2023年10月4日水曜日

シルクロードを旅した野菜(4)ほうれん草

 シルクロードのものがたり(29)

菠薐草・法蓮草(ほうれんそう)

子供の頃、ポパイの漫画が流行っていた。テレビでもやっていた。船乗り姿のポパイがほうれん草の缶詰を開けて口に放り込む。すぐに右腕の筋肉がもりもりと盛り上がって、悪い奴をコテンパにやっつける。子供心にも、そんなにすぐにパワーが出るわけないだろうに、、、と思っていた。

大人になってから、このポパイの漫画には、それなりの真実の背景があることを知った。ほうれん草を食べると超人的なパワーを出すポパイの漫画は、1919年アメリカの新聞に掲載された。野菜嫌いの子供を持つ母親たちは喜んだ。子供たちは強くなりたいので「ほうれん草、ほうれん草」と母親にねだったらしい。

その後、ある缶詰会社がほうれん草の缶詰を売り出して、大儲けをしたとも聞く。

その昔、16・17世紀、オランダのアムステルダム・ロッテルダム、あるいはイギリスのサザンプトンなどの港から、数多くの帆船がアジアにアフリカにアメリカ大陸に乗り出していった。1~2年後には、多くの珍品・宝物を満載して母港に戻ってくる。乗組員の全員がヨロヨロしながら港にたどり着く。ビタミンCの欠乏による壊血病である。

どこの港でも「見張り台」を設け、昼夜を問わず(夜でも船のカンテラでそれはわかる)双眼鏡で船の到着を監視する見張り番がいた。「おお!帰ったぞ!」と船型や帰国の時期から察して、「〇〇号に違いない!」ということになり、乗組員の家族に急報する。おかみさんたちは大きな鍋を波止場まで持ってきて、急いで湯を沸かす。そして大量のほうれん草を放り込み、茹でて船員たちに食べさせる。なかには生で食べた船員もいたかも知れない。何時間もしないうちに、「ヨロヨロしていた船員が元気になった」というから、即効性があったのは事実らしい。

帆船は風がなくなると動けない。遠くに船の姿を見ながら、港に着くまで、あるいは半日とか1日かかったかも知れない。おかみさんたちは井戸端会議ならぬ波止場会議で時間をつぶしたのであろう。しかし、1年前・2年前に出帆した亭主や息子たちの乗る船が目に前にいるのである。イライラしながらも、幸福な時間であったに違いない。


バビロフ博士は、「ほうれん草の原産地はアフガニスタン周辺で、古代からペルシャでは重要野菜として栽培されていた」と著書に言う。「菠薐(ほうれん)」とは中国人がペルシャ(イラン)を指した国名である。

じつは私は、このほうれん草作りでも、上手だと郷里の村では一目置かれているのだ。この野菜は酸性土壌を嫌いアルカリ土壌を好む。私の畑ではひんぱんに草木の焚火を行うので、きっとアルカリ度が高いのだと思う。昔中国経由で日本に入ったほうれん草は葉っぱの先がとがっている。明治以降西欧から入ったものは葉に丸みがある。味は日本種のほうが美味しい気がするが、西洋種のほうが栽培が容易である。

写真は私の畑のほうれん草である。これも間引きながら食べる。あとひと月ほどしたら、一番の食べごろとなる。上に見えるのは、植えたばかりの玉ねぎの苗だ。





2023年9月24日日曜日

シルクロードを旅した野菜(3)胡瓜

 シルクロードのものがたり(28)

胡瓜・黄瓜(きうり)

中国の古書に「胡瓜は張騫が西方から漢土にもたらした」とあることから、この話は日本でも信じられてきた。ただ、先述したように、張騫自身が持ち帰ったとは考えにくく、張騫がこのルートを開拓したあと、その後の軍人や商人たちの手で漢に入ってきたと考える。

この胡瓜、現在の日本においては「大物野菜」と言ってよい。1990の統計で少し古いが、日本での生産量は93万トンで、大根・キャベツ・玉ねぎ・白菜に続き5位だが、金額ベースだと2300億円と1位なのである。当時すでに10年連続で1位だというから、スーパーに行けば一年中胡瓜の姿が見える現在でも、売り上げ金額では胡瓜が日本一だと思われる。

