2021年4月26日月曜日

あとがき(完)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(23・完)

「歴史に if はない」という。その通りだと思う。後日になって、「もしもあの時」などと言っても考えても、現実はなにも変わらない。そうではあるのだが、凡人はつい夢想してしまう。「ルーズベルトの生命があと半年あったなら、広島・長崎への原爆投下はなかったのではあるまいか。7月下旬に戦争が終わっていたのではあるまいか」という夢想である。

二個の原爆が投下され、ソ連の参戦があったにもかかわらず、8月上旬、陸軍や海軍があれだけ抵抗したのだから、それは難しかった。以前、私はそう考えていた。

しかし、今回、当時のことを深く調べてみて、昭和天皇・鈴木貫太郎・米内光政・梅津美治郎の決意があれほど固かったのだから、それは可能だったのではあるまいかと思うようになった。陸軍大臣の阿南惟幾があそこまで頑張った理由はただ一つ、「国体の護持」すなわち「天皇の地位の保証」であった。

ルーズベルト大統領の下で、グルーが国務省を仕切り、「天皇の地位を保証したポツダム宣言」を発していたら、高い確率で7月中の終戦が可能だったのではあるまいか。もちろん、陸軍の一部が小さなクーデターを起こした可能性はある。それでも、先述した指導者たちが団結して動けば、少数の死者でそれは弾圧されたような気がする。

もしそうであれば、広島・長崎への原爆投下はなかった。7月下旬から8月上旬にかけて行われた、日本の地方都市への焼夷弾の投下もなかった。満洲での悲惨な出来事もなかった。北方四島にソ連が居座ることもなかった。そうであれば良かったのに、と思う。

しかし、と凡人はまた考える。それ以降の歴史で、原子爆弾というものが一切使われないで、現在までの70余年の世界史が続いていたであろうかと。あるいは朝鮮戦争やベトナム戦争で、「本当の原爆実験」が行われていたかも知れない。そう考えればきりがない。たしかに、「歴史に if はない」のかも知れない。


戦後生まれの日本人の一人として、私は鈴木貫太郎に心から感謝したい。

小堀桂一郎著、「宰相・鈴木貫太郎」の最後にある次の逸話には胸をうたれる。

この冒険的大事業を成功させたあとの、鈴木貫太郎のこうむった処遇は、救国の英雄にはふさわしからぬ奇妙なものであった。8月15日の朝、暴徒に自宅を焼かれた鈴木氏は、無一物の身柄一つをかかえて、親戚知人宅を転々と避難して歩いた。一軒の宅に落ち着けなかったのは、生命をねらう暴徒が徘徊していたので、一箇所への長逗留を避けるよう警察から要請されていたからである。

鈴木氏はそのような時、意地を張らない人であった。笑いながら素直に警察の要請に従って、転々と居を移した。三箇月のあいだに七度転居したという。終戦の大業を成し遂げたこの自分を、世間は何と思ってこのように扱うのか、といった怒りは毛ほども示さなかった。

鈴木内閣で厚生大臣を務めた岡田忠彦氏は、鈴木貫太郎の一周忌における談話で次のように語っている。終戦直後、彼が鈴木貫太郎の隠れ家を訪ねた時の話である。

「小さな家でありますので庭から入っていきました。狭い部屋に布団があって、そこで握り飯みたいなものを食べておられました。奥様も傍らにおられました。大変なことですな、と言ったら、その時に鈴木さんは、これくらいな事はありがちなことですなと言われた。私にはその一言がとても心に響きました」


八千万人の日本人を乗せ、いつ沈没するかわからない日本丸という大きなボロ船を、たくみに操縦しながら、日露戦争時の水雷艇司令・鈴木貫太郎は、なんとか岸まで持ってきた。港の岸壁にスマートに横付けしたのではない。いってみれば、浜辺に座礁させたようなものだ。それでも八千万人の日本人は生き残ることができた。これを見届けて、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。昭和20年8月15日の夜のことである。


