。


まずは「定年」についてである。いま流行のAIに「日本の定年制は?」と聞いてみると、「日本の定年は法律上は60歳未満の定年は禁止されていて、65歳までの雇用確保が企業の義務、70歳までの就業機会確保を企業の努力目標としている」と答えてくれる。

数年前、このブログで「奈良時代の役人の定年70歳」と題して二回ほど掲載した。AIさんの言うのが正しければ、現在の日本は定年に関しては、奈良時代に戻ろうとしているかのようだ。大化の改新時や奈良時代の定年については、後半でもう一度簡単に振り返ってみたい。

まず最初に、明治維新以降、明治・大正・昭和から現在まで続いている「大企業の定年制度」について、どのような理由でこのように定められたのか考えてみたい。

数年前には「54・5歳で役職定年になります。その後は給与が大幅に下がるので、今の給与がキープできる会社があれば転職したい」とおっしゃる方が少なからずおられた。この種の転職希望者はこの1、2年減っているような気がする。企業が役職定年を伸ばしているのか、もしくはその年齢に達し役職定年になった場合でも給与の減額を少なくしているのか、いずれかであろう。若者の人口が減っているので、高齢者に働いてもらわないと困るのかも知れない。

それでも、今なお、この役職定年という制度は、いくつもの大企業では残っている。日本の大企業はなぜ、こういう制度を定めたのであろうか。


私は学生時代から戦記物の本を読むのが好きで、かなり多く読んできた。それらの知識から、「明治以降の大企業の定めた定年・役職定年は、旧陸軍・海軍の定年制を真似したのではあるまいか」と以前から考えている。明治・大正期だけでなく昭和になってからも、大企業の場合「役員を除く職員の定年そのものが54歳・55歳」というケースが多かった。

「陸海軍現役将校定限年齢表」というものが手元にある。明治・大正・昭和とも大きくは違わない。昭和期の表には次のようにある。

大佐  陸軍55歳 海軍54歳

少将  陸軍58歳 海軍58歳

中将  陸軍62歳 海軍62歳

大将  陸軍65歳 海軍65歳

ここでは「大佐」という地位に焦点を当てて定年について考えてみたい。というのは、陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した若手将校たちが、立身出世の一つの頂点と考えていたのがこの大佐のポジションであったからだ。もちろん上位5パーセントほどの優秀な将校は陸軍大学校・海軍大学校に進み、将官を目指した。しかしこの将官というものは能力以上に運の部分が大きく、「大佐まで昇進できれば、まずは成功」というのが陸士・海兵を卒業した若手将校のほぼ共通した認識であった。

大佐の位階(いかい)は「従五位・じゅごい」だから、国家の定める社会的地位は県知事と同格だ。この位階というものは、天皇と本人との距離を示す。陸軍なら三千人の将兵を指揮する聯隊長であり、海軍なら巡洋艦・戦艦などの大型軍艦の艦長、もしくは航空隊の司令で千五百人から三千人の将兵を指揮した。中央官庁に勤務する大佐は、陸海軍共に「課長」で、極めて大きな権限を持っていた。

給与は昭和期であれば、月額370円・年額4400円で別に賞与が出た。戦地勤務の時は別に戦地手当てが出た。べらぼうに高いとはいえないが、定年まで勤務すれば子供に大学教育を受けさせ、貸家の2、3軒を持つことができた。それに加えて軍人恩給が相当高額であったから、家族を含めた自身の生活には困らなかった。もっとも、太平洋戦争の敗北により軍人恩給の支給停止とインフレによって、かつての職業軍人の生活が困窮したのは事実である。


筆者近影