2019年4月23日火曜日

LINEを使っていると猿になる?

友人の中に、現代文明から逃れようと努力している男がいる。
どうも本人は、それがかっこ良いと思っているらしい。

この男、学生時代から「隠者」にあこがれていた。
陶淵明や寒山拾得の漢詩をノートに写したり、役小角(えんのおつ゛ぬ・役行者)の研究をしていた。

大学2年の時、「仙人になりたい」とテントを持って山に入った。他の友人に聞くと、2週間ほど秩父の山奥で1人で修行をしていたらしい。9月になってキャンパスを歩いているのを見つけて聞いてみると、「仙人になるのは難しい」と真顔で答えた。

この男、現在山奥の小屋で1人でランプ生活をしているのかというと、そうではない。
都心で電気・水道のある生活をしている。携帯電話も持っている。もちろんガラケーであるが。
世のおちこぼれかというと、そうでもない。かろうじて人並みの市民生活をしている。
結婚もしていて娘さんが1人いる。以前に奥さんと娘さんに会ったことがあるが、2人ともまっとうで普通の人である。本人だけが変わっている。

何年か前、私がスマホに替えたとき、「電話は通じればよい。お前も落ちぶれたもんだ。世の流行に迎合してしまって」と説教された。

この男と久しぶりに会った。

「お前まさか、LINEなどというくだらんものはやってないだろうな?」と聞く。
「やってないよ」と答えると、「よしよし、それで良いのだ」と笑う。
「LINEなど便利なものを使っていると、だんだん顔が猿に似てくる。気をつけろよ」
と忠告してくれる。

猿が進化して人間になった、と彼は言う。
そんなこと、言われなくても私も知っている。

「なぜ猿が進化して人間になったのか?それは猿が深く考えることにより、脳の髄鞘化(ずいしょうか)が活発になり、脳自体が大きくなったからだ」と言う。

「たとえば在原業平が恋文を書いて、小野小町のもとに使者を送ったとする。なかなか返事が来ない。業平は考えをめぐらす。雪が深いので小町姫の使者が難儀をしているのか?もしかしたら、姫は風邪で寝込んでおられるのか?いや、ひょっとしたら、若い男とねんごろになっているのかもしれない?、、、、と業平は空想・想像をめぐらす。これにより、業平の脳はさらに活性化されてくる」

このようにして、長い期間をかけて、猿が深く考えることによって、人間に進化したのだという。

「ところが現在は、便利で安い、ということがすべてに優先して、世界が動いている。瞬時に交信が出来るようになって、人間は深く考えないようになってきた。そしてだんだん猿に戻ってきている」


この男に言わせると、LINEだけではないらしい。
Eメールも、SMSも、ツイッタ―も、ネット検索も、エクセル・ワードで文章を書くことも、便利なものはすべて脳を劣化させるのだという。


この男の「奇人変人」ぶりには、へキへキすることが多いのだが、この話だけは、
「もしかしたら本当かもしれない」と思った。

なぜかというと、「トランプさんの顔の変化」に気が付いたからだ。

私は30年ほど前に、「交渉の達人ー若きアメリカ不動産王の構想と決断」という本を、友人に無理やり買わされた。友人の知人が、この本の出版社か翻訳者で、この本の宣伝を頼まれていたらしい。不動産には興味がなかったので、中身はすべて忘れてしまった。ただ、表紙のトランプさんの顔写真が、若くてハンサムで、なおかつ品格があったのが強く印象に残っている。

不動産で巨額の財を成す人など、きっと下品な顔の人だと思い込んでいた私には、この上品な顔は意外だった。

そのトランプさんの近頃の顔はいただけない。年齢を重ねて、シワやシミが出てくるのは仕方がない。ただ、かつての上品な顔から、ずいぶん劣化してきているのが気にかかる。
人は色々と言うが、私自身はトランプさんという人には好意を抱いている。

「もしかしたら?」と思った。

例のツイッタ―にその原因があるのではあるまいか?

ツイッタ―だけでなく、きっとEメール、LINE、SMS、ネット検索などを、頻繁に使っておられるのではあるまいか?

