2019年12月24日火曜日

熱田神宮の「おほほ祭り」(2)

夜7時の30分ほど前から、本宮の東側にある神楽殿(かぐらでん)の前広場に、三々五々見学者が集まり、200人を超す様子に見える。

夜7時。 境内のすべてのともしびが消され、隊列を組んだ神官十数人が行進をはじめた。

我々4人は見学者の先頭集団に位置して、神官のあとにくっついて歩きはじめる。暗いのでどこをどう歩いたのかよくわからないが、感じとしては広い熱田神宮の境内をほぼ一周したような気がする。熱田の杜(もり)の真っ暗闇のなか、古代の木沓(きぐつ)をはいた神官の集団が、ザッザッと音をたてながら玉砂利の上を進む。

その速度がずいぶん速く、優雅に歩くとはほど遠い。きっと普段から木沓をはいて速く歩く稽古をされているのであろう。もたもたしていたら後の人に追い越されてしまう。まるで競歩のレースのようだ。

うっそうとした森の中の、小さな祠(ほこら)の前らしき場所に着いた。暗くてはっきりとは見えない。私が神官について行こうとすると、「見学者はここまでです」と警備の人に制された。
静寂の中、200余人が息をひそめて固唾を飲んでいる。

やがて、ピーヒャララという笛の音(ね)が聞こえてきた。これを合図に、「ワッハッハ、ワッハッハ」という神官たちの高笑いが聞こえてくる。「おほほ祭り」というから、もっと小声で密かに笑うのだと思い込んでいた。このときは真っ暗で、神官たちの笑う姿は見えなかったが、翌日の新聞の写真を見ると、天に向かって大きな口をあけて大笑いしている。これでは「ワッハッハ祭り」だ。
「これはきっと、どこかの時点で笑い方に変化が起きたに違いない」と私は思った。

天武天皇14年(686)の第一回の酔笑人神事で、神官がこれほどの高笑いをしたとはとても考えられない。時代が下り、皇室に対する過剰な遠慮が消えてから、このように変化したのではあるまいか。頼朝による武家政権が成立した頃か?あるいは応仁の乱あたりか、はたまたずっと時代が下って太平洋戦争の敗北のあとか、、、?

このあと、第二の場所に向かって神官の木沓の音にくっついて早足で急ぐ。

すべての場所で、ピーヒャララの笛の音のあと、「ワッハッハ」の高笑いだけである。神官たちは祝詞(のりと)も唱えず、ひと言も発しない。最後の場所での「ワッハッハ」のあと、神官からは何の挨拶もなく、そのままお開きとなった。

考えてみれば、もっともな話なのだ。
我々は招待されたのではない。秘密の神事を、熱田神宮の好意で、こっそり覗かせていただいただけなのだから。あとで、熱田神宮からちょうだいした祭典・神事についての説明書と、境内地図を照らし合わせてみた。高笑いした場所は、影向間社・神楽殿前・別宮前・清雪門前の四ケ所で、地図でたどるとたしかに熱田の杜をほぼ一周したことになる。


我々4人は、運動会のあとのような心地よい疲労感をかかえて、宿泊するホテルに急いだ。
シャワーを浴びて、遅い夕食を4人で一緒した。
「それにしても偉いもんだよなあ。ただあれだけのことを、一度も欠かさないで1300年も続けているんだからなあ、、、、」とだれかが言った。  私もそう思った。








2019年12月23日月曜日

熱田神宮の「おほほ祭り」

熱田神宮の「おほほ祭り」についてご紹介したい。

この祭りを観るために、平成25年5月4日の夜、5回目の熱田神宮参拝をおこなった。

年に一度、5月4日の夜、あたりが暗くなってから、境内の森の中を木沓(きぐつ)を履いた神官十数名が歩き、数箇所の決められた場所で、「オホホ、オホホ、、」と笑う。ただこれだけの神事である。

正式名称は「酔笑人(えしょうど)神事」といい、これを1300年以上も続けているのだという。

天智天皇7年(668)、熱田神宮のご神体である「草薙剣」が新羅の僧・道行(どうぎょう)に盗まれた。道行は摂津(せっつ)国から出港を図ったが、海難に遭い難波に漂着した。危ないところでこの剣は盗難をまぬがれた。なぜ新羅の僧がこれを盗んで母国に持ち帰ろうとしたのか、その真意はさだかではない。

