2026年5月1日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(2・完)

 シルクロードのものがたり(106・完)


木蘭(もくらん)の詩    無名氏

喞喞(そく・そく) 復(ま)た喞喞(そく・そく)

木蘭 戸(こ)に当たりて織(お)る

機杼(きちょ)の声を聞かず

唯(た)だ女(むすめ)の嘆息(たんそく)を聞くのみ

女(むすめ)に問う 「何の思(おも)う所ぞ」

女(むすめ)に問う 「何の憶(おも)う所ぞ」

「女(むすめ) 亦(ま)た思う所無く

女(むすめ)亦(ま)た憶う所無し

昨夜 軍帖(ぐんちょう)を見るに

可汗(かかん)大いに兵を点(てん)じ

軍書十二巻

巻巻(かんかん)に爺(ちち)の名有り

阿爺(ちち)に大児(だいじ)無く

木蘭に長兄無し

願わくは為に(ため)に鞍馬(あんば)を市(か)い

此(こ)れより爺(ちち)に替(かわ)って征(ゆ)かん」

松枝茂夫氏は次のように訳している。

ハーッ、ハーッ、しきりにため息をつきながら、木蘭が戸口に向かって機(はた)を織っている。機の音はとだえがちで、木蘭のため息ばかりが聞こえてくる。「木蘭よ、おまえはだれのことを思っているのか、何を思い出しているのか」

「いいえ、わたしはだれを思うのでも、何を思い出したわけでもありません。わたしは昨夜、徴兵名簿を見たのです。このたび国王は大規模な徴兵を命ぜられ、名簿は十二巻にものぼりましたが、どの巻にもお父さんの名前が記載されていました。(私のお父さんは年老いていて病弱です・田頭挿入)お父さんに代わって兵隊になるような男の子がありません。わたしの上には兄もいないのです。私は馬と馬具を買って装備を整え、これからお父さんの代わりに出征する決心をいたしました」


東市に駿馬(しゅんめ)を買い

西市に鞍韉(あんせん)を買い

南市に轡頭(ひとう)を買い

北市に長鞭(ちょうべん)を買う

旦(あした)に爺嬢(ちちはは)を辞し去って

暮(くれ)には黄河の辺(ほとり)に宿(やど)る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 黄河の流水の鳴くこと濺濺(せんせん)たるを

旦(あした)に黄河を辞し去り

暮(くれ)に黒山の頭(ほとり)に至る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 燕山(えんざん)の胡騎(こき)の鳴くこと啾啾(しゅうしゅう)たるを

木蘭はあちこちの市場をめぐり歩き、駿馬と馬具類ー鞍・鞍敷・くつわ・鞭ーを買いととのえた。ある日の朝、父と母に別れを告げた木蘭は、日暮れに黄河のほとりに達して一夜の宿をとった。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、黄河の流れのザーッ、ザーッという響きが聞こえるだけである。翌朝、黄河を離れ、夕方には黒山のふもとに達した。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、燕山の胡人の乗馬のもの悲しいいななきが聞こえるだけである。


万里 戎機(じゅうき)に赴(おもむ)き

関山(かんざん) 度(わた)ること飛ぶが若(ごと)し

朔気(さくき) 金柝(きんたく)を伝え

寒光(かんこう) 鉄衣(てつい)を照らす

将軍は 百戦して死し

壮士(そうし)は 十年にして帰る

木蘭の従軍した部隊は、遠く万里の彼方、決戦場へと向かった。まるで飛ぶかのように、関所の山をつぎつぎに越えていった。北の冷たい空気がドラの響きを伝え、冷たい光がよろいを照らす。このような戦場で、百たびもの戦いのすえ将軍は戦死したが、若き兵士木蘭は従軍十年ののち、ようやく帰還することができた。


帰り来たりて 天子(てんし)に見(まみ)ゆるに

天子 明堂(めいどう)に座(ざ)す

策勲(さくくん)は 十二転し

賞賜(しょうし)は 百千強なり

可汗(かがん) 欲する所を問う

「木蘭は尚書郎(しょうしょろう)を用(もち)いず

願わくは 千里の足を馳(は)せ

児(じ)を送って 故郷に還(かえ)さんことを」

帰還した木蘭は国王に召し出された。国王は明堂(重要な政務をとるときの御殿)に座して引見した。その功をねぎらって一足飛びに十二階級も昇進させ、千を越える賞与の品々を賜った。そして、さらに言葉をかける。「ほかに欲しいものがあれば申してみよ」木蘭は答えた。「わたくしは尚書郎(注・中央官庁の課長・部長級の地位)というような高い位は望みません。それよりも一日千里を走る馬を駆って、少しでも早く、わたくしを故郷に帰していただきたいのでございます」


爺嬢(ちちはは)は 女(むすめ)の来(きた)るを聞き

郭(かく)を出でて 相扶将(あいふしょう)す

阿姉(あね)は 妹の来るを聞き

戸(こ)に当たって 紅妝(こうしょう)を理(おさ)む

小弟(おとうと)は 姉の来るを聞き

刀(とう)を磨き 霍霍(かくかく)として豬羊(ちょよう)に向かう

我が東閣(とうかく)の 門を開き

我が西閣(せいかく)の 牀(しょう)に座し

我が戦時の 袍(ほう)を脱ぎ

我が旧時(きゅうじ)の 裳(しょう)を着け

窓に当たって 雲鬢(うんびん)を理(おさ)め

鏡(かがみ)に対して 花黄(かこう)を付(つ)け

門を出でて 火伴(かはん)を看(み)るに

火伴(かはん) 皆(み)な驚惶(きょうこう)す

「同行すること十二年 知らず 木蘭の是(こ)れ女郎(じょろう)なるを」

父と母は娘の帰還の知らせると聞くや、城門を出て、手を引きあいながら迎えた。姉は妹が帰ると聞くや、戸口に向かってお化粧を始めた。弟は姉が帰ると聞くや、シュッシュッと刀を研いで、さっそく豚や羊を屠(ころ)しにかかった。やがて木蘭は家に着くと、わが家の東の二階家の戸を開けて入り、西の居間の寝台に腰をかけた。これまで着ていた軍服を脱いで、むかしの衣裳を身につける。窓に向かって髪をととのえ、鏡を見ながら白粉(おしろい)をつけた。その姿で表に出ると、同行の戦友たちは、ひとり残らずびっくり仰天。十二年間も行を共にしていながら、木蘭が女であることにだれも気がつかなかったのだ。


西域や蒙古の人たちは、あまり風呂に入らないらしい。しかし水浴くらいはするだろう。十二年間だれも気付かなかったとは考えられない。不思議、不思議である。

いやいや。そんな細かいことは言うまい。木蘭の生還を心から喜ぶ。めでたし、めでたしであった。













2026年4月24日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(1)

 シルクロードのものがたり(105)

魏晋南北朝時代とは、後漢が滅び隋が中国を統一するまでの動乱の期間をいう。西紀220年から589年までの約370年間で、この時代には数多くの王朝が中国大陸に割拠した。この時代にも数多くの西域詩がつくられているが、その多くは悲しい詩である。その中にあって、珍しく前向きで清々しい詩を見つけた。これを紹介したい。


「木蘭の詩」という。私はこれを読んで感激した。久しぶりに瞼が潤んだ。木蘭という美少女の心意気に勇気をもらった。この詩には王維の「少年行」の最後の句、「縦(たと)い死すとも猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん」の気迫が感じられる。

かなり長い詩で、短編小説のようでもある。この詩をもって「西域詩の紹介」を終えたいと思う。同時に、今まで100回以上にわたって掲載してきた「シルクロードのものがたり」を終了したいと考えている。少し長くなるが、最後までおつきあいいただけるとありがたい。

これは北魏(AD386-535)のころの詩だ。中国には孔子様の生きた戦国時代と、諸葛亮孔明が五丈原で魏と戦った三国時代、過去に二度「魏」という国があった。邪馬台国の女王・卑弥呼が「親魏倭王」の金印をもらったのはAD238年のことで、これは二番目の魏から受けている。

これらと区別するために、三番目の魏のことを「北魏」と呼んでいる。この北魏が滅んだあと50年ほどいくつかの王朝が興るが、それらを滅ぼして589年に統一王朝を建てるのが「隋」である。


この「木蘭の詩」は、この北魏のころに流行した民歌だといわれる。木蘭という名の美少女が老父の代わりに男装して従軍し、大功を立てて凱旋したという実話にもとつ”いて作られた詩で、木蘭本人の作ではない。木蘭という美少女の姓は「花・か」といい、それ以外のことは残っていない。