胡瓜の原産地は、インドのヒマラヤ山脈の南部といわれている。中国ではこれを大きく太らせて黄色になるころ収穫し、皮をむき、中の大きなタネを取り出して甘酢に漬ける。私は若いころ海運の仕事で頻繁に香港に行ったとき、この胡瓜の酢漬けを何度か食べたが、とても美味しかった。西域地方の写真集で、この胡瓜の酢漬けを老人が甕に入れて売っているのを見たことがある。「胡瓜」と共に「黄瓜」との漢字表記があるので、もともとはこの野菜は大きく黄色に売れた頃収穫したのは間違いない。


この胡瓜が中国から朝鮮半島を経て(おそらく百済経由だと思う)、顕宗天皇(在位485-487年)の御代に日本に伝来したとの説がある。聖徳太子が摂政になる100年ほど前である。ところが、それ以降、この野菜は日本ではあまり人気がなかったようである。

切り口が京都の祇園社の紋に似ているから食べると祟(たたり)があるとか、徳川家の三つ葉葵に似ているからとかの理由で、忌み嫌われたとの説もある。当時の胡瓜は苦みが多かったようである。江戸前期の「農業全書」には、「黄瓜またの名は胡瓜。下品の瓜にて田舎に多くつくるが、都にはまれなり」と評価は低い。

日本で胡瓜がかなり広く食べられはじめたのは、江戸時代も後半に入ってのことらしい。それ以降、明治・大正・昭和前期までは、庶民は「ぬか漬け」にして食べた。青い未成熟の胡瓜をサラダ感覚で生で日本人が食べ始めたのは、太平洋戦争に敗北して、アメリカの進駐軍が日本に来てからである。

この胡瓜の栽培方法は簡単である。肥料を十分やって、水を切らさなければ、だれでも立派な胡瓜を収穫することが出来る。






2023年9月17日日曜日

シルクロードを旅した野菜(2) 玉ねぎ

 シルクロードのものがたり(27)

玉ねぎ

「太郎のルーツ」の中で、私は野菜の格付表をつくった。ムーディーズやS&Pやフィッチが行っている ”勝手格付” である。味の良さ・栄養価・生産量だけでなく、その野菜が日本史においてどのような貢献をしたかを考慮して、次のように格付した。


横綱 里芋・(大根)   大関 茄子・じゃがいも・(玉ねぎ)・キャベツ・白菜・トマト・(胡瓜)・生姜    関脇 長ねぎ・(ほうれん草)・(人参)・蕪・かぼちゃ・さつまいも・(西瓜)     小結 とうもろこし・枝豆・(そらまめ)・さやえんどう・隠元・ごぼう・レタス・(ニンニク・大蒜・葫)・ピーマン


当時の私は「里芋に惚れ込んでいたので」里芋を強引に「横綱」とした。これに関しては「えこひいきだよ!」とブーイングの声が多かった。しかし、大根を含めてそれ以外の格付に関しては「なるほど、、、」と異存はなかったような気がする。

このあと、前頭・十両などの関取衆が22ほど続くのだが、ここでは省略する。(カッコ)で印をつけたのが、西域からシルクロードを通って、わが日本列島に入ってきた野菜である。これからすると、現在我々が食べている重要野菜の約30パーセントが、シルクロードを経由して日本に入ってきたことになる。


さて、玉ねぎについてである。イラン・アフガニスタンあたりが原産地だと言われる。この野菜の種もラクダの背に乗ってシルクロードを東進したのであろうが、どうも新疆ウイグル自治区あたりでストップしたようである。古代に中国や日本列島には入ってきた形跡がない。漢・三国・晋。唐・宋の時代の物語や漢詩にも、玉ねぎのことは出てこない。なぜだか分らない。ラッキョの親玉みたいな外観が嫌われたのか、あるいは当時の中国や日本の料理にマッチしなかったのか、よくわからない。


中学生の時、本を読んでいて、「古代エジプトではピラミッドの建設労働者に、ビール・玉ねぎ・ニンニクを配給していた」と知った。塩味で玉ねぎ・ニンニクと肉を炒めて、ビールを飲み、パンを食べる。精力はつきそうだが、胸やけしなかったのだろうか?と心配でエジプトの労務者に同情した。高校生になって、「一緒に大根も配給されていた」ことを知ってほっとした。「良かった!口直しに生の大根をかじったのだ!」と嬉しい気持になった記憶がある。