ほぼ同じ時刻、アメリカ東部時間8月15日の午前、ワシントンでは国務次官ジョゼフ・グルーがトルーマン大統領に辞表を提出した。

84歳で没したのが65年だから、グルーは戦後20年間を生きた。日本人の留学生をサポートするグルー基金を設立したり、日本に対する友情はまったく変わらなかった。49年に渡米した高木八尺東大教授は、グルーの自宅で親切にもてなされた。53年、皇太子時代の平成天皇は、エリザベス女王の戴冠式に出席するためアメリカ経由で渡英した。この時グルーは夕食会を主催し、皇太子の成長ぶりと皇室のご安泰をわがことのように喜んだ。

60年、日本政府はジョゼフ・グルーに勲一等旭日大綬章を、ユージン・ドーマンに勲二等旭日重光章を贈った。日米修好百年を記念して渡米した皇太子夫妻がこれを持参した。原爆投下を阻止できなかったことをひどく心苦しく思っていた二人は、この叙勲をとても喜んだといわれている。

しかしながら、日本の友人たちが再三来日を促しても、グルーはとうとう日本の土を踏むことはなかった。

「征服者の顔をして日本に行きたくない」というのが本人の弁であったという。この人もまた、中世の騎士の精神を持っていた人のように思える。 














2021年4月19日月曜日

ポツダム宣言の黙殺(2)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(22)

「黙殺」についてのいきさつは、次のようであったらしい。

7月28日の朝日新聞に「政府は黙殺」との見出しをつけて記事を書いたのは、柴田敏夫記者である。この柴田記者が戦後、当時首相秘書官であった鈴木貫太郎の長男の鈴木一(はじめ)氏と対談した。この時、鈴木一氏は次のように語っている。

「当時、書記官長の迫水さんは、毎日三回、新聞記者クラブで会見をされていた。正午の会見の時、いったい政府はどうするのかという話が記者団から出た。迫水さんとしては、今、日本としてはこれを受諾するとかそういう態度はとれないんだ。だから結局まあ重要視しないというか、ニグレクト(neglect/無視・軽視)するという方向にいくことになりだろうと。じゃあ黙殺かという話が出たんですね。”黙殺?ニグレクトというのは黙殺とも言えるかなあ” というようなやりとりがあったと記憶しています。そして迫水さんからは、”大きく新聞のトップでポツダム宣言黙殺とは扱わんでくれ。なるべく小さく扱ってくれよ”と記者たちに話があった」

毎日新聞の名取記者は、戦後次のように証言している。「総理ははっきりしたことは何も言われなかった。近頃の言葉でいうとノー・コメントといったところなのですが、印刷するとああなりますかね」

この「気にもとめない」、「ノーコメント」くらいの意味での「黙殺」という言葉を、AP通信もロイター通信も、「reject/拒否」した、とアメリカ国民に伝えた。APやロイターに比べると、ワシントンポストの次の報道は、日本政府の気持ちをかなり正確に伝えているような気がする。

Japanese Premier Suzuki scorned today as unworthy of official notice allied Potsdam surrender ultimatum.

日本の首相・鈴木は、本日、連合国のポツダム降伏勧告最後通牒は、公式見解表明に値せずとして笑殺した。(小堀桂一郎訳)

私は、最後の「ultimatum/最後通牒」という言葉に違和感をおぼえる。ポツダム宣言の文中には「最後通牒」の文字は見えないからである。

日本側が、「これは公式見解表明に値せず」と言ったことを、ワシントンポストで知ったトルーマンとバーンズは一瞬ヒヤリとしたのではあるまいか。彼ら自身が「公式見解とは見られないように」幾重にも小細工を施していた からである。日本側はこの宣言の背後にある真実をつかんでいるのか。二人は内心ギクリとしたかも知れない。

先述したように、日本政府は、「対本邦共同宣言にあげられた条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるとの了解のもとに、帝国政府は右宣言を受諾す」との内容を英文にして、米国と中華民国にはスイス政府、英国とソ連にはスウェーデン政府を経由して、日本時間8月10日の午前6時45分に発信した。

日本人は律義である。宣伝文のような形で発信されたこの文書に対し、正式に中立国を経由して返答している。ポツダム会談に参加していたが宣言に名を連ねていないソ連に対してまでも返答している。