トランプさんの場合、猿というよりも、ゴリラ集団のボスゴリラという顔つきに変わってきている。

自分も気をつけたほうが良い。

Eメール、SMSなどは、仕事柄やめるわけにはいかない。
しかし、それ以外のLINE、ツイッタ―、フェイスブックなどなど、いわゆる「便利なもの」には、出来るだけ近ずかないようにしようと思っている。














2019年4月16日火曜日

カーネギー15歳の転職(2)

下記は「カーネギー自伝」からの抜粋である。

あまり長くなるといけないので、筆者の判断で少し短くした。
坂西志保氏の翻訳であるが、素晴らしい名訳だと思う。
以前は「角川文庫」から出版されていたが、今は「中公文庫」で簡単に手に入る。
英語の良くできる方は、原書で読まれるのも良いかと思う。


私は辛い仕事をしていたが、希望を高くもって、事情は変わるであろうと楽観していた。
ある日、そういう機会がめぐって来た。

ある夜、仕事から帰ってくると、市の電信局の局長であったデーヴィッド・ブルックさんが、ホーガン叔父に、電報配達夫になる良い少年を知らないか、と問われたのだ、と告げられた。
二人はチェスの仲間だった。

私は躍り上がって喜んだ。母はすぐ賛成したが、父は私の希望をかなえてくれそうになかった。
週2ドル50セントの給料を出すということから判断すると、相手はもっと大きな少年を希望しているのではないか。夜おそく、田舎に電報を配達するのだから、危険に出会う恐れがある。と父は言う。
しかし、少したって父は反対をひっこめて、まあやってみるのもよかろうと譲歩してくれた。

私は河を渡ってピッツバーブ市は行き、ブルックさんに会うことになった。
父は私と一緒に行くと言ってくれたが、電信局の入り口で、私は父に、外で待っていてくれと頼んだ。

この面接は成功であった。

私は慎重に自分はピッツバーグ市を知らないこと、しかし、できるだけ早く学ぶつもりであることを話し、同時に自分としては、とにかくやってみたいことなど、つつましやかに話した。ブルックさんは、いつから仕事にかかれるかと聞いた。そこで、私は、もしご希望なら、今からすぐ始めることができると答えた。

私はすぐに階下に降りて行き、街角に走って、父に万事うまくいったのを告げた。
私が採用されたことを母に、早く知らせてくれるように頼んだ。

このようにして1850年に、私は本格的に人生の第一歩に旅立ったのであった。
1週2ドルで、暗い地下室で石炭の塵でまっくろになっていた私が、急に天国へ引き上げられたのであった。

この場面を回顧して、私の答えは、青年たちの参考になるのではないかと思う。
機会をその場で捉えないのは間違いである。この地位は私に与えられた。
しかし、なにが起きるかもしれない。たとえば、誰か他の少年が現れるかもしれない。
私は職を与えられたのであるから、できればすぐにその仕事にかかりたいと申し出たのである。











2019年4月15日月曜日

カーネギー15歳の転職(1)

スコットランドの貧しい織物職人の息子に生まれたアンドリュー・カーネギー(1835-1919)は、13歳のとき一家でアメリカに移住する。

製鉄事業で成功し、鉄鋼王と呼ばれ、晩年は慈善事業でその富を社会に還元した。
全米50州への図書館の寄贈を皮切りに、カーネギーホールの建設、カーネギー・メロン大学の創立など、今でもアメリカ国民だけでなく世界中の人たちが、その恩恵に浴している。

現在のアメリカの富豪、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットが、このカーネギーを師匠と仰ぎ、慈善事業に力を入れているのは、周知の事実である。

「カーネギー自伝」には、大志を抱き、人生の成功に向かって努力している多くの青年にとって、示唆に富む話が数多く語られている。

この人が若い時、転職するにあたり、「何を基準に転職を決めたのか」について見ていきたい。


産業革命による機械化の流れで、父親の手動による織物職人の収入は激減し、一家は困窮の極みに達した。
2人の子供の将来を考えた両親は、アメリカへの移民を決意するが、その旅費が無い。
母の友人の好意で20ポンドの旅費を借り、1848年一家でアメリカ行きの船に乗る。この時、
父43歳、母34歳、アンディ少年13歳、弟5歳だった。

ピッツバーグに落ち着いた父・母は、すぐに仕事を開始する。
一刻も早く20ポンドの借金を返さなくてはいけない。13歳のアンディ少年も仕事を始めた。
こうして2年足らずで、借りた20ポンドを返済する。