日本には明治になって、1871年にアメリカから北海道に入った。本格的に研究栽培を始めたのが、あの札幌農学校である。10年ほど遅れて、別ルートで大阪に入った。現在でも北海道と淡路島が玉ねぎの一大生産地であるのは、このような背景によるのかと思う。当初は人気がなかったが、明治の中頃にコレラが日本で蔓延した時、「玉ねぎがコレラに効く」とうわさがたって、市民がこぞって玉ねぎを食べるようになったという話もある。

我々「中年開拓団」は、以前は種を播き、1000株以上も植え付けていたが市場には出荷しないので余って困る。現在では一束100本の苗を二束ほどホームセンターで買って11月頃植え付ける。毎年、それなりに立派なものを収穫できている。写真は2023年6月に私の農園で収穫したものである。






2023年9月7日木曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー3

 シルクロードのものがたり(26)

大根(3)

ずいぶん大根に力こぶを入れるじゃないか、と笑われるかもしれないが、あと一章だけ大根について書かせていただきたい。

鳥居民(とりい・たみ)という在野の昭和史研家がおられた。2013年に84歳で急逝された。何冊もの著作があるが、全13巻の「昭和二十年」が先生のライフワークである。徹底した調査・考察をもとに「あの戦争」とは何であったのか、を本質から探ろうとした名著である。この中に「大根の話」が出てくる。

私は2007年に「太郎のルーツ~われらは中年開拓団~」というエッセーを出版した。東京から月に一回、一週間、郷里広島県の農園に帰り、子供の頃からの仲間たちと農作業をしているという、百姓日記のような内容である。鳥居先生の「大根の話」を引用させていただき、一冊献本したことがご縁となり、先生の晩年の数年間、ずいぶん可愛がっていただいた。

以下は、鳥居先生の大根の話を、「太郎のルーツ」で紹介した文章である。


別格の野菜・大根

大根という野菜は日本人にとって半端な野菜ではない。別格な野菜と言ってよい。東の横綱が里芋なら、西の横綱は大根である、と私は格付した。大根をどのようにして食べてきたかを調べるだけで、「日本人とは何か」 がわかるような気さえする。

いきなり他人の書物の長い引用も心苦しいが、鳥居民氏の名著「昭和二十年」(草思社刊)より一節を要約してご紹介したい。昭和二十年だけではない。貧しくつましい生活の中で懸命に生きてきた過去何千年かの日本人の姿が、この文章の中に凝縮されているような気がする。

昭和19年9月、東京都渋谷区の常盤松(ときわまつ)国民学校の児童たちは集団疎開(そかい)する。疎開先は富山県城端町(じょうはなまち)である。日本全国食糧の乏しい中、富山県の田舎の人たちは親切に懸命のもてなしをする。自分たちの食も充分でないのに、昭和20年の正月には餅や汁粉や干柿などを児童たちに振舞う。学童たちは大喜びする。多くの少年・少女たちがこの日の喜びを日記に書き残している。読んでいて、その親切な思いやりに胸が熱くなってくる。


だが、ご馳走は正月で終わりだった、、、、、、お汁粉をつぎに食べることができるのはいつのことだかわからない。魚を食べることが出来るのは一ヶ月に2、3回。いったい、子供たちは毎日なにを食べてきたのか。庭に積み上げられ、雪をかぶっていた大根である。これまで長いあいだ、そしてこのさきもずっと日本の準主食の座にあるであろう大根について、もう少し述べることにしよう。

なによりも大根はかて飯(めし)の材料となる。かて飯とは、ご飯を増量することである。麦かて飯といえば、米に大麦をまぜることだ。芋を入れ、南瓜を入れ、昆布も入れるが、大麦を除けば、大根を入れることが一番多い。東北地方では、冬のあいだは毎日、大根飯である。かて飯は米・麦の量の三分の一ぐらいの量の大根を加えるのが普通だが、半々といったところもある。大根は細かく刻む。大根を切るためのかて切り器といった台所道具もある。冬の夜、農家から聞こえてくるたんたんという単調な音は、かて切りで大根を切る音である。