バーンズ三原則の通り、アメリカ政府の原爆投下に関する公式な姿勢は、「日本に対して原爆投下の事前通告をしない」ということであった。

ところが事実として、アメリカは複数の方法で、この原爆投下について日本国民に警告を発していた。


シドニー放送・ニューデリー放送は原爆投下の3-4日前から、英語と日本語の短波放送でこれをくりかえし放送した。このブログの「広島医専・20年8月5日の開校式」で触れたとおり、広島医専初代校長・林道倫博士がこれを聞いていたのは間違いない。

同時に、原爆投下の前日8月5日に、一機で広島上空を偵察したB29は、原爆投下警告のビラを広島市に投下している(写真参照)。「日本国民に告ぐ・即時都市より退避せよ」と見出しにあり、「広島」の名も、「B29・2000機分が搭載する爆弾に匹敵する」、「原子爆弾」の文字もはっきりと見える。

このガリ版刷りのビラは、テニアン島かサイパン島で捕虜になった日本人が、アメリカ軍の情報将校の指示のもとに、急いで印刷したものに違いない。それでは、これらの放送や警告ビラの投下は、アメリカ本国のどこからの指示であったのだろうか?

国務次官のグルーと特別補佐官のドーマンであった可能性が高い。そうであれば、二人の行為は、国務長官バーンズの指示に逆らっての命令違反である。

B29は陸軍の軍用機だ。陸軍次官補・マックロイもこれに加わったのではあるまいか。海軍次官のバードも、これをサポートしたのかも知れない。グルーとドーマンの国務省の二人だけでは、これだけ大がかりな作業は不可能と思うからだ。日本が敗北を認めたその日、45年8月15日に、グルーは辞表を提出した。彼は命令違反行為の責任を取ったのではあるまいか。

アメリカの心ある人たちの、このような配慮・行動は事実として存在した。このことは我々日本人は認識しておくべきだと思う。ただ、残念なことに、海外からの短波放送を聞くことは当時の一般国民は固く禁じられていた。米軍の飛行機が撒く宣伝ビラは、すぐに憲兵隊か警察に届けるようにとの国民への指示は徹底されていた。広島医専の方々のように、8月5日に広島から避難できた人はきわめて限られている。


これ以降、8月15日までの6日間、息つ”まるようないくつもの物語があるのだが、これらは数多くの書物に書かれているので、ここでは触れない。

















2021年4月12日月曜日

ポツダム宣言の黙殺(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(21)

ドイツのポツダムで米・英・ソの三巨頭会談が開かれていることは、中立国経由で日本政府は知っていた。スイスには日本公使館員・駐在武官以外に、三井物産・横浜正金銀行・各新聞社などの民間人が相当数いた。三ヶ国が発表するであろう宣言を、日本政府と軍部はかたずを飲んで見守っていた。

日本時間の45年7月27日の午前7時から、アメリカ西海岸・ハワイの短波放送、サイパンの中波放送が宣言の内容をくりかえし放送した。日本では、外務省・NHK・同盟通信社・陸軍省・海軍省がこれを受信する機能を持っていた。実際には、海軍の艦船や陸軍の大きな部隊は高性能の受信機を持っていたので、このポツダム宣言を受信している。


東郷外相が受けた第一印象は、「天皇の地位保障が入ってない点は厳しいが、全体としては悪意に満ちた内容ではない。この宣言は受諾すべきだ」というものであった。

「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得らしむべし」、「吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又国民として滅亡せしめんとする意図を有するものに非ず」などの箇所は、グルーとドーマンが心血をそそいで書き上げた文章である。

東郷外相が「これは受けるべきだ」と判断した大きな理由は、「吾等の条件は下記の如し」の箇所である。「これはあきらかに無条件降伏を求めたものではない。条件付きの講和を求めた宣言である。ドイツに比べてさほど苛酷なものではない。天皇の地位保障は記載されてないが、アメリカはこれを認める腹ではあるまいか」老練の外交官・東郷はそう直感した。

外務次官の松本俊一は、「がんらい無条件降伏というのは一種の言葉の遊戯であって、停戦交渉にはかならず何らかの条件があるものだ」との考えを持っていた。この宣言文にも「無条件降伏」という表現は、第13条の「日本国軍隊の無条件降伏」と、軍隊においてのみ用いられているのを読んで、自分の見解に自信を持った。すなわち、この宣言は「日本政府との条件付での降伏勧告文書である」と確信した。

