2022年1月31日月曜日

和同開珎(3)

 大和朝廷が和同開珎の銀銭を発行したのが和銅元年の5月11日で、3ヶ月後の8月10日に銅銭を発行している。この大和朝廷というのは、ずいぶんスピード感のある政治を行ったようだ。銅銭4枚と銀銭1枚を同じ価値とし、銅銭1枚で籾(モミ)6升が買える、同時に1日分の労役の値と決めた。

ところが、翌年の和銅2年8月2日の記録に、「銀銭の通用を停止して専ら銅銭を使用させた」とある。一つの理由は、秩父の銅の生産量が想定より多かったこと、いま一つは、唐などへの献上品として銀銭の利用価値があると判断したこと、いま一つは、地方の実力派の郡司を懐柔するのに銀銭が利用できると思ったのではあるまいか。

しかし、すぐに大きな問題が発生する。偽がね造りが出てきたのである。銅銭発行の半年後、和銅2年正月25日の詔(みことのり)に次のようにある。

「さきに銅銭を通用させた。ところがこの頃、姦(よこしま)な悪党が利を貪り、偽の銭をこっそり鋳造している。今後、隠れて偽銭を鋳造する者は、身柄を官の賤民におとし、その財産は告発した人に与える。またみだりに利を求め、変造の行為などした者は、鞭(むち)で打つこと二百回の刑に処した上、強制労働を課して徒刑(ずけい・現在の懲役刑)に処す」

ところがこれでも偽銭造りは止まなかった。奈良時代は政治犯以外は、死刑というのはめったになかったが、いよいよ「死刑」という言葉が出てくる。和銅4年10月23日。

「私鋳の罪は(従・ず・三年)軽いように思われる。そこで重刑を定めて私鋳を未然に禁断しよう。すべての私鋳者は斬刑、従った者は没官(官の奴婢にする)、家族は皆流罪にする」

このように、にせ金造りには厳しい罰を与えるとともに、貨幣を普及させるため、臣民に対して「飴玉」を与えている。


同じく和銅4年10月23日の詔の中に、次のようにある。

「そもそも銭の用途は、財を通じて、余ったものや足りないものを交換するためである。まれに売買するといっても、銭を蓄えるほどの者がない。そこで銭を蓄えた者には、その多少に応じて、等級を設けて位を授けよう。従六位以下で、蓄銭が十貫以上ある者には、位一階を上げて叙し、二十貫以上ある者には、位二階を上げて叙せ(蓄銭叙位令)」

人から銭を借りて位階を上げてもらおうと考える輩(やから)もいたからであろう。

「もし他人の銭を借りて官を欺き、位を得る者は、その銭を官が没収し、身は従刑一年に処し、銭を貸し与えた者も同罪とする」とくぎをさしている。

それでも大和朝廷が期待するほどには、人々は銭を使わなかったようだ。和銅6年3月19日の詔には笑ってしまった。

「郡司の少領以上に任命する者は、性格や意識が清廉で、その時々の政務に堪能であっても、蓄銭が充分でなく、六貫文に満たないような人物は、今後選任してはならぬ」

郡司の少領(郡司の次官)というから、現在の感覚だと、県の副知事・市役所の助役以上であろうか。「どんなに人格が立派で実務能力があっても、銭を持ってない奴は任命してはならない」というのだから、大和朝廷がなんとかして、和同開珎をスムーズに流通させようと、やっきになっていたのがよくわかる。

現在もそうであるが、日本ではじめてお金が発行されたときから、人々は悲喜こもごも、お金というものに振り回されてきたようである。








2022年1月24日月曜日

和同開珎(2)

 武蔵国が「秩父郡で銅が発見されました」と朝廷に献上したのは708年1月11日である。2月11日に造幣局長官を任命し、5月11日には銀銭、8月10日には銅銭の和同開珎を流通させたというのである。「待ってました」というような、あまりにも早い動きである。

現在と比べて交通の不便だった時代である。恐ろしいほどの熱気・行動力である。国家建設に燃えていた時代である。官民ともにありったけの力を振り絞ったのであろうが、それにしても早すぎる。「製錬を必要としない自然銅が大量に発見されました」との情報は、この記録にある半年か1年ほど前に、すでに大和朝廷に報告されていたような気がしてならない。

銅は重い。どのような手段で鋳造所のあった河内国(現在の堺市)まで運んだのであろうか。当時の船は沈没の危険が高かった。貴重品の銅である。馬か荷車に乗せて運んだのでは、と当初は思っていた。調べてみて、当時は現在の東海道はきちんと整備されてなかった。鋳造所が海辺の河内国に置かれていたという事実から、ある程度の危険を覚悟の上で、大和朝廷は船で大量の銅を運んだ、と考えるのが妥当かと今は考えている。