この項の原稿を書いているとき、古い友人のKさんにランチをご馳走になった。「こんな詩を読んで感激しました」と言うと、「そんな内容の映画、たしか数年前に放映されましたよね」とおっしゃる。しばらくして「ムーラン・戦場の花」という題名だとの連絡をもらった。ビデオをAmazonで購入しようとネットで調べていたら、無料で今すぐパソコンで観れるとの表示があった。仕事を放り出して、すぐにその90分の映画を観た。

たしかにその通りで、従軍する若い兵士の胸に「花木蘭」と木の名札がつけてある。木蘭の勇敢な戦闘シーンを手に汗を握りながら観る。そして匈奴の大軍に追い詰められ、敗北のシーンに移る。将軍も戦死して、しまいには木蘭を含め数名の兵士しか残っていない。

「これはジョン・ウェインの西部劇『駅馬車』の映画と同じだ。観客をハラハラさせておいて、絶体絶命のところで騎兵隊の大軍が現れてアパッチの集団から駅馬車を助けたように、きっと魏の援軍が助けに来るに違いない」

私はこう思って、イライラしながら今か今かと待っていた。ところが援軍は来ない。木蘭たち全員は戦死してしまう。私はがっかりした。「魏のために死す!」と木蘭に言わせて、木蘭を戦死させるほうが観客の胸を打つと、映画の監督は考えたのかも知れない。

このことをKさんに伝えた。「あれっ、私が観た映画では、絶対絶命の局面で魏の皇太子が大軍を率いて助けに来ましたよ。木蘭は無事生還しますよ」とおっしゃる。この映画には二つのバージョンがあることを我々は知った。私が観たのが最初のバージョンの気がする。これに対して観客からのブーイングが強く、Kさんが観た第二バージョンを制作したのだろうか。

映画の製作にはこのようなことが時にあるらしい。西部劇の「荒野の決闘(原題・いとしのクレメンタイン)」や寅さんの「男はつらいよ」にもこの種の話を聞いたことがある。

これは現在の中国の映画製作者の感性の問題なので、この「木蘭の詩」の本質とはまったく関係がない。前置きが長くなってしまった。本題に入る。

(次号に続く)






2026年4月17日金曜日

漢代の詩・二首

 シルクロードのものがたり(104)


非愁(ひしゅう)の歌    伝 烏孫公主(うそん・こうしゅ)

吾(わ)が家 我を嫁す 天の一方(いっぽう)に

遠く異国の 烏孫王(うそん・おう)に託す

穹廬(きゅうろ)を室(しつ)と為し 氈(せん)を壁と為し

肉を以て食と為し 酪(らく)を漿(しょう)と為す

居常(きょじょう)に土(くに)を思うて 心内(うち)に傷む

願わくは黄鵠(こうこく)と為りて 故郷に還(かえ)らん

この女性は漢の武帝の甥にあたる江都王・劉建(りゅうけん)の娘で、名を細君(さいくん)という。烏孫(うそん)国の王、昆漠(こんはく)に嫁した。昆漠の老後はその孫の岑陬(しんすう)の夫人となった。 烏孫国とは新疆とカザフスタンとの国境近く、イリ河流域・天山山脈の北西あたりにあったトルコ系遊牧民族の国である。

当時、漢帝国は西方に勢力を拡大しており、このとき、たまたま烏孫国とのあいだに平和条約が結ばれ、その証明として王族の女性を嫁がせたのである。いわば政略結婚であり、人質ともいえる。このような嫁入りのときは、たった一人で行くのではない。お付きの者が数百人も同行し、その中の数十人は現地で一生、主人である女性公主と生活を共にしたようである。

この詩は本人の自作ではなく、彼女に同行した漢人が公主に代わって、遠く異国に嫁した悲しみを歌った詩といわれている。松枝茂夫氏は次のように訳している。

わたしは天の果てに嫁がされ、遠い異国の烏孫王に身を託すことになりました。丸い天幕(パオ)がわたしの住み家、毛氈(もうせん・毛織の布)が部屋の仕切りです。主食は獣の肉、飲みものは獣の乳。明けても暮れても本土のことを思って胸が痛みます。できることなら大型の雁(かり・ガン)になって、故郷に帰りたいものを。

私の部屋の本箱の片隅に高校時代の漢文の教科書が置いてある。覗いてみたら、この詩が冒頭に出ている。読み下し文もない、和訳もない、漢文だけである。他の箇所の陶淵明の詩も、司馬遷の『史記列伝』も、すべて漢文だけで書かれている。16、7歳の頃、ずいぶん難しいことを教えられていたものだ。


この詩も悲しいが、次の詩はもっと悲しい。これは後漢(AD25-AD220)の時代のものと思われる。

十五にして軍に従いて征く   無名氏

十五にして軍に従いて征(ゆ)き

八十にして始(はじ)めて帰るを得たり

道に郷里に人に逢(あ)う

「家中(かちゅう) 誰か有(あ)る」

「遥(はる)かに看(み)ゆるは 是(これ)君が家」

松柏(しょうはく) 塚(つか) 累累(るいるい)たり

兎(うさぎ)は狗竇(くとう)より入(い)り

雉(きじ)は梁上(りょうじょう)より飛ぶ

中庭(ちゅうてい)には旅穀(りょこく)を生じ

井上(せいじょう)には旅葵(りょき)を生ず

穀(こく)を舂(つ)きて 持って飰(めし)を作り

葵(あおい)を採(と)りて 持って羹(あつもの)を作る

飰(めし)と羹(あつもの)は一時に熟するも

知らず 阿誰(たれ)にか貽(おく)らん

門を出でて 東に向かいて看(み)れば

涙落ちて 我が衣(ころも)を潤(うるお)す

十五で徴兵されて従軍し、八十になってやっと帰郷することができた。道で郷里の人に会い、「わが家には誰かいるかね」とたずねると、「ずっと向こうに見えるのがあなたの家です」と答える。見ればマツやカシワの木がはえ、土饅頭がいくつも重なっている。ウサギがイヌの通り抜けの穴から出入りし、キジが梁(はり)から飛び立つ。庭には野生の穀物が一面にはえ、井戸のまわりには野生のアオイがはえている。さっそく穀物を舂(つ)いて飯を作り、アオイをつんでスープを作った。飯とスープはすぐにできたが、さて一緒に食べてくれる人は誰もいない。門から出て、はるか東方をながめれば、涙はとめどなく流れて着物を濡らす。

なんとも悲しい詩である。

15歳で従軍したというのは理解できるが、80歳の老兵というのは世にいない。おそらくこの人は、蘇武や李陵と同じように、働き盛りのころ、匈奴か胡人の捕虜になったのであろう。北方もしくは西域の地で何十年もの捕虜生活を送り、捕虜交換条約が成立して帰国を果たしたのであろう。それにしても、悲しい詩である。





2026年4月10日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(2)

 シルクロードのものがたり(103)

李陵は自分の家族全員が殺されたと思っていた。それが漢の新政権からの帰国せよとの説得にも応じず、彼が漢に帰らなかった最大の理由である。ところが、幼い息子だけは生き残っていたのだ。もし李陵がこれを知っていたら、彼は祖国にもどっていたかも知れない。


成蹊学園という小さな学校で学んだ私には、将軍・李広と孫の李陵、そして司馬遷には強い思い入れがある。

『史記列伝』の中でも、「李将軍列伝」は白眉だといわれている。筆者の筆にずいぶん力が入っているのが二千年後の異国の読者にもわかる。これは、司馬遷が青年時代に、友人の李陵の引き合わせで、彼の祖父の李広将軍に会ったことがあるからだと思う。

史記列伝のおしまいに、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。次のように記されている。

太史公曰くー

伝(いいつたえ)に、「その身が正しければ、命令しなくても行われ、その身が正しくなければ、命令しても人は従わない」(『論語』子路篇)とあるが、これは李将軍などを言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も、知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。彼の忠実な心が、まことの士大夫に信ぜられていたのである。諺に言う。「桃や李はもの言わぬが、その木の下には自然に蹊(こみち)ができる。桃李不言下自成蹊」 この言葉は小さなことを言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩えることができるのである。

成蹊学園の校名は、この故事に由来する。


李陵の幼い息子が生き残っていたことは、以前、「シルクロードのものがたり(33)」の「65歳の法顕天竺に向かう(4)」で紹介した。

インドへ向かう途中、僧・法顕(ほっけん)は西紀401年ごろ敦煌を経由している。彼が敦煌に到着する直前に、同地でクーデターが勃発した。それまでの無能で無慈悲な太守を、部下の人望が厚かった李暠(り・こう)という将軍が追い出して、自分が太守の座にすわった。旅の僧・法顕はこの新太守の李暠に親切にサポートしてもらっている。

この李暠という人は、「自分は漢の将軍・李広の十六世の孫だ」とみずから名乗っている。すなわち李陵の十四世の孫ということになる。この人は隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人と史書にある。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった郡で、現在の甘粛省の地図を見ると隴西という地がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。この隴西の南東に天水という町が見える。天水市静寧県に成紀という村がある。

じつは、この成紀(天水)が、漢の将軍・李広が生まれたところなのである。司馬遷は「李将軍列伝」の冒頭で次のように言う。「李将軍広(こう)は隴西郡の成紀(せいき)の人である。その先祖を李信(り・しん)という。李信は秦代に将軍になり、燕(えん)の太子丹(たん)を追撃して捕らえた人物である」と。

どの史書にも書き残されていないが、あのとき、長安にいた李陵の友人もしくは親戚の者が、李陵の幼い息子を匿ったと思われる。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である、山奥の隴西郡成紀の近くがふさわしい。この李陵の幼い息子を匿うために裏で指揮を執ったのは、宮刑になる直前の司馬遷だったのではあるまいか、と私はひそかに考えている。司馬遷という人はただならぬ漢(おとこ)であった。


じつは、この李暠(り・こう)の物語には、まだ続きがあるのだ。


618年に唐王朝を建国したのは李淵(り・えん・566-635)であると何度も述べた。李淵が「俺のご先祖は老子様(李耼・り・たん)だ」と自称したことも、以前お話しした。

同時に、李淵は「自分は李暠の八世の孫である」とも名乗っているのだ。千年前の老子様の話は疑わしいものの、こちらはわずか二百年前の話である。中国は文字・歴史の国だ。充分に信ぴょう性がある。かつ、中国の正史(青史)である『唐書』には「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西郡の西紀(せいき)の人である」と書かれている。そして、作家の陳舜臣は「成紀は現在の甘粛省の天水市にある」と指摘している。

すなわち、ここで、李広・李陵・・・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水市の近くだと、ピタリと一致した。

これが正しければ、母方の祖父が初代皇帝高祖・李淵の曾孫、母方の祖母が二代皇帝太宗・李世民の曾孫といわれる詩人の杜甫もまた、漢の将軍・李広や李陵の血を引く人だといえる。







2026年4月3日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(1)

シルクロードのものがたり(102)

蘇武(そぶ)は19年間の匈奴の地での捕虜生活を終え、長安に帰国することになった。別れに臨んで李陵(りりょう)は、胡地において友のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。そのとき李陵は蘇武の前で、この詩を歌いかつ舞ったという。

いきなりこの詩を紹介しても、前後の事情がわからないと、この詩を深く味わうことができない気がする。しかし私のつたない文章では、この詩をつくるに至った李陵の心境を十分に説明することはむずかしい。中島敦の筆を借りるのが一番良いと考えた。彼の短編の名作『李陵』の中からいくつかの文章を引用させていただく。この項は少し長くなるかも知れない。


「漢の武帝の天漢二年(前99年)秋九月、騎都尉(きとい)李陵は歩卒五千を率い、辺塞 遮虜鄣(しゃりょしょう)を発して北へ向かった。 (中略) 陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広(りこう)の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉(しゅせん)・張液(ちょうえき)に在って射を教え兵を練っていた。年齢も四十に近い血気盛りであった」

歩兵五千を率いたというから、二個聯隊を指揮した少将・旅団長くらいの立場であったと思われる。ところが、騎馬に乗った胡兵8万に囲まれ、本軍の大将軍・李広利(りこうり)も副軍の将軍・李陵も共に大敗北を期したのである。

「九月に北へ立った五千の漢軍は十一月に入って、四百の敗残兵となって辺塞に辿りついた。敗報は駅伝をもって長安に達した。武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍の李広利の大軍さえ惨敗している。一支隊の李陵の軍が敗北するのはやむを得ないと思っていた。それに武帝は李陵が戦死していると思っていたのである。ところが翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕らえられて虜(ろ)に降(くだ)ったのだとの確報が届いた。武帝は始めて嚇怒(かくど)した」

ちなみに、李広利という大将軍は李陵の祖父の将軍・李広とは関係ない。別人であり、親戚でもない。史書によれば、「李という名の将校が匈奴の兵の軍事教練を行っている」との情報が武帝の耳に入り、これを李陵だと誤解した帝は激怒した。この人物は李陵とは別人の李緒(りしょ)という人物であったことが後日判明した。「李」という名の将校が軍団の中に何人もいたようである。

「武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。帝の震怒(しんど)を犯してまで陵のために弁じようとする者は無い。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵(ののし)った」

「ただ一人、苦々しい顔をしてこれを見守っている男がいた。いま口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数ヶ月前李陵が都を辞する時に盃(さかずき)をあげてその行を壮(さか)んにした連中ではないか。漠北から使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃(たた)えたのもまた同じ連中ではないのか。人間がそういうものとは知ってはいるが、それにしても不愉快であった」

「その時、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に仕えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず、もって国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして一度破れたが、五千に満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を相手に白刃を冒して死闘している。軍敗れたりとはいえ、その善戦は天下に顕彰(けんしょう)するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、潜(ひそ)かにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。並みいる群臣は驚いた。こんな事のいえる男が世にいようとは考えられなかったからである」

向う見ずなこの男、太史令(たいしれい)・司馬遷が帝の前を退くと、奸佞(かんねい)の一人が武帝に次のようにささやいた。

「司馬遷がこれほど李陵を褒めるのは、帝が信頼されている大将軍・李広利に功が無かったことを言いたいのです。彼をおとし入れんがためです。そもそも太史令程度の分際で(注・俸禄六百石)、帝に対してこのような発言をするのは余りにも不遜な態度です」

おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、司馬遷は「宮刑・きゅうけい」と決まった。これ以降、司馬遷は人として生きることをやめた。屈辱を耐え忍び、ひたすら『史記』の執筆とその完成に一生をささげたのである。


蘇武と李陵は親友で、司馬遷と李陵も友人であった。蘇武と司馬遷がどの程度のつきあいだったのかは分からない。ただ、互いが好意と尊敬の気持ちを持っていたのは間違いないと思う。この三人は二千年以上昔の人なので、生年がはっきりしない。私の想像では、年齢は上から司馬遷・蘇武・李陵の順で、それぞれ2ー3歳の年齢差があったように感じている。ただ、陳舜臣はその著書の中で、司馬遷は李陵より9歳ほど年長と書いている。

小説『李陵』の中で、中島敦は李陵と蘇武の関係を次のように描いている。

「李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中(近衛将校)を勤めていたことがある。天漢元年に蘇武が北へ立ってから間もなく、蘇武の老母が病死した時も、陵は蘇家の墓地までその葬(そう)を送った。蘇武の妻が良人の再び帰る見込み無しと知って、去って他家に嫁(か)したという噂を聞いたのは、陵が北征出発直前のことであった。その時、陵は友のためにその妻の浮薄(ふはく)をいたく憤(いきどお)った」

李陵の老母・妻・子・弟に至るまで一族全員が殺された。

この事実が李陵の耳に入ったのはその半年ほど後のことである。ある漢人の口からそれを聞いた李陵は、立ち上げあってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめたといわれる。

「李陵が匈奴に降るよりも早く、その一年前から、漢の中郎将・蘇武は胡地に引留められていた。元来蘇武は、平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某(なにがし)が匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚(とら)えられてしまった」

その後、蘇武は北海(バイカル湖)のほとりの人無き所に移されて、独りで羊を飼うことを命じられた。牡羊(おひつじ)が乳を出さねば帰るのを許さん、と匈奴の単于(たんう・王様)が言ったという話は有名である。このころ、李陵は蘇武を何度か訪問して、慰労している。

その後、武帝は崩御した。漢の新政権は李陵に対してきわめて好意的で、なんとかして李陵を長安に連れ戻そうといろいろと工作をしている。李陵の友人の何人もが新政権の大臣に就任していた。ちょうどその頃、蘇武は偶然にも漢に帰れることになった。

「漢の天子が上林苑(じょうりんえん)中で得た雁(かり)の足に蘇武の帛書(はくしょ)がついていた云々、というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于(たんう)を説破するための出鱈目であった」