このように、外務省はこの宣言を受諾するほかない、との意見ですぐさま一致した。しかし、案の定、陸軍から受諾絶対反対の声があがる。トルーマンとバーンズが天皇条項を削ったのは、この日本陸軍の反対を期待したうえでのことである。


受けるに受けられないように周到に細工された、このポツダム宣言を受け取った日本政府の立場は苦しいものであった。総理・鈴木貫太郎としては、天皇の地位保障が記されていないこの宣言をすぐに受諾するわけにはいかない。そうかといって、外相の言うことはわかる。これを拒否するのはよくない。この時の鈴木総理の正直な気持ちは、「ノーコメント」というのが一番近い。

ところが、「鈴木総理がこの宣言を黙殺した」との表現で、日本の新聞で報道された。AP通信とロイター通信は、これを「regect(拒否)した」、とアメリカ国民に伝えた。

有名な政治学者である東大教授の岡義武氏までが、戦後、「鈴木首相がポツダム宣言を黙殺したことが、広島・長崎への原爆投下につながった」と、ずいぶん見当違いの発言をしている。ただ、現在になって、岡教授を批判するのは適当でないかも知れない。

戦後間もなくの日本の「空気」は、「すべて日本の軍部が悪であった。アメリカは善であり人道的な国家である」との認識がとても強かった。いま一つは、現在の我々が読むことができる「50年間非公開の秘密情報」が、当時はまだ開示されてなかったことにその理由があると思う。

東郷外相






2021年4月5日月曜日

ポツダム宣言(2)

昭和天皇と鈴木貫太郎(20)

 ポツダムのトルーマン大統領から、電報で指示を受けたワシントンのマーシャル参謀総長は、「8月3日以降に原爆を投下せよ」との命令書の草案をつくる。これを知ったスティムソン陸軍長官は、再度まきかえしに動く。

「日本に対する通告の中に天皇の地位の保証を加えるべきだ」と、7月23日、24日の両日説得した。しかしトルーマンは、「この宣言に蒋介石を参加させるためにこの文書をすでに重慶に送ったから、いまさら修正はできない」と逃げをうった。スティムソンは帰国のため25日にポツダムを発つ。トルーマンとバーンズの二人が、宣言を発表する前に、うるさいスティムソンを追い返したというのが真相らしい。

ここで、老陸軍長官は最後の粘り腰をみせる。「日本側は天皇の問題一つだけで決断できないはずだ。文書に入れることができないなら、天皇の地位の保証を、外交ルートを通じて口頭で伝えるべきだ」と説いた。

「自分も考えていることだから、まかせてもらいたい」とトルーマンは答えた。

このトルーマンのひと言には、とても深い意味がある。そしてトルーマンは、このスティムソンとの約束を守ったともいえる。原爆投下のための二週間の時間稼ぎをしたあとで。


「天皇の存在を認めなければ日本軍は絶対に降伏しない」と、じつは、トルーマンもバーンズも考えていた。この時、二人を含むアメリカの政治家・軍部の上層部がもっとも恐れていたのは、100万の支那派遣軍が破れかぶれになることだった。

天皇の存在を否定した場合、中国大陸にいる100万人の日本陸軍はおとなしく降伏せず、毛沢東と手を結ぶ恐れがある。そうなれば、蒋介石の国民政府など一瞬で崩壊する。毛沢東が中国大陸を制圧してソ連と組み、日本もそのグループに入る。戦後の世界秩序を考えた時、アメリカにとってこれほどの悪夢はない。これを絶対に阻止しなければならない。

日本人のだれもが気付かなかったことだが、アメリカが天皇制を認めようと考えた理由の一つに、支那派遣軍が行った「一号作戦」の成功があった、と筆者は考えている。

いま一つ、筆者には以前からとても気になっていることがある。どの歴史家も触れていないことで、筆者自身の想像に過ぎないかも知れないのだが。

ずいぶん前に、「日本の一番長い日」という映画を見た。昭和20年8月14日の二度目の御前会議のあとの映画のシーンである。「国体の護持」を心配して、ポツダム宣言受諾に納得しない阿南陸軍大臣が、なおも発言しようとする。この時、昭和天皇が「阿南、もうよい。心配するな。朕には確信がある」と優しく諭す場面である。

