2022年6月6日月曜日

昭和20年、大陸からの塩26万トン

 塩のはなし(4)

梅干しのタネ、2グラムの塩と、田頭の話はずいぶんみみっちいなあ、と思われるのも不本意だ。大量の塩の話を二つほど紹介したい。

昭和50年代、大平内閣の外務大臣をつとめた大来佐武郎(おおきた・さぶろう)という人がいた。太平洋戦争中は大東亜省に勤務して、大陸の資源をいかにして大量に日本に運ぶかという研究をしていた。この人の自伝に次のようにある。

私が最後の大陸出張を終えて帰国したのは、昭和19年の12月の末であった。釜山から下関に向かったが、すでに対馬海峡はきわめて危険な状態になっていた。いつ船が魚雷で撃沈されるかわからないので、船室に入らず甲板に出ていた。私は、大陸からの輸送は昭和20年6月ぐらいまでしかもたないだろうと思った。

「輸送路が数カ月しかもたないとしたら、いったい何を運ぶべきか」これが私にとって緊急の課題であった。これまで軍は鉄鉱石だ、石炭だ、アルミ原料だ、、、と言っていた。もはや時間がない。鉄はいざとなれば、国内の鉄道のレールをはがして調達できるではないか。それでは最後の輸送力を何に使うべきか。

私は昭和20年正月早々、当時日本橋三越のビルにあった化学工業統制会の会長室に石川一郎氏(戦後、初代の経団連会長)を訪ね、意見を求めた。石川氏は言下に答えた。「それは塩と大豆だ。塩は人間の生存に欠くことができない。大豆はカロリーの高い貴重なたんぱく源だ」

私は石川氏が与えてくれたヒントをもとに、昭和20年2月、「本邦経済ノ大陸資源依存状況、並二今後ニオケル大陸物資対日供給方針ニツイテ」という報告書をまとめ、「塩と大豆だ」と陸軍省、海軍省を説いて回った。陸軍は、彼らが考えていた本土決戦に備えるという意味をこめて賛成した。こうして各方面の賛成を得て、昭和20年4月から6月にかけて、緊急輸送の大作戦が展開された。

すでに大型輸送船は底をついていたし、日本海側の大きな港は空襲と米軍による機雷設置で機能が麻痺していたため、八八(ハチハチ)と呼ばれていた880トンの機帆船と上陸用舟艇(陸軍の大発・ダイハツ)を動員して、朝鮮から日本海側の漁港に運んだ。

こうして緊急輸送された塩26万トンと大豆などの穀物74万トンは、8月15日以降にたちまち起こった食糧難に役立った。


私は三光汽船に勤務していたころ、13万トンの塩を輸送したことがある。シンガポール駐在を終え、鉄原課長になってまもなくの頃だから、昭和62年ごろの話である。

我々の課では、ケープサイズと呼ばれる15万トンクラスの船舶を約20隻運航していた。半分程度は新日鉄・住友金属などとの長期契約で、ブラジルや西豪州から日本に鉄鉱石を運ぶ。残りの半分はスポット運航で、その場その場で荷物を確保して運ぶのだが、海運マーケットの極度に悪い時期だったので、ずいぶん安い運賃でブラジルや西豪州から韓国に鉄鉱石を運んでいた。

この時、ある海運ブローカーが、「西豪州から塩を運びませんか?」と持ちかけてきた。なにを運んでも大赤字だ。面白そうだからやってみようと、この塩の契約を決めた。ブローカーからは、食用ではなく欧州の化学会社が工業用に使う岩塩、と聞いた。

荷主から「鉄鉱石の粉塵をきれいに洗い流してくれ」との注文があり、釜山から西豪州までの航海中にこの洗浄を徹底するよう船長にお願いした。かなりきつい作業だったが、船長以下の韓国人クルーは良くやってくれた。

豪州の積み地から、韓国人船長が報告の電話をくれた。「先ほど積み込みを開始しました。ピンクです。ピンク色の宝石のように美しい塩です!」との船長の弾んだ声が、今でも耳に残っている。揚げ地のハンブルグから、各種の手じまい書類と一緒に、ピンク色に輝く塩のカラー写真を送ってくれた。塩は白いものと思っていた私は、その美しさに感激した。韓国人の船長も同じ気持ちだったのであろう。