2026年2月24日火曜日

王維・李白・杜甫の小伝

 シルクロードのものがたり(96)

唐代のシルクロードの詩を紹介する前に、盛唐の三傑ともいえる王維・李白・杜甫について、自分が感じている人物像を語ってみたい。私には三人の詩そのものについて評論する学識はない。「人柄と各人の雰囲気」といった視点で、三人のことをお話ししたい。


王維(701-761)

私が一番好きな盛唐の詩人は王維だ。一緒にお酒を飲むとすればこの王維と飲みたい。人物が誠実で、かつ人柄に艶(つや)があり、おとこ気もある。安心して楽しい酒が飲めそうな気がする。李白は皇帝の呼び出しにも応じず仲間と酒を飲んでいた人だ。その強烈すぎる個性に圧倒されそうで、気が進まない。杜甫は陰気くさく、旨い酒が飲めそうにない。

王維の母親は篤い仏教信者で本人も仏教に帰依している。三十歳のころ妻を亡くし生涯独身で通したというから、当時としては珍しい。名門の出で、父・母の親族から何人かの宰相が出ている。本人も二十歳で進士に及第しているから超エリートだ。それでいて、威張ることのない優しい親切な人柄で、兄弟仲も良かった。

12歳年長で、田舎の山中から都に出てきた貧乏な野人・孟浩然を慕い、役所の実力者への紹介や経済的なサポートなど、なみなみならぬ援助を行っている。三分の侠気というか、漢気(おとこぎ)を感じさせる人物だ。四百年前の賢人・陶淵明を尊敬し、再び世の人々に広く知らしめたのは王維だといわれる。どの学者も言ってはいないが、陶淵明の偉大さを王維に教えたのは、孟浩然ではあるまいかと私はひそかに思っている。

安碌山の乱では逃げ遅れて捕虜になった。脅迫されたとはいえ、安禄山政権の官職に就いたので、後日、玄宗皇帝が復権したときこれが問題となり、反逆罪で死刑になる可能性があった。多くの友人たちの助命運動により、同時にのちに宰相になる弟の王縉(おう・しん・この人は82歳の長寿を得ている)が兄を助けるため自分の官職を捨てるという行為により、本人はわずかに官位を下げられただけで復権している。

この事件をのぞけば、王維の人生は全体としては平安で、大きな左遷や失脚もなく天寿をまっとうしている。杜甫も同じように安禄山の乱で逃げ遅れているが、王維のような進士合格のエリートではないので、安禄山政権からの官職への誘いはなかった。


李白(701-762)

李白は天才、という説にはまったく同感だ。生年は王維と同じで、没年は王維より1年遅い。王維の人柄に仏教の香りが感じられるのにくらべ、李白には道教の匂いを感じる。

余に問う 何の意ぞ碧山(へきざん)に棲(す)むと

笑って答えず 心自(おのず)から閑なり

桃花流水 杳然(ようぜん)として去る

別に天池の人間(じんかん)に非ざる有り

この「山中問答」には、道教の匂いが特に強い。

李白の氏素性ははっきりとはしない。父親の名前も残っておらず、西域から中国にやってきた商人の息子だといわれている。じつは、玄奘の『大唐西域記』の中に、現在のキルギス・タジキスタンあたりに「中国から亡命した漢人三百家族が住む村がある」との記述がある。玄奘がここを通過したのは、李白が生まれる70年ほど前である。

現在の中国では「李白は西域に移住した漢人の家に生まれ、幼少のころ裕福な商人であった父と共に蜀の国(四川)に住みついた」というのが有力な説らしい。これによって、以前いわれていた漢人ではなく西域の人種という説は否定されている。李白が西域にまつわる詩を多く残しているのは、その出生によるのかも知れない。李白にくらべると、杜甫の詩の中には西域に関係する詩は発見できない。もっとも、私が読んだのは千四百あるといわれる杜甫の詩のほんの一部だから、丁寧に読めばあるのかも知れないが。


杜甫(712-770)

杜甫は貧乏して苦労した人という印象を我々は持っている。潭州(湖南省長沙市)から岳州(湖南省岳陽市)を経由して故郷に向かう途中、59歳で舟中で病死した。息子にはその亡骸(なきがら)を700キロ北方の郷里、洛陽の東の河南府鞏県(現在の河南省鄭州市)に運ぶ資力がなかった。

杜甫の死後43年を経て、孫の嗣業(しぎょう)という人が辛苦して金をつくり、その遺骨を郷里に運び先祖の墓地に葬ったという。

中唐の詩人に元稹(げん・しん・779-831)という人がいる。白居易(白楽天)の親友で唐詩においては関脇クラスの人だ。当時この人は江陵(湖北省江陵県)に左遷されていた。孫の嗣業が移葬の途中、杜甫の遺骨を背負ってこの人の自宅を訪問して、墓石に彫る銘文を依頼した。杜甫を尊敬していた元稹は、その名誉に感激しながら文章を練ったという話が残っている。