もしかしたら、中立国のスイス経由で、このことが天皇に伝えられていたのではあるまいか。ただ、スイス駐在公使・駐在武官の残した記録には、一切触れられていない。私が読んだ史書のいずれにも、このことは触れられていない。


天皇条項の入っていないポツダム宣言を受諾する旨の電報を、日本政府が発信したのは、8月10日午前6時45分である。「帝国政府はこの共同宣言に挙げられたる条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるとの了解のもとに、右宣言を受諾する」と返電した。

これに対する8月11日の返答は、バーズ回答といわれるもので、次のような電文である。

「降伏の時より、天皇及び日本政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする」

婉曲ではあるが、天皇制の存続を否定していない。すなわち、二個の原爆を日本に投下するために、アメリカはこの天皇条項を二週間ほど隠していたのだと思う。


場所をポツダムに戻す。

7月26日、ポツダム時間午後9時20分。トルーマンは自分の宿舎に記者たちを集め、「ポツダム宣言」を発表した。

スティムソン・グルーの草案には共同署名国にソ連の名が入っていた。それを削り、中華民国主席・蒋介石の名を入れた。日本とソ連はかたちだけは中立状態にある。しかも日本は和平の工作をソ連に頼ろうとしている。しからばここではソ連の名は出さず、日本にソ連に対する期待感を持たせ続けるほうが、この宣言の受諾を遅らせるのに好都合だ、と二人は考えた。原爆投下に向けての時間稼ぎになるからである。

もちろん「天皇の地位の保証」は消してある。「原爆」の文字も、「異常な破壊力がある新兵器」との記載も避けた。

トルーマンとバーンズは、さらに念入りな細工をする。なによりも、この宣言が正式な外交文書と読み取られないように努めた。これも時間稼ぎのためである。正式な外交文書なら、米・英・支それぞれの利益代表国である中立国のスイス・スウェーデンを経由して日本政府に伝えなければならない。同時に返事の期限を示す必要がある。これらがなされていない。だれが見ても、宣伝文書にしか見えず、降伏を要求する正式な外交文書には見えなかった。

そして二人は、さらに念入りに細工をする。これを正式文書を扱う国務省ではなく、宣伝と広報を担当する戦時情報局に指示し、これを日本国民に伝えるべく対日放送せよと命じたのである。日本政府に対してではなく、日本国民全員に対する宣伝のかたちにしたのだ。

「日本政府がすぐに受諾しないように」と幾重にも小細工をほどこしたポツダム宣言は、このようして日本に向けて発信されたのである。

ポツダム宣言









2021年3月29日月曜日

ポツダム宣言(1)

 昭和天皇と鈴木貫太郎(19)

トルーマンとバーンズ一行を乗せた重巡洋艦オーガスタが、アントワープに到着したのは45年7月14日である。奇妙なことに、重要人物である陸軍長官スティムソンの姿はこの艦上になかった。

トルーマンとバーンズの二人が、当初、スティムソンをポツダム会談のメンバーからはずしていたからだ。天皇条項にこだわる彼の参加を嫌がったのだ。この条項を入れて日本がすぐに降伏したのでは、原爆投下が出来なくなる。

しかし、まもなく78歳になる政界の長老スティムソンは、この会談への参加を自分の最後の晴れ舞台と考えていた。このままでは男が立たない。彼はポツダムへ行くべく巻き返しをはかる。ちなみに、このスティムソンは鈴木貫太郎と同じ年齢である。

あるいは国務次官のグルーから、ポツダム行きを強く要請されたのかも知れない。この局面で、天皇条項の挿入を大統領に説けるのはスティムソン以外にいない、とグルーは考えたと思う。グルーを駐日大使に任命したのは、当時国務長官だったスティムソンだ。二人には深い信頼関係があった。13歳年長でハーバードの先輩でもあるスティムソンに、この時グルーは拝むような気持でいたのではあるまいか。