「尾張の田舎の神社に置いておくからこんなことになるのだ」と、天智天皇はこれを取り上げて、
近江(おうみ)の御所に保管してしまった。

私のまったくの推測であるが、東国の古社・鹿島神宮の出身であり、当時律令制度を導入して中央集権国家を建設しかけていた、側近の中臣鎌足が熱田神宮に嫉妬して天智天皇に進言したのではあるまいか。ところが、これ以降、皇室に不幸が続く。

天智天皇はこの3年後(671)、46歳の若さで崩御された。そのあとすぐに起きたのが、古代史最大の内乱である壬申(じんしん)の乱である。これに勝利した大海人皇子が天武天皇として即位するが、この天武天皇が病にかかられる。

「これは草薙剣の祟(たたり)である」ということになり、天武天皇14年(686)、18年ぶりにこの剣はもとの熱田神宮に戻された。この年の10月1日、天武天皇は崩御された。5月4日に熱田神宮に草薙剣が返還された半年後である。

草薙剣がもどった熱田神宮はおおいに喜んだ。しかし、皇室の不幸が続いていた最中なので、おもてむき祝いの行事はできない。よって、このような奇妙な神事をおこない、密かにこれを祝ったのだといわれている。


神社巡りの仲間である同じ中野区に住むU君にこの話をしたら、ぜひ観に行きたい、と言う。
郷里の広島県にも、もう一人神社好きの友人がいる。小学校1年生からの友人のD君だ。黙って抜け駆けしたらあとで文句を言われそうなので、彼にも声をかけた。「一緒に行きたい」と言う。

名古屋には、U君や私と大学時代の学友であるH君が住んでいる。同学年だが我々より2歳年長だ。このH君は、学生時代からなんとなく偉い感じがする人で、我々は昔からこの人のことを、剛堂(ごうどう)先生と呼んでいる。この剛堂先生にも声をかけたら、「わしも行く」という返事だ。
4人は名古屋のホテルで落ち合うことにした。










2019年12月12日木曜日

熱田神宮(3)

熱田神宮は長い歴史を持つ古社である。

日本武尊以外にも、空海・源頼朝・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など日本史の巨人たちが、この神社に深い縁(えにし)を持っている。

なかでも、源頼朝のこの神社に対する思い入れは尋常ではない。頼朝の母が、熱田大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘であることは知られているが、頼朝自身がここで生まれている。

現在でもその習慣は残っているが、当時は妻の実家で出産するのが普通だった。熱田神宮の道ひとつ隔てた西側にある神宮寺・誓願寺(せいがんじ)の門わきに、「右大将頼朝公誕生旧地」と記された石標がある。ここが熱田大宮司の館跡(やかたあと)で、頼朝が生まれた場所である。

頼朝が何歳までここで生活したかは知らないが、2歳・3歳のよちよち歩きの頃、熱田神宮の境内がその遊び場だった可能性は充分にある。頼朝の初陣は13歳のとき、平治元年(1159)の平治の乱である。源氏は平清盛に敗れ、父・義朝(よしとも)は殺された。母はその1年前に病死している。

頼朝は一命を許され、翌年3月伊豆に流された。天下は平家全盛の時代となる。
その厳しい監視の中の頼朝にたいして、経済的な支援を含めてなにかと温かい手を差しのべたのが、母の弟である熱田大宮司・藤原祐範(ふじわらのすけのり)であった。

古代から尾張国造である尾張氏が代々この神社の宮司であったが、11世紀の後半、その外孫にあたる藤原季範が大宮司になり、その後はその子孫がこの職を世襲した。

熱田神宮は広大な社領荘園を有し、大宮司家は武士団の頭領(とうりょう)でもあった。平安時代の末期、経済的にも裕福であった熱田大宮司の威勢は 「国司をもしのぐ」 といわれた。
天下人の平清盛ですら、藤原氏の一族であり、かつ三種の神器のひとつ「草薙剣」を抱える熱田大宮司・藤原祐範に対しては、遠慮があったかと思える。

