2026年6月18日木曜日

明治以降の定年(1)

 長いあいだ「シルクロードのものがたり」という題で、転職に関係ないことを掲載してきた。「人材紹介会社だろ、もっと仕事に関係あることを書いたら」と、お叱りに近いアドバイスをいただいたこともある。もっともだと思う。

ごく最近のことだが、「小さい会社だが定年90歳の会社が東京の港区にあるらしい」という噂を聞いた。この会社のことは、おしまいの項でお話ししたい。

そこで、「明治以降の定年」・「奈良時代から平安時代の定年」・「江戸時代の定年」・「定年90歳の会社」・「大学卒の初任給50万円」という題で、日本企業の「定年」と「初任給」の問題について、数回にわたり考えてみたい。


まずは「定年」についてである。いま流行のAIに「日本の定年制は?」と聞いてみると、「日本の定年は法律上は60歳未満の定年は禁止されていて、65歳までの雇用確保が企業の義務、70歳までの就業機会確保を企業の努力目標としている」と答えてくれる。

数年前、このブログで「奈良時代の役人の定年70歳」と題して二回ほど掲載した。AIさんの言うのが正しければ、現在の日本は定年に関しては、奈良時代に戻ろうとしているかのようだ。大化改新や奈良時代の定年については、後半でもう一度簡単に振り返ってみたい。

まず最初に、明治時代以降、明治・大正・昭和から現在まで続いている「大企業の定年制度」について、どのような理由でこのように定められたのか考えてみたい。

数年前には「54・5歳で役職定年になります。その後は給与が大幅に下がるので、今の給与がキープできる会社があれば転職したい」とおっしゃる方が少なからずおられた。この種の転職希望者はこの1、2年減っている気がする。企業が役職定年を伸ばしているのか、もしくはその年齢に達し役職定年になった場合でも給与の減額を少なくしているのか、いずれかであろう。若者の人口が減っているので、高齢者に働いてもらわないと困るのかも知れない。

それでも、今なお、この役職定年という制度は、いくつもの大企業では残っている。日本の大企業はなぜ、こういう制度を定めたのであろうか。


私は学生時代から戦記物の本を読むのが好きで、かなり多く読んできた。それらの知識から、「明治以降の大企業の定めた定年・役職定年は、旧陸軍・海軍の定年制を真似したのではあるまいか」と以前から考えている。明治・大正期だけでなく昭和になってからも、大企業の場合「役員を除く、職員の定年そのものが54歳・55歳」というケースが多かった。

「陸海軍現役将校定限年齢表」というものが手元にある。明治・大正・昭和とも大きくは違わない。昭和期の表には次のようにある。

大佐  陸軍55歳 海軍54歳

少将  陸軍58歳 海軍58歳

中将  陸軍62歳 海軍62歳

大将  陸軍65歳 海軍65歳

ここでは「大佐」という地位に焦点を当てて定年について考えてみたい。というのは、陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した若手将校たちが、立身出世の一つの頂点と考えていたのがこの大佐のポジションであったからだ。もちろん上位5パーセントほどの優秀な将校は陸軍大学校・海軍大学校に進み、将官を目指した。しかしこの将官というものは能力以上に運の部分が大きく、「大佐まで昇進できれば、まずは成功」というのが陸士・海兵を卒業した若手将校のほぼ共通した認識であった。

大佐の位階(いかい)は「従五位・じゅごい」だから、国家の定める社会的地位は県知事と同格である。この位階というものは、天皇と本人との距離を示す。陸軍なら三千人の将兵を指揮する聯隊長であり、海軍なら巡洋艦・戦艦などの大型軍艦の艦長、もしくは航空隊の司令で千五百人から三千人の将兵を指揮した。中央官庁に勤務する大佐は、陸海軍共に「課長」で、極めて大きな権限を持っていた。

給与は昭和期であれば、月額370円・年額4400円で別に賞与が出た。戦地勤務の時は別に戦地手当てが出た。べらぼうに高いとはいえないが、定年まで勤務すれば子供に大学教育を受けさせ、貸家の2、3軒を持つことができた。それに加えて軍人恩給が相当高額であったから、家族を含めた自身の生活には困らなかった。もっとも、太平洋戦争の敗北により軍人恩給の支給停止とインフレによって、かつての職業軍人の生活が困窮したのは事実である。


筆者近影






2026年5月1日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(2・完)

 シルクロードのものがたり(106・完)


木蘭(もくらん)の詩    無名氏

喞喞(そく・そく) 復(ま)た喞喞(そく・そく)