「このようにして、私たちはとうとう200ドルを貯蓄して、送金小切手にして、こころよく20ポンドを貸してくださったヘンダーソン夫人にお返しした」
と自伝にあるから、当時は1ポンドが10ドルだったことが分かる。大英帝国の威信が輝いていた頃である。


13歳のアンディ少年がはじめた最初の仕事は、綿織物工場での糸巻の仕事で、週1ドル20セントだった。

何ケ月かあとに転職する。
次の仕事は、小さな工場の地下での石炭の釜たきで、週2ドルになった。しばらくして同じ会社で、請求書を作る経理部に移動する。社長の字がひどく下手で、アンディ少年のほうが字が美しかったからだという。

そして15歳の時、運命的な転職をする。
この転職が彼の出世への分岐点となる。
(この3度目の転職については、次回のブログで本人の口から語ってもらう)

この仕事は、ピッツバーグ市電報局の電報配達で、週2ドル50セントである。
50セントの給料アップだが、それは大きな問題ではない。局長のブルックさんが立派な人で、アンディ少年を可愛がりあたたかい目で指導をする。
読書の機会が与えられ、アンディ少年はその好奇心から、仕事以外の通信技術も覚える。
立派な先輩、良い友人に恵まれ、人脈が急速に広がってゆく。
この電報局での3年間は、この少年にとって「社会人大学」であった。

4社目は、スコット大佐という実力者に見込まれて、ペンシルベニア鉄道に移る。「聡明な少年」との評判以外に「通信技術」を持っていたのが、スコットさんには魅力だったようだ。


カーネギーの小伝を語るのが目的ではないので、略歴はこのあたりで止め、本来の主旨に戻る。


このような転職を繰り返しながら、この少年の給料や地位はどんどん上昇していくのだが、ヘッドハンターから見て、興味深いことが一つある。

それは、引き抜かれるときの転職でも、その会社で大きな手柄を立てた後も、この少年は
「お給料やボーナス」、「昇進」に関して、何一つ自己主張していないのである。
不思議な気がする。
アメリカ人だから、良い成績を出した後、相手から希望されての引き抜きの時は、給料アップやポジションについてそれなりの自己主張をしているのか、と思ったのだが、それは一切ない。

まるで戦前の日本の田舎の青年のように、「慎ましく、ひかえめ」なのである。

「お給料アップ?いくらでもいいです」
「昇進、ポジション?すべてお任せします」
と、どのような局面でも、すべて直属の上司に丸投している。
どうも、お給料や地位は、自己主張しなくても、本人の実績により自然についてくるもののようである。

最初の2・3回の転職は、まったくの偶然であり、「仕事があれば何でもやります」とのスタンスだが、それ以降の転職に際しての判断基準は、「上司になる人が立派な人か否か?」の一点に絞っていたように思われる。

今一つ、この少年の特徴は、どのような困難に遭遇しても、「明るい気持ちで」、「好奇心を持って」
、「勇気凛凛」で、真正面から突進している。そして大きな成功をおさめた。

カーネギー・メロン大学でMBAを取得するのも立派だが、アンディ少年がこの大学を作るまでの過程を研究するほうが、もしかしたら、より役に立つかも知れない。












2019年4月10日水曜日

九方皐ー伯楽と千里の馬ー

九方皐(きゅうほうこう)とは、2600年ほど昔の中国の若者の名前である。

名馬の見抜き方、有能な人材の見抜き方、について考えてみたい。


古代の中国の王様は、有能な人材と名馬とを血眼で探し求めた。
この二つがないと、国が滅びてしまうからである。

建安5年(AD200)、劉備玄徳は、山里で晴耕雨読しながら修行をしていた賢人・諸葛亮孔明を文字通り三度もそのあばら家に訪問して、これを口説き、自己の配下に入れた。
そして、蜀漢の建国に成功した。

馬は当時の戦車であった。
諸国の王様は、きそって千里の馬を探し求めた。
現在の日本では、名馬を探し求めている人はいるにはいるが、競馬の馬主とか、大学の馬術部とか、オリンピックの馬術関係者とか、その数は限られている。

これに比べ、有能な人材に関しては、現在でも多くの経営者が、昔と同じく血眼で探し求めている。我々ヘッドハンターは、お客様の手下として、「有能な人材はいないか?」と日夜、東奔西走している。近頃は、一日中オフィスのパソコンの前に座り、データベースとにらめっこしながら、候補者の学歴・職歴・TOEICの点数などをながめながら、偽物の人材を追っかけている人材コンサルタントもいるらしい。

有能な人材とはどのような人なのか?
どこに着眼して探せば、それを発見できるのか?

