2023年1月30日月曜日

中島敦のこと



 シルクロードのものがたり(6)

前回の「李陵と蘇武」をまとめるにあたり、中島敦の「李陵」を参考にさせてもらった。「山月記」・「弟子」・「名人伝」を今回改めてじっくり読んで、その簡潔で美しい文章に感服した。中島敦は明治42年(1909)に生まれ、昭和17年(1942)に33歳で没している。

彼の作品の中に、「和歌(うた)でない歌」という55編の作品がある。中島の読んだ古今東西の古典の内容と自身の気持ちを重ねた感じの、「超短い読書感想文」 のようなおもむきのものである。これを読んで感激してしまった。

29歳の時に書いたもののようであるが、これだけの古典を読破し、それを自分の血と肉として、古の賢人と一体になった、その境地に憧れの気持ちを強く持った。いくつかをここで紹介したい。

文豪・中島敦と張り合おうとの気持ちはみじんもないのだが、これを読んで、「いたずらに馬齢を重ね」という日本語が、自分に向かって迫ってくるのを強く感じる。


〇ある時はヘーゲルの如(ごと) 万有をわが体系に統(す)べんともせし

〇ある時はアミエルが如 つつましく息をひそめて生きんと思ひし

〇ある時は若きジイドと 諸共(もろとも)に生命に充ちて野をさまよひぬ

〇ある時は淵明(えんめい)が如 疑わず かの天命を信ぜんとせし

〇ある時は観念(イデア)の中に 永遠を見んと願ひぬプラトンのごと

〇ある時は李白の如 酔ひ酔ひて歌ひて世をば終らむと思ふ

〇ある時は王維をまねび 寂(じゃく)として幽葟(ゆうおう)の裏(うち)にあらなむ

〇ある時は阮籍(げんせき)が如 白眼に人を睨(にら)みて琴を弾ぜむ

〇ある時はフロイトに行き もろ人の怪しき心理(こころ)さぐらむとする

〇ある時はバイロンが如 人の世の掟(おきて)踏みにじり呵々(かか)と笑はむ

〇ある時はパスカルの如 心いため弱き蘆(あし)をば賛(ほ)め憐れみき

〇ある時は老子の如 この世の玄(げん)のまた玄空(むな)しと見つる

〇ある時はストアの如 わが意志を鍛へんとこそ奮ひ立ちしか

〇ある時はバルザックの如 コーヒーを飲みて猛然と書きたき心

〇ある時は西行が如 家をすて道を求めてさすらはむ心

〇ある時は心咎めつつ 我が中のイエスを逐(お)ひぬピラトの如く

〇ある時は安逸(あんいつ)の中ゆ 仰ぎ見るカントの「善」の巌(いつ)くしかりき

〇ある時は整然として澄(す)みとほるスピノザに来て眼をみはりしか

〇ある時は山賊多き コルシカの山をメリメとへめぐる心地

〇ある時はツァラツストラと山に行き 眼(まなこ)鋭るどの鷲(わし)と遊びき

〇遍歴(へめぐ)りていつ”くに行くかわが魂(たま)ぞ はやも三十に近しといふを





2023年1月23日月曜日

李陵と蘇武(2)

 シルクロードのものがたり(5)

蘇武が漢へ帰国する6年前、武帝が崩御するとまもなく、漢の上層部で李陵を帰国させようとの作戦が練られた。わずか8歳の皇太子が即位するや、遺詔(いしょう)により霍光(かくこう)が大司馬大将軍として新帝を補佐した。この人は李陵の友人である。

ナンバー2の左将軍となった上官桀(じょうかんけつ)もまた李陵の親友であった。二人のあいだで、なんとかして李陵を呼び戻そうとの相談が出来上がった。

武帝の崩御をきっかけとして、漢と匈奴の双方に和平の気運が高まり、「友好関係を結ぶための和平の使節派遣」が決まったのだ。霍光と上官桀は、その使節に李陵の若いころからの親友たちを選んだ。任立政(じんりつせい)を首席とする三人である。

このとき、陵と親しかった左賢王が匈奴の単于の座にあった。孤鹿姑単于(ころくごぜんう)という。単于の前で使者の表向きの用事が済むと、次に盛んな酒宴が始まる。

当時、李陵はこの地で賓客として遇されていた。李陵の友人が使節としてきたので、単于の好意で李陵もその宴席に連なった。親友の任立政は陵と目が合ったが、匈奴の大官がいならぶ前であからさまに漢に帰るれとは言えない。

公式の宴が終わったあと、二次会として李陵と少数の陵の側近が漢使をもてなした。これも李陵を信頼している単于の配慮であった。その席で、使節筆頭の任立政は、漢への帰国を熱心に李陵に説いた。しかし、「帰るのは易い。だが、丈夫再び辱めらるる能わず」と言って、陵は頭を横にふった。

それから五年が経った。

先述したように、蘇武は19年目にしてバイカル湖近くの掘っ建て小屋から単于の前に呼び出されて、漢に帰国するよう告げられた。別れに臨んで李陵は、友・蘇武のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。

李陵は杯をあげて、次のように慶賀の辞を述べた。

「いま蘇武どのは晴れて帰国の途につかれる。名声はここ匈奴の地でも響き、功績は漢室にあっても光り輝くことでしょう」 そして続けた。

「わたし陵は、意気地のないものではありますが、漢がしばし大目に見てくださり、老いた母親や妻子を生かして、私に屈辱を晴らす機会を与えてくださったなら、自分は単于に単身でもいどもうと考えていました。しかし私の一家は収監の上誅殺されました。これ以上ないはずかしめを受けました。私にとってはもはやこれまで、万事終わりと言わなければなりません。もはや二人は別世界に住む人間です。これで永遠の別れです。さらばです」

その後、二人は黙って酒を飲んだ。宴たけなわにして、李陵は立ち上がり、舞い、かつ歌った。

「万里を経て 沙漠を渡る  君が将と為りて 匈奴を奮(ふる)わす

路(みち)は窮絶(きわま)り 矢刃(しじん)摧(くだ)かる

士衆 滅びて 名はすでに隤(お)つ

老母 已(すで)に死して 恩に報いんと欲すると雖(いえど)も 将(まさ)にいずくにか帰せん」

この詩は「漢書・蘇武伝」に載せられている。


蘇武が漢に帰国したのは始元六年(BC81)夏、59歳ぐらいであったと思える。この人は長寿を保ち80歳ぐらいまで生きた。

司馬遷は、蘇武の帰国の6年前に「史記」を完成させ、その翌年、おそらく58歳ぐらいで没した。

李陵は蘇武と別れて7年後、63歳前後でバイカル湖の南の地で没した。


今から20年ほど前だったと思う。日経新聞の文化欄で次のような記事を読んだ。記憶だけが頼りなので、多少の間違いがあるかも知れない。

「バイカル湖の南、モンゴルとの国境に近いロシアの領内で、石と木材で造られた中国式の住居跡が発見された。内容は判明しないが、発掘された木簡や竹簡に漢字が書かれている。これは匈奴の地で没した、漢の将軍・李陵の屋敷跡ではあるまいか、とロシアと中国の専門家たちは語っている」

ゴビ砂漠 辻道雄氏提供