このでたらめをもって、漢側は蘇武を救出することに成功したのである。この方法を使って、北朝鮮から横田めぐみさんを救出することは出来ないだろうか、と時々考えることがある。

蘇武の漢への帰国に臨んで、李陵は友のために宴を張った。蘇武は再度、李陵に一緒に漢に帰ることを強く勧めた。この宴席で、李陵が立ち上がり、舞いかつ歌ったのがこの「別れの歌」である。

別れの歌    李陵

万里を径(わた)って 沙漠を度(わた)り

君(きみ)が将と為(な)って 匈奴に奮(ふる)う

路窮(みちきわま)り絶えて 矢刃(しじん)摧(くだ)け

士衆滅(ししゅうほろ)びて 名已(なすで)に隤(お)つ

老母 已(すで)に死せり

恩を報いんと欲すと雖(いえど)も 将(は)た安(いつ”)くにか帰(き)せん

「蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年(前74年)に胡地で死んだということの外は」と、中島敦は『李陵』という小説をしめくくっている。そうだとすると、李陵は65歳くらいで亡くなったことになる。

(次号に続く)





2026年3月26日木曜日

唐代女性の詩・三首

 シルクロードのものがたり(101)

唐代の若い宮中女性が書いた、次のような詩がある。


袍中詩(ほうちゅうし)  開元(かいげん)の宮人(きゅうじん)

沙場(さじょう) 征戍(せいじゅ)の客

寒苦 若為(いか)にしてか眠らん

戦袍(せんぽう) 手を経て作る

知らず 阿誰(だれ)の辺(そば)に落つる

意を蓄(たくわ)え 多く線(いと)を添え

情を含み 更に綿(わた)を著(ちゃく)す

今生(こんじょう) 已(すで)に過ぎたるなり

願わくは結ばん 後生(ごしょう)の縁

「袍・ほう」とは「わた入れの上着」である。「戦袍・せんぽう」とは寒い場所で兵士が身に着ける「綿入れの軍服」のことだ。

「開元の宮人」とは開元年間(712-741)に宮中で働いていた女性を意味する。二十歳前後の独身女性と思われるが名前は残っていない。王維や李白と同じ頃に生きた女性だ。開元年間にはしばしば外征があった。宮女が綿入れの服を縫い、出征軍人に賜うのがしきたりとなっていた。日本でも日清・日露・大東亜戦争では、同じようなことが行われている。

自分がけんめいに縫ったこの綿入れを、いったい誰が身につけるのか。宮女にはわからない。いったん宮廷に仕えた女性はふつうの結婚は望めなかった。「今生(こんじょう)すでに過ぎたるなり」は実感であった。彼女たちは、せめて「後生(ごしょう)の縁」を結ぶことを願った。この綿入れを着るのは若い男性のはずだ。ある宮女が、ふとこんな詩をつくって、その中にそっと入れてみたのだ。

戦地の若い軍人が、恩賜の軍服のなかに一首の詩を書いた紙片を見つけた。この軍人はきまじめな人だったようだ。上官に報告した。上官は朝廷にこのことを奏上し、玄宗皇帝は全宮廷にこの詩を示したという。

ラブレターもどきを恩賜の戦衣にしのばせるのは、万死に値する行為とみられていた。一人の宮女が「おそれながら、、、」と自首して出た。玄宗は彼女の心情をあわれみ、その詩を得た若い軍人に彼女を妻として与え、女性に対して「朕はいま、おまえに今生の縁を結んでやった」と言ったという話が残っている。

玄宗皇帝というと、楊貴妃の色香に迷い、安禄山に乱を引き起こさせた凡庸な皇帝だと思い、あまり良い印象を持っていなかった。この話を聞いて、なかなか粋なはからいをした皇帝だったと知り、少し好感を持った。


いま一つ、辺境の地にいる夫を想う女性の詩を紹介する。こちらは名前が残っている。内容は、読み下し文だけで充分に理解できる。

夫に寄せる   陳玉蘭(ちん・ぎょくらん)

夫は辺関を戍(まも)り 妾(われ)は呉に在(あ)り

西風妾(われ)を吹き 妾(われ)は夫を憂う

一行の所信 千行の涙

寒(かん)は君の辺に到るも 衣(ころも)は到れりや無(いな)や


次も唐代の女性の詩だが、これは西域詩ではない。面白い詩なのでここで披露したい。

夫を辺境に送り出した妻だけでなく、役人の妻も夫の科挙試験の合否を心配した。進士科の試験はとくに難しかった。たとえ進士に合格しても、栄達するにはさらに博学宏詞科などという上級試験があったそうだ。この詩の中の試験が科挙のどの試験なのかはわからない。

吐羔(と・こう)という役人の妻・趙(ちょう)氏という女性の、「夫下等・夫の落第」というユーモラスな題の詩である。この「趙氏」は先の「陳玉蘭」と同じく、「名媛」と『全唐詩』の中で紹介されている。「良家の子女」という意味である。


夫下第(夫の落第)   杜羔(とこう)の妻趙(ちょう)氏

良人は的的(てきてき)として 奇才有るに

何事ぞ年年 放(はな)たれて回(かえ)る

始今(いま)妾(わ)が面(かお)は 君の面(かお)に羞(は)ず

君若(も)し来る時は 夜の近きに来たれ

落第したのだから白昼堂々と帰ってくるな、と言っているのだ。きびしい奥さんだったようだ。奥さんに尻をたたかれて、杜羔という人は頑張って勉強したようだ。何年か後にやっと合格した。奥さんはまた詩をつくっている。「聞夫杜羔登台・夫杜羔が及第したと聞いて」という題である。

長安 此去(これより) 無多の地

鬱鬱葱葱(うつうつ・そうそう)として 佳気(けいき)浮かぶ

良人得意にして 正(まさ)に年少

今夜酔いて 何処(いずこ)の楼にか眠らん

及第すればしたで、妻にはまた別の心配がある。長安はもはやおそるべき土地ではなくなり、及第した夫は意気軒昂として、まるで若者気取りであろう。勝利の美酒に酔って、今夜はどこの妓楼で眠っていることやら。


この話は、陳舜臣の『唐詩新選』の中に出てくる。

きびしい、かかあ天下のように見えるが、このようなユーモラスな詩をつくることからして、おおらかで明るい人柄の女性の気がする。役人仲間の奥様連中から好かれた、頼りにされた女性の気がする。役人の奥様仲間ではリーダー的な存在だったのではあるまいか。

ちなみに、この杜羔(と・こう)という人は白居易と同時代の人だ。「官は振武節度使から工部尚書(建設大臣)に至った」とあるから、ずいぶん立身出世した人である。内助の功が大きかったのだろう。

白居易の最後の官職は「刑部尚書(法務大臣)」だから、この二人は役人・政治家としてはいわば同格の地位だ。高級官僚だから詩をつくったのは間違いない。そう思い、この杜羔という人の詩を探してみたのだが見つからない。残ってないところから察し、奥さんに比べるとご主人は詩が下手だったようだ。











2026年3月23日月曜日

唐代の西域詩・涼州詞(りょうしゅうし)

 シルクロードのものがたり(100)

涼州詞(りょうしゅうし)というのは西域を詠った辺塞詩(へんさいし)の中の一つのジャンルといってよい。この涼州詞は玄宗皇帝の時代に長安で流行した。王翰(おう・かん)と王之渙(おう・しかん)の二人が、この涼州詞の巨頭といわれている。

涼州は狭義では甘粛(かんしゅく)省の武威(ぶい)郡だが、広義には甘粛省の北西全体を指す。漢代の河西四郡の武威(ぶい)・張液(ちょうえき)・酒泉(しゅせん)・敦煌(とんこう)を含み、いわばシルクロードの入り口にあたる地域である。


王翰(おう・かん・687-726)

この王翰という人は李白や王維よりひとまわり年上で、孟浩然より二歳年長だ。酒を好み、家に名馬と美妓を集めて、狩猟や宴会にあけくれた豪放な性格の人だったようだ。『唐詩選』に収録されているこの人の「涼州詞」は特に有名だ。ただし、本人は涼州での勤務はない。みやこ長安で想像の上でつくられた詩である。