1970年、この「和同開珎」の銀銭が中国で発見された。中国西安市の郊外の唐代の遺跡から、二つの大がめが発見された。この中に、ササン朝ペルシャの銀貨や東ローマ帝国の金貨に混じって、わが和同開珎の銀銭5枚が含まれていた。

宝物が埋められていたのは、唐の玄宗(げんそう)皇帝のいとこにあたる人の屋敷跡であった。756年の安禄山(あんろくざん)の乱のとき、玄宗皇帝やその一族、高級官僚はみな四川に逃れた。この時逃げ遅れたのが、王維と杜甫である。逃げ遅れたためこの二人は苦労している、この安禄山の乱の時、玄宗の従弟は、あわてて土中に隠したのであろう。

この銀銭は、日本からの遣唐使が献上したものに違いない。玄宗皇帝の従弟の一人が5枚持っていたのだから、皇帝自身を含めてその兄弟や高級官僚を含めると、数百枚もしくは数千枚の大量の銀銭を、贈答品として遣唐使船は日本から運んだと思われる。

これを運んだと思われる遣唐使船に便乗していた人の中に、阿倍仲麻呂・吉備真備・大伴古麻呂などがいる。「ついに日本も自前の通貨を発行したのだ」と彼らも鼻高々であったに違いない。

このように苦労して造った和同開珎だが、日本臣民の多くはこれを使おうとしない。同時に贋金造りをやる輩が排出する。これらに対応する大和朝廷の苦労ぶりを「続日本紀」は克明に記録している。これは次回にご紹介したい。



2022年1月17日月曜日

和同開珎(1)

 日本という国の将来像はかくあるべし、と最初に考えた人は聖徳太子ではあるまいか。設計図・青写真を描いたのは、太子の没4年後に生まれた天智天皇の気がする。中臣鎌足が補佐した。壬申の乱という日本史の不幸を乗り越えて、天武天皇がこれを実行に移した。天武天皇亡き後これを完成させたのは、天智の娘であり天武の皇后であった持統女帝である。藤原不比等がこれを補佐した。

飛鳥から奈良時代の日本史の大きな流れをひと言でいうと、このようになるかと思う。

大宝律令の完成(701年・文武天皇)、日本書紀の完成(720年・元正天皇)は日本史の重要事項だが、いずれも天武天皇が在位中に命じたものである。和同開珎鋳造(708年・元明天皇)、平城京遷都(710年・元明天皇)も日本史の重要事項である。

具体的に奈良に「みやこ」を移すという考えまではなかったかも知れないが、将来唐の長安を模した「永遠のみやこ」を建設したいとの考えを、天武天皇は持っておられたのではないかと私は考えている。こう考えると、56歳で崩御された天武天皇の日本史における役割は極めて大きい。

この平城京遷都と和同開珎の鋳造とはセットになっていたらしい。天武天皇の崩御は686年だが、12年後の「続日本紀」には、鉱物資源に関しての記述がとても多い。大和朝廷は貨幣を鋳造するために、やっきになって金・銀・銅を探していた様子がわかる。


「続日本紀」は次のように記す。

文武天皇2年(698)

3月5日 因幡国が銅の鉱石を献じた。

7月27日 伊予国が鉛(なまり)の鉱石を献じた。

9月10日 周防国が銅の鉱石を献じた。

文武天皇大宝元年(701)3月21日 対馬嶋が金を献じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。

元明天皇和銅元年(708)春正月11日 武蔵国の秩父郡が和銅(製錬を要しない自然銅)を献じた。これに関し天皇は次のように詔(みことのり)した。

「そのため慶雲5年を改めて、和銅元年と元号を定める。全国に大赦を行う。和銅元年1月11日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪も、獄につながれている囚人もすべて許す。武蔵国の今年の庸(よう)と、秩父郡の調(ちょう)・庸(よう)を免除する」大和朝廷が大喜びしている様子がよくわかる。

「続日本紀」を続ける。

和銅元年 2月11日 初めて催鋳銭司(さいじゅせんし・銭貨の鋳造を監督する役人)をおいた。従五位上の多治比真人三宅麻呂がこれに任じた。

5月11日 はじめて和同開珎の銀銭を使用させた。

8月10日 はじめて和同開珎の銅銭を使用させた。

12月5日 平城京の地鎮祭を行った。

これらの記述から、大和朝廷の動きがおそろしくスピーディであったことがわかる。