小さく、さいの目に切った大根は、前の晩にいろりの火で水煮しておき、朝、ご飯が炊きあがったときにそれを入れる。さいの目に切ったのをそのままご飯といっしょに炊くところもある。塩はいれない。塩味をつけるとたくさん食べられてしまうからだ。大根葉飯もつくる。大根の葉を刻み、熱湯をかける。米が炊きあがったとき、上にのせる。蒸らしてから混ぜる。大根を収穫してから、まずは大根葉飯をつくることをつつ”け、新鮮な大根葉がなくなってから、大根のかて飯をつくる地域もある。

さて、大根飯を食べるところはもちろん、食べないところでも、大根は農家のいちばんの副食であることは変わりない。農家はふつう、大根が一年中食べられるように、春播きの大根にはじまって、つぎつぎと種を播いていく。そして初冬には大根を漬け込まねばならないから、8月の作付け面積はいちばん広くしなければならない。秋になって大根をとり入れ、どこの農家でも、大根を四斗樽、二斗樽に漬け込む。1月から2月ごろまでに食べる早漬けは甘塩とする。田植え時まで食べる大根漬けは、塩を多くする。初冬に漬け込むだけでなく、土にいけて囲っておいた大根を取り出し、春にもう一度漬けこむところもある。細かったり、折れた大根から干し大根もつくる。これは煮つけにしたり、はりはり漬けにする。

凍(し)み大根もつくる。囲ってあった大根を掘りおこし、洗って輪切りにし、沸騰した湯に入れ、さっとゆでる。ゆでた大根を竹の串にさし、表に吊るす。大根が凍ったり、解けたりしながら、からからに乾くのを待つ。重労働の田植えのご馳走には、この凍み大根と身欠きニシンを煮るところもある。

大根葉を塩漬けにすることろもある。冬のあいだ、この大根葉を雑炊の具にしたり、味噌汁の実にして毎日食べる地方もある。春になって、酸っぱくなった大根葉の漬物の残りをとりだし、煮てから干す。食べるときには、水でもどして味噌で煮つける。はじめに述べたことを繰り返すなら、大根はただの野菜ではない。まさしく日本の準主食なのである。




2023年9月3日日曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー2

 シルクロードのものがたり(25)

大根(2)

大根にまつわる話は、日本には昔から数多くあるが、私が気に入っている話が二つある。これをご紹介したい。

一つは「徒然草」の第六十八段にある。このブログの読者は学問のある方が多いと承知している。現代語訳は不要と思う。兼好法師の書かれた文章そのままで紹介する。


筑紫に、某(なにがし)の押領使(おうりょうし)などといふ様な者ありけるが、土大根(つちおおね)を万(よろつ”)にいみじき薬とて、朝ごとに二つつ”つ焼きて食ひけること、年久しくなりぬ。あるとき、舘(たち)の内に人もなかりける隙をはかりて、敵(かたき)襲ひ来て、囲み攻めけるに、舘の内に兵(つはもの)二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、みな追い返してけり。いと不思議に覚えて、「ひごろここにものしたまふとも見ぬ人びとの、かく戦ひしたまふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来(としごろ)頼みて、朝な朝なめしつる、土大根にさぶらふ」と言ひて失せにけり。深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ。


以上が全文である。

鎌倉時代に九州に住んでいた警察署長さんの話である。若い警察官がお花見かなにかで、出払って、署には年老いた署長さん一人が留守番をしていたのであろうか。当時は警察署を襲う盗賊がいたようである。

「大根は身体に良い。薬になるのだ」と言って毎日二本ずつ焼いて食べたいたというから、相当大根に入れ込んでいた人である。味噌も醬油もない時代だから、おそらく塩をふって食べたのであろう。家族や使用人にも 「もっと食べろ!もっと食べろ!」 と勧めていたに違いない。妻子や使用人たちが、「かんべんしてください!」と逃げ回っていた姿を想像すると、なんとも可笑しい。