この話は、劉備玄徳の三顧の礼より800年ほど昔の話で、時代は周の春秋時代、場所は六国の中で一番西に位置する秦の国での話である。

有能な人材を探し求めている経営者や、本気で東奔西走している本物のヘッドハンターには、この話はヒントになるかも知れない。
私自身、この「九方皐」を目指して努力しているのだが、今なお彼の足元にも到達できていない。

下記は、中国の「列子」からの抜粋である。
明(みん)の世徳堂の寛政復刻本を底本として、小林信明先生(1906-2003)が訳されたものに、筆者が少しだけ(注)を加えた。


秦の穆公(ぼくこう・在位前660-前621)が伯楽(はくらく)に向かって言うには、
「君の年齢は大分高くなった。君の一族の中に、良い馬を探せる人物がいるだろうか?」と。すると伯楽は、次のように返事を申し上げた。

「良い馬は、姿形や筋肉骨格の様子を見て目利きすることができます。けれども、世に優れた馬(千里の馬)ということになると、目に見えないようでもあり、隠れているようでもあり、また、いないようでもあり、逃げてしまったようにも思えるものです。このような馬こそ、塵(ちり)の立っていない所を走り、また、ひずめの跡を残さないといった、きわめて速い馬なのであります。

私の子供らは、いずれも才能の低い者で、良い馬を探すことはできましょうが、世に優れた馬(千里の馬)を探すことはできません。

私のもとに、平生生活の労苦を一緒にしてきた人物に、九方皐(きゅうほうこう)という者がおります。この男が馬を見る目は、決して私に劣るものではありません。どうかこの男にお会いして頂きたいと存じます」

そこで穆公は、九方皐に会い、馬を探しに行かせた。

三箇月たつと帰ってきて、
「もはや手に入れました。沙丘で見つけました」と報告した。

穆公が、「どんな馬か?」と尋ねると、「牝で黄色の馬です」と申し上げた。穆公が人をやって連れてこさせると、牡で黒い馬であった。穆公は不機嫌になって、伯楽を呼び出して言った。「失敗した。君が馬を探させた男は、色合いから雌雄(めす・おす)さえも、弁別することができない。そんなことで、どうして馬の見分けができるものか」

これを聞いた伯楽は、大きなため息をついて言った。

「なんと、そこまで行きましたか。これこそ彼が私に数千倍すぐれていて、量(はかり)ようのない点です。九方皐が目を配る点といったら、自然に備わっている資質についてであります。いちばんすぐれた点をつかまえて、できの悪い点は問題にせず、内面的なできを明らかにして、外面的なことは問題にしません。目をつける点には十分目をつけて、目をつけなくても良いような点には目をつけません。じっと目をすえる点には十分目をすえて、目をすえなくても良いような点には、心にかけません。九方皐の馬の見立てといったら、それこそ馬そのものより大事に考えている点がある、といった次第であります」

やがて馬がやって来た。

果たせるかな、
世に優れた、千里の馬であった。


伯楽(はくらく)・・・
周の人で、本名は孫陽(そんよう)という。
秦の穆公の時、馬を見る名人として知られた人。転じて人物を見抜く眼力のある人をいう。

天機(てんき)・・・
心や資質などをいう。自然に備わったもので、形や行動の原動力となるもの。
「天機」という語は、しばしば「荘子」の中に見える。
そして、この篇の「天機」は、馬の生気や資質などをさしていると思われる。





2019年4月5日金曜日

4月6日、大和沖縄に出撃

これは当時、佐伯海軍航空隊で零式三座水偵の操縦員だった人から聞いた話である。

「昭和20年の4月6日の夕方のことです。
あの日は、豊後水道から日向灘・佐多岬までの水域の敵潜水艦の索敵攻撃を命じられていました。作戦の中身は知らされていませんでしたが、近いうちに海上部隊による重大な作戦が行われるので、敵潜水艦をこの水域に入れるな、との分隊長からの命令でした。

佐多岬の沖で帰投を開始して、佐伯航空隊のすぐ手前までもどった時です。
時刻は18時前でしたが、日没までには時間があり、昼間と同じように外の景色は、はっきりと見えていました。