涼州詞   王翰

葡萄の美酒 夜光(やこう)の杯

飲まんと欲すれば 琵琶馬上に催(うなが)す

酔うて沙場(さじょう)に臥(ふ)すも 君笑うこと莫(なか)れ

古来征戦(せいせん) 幾人か回(かえ)る

この詩にまつわる興味深い話を聞いたことがある。

日本軍が中国に侵攻した頃だから、昭和12-3年頃の話だと思う。汽車の中で日本軍の若い将校が、酒の酔いにまかせて傍若無人なふるまいをした。車中の中国人はそれを見て眉をひそめたが、後難を恐れてだれも注意しようとしない。たまたま同じ車両に日本人が乗りあわせていた。漢詩に明るい人だったようだ。これを見かねて「酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」と書いて中国人に示したところ、かれらは苦笑しながらうなずいて納得してくれたという。

この「夜光の杯」は正倉院にもあるイラン方面から入った「ガラスのコップ」か、それとも「玉(ぎょく)か石をくりぬいた杯」なのか、昔から議論がある。私は、自分がこの前のシルクロード旅行で一個一万円で買った、ぐい飲みの杯に似た、「蛍光物質の入った原石をくりぬいた杯」の気がしている。


王之渙(おう・しかん688-742)

王翰より一歳若い人で、王翰とともに、「涼州詞の双璧」といわれている。進士合格のエリートだが人つ”きあいが悪く、詩人としては有名だが役人としては出世しなかった。この人も王翰と同じく辺境には行っていない。昨年秋のシルクロード旅行のとき、最近造られた玉門関の建物の壁に、この人の次の詩が大きく描かれていた。

涼州詞   王之渙

黄河(こうが)遠く上(のぼ)る 白雲の間(かん)

一片の孤城(こじょう) 万仭(ばんじん)の山

羌笛(きょうてき)何ぞ須(もち)いん 楊柳(ようりゅう)を怨むを

春光(しゅんこう)度(わた)らず 玉門関

辺境の守りに動員された兵士たちの孤絶した心境を代弁している詩といわれる。守屋洋氏は次のように訳している。

黄河を遠くさかのぼっていくと、幾重にもかさなる山々に囲まれて、ポツンと小さな町が横たわっている。羌(きょう・チベット系の民族)の人々よ、いくら笛が好きだからといって、なにもそんなに物悲しい別れの曲ばかり吹き鳴らすことはないではないか。ここ玉門関までは、春の風さえ渡ってこないのだから。


岑参(しん・じん・715-770)

上記の王翰・王之渙の二人が「涼州詞の双璧」といわれているが、この岑参という人も盛唐の一流詩人だ。杜甫・李白・王維に次いで第4位、28首が『唐詩選』に収録されている。横綱級の詩人といってよい。

先の二人が西域に足を踏み入れていないのにくらべ、この岑参はウルムチ・クチャ方面に節度使の幕僚として10年以上も従軍している。進士合格の文官だったので、日本陸軍にたとえれば主計中佐か大佐のような立場だったと思われる。辺境への従軍は自ら志願したものだというから、冒険心に富んだ人だったようだ。杜甫より3歳若く、杜甫とつきあいのあったことが記録に残っている。

この人の場合は、長安において想像で書いたのではなく、最前線に身を置いて書いた詩なので、涼州詞というより「辺塞詩・へんさいし」というほうが適切かも知れない。いくつもの名詩を残している。

封大夫(ほう・たいふ)の播仙(はせん)を破るの凱歌(がいか)  岑参

漢将 恩を承(う)けて 西のかた戎(じゅう)を破(やぶ)る

捷書(しょうしょ)先(ま)ず奏す 未央宮(びおうきゅう)

天子預(あらかじ)め 麟閣(りんかく)を開いて待つ

只今(ただいま)誰(たれ)か数(かぞ)えん 弐師(じし)の功(こう)

封(ほう)大夫とは節度使であった封常清という人で、岑参はこの人の幕僚であった。節度使の下には何人もの将軍がいた。「漢将」とは漢代の大将軍「李広利・り・こうり」のことで、「弐師・じし」とは漢の武帝が李広利に与えた尊称である。

「漢の大将軍・李広利は戎(じゅう・西方の異民族)を破り、中央宮へその戦勝が報告された。今回自分の上司である封(ほう)節度使が播仙(はせん・夷狄)を破った大勝はそれ以上の戦功である。この大手柄の前には李広利大将軍の功績さえも色あせる」といった意味であり、自分の上司の手柄を大きく描いた祝賀の詩である。封(ほう)節度使は、自分の功績を讃えてくれる良い部下を持った、と喜んだに違いない。

日露戦争に奥大将の第二軍の軍医部長として従軍した森鴎外は、文官ではなく医官だが、二百三高地で文筆家として慰霊の文章をいくつか書き、この岑参と似た役割をはたしている。


京(けい)に入(い)る使いに逢(あ)う  岑参

これは沙漠を西に旅する途中、都へ向かう使者に出会ったときの詩だ。この東方に向かう使者は、岑加の知人であったように思える。

故園(こえん) 東を望めば 路漫漫(みちまんまん)たり

双袖(そうしゅう) 竜鍾(りょうしょう)として涙乾(かわ)かず

馬上に相遭(あいお)うて 紙筆(しひつ)無し

君に憑(よ)って伝語して 平安を報ぜん


いま一つ、岑参の詩を紹介する。

碩中(せきちゅう)の作   岑参

馬を走らせて 西来(にしのかた)天に到(いた)らんと欲す

家を辞して 月の両回円(りょうかいまど)かなるを見る

今夜知らず 何(いず)れの処(ところ)にか宿らん

平沙万里(へいさばんり) 人煙(じんえん)を絶つ

「月の両回円か」とは二ヶ月経ったという意味。「碩(せき)」は小石のまじった沙漠のことだ。我々はシルクロードの旅で、トルファン・ウルムチ間を高速バスで横断したが、そこは「礫砂漠・れきさばく」といわれる石交じりの沙漠だった。あのあたりでつくった詩かも知れない。




玉門関の壁にある王之渙の詩





2026年3月16日月曜日

唐代の西域詩・李白

 シルクロードのものがたり(99)


子夜呉歌(しやごか)   李白(701-762)

長安 一片の月

万戸 衣(ころも)を打つの声

秋風 吹いて尽きず

総(すべ)て是(こ)れ 玉関の情

何(いず)れの日にか 胡虜(こりょ)を平(たい)らげ

良人は 遠征を罷(や)めん

これは天宝二年(743)、李白42歳、念願の朝廷歌人になった直後につくられた詩である。「子夜・しや」というのは娘さんの名前で、南北朝の初め東晋のころの人だという。陶淵明が生きていた時代の女性である。題を直訳すれば「子夜という娘がつくった南国・呉の歌」となる。李白はそれを長安に持ってきて、西域のことを詠った。珍しいスタイルの詩である。

この詩のスタイルは白居易の「長恨歌」にも似ている。長恨歌は玄宗と楊貴妃のロマンスを描いたものだが、時代があまりにも近くてなまなましい。よって、「漢皇 色を重んじて傾国を思う」と、冒頭から漢代の話として詩をはじめている。ノンフィクションではなく小説ですよ、とのスタイルをとっている。

この「子夜呉歌」は、出征軍人の妻に代わってその歎きをうたったものだ。見方によれば、反戦歌ともとれる。与謝野晶子の「ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」に通じるものを感じる。太平洋戦争中であれば二つとも大問題になったと思うが、唐王朝も日本の明治政府も、「女性の優しい感情表現」としてこれらを許しているところが奥ゆかしい。

土岐善麿は次のように訳している。「都の空の月冴えて きぬたぞ響く家ごとに ただふりしきる秋風の 関路にかよふうき思い いつかはあだをうちはてて 帰るわが夫(せ)を迎えまし」 悪い訳とは思わないが、原文の読みくだし文のほうが人の心を打つ。

この「長安一片の月」は子夜呉歌の其の三で、この次に其の四がある。

明朝 駅使(えきし)発せん

一夜 征袍(せいほう)に絮(じょ)す

素手(そしゅ) 針を抽(ひ)くこと冷ややかに

那(な)んぞ剪刀(せんとう)を取るに堪えんや

裁縫(さいほう)して 遠道に寄す

幾日(いくにち)か 臨洮(りんとう)に到らん

あすの朝、飛脚がたつので、夫に届けてもらう綿入れを、徹夜して縫っている。針をもつ手は冷える。はさみを持つのもなんとつらいことか。これを縫い上げて、遠い道のりを飛脚に託す。夫のいる臨洮に到着するのは、いつのことだろう。