「深く信をいたしぬれば、かかる徳もありけるにこそ」という兼好法師の締めくくりも良い。「徒然草」を読むと吉田兼好という人は、当時の人としては合理的な考えの人であり、かつバランスのとれた常識人だとわかる。この話は誰かに聞いた話であろが、兼好自身がこの話を信じていたとは思えない。

それでは、なぜ、この話をあえて書き残したのであろうか。「一途に信じることの大切さ」を、後世に人に伝えたかったのではあるまいか。


私は昔から、この話が気に入っている。11月とか12月になると、自分がつくった自慢の聖護院大根の煮物を食べるとき、家族にこの話をする。「旨い、旨いと、お父さんは13回も言ったよ」と小学生の頃、娘は言っていた。その頃は神妙な顔でこの話を聞いていた娘も、大人になった今では「またか!」という顔でニヤニヤするだけである。

時おり機嫌のよい時には、「お父さんが困ったときには、きっと聖護院大根の神様が助けに来てくれるよ」と私をからかう。







2023年8月27日日曜日

シルクロードを旅した野菜(1)大根ー1

 シルクロードのものがたり(24)

大根(だいこん) (1)

このブログの林檎の箇所で、「コーカサス地方あたりが原産地のリンゴは、シルクロードを東に向けて旅をしている間にだんだん小さくなり、日本に到着すると盆栽の姫林檎になってしまった。かたや西に向かって旅したものは欧州で品種改良されて大きく甘くなった。大西洋を越えて北米大陸に渡ったものはさらに大きなアップルになった」と紹介した。

大根はその逆である。欧州に入った大根は、ラディッシュのように小型になった。東に進んだ大根は中国で大きい姿に成長し、日本列島に渡るとさらに大きくなり、同時に突然変異をうまく利用した我々のご先祖は数多くの種類の大根を栽培するようになった。「日本は大根大国」と言うのは、決して誇張ではない。

細かく分類すると、日本では数十種類の大根が栽培されている。おおざっぱに分類すると、宮重大根系の青首大根・練馬大根・三浦大根が一つのグループで、我々はこれを普通の大根と認識している。直系2-3センチだが長さは1.5メートルになるのは名古屋方面の守口大根、蕪のように丸く大きいのは聖護院大根、一個20キロと巨大なのは桜島大根、蕎麦屋で薬味で出るのは辛味大根である。私が栽培しているのは青首大根と聖護院大根の二種類だが、煮物にするとすこぶる旨い聖護院大根には力こぶを入れている。じつは「のぶちゃんは聖護院大根作りの名人」と、地元では私は一目置かれているのだ。


野菜の原産地はどこか?という学問にはそれほど古い歴史はないが、大物学者としてスイス人のル・カンドルとロシア人のニコライ・バビロフがいる。二人とも経済学でいうとアダム・スミスのような存在である。バビロフ博士も、大根はコーカサス地方が原産地だと言っている。

バビロフには「資源植物探索紀行」という名著がある。この人は日本にも探検・調査に来ている。大正時代のことだ。バビロフは日本列島が、西側の国々から流入した野菜の終着駅だと認識した。そして日本に来て調査して、野菜の種類が他の国に比べて異常に多いことに驚いている。彼の日本探検の重要な訪問地は鹿児島であった。聞いていた「桜島大根」の調査がその目的であった。「遠くから見るとこの野菜は、大きな子豚と見違えるほど大きい。この大根は品種改良の世界的傑作である」と、その感激を著書に書き残している。

大陸から日本に大根が渡来したのは、縄文時代か弥生時代と思われる。米と大根の食の相性はとても良い。日本に稲作を伝えた中国・朝鮮の人々が、稲のモミと一緒に大根のタネを大事にしながら持ってきたに違いない。

それ以来、大根は日本において「野菜の王様」という扱いを受けるに至った。葉っぱと根に含まれている栄養価もさることながら、この大根がとても作り易い野菜であったことが大きな理由だと思う。

9月上旬は、百姓・田頭にとってとても重要な時期だ。この時期に大根のタネを播くが、1週間も経たずしてすべてのタネが発芽する。ここで大事なことは、一粒ではなく2・3粒同時に播く。半月とか、ひと月してこれを間引く。この「間引き菜」がとても旨い。栄養価も高い。その後1本にして大きく育てる。無農薬栽培を心がけている私だが、白菜・キャベツにはどうしても少量の農薬(オルトラン)を使う。ところが、大根には虫が付かないので、農薬をまったく使わないで立派な大根が出来る。