私は操縦をしており、前方を見ていたので気が付きませんでした。
中央座席のラバウル帰りの偵察の八幡兵曹長が、私の背を押して、下を、下を、と合図するので、下の海面に目をやりました。
中央の巨大な軍艦を取り囲むように、7-8隻の駆逐艦が南下していました。あとで聞いたら、軽巡洋艦もいたらしいですが、私の眼には大型艦以外はすべて駆逐艦に見えました」


大和乗組員で、生き残られた兵士の手記に、
「四国の最西端、佐田岬の突端の桜が、大和の艦上から肉眼で見えた」
とあるので、この零式三座水偵の操縦員の証言とも一致する。

戦艦大和は沖縄にたどり着けず、この天一号作戦では3721名の将兵が戦死された。

大和特攻だけではない。神風特別攻撃隊、回天特別攻撃隊、そして、北の島で、南の島々で勇敢に戦って戦死された陸軍や海軍の数多くの兵隊さんたち。そして軍属の方々。

戦後70年以上、日本が他国から侵略されていないのは、日米安保条約だけが理由ではないように思える。

これらの勇敢に戦って戦死された数多くの方々の霊魂が、日本という国を護ってくださっているような気がしてならない。

先の大戦で戦死なされた、数多くの方々に対して、心からの哀悼の気持ちと感謝の誠を捧げたい。   








2019年4月3日水曜日

西行ー桜の歌 5首ー

桜のこの時期、芭蕉を語るだけで西行を語らないのは、日本人には物足りない。

「一人花見」の時、私がもぞもぞと口ずさむ「山家集」の中から5首をご披露したい。
有名な歌ばかりだから、ご存知の方は多いと思う。


ーなにとなく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山

ー花見ればそのいわれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける

ー春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

ー願わくば花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃

ー仏には桜の花をたてまつれ わがのちの世を人とぶらわば






2019年4月1日月曜日

さまざまのこと思い出す桜かな  芭蕉

「さまざまのこと思い出す桜かな」

この句を知ったのは30歳のころである。
ただ、これは太平洋戦争に従軍した我々の父や祖父の世代の人の作品だと、長い間勝手に思い込んでいた。芭蕉の句だと知ったのは、10年ほど前である。

解説によると、この句を詠んだのは、奥の細道の旅に出る1年前、元禄元年(1688)、芭蕉が45歳の時だという。

芭蕉の本名は松尾宗房といい、伊賀の国・藤堂藩に仕える下級の武士であった。
文学を好む若き主君・藤堂良忠から格別の寵愛を受けていた松尾は、主君良忠が主宰する花見の宴にも呼ばれていた。

あろうことか、寛文6年(1666)の花見の宴の直後、良忠は25歳の若さで急逝した。22歳の松尾は失意の中、当家を退き京都に遊学する。

どのような手続きで武士から平民になったのかは知らない。
徳川幕府の威光輝く頃だから、幕末の阪本竜馬のような脱藩という形ではなかったと思う。
ただ、身を隠すように、淋しく郷里を後にしたであろうとは想像できる。

京都での遊学の後、江戸に下った彼は、松尾芭蕉の名で俳諧の巨匠として、その名を全国にとどろかせる。

父の33回忌の法要で、芭蕉は郷里の伊賀・上野に帰省した。
この時、22年前幼児であった藤堂宗忠の長男・良長が藤堂家の当主で、芭蕉を非公式な形での花見の宴に招いたのだという。この句は、その花見の宴での作である。


今春も、母校成蹊学園の桜祭り、2・3の友人との花見の予定がある。お酒を飲みながらの、気の合う仲間たちとの歓談は楽しい。

ただ、この数年、思うところがある。
単に桜の花を愛でているだけではないような気がする。目の前の友人たちとの歓談だけを楽しんでいるのではない気がする。

幼少のころ、優しくしてくれた両親や祖父母、近所の老人たちの顔がまぶたに浮かぶ。
高校・大学時代の恩師・先輩・友人たちの顔がよぎる。社会に出た若いころ、親切にしてくださった先輩や上司の方々のことを想う。すでに亡くなられた方も多い。

これは私だけでないと思う。

すべての日本人にとって、桜という花は、特別な花なのである。
桜を見ることによって、過去の出来事、親切にしてくださった方々のことを想う。


「さまざまのこと思い出す桜かな」

平凡な言葉だけを使ったこの句が、多くの日本人の胸に響いてくる、その理由がわかるような気がする。