この元稹という人は、科挙試験では白居易と同期で、元稹が一番、白居易が四番で進士に合格したと記録にある。役人・政治家としては元稹のほうが出世して、短期間ではあるが元稹は宰相を勤めている。ただ、詩人としては白居易がだんぜん上で、白居易が中唐詩壇の横綱とすれば、元稹は関脇クラスであろう。

関脇だ、大関だと、私は無責任に言っているが、唐代の高級官僚は全員が漢詩をつくった。唐王朝三百年を合わせると、何万人、何十万人もの科挙試験合格の高級役人がいたはずだ。その中で『唐詩選』に選ばれている作家は128人にすぎない。これを考えれば、これら全員が横綱クラスと言うのが正しいのかもしれない。そのような判断をすれば、この元稹も横綱である。


貧乏ではあったが、血統・家柄からすると、杜甫は唐の詩人の中でも飛びぬけた名門の出身である。名門出身の王維ですら、とてもかなわない。

父方の祖父・曾祖父・それ以前の先祖たちの中には、唐・西晋、さらにさかのぼって漢の時代に、当時の歴史に名を留めた官僚・学者・将軍が何人もいる。かたや、母親(崔・さい氏、崔氏は唐代の超名門)の父(杜甫の祖父)は唐の初代皇帝高祖・李淵の曾孫にあたり、母親の母(杜甫の祖母)は二代皇帝太宗・李世民のこれまた曾孫であるというから、ただごとではない。

杜甫には「春望」という有名な詩がある。「国破れて山河あり」のあの詩である。長安が安禄山の軍隊に占領され、杜甫はその賊軍の虜(とりこ)になった。唐王朝空前の国難の中で書かれた憂国の詩だ。杜甫が初代高祖・二代太宗の血を引く人だと知っていると、この詩をより深く味わうことができると思う。

李白は洛陽での宴会の席で、ひとまわりほど年下の杜甫に会った。すでに天下の大詩人の名声を得ていた李白が、末席で小さくなっている無名の貧書生の杜甫に声をかけた。「おい杜甫君、こっちに来いよ。一緒に飲もうではないか!」と呼び寄せたといわれる。それ以来、李白は杜甫を可愛がり、二人で一緒に一年以上も旅に出たりしている。杜甫の詩才を愛したのがその理由であろうが、名門に対する憧れの気持ちが強かった李白が、杜甫をあれほど可愛がった理由だと説く学者もいる。

『唐詩選』という書物は、明代の李攀竜(り・はんりょう・1514-1570)が編纂したもので、全部で465首が収録されている。ちなみに掲載数の多い詩人の四傑は次の通りである。杜甫51、李白33、王維31、岑参28。










2026年2月18日水曜日

シルクロードにまつわる漢詩

 シルクロードのものがたり(95)

「シルクロードのものがたり」と題し、長いあいだ掲載してきた。おしまいに十回ほど、西域をテーマにした漢詩を紹介してこのシリーズを終えたいと考えている。読者の多くはもの知りなので、私がつたない文章で紹介する必用はないのかも知れない。自分自身がこれらの西域詩を楽しみたいという気持ちで、少しばかり紡いでみたい。


中国が西域に勢力を大きく拡大するのは、漢の武帝以降である。よって、漢・魏晋南北朝・唐と歴史の流れに沿って紹介するのが自然ではあるが、私は唐詩からはじめたいと考えている。

理由は、西域をテーマにした詩には「悲しい詩」があまりにも多いからだ。漢代から魏晋南北朝時代の詩は、読んでいて悲しくてやりきれない。心が沈みそうになる。

その点、唐代の詩にも悲しい詩は多いのだが、それでも王維や李白の詩の中には「はつらつとした気持ちの良い詩」がいくつか見える。また、王翰(おう・かん・687-726)・王之渙(おう・しかん・696-?)・岑参(しん・じん・715-770)のように、「涼州詞・りょうしゅうし」や「辺塞詩・へんさいし」といわれる詩の分類で、西域をテーマにした魅力的な詩がいくつもある。

このような理由で、時代的には西域詩の後半に位置する「唐詩」から先に入り、そのあとで漢・魏晋南北朝の詩をいくつか取り上げたいと考えている。唐詩といっても西域をテーマにした詩は「盛唐」に多い。この頃、中国が西域に勢力を大きく拡大したからである。


私は漢詩については素人で、自分でつくることはできない。ただ、高校時代から漢詩が好きで自分なりに読んできた。陶淵明・魏徴・王維・白居易・杜牧・蘇軾・陸游が特に好きだ。これらの人たちに師匠・兄貴分・お友達のような尊敬と親しみを感じ、今まで各人の詩を楽しんできた。