後年、建久2年(1191)、祐範の子・任憲(頼朝のいとこ)が、代々熱田神宮が所有してきた神領を僧(寺)に奪われて争った時、頼朝は朝廷にとりなしをしている。「吾妻鑑」のなかの頼朝の副状
(そえじょう)には、「その土地には恩人の墓があり、子が父の霊を慰められないのは不憫」とあり、
頼朝の祐範に対する思いが伝わってくる。


余談ではあるが、全国の神社をお参りしていて、「それにしても、、、、!」と、深く感じ入ることがひとつある。

私がお参りした関東から中部地方にかけて、頼朝が寄進した、修理・再建したという神社がいたるところにあるのだ。頼朝の経歴からして、熱田神宮・三島大社・伊豆山神社・箱根神社・鶴岡八幡宮などを大切にしたことはよくわかる。しかし、とてもこれらにとどまらない。相模一宮・寒川(さむかわ)神社、二宮・川匂(かわわ)神社、三宮・日比多(ひびた)神社、相模国総社・六所(ろくしょ)神社などにも多額の寄進をしている。

さらには、常陸の古社・鹿島神宮を含め、下総・香取神宮、上総・玉前(たまさき)神社、安房・安房神社、安房・洲崎神社、下野・二荒山神社、武蔵・氷川神社、武蔵国総社・大國魂神社、さらには、とおく、加賀・白山比咩神社、近江・建部神社、伊予・大山祇(おおやまずみ)神社、豊前・宇佐神宮など、そしてこれら以外にも、おびただしい数の神社に源頼朝の寄進の跡が見られる。


織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・武田信玄・上杉謙信などの大物武将も、一様に神社・仏閣を大切にして寄進や修理・再建を積極的におこなっている。これには政治家としての人心掌握の一面がある。その土地の人たちが崇拝している神社・仏閣を大切にしてくれる為政者に対して、土着のひとびとが良い感情を抱くのは人情である。

頼朝にしても、当然そのような政治的な配慮があったには違いない。しかし、とてもそれだけでは説明できないほどの熱の入れようである。

三つ児の魂(たましい)百まで、という言葉がある。

母や祖父・叔父たちとの、幸せな幼少時代の記憶が、この熱田神宮にあったに違いない。

源頼朝という人は、よほど神社が好きな人だった気がする。



















2019年12月11日水曜日

熱田神宮(2)

この熱田神宮の主神は熱田大神(あつたのおおかみ)である。

相殿(あいどの)神として、天照大神(あまてらすおおみかみ)・素戔嗚命(すさのおのみこと)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・宮簀媛命(みやすひめのみこと)・建稲種命(たけいなだねのみこと)をお祀りしている。

熱田大神とは草薙剣(くさなぎのつるぎ)のこと、といわれている。「日本書紀」に、「草薙剣は尾張吾湯市(あゆち)村にあり。すなわち熱田祝部(ほふりべ)所掌の神これなり」と記されているところから、この剣は古くから熱田神宮の祭神であったことがわかる。

ただ私は、もともとの熱田大神とは、縄文時代にこの地で人々から尊敬を受けた、有徳の先人を祀ったものであろうと考えている。宮簀媛は尾張国造(くにのみやつこ)の娘で、東征のおり日本武尊が迎えた妃(きさき)である。建稲種はその兄で、日本武尊の副将軍として軍功を立てた人だという。

日本武尊は駿河(古事記では相模)の国造に謀反(むほん)され、草薙剣で難をのがれ、これを征伐する。景行(けいこう)天皇の御世(日本武尊は第二皇子)、天皇家は各地の国造の娘と多くの皇子とを政略結婚させたり、あるいはそれを征伐しながら、列島の大部分をその勢力下に置いていった。

大和朝廷が、東北地方をのぞく日本列島のほぼ全域をその勢力下に置いたのは、この12代・景行天皇の時代だと思われる。もちろん、国造である各地の豪族との微妙な政治バランスに立った上でのことであるが。


ここで、私の故郷である広島県東部にある、浦崎(うらさき)という小さな村の神楽(かぐら)の話をご紹介したい。神楽のさかんな村で、秋になると私は東京から帰省して、村祭りの神楽を楽しむ。
浦崎神楽隆盛の功労者は、佐藤頼久(さとうよりひさ)氏、檀上弘行(だんじょうひろゆき)氏の2人の村の長老である。

