20年ほど前から約10年間、日本各地の神社を参拝していた時期がある。東京に一人、郷里の広島県に一人神社好きの友人がいて、一緒に地方の神社を中心に参拝してご朱印をもらうのを楽しみに、小旅行を続けていた。
10年ほどで百数十社の神社をお参りすることができた。そういえば、数年前このブログで熱田神宮・宗像大社・二荒山神社・高麗神社などをご紹介した。
自慢の朱印帳を知人に見てもらうたびに、「地方の神社が多いね。本家筋の奈良や京都には行かないの?」とよく言われていた。「うん。奈良や京都には由緒ある神社が多いけど、年を取ってからでも行けるよ。足腰の丈夫なうちは僻地の神社をお参りするんだ」と答えていた。
あれから相当の月日が経った。自分もいい歳になってきた。そして、その間にあることに気がついた。神社参拝には一つの掟(おきて)があるのだ。どの神社にも「下馬札・げばふだ」というものが立っている。
「下馬」「下乗」と書いた札が立ち、たとえ大納言や参議などの高級貴族でも、そこから先は馬・牛車・籠から降りて自分の足で歩かねばならなかった。現在の人々も同じである。車椅子はどうなんだろうと思ったが、神さまから見たら牛車と同じく車の一種らしい。車椅子で本殿を参拝する人の姿は、私は今まで一度も見たことがない。(もっとも、友人の一人は車椅子で参拝する人を一度見た、と言う。神社によっては許しているのかも知れない)
行動を開始する時がきたのだ。
奈良と京都どちらが先かといえば、当然、奈良だ。歴史の古い順からお参りしなくてはいけない。大神(おおみわ)神社・大和(おおやまと)神社・石上(いそのかみ)神宮。この三つの旧官幣大社からお参りを始めるのが、日本人としての礼節であろうと考えた。
20年前の私は、「神社だ、神社だ」といって、近くに由緒ある仏閣があっても興味を持たなかった。学識ある学友のU君から、「お前、それじゃダメだよ。お寺さんにもお参りしなくちゃいかんよ」とよく小言をいわれていた。この20年で私も少し進歩したのかも知れない。U君が言っていたことが分かりはじめた。近頃はお寺にも強い興味を持っている。神社を参拝するとき、私が真ん中を歩くのをU君はしばしば注意してくれた。「ダメだよ。まんなかは神さまが歩く道だよ。もっと右側に寄れよ」と。U君の教えを、神社・仏閣をお参りするたびに思い出す。
奈良の由緒あるお寺といえば、飛鳥寺・法隆寺・興福寺・東大寺・薬師寺・唐招提寺・長谷寺・久米寺などが頭に浮かぶ。御朱印帳は神社と仏閣とに分けて、常に二冊を携帯している。ただ、「神仏混淆・しんぶつこんこう」という言葉もある。紀行文としては寺社を分けないで、参拝した順番に紹介するほうが自然な気がしている。
奈良市にF君という古い友人が住んでいる。三光汽船という海運会社に入社したときの同期で、このF君が47人の同期のトップ入社だと、当時仲間内で言われていた。私は、たまたま彼と同じ木材輸送の課に配属され、F君が北米材、私が南洋材とNZ材を担当した旧知の仲良しである。
私が三光汽船を辞めたのと同じ頃F君も辞め、奈良の企業に転職して成功された。今は悠々自適で日本各地の旧跡を訪ね、日本史の研究をされている。司馬遼太郎の文庫本250冊を持っていて、すべて読んだという智の巨人である。現在二回目を読んでいるそうだ。奈良の神社・仏閣のほぼすべてを参拝したという。昨年は先達(せんだつ)さんを雇って、山伏修行の聖地で有名な大峰(おおみね)山の山頂登山を終えたという強者(つわもの)だ。
私の計画を伝えると喜んでくれ、「俺が案内してやるよ」と言ってくれる。博覧強記のF君が一緒だとじつに心強い。なんでも教えてもらえる。司馬遼太郎と一緒に『街道をゆく』を旅した須田剋太・安野光雅の両画伯と同じ立場になれると思い、心が躍った。
「ふた月に一度、2・3泊のペースで奈良に来たらいいよ。それでも二年ほどかかるかな」とF君は言う。奈良盆地内だけでは駄目だ、吉野山と十津川には絶対に行く必要がある。日本史を深く理解するには、大阪府と和歌山県(熊野古道)にも足をのばす必要がある。と教えてくれる。
このように、話がトントンと進み、令和八年の二月から、F君と一緒の「大和の寺社・参拝紀行」がはじまった。
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