特に陶淵明と蘇軾の二人は自分の「人生の師匠」のような気持でいる。「お友達」として特に大切にしているのは王維と白居易の二人である。





2026年2月9日月曜日

玄奘三蔵の話(6・完)

 「長安での二十年」(3)

シルクロードのものがたり(94)

二代太宗皇帝(李世民)が崩御するのは貞観23年(649)の5月である。よって玄奘が太宗に仕えた期間は4年5ヶ月と短い。それ以降の15年間は、三代高宗に仕えるのだが、玄奘を強くサポートしたのは高宗以上に皇后、のちの則天武后であったことがいくつもの史書から読み取れる。

武后の母親は熱心な仏教徒であった。武后が長男(のちの中宗・李顕)を出産するときには玄奘に袈裟を贈りお経を読んでもらっている。また玄奘が亡くなったあと、彼を祀るために武后は長安と洛陽に仏光寺を建立している。高宗が太宗よりも仏教への信仰が篤かったのは皇后の影響だといわれている。この則天武后の玄奘に対する尊敬の気持ちは、日本における持統天皇の僧・道照(玄奘から直接教えを受けた日本人僧)に対する崇拝の念によく似ている。

高宗が即位して8年目の659年、玄奘は帝に随行して洛陽を訪問している。このとき故郷の陳留(ちんりゅう)に帰省して親戚や知人の消息を尋ね歩いたが、その多くが死んでいた。ただ河北省に姉が生存していることがわかり、姉を迎え一緒に両親の墓を参拝した。しかし墓は荒れ果てていて、掃除をしたものの、両親に申し訳なく新しい墓をつくることを決意する。

先に長安に帰っていた高宗に、長安への帰京が遅れる旨の手紙を出した。すると高宗から許可と共に改葬費は官費で支給するという返事が届いた。これらの配慮も、武后が高宗に進言したものだと私は考えている。

このとき彼は実家の東方の山中にある少林寺を参拝している。玄奘は達磨と縁の深いこの少林寺がよほど気に入っていたようだ。十余年前に太宗にお願いして断られた少林寺での翻訳を、あらためて高宗に願い出ている。しかし高宗もまた、玄奘の心境を察しながらも、これに同意しなかった。玄奘を自分の手元に置いておきたいとの気持ちは、太宗と同じであった。


今までこのシリーズで、則天武后についてポツリポツリと断片的に語ってきた。「日本一の外交官・粟田真人」の箇所でも述べた。「玄奘三蔵の話」を終えるにあたり、もう一度この女性皇帝に登場していただく。

唐代前半の仏教についての本を読んでいると、この則天武后という女傑が巨大な存在として私の眼前に迫ってくる。「呂公・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」「英知・残虐性とも超弩級」「中国史上最大の権力者」などの悪口だけでこの人を判断するのは間違いである気がする。則天武后が悪女・悪婆の見本のように言われるのは、宋代に書かれた『新唐書』『資治通鑑』の偏見であると主張する学者が多い。同感である。私は、この則天武后という人は中国史上まれにみる偉大な指導者であったと考えている。

人は権力を持つと、甘い言葉でお世辞を言う部下を好む。則天武后という人は朱敬則(しゅ・けいそく)という役人を含め、正論をもって彼女に厳しく諫言(かんげん)する者を引き立てたという。これはとても珍しい。奸佞(かんねい)のお世辞で道を誤る権力者が多い中で、これだけをもってしても、この女性皇帝はただならぬ人物であったと考える。


唐という王朝(618-907)は建国以来仏教を大いに保護した王朝である、と私は思っていた。ところが最近になって、この認識はかならずしも正しくないことを知った。

初代高祖・李淵、二代太宗・李世民、三代高宗・李治の時代にあっては、「道先仏後」が唐王朝の宗教に対するスタンスであったことを知ったからである。すなわち、道教が第一、仏教が第二という考えである。なぜそうであったかというと、唐王朝の祖である李淵が、建国早々、天下の人民に対して「自分の先祖は老子様(李耼・りたん)である」と大見栄を切ったことによる。老子・荘子は道教の祖だといわれている。

太宗・高宗の両帝から尊信を受けた玄奘三蔵は、その臨終にあたって、国の宗教を「先仏後道」にすることを懇願したものの、聞き入れられなかった。

太宗が道教に思い入れが強かったことを示す興味深い話がある。『大唐西域記』が完成した翌年の647年、太宗は玄奘に『老子・道徳経』のサンスクリット語訳を命じている。太宗はこれをインドへの使節に持たせようと考えていた。しばらくして太宗は崩御したので、これが完成したかどうかは定かではない。太宗という人は、老子の思想は仏教と張り合えるだけの価値があると考えていたようだ。