先日、これを観覧していて驚いた。

村の少年が古代の衣装を身につけて、剣を持って舞うのだが、
「やあやあ我こそは、景行天皇の第三十五皇子(たしかそう言ったと記憶する)〇〇であるぞ!」
と、大声で名乗りを上げたのだ。
景行天皇には80人以上の子供がいたというから、40人前後の皇子がいてもおかしくない。

どうやら、我が故郷の小さな村にも、その昔、日本武尊の弟皇子がいらっしゃったらしい。我が村の
ひとびとは皆温厚で人柄が良いから、謀反など起こさないでおとなしく大和朝廷に威に服したのであろう。










2019年12月9日月曜日

神社のものがたり・熱田神宮

尾張の熱田神宮は大好きな神社で、今までに5回参拝した。

そのような関係ではないが、気分的には私はこの神社の氏子(うじこ)のつもりでいる。次のようなことがあったからだ。

10年ほど前、私は農作業日誌のような軽いエッセーを出版した。その中で、
「日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東征のおり尾張の神社に立ち寄られたとき、村人が漬物を献上した。尊はその旨さに感嘆され、”神物(こうのもの)”と言われた。これが漬物を”香の物”と呼ぶ語源である。日本で唯一の漬物神社が名古屋の甚目寺(じもくじ)町に今でもある。萱津(かやつ)神社という」、と書いた。

本が出来あがったのだから、お届けするのが礼儀であろうと思い、1冊をリュックに入れてこの萱津神社を訪問した。秋の終わりの頃だった。

「よくおいでになりました」、宮司さんが親切に招き入れてくださった。
「ほう、うちの神社のことを書いてくださったのか。なになに、先生は日本武尊のことも書いておられるのか、、、、」、とこちらが恥ずかしくなるほどの持ちあげようである。
「きのう神社の秋祭りが終わったところです。今日は氏子さんたちが集まって慰労会をするんです。そろそろ料理も出来上がる頃かな、、、、」と、氏子さんたちが準備している隣の棟に向かわれた。

ぜんざいやあべかわ餅をいっぱい持って来られて、身内に言うように、「さあお食べ、さあさあ」と勧めてくださる。私は恐縮しながらも感激してしまった。

この萱津神社の由来を聞かせていただいた。農耕の神様である鹿屋野比売(かやのひめ)をお祀りしてあり、「豊作と縁結び」に絶大のご利益があるという。大きな神社ではないが、1900年以上の歴史を秘めたただならぬ古社である。

お礼を言って帰ろうとすると、
「ところで熱田さんには持っていかれましたかな。日本武尊のことを書いておられるから、1冊持っていかれたらきっと喜ばれると思いますよ」とおっしゃる。
私はおだてられるとすぐにその気になる性質(たち)だから、それは良い考えだと思い、「はい。すぐにお届けします」と答え、お礼を言って立ち去った。
(その後の市町村合併により、現在は、この神社は愛知県あま市にある)


名古屋駅近くのホテルに置いたバッグの中にもう1冊ある。それを持って熱田神宮にすっとんで行った。

社務所の受付で、自己紹介と本をお持ちしたことを説明しかけたら、奥にいる神官の一人がニッコリ笑って、手招きしながら、「どうぞ、どうぞ」と中に招き入れてくださる。
「ははあ、萱津神社から、変な男が本を1冊持っていくよ、ぐらいの電話を1本入れてくれたのだな」と思った。

聞けば、この1900年のあいだ、萱津神社は毎年自社で漬物を漬け、熱田神宮に献進されているという。中身は日本武尊が食べられたものと同じく、茄子・白瓜・蓼(たで)で、これを塩漬けにするという。この二つの神社は親分子分の関係なのか、すこぶる仲良しみたいだ。ここでもお茶とお菓子をいただき、しまいにはコーヒーまですすめてもらい大歓迎を受けた。私はとてもしあわせな気分で熱田神宮の鳥居をあとにした。

これで終わりではなかった。

数日後、私のパソコンに丁重な謝辞と読後感想文が送られてきた。最後までじっくり読んでくださったことがよくわかる。禰宜(ねぎ)・川崎日出夫とお名前が書いてある。あとで、この方は熱田神宮庁の総務部長という要職の人だと知った。