スティムソンはトルーマンに、なぜ自分がメンバーから外されたのかと問う。

「年齢ですよ。私は貴殿の過労を心配しているのです」とトルーマンは笑いながら答えた。

大統領がこのような言い訳をするだろうと、じつはスティムソンは予想していた。これに備えて、彼は合衆国軍医総監の健康証明書を手元に用意していた。これを出されたトルーマンは断るべき理由を失い、非公式での随行を認めざるを得なくなった。

この後のスティムソンの動きはじつに素早い。陸軍の高速輸送艦に乗り、重巡オーガスタより一日早くアントワープに到着している。次官補のマックロイを同行させた。


7月16日、日本の外務大臣からモスクワ駐在の佐藤大使に宛てた「天皇は速やかな戦争終結を望んでいる」との暗号電報を、ポツダムに着いたばかりの米首脳が入手したことは先に述べた。同じ日の午後7時過ぎ、「ニューメキシコでの原爆実験成功」の報がスティムソンのもとに届く。すぐさま大統領の宿舎を訪ね、トルーマンとバーンズにこれを伝えた。

この晩、同じ宿舎に泊まるスティムソンとマックロイは夜遅くまで語り合った。そして、「天皇条項を入れた通告をいますぐ日本に渡すなら、日本側にとってもぴったりのタイミングだ」と二人は考えを一致させた。翌日早朝、スティムソンはトルーマンとバーンズにこれを説いた。

「日本に今すぐこのような通告を出すことには反対だ」、二人はにべもなく断った。ルーズベルトが存命ならば、国務長官を一度、陸軍長官を二度つとめた政界の大物スティムソンは、この二人の田舎政治家など歯牙にもかけなかったはずだ。自分の主張をまったく聞こうとしない二人に、スティムソンは憤慨する。

スティムソンは共和党の議員で、共和党の大統領・セオドア・ルーズベルトに見いだされて立身出世した。彼が最初に陸軍長官になったのは第一次大戦前の1911年である。この頃トルーマンは父親と一緒にミズーリで農業をしていた。スティムソンから見たら、トルーマンもバーンズも、政治歴からしてもまったくの小僧っ子である。

ポツダム宣言の原案は、陸軍省と国務省の共同で作成された。具体的に言えば、弁護士出身の陸軍長官スティムソンと国務省のグルー、ドーマンの三人で草案を練った。そしてこれを清書したのは、大阪生まれで東京の暁星中学出身のドーマンである。

彼らは第12項に、「天皇の地位の保証」を入れた。だが、トルーマンとバーンズの二人がこれを削ろうとしていることに、グルーとスティムソンは強い危惧を抱いていた。


ヘンリー・スティムソン


2021年3月22日月曜日

マックロイと米軍首脳の思い

 昭和天皇と鈴木貫太郎(18)

大統領トルーマンはあわてた。それでも、なにげないそぶりで、以前にスティムソンに語り、グルーに語ったのと同じ台詞(せりふ)をくりかえした。

「君が語ったことは自分が求めていることの中にある」と。そして「その案をバーンズ氏と相談してもらいたい」と答えた。またしてもトルーマンは逃げたのだ。会議書記の陸軍准将・ファーランドは、だれの指示を受けてのことか、マックロイの提案とトルーマンの応答を議事録から削除した。

それではなぜ、後世の我々がこれを知ったのか。アメリカ人のだれからも好かれたマックロイは、89年に94歳で亡くなった。マックロイと戦争中からずっと親しかったジェームズ・レストンというNYタイムズの大物記者がいた。引退したレストン氏が回想録の執筆に取りかかった時、マックロイの息子と娘が訪ねてきて、父が書き残した6月18日の会議での発言記録を彼に手渡したからである。「レストン回想録」は92年に発刊されている。マックロイとレストンは家が隣どおしで、家族ぐるみのつきあいをしていた。