老子(李耼・BC571-BC470頃)は実在の人物らしいが、なぞの多い人だ。実在の人物だとしても李淵(AD566-AD635)から見て千年以上も昔の人だ。姓が同じだからといって「俺の先祖は老子様だ」というのはかなり無理がある。


じつは、この「道先仏後」のスローガンをひっくりかえし、「仏先道後」すなわち仏教が第一で道教が第二、としたのが則天武后であったことを、私は最近になって知った。これを知って、自分がこの20年間不思議に思いスッキリしなかったある出来事が理解できた。

それは『続日本紀』の、文武天皇の慶雲(きょううん)元年(704)の次の記述である。

秋7月1日、正四位下の粟田(あわた)朝臣真人(まひと)が、唐から大宰府に帰った。初め唐に着いた時、人がやってきて「何処からの使人か」と尋ねた。そこで「日本国の使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、答えて「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて「以前は大唐であったのに、いま大周という国名にどうして変わったのか」というと、答えて「永淳2年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后・則天武后)が即位して、称号を聖神皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。

粟田真人は50年前に8歳で入唐している。70年以上も続いた唐という国号が、三代皇帝の崩御だけが理由で突然、周という国号に変わったことが納得できなかたはずだ。「どのような理由で国号を変えたのか?」と真人はくいさがって質問を続けたに違いない。しかし、この地(現在の江蘇省の海辺の町)の下級役人は答えることができなかったようだ。『続日本紀』の記述はこれで終わっている。

私もこのことを長い間不思議に思っていた。なぜ則天武后は唐という国号を廃し、周という国号に変えたのか。かなり意識してこの20年間唐代の史書を読んだのだが、答を得ることができないでいた。

私は今、次のように考えている。

「中国の宗教に関する国是を”道先仏後”から”仏先道後”に変えるには、どうしても唐という王朝を一度つぶす必要がある」 みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりだと信じ、仏教を中心にした国造りが最重要だと考えていた則天武后は、こう考えたのではあるまいか。

中国史上二度目となるこの「周」という王朝は、690年から705年まで中国大陸に存在した。このとき都は長安から洛陽に遷都されている。すなわち、唐王朝は西紀690年にいったん滅亡したことになる。歴史家はこれを「武周革命」と呼んでいる。その後、則天武后の崩御とともに、国号はふたたび「唐」にもどっている。


玄奘が没したのは664年、満62歳であった。当時としてはかならずしも短命ではないが、唐代の僧侶の中には80代・90代の人が何人もいるので、長命とはいえない。趙州(じょうしゅう)という僧侶は大暦13年(778)の生まれで乾寧4年(897)9月29日に没している。享年百二十。本当かなと思い、丁寧に調べてみたが、どうも本当のようである。

玄奘は悪寒と高熱をくりかえす「冷病・れいびょう」という病に冒されていた。現在の病名だとマラリアらしい。インドで感染したと思われる。満32歳で亡くなったアレキサンダー大王の死因もこのマラリアだといわれている。満62歳で亡くなられたのではあるが、玄奘という人は、普通の高僧の千年分くらいの仕事をされた方のように思える。








2026年2月2日月曜日

玄奘三蔵の話(5)

 「長安での二十年」(2)

シルクロードのものがたり(93)

じつは、玄奘には各種仏典の翻訳よりも先に、急いでやらなけらばいけない大仕事があった。せっかち皇帝・太宗からの命令である、玄奘が西域やインドで見聞したことの皇帝への報告書『大唐西域記』の完成である。

この書物は、地理誌・風土風俗誌として正確であると同時に後世の文学に与えた影響がとても大きい、と高く評価されている。私の手元にあるのは、平凡社版、中国文学大系『大唐西域記』で、大型版326ページの大冊である。原典は全12巻でこの数倍以上のボリュームだと聞く。

本書に由来する逸話のいくつかが『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に収められていることからして、奈良・平安時代から日本人がこの書物を熱心に読んでいたことがわかる。そして、なんといっても明代に呉承恩によって書かれた『西遊記』こそ、この書物あってこその作品といえる。

この『大唐西域記』の筆者についての表記は、他の書物に例を見ない珍しい書き方である。原典には、「三蔵法師玄奘奉詔訳、大総持寺沙門弁機撰」とある。「奉詔・ほうしょう」には「天子の命令を承ること」の意味がある。不思議に感じるのはその次の「訳」という文字だ。現在の感覚だと「著」とするのが自然だと思うが、「訳」には「翻訳」という意味と同時に「記述する」という意味があったようだ。「撰」には「詩や文章を作成する、または多くのものの中から選び出す」という意味がある。

手元にある平凡社版の『大唐西域記』には、「玄奘訳、弁機撰、水谷真成訳」とあり、「訳」の文字が二度使われている。水谷真成氏は1917年生まれで1995年没、京都大学に学び名古屋大学で教授をされ、これを中国語から日本語に翻訳された方である。