さらに数日後、熱田神宮庁の名前で正式な礼状が郵送されてきた。
「貴重な資料として永く文庫に収蔵します」と書かれてある。この丁寧さには恐れ入った。

それにしても、熱田神宮が「永く収蔵」してくださるとは心強い。
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)と同じように、2000年ほどは保管してくださるのではあるまいか」、と友人たちに自慢した。

私の神社好きにさらに拍車をかけたのは、この二つの神社とのご縁と、両神社のご親切によるところがおおきい。



























2019年12月3日火曜日

宗像大社(3)

神功皇后の朝鮮遠征、白村江の戦い、蒙古襲来など、わが国が国難に遭遇した時、我々の先祖は常にこの宗像大神(むなかたのおおかみ)に祈った。

そして、日本が滅びるかもしれないというほどの国難が、110年ほど前ふたたびおとずれた。
日露戦争での日本海海戦(外国では対馬沖海戦と呼ぶ)である。帝政ロシアが日本征服の野望を持って、大艦隊を極東まで派遣してきたのである。


日本海海戦の砲声を聞き、その戦闘を目撃した民間人は、沖ノ島にいた宗像大社の神官と雑役の少年の2人だけである。

島の山頂に設置された海軍の見張り台から、社務所までひかれていた電話線で、「バルチック艦隊が沖ノ島にせまった」との水兵の声が飛び込んできた。

それを受けた宗像大社の主典・宗像繁丸(むなかたしげまる)は、褌一本の素っ裸になり海岸へ駆け降りた。岩の上から海へ飛び込み、潔斎(けっさい)をしたあと、装束をつけて社殿へ駆けのぼった。宗像繁丸は社殿で懸命に祝詞(のりと)をあげた。

その間、砲声が矢継ぎばやにひびいた。宗像のうしろにすわっている18歳の少年・佐藤市五郎も泣きながら祝詞をとなえた。この一戦に敗ければ、日本という国は滅びると思ったからである。

結果は、日本の聯合艦隊の圧倒的な勝利に終わり、バルチック艦隊は壊滅した。

この海戦で撃沈されたロシアの軍艦は、戦艦6隻・巡洋艦4隻・海防艦1隻・駆逐艦4隻・仮装巡洋艦1隻・特務艦3隻である。捕獲されたものは、戦艦2・海防艦2・駆逐艦1、抑留されたもの病院船2、脱走中に沈んだもの巡洋艦1・駆逐艦1で、他の6隻(巡洋艦3・駆逐艦1・特務艦2)は、マニラ湾や上海などの中立国の港に逃げ込み、武装解除された。

わずかに遁走(とんそう)に成功しロシア領に逃げ込んだのは、ヨットを改造した小巡洋艦1と駆逐艦2、それに運送船1にすぎなかった。

これにたいして、わが聯合艦隊の損害は、小型の水雷艇3隻沈没、と記録に残っている。


宗像の三女神、とりわけ沖ノ島に鎮座されているしっかり者の長女・田心姫(たごりひめ)は、渾身の力をこめてわが国を護ってくださったのである。






2019年12月2日月曜日

宗像大社(2)

このあこがれの筑前・宗像大社を参拝したのは、それからずいぶん年月を経た平成26年9月のことである。他の用事で大牟田市に行き、その帰りに福岡市に1泊した。

充分な時間がなく、私がお詣りしたのは宗像市田島(たしま)町の辺津宮(へつのみや)だけである。宗像三女神の三女・市杵嶋姫(いちきしまひめ)がここに祀られている。玄界灘の海上約12キロに浮かぶ筑前大島にある中津宮に二女・湍津姫(たぎつひめ)が祀られ、沖合60キロの沖ノ島にある沖津宮に長女・田心姫(たごりひめ)が祀られている。

しっかり者の長女・田心姫がただ一人で、日本列島の西北の絶海の孤島で、わが国を護っておられるのである。

神社の創祀(そうし)は不明といわれている。
沖ノ島の古代の祭祀遺跡から発見された約12万点にのぼる神宝・祭器類のすべてが、国宝・重文に指定されており、古いものは4世紀のものと学問的に証明されている。
4世紀は日本史の年表では古墳時代に分類される。初期の大和朝廷が大陸と交流するにおいて、この沖ノ島は交通の要所であり、同時に、対外交渉にかかわる重要な祭祀が行なわれていたことがわかる。