このマックロイはハーバードの卒業であるが、かならずしも裕福な家庭の出身ではない。友人のレストンは、回想録の中で次のように語っている。

「マックロイは困った立場にいる人にとって、いわば磁石のようなものだった。率直で、勇気があり、快活で、人の意見を聞き、どのようなことでも、相手の立場に立って親切に解決する能力があった。生まれは貧しかったが、人生の大半を富者として暮らし、貧者と富者の双方の気持ちが理解できた。六歳で父親を失い、しっかり者の母親にペンシルベニアで育てられた。母は美容院を営み、マックロイがハーバード大学に合格すると、母親もボストンに転居してマックロイの面倒を見た」


マックロイ以外にも、ラフト・バードという海軍次官の言動にも心温まるものを感じる。この人は元シカゴの金融家である。原爆を使わなくても日本は降伏すると考えていたバードは、6月27日にスティムソンに次のような書簡を送っている。

「日本に対して原爆を投下する場合は、数日前に警告を出すべきと思います。この数週間で、日本が降伏の機会を探っているのは確実です。予定される三首脳会談(ポツダム会談)後に、我が国の使節が中国の沿岸部で日本の代表と会い、天皇の地位を認めることを含めて、降伏の条件を丁寧に説明することが大切です。このアクションで我が国が失うものは一つもありません」

海軍次官のバードは、大物陸軍長官のスティムソンが、トルーマンに対してまだ強い影響力を持っていると考えていたのだ。しかし、この書簡を受けたスティムソンにはこれを実行する権限はなく、バーンズの助言通り原爆投下を決心していたトルーマンに対して、それを変更させるだけの影響力もなかった。アメリカ合衆国の軍の最高指揮官は大統領なのである。

文官・武官を含め軍の上層部の多くが、原爆の使用に対して消極的で不快感を持っていたということが、あちこちの記録に見える。これはあながち、原爆投下のうしろめたさから逃げるための、彼ら自身の自己弁解ではない気がする。本心のように思える。

スティムソン陸軍長官の日記には次のようにある。

「ポツダムで原爆実験の結果について話している間に、アイゼンハワー将軍の気持ちが沈んでいくのを見た私は、つい心に思っていることを口に出した。つまり、日本はすでに敗北したようなものであるから、原爆の使用は必要ないと思うと。これに対してアイゼンハワーは、日本は今やなんとか面目を失うことなく降伏する道はないかと求めているのです、と答えた」

マックロイ陸軍次官補の日記には、「マーシャル参謀総長の考えは、まずこの兵器を海軍基地のような軍事目標に対して使い、それで成果がなければ、避難通告を出したうえで大工業地帯に投下するというものであった」とある。

統合参謀本部議長のウイリアム・レーヒー海軍元帥は、ルーズベルトから厚く信任された穏健派の提督である。この人の原爆に対する見方は異色であった。原爆に対しては最初から強い嫌悪感を持っていた。原爆の開発製造計画を知った時、「あんなものは科学者の妄想だ。爆発なんかするものか」と鼻で笑っていた。原爆実験が成功したあとでも、「原爆は一般市民を殺す。ハーグ条約・ジュネーブ議定書で禁止されている毒ガスや細菌兵器となんら変わらない。こんなものを使ってしまうと、アメリカの倫理は野蛮人と同じになる。合衆国の名誉のためにも絶対にこの爆弾は使うべきでない」とトルーマンに直接忠告している。

ニミッツ提督は戦後こう語っている。「日本との戦いは原爆で勝ち取ったものではない。原爆投下の前から日本は講和を模索していた」

太平洋方面の陸軍の総司令官であったマッカーサー元帥は、広島・長崎に原爆を投下するにあたって、何ら意見を求められていない。戦後マッカーサーは、「日本はほぼ敗戦を認めていた。原爆投下はまったく必要なかった」と語っている。マッカーサー付きの輸送機のパイロットだった人は、「将軍は原爆投下の後、何日もふさぎ込んでいた」と証言している。


思うに、これらアメリカ軍を率いていた将軍や提督は、日本に対する敵愾心は強かったものの、心の底に、中世の騎士的な精神を持っていたのではあるまいか。ひきょうなやり方での勝利はアメリカの名誉のために避けたい、との気分が強く感じられる。

しかし、トルーマンとバーンズの二人の文官は、原爆投下に向けてまっしぐらに突き進む。


ジョン・マックロイ






2021年3月15日月曜日

快男児・マックロイ

 昭和天皇と鈴木貫太郎(17)