玄奘が長安に帰国したのは、先述したように645年1月6日である。日本では大化の改新の年だ。膨大な分量の、しかもきわめて正確と評価の高いこの書物が完成したのは646年7月だ。すぐさま太宗に献上された。これほどの大作がわずか1年半で完成している事実に、驚きを超えて不思議な思いがしている。

なぜこれほどの短期間で、これだけの分量の正確な書物を完成させることができたのか。この方面の研究者は次のように語っている。「玄奘は16年間の間に書いたメモや地図など大量の資料を保管していた。これらを弟子の弁機(べんき)に渡し、弁機がこれを整理して玄奘がそれを監修した」

おそらく弁機は、これらのメモを単に整理して清書したのではなく、不明な点はいちいち玄奘に問い質したのであろう。同時に玄奘の勘違いを防ぐために、第三者の資料も活用して正確を期したと思われる。いずれにしても、弁機という人は並外れた才能の持ち主であった。


ところが、この弁機については不明なことが多い。

この人の生年は620年、没年は648といわれる。ということは、満27~8歳で亡くなっているのだ。645年に中国にもどった玄奘は43歳であった。後日『玄奘三蔵伝』を書く慧立(えりゅう)は30歳、このとき弁機(べんき)は25歳である。優秀であったので、玄奘はこの若者に白羽の矢を立てたに違いない。弁機はその期待に十分に応えた。その彼が、この書物の完成の1~2年後に、「腰斬」という胴体を腰からまっぷたつに切るという残酷な刑によって死刑に処せられたのである。

処刑の理由は尋常ではない。太宗皇帝の第十七皇女であり、宰相・房玄齢の次男である房遺愛に降嫁していた高陽公主という女性と、不義密通を犯したというのである。僧侶の不倫ということで極刑に処せられたのだという。

讒言(ざんげん)説もあるが、私が知るかぎりではこれは事実であったと思われる。夫の房遺愛という人は宰相の父親に比べると凡庸でおそまつな人物で、結婚当初から夫婦仲は冷えていた。弁機とこの女性の関係は、645年に彼が『大唐西域記』の執筆にたずさわる以前からだという研究者もいる。私もそのように感じる。20代前半の弁機にくらべて女性のほうが年齢が高かったと思われる。弁機から手を出したとは考えにくい。女性から弁機に対して積極的なアプローチがあったように思え、私としては弁機に同情している。

ただ、この事件についての玄奘のコメントは何も残っていない。弁機の兄弟子にあたる『玄奘三蔵伝』の筆者・慧立も何の記述も残していない。






2026年1月26日月曜日

玄奘三蔵の話(4)

「長安での二十年」(1)

 シルクロードのものがたり(92)

玄奘が敦煌に着くと、太宗皇帝からの手紙が届いていた。それには、ホータンからの運搬費をすべて敦煌の役所が支払うこと、近く高句麗に遠征するので自分はしばらく国を離れること、しかし不在であっても宰相の房玄齢(ぼう・げんれい)に手厚く迎えるよう命じてある、等が書かれてあった。

じつは、太宗は玄奘がホータンから奉じた書面を見る前に、すでに玄奘という僧がインドから中国に向かって帰国の途にあることを知っていた。インドの戒日王(ハルシャ・ヴァルタ)が玄奘法師との出会いに感激して、玄奘がインドを出発した直後に、唐に国交を求めて使節団を送っていたからである。チベット経由の最短コースであったので、インド王からの国書のほうが玄奘の上奏文よりも早く長安に届いていた。インド王の文書には、当然ながら玄奘のことがべた褒めされていた。

本当のことを言うと、「隋王朝と違い唐王朝は長期の政権になると思われる。よって唐と国交を樹立しておくことはインドにとって得策である」と戒日王にアドバイスしたのは、ほかならぬ玄奘自身であったことが前後の動きからして読みとれる。この行為は、仏教を学ぶ一学僧の域を超えている。あきらかに、辣腕外交官・政治家の発想であり動きである。

太宗からの手紙を読むや、玄奘は長安への帰国を急ぎに急いだ。敦煌から長安までの距離は1650キロある。通常はこのように大量の荷物を持っての移動は、1日に30キロとされている。単純に計算すると56日を要することになる。ところが玄奘は、22頭の馬に経典を積み、各馬を疲れていないフレッシュな新馬に20回も取り換え、1日に60キロの移動を強行させ、半分の30日をもって長安城外に到着したのである。

貞観19年(645)の正月6日の夕刻であった。到着があまりにも早かったので、宰相・房玄齢の出迎えが間に合わなかったといわれている。これほどまでに玄奘が帰国を急いだのは、太宗が高句麗遠征に出かける前に拝謁して、仏典の翻訳に関して国家援助の確約を取っておきたかったからである。