次の李白の詩は、はつらつとして気持ちが良い。

少年行(しょうねんこう)  李白

五陵の年少 金市(きんし)の東

銀鞍白馬(ぎんあんはくば) 春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何処(いずこ)にか遊ぶ

笑って入(い)る 胡姫(こき)の酒肆(しゅし)の中

「いきで遊侠の富裕層の少年たち」を主人公にしたスタイルをとった詩であるが、実際は李白自身がこの「胡姫の酒肆」にひんぱんに通っていたようだ。李白の父は富豪の商人と前に紹介したが、大富豪であったらしい。李白という人は一生を通じてお金に何不自由なく、大酒を飲み旅を続けた、恵まれた人であった。飲みっぷりは良いし、話題も豊富、西域の言葉も話せる、そしてなによりも金払いが良い。「胡姫の酒肆」では大いにもてたに違いない。

この外人バーの金髪で青い目のホステスたちは、本人たちがイランやサマルカンドから出稼ぎに来たのではないようだ。当時、長安には百年前、二百年前に西方から渡来した青い目の胡人たちの大集落があった。ここの娘さんの中の美人が、この外人バーで働いたようである。

この「少年行」という題の詩は、当時長安で流行したらしい。王維にもこの題名の詩がある。王維の「少年行」を紹介する。漢代の任侠少年の心意気をうたったもので、最後の一行は特に有名で、禅宗の高僧が好んで使う言葉になった。一行目の「羽林郎」は「近衛将校」、二行目の「驃騎」とは「驃騎将軍・ひょうきしょうぐん・霍去病・かくきょへい」のことである。


少年行(しょうねんこう)  王維

出身 漢に仕(つか)う 羽林郎(うりんろう)

初めて驃騎(ひょうき)に随(したが)って 漁陽(ぎょよう)に戦う

たれか知らん 辺庭において苦しまざるを

縦(たと)い死すとも 猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん

李白の項で王維の詩を紹介してしまった。おしまいは李白の詩で締めくくりたい。


漢詩のなかに「詠史・えいし」と呼ばれるものがある。文字通り歴史をテーマとして詠んだ詩で、唐代にかぎらず中国の歴代の詩にこの詠史は数多く残されている。先の王維の「少年行」も「詠史」に分類することができるかもしれない。次の李白の「蘇武・そぶ」は詠史のなかで特に秀作といわれている。匈奴の捕虜となり十九年、バイカル湖のほとりで羊を飼い、雁(かり)の足にくくりつけた手紙でその生存がわかり、めでたく唐に帰還したというあの有名な話である。蘇武の親友・李陵の名も入れて、じつに簡潔に蘇武の苦難を描いている。

蘇武(そぶ)   李白

蘇武 匈奴に在(あ)り

十年 漢節を持(じ)す

白雁(はくがん) 上林に飛び

空(むな)しく伝う 一書札

牧羊 辺地に苦しみ

落日 帰心絶ゆ

渇(かつ)しては 月窟の水を飲み

飢えては 天上の雪を餐(さん)す

東に還(かえ)らんとして 沙塞(ささい)遠く

北に愴(いた)む 河梁(かりょう)の別れ

泣いて 李陵の衣(ころも)を捉(と)り

相看(あいみ)て 涙血を成す

この蘇武十九年の捕虜生活とその帰還、および親友・李陵との別れの物語に、中国人だけでなく、過去多くの日本人が感動したようだ。江戸時代には狩野派の何人もの絵師や渡辺崋山などがこの蘇武の絵を描いている。明治期に入ってからも、橋本雅邦・中村不折をはじめとして多くの画家がこの詩の情景の名画を残している。私は不折の蘇武と李陵の別れを描いた「蘇李訣別」の絵が特に好きだ。













2026年3月9日月曜日

唐代の西域詩・王維(2)

 シルクロードのものがたり(98)

じつは、ここから先は、王維ともシルクロードともまったく関係ない。当時の極東アジアの政治・軍事についての私の考察と私見である。本題からは大いに脱線するが、おつきあいいただければありがたい。


朝鮮半島に「安東府」が置かれたのは漢の時代である。その前に、漢人の衛(えい)氏が朝鮮半島の北部一帯を支配していたが、漢の武帝が軍を派遣してこれを滅ぼした。そして楽浪郡を含め四郡を漢の出先機関とした。すなわち、朝鮮半島の北半分は漢の植民地になった。BC108年のことだ。そして、現在の平壌(ピョンヤン)に「安東府」を置いた。当然ながら、このときの安東府の長官である「安東将軍」は漢人であった。

それから400年後、AD313年に勢力を拡大した高句麗によってこの楽浪郡は滅ぼされた。高句麗以外にも新羅・百済(ひゃくさい)などが勢力を強めてきた。そこで中国は、これらの朝鮮半島の国々の王様に「安東将軍」の称号を与え、間接的に朝鮮半島を支配下に置くという方針に切り替えた。漢人の兵士は引揚げた。中国にとっては軍事費節減にもなった。

当時の中国のやり方は、アメリカ合衆国が現在、日本・韓国・フィリピンなど極東から自国の軍隊を縮小して、それぞれの国に軍事費の負担を増やすよう求めている姿に似ている。


ここで、中国にとって都合の良いことが発生する。「飛んで火にいる夏の虫」と言っても良い。朝鮮半島の東にある列島の国王(倭王)が、「自分も安東将軍に任命して欲しい」と言ってきたのである。中国側は大いに喜んだ。『宋書』には次のようにある。「438年 宋・文帝 倭国王珍(反正天皇?)を安東将軍に叙す」「462年 宋・孝武帝 倭国王の世子の興(安康天皇?)を安東将軍に叙す」

これにより、中国の東方の勢力範囲は日本列島にまで拡大したことになる。

この頃の倭王の多くは「大将軍」の称号が欲しかったようだ。朝鮮半島の国々と同じ「将軍」では面白くない、という気概があったのだろう。宋の順帝、昇明2年(478)の『宋書』の記述はとても面白い。倭王・武(雄略天皇?)が順帝に奉じた上表文には次のようにある。

「自分は東に毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐこと九十五国なり」と。あたかも日本列島の面積が中国大陸に匹敵するくらい広いと印象つ”けるような、大言壮語の上表文である。「このような大国の王であるから、自分を安東将軍ではなく安東大将軍に任命して欲しい」と言っているのだ。

このブログで以前、「精力絶倫・雄略天皇」の題でこの天皇のことを紹介した。精力絶倫であると同時に、やる気満々の積極的な気質の人であったようだ。

面白いことに、中国側はこれを認めている。

「詔(みことのり)して武を使持節・都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙す」との辞令を発している。なんだか「朝鮮半島を含めた極東の政治・軍事はすべてお前さんに任せるよ」と言っているような、たいそうな肩書である。

もっとも、丁寧に中国史の年表を見ると、「宋」という王朝はこの年478年に滅亡して、翌479年には「斉」という王朝が建国されている。その23年後には「斉」もまた滅び、「梁」の武帝があらたな国を建国している。だから、滅亡寸前の宋王朝にとって、倭王・武の肩書どころではなかったのだ。「やりたいというのだから、やらせてやれよ」程度の話で朝儀は決したのであろう。倭王・武は、いわば、どさくさに紛れて安東大将軍になった。

かたや、日本史の年表を見ると、この年478年に雄略天皇は崩御している。安東大将軍になった喜びを、本人が味わったかどうかはわからない。


日本男児の私としては、「日本はいまだかつて他国の属国であったことはない」と言いたいのではあるが、上の出来事からして、残念ながら、3世紀から6世紀の日本が中国の属国であったことは否定できない。

これに真っ向から反旗をひるがえしたのが聖徳太子(574-622)である。この人は偉い人であった。聖徳太子や藤原鎌足・藤原不比等・粟田真人たちの努力で、日本が中国の属国から離れてすでに千数百年が経つ。ただ残念なことに、現在の日本国は、またしてもアメリカ合衆国の属国の立場にある。大きな戦争に負けたのだから仕方がないことかも知れない。

アメリカは太平洋戦争で日本に勝利した。日本の各都市への無差別爆撃や原子爆弾の投下など、非人道的な行為に心やましい気持ちがあったのだろう。戦後、当面の間、食料の援助を含めて日本をおおいに助けてくれた。これには感謝している。その後、ソ連の東アジアへの赤化を食い止める防波堤として、アメリカは自国の西にある日本を「安西将軍」の立場に置いた。日本は経済発展を成し遂げると同時に、アメリカ側の期待に充分に応えた。

