2026年10月27日火曜日

東大寺(2)

 大和の寺社・参拝紀行(12)

このような秋(とき)にあって、聖武天皇は東大寺の大仏建立を決意された。華厳宗の高僧である良弁(ろうべん)に、この寺の造営を命じた。官僧の良弁一人では民衆がついてくるかどうか、天皇は不安であったようだ。民衆から圧倒的な支持を得ていた僧・行基(ぎょうき)を引っ張り出すことにした。行基はこれに同意して、大仏建立に全面的に協力した。

この行基に対する大和朝廷の対応・スタンスは、時代と共に大きく変化している。その肩書が「小僧」から「法師」そして「大僧正」「菩薩」へと変化しているところがとても興味深い。少し長い引用になるが、『続日本紀』の中の行基に関する部分を紹介したい。


「養老元年(717)4月23日 元正天皇は次のように詔(みことのり)した。(注・この時行基49歳) およそ僧尼はしずかに寺にいて、仏の教えを学び、仏の道を世に伝えるのがつとめである。いま小僧(つまらぬ僧)の行基とその弟子たちは、道路に散らばって、徒党を組んでよくないことを教え、家々をめぐり、いい加減なことを説き、むりに食物以外のものを乞い、人民を惑わせている。(中略)今後はそのようなことがあってはならない。このことを村里に布告して、つとめてこれを禁止せよ」

「天平15年(743)10月19日 行基法師は弟子たちを率いて、ひろく民衆に廬舎那仏の像をお造りすることに参加するよう勧誘した」(行基73歳)

「天平17年(745)正月21日 聖武天皇は詔して、行基法師を大僧正(だいそうじょう)に任じた」(行基77歳)

「天平勝宝元年(749)2月2日 大僧正の行基が遷化(せんげ)した。和尚は薬師寺の僧である。俗姓は高志氏(こしし・渡来系の技術者集団の氏)で和泉国の人であった。和尚は性質が純粋で、すぐれた生まれつきの才能をもち、人の手本となる徳風がはやくからあらわれていた。はやくから都や田舎をあまねく廻って、多くの人々を教化した。僧侶や俗人の多くの人々が教化を慕ってつき従い、千人単位で数えるほどであった。みずから弟子たちを率いて、諸所の地に橋を造り堤防を築いた。人々はすべて仕事に協力したので、日ならずして完成した。人民は今に至るまでその利益を蒙っている。

天皇(聖武)は行基を大変敬い重んじられた。詔して大僧正の位を授けた。時の人は行基菩薩と号した。行基の滞在した処にはみな道場が建った。畿内にはそれが49カ所、他の諸道にも方々にあった。弟子たちは皆行基の残した仏法を守り、今に至るまで住持している。薨じたとき、享年八十歳であった」


そして、行基の死の3年後、聖武天皇の発願から9年後、東大寺の大仏殿が完成して開眼供養がおこなわれた。病弱の聖武天皇は長女の孝謙(こうけん)天皇に皇位を譲られていた。聖武太上天皇は当日は体調が悪く参列できなかった。(注・その後健康を回復され、この4年後に崩御された) 娘の孝謙天皇と共に光明皇太后はこれに列席された。一万人を超える僧侶をはじめ、官僚・楽人(がくにん)・舞人(まいびと)が総出で大仏の開眼を祝った。中国人僧だけでなく、多数のインド人僧や西域人の僧が参列したというから、シルクロードのホータン(和田)から来た僧も参列していたに違いない。

『続日本紀』は次のように記録している。天平勝宝4年(752)のことである。

「夏4月9日 東大寺の廬舎那大仏の像が完成して開眼供養をした。この日、天皇(孝謙)は東大寺に行幸し、天皇みずから文武の官人をひきつれて、供養の食事を設け、盛大な法会(ほうえ)を行った。僧一万人を招請した。またすべての皇族・官人・諸氏族による五節の舞(ごせちのまい)・久米舞(くめまい)・楯伏(たてふし・楯・刀などを持って舞う)などの歌舞が行われた。東西に分かれて歌い、庭にそれぞれ分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、一々書きつくせない程であった。仏法が東方に伝わって以来、斎会(さいえ・食事を供養する法会)として、いまだかつてこのような盛大なものはなかった」  (次項に続く)


東大寺 大仏殿


廬舎那大仏


2026年10月22日木曜日

東大寺(1)

大和の寺社・参拝紀行(11)

東大寺には中学生のとき、修学旅行で来た。たしか、三泊で奈良・京都・大坂方面を見学した。奈良では、東大寺以外に春日大社と法隆寺を見学した記憶がある。他にもいくつかの寺や神社を訪問したような気がするが、はっきりとは覚えていない。

帰郷して、担任の井本雄進先生が、「どこが一番良かったか?」とクラス全員に質問された。「東大寺の南大門です!」と私は答えた。「気宇壮大で大変よろしい!」とびっくりするほどの大声でずいぶん褒めてくださった。ただそれだけの話だが、人は褒められると嬉しいものだ。この時の光景を、今でもはっきりと覚えている。