玄奘と対面した太宗は上機嫌であった。しかし、皇帝は玄奘に対して二つの難題を突きつけた。一つは、「還俗して俗人にもどり、朕を補佐してほしい」との依頼である。太宗という人は好奇心旺盛で積極的な気質の人だったようだ。かつて漢の武帝が、豪傑外交官の張騫や蘇武を見たのと同じような目で、太宗はこの玄奘を見ていたことが感じ取れる。いま一つ、太宗は、「しばらくすると自分は東方へ遠征する。自分に同行して、毎夜西域での珍しい見聞を聞かせてくれ」と要請している。

この二つを、いずれも玄奘は体よく断っている。それでいて、太宗から嫌われていない。かつて、玄奘は高昌国やインドにおいて国王の依頼を断ったものの、両王様から嫌われていない。これと同じことが太宗とのあいだにも見ることができる。不思議な能力を持っていた人だ。

玄奘は王様や皇帝に対して、はっきりと自分の考えや希望を述べている。だからといって、かたくなに自己主張を続けるという態度ではない。相手に歩み寄れることであれば、柔軟性をもって譲歩している。たとえば次のような出来事があった。

インドから持ち帰ったサンスクリット語の経典は657部もあり、これを翻訳することが玄奘の後半生の最重要の仕事である。この翻訳作業に没頭するには、人里はなれた僻地が良いと考えた玄奘は、自分の故郷である洛陽の山中にある「少林寺」が最適だと太宗に希望を伝えた。「面壁九年」の達磨(だるま)大師と縁の深い古寺である。自分の故郷であり、同時に中国仏教の聖地でもある洛陽の山中の寺ということが、玄奘の心にかなったのであろう。

しかし、これに対して太宗は異を唱える。「いや、あの山中は遠くてよくない。朕は母の供養のために長安の静かな場所に弘福寺を建立した。ここを使用しなさい」と。太宗は玄奘を自分の手元に置いて、ひんぱんに西域の珍しい話を聞きたいと希望している。これを察知した玄奘は、すぐさま少林寺案をひっこめ、弘福寺案に同意している。

こうして弘福寺において3年、その後は大慈恩寺において16年、玄奘は遷化する一ヶ月前までの19年間にわたり、多いときには54名の翻訳者を使い、74部、1335巻の仏典の翻訳を完成させている。



2026年1月19日月曜日

玄奘三蔵の話(3)

「天竺から長安への帰路」

 シルクロードのものがたり(91)

ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王・かいじつおう)からの莫大な喜捨のおかげで、玄奘は今までに収集したものに加え、多量の仏典や仏像を購入することができた。多数の従者と共にインドを出発して北に向かった。戒日王の指示で、北インド王の軍隊が玄奘一行を護衛した。仏典や仏像の輸送は軍隊にゆだね、玄奘自身は美しく飾った象に乗って北へ進んだと記録にある。

644年のことだ。インドに滞在した期間は13年となり、このとき玄奘は42歳であった。

現在の世界地図でアフガニスタン最北端にあるクンドゥズで、玄奘一行は一か月滞在した。ここは戒日王の配下にある北インド王国の都である。ここで、高昌国の滅亡と国王・麴文泰の死を知った。玄奘の無念はいかほどであったことか。しかし、このことは『玄奘三蔵伝』には何も記述されていない。〇〇将軍と同じく、筆者の慧立が意識的に削ったのであろう。

高昌国に立ち寄ることができなくなった玄奘は、帰路のルートを変更した。長安までの距離が短いタクラマカン砂漠の南側を通る「西域南道」を選択している。すなわち、カシュガル・ヤルカンド・ホータン・ニヤを経由して敦煌(玉門関)に至るルートである。

カシュガルでの滞在は短い。『大唐西域記』では、「カシュガルの人の性質は乱暴で、俗は詭(いつわり)が多く、礼儀は軽薄で、学芸は浅はかである」と手厳しい。

次のホータン(和田)では、当時のクスタナ国の王様に暖かく迎えられ、この地に十ヶ月も滞在している。カシュガルよりもずいぶん印象が良かったようだ。『大唐西域記』には次のようにある。「クスタナ国(ホータン)は穀作(こくさく)に良く、いろいろな果実が多い。紡績・つむぎに巧みで人々の多くは木綿を着ている。また白玉や黒玉(注・崑崙の玉)を産する。俗は礼儀を知り、人の性格は温和で、好んで学芸に励む。人々は富裕で、家々は業に安んじている。仏教を崇敬し、伽藍百余ヶ所、僧徒は五千余人いる。大部分は大乗教を学習している」

玄奘が十ヶ月もこのホータンに滞在したのは、暖かいもてなしを受け居心地が良かっただけが理由ではない。この地で二つの大事な案件を処理している。これらを片つ”けるのには、たしかに十ヶ月程度は必要だったと思われる。