木蘭 戸(こ)に当たりて織(お)る

機杼(きちょ)の声を聞かず

唯(た)だ女(むすめ)の嘆息(たんそく)を聞くのみ

女(むすめ)に問う 「何の思(おも)う所ぞ」

女(むすめ)に問う 「何の憶(おも)う所ぞ」

「女(むすめ) 亦(ま)た思う所無く

女(むすめ)亦(ま)た憶う所無し

昨夜 軍帖(ぐんちょう)を見るに

可汗(かかん)大いに兵を点(てん)じ

軍書十二巻

巻巻(かんかん)に爺(ちち)の名有り

阿爺(ちち)に大児(だいじ)無く

木蘭に長兄無し

願わくは為に(ため)に鞍馬(あんば)を市(か)い

此(こ)れより爺(ちち)に替(かわ)って征(ゆ)かん」

松枝茂夫氏は次のように訳している。

ハーッ、ハーッ、しきりにため息をつきながら、木蘭が戸口に向かって機(はた)を織っている。機の音はとだえがちで、木蘭のため息ばかりが聞こえてくる。「木蘭よ、おまえはだれのことを思っているのか、何を思い出しているのか」

「いいえ、わたしはだれを思うのでも、何を思い出したわけでもありません。わたしは昨夜、徴兵名簿を見たのです。このたび国王は大規模な徴兵を命ぜられ、名簿は十二巻にものぼりましたが、どの巻にもお父さんの名前が記載されていました。(私のお父さんは年老いていて病弱です・田頭挿入)お父さんに代わって兵隊になるような男の子がありません。わたしの上には兄もいないのです。私は馬と馬具を買って装備を整え、これからお父さんの代わりに出征する決心をいたしました」


東市に駿馬(しゅんめ)を買い

西市に鞍韉(あんせん)を買い

南市に轡頭(ひとう)を買い

北市に長鞭(ちょうべん)を買う

旦(あした)に爺嬢(ちちはは)を辞し去って

暮(くれ)には黄河の辺(ほとり)に宿(やど)る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 黄河の流水の鳴くこと濺濺(せんせん)たるを

旦(あした)に黄河を辞し去り

暮(くれ)に黒山の頭(ほとり)に至る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 燕山(えんざん)の胡騎(こき)の鳴くこと啾啾(しゅうしゅう)たるを

木蘭はあちこちの市場をめぐり歩き、駿馬と馬具類ー鞍・鞍敷・くつわ・鞭ーを買いととのえた。ある日の朝、父と母に別れを告げた木蘭は、日暮れに黄河のほとりに達して一夜の宿をとった。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、黄河の流れのザーッ、ザーッという響きが聞こえるだけである。翌朝、黄河を離れ、夕方には黒山のふもとに達した。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、燕山の胡人の乗馬のもの悲しいいななきが聞こえるだけである。


万里 戎機(じゅうき)に赴(おもむ)き

関山(かんざん) 度(わた)ること飛ぶが若(ごと)し

朔気(さくき) 金柝(きんたく)を伝え

寒光(かんこう) 鉄衣(てつい)を照らす

将軍は 百戦して死し

壮士(そうし)は 十年にして帰る

木蘭の従軍した部隊は、遠く万里の彼方、決戦場へと向かった。まるで飛ぶかのように、関所の山をつぎつぎに越えていった。北の冷たい空気がドラの響きを伝え、冷たい光がよろいを照らす。このような戦場で、百たびもの戦いのすえ将軍は戦死したが、若き兵士木蘭は従軍十年ののち、ようやく帰還することができた。


帰り来たりて 天子(てんし)に見(まみ)ゆるに

天子 明堂(めいどう)に座(ざ)す

策勲(さくくん)は 十二転し

賞賜(しょうし)は 百千強なり

可汗(かがん) 欲する所を問う

「木蘭は尚書郎(しょうしょろう)を用(もち)いず

願わくは 千里の足を馳(は)せ

児(じ)を送って 故郷に還(かえ)さんことを」

帰還した木蘭は国王に召し出された。国王は明堂(重要な政務をとるときの御殿)に座して引見した。その功をねぎらって一足飛びに十二階級も昇進させ、千を越える賞与の品々を賜った。そして、さらに言葉をかける。「ほかに欲しいものがあれば申してみよ」木蘭は答えた。「わたくしは尚書郎(注・中央官庁の課長・部長級の地位)というような高い位は望みません。それよりも一日千里を走る馬を駆って、少しでも早く、わたくしを故郷に帰していただきたいのでございます」