私は長い間、広島・長崎への原爆投下を主導したのは陸軍長官のスティムソンだと思っていた。理由の一つは、彼が原爆開発を決めた時の6人メンバーの一人だったこと。いま一つは、戦後、「原爆投下しなかったら、さらに100万人のアメリカ兵が死んだはずだ」と国内向けに、原爆投下の正当性をうったえた、と聞いたからである。

今回、鳥居先生の著書や戦後50年を経て公開されたいくつかの機密文書を読んで、この認識は誤りであると知った。スティムソンは陸軍長官であるが、イエール・ハーバード両大学を卒業したアメリカを代表する国際派弁護士でもある。原爆の完成が近つ"くにつれて、彼は原爆の使用は戦時国際法に違反するのではないか、との懸念を持つようになった。

原爆投下の強硬な推進者は、民主党の文官であるトルーマンとバーンズの二人であった。これに同調したのが、同じく民主党の文官で開戦時の国務長官だったコーデル・ハルである。

陸軍・海軍の制服組の首脳が、原爆投下に関し意外に消極的というか、多くの人がこれに嫌悪感を持っていたことを知り驚いている。同時に、国務省のグルーやドーマン以外にも、陸軍次官補・マックロイや、海軍次官・バードのように、日本への原爆投下を何とかして避けたい、と懸命の努力した軍の文官がいたことを知った。この事実に、日本人としてわずかではあるが心の安らぎを感じている。

45年6月18日、ワシントンで軍の重要会議が開かれた。大統領・陸軍長官・海軍長官・参謀総長・軍令部総長・統合参謀本部議長・陸軍航空隊の大将が出席した。もう一人、場違いと思われる低い官位の人物が参加していた。陸軍長官・スティムソンの右腕で、50歳の陸軍次官補(武官でいえば少将クラス)のジョン・マックロイである。

弁護士出身で、第二次大戦後に初代の世界銀行総裁になるこの人は、ハーバード法学部卒業の人格者で、かつ正義感が強かった。孤軍奮闘していたグルーにとって、この15歳年下の大学の後輩は、いわば自分の分身ともいえるほど考え方が一致していた。

スティムソンは、自分やほかの高級幹部が口にできない雰囲気の原爆使用の問題を説くには、むしろ官位の低い人物のほうが良いと考えたのかも知れない。あるいは、一緒に仕事をしているうちに、老練の陸軍長官は28歳も年下のこのマックロイの正義感・人道主義に影響を受けたのかもしれない。

この半月前、バーンズは原爆開発にかかわった科学者を集めて会議をとりしきり、「できるだけ早く日本に対して原爆を投下する」「目標は都市とする」「事前警告はしない」との三原則、いわゆるバーンズ・プランを決定していた。科学者の一人が、「事前警告をしたほうが良いのでは」と発言した。「馬鹿なことを言うな。そんなことをしたら日本は公表した都市にアメリカ人捕虜を移すにちがいない」とバーンズは一喝してこの発言を抑え込んだ。


マックロイは、このバーンズ・プランに代わる案を説いた。というより、これに対して反論したのである。マックロイの考えの底にあったのは、「アメリカ合衆国の正義と名誉」であった。

「今すぐ、大統領が日本の天皇にあてて強硬な通達を送るのが望ましいと思います。すなわち、アメリカが圧倒的に軍事力優位にあることを伝え、日本政府に正面から降伏を求めるべきです。そしてこの通達の中で、戦後において日本が国家として存続する権利を認めることを明らかにすることです。すなわち、天皇の地位の継続を認めることです。このような申し入れをしても日本が降伏しない場合は、アメリカは革命的な威力を持つ、一つの都市を一撃で破壊できるほどの恐ろしい兵器を所有しているのだと明かすべきです。なおも降伏しないなら、これを使用せざるをえないと通告すべきです。なにも通告しないで、いきなりこの恐ろしい兵器を使用するのは、合衆国の正義と名誉を汚します」

このマックロイの正面きっての発言に、言いたくても言えない雰囲気の中に置かれていた軍の最高幹部のすべての顔に、驚愕の色が浮かんだ。


ジョン・マックロイ