さきにインダス川を渡った際に、象が溺死していくつかの経典を紛失していた。クチャとカシュガルにお金を充分持たせた使者を送り、これらの経典を補充している。

いま一つは、さらに重要であった。国禁を犯して唐を密出国した玄奘は、太宗皇帝に詫びる必要があり、同時に唐への快い入国許可を得なければならない。さらに、可能であれば皇帝の援助を受けたい。太宗に対する上奏文をしたため、高昌国生まれの馬玄智という青年に託し、何名かのキャラバン隊を編成して長安に向けて出発させた。


このときの上奏文が残っている。

かなり長いものだが、太宗皇帝をその気にさせる見事な内容である。国禁を犯したことを詫びながらも、自己の行動の正統性を述べている。同時に自分がその目的を達したことを伝え、自分の仏教修行・仏典の収集・見聞した情報が、これからの唐にとっていかに重要かを述べている。私が興味深く思ったのは、太宗皇帝のことを褒めたたえ、たっぷりのお世辞を述べている点だ。皇帝とて人である。「人たらし玄奘」の面目躍如たるものを感じる。弘法大師空海が、桓武天皇や嵯峨天皇に上奏した文章もこれに似ている。

ごく一部を引用する。

「長安を出発して天竺に参りました。その間に通った所は五万里におよび、困難危険は山ほどありました。しかし天威(注・太宗皇帝の威徳)のおかげで、どこへ行っても道は開け、手厚い歓迎を受け、身も辛苦をせず、目的を達成することができました」

「今まで見たこともない仏跡を拝観し、聞いたこともない経典を聴聞し、全世界の不思議を見つくしました。各地では唐において太宗皇帝陛下の徳がゆきわたっていることを述べ、人々の陛下に対する思いを啓発してまいりました。こうして周遊すること17年、大河を渡り、パミールを越え、ホータンまで帰ってまいりました。ところが、連れてきた大象が大河で溺死したため、大量の経典を運搬することができません。そのためここに停まり、一刻も早く馳せ参じ、陛下に拝謁いたしたいのですができません。これ以上延期することは堪えられませんので、高昌国から来ている俗人に依頼し、商隊に随行させ上表分を奉り、ご報告申し上げる次第です」

これを読めば、太宗皇帝も悪い気はしなかったであろう。

返事が届くのに7ヶ月かかった。その間に玄奘はホータンの僧侶たちに仏教の講義をおこなった。聴講者は毎回千人を超えたという。太宗皇帝からの返書には歓迎の意が表されていた。

「聞くところによると、法師は遠く西域を歴訪し、いま帰還されたとのこと。朕は歓喜無量である。すみやかに帰国して朕と会見せよ。クスタナ国(ホータン)の僧で梵語や経典を解する者も自由につれて来られよ。朕はすでに沿道の国々に法師を保護するよう命じた。人足や駅馬も不足しないよう手配した。敦煌の役人にも流沙まで出迎えさせる」










2026年1月13日火曜日

玄奘三蔵の話(2)

「天竺でのできごと」

 シルクロードのものがたり(90)

玄奘は仏教を学び仏典を収集するためにインドに渡った。しかし、すでにその頃インドにおいては仏教は衰退のきざしを見せはじめていた。

宮廷の保護を受け、宗教としての存在感は保っていたものの、民衆のあいだではバラモン教に土着の信仰が加わったヒンズー教が勢力を拡大しつつあった。いま一つ、商人を中心にジャイナ教という宗教が存在感を増していた。このジャイナ教の信者は現在でもインドに500万人いて、日本の神戸にもジャイナ教の寺院があると聞く。どのような教義かは知らないが、中野にあるカレー屋のインド人オーナーに聞いたら、ジャイナ教の信者は菜食主義者だと言っておられた。イスラム教がインドに入るのは8世紀初頭というから、玄奘がインドに渡った80年ほど後である。

少し古いが2011年の統計によれば、インドの宗教概況は次のようである。ヒンズー教(79.8%)、イスラム教(14.2%)、キリスト教(2.3%)、シク教(1.7%)、仏教(0.7%)、ジャイナ教(0.4%) 仏教徒は少ないながらも、今なお滅亡せずに信者が残っている。ジャイナ教の2倍、約1000万人もの信者がいるそうで、他国のことではあるがなんだか心強く嬉しい気がする。


「玄奘がインドに入国したとき、仏教は衰退のきざしを見せていた」ということに、私は強い関心を寄せている。この事実が、玄奘に強い危機感を抱かせ、仏教の研究と仏典の翻訳に全力投入させるエネルギーとなったのだと思う。

同じようなことが、日本から仏教を学ぶために唐に渡った最澄・空海・円仁・円珍にもあてはまる気がする。最澄・空海が唐に渡ったのは803年だ。玄奘が長安に帰国した158年後である。じつはこの頃、唐においては、「大きく花開いた仏教は衰退のきざしを見せ始めていた」のである。最澄の弟子の円仁が入唐したのは839年、円珍は853年だが、この頃には「あきらかに廃仏の動きが中国内にあった」ことが円仁の『入唐求法巡礼行記』の中に読み取れる。