そして現在、アメリカは中国の勢力拡大を抑えるため、「日本を安西大将軍にしてやる。だからもっと金を出せよ」と言ってきている。馬鹿なふりをして、嬉しそうな顔をして、この「安西大将軍」の称号を受けるのが良いのだろうか?アメリカ帝国の皇帝様から「安西大将軍」の称号を受けるのは気が進まない。私はこれに躊躇している。そうかといって、中華帝国の皇帝様から「安東大将軍」に任命してもらうのはまっぴらごめんだ。

どうすれば日本は真の独立国家になれるのか。

鎌倉時代、北条時宗の頃のような「凛とした独立国家」になりたいものだ。そのためには、日本人は、そして私自身は、どうすれば良いのか。私は近頃このことをまじめに考えている。







2026年3月2日月曜日

唐代の西域詩・王維(1)

 シルクロードのものがたり(97)


元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る   王維(701-761)

渭城(いじょう)の朝雨 軽塵(けいじん)を浥(うるお)し

客舎青青(かくしゃせいせい)として 柳色(りゅうしょく)新たなり

君に勧む 更に尽くせ一杯の酒

西のかた陽関(ようかん)を出つ”れば 故人無からん


この詩は以前に紹介したが、もう一度取り上げてみたい。今回シルクロード旅行をご一緒した方々は、大学教授を含めて知的レベルの高い人が多かった。ある晩の夕食のとき、この詩が話題になった。この詩は高校の漢文の教科書に出てくるので、日本人のだれもが知っている。

ある方が、「それにしても、夜を徹して朝まで飲み続けていたんですね。出発する元二さんは馬に乗ってフラフラしていたでしょうね」とおっしゃる。私自身、高校時代からこの詩が好きだったが、「夜を徹して朝まで飲んでいた」という認識はなかった。じっくりこの詩を読むと、そうであることがわかる。

この話を聞いて、私が以前に抱いていた疑問がふたたび頭にもたげてきた。この詩について、「王維の親友である元二(元兄弟の二番目の弟)を見送ったときの詩」と多くの先生方が解説していることへの疑問である。王維が若い時これを書いたのがわかれば、私の疑問は解消されるのだが、それはどの解説書にも書かれていない。

確たる証拠はないのだが、どうも私には、この詩が王維の晩年とは言わないまでも、中年以降の作品の気がしてならない。もしそうであれば、主人公の「元二さん」は、王維の親友の息子、もしくは親友の弟だったのではあるまいか。というのは、このように遠方に使いに行く人物の年齢は三十歳前後だと思うからだ。軍人であれば大尉か少佐、文官であれば課長補佐クラスが、このような遠方への使者として派遣されるのが世界史や日本史の通例である。

いま一つ。クチャに使いに行く人物が王維の親友であれば、「元二」(元兄弟の二番目の弟)というあやふやな表現ではなく、まじめ人間の王維であるから、きちんと親友の下の名前を書いたに違いない。

張騫が漢の武帝の命令で、100人の供を連れて大月氏国に向かったのは、彼が30歳ごろである。瀬島龍三が大本営参謀の身分を隠し、シベリア鉄道を使って同盟国ドイツに使いに行ったのは、彼が30歳、少佐の時である。

この役職には機敏な判断力と同時に頑強な体力が求められる。少尉・中尉クラスの若造では実力不足で、大佐以上の老齢では体力的にきつい。王維と親しかった元二の父親もしくは長兄が、社会的な地位がありかつ有名な詩人でもある王維に、息子もしくは弟のために、咸陽で開かれる送別会とそこでの詩会への参加をお願いしたような気がしてならない。

昨年、私がこの詩をあらためて読んで、それ以降半年間も「変だな、変だな」と悩んだ話は以前お話しした。シルクロード旅行にそなえ、現在の中国の地図をながめていて「安西」という都市を発見したことにより、その悩みが始まった。

地図を見ると「安西」は敦煌の東北200キロの場所にある。すなわち、玉門関や陽関よりも長安寄りに位置する。そこへ使いに行く元二さんに対して、「西のかた陽関を出ずれば故人無からん。だからもう一杯飲めよ」と酒を勧める王維の言葉に、とても違和感を感じていた。

その後何冊かの本を読んで、この「安西」という言葉のもとの意味は、固有の地名ではなく「西方を安んじるために安西将軍が駐屯する場所」であることを知った。中国の国力の強弱によって、この駐屯地はあちこちに移動している。王維がこの詩を詠んだとき唐の勢力範囲はとても広大で現在のウズベキスタンまで至っている。このときの「安西府」は敦煌・陽関より1000キロも西方のクチャ(庫車)にあったことを知り、ようやく納得できた。

安西があるのだから、当然、安北・安南・安東もある。それぞれの地に、数千の兵を率いる将軍が駐屯していた。唐の勢力が強い頃の安北はバイカル湖の近くにあったが、北方の匈奴の勢力が強くなると500キロほど南方に後退している。ほぼ一貫して同じ場所にあったのは、現在のハノイにあった安南府だけである。

日本人の私にとって気になるのは「安東」である。倭の五王といわれる日本の古代の天皇が「安東将軍」の称号を中国の皇帝や王様からもらったという話が、頭の片隅にあったからである。

(次号に続く)



玉門関・陽関の北東に「安西」が見える





2026年2月24日火曜日

王維・李白・杜甫の小伝

 シルクロードのものがたり(96)

唐代のシルクロードの詩を紹介する前に、盛唐の三傑ともいえる王維・李白・杜甫について、自分が感じている人物像を語ってみたい。私には三人の詩そのものについて評論する学識はない。「人柄と各人の雰囲気」といった視点で、三人のことをお話ししたい。


王維(701-761)

私が一番好きな盛唐の詩人は王維だ。一緒にお酒を飲むとすればこの王維と飲みたい。人物が誠実で、かつ人柄に艶(つや)があり、おとこ気もある。安心して楽しい酒が飲めそうな気がする。李白は皇帝の呼び出しにも応じず仲間と酒を飲んでいた人だ。その強烈すぎる個性に圧倒されそうで、気が進まない。杜甫は陰気くさく、旨い酒が飲めそうにない。

王維の母親は篤い仏教信者で本人も仏教に帰依している。三十歳のころ妻を亡くし生涯独身で通したというから、当時としては珍しい。名門の出で、父・母の親族から何人かの宰相が出ている。本人も二十歳で進士に及第しているから超エリートだ。それでいて、威張ることのない優しい親切な人柄で、兄弟仲も良かった。

12歳年長で、田舎の山中から都に出てきた貧乏な野人・孟浩然を慕い、役所の実力者への紹介や経済的なサポートなど、なみなみならぬ援助を行っている。三分の侠気というか、漢気(おとこぎ)を感じさせる人物だ。四百年前の賢人・陶淵明を尊敬し、再び世の人々に広く知らしめたのは王維だといわれる。どの学者も言ってはいないが、陶淵明の偉大さを王維に教えたのは、孟浩然ではあるまいかと私はひそかに思っている。

安碌山の乱では逃げ遅れて捕虜になった。脅迫されたとはいえ、安禄山政権の官職に就いたので、後日、玄宗皇帝が復権したときこれが問題となり、反逆罪で死刑になる可能性があった。多くの友人たちの助命運動により、同時にのちに宰相になる弟の王縉(おう・しん・この人は82歳の長寿を得ている)が兄を助けるため自分の官職を捨てるという行為により、本人はわずかに官位を下げられただけで復権している。

この事件をのぞけば、王維の人生は全体としては平安で、大きな左遷や失脚もなく天寿をまっとうしている。杜甫も同じように安禄山の乱で逃げ遅れているが、王維のような進士合格のエリートではないので、安禄山政権からの官職への誘いはなかった。


李白(701-762)

李白は天才、という説にはまったく同感だ。生年は王維と同じで、没年は王維より1年遅い。王維の人柄に仏教の香りが感じられるのにくらべ、李白には道教の匂いを感じる。

余に問う 何の意ぞ碧山(へきざん)に棲(す)むと

笑って答えず 心自(おのず)から閑なり

桃花流水 杳然(ようぜん)として去る

別に天池の人間(じんかん)に非ざる有り

この「山中問答」には、道教の匂いが特に強い。

李白の氏素性ははっきりとはしない。父親の名前も残っておらず、西域から中国にやってきた商人の息子だといわれている。じつは、玄奘の『大唐西域記』の中に、現在のキルギス・タジキスタンあたりに「中国から亡命した漢人三百家族が住む村がある」との記述がある。玄奘がここを通過したのは、李白が生まれる70年ほど前である。