この孤島において4世紀に祭祀が行なわれていたのだから、数多くの人々が生活していた九州本土の辺津宮では、いつごろから祭祀が取り行われていたのであろうか。弥生時代より古く、縄文時代からと考えるのが自然ではあるまいか。

天照大神と素戔嗚命(すさのおのみこと)との誓約(うけい)によって生まれたといわれる、宗像三女神が祀られるはるか以前から、ひとびとを導き、ひとびとの幸せを祈った有徳の縄文人を、この地の人々は祀っていたのではあるまいか、と私は考えている。


それほどの古社である宗像大社には幾多の日本史の巨人たちが縁(えにし)を持っている。
ボランティアの案内の方の口から出たのは、弘法大師・空海と出光佐三の2人の名前だった。たまたま私が意識していた人の名前と一致したので、なんだか嬉しかった。

空海が入唐留学生(るがくしょう)として留学期間20年の予定で北九州を出帆したのは、延暦23年(804)である。遣唐大使が乗る第一船に空海が、第二船に期間1年予定の還学生(げんがくしょう)最澄が乗った。第三船と第四船は遭難し、唐に無事にたどり着いたのは第一船と第二船だけだった。

出帆の前、最澄は宇佐神宮に、空海はこの宗像大社に参拝し、それぞれ航海の安全を祈念している。最澄の入唐は和気清麻呂の息子二人の推薦であったというから、宇佐神宮との縁は理解できる。これに対して、空海がどのような縁で宗像大社に参拝したかはわからない。

20年の留学予定を2年余に短縮して帰国した空海は、この宗像の地に1年以上滞在し、宗像大社の神宮寺(じんぐうじ)である鎮国寺を建立している。国命にそむいて、20年分の留学費用を2年余で使い切った空海に対しておとがめがあったのか、そのあたりの都の情報を探るためだったのか、事情は定かではないが、それにしても1年以上の北九州滞在はずいぶん長い。

当時、裕福な神社は前途有望な留学僧に対して、スポンサー(パトロン)として巨額のお金を援助している。最澄は宇佐神宮から、空海は宗像大社から、莫大な量の砂金をもらって入唐した、とその方面の研究者は述べておられる。

宗像大神(むなかたのおおかみ)は住吉大神(すみえのおおかみ)とともに、初期の大和朝廷の大陸との交流を助けた航海の神である。この二つの大神は、神功皇后の三韓征伐のとき神助を与えたといわれている。これらの神を奉じる海人族(安曇族)が遠征軍の軍艦の艦長や航海長といった役割をになっていたのであろう。その後の白村江の戦い(天智天皇2年・663)においても、これら宗像大神・住吉大神の氏子たちが、その軍団の水先案内役をつとめたのに違いあるまい。

大化改新(645)により宗像郡が設置され、文武天皇2年(698)には宗像社が宗像郡全部を領するようになり、宗像氏は神職として神社に奉仕するとともに、郡司(ぐんじ)として政治も司(つかさど)るようになった。

天武天皇の妃(きさき)・尼子娘(あまこのいらめ)はこの宗像氏の出である。宗像徳善(とくぜん)の娘でその子供が高市(たけち)皇子である(天武天皇の第一皇子)。この高市皇子は、壬申の乱ではすぐれた判断力で父をおおいに助け、持統天皇の御世には太政大臣に任命されている。
ちなみに、奈良時代前期の政界の実力者・長屋王(ながやおう)は、この高市皇子の長男だから、宗像徳善のひ孫にあたる。


私の祖母は97歳で亡くなったが、その両親は四国・讃岐の人である。両親は結婚後、北九州の若松で生活した。残念なことに、母親は祖母が幼少のとき病死し、父親は再婚した。その再婚した相手の女性が宗像大社の流れをくむ人で、宗像という苗字の人だったと、最近になって93歳の私の母親から聞いた。

よって、私の義理の曾祖母は宗像の人である。私には宗像の血は流れていないものの、わずかではあるが宗像大社とご縁がある。そのことをとても嬉しく思っている。