ただし、この廃仏運動に対する反発エネルギーなのか、この頃、黄檗・臨済・洞山・趙州といった骨太の大物禅僧が続出している。困難との遭遇によって人は偉大になるのかも知れない。そして、これら仏教の新しい流れである禅宗は、栄西や道元、そして南宋から日本に亡命して鎌倉幕府に保護された中国人僧・無学祖元(仏光国師)などによって、ごっそりと日本に導入されている。

奈良時代末期から平安時代の日本人僧は、日本で仏教を学び、それを深める目的を持って唐に渡った。ところが、仏教の聖地であると思っていたかんじんの唐では、すでに仏教は衰退のきざしを見せはじめている。これではいけない。日本に正統の仏教を伝えなければならないと、各人が使命感に燃えて発奮したように思える。

空海の場合、仏教史の流れとして、これがはっきりと読み取れる。真言宗第七祖である青龍寺の慧果(えか)は、短期間で真言密教の奥儀を空海に伝授した。そして、ただちに空海を第八祖に指名して、その直後に慧果は没している。これによって、真言密教の正統は中国ではなく日本に移ったのである。

以上のできごとを合わせて考えてみると、日本という国は、インドで発生して中国で熟成・蒸留された「仏教という普遍的で偉大な宗教」を、いいとこ取りする形で、ごっそりと導入できた、世界でも珍しい幸運な国であったような気がする。


またしても本題からはずれてきた。インドでの玄奘について、大急ぎで紹介したい。


玄奘が5年間学んだのは、インド東北部に位置し、インド仏教の最高学府といわれる「ナンダーラ僧院」である。「オックスフォードやケンブリッジよりも古い世界初の全寮制大学」と表現する人もいる。仏教の聖地で、僧徒は一万人といわれた。玄奘はこの学舎で副主講という立場に昇進している。どのような地位なのか私にはわからないが、この地でも「折り紙付きのエリート」として遇されている。

当時、この地を含む北部インド全域を支配していたのは、ハルシャ・ヴァルダナという実力王であった(在位606-647)。東はベンガル湾、西はアラビア海に至る、北部インドの東西に伸びる肥沃で広大な領域である。文武両面に秀で名君といわれたこの王様を、玄奘は「戒日王・かいじつおう」と記述している。

衰退のきざしが見えていたインド仏教を再建するため、戒日王は玄奘に対して、「貴殿のために100の寺院を建てるからインドにとどまってくれないか」と持ちかけたが、玄奘はこれを断り帰国の途についている。戒日王はやむなく、おびただしい量の金貨・銀貨を玄奘に贈り、彼を護送するようにと、沿道の各地に命令をくだしている。

それにしても、と不思議な思いがする。

高昌国の麴文泰、西突厥のセブグ・カハン(可汗)、そしてインドのハルシャ・ヴァルダといった、そうそうたる実力王たちが、玄奘をここまでサポートした理由はどこにあったのか。風貌が立派で学問があり、かつ人柄が良い。外交能力と政治力も兼ね備えている。これらの言葉をもってしても説明できないような、「なにか特別な魅力」を持っていた人のように思える。

『玄奘三蔵伝』を丁寧に読み、この人の行動をながめていると、次のような特色が私には見えてくる。

玄奘という人は、自分が危険な状態にあっても、相手が信頼できる人物だと思えば、本音をペラペラしゃべっている。用心深さが足りないのではないかと、ハラハラする場面が多々ある。しかし、結果的にこれによって相手から信頼を受け、この若者をなんとかして助けてやろうと相手に思わせている。それでいて、ときには、深く考えて慎重な上にも慎重にものごとを進めている。意識してなのか、それとも無意識なのか、大胆さと慎重さのバランスが絶妙である。

冒険家であると同時に哲学者。高僧であると同時に「生き方の達人」という印象を受ける。二重人格というと言葉が悪いが、その体の中に、二種類の性格を持っていた人のようにも思える。俗っぽく表現すると、「横綱級の人たらし」でもあった。ここで言う「人たらし」とは、「出会う人をことごとく自分の味方に引き込む魅力を持った人」という意味である。

日本史のなかで「人たらしの横綱級」といえば、「行基」「空海」「西行」「北条泰時」「足利尊氏」「豊臣秀吉」などが頭に浮かぶ。

この二百年の日本史では、人たらしの横綱は「西郷隆盛」であろう。大関クラスとして、「坂本龍馬」「伊藤博文」「頭山満」「徳富蘇峰」「山本玄峰」あたりが思い浮かぶが、さてどうであろう。これらの番付は各人の好みによる。