現在の中国では「李白は西域に移住した漢人の家に生まれ、幼少のころ裕福な商人であった父と共に蜀の国(四川)に住みついた」というのが有力な説らしい。これによって、以前いわれていた漢人ではなく西域の人種という説は否定されている。李白が西域にまつわる詩を多く残しているのは、その出生によるのかも知れない。李白にくらべると、杜甫の詩の中には西域に関係する詩は発見できない。もっとも、私が読んだのは千四百あるといわれる杜甫の詩のほんの一部だから、丁寧に読めばあるのかも知れないが。


杜甫(712-770)

杜甫は貧乏して苦労した人という印象を我々は持っている。潭州(湖南省長沙市)から岳州(湖南省岳陽市)を経由して故郷に向かう途中、59歳で舟中で病死した。息子にはその亡骸(なきがら)を700キロ北方の郷里、洛陽の東の河南府鞏県(現在の河南省鄭州市)に運ぶ資力がなかった。

杜甫の死後43年を経て、孫の嗣業(しぎょう)という人が辛苦して金をつくり、その遺骨を郷里に運び先祖の墓地に葬ったという。

中唐の詩人に元稹(げん・しん・779-831)という人がいる。白居易(白楽天)の親友で唐詩においては関脇クラスの人だ。当時この人は江陵(湖北省江陵県)に左遷されていた。孫の嗣業が移葬の途中、杜甫の遺骨を背負ってこの人の自宅を訪問して、墓石に彫る銘文を依頼した。杜甫を尊敬していた元稹は、その名誉に感激しながら文章を練ったという話が残っている。

この元稹という人は、科挙試験では白居易と同期で、元稹が一番、白居易が四番で進士に合格したと記録にある。役人・政治家としては元稹のほうが出世して、短期間ではあるが元稹は宰相を勤めている。ただ、詩人としては白居易がだんぜん上で、白居易が中唐詩壇の横綱とすれば、元稹は関脇クラスであろう。

関脇だ、大関だと、私は無責任に言っているが、唐代の高級官僚は全員が漢詩をつくった。唐王朝三百年を合わせると、何万人、何十万人もの科挙試験合格の高級役人がいたはずだ。その中で『唐詩選』に選ばれている作家は128人にすぎない。これを考えれば、これら全員が横綱クラスと言うのが正しいのかもしれない。そのような判断をすれば、この元稹も横綱である。


貧乏ではあったが、血統・家柄からすると、杜甫は唐の詩人の中でも飛びぬけた名門の出身である。名門出身の王維ですら、とてもかなわない。

父方の祖父・曾祖父・それ以前の先祖たちの中には、唐・西晋、さらにさかのぼって漢の時代に、当時の歴史に名を留めた官僚・学者・将軍が何人もいる。かたや、母親(崔・さい氏、崔氏は唐代の超名門)の父(杜甫の祖父)は唐の初代皇帝高祖・李淵の曾孫にあたり、母親の母(杜甫の祖母)は二代皇帝太宗・李世民のこれまた曾孫であるというから、ただごとではない。

杜甫には「春望」という有名な詩がある。「国破れて山河あり」のあの詩である。長安が安禄山の軍隊に占領され、杜甫はその賊軍の虜(とりこ)になった。唐王朝空前の国難の中で書かれた憂国の詩だ。杜甫が初代高祖・二代太宗の血を引く人だと知っていると、この詩をより深く味わうことができると思う。

李白は洛陽での宴会の席で、ひとまわりほど年下の杜甫に会った。すでに天下の大詩人の名声を得ていた李白が、末席で小さくなっている無名の貧書生の杜甫に声をかけた。「おい杜甫君、こっちに来いよ。一緒に飲もうではないか!」と呼び寄せたといわれる。それ以来、李白は杜甫を可愛がり、二人で一緒に一年以上も旅に出たりしている。杜甫の詩才を愛したのがその理由であろうが、名門に対する憧れの気持ちが強かった李白が、杜甫をあれほど可愛がった理由だと説く学者もいる。

『唐詩選』という書物は、明代の李攀竜(り・はんりょう・1514-1570)が編纂したもので、全部で465首が収録されている。ちなみに掲載数の多い詩人の四傑は次の通りである。杜甫51、李白33、王維31、岑参28。










2026年2月18日水曜日

シルクロードにまつわる漢詩

 シルクロードのものがたり(95)

「シルクロードのものがたり」と題し、長いあいだ掲載してきた。おしまいに十回ほど、西域をテーマにした漢詩を紹介してこのシリーズを終えたいと考えている。読者の多くはもの知りなので、私がつたない文章で紹介する必用はないのかも知れない。自分自身がこれらの西域詩を楽しみたいという気持ちで、少しばかり紡いでみたい。


中国が西域に勢力を大きく拡大するのは、漢の武帝以降である。よって、漢・魏晋南北朝・唐と歴史の流れに沿って紹介するのが自然ではあるが、私は唐詩からはじめたいと考えている。

理由は、西域をテーマにした詩には「悲しい詩」があまりにも多いからだ。漢代から魏晋南北朝時代の詩は、読んでいて悲しくてやりきれない。心が沈みそうになる。

その点、唐代の詩にも悲しい詩は多いのだが、それでも王維や李白の詩の中には「はつらつとした気持ちの良い詩」がいくつか見える。また、王翰(おう・かん・687-726)・王之渙(おう・しかん・696-?)・岑参(しん・じん・715-770)のように、「涼州詞・りょうしゅうし」や「辺塞詩・へんさいし」といわれる詩の分類で、西域をテーマにした魅力的な詩がいくつもある。

このような理由で、時代的には西域詩の後半に位置する「唐詩」から先に入り、そのあとで漢・魏晋南北朝の詩をいくつか取り上げたいと考えている。唐詩といっても西域をテーマにした詩は「盛唐」に多い。この頃、中国が西域に勢力を大きく拡大したからである。


私は漢詩については素人で、自分でつくることはできない。ただ、高校時代から漢詩が好きで自分なりに読んできた。陶淵明・魏徴・王維・白居易・杜牧・蘇軾・陸游が特に好きだ。これらの人たちに師匠・兄貴分・お友達のような尊敬と親しみを感じ、今まで各人の詩を楽しんできた。

特に陶淵明と蘇軾の二人は自分の「人生の師匠」のような気持でいる。「お友達」として特に大切にしているのは王維と白居易の二人である。





2026年2月9日月曜日

玄奘三蔵の話(6・完)

 「長安での二十年」(3)

シルクロードのものがたり(94)

二代太宗皇帝(李世民)が崩御するのは貞観23年(649)の5月である。よって玄奘が太宗に仕えた期間は4年5ヶ月と短い。それ以降の15年間は、三代高宗に仕えるのだが、玄奘を強くサポートしたのは高宗以上に皇后、のちの則天武后であったことがいくつもの史書から読み取れる。

武后の母親は熱心な仏教徒であった。武后が長男(のちの中宗・李顕)を出産するときには玄奘に袈裟を贈りお経を読んでもらっている。また玄奘が亡くなったあと、彼を祀るために武后は長安と洛陽に仏光寺を建立している。高宗が太宗よりも仏教への信仰が篤かったのは皇后の影響だといわれている。この則天武后の玄奘に対する尊敬の気持ちは、日本における持統天皇の僧・道照(玄奘から直接教えを受けた日本人僧)に対する崇拝の念によく似ている。

高宗が即位して8年目の659年、玄奘は帝に随行して洛陽を訪問している。このとき故郷の陳留(ちんりゅう)に帰省して親戚や知人の消息を尋ね歩いたが、その多くが死んでいた。ただ河北省に姉が生存していることがわかり、姉を迎え一緒に両親の墓を参拝した。しかし墓は荒れ果てていて、掃除をしたものの、両親に申し訳なく新しい墓をつくることを決意する。

先に長安に帰っていた高宗に、長安への帰京が遅れる旨の手紙を出した。すると高宗から許可と共に改葬費は官費で支給するという返事が届いた。これらの配慮も、武后が高宗に進言したものだと私は考えている。

このとき彼は実家の東方の山中にある少林寺を参拝している。玄奘は達磨と縁の深いこの少林寺がよほど気に入っていたようだ。十余年前に太宗にお願いして断られた少林寺での翻訳を、あらためて高宗に願い出ている。しかし高宗もまた、玄奘の心境を察しながらも、これに同意しなかった。玄奘を自分の手元に置いておきたいとの気持ちは、太宗と同じであった。


今までこのