大和の寺社・参拝紀行(11)
東大寺には中学生のとき、修学旅行で来た。たしか、三泊で奈良・京都・大坂方面を見学した。奈良では、東大寺以外に春日大社と法隆寺を見学した記憶がある。他にもいくつかの寺や神社を訪問したような気がするが、はっきりとは覚えていない。
帰郷して、担任の井本雄進先生が、「どこが一番良かったか?」とクラス全員に質問された。「東大寺の南大門です!」と私は答えた。「気宇壮大で大変よろしい!」とびっくりするほどの大声でずいぶん褒めてくださった。ただそれだけの話だが、人は褒められると嬉しいものだ。この時の光景を、今でもはっきりと覚えている。
この寺は華厳宗(けごんしゅう)の大本山で、「大華厳寺」と南大門に大きな表札が掲げられている。これが東大寺の正式名称らしい。南大門の左右には運慶・快慶がたった69日間で造ったという金剛力士像が、当時と同じように睨みをきかせている。正面中央の巨大な四本の柱も60年前と同じだ。井本先生が「この柱に手でさわってみろ」とおっしゃたので、クラスの全員がそうした。今回も同じように手のひらで柱にさわってみた。どっしりとして荒々しい、それでいてなんだか安心感を感じる手の感触はあの時と同じだ。
一人の人間にとって60年は長い年月であるが、この寺からみたら短い時間だろうと思った。
この「華厳宗」の起こりはインドでも中国でもない。タクラマカン砂漠南西部の古代の于闐国(うてんこく・現在の和田・ホータン)だという。玄奘三蔵がインドからの帰路、8カ月ほど滞在して親切にしてもらった場所だ。もっとも「華厳経」の教えは玄奘の時より300年も昔に出来上ったようで、東晋の末期(4世紀後半)にはすでに、都の建康(けんこう・現在の南京)に于闐国の僧がこの「華厳経」の経典をもってきたとの記録が残っている。この教えの根本は 「生きとし生けるものが共に栄える」 ということらしい。以前シルクロードの箇所で紹介した則天武后は、この華厳経の新たな翻訳にも熱心だったらしい。彼女は現地のホータンから華厳宗の高僧を洛陽に招き、優遇して翻訳に当たらせている。この則天武后という女傑は、筋金入りの仏教信者であったように思える。
奈良・京都には数多くの名刹(めいさつ)があるが、この東大寺の建立はそれらと異なる点が一つある。それは日本という国が、国家・国民の総力を結集して造営した最初の建造物であるという点だ。国家的プロジェクトの第一号といってもよい。
興福寺は藤原氏の氏寺だ。これ以外の名刹の中には天皇・皇后の発願によって建立されたものもあるし、また各豪族によって造られたものもある。あるいは高僧が寺を建てるとき、皇室や豪族や民衆が資金援助したケースもある。しかしこの東大寺にかぎっては、たしかに聖武天皇の発願によるものではあるが、日本人全体が参加した国家的プロジェクトとしてスタートしている。これは行基(ぎょうき)の功績であろうと私は考えている。
天平15年(743)冬10月15日、天皇は次のように詔(みことのり)されたと、『続日本紀』は記録している。
「菩薩の大願を発して廬舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅像(こんどうぞう)一体をお造りする。国中の銅を尽くして像を鋳造する。そして朕(ちん)も衆生(しゅじょう)も仏の功徳を蒙り共に仏道の悟りを開く境地に至りたい。もし一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許す」
廬舎那仏というのは華厳経で説くところの本尊で、「るしゃな」とは「太陽とか光明」という意味だそうだ。光明皇后のお名前もこれに関係があるのかも知れない。聖武天皇はなぜ、これほどまで思いつめて、この東大寺の大仏を造ろうとされたのか。
「青丹よし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり」という有名な歌は、日本人のだれもが知っている。万葉集に収められたこの歌は、神亀5年(728)に小野朝臣老(おののあそん・おゆ)が大宰府の小弐(次官)のとき、北九州において奈良の都の華やかさを懐かしんで詠んだ歌である。我々はこの歌から、奈良時代は平和で明るい時代であり、人々は幸福に暮らしていたとのイメージを持っている。
じつは、そうではなかったのだ。たしかにこの歌が詠まれた頃までは、色々と困難があったものの、人々は幸せに暮らしていたともいえる。ところがこの歌が詠まれた数年後から、日本列島は空前の国難に遭遇したのである。聖武天皇の御代に入り、天然痘の大流行と大地震がたびたび日本列島を襲ったのだ。今考えれば、この二つは自然災害であり、天皇の責任ではない。しかし、人々の幸せを念じるまじめな人柄の聖武天皇は、これは己の不徳にあると思い、今日でいうノイローゼの状態に陥られた。仏の力を借りてこの国難を乗り切りたい、と決意されたのである。
天平9年(737)には、いずれも政府高官であった藤原不比等の四人の息子が、相次いで天然痘で死去した。「藤三娘・とうさんじょ」である光明皇后にとって、自慢の四兄弟である。この時の光明皇后の衝撃を思うと心が痛む。
「4月17日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前(ふささき・次男)が薨じた。7月13日 参議・兵部卿で従三位の藤原朝臣麻呂(まろ・四男)が薨じた。7月25日 右大臣の藤原朝臣武智麻呂(むちまろ・長男)が薨じた。武智麻呂に正一位の位階を授け、左大臣に任命した。8月5日 参議・式部卿 兼 太宰師で正三位の藤原朝臣宇合(うまかい・三男)が薨じた」と『続日本紀』は記している。
藤原四兄弟だけではない。この時期、多くの皇族や政府高官の死去が記録されている。「青丹よし」の歌を詠んだ小野朝臣老も、この年、天平9年6月11日に大宰府で卒したと記録にある。死因は天然痘だったと思われる。
大宝律令の制定(701年)と同時に、大和朝廷は国勢調査を行っている。東北地方以北(蝦夷)と南九州以南(隼人)を除く、日本列島の人口を約450万人と把握していた。このうちの三分の一、150万の人が数年のあいだに天然痘で亡くなったのだ。現在の日本にたとえれば、数字的には、数年前の新型コロナで四千万人の国民が亡くなったことに匹敵する。地震の多発も人々の心胆を寒からしめた。 (次項に続く)
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| 東大寺(大華厳寺) 南大門 |


