この寺は華厳宗(けごんしゅう)の大本山で、「大華厳寺」と南大門に大きな表札が掲げられている。これが東大寺の正式名称らしい。南大門の左右には運慶・快慶がたった69日間で造ったという金剛力士像が、当時と同じように睨みをきかせている。正面中央の巨大な四本の柱も60年前と同じだ。井本先生が「この柱に手でさわってみろ」とおっしゃたので、クラスの全員がそうした。今回も同じように手のひらで柱にさわってみた。どっしりとして荒々しい、それでいてなんだか安心感を感じる手の感触はあの時と同じだ。

一人の人間にとって60年は長い年月であるが、この寺からみたら短い時間だろうと思った。


この「華厳宗」の起こりはインドでも中国でもない。タクラマカン砂漠南西部の古代の于闐国(うてんこく・現在の和田・ホータン)だという。玄奘三蔵がインドからの帰路、8カ月ほど滞在して親切にしてもらった場所だ。もっとも「華厳経」の教えは玄奘の時より300年も昔に出来上ったようで、東晋の末期(4世紀後半)にはすでに、都の建康(けんこう・現在の南京)に于闐国の僧がこの「華厳経」の経典をもってきたとの記録が残っている。この教えの根本は 「生きとし生けるものが共に栄える」 ということらしい。以前シルクロードの箇所で紹介した則天武后は、この華厳経の新たな翻訳にも熱心だったらしい。彼女は現地のホータンから華厳宗の高僧を洛陽に招き、優遇して翻訳に当たらせている。この則天武后という女傑は、筋金入りの仏教信者であったように思える。

奈良・京都には数多くの名刹(めいさつ)があるが、この東大寺の建立はそれらと異なる点が一つある。それは日本という国が、国家・国民の総力を結集して造営した最初の建造物であるという点だ。国家的プロジェクトの第一号といってもよい。

興福寺は藤原氏の氏寺だ。これ以外の名刹の中には天皇・皇后の発願によって建立されたものもあるし、また各豪族によって造られたものもある。あるいは高僧が寺を建てるとき、皇室や豪族や民衆が資金援助したケースもある。しかしこの東大寺にかぎっては、たしかに聖武天皇の発願によるものではあるが、日本人全体が参加した国家的プロジェクトとしてスタートしている。これは行基(ぎょうき)の功績であろうと私は考えている。

天平15年(743)冬10月15日、天皇は次のように詔(みことのり)されたと、『続日本紀』は記録している。

「菩薩の大願を発して廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(こんどうぞう)一体をお造りする。国中の銅を尽くして像を鋳造する。そして朕(ちん)も衆生(しゅじょう)も仏の功徳を蒙り共に仏道の悟りを開く境地に至りたい。もし一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許す」

廬舎那仏というのは華厳経で説くところの本尊で、「るしゃな」とは「太陽とか光明」という意味だそうだ。光明皇后のお名前もこれに関係があるのかも知れない。聖武天皇はなぜ、これほどまで思いつめて、この東大寺の大仏を造ろうとされたのか。


「青丹よし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり」という有名な歌は、日本人のだれもが知っている。万葉集に収められたこの歌は、神亀5年(728)に小野朝臣老(おののあそん・おゆ)が大宰府の小弐(次官)のとき、北九州において奈良の都の華やかさを懐かしんで詠んだ歌である。我々はこの歌から、奈良時代は平和で明るい時代であり、人々は幸福に暮らしていたとのイメージを持っている。

じつは、そうではなかったのだ。たしかにこの歌が詠まれた頃までは、色々と困難があったものの、人々は幸せに暮らしていたともいえる。ところがこの歌が詠まれた数年後から、日本列島は空前の国難に遭遇したのである。聖武天皇の御代に入り、天然痘の大流行と大地震がたびたび日本列島を襲ったのだ。今考えれば、この二つは自然災害であり、天皇の責任ではない。しかし、人々の幸せを念じるまじめな人柄の聖武天皇は、これは己の不徳にあると思い、今日でいうノイローゼの状態に陥られた。仏の力を借りてこの国難を乗り切りたい、と決意されたのである。

天平9年(737)には、いずれも政府高官であった藤原不比等の四人の息子が、相次いで天然痘で死去した。「藤三娘・とうさんじょ」である光明皇后にとって、自慢の四兄弟である。この時の光明皇后の衝撃を思うと心が痛む。

「4月17日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前(ふささき・次男)が薨じた。7月13日 参議・兵部卿で従三位の藤原朝臣麻呂(まろ・四男)が薨じた。7月25日 右大臣の藤原朝臣武智麻呂(むちまろ・長男)が薨じた。武智麻呂に正一位の位階を授け、左大臣に任命した。8月5日 参議・式部卿 兼 太宰師で正三位の藤原朝臣宇合(うまかい・三男)が薨じた」と『続日本紀』は記している。

藤原四兄弟だけではない。この時期、多くの皇族や政府高官の死去が記録されている。「青丹よし」の歌を詠んだ小野朝臣老も、この年、天平9年6月11日に大宰府で卒したと記録にある。死因は天然痘だったと思われる。

大宝律令の制定(701年)と同時に、大和朝廷は国勢調査を行っている。東北地方以北(蝦夷)と南九州以南(隼人)を除く、日本列島の人口を約450万人と把握していた。このうちの三分の一、150万の人が数年のあいだに天然痘で亡くなったのだ。現在の日本にたとえれば、数字的には、数年前の新型コロナで四千万人の国民が亡くなったことに匹敵する。地震の多発も人々の心胆を寒からしめた。  (次項に続く)


東大寺(大華厳寺) 南大門



 

2026年10月15日木曜日

春日大社

 大和の寺社・参拝紀行(10)

「とても美しい神社だ」 この神社を参拝してそう感じた。千三百年の歴史を持つ古社であるが、華やかな印象を受ける。この春日大社は中臣氏(藤原氏)の氏神社で、興福寺と春日大社は対をなしている。

建立の歴史は、次のような流れである。

和銅3年(710)に平城遷都が行われる。このとき新しい都の安全を願って、常陸国の鹿島神宮から武甕槌命(たけみかつ”ちのみこと)の神霊が三笠山に勧請された。これを行ったのは藤原不比等で、不比等はこの10年後に没している。神霊勧請から58年後の神護景雲二年(768)に、左大臣・藤原永手(ながて・北家・房前の次男、すなわち不比等の孫)によって、この神社が創建された。弓削道鏡が権力の絶頂にあったころである。

中臣氏について、私は長いあいだ思い違いをしていたようだ。20年ほど前に鹿島神宮を参拝したとき、地元の人から「中臣鎌足はこの地で生まれた」と聞き、神宮西側の生誕地にある鎌足神社を友人のU君と一緒に参拝した体験があるからだ。それ以来、私は次のように考えていた。中臣鎌足は鹿島神宮の子で、その後、飛鳥の地におもむいて立身出世した。それゆえに、平城遷都のとき鎌足の子の不比等は、実家である鹿島神宮の祭神・武甕槌命の神霊を白鹿に乗せて三笠山に勧請した。

どうも、そうではないようだ。

青木和夫氏の『古代豪族』によると、「中臣氏は少なくとも鎌足の五代前から朝廷に仕え、祭祀をつかさどる豪族であった」という。欽明天皇の御代に百済から仏教が伝来したが(538年?552年?)、この受け入れに賛成したのが蘇我氏で、反対したのが物部氏と中臣氏であったと『日本書紀』は記している。よって中臣氏は、この当時すでに、中央にあって大和朝廷の政策決定に加わっていたことがわかる。ただし、豪族としての勢力は、物部・大伴・蘇我氏などに比べると弱かったようだ。

鎌足の父親は中臣連御食子(なかとみのむらじ・みけこ)、母親は大伴連智仙娘(おおとものむらじ・ちせのいらつめ)というから、鎌足の血の半分は大伴氏だといえる。さらに、鎌足の曽祖父は常盤(ときわ)という人だが、この人の妻は物部氏の出である。よって、鎌足・不比等は物部氏とも親戚関係にあった。

研究者によると、中臣氏の本来の根拠地は河内国(大阪府)だという。ただ、その場所は生駒山のすぐ西側で、春日大社までの距離は直線で17キロほどで、とても近い。河内国一之宮・枚岡(ひらおか)神社が中臣氏の先祖を祀った神社で、主祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)と后神の比売御神(ひめのみかみ)である。社伝によると、この神社の創祀は神武天皇(崇神天皇?)が大和の地で即位される3年前だというから、ずいぶん古い。

このような次第で、不比等の孫の藤原永手が768年に春日大社を創建するとき、武甕槌命(鹿島神宮)、経津主命(ふつぬしのみこと・香取神宮)、天児屋根命・比売御神(枚岡神社)の四つをご祭神として祀った。


ただ、先に述べた「中臣鎌足は常陸の鹿島神宮で生まれた」との地元民の話は、あながち間違いではないのでは、と私は思っている。鹿島神宮には「昔この国土に天孫が降臨するに先立って天降(あまくだ)った神を祀った」という伝承がある。また「崇神天皇のとき太刀・鉾(ほこ)などの幣(へい)を奉り、景行天皇のとき中臣巨狭山(なかとみの・おおさやま)に神命が下ったので舟三隻を造って奉った」という伝承もある。ずいぶん古い神社なのだ。

鹿島神宮は、大神神社・大和神社・石上神宮の大和の三傑とくらべても、大和朝廷から見て同格、もしくはそれ以上に重要な神社であった。なぜなら、大和朝廷の意(威)に従わない日本列島東北部に住む蝦夷(えみし)の進入を、この常陸の地で防ぐ目的があったからだ。長途の旅に出ることを「鹿島立ち」という。これは奈良時代に常陸国に派遣された防人(さきもり)たちが、鹿島神宮の社頭に集合して北に向かって出発したという故事による。

よって、鹿島神宮の運営や指導のために、一時的に、祭祀をつかさどる家系の中臣鎌足の両親がこの地に赴任していて、鎌足がここで生まれたということは充分考えられる。


「春日大社の燈篭(とうろう)の数と鹿の数を、三日三晩でかぞえたら長者になれる」という言い伝えが、昔から奈良にあるそうだ。「そんなこと、できっこない」という意味らしい。たしかに春日大社には燈篭がとても多い。ちなみにその数は、石燈篭二千・釣燈篭一千の合計で三千といわれる。帰路に私の眼で見たのだが、さらに現在も新しい巨大な石燈篭がいくつも造られて奉納されている。夫婦の名前で一対、建造中の巨大な石燈篭を見た。燈篭の制作費については私はまったく無知であるが、でも、二、三千万円ではとてもできないように感じる。ひとつが、一、二億円はかかるのではないか、と思った。

日本全国どの神社にも石燈篭があるが、これには、それほど古い歴史はないらしい。平安時代の終わりころ(1137年)、藤原忠道(ただみち・摂政・関白・太政大臣、僧・慈円の父)がこの春日大社に寄進したのが、日本の石燈篭の第一号だという。これらの燈篭には、節分と八月に一斉にあかりが灯されるという。さぞ幻想的な夜景だろう。

奈良公園の鹿の数は、2026年7月16日現在で、1687頭いるそうだ。1頭は春ごろ大阪府に亡命したらしい。それを入れると1688頭になる。「鹿政談」という題の、味わい深い落語がある。これも小三治の噺(はなし)が面白い。ユーチューブで聴いていただく価値はあると思う。「小三治 鹿政談」で出てくる。


春日大社



春日大社 ご朱印

2026年10月8日木曜日

興福寺

 大和の寺社・参拝紀行(9)

二日目の2月6日は、興福寺・春日大社・東大寺を参拝する。近鉄奈良駅近くのホテルでF君と朝食を一緒して、徒歩で興福寺に向かう。この三つの寺社をむすぶ三角形の内側が奈良公園になる。

「日本文化史で、もし興福寺という存在を除外するとしたら、様相が変わってしまうにちがいない。それほどこの寺の存在はわれわれ日本人にとって重要である」と司馬遼太郎は述べている。平安時代、日本の寺社のなかで最大の荘園を持っていたのがこの興福寺だ。藤原氏の氏寺という権力を背景に、巨額の富を持っていたこの寺は、建造物・仏像などを合わせると現在、数十件の国宝を所蔵している。

この寺で、私がもっとも興味があったのは、五重塔と阿修羅(あしゅら)像の二つだ。

この寺は最初からこの地にあったのではない。天智天皇8年(669)中臣鎌足の妻が、夫・鎌足の病気平癒を願って京都の山階に創建した山階寺(やましなでら)がこの寺の起源だという。その後、天武天皇の御代に飛鳥の地に移り、さらに和銅3年(710)平城遷都とともに現在の地に移った。この寺に「興福寺」と名付けたのは藤原不比等である。

「国宝・興福寺五重塔・令和大修理」との巨大な表示があり、工事完了は令和16年と書いてある。あと8年ほどかかるらしい。高さ50メートルのこの五重塔は、55メートルの京都の東寺(とうじ)の五重塔に次いで日本で二番目に高いそうだ。余談だが、私の広島県の実家の築山にも五重塔が建っている。祖父が戦前に庭師に造らせたもので、藤原氏ほどの財力はなかったので高さは2メートル半ほどである。

興福寺国宝館の拝観券を買う。900円。国宝・金剛力士像、国宝・天燈鬼(てんとうき)・龍燈鬼(りゅうとうき)立像、国宝・千手観音菩薩(せんじゅ・かんのんぼさつ)立像、国宝・十大弟子立像など、それぞれの国宝を見学する。いずれも迫力があり素晴らしい。

「これらは本物なの?それともレプリカなの?」とF君に聞いてみる。つまらんことを聞くなよといったニュアンスで「全部本物だよ」との返事が返ってくる。海外の博物館で一級の美術品を見学したことがあるが、いくつかがレプリカだった。すべてが本物と聞いて感激する。そうだとすれば、この拝観料は安い。

真冬なので拝観者は少ない。

阿修羅像の前で、私は10分間ほど立ちすくみ、そのお姿をじっくりと拝観する。なんとも神秘的で魅力的なお顔の表情だ。純粋さの中に憂いを感じる。少年のようでもあり、少女のようでもある。これを造ったのは天平時代の仏師だが、その仏師はきっすいの倭人だったのか、それとも渡来系の人だったのかと思いをめぐらす。始皇帝・兵馬俑の何千もの将兵の像は、一体一体にモデルの人物がいたという。この阿修羅像にもモデルがいたような気がする。「この像高は153・4センチ」と案内書に書いてある。これはモデルの人物の実際の身長だったのではあるまいか。

寺務所で「千手観音・興福寺」のご朱印をいただく。5メートルの巨大な観音像も拝観している。この観音さまは千の手と千の眼を持っておられる。助けを求めるすべての人のもとに、どこにでも、すぐに駆け付けてくださる。そして一人も漏らさず全員を救ってくださる。このようなありがたい観音菩薩さまだと教えていただいた。


興福寺を出て、春日大社に向かって奈良公園を横切って歩く。数多くの鹿と観光客が一緒になって遊んでいる。日本人も外国人もスマホで鹿の写真を撮っている。鹿センベイを与えている人もいる。鹿センベイを与えると、鹿がペコリとお辞儀をするのが可愛いい。みんなが鹿を可愛がっているのがよくわかる。

奈良を訪問する少し前に、「奈良公園ではアジア系の観光客が鹿を蹴飛ばして虐めている」と言った政治家がいた。日本人ファーストと叫び、外国人の入国を制限することを主張としている人だ。「あの話、本当なの?」とF君に聞く。「ウソに決まっているだろう。鹿をいじめる外国人など一度も見たことがないし、そんな話聞いたこともないよ」と言う。みんなが嬉しそうに鹿を大切にしている姿を見て、私もそうだろうなと思った。

「そうそう、この前こんなことがあったんだ。俺びっくりしたよ」と、F君が笑いながら言う。次のような話だ。

観光客だけでなく、奈良で働いている外国人はけっこう多いらしい。アジア系の青年が自転車の荷台に小さな荷物を積んで走ってきた。F君の目の前で荷物が落ちた。オーイ、オーイと大声で呼んだら青年は引き返してきたので、事なきを得た。青年はF君にお礼を言った。なんと言ったのか聞いてみる。「かたじけない」と言ったそうだ。


興福寺

興福寺

興福寺




阿修羅像

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          


奈良公園の鹿

興福寺 ご朱印


私の実家の五重塔

2026年10月1日木曜日

石上(いそのかみ)神宮

 大和の寺社・参拝紀行(8)

『日本書紀』垂仁記(すいにんき・第十一代天皇)に次のようにある。

(垂仁天皇の)39年冬10月、朝廷において造らせた剣(つるぎ)一千口(ふり)を石上神宮に納め、(天皇の)長子である五十貮敷命(いにしきのみこと・第十二代景行天皇の兄)に管理させた。のち本人が老齢となり、妹の大中姫(おおなかつひめ)にその任を譲ろうとしたが、(姫は)私はか弱い女ですからといって辞退した。大中姫はこの任務を物部十千根大連(もののべの・とちおねのおおむらじ)に委譲された。物部連らが今に至るまで石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。


物部(もののべ)氏は、のちに石上(いそのかみ)氏と名を改めた。その後、子孫の中には再び物部氏を称した者もいた。さらに後世、子孫の中に布留(ふる)氏と称した者もいて、永くこの神宮の神主をつとめている。ちなみに、この神宮の現在の住所表示は、奈良県天理市布留(ふる)町384番地である。

『延喜式・神名帳』はこの神社のことを「石上座布留御魂(いそのかみにます・ふるのみたま)神社」と記している。平安時代以降は「フルの社(やしろ)」「振(ふる)神宮」「石上神社」など、人々は色々な呼び方をしている。現在の「石上神宮」の名称は、明治16年に内務省社寺局が定めたものである。

今まで述べたこの神社の由来からすると、この神社を「物部神宮」と呼んでもよい気がする。じつは、これとは別に「物部神社」という立派な神社が島根県大田市に現存する。明治4年に国幣小社に列した石見国の一之宮という由緒ある古社だ。第十二代・景行天皇の御代に物部氏が石見国造に任ぜられ、その後、第二十六代・継体天皇の頃にこの神社がつくられたと社伝はいう。


さて、物部氏について少しだけお話したい。もののべから、もののふ(武士)という言葉が生まれたという説もあり、物部氏は古代から武門の棟梁であった。いま一つの武門の棟梁が大伴(おおとも)氏である。両氏とも大和朝廷成立の初期からの大王家の側近であり、軍事をつかさどる家柄であった。軍事における両氏の役割の違いはどこか? 私の理解では、物部氏が攻撃集団としての日本陸軍の祖という立場であったのに対して、大伴氏は大王(天皇)をお護りすることを主任務とした近衛軍団の長(おさ)であった。このように認識している。

ご祭神について語りたい。現在この神宮がお祭りしている祭神は七つだが、平安時代の『延喜式・神名帳』には、この神社の祭神は「布都御魂大神・ふつのみたまのおおかみ」一つと書かれている。これは刀剣である。その昔の国譲り神話にさかのぼる。天照大神の命を受けた武甕雷神(たけみかつ”ちのかみ)は出雲国の稲佐浜(いなさのはま)で、大国主命の前にドンと座り国譲りを迫った。このとき武甕雷神が携えていたのが、この剣(つるぎ)だといわれる。

この話からすると、先の大神(おおみわ)神社と大和(おおやまと)神社の二社が「親大国主命」であるのに比べ、この石上神宮は「アンチ大国主命」と考えることができる。古代日本史の不思議さと、面白さを感じる。


この神宮には国宝が三つある。二つは鎌倉時代に造られた拝殿で、いま一つが刀剣だ。ただし、この国宝の刀剣は先に述べた「布都御魂大神」ではない。有名な「七枝刀・しちしとう」である。七枝刀については何冊もの書物があるので、ごく簡単に紹介したい。

七枝刀は、百済王・近肖古王の世子(皇太子)が倭王のために百済で造らせたものだ。ここまでは明治期にすでにわかっていた。ただ、刻んである漢字62文字の中の年号が、長い間わからなかった。それが2025年のX線CT調査によって判明されたのである。東晋の年号「太和・たいわ」の百済読みでの仮借文字「泰和四年」と読めた。すなわち、この七枝刀は西暦369年に造られたものだと判明した。当時、百済は宗主国ともいえる東晋の元号を使用していた。この太和四年は、私が大好きな東晋の田園詩人・陶淵明が、幼少四歳、のときにあたる。そう考えるとずいぶん古いものである。

この時代、すなわち西暦350年頃の極東アジアの政治状態は次のようであった。古くからの朝鮮半島における強国は、北方の高句麗であった。半島南部の東に新羅という国が建国され、西側に百済が建国される。南には倭国の影響力が強い任那(伽耶)があった。なにかにつけて新羅は百済を目の敵にし、そのために時に高句麗の力を借りようともした。百済に残された安全保障の選択肢は、東方において勃興しつつある倭国と手を結ぶ以外になかったのだ。この頃の極東アジアの政治・軍事の動きについては、『紀』の「神功皇后」の項に詳しい。


次の話は、ぐっと時代がくだる。

近代日本画壇の巨匠に富岡鉄斎(とみおか・てっさい)という人がいる。天保7年~大正13年であるから、高杉晋作より3歳年長である。この人は「万巻の書を読み万里の道を往く」をモットーとして、若い頃から東奔西走の生活を送り、87歳の長寿を得ている。大変魅力的な人物だが、同時に相当変わった人でもある。本業は画家だが、若い頃から国学や陽明学を学び勤皇思想を強く持っていた。明治初年には京都の立命館で教師をしたり、いくつかの神社で神官の仕事もしている。この人は明治9年から短期間ではあるが、この石上神宮で小宮司を勤めている。

この神宮は大和盆地の中央東寄りの山沿いに位置し、布留山(266米)の北西の高台に鎮座している。大神神社、大和神社に比べると一番北側にあり、日本最古の道といわれる山の辺の道は、この神宮の目の前を通っている。境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、じつに神さびた風格ある神社である。


帰り道では苦労した。行きの天理駅に着いた時はすでに午後4時をまわっていた。多くの神社は5時で門が閉まる。あわててタクシーを拾い無事に参拝を済ませることができたのだが、帰りはタクシーがまったく見えない。歩こうぜ、という話になり、4キロ弱の道をF君とテクテク天理駅まで歩いた。足がくたびれたので、途中で天理教団の中心部にある喫茶店に立ち寄って熱いコーヒーを飲んだ。この天理市というのは現在は天理教の王国のようだ。数多くの天理教の立派な施設が見える。この日ホテルに帰ってスマホの万歩計を覗いたら、二万歩を軽く超えていた。


石上神宮


石上神宮


石上神宮


石上神宮 ご朱印

2026年9月24日木曜日

大和(おおやまと)神社

 大和の寺社・参拝紀行(7)

「やまと」と読まないで「おおやまと」と読む。長谷寺参拝のあと、この神社に到着したのは午後2時を過ぎていた。ご祭神は日本大國魂(やまと・おおくにたま)の大神といわれるが、これは大物主神(大国主神)と同一神である。すなわち、大神神社・大和神社の二社とも、主神は大国主命なのだ。大国主命という人は、大柄で頭の良い慈悲深い人だった、との伝承がある。

この神社は、良い言葉でいえば風格があり、朴訥な感じがする。「剛毅木訥仁に近し」の雰囲気があり好感が持てる。言葉を変えれば質素。さらに誤解を恐れずハッキリいえば、かつての栄光に比べると、今はいささか落ちぶれている。このような印象を受ける。

これには、わけがあるのだ。その理由は、戦艦大和が沈没し日本が太平洋戦争で敗北したからである。もし、戦艦大和が健在で日本があの戦争に勝利していたら、この神社は、大神・石上の二社よりも華やかなたたずまいだったに違いない。

じつは、この神社だけではない。神社には家門や企業と同じく栄枯盛衰がある。氏子というかその神社を敬い支持する者の興隆と衰退とを、神社は共にするのである。この神社は帝国海軍が有力サポーターであった。帝国海軍は滅びてしまった。それゆえに、現在は一時的に寂れているのだと私は考えている。源頼朝・足利尊氏・武田信玄・上杉謙信・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などの大物武将の栄枯盛衰と彼らが支援した神社のそれとは一致する。


上野(こうずけ)国の二之宮・赤城神社も、この大和神社と同じ運命にあった。赤城神社は長い歴史を持つ古社だが、明治六年の神祇官の格付けで「村社」となった。私などが考えてもこれはいささか格下すぎる。「国幣小社」もしくは「国幣中社」に列してもおかしくない由緒ある古社だと思う。

昭和16年12月8日、航空母艦・赤城を旗艦とする帝国海軍機動部隊は、加賀・蒼龍・飛竜・翔鶴・瑞鶴の5隻の空母を率いて、ハワイ真珠湾を攻撃して大勝した。翌17年4月のセイロン沖航空戦では、英空母・ハーミスを含む重巡2隻、駆逐艦2隻を沈めた。

これらの赫赫(かくかく)たる武勲により、「空母・赤城の艦内神社である赤城神社が村社であるのは申し訳ない」という話になり、「国幣小社」に格上げされることが決まった。赤城神社側は大喜びした。これを決めたのは内務省の外局である神祇院(じんぎいん・旧内務省社寺局)である。ところが、残念なことに、すぐあとの昭和17年6月のミッドウェー沖海戦において大敗して、赤城以下4隻の航空母艦はすべて沈没した。これによって、赤城神社の国幣小社への格上げの話はなくなってしまった。

旧海軍の軍艦は、戦艦・航空母艦・巡洋艦などの大型艦だけでなく、駆逐艦・潜水艦に至るまで、その艦にゆかりのある神社の分霊を艦内にお祭りしていた。確認していないが、現在の護衛艦も同じだと思う。もし将来、海上自衛隊が「やまと」という名の護衛艦を建造する時がくれば、防衛省の幹部がこの神社に参拝して、この神社の分霊をいただくことになる。戦艦大和では昭和17年にこの分霊の儀式が行われている。これを「特別神符遷座祭」という。

それゆえに、この大和(おおやまと)神社には、大国主命(おおくにぬしのみこと)だけでなく、第二艦隊司令長官・伊藤整一命(いとうせいいちのみこと)以下、2736柱の戦死された戦艦大和乗組員全員と、護衛した軽巡洋艦矢矧・駆逐艦数隻の英霊たちの全員が、境内祖霊社に合祀されている。一人一人のお名前のあとに、大国主命と同じく「命・みこと」の尊称が記されている。我々は、この人たちのことを忘れてはいけない。

由緒書によると、この神社の創建は第十代・崇神天皇六年とあるから、大神神社と同じ頃の創建ということになる。神域は43ヘクタールと広い。ちょうだいしたご朱印の文字は、堂々とした達筆である。先に述べた理由により、かつての栄光に比べると現在はいささか寂れているものの、あと三百年もしたら、大神・石上両社のような輝きを取り戻すと私は考えている。

由緒書きには「神武天皇の功臣・椎根津彦(しねつひこ)の子孫である市磯長尾市をここの神主とした、その後、その子孫の大倭(おおやまと)氏がこの神社に長く奉仕した」とある。学生時代、学習院大学のヨット部に倭と書いて「やまと」と読む名字の女性がおられた。当時、歴史を感じさせる、なんだか由緒ありげな名前だなあと思っていた。

今考えると、あの人は、もしかしたら神武天皇の功臣の子孫だったのかも知れない。


当時の豪族の居住区跡と、大神・大和・石上各神社の位置関係をながめていて、興味深いことに気が付いた。一番南に位置する大神神社の近くが「大伴氏」の居住区である。その北の大和神社の西側が「大王家」であり、一番北の石上神宮の近くに「物部氏」の居住区がある。写りが鮮明ではないが写真を掲載する。この地図は、なにか大きな古代史の秘密を語っているような気がする。


大和(おおやまと)神社


天一号作戦・大和艦隊の兵士を慰霊する


大和(おおやまと)神社 ご朱印

畿内豪族分布図 
大王家の東側に大和神社がある

2026年9月17日木曜日

長谷寺(はせでら)

 大和の寺社・参拝紀行(6)

当初、大神神社参拝のあと、大和神社に向かうつもりでいた。地図を見ていたら、大神神社の反対側に、すなわち三輪山の東側に、長谷寺と書いてある。この寺についての深い知識はないが、昔話の「わらしべ長者」の舞台がこの寺だとは知っている。清少納言がこの寺の石段があまりにも急で険しいので、「私もういやだわ」と駄々をこねたと、どこかで読んだ記憶もある。行ってみたい。

「長谷寺に行く時間があるかなあ?」とF君に聞いてみる。「おお、行ってみようじゃないか。なあに、時間がなくなったら大和神社と石上神宮を明日にすれば良いだけの話だ」との気持ちの良い返事が返ってくる。一緒に旅をするとき、このような心意気は嬉しい。

三輪駅からJRで南にひと駅、桜井駅がある。そこで近鉄大阪線に乗り換え東にふた駅、長谷寺駅がある。運よく待ち時間も少なくこの長谷寺駅に着いた。小さな無人駅でタクシーは見えない。というより、人の姿は一人も見えないのだ。こうなると、地図を頼りに歩く以外にない。

駅は河岸段丘の高台のような場所で、民家や畑を縫うように下に向かって歩いていく。高度にして50~60メートル、距離にして500メートルほど下ると、川が流れていて奈良方面から長谷寺に向かう道に出る。はじめはふつうの田舎道という感じだったが、途中から食堂・土産物屋・宿屋などが見え、門前町の姿になっていく。極寒の2月5日だから人影はほとんど見えない。駅から長谷寺の門前まで、徒歩で20分ほどかかった。


「総本山長谷寺」の立派な石柱が建っている。「開山千三百年記念・大和国総本山長谷寺」と書いた下馬札のかたちの案内板も見える。399段の急な登廊(とうろう)を登っていく。F君も私も年齢の割には健脚だが、それでも二度ほど立ち止まってひと休みした。ズボンを履いてウオーキングシューズ姿の二十一世紀の我々でも、この石段は難儀だ。草履で和服姿の清少納言が「いやになっちゃうわ」と言ったというのは理解できる。

「あれをごらん、この寺の有名な牡丹だよ」とF君が右側の斜面を指さす。真っ赤なボタンの花が藁の菰をかぶって、ポツンポツンとあちこちに咲いている。ただ田舎で農作業をしている私には、2月5日に奈良でボタンが咲いていることに、不自然さを感じる。広島県の海辺にあるわが家の庭のシャクヤクが咲くのは5月上旬だ。あとで寺の女性の方にお聞きしたら、「長谷寺が持っている温室で栽培したものを2月に入ったので移植した」とおっしゃる。七千株のボタンがあり「牡丹の寺」として有名なこの長谷寺は、本格的なボタン栽培の温室を持っている。仏教系の大学の卒業生だけでなく、農学部園芸学科卒業の方もこの寺で働いているそうだ。

本堂は国宝で懸造(かけつ”くり)という建築様式だ。傾斜地に南に向き、前半部分は床下に柱を組み崖面にせり出している。広い舞台があり、下をのぞくと怖い。私は高い場所は苦手だ。この寺の百年ほど後に建立された京都の清水寺も、これと同じ懸造である。

ご本尊の十一面観音立像(重文)の前で手を合わせて拝む。朱鳥(しゅちょう)元年(696年)天武天皇の病気平癒のため道明(どうみょう)上人が建てたという古いお寺だが、室町時代までに7回も焼失している。現在の国宝の本堂は徳川家光の寄進を得て、1650年に建てられた。十一面観音立像は室町時代の1538年の作品で、高さ10メートルを超える木の巨像である。

奈良時代には東大寺の末寺、平安時代中期以降は興福寺の末寺と、この長谷寺は歴史の荒波のなかで幾たびかの変遷があった。戦国時代の1588年に新義真言宗門徒がここに入山して以降、「真言宗豊山派総本山・長谷寺」と名乗っている。真言宗という言葉から、この寺の上にある総本山は高野山・金剛峰寺の気がするのだが、現在はここは独立した総本山だとおっしゃる。このあたりのいきさつや仏教宗派の分類については、不勉強の私にはよくわからない。

その後、寺務所(じむしょ)でご朱印をいただく。堂々たる達筆にも感動したが、それ以上に感激したのは、三人の僧の立派な風貌と立ち居振る舞いである。三人とも三十代に見うけたが、そろってハンサムで大柄なお坊さまだ。優しげな和顔で、私の質問にも親切丁寧に答えてくださる。それでいて威厳がある。「威あって猛からず」という言葉があるが、このような雰囲気の人をいうのだろうと思った。


そのあと、登り下りのある境内を散策すると、ずいぶん多くの桜の巨木が目に入る。2月初旬なので蕾は固いが、春になるとこの寺はどんなにか美しいだろうと思った。機会があれば、もう一度春の花の季節にこの寺を訪問したい。

寺を出るところに、お守りや絵葉書など売っている売店がある。立派な風貌の三人のお坊さまのことが気にかかる。真言宗を名乗るからには、あの方々は高野山大学の卒業生だろうと思って、このことを売店の女性に聞いてみた。

「この寺の僧は全員が大正大学の卒業生です」と答えてくださった。調べてみると、東京都豊島区西巣鴨にある仏教系の大学だが、一つの宗派にこだわらない大学らしい。現在は天台宗・真言宗(豊山派・智山派)・浄土宗・時宗が運営している大学だそうだ。いずれにしても、この大学のトップクラスの卒業生がこの長谷寺に派遣されるのだろう。この寺の三人のお坊さまの顔つきを見るだけで、この大正大学という大学のレベルの高さがわかる。あるいは大学を卒業された後の修行の賜物なのかも知れない。若い頃の最澄様も、道元様も、きっとこの長谷寺のお坊さまのような顔つきであられたに違いない。そう思った。


長谷寺



長谷寺 長い石段の一部



長谷寺 本堂遠望

長谷寺 本堂

長谷寺 ご朱印