爺嬢(ちちはは)は 女(むすめ)の来(きた)るを聞き

郭(かく)を出でて 相扶将(あいふしょう)す

阿姉(あね)は 妹の来るを聞き

戸(こ)に当たって 紅妝(こうしょう)を理(おさ)む

小弟(おとうと)は 姉の来るを聞き

刀(とう)を磨き 霍霍(かくかく)として豬羊(ちょよう)に向かう

我が東閣(とうかく)の 門を開き

我が西閣(せいかく)の 牀(しょう)に座し

我が戦時の 袍(ほう)を脱ぎ

我が旧時(きゅうじ)の 裳(しょう)を着け

窓に当たって 雲鬢(うんびん)を理(おさ)め

鏡(かがみ)に対して 花黄(かこう)を付(つ)け

門を出でて 火伴(かはん)を看(み)るに

火伴(かはん) 皆(み)な驚惶(きょうこう)す

「同行すること十二年 知らず 木蘭の是(こ)れ女郎(じょろう)なるを」

父と母は娘の帰還の知らせると聞くや、城門を出て、手を引きあいながら迎えた。姉は妹が帰ると聞くや、戸口に向かってお化粧を始めた。弟は姉が帰ると聞くや、シュッシュッと刀を研いで、さっそく豚や羊を屠(ころ)しにかかった。やがて木蘭は家に着くと、わが家の東の二階家の戸を開けて入り、西の居間の寝台に腰をかけた。これまで着ていた軍服を脱いで、むかしの衣裳を身につける。窓に向かって髪をととのえ、鏡を見ながら白粉(おしろい)をつけた。その姿で表に出ると、同行の戦友たちは、ひとり残らずびっくり仰天。十二年間も行を共にしていながら、木蘭が女であることにだれも気がつかなかったのだ。


西域や蒙古の人たちは、あまり風呂に入らないらしい。しかし水浴くらいはするだろう。十二年間だれも気付かなかったとは考えられない。不思議、不思議である。

いやいや。そんな細かいことは言うまい。木蘭の生還を心から喜ぶ。めでたし、めでたしであった。













2026年4月24日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(1)

 シルクロードのものがたり(105)

魏晋南北朝時代とは、後漢が滅び隋が中国を統一するまでの動乱の期間をいう。西紀220年から589年までの約370年間で、この時代には数多くの王朝が中国大陸に割拠した。この時代にも数多くの西域詩がつくられているが、その多くは悲しい詩である。その中にあって、珍しく前向きで清々しい詩を見つけた。これを紹介したい。


「木蘭の詩」という。私はこれを読んで感激した。久しぶりに瞼が潤んだ。木蘭という美少女の心意気に勇気をもらった。この詩には王維の「少年行」の最後の句、「縦(たと)い死すとも猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん」の気迫が感じられる。

かなり長い詩で、短編小説のようでもある。この詩をもって「西域詩の紹介」を終えたいと思う。同時に、今まで100回以上にわたって掲載してきた「シルクロードのものがたり」を終了したいと考えている。少し長くなるが、最後までおつきあいいただけるとありがたい。

これは北魏(AD386-535)のころの詩だ。中国には孔子様の生きた戦国時代と、諸葛亮孔明が五丈原で魏と戦った三国時代、過去に二度「魏」という国があった。邪馬台国の女王・卑弥呼が「親魏倭王」の金印をもらったのはAD238年のことで、これは二番目の魏から受けている。

これらと区別するために、三番目の魏のことを「北魏」と呼んでいる。この北魏が滅んだあと50年ほどいくつかの王朝が興るが、それらを滅ぼして589年に統一王朝を建てるのが「隋」である。


この「木蘭の詩」は、この北魏のころに流行した民歌だといわれる。木蘭という名の美少女が老父の代わりに男装して従軍し、大功を立てて凱旋したという実話にもとつ”いて作られた詩で、木蘭本人の作ではない。木蘭という美少女の姓は「花・か」といい、それ以外のことは残っていない。

この項の原稿を書いているとき、古い友人のKさんにランチをご馳走になった。「こんな詩を読んで感激しました」と言うと、「そんな内容の映画、たしか数年前に放映されましたよね」とおっしゃる。しばらくして「ムーラン・戦場の花」という題名だとの連絡をもらった。ビデオをAmazonで購入しようとネットで調べていたら、無料で今すぐパソコンで観れるとの表示があった。仕事を放り出して、すぐにその90分の映画を観た。

たしかにその通りで、従軍する若い兵士の胸に「花木蘭」と木の名札がつけてある。木蘭の勇敢な戦闘シーンを手に汗を握りながら観る。そして匈奴の大軍に追い詰められ、敗北のシーンに移る。将軍も戦死して、しまいには木蘭を含め数名の兵士しか残っていない。

「これはジョン・ウェインの西部劇『駅馬車』の映画と同じだ。観客をハラハラさせておいて、絶体絶命のところで騎兵隊の大軍が現れてアパッチの集団から駅馬車を助けたように、きっと魏の援軍が助けに来るに違いない」

私はこう思って、イライラしながら今か今かと待っていた。ところが援軍は来ない。木蘭たち全員は戦死してしまう。私はがっかりした。「魏のために死す!」と木蘭に言わせて、木蘭を戦死させるほうが観客の胸を打つと、映画の監督は考えたのかも知れない。

このことをKさんに伝えた。「あれっ、私が観た映画では、絶対絶命の局面で魏の皇太子が大軍を率いて助けに来ましたよ。木蘭は無事生還しますよ」とおっしゃる。この映画には二つのバージョンがあることを我々は知った。私が観たのが最初のバージョンの気がする。これに対して観客からのブーイングが強く、Kさんが観た第二バージョンを制作したのだろうか。

映画の製作にはこのようなことが時にあるらしい。西部劇の「荒野の決闘(原題・いとしのクレメンタイン)」や寅さんの「男はつらいよ」にもこの種の話を聞いたことがある。

これは現在の中国の映画製作者の感性の問題なので、この「木蘭の詩」の本質とはまったく関係がない。前置きが長くなってしまった。本題に入る。

(次号に続く)






2026年4月17日金曜日

漢代の詩・二首

 シルクロードのものがたり(104)


非愁(ひしゅう)の歌    伝 烏孫公主(うそん・こうしゅ)

吾(わ)が家 我を嫁す 天の一方(いっぽう)に

遠く異国の 烏孫王(うそん・おう)に託す

穹廬(きゅうろ)を室(しつ)と為し 氈(せん)を壁と為し

肉を以て食と為し 酪(らく)を漿(しょう)と為す

居常(きょじょう)に土(くに)を思うて 心内(うち)に傷む

願わくは黄鵠(こうこく)と為りて 故郷に還(かえ)らん

この女性は漢の武帝の甥にあたる江都王・劉建(りゅうけん)の娘で、名を細君(さいくん)という。烏孫(うそん)国の王、昆漠(こんはく)に嫁した。昆漠の老後はその孫の岑陬(しんすう)の夫人となった。 烏孫国とは新疆とカザフスタンとの国境近く、イリ河流域・天山山脈の北西あたりにあったトルコ系遊牧民族の国である。

当時、漢帝国は西方に勢力を拡大しており、このとき、たまたま烏孫国とのあいだに平和条約が結ばれ、その証明として王族の女性を嫁がせたのである。いわば政略結婚であり、人質ともいえる。このような嫁入りのときは、たった一人で行くのではない。お付きの者が数百人も同行し、その中の数十人は現地で一生、主人である女性公主と生活を共にしたようである。

この詩は本人の自作ではなく、彼女に同行した漢人が公主に代わって、遠く異国に嫁した悲しみを歌った詩といわれている。松枝茂夫氏は次のように訳している。

わたしは天の果てに嫁がされ、遠い異国の烏孫王に身を託すことになりました。丸い天幕(パオ)がわたしの住み家、毛氈(もうせん・毛織の布)が部屋の仕切りです。主食は獣の肉、飲みものは獣の乳。明けても暮れても本土のことを思って胸が痛みます。できることなら大型の雁(かり・ガン)になって、故郷に帰りたいものを。

私の部屋の本箱の片隅に高校時代の漢文の教科書が置いてある。覗いてみたら、この詩が冒頭に出ている。読み下し文もない、和訳もない、漢文だけである。他の箇所の陶淵明の詩も、司馬遷の『史記列伝』も、すべて漢文だけで書かれている。16、7歳の頃、ずいぶん難しいことを教えられていたものだ。


この詩も悲しいが、次の詩はもっと悲しい。これは後漢(AD25-AD220)の時代のものと思われる。

十五にして軍に従いて征く   無名氏

十五にして軍に従いて征(ゆ)き

八十にして始(はじ)めて帰るを得たり

道に郷里に人に逢(あ)う

「家中(かちゅう) 誰か有(あ)る」

「遥(はる)かに看(み)ゆるは 是(これ)君が家」

松柏(しょうはく) 塚(つか) 累累(るいるい)たり

兎(うさぎ)は狗竇(くとう)より入(い)り

雉(きじ)は梁上(りょうじょう)より飛ぶ

中庭(ちゅうてい)には旅穀(りょこく)を生じ

井上(せいじょう)には旅葵(りょき)を生ず

穀(こく)を舂(つ)きて 持って飰(めし)を作り

葵(あおい)を採(と)りて 持って羹(あつもの)を作る

飰(めし)と羹(あつもの)は一時に熟するも

知らず 阿誰(たれ)にか貽(おく)らん

門を出でて 東に向かいて看(み)れば

涙落ちて 我が衣(ころも)を潤(うるお)す

十五で徴兵されて従軍し、八十になってやっと帰郷することができた。道で郷里の人に会い、「わが家には誰かいるかね」とたずねると、「ずっと向こうに見えるのがあなたの家です」と答える。見ればマツやカシワの木がはえ、土饅頭がいくつも重なっている。ウサギがイヌの通り抜けの穴から出入りし、キジが梁(はり)から飛び立つ。庭には野生の穀物が一面にはえ、井戸のまわりには野生のアオイがはえている。さっそく穀物を舂(つ)いて飯を作り、アオイをつんでスープを作った。飯とスープはすぐにできたが、さて一緒に食べてくれる人は誰もいない。門から出て、はるか東方をながめれば、涙はとめどなく流れて着物を濡らす。

なんとも悲しい詩である。

15歳で従軍したというのは理解できるが、80歳の老兵というのは世にいない。おそらくこの人は、蘇武や李陵と同じように、働き盛りのころ、匈奴か胡人の捕虜になったのであろう。北方もしくは西域の地で何十年もの捕虜生活を送り、捕虜交換条約が成立して帰国を果たしたのであろう。それにしても、悲しい詩である。





2026年4月10日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(2)

 シルクロードのものがたり(103)

李陵は自分の家族全員が殺されたと思っていた。それが漢の新政権からの帰国せよとの説得にも応じず、彼が漢に帰らなかった最大の理由である。ところが、幼い息子だけは生き残っていたのだ。もし李陵がこれを知っていたら、彼は祖国にもどっていたかも知れない。


成蹊学園という小さな学校で学んだ私には、将軍・李広と孫の李陵、そして司馬遷には強い思い入れがある。

『史記列伝』の中でも、「李将軍列伝」は白眉だといわれている。筆者の筆にずいぶん力が入っているのが二千年後の異国の読者にもわかる。これは、司馬遷が青年時代に、友人の李陵の引き合わせで、彼の祖父の李広将軍に会ったことがあるからだと思う。

史記列伝のおしまいに、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。次のように記されている。

太史公曰くー

伝(いいつたえ)に、「その身が正しければ、命令しなくても行われ、その身が正しくなければ、命令しても人は従わない」(『論語』子路篇)とあるが、これは李将軍などを言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も、知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。彼の忠実な心が、まことの士大夫に信ぜられていたのである。諺に言う。「桃や李はもの言わぬが、その木の下には自然に蹊(こみち)ができる。桃李不言下自成蹊」 この言葉は小さなことを言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩えることができるのである。

成蹊学園の校名は、この故事に由来する。


李陵の幼い息子が生き残っていたことは、以前、「シルクロードのものがたり(33)」の「65歳の法顕天竺に向かう(4)」で紹介した。

インドへ向かう途中、僧・法顕(ほっけん)は西紀401年ごろ敦煌を経由している。彼が敦煌に到着する直前に、同地でクーデターが勃発した。それまでの無能で無慈悲な太守を、部下の人望が厚かった李暠(り・こう)という将軍が追い出して、自分が太守の座にすわった。旅の僧・法顕はこの新太守の李暠に親切にサポートしてもらっている。

この李暠という人は、「自分は漢の将軍・李広の十六世の孫だ」とみずから名乗っている。すなわち李陵の十四世の孫ということになる。この人は隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人と史書にある。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった郡で、現在の甘粛省の地図を見ると隴西という地がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。この隴西の南東に天水という町が見える。天水市静寧県に成紀という村がある。

じつは、この成紀(天水)が、漢の将軍・李広が生まれたところなのである。司馬遷は「李将軍列伝」の冒頭で次のように言う。「李将軍広(こう)は隴西郡の成紀(せいき)の人である。その先祖を李信(り・しん)という。李信は秦代に将軍になり、燕(えん)の太子丹(たん)を追撃して捕らえた人物である」と。

どの史書にも書き残されていないが、あのとき、長安にいた李陵の友人もしくは親戚の者が、李陵の幼い息子を匿ったと思われる。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である、山奥の隴西郡成紀の近くがふさわしい。この李陵の幼い息子を匿うために裏で指揮を執ったのは、宮刑になる直前の司馬遷だったのではあるまいか、と私はひそかに考えている。司馬遷という人はただならぬ漢(おとこ)であった。


じつは、この李暠(り・こう)の物語には、まだ続きがあるのだ。


618年に唐王朝を建国したのは李淵(り・えん・566-635)であると何度も述べた。李淵が「俺のご先祖は老子様(李耼・り・たん)だ」と自称したことも、以前お話しした。

同時に、李淵は「自分は李暠の八世の孫である」とも名乗っているのだ。千年前の老子様の話は疑わしいものの、こちらはわずか二百年前の話である。中国は文字・歴史の国だ。充分に信ぴょう性がある。かつ、中国の正史(青史)である『唐書』には「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西郡の西紀(せいき)の人である」と書かれている。そして、作家の陳舜臣は「成紀は現在の甘粛省の天水市にある」と指摘している。

すなわち、ここで、李広・李陵・・・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水市の近くだと、ピタリと一致した。

これが正しければ、母方の祖父が初代皇帝高祖・李淵の曾孫、母方の祖母が二代皇帝太宗・李世民の曾孫といわれる詩人の杜甫もまた、漢の将軍・李広や李陵の血を引く人だといえる。







2026年4月3日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(1)

シルクロードのものがたり(102)

蘇武(そぶ)は19年間の匈奴の地での捕虜生活を終え、長安に帰国することになった。別れに臨んで李陵(りりょう)は、胡地において友のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。そのとき李陵は蘇武の前で、この詩を歌いかつ舞ったという。

いきなりこの詩を紹介しても、前後の事情がわからないと、この詩を深く味わうことができない気がする。しかし私のつたない文章では、この詩をつくるに至った李陵の心境を十分に説明することはむずかしい。中島敦の筆を借りるのが一番良いと考えた。彼の短編の名作『李陵』の中からいくつかの文章を引用させていただく。この項は少し長くなるかも知れない。


「漢の武帝の天漢二年(前99年)秋九月、騎都尉(きとい)李陵は歩卒五千を率い、辺塞 遮虜鄣(しゃりょしょう)を発して北へ向かった。 (中略) 陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広(りこう)の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉(しゅせん)・張液(ちょうえき)に在って射を教え兵を練っていた。年齢も四十に近い血気盛りであった」

歩兵五千を率いたというから、二個聯隊を指揮した少将・旅団長くらいの立場であったと思われる。ところが、騎馬に乗った胡兵8万に囲まれ、本軍の大将軍・李広利(りこうり)も副軍の将軍・李陵も共に大敗北を期したのである。

「九月に北へ立った五千の漢軍は十一月に入って、四百の敗残兵となって辺塞に辿りついた。敗報は駅伝をもって長安に達した。武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍の李広利の大軍さえ惨敗している。一支隊の李陵の軍が敗北するのはやむを得ないと思っていた。それに武帝は李陵が戦死していると思っていたのである。ところが翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕らえられて虜(ろ)に降(くだ)ったのだとの確報が届いた。武帝は始めて嚇怒(かくど)した」

ちなみに、李広利という大将軍は李陵の祖父の将軍・李広とは関係ない。別人であり、親戚でもない。史書によれば、「李という名の将校が匈奴の兵の軍事教練を行っている」との情報が武帝の耳に入り、これを李陵だと誤解した帝は激怒した。この人物は李陵とは別人の李緒(りしょ)という人物であったことが後日判明した。「李」という名の将校が軍団の中に何人もいたようである。

「武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。帝の震怒(しんど)を犯してまで陵のために弁じようとする者は無い。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵(ののし)った」

「ただ一人、苦々しい顔をしてこれを見守っている男がいた。いま口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数ヶ月前李陵が都を辞する時に盃(さかずき)をあげてその行を壮(さか)んにした連中ではないか。漠北から使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃(たた)えたのもまた同じ連中ではないのか。人間がそういうものとは知ってはいるが、それにしても不愉快であった」

「その時、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に仕えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず、もって国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして一度破れたが、五千に満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を相手に白刃を冒して死闘している。軍敗れたりとはいえ、その善戦は天下に顕彰(けんしょう)するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、潜(ひそ)かにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。並みいる群臣は驚いた。こんな事のいえる男が世にいようとは考えられなかったからである」

向う見ずなこの男、太史令(たいしれい)・司馬遷が帝の前を退くと、奸佞(かんねい)の一人が武帝に次のようにささやいた。

「司馬遷がこれほど李陵を褒めるのは、帝が信頼されている大将軍・李広利に功が無かったことを言いたいのです。彼をおとし入れんがためです。そもそも太史令程度の分際で(注・俸禄六百石)、帝に対してこのような発言をするのは余りにも不遜な態度です」

おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、司馬遷は「宮刑・きゅうけい」と決まった。これ以降、司馬遷は人として生きることをやめた。屈辱を耐え忍び、ひたすら『史記』の執筆とその完成に一生をささげたのである。


蘇武と李陵は親友で、司馬遷と李陵も友人であった。蘇武と司馬遷がどの程度のつきあいだったのかは分からない。ただ、互いが好意と尊敬の気持ちを持っていたのは間違いないと思う。この三人は二千年以上昔の人なので、生年がはっきりしない。私の想像では、年齢は上から司馬遷・蘇武・李陵の順で、それぞれ2ー3歳の年齢差があったように感じている。ただ、陳舜臣はその著書の中で、司馬遷は李陵より9歳ほど年長と書いている。

小説『李陵』の中で、中島敦は李陵と蘇武の関係を次のように描いている。

「李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中(近衛将校)を勤めていたことがある。天漢元年に蘇武が北へ立ってから間もなく、蘇武の老母が病死した時も、陵は蘇家の墓地までその葬(そう)を送った。蘇武の妻が良人の再び帰る見込み無しと知って、去って他家に嫁(か)したという噂を聞いたのは、陵が北征出発直前のことであった。その時、陵は友のためにその妻の浮薄(ふはく)をいたく憤(いきどお)った」

李陵の老母・妻・子・弟に至るまで一族全員が殺された。

この事実が李陵の耳に入ったのはその半年ほど後のことである。ある漢人の口からそれを聞いた李陵は、立ち上げあってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめたといわれる。

「李陵が匈奴に降るよりも早く、その一年前から、漢の中郎将・蘇武は胡地に引留められていた。元来蘇武は、平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某(なにがし)が匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚(とら)えられてしまった」

その後、蘇武は北海(バイカル湖)のほとりの人無き所に移されて、独りで羊を飼うことを命じられた。牡羊(おひつじ)が乳を出さねば帰るのを許さん、と匈奴の単于(たんう・王様)が言ったという話は有名である。このころ、李陵は蘇武を何度か訪問して、慰労している。

その後、武帝は崩御した。漢の新政権は李陵に対してきわめて好意的で、なんとかして李陵を長安に連れ戻そうといろいろと工作をしている。李陵の友人の何人もが新政権の大臣に就任していた。ちょうどその頃、蘇武は偶然にも漢に帰れることになった。

「漢の天子が上林苑(じょうりんえん)中で得た雁(かり)の足に蘇武の帛書(はくしょ)がついていた云々、というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于(たんう)を説破するための出鱈目であった」

このでたらめをもって、漢側は蘇武を救出することに成功したのである。この方法を使って、北朝鮮から横田めぐみさんを救出することは出来ないだろうか、と時々考えることがある。

蘇武の漢への帰国に臨んで、李陵は友のために宴を張った。蘇武は再度、李陵に一緒に漢に帰ることを強く勧めた。この宴席で、李陵が立ち上がり、舞いかつ歌ったのがこの「別れの歌」である。

別れの歌    李陵

万里を径(わた)って 沙漠を度(わた)り

君(きみ)が将と為(な)って 匈奴に奮(ふる)う

路窮(みちきわま)り絶えて 矢刃(しじん)摧(くだ)け

士衆滅(ししゅうほろ)びて 名已(なすで)に隤(お)つ

老母 已(すで)に死せり

恩を報いんと欲すと雖(いえど)も 将(は)た安(いつ”)くにか帰(き)せん

「蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年(前74年)に胡地で死んだということの外は」と、中島敦は『李陵』という小説をしめくくっている。そうだとすると、李陵は65歳くらいで亡くなったことになる。

(次号に続く)





2026年3月26日木曜日

唐代女性の詩・三首

 シルクロードのものがたり(101)

唐代の若い宮中女性が書いた、次のような詩がある。


袍中詩(ほうちゅうし)  開元(かいげん)の宮人(きゅうじん)

沙場(さじょう) 征戍(せいじゅ)の客

寒苦 若為(いか)にしてか眠らん

戦袍(せんぽう) 手を経て作る

知らず 阿誰(だれ)の辺(そば)に落つる

意を蓄(たくわ)え 多く線(いと)を添え

情を含み 更に綿(わた)を著(ちゃく)す

今生(こんじょう) 已(すで)に過ぎたるなり

願わくは結ばん 後生(ごしょう)の縁

「袍・ほう」とは「わた入れの上着」である。「戦袍・せんぽう」とは寒い場所で兵士が身に着ける「綿入れの軍服」のことだ。

「開元の宮人」とは開元年間(712-741)に宮中で働いていた女性を意味する。二十歳前後の独身女性と思われるが名前は残っていない。王維や李白と同じ頃に生きた女性だ。開元年間にはしばしば外征があった。宮女が綿入れの服を縫い、出征軍人に賜うのがしきたりとなっていた。日本でも日清・日露・大東亜戦争では、同じようなことが行われている。

自分がけんめいに縫ったこの綿入れを、いったい誰が身につけるのか。宮女にはわからない。いったん宮廷に仕えた女性はふつうの結婚は望めなかった。「今生(こんじょう)すでに過ぎたるなり」は実感であった。彼女たちは、せめて「後生(ごしょう)の縁」を結ぶことを願った。この綿入れを着るのは若い男性のはずだ。ある宮女が、ふとこんな詩をつくって、その中にそっと入れてみたのだ。

戦地の若い軍人が、恩賜の軍服のなかに一首の詩を書いた紙片を見つけた。この軍人はきまじめな人だったようだ。上官に報告した。上官は朝廷にこのことを奏上し、玄宗皇帝は全宮廷にこの詩を示したという。

ラブレターもどきを恩賜の戦衣にしのばせるのは、万死に値する行為とみられていた。一人の宮女が「おそれながら、、、」と自首して出た。玄宗は彼女の心情をあわれみ、その詩を得た若い軍人に彼女を妻として与え、女性に対して「朕はいま、おまえに今生の縁を結んでやった」と言ったという話が残っている。

玄宗皇帝というと、楊貴妃の色香に迷い、安禄山に乱を引き起こさせた凡庸な皇帝だと思い、あまり良い印象を持っていなかった。この話を聞いて、なかなか粋なはからいをした皇帝だったと知り、少し好感を持った。


いま一つ、辺境の地にいる夫を想う女性の詩を紹介する。こちらは名前が残っている。内容は、読み下し文だけで充分に理解できる。

夫に寄せる   陳玉蘭(ちん・ぎょくらん)

夫は辺関を戍(まも)り 妾(われ)は呉に在(あ)り

西風妾(われ)を吹き 妾(われ)は夫を憂う

一行の所信 千行の涙

寒(かん)は君の辺に到るも 衣(ころも)は到れりや無(いな)や


次も唐代の女性の詩だが、これは西域詩ではない。面白い詩なのでここで披露したい。

夫を辺境に送り出した妻だけでなく、役人の妻も夫の科挙試験の合否を心配した。進士科の試験はとくに難しかった。たとえ進士に合格しても、栄達するにはさらに博学宏詞科などという上級試験があったそうだ。この詩の中の試験が科挙のどの試験なのかはわからない。

吐羔(と・こう)という役人の妻・趙(ちょう)氏という女性の、「夫下等・夫の落第」というユーモラスな題の詩である。この「趙氏」は先の「陳玉蘭」と同じく、「名媛」と『全唐詩』の中で紹介されている。「良家の子女」という意味である。


夫下第(夫の落第)   杜羔(とこう)の妻趙(ちょう)氏

良人は的的(てきてき)として 奇才有るに

何事ぞ年年 放(はな)たれて回(かえ)る

始今(いま)妾(わ)が面(かお)は 君の面(かお)に羞(は)ず

君若(も)し来る時は 夜の近きに来たれ

落第したのだから白昼堂々と帰ってくるな、と言っているのだ。きびしい奥さんだったようだ。奥さんに尻をたたかれて、杜羔という人は頑張って勉強したようだ。何年か後にやっと合格した。奥さんはまた詩をつくっている。「聞夫杜羔登台・夫杜羔が及第したと聞いて」という題である。

長安 此去(これより) 無多の地

鬱鬱葱葱(うつうつ・そうそう)として 佳気(けいき)浮かぶ

良人得意にして 正(まさ)に年少

今夜酔いて 何処(いずこ)の楼にか眠らん

及第すればしたで、妻にはまた別の心配がある。長安はもはやおそるべき土地ではなくなり、及第した夫は意気軒昂として、まるで若者気取りであろう。勝利の美酒に酔って、今夜はどこの妓楼で眠っていることやら。


この話は、陳舜臣の『唐詩新選』の中に出てくる。

きびしい、かかあ天下のように見えるが、このようなユーモラスな詩をつくることからして、おおらかで明るい人柄の女性の気がする。役人仲間の奥様連中から好かれた、頼りにされた女性の気がする。役人の奥様仲間ではリーダー的な存在だったのではあるまいか。

ちなみに、この杜羔(と・こう)という人は白居易と同時代の人だ。「官は振武節度使から工部尚書(建設大臣)に至った」とあるから、ずいぶん立身出世した人である。内助の功が大きかったのだろう。

白居易の最後の官職は「刑部尚書(法務大臣)」だから、この二人は役人・政治家としてはいわば同格の地位だ。高級官僚だから詩をつくったのは間違いない。そう思い、この杜羔という人の詩を探してみたのだが見つからない。残ってないところから察し、奥さんに比べるとご主人は詩が下手だったようだ。