写真の大根は、コロナが始まる前年の田頭農園の青首大根だ。ちょっと早く収穫したので小ぶりだが、このくらいが旨い。あとひと月畑に置いていたら、2倍ぐらいの重量になる。








2023年8月21日月曜日

シルクロードを旅した果物(6)西瓜(すいか)

シルクロードのものがたり(23)

西瓜(すいか)

ひと月ほどブログを書かないでいると、「田頭さん元気か?夏バテでくたばっているのではないか?」と心配して電話をくださる方がいる。有難いことだ。 「おかげさまで元気はつらつです。少しサボっていますがまた書きます。読んでくださいね」と答えている。読者から励ましをもらった作家のような気分になり、とても嬉しい。


さて西瓜であるが、植物学では、これは果物ではなく野菜に分類される。ただ、赤くて甘い西瓜を食べていると野菜という気はしない。よってこのコーナーでは、果物として紹介したい。

西瓜の原産地は「アフリカ中部の砂漠地帯」だといわれる。古代スーダンで栽培され、エジプトでは4000年前の西瓜の絵が残っている、との記述もある。「南アフリカのボツアナのカリハリ沙漠付近が原産地だ」という人もいるが、今アフリカの地図を見ているが、カリハリ沙漠からスーダン・エジプトまではずいぶん距離がある。私としては、アフリカ中部説を採りたい。

エジプトから中近東を経由してシルクロードに入り、その種子はラクダの背に乗って11世紀に中国に入った。北宋の時代であるから、私が大好きな蘇軾(そしょく・1036年生まれ)が生きていた時代である。

日本に入ってきた時期には諸説あるが、16世紀もしくは17世紀、中国経由らしい。この西瓜の日本入りも葡萄と同じようにヨーロッパ人がしゃしゃり出てくる。「天正7年・1579年・ポルトガル人が西瓜の種子を長崎に持ち込んだ」と欧州人は言うが、欧州人の我田引水ぶりにヘキヘキしている私は、これには首をかしげている。

江戸時代に我が国に入ってきたものの、当時はあまり人気がなかった。甘味が少なかったようで、江戸時代の庶民が好んだのは西瓜ではなく「まくわ瓜」であった。日本で西瓜が好んで食べられるようになったのは明治以降、というより大正時代になってから品種改良によって甘味が増してかららしい。

私もこの25年間、郷里の田頭農園で西瓜の栽培をしているが、立派な西瓜をつくるのは結構むずかしい。

まず第一に連作を嫌う。西瓜は6年、里芋は4年、ジャガイモ・トマト・茄子は3年、連作を避けるように、というが、やってみて本当の気がする。第二に多雨を嫌う。アフリカの砂漠地帯が故郷なのだからこれは理解できる。ホームセンターで苗を買って移植するのだが、畑の何か所に高さ30-40センチの小型の砲台みたいに土を盛り、そこに植える。過度な湿気を避けるためである。私の農園は日本では雨量の少ない場所なので、適地といえば適地だが、葉っぱや茎が育つ5月・6月に雨量が少ないと生育が悪い。雨が多いと甘味が少ない。第三に肥料をやる時期が早すぎると、せっかく結んだ果実がポロリと落ちる。ゴルフボールぐらいの大きさになった時、化学肥料を追肥する。

もう一つ大切なことは、受粉である。プロの西瓜農家は朝早く起きて、人工授粉を行っている。月1回、1週間百姓の私にはこれが出来ない。もっぱら「蜜蜂・蝶・てんとう虫」などの昆虫の活躍に全面的に頼っている。

たいした手入れもしていないので、「西瓜をつくっている」というには気が引ける。「勝手に育ってくれている」というのが正確な表現である。それでも、6株ほど植えて、3年に一度くらいのペースで、豊作がある。15,6個の大きな西瓜が収穫できるととても嬉しい。写真の西瓜は、コロナが始まる前年の豊作のときのものだ。今年の西瓜の出来は、大学の成績だと「良」と「可」の間ぐらいである。