シルクロードのものがたり(97)
元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る 王維(701-761)
渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し
客舎青青(かくしゃせいせい)として 柳色(りゅうしょく)新たなり
君に勧む 更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関(ようかん)を出つ”れば 故人無からん
この詩は以前に紹介したが、もう一度取り上げてみたい。今回シルクロード旅行をご一緒した方々は、大学教授を含めて知的レベルの高い人が多かった。ある晩の夕食のとき、この詩が話題になった。この詩は高校の漢文の教科書に出てくるので、日本人のだれもが知っている。
ある方が、「それにしても、夜を徹して朝まで飲み続けていたんですね。出発する元二さんは馬に乗ってフラフラしていたでしょうね」とおっしゃる。私自身、高校時代からこの詩が好きだったが、「夜を徹して朝まで飲んでいた」という認識はなかった。じっくりこの詩を読むと、そうであることがわかる。
この話を聞いて、私が以前に抱いていた疑問がふたたび頭にもたげてきた。この詩について、「王維の親友である元二(元兄弟の二番目の弟)を見送ったときの詩」と多くの先生方が解説していることへの疑問である。王維が若い時これを書いたのがわかれば、私の疑問は解消されるのだが、それはどの解説書にも書かれていない。
確たる証拠はないのだが、どうも私には、この詩が王維の晩年とは言わないまでも、中年以降の作品の気がしてならない。もしそうであれば、主人公の「元二さん」は、王維の親友の息子、もしくは親友の弟だったのではあるまいか。というのは、このように遠方に使いに行く人物の年齢は三十歳前後だと思うからだ。軍人であれば大尉か少佐、文官であれば課長補佐クラスが、このような遠方への使者として派遣されるのが世界史や日本史の通例である。
張騫が漢の武帝の命令で、100人の供を連れて大月氏国に向かったのは、彼が35歳ごろである。瀬島隆三が大本営参謀の身分を隠し、シベリア鉄道を使って同盟国ドイツに使いに行ったのは、彼が30歳、少佐の時である。
この役職には機敏な判断力と同時に頑強な体力が求められる。少尉・中尉クラスの若造では実力不足で、大佐以上の老齢では体力的にきつい。王維と親しかった元二の父親もしくは長兄が、社会的な地位がありかつ有名な詩人でもある王維に、息子もしくは弟のために、咸陽で開かれる送別会とそこでの詩会への参加をお願いしたような気がしてならない。
昨年、私がこの詩をあらためて読んで、それ以降半年間も「変だな、変だな」と悩んだ話は以前お話しした。シルクロード旅行にそなえ、現在の中国の地図をながめていて「安西」という都市を発見したことにより、その悩みが始まった。
地図を見ると「安西」は敦煌の東北200キロの場所にある。すなわち、玉門関や陽関よりも長安寄りに位置する。そこへ使いに行く元二さんに対して、「西のかた陽関を出ずれば故人無からん。だからもう一杯飲めよ」と酒を勧める王維の言葉に、とても違和感を感じていた。
その後何冊かの本を読んで、この「安西」という言葉のもとの意味は、固有の地名ではなく「西方を安んじるために安西将軍が駐屯する場所」であることを知った。中国の国力の強弱によって、この駐屯地はあちこちに移動している。王維がこの詩を詠んだとき唐の勢力範囲はとても広大で現在のウズベキスタンまで至っている。このときの「安西府」は敦煌・陽関より1000キロも西方のクチャ(庫車)にあったことを知り、ようやく納得できた。
安西があるのだから、当然、安北・安南・安東もある。それぞれの地に、数千の兵を率いる将軍が駐屯していた。唐の勢力が強い頃の安北はバイカル湖の近くにあったが、北方の匈奴の勢力が強くなると500キロほど南方に後退している。ほぼ一貫して同じ場所にあったのは、現在のハノイにあった安南府だけである。
日本人の私にとって気になるのは「安東」である。倭の五王といわれる日本の古代の天皇が「安東将軍」の称号を中国の皇帝や王様からもらったという話が、頭の片隅にあったからである。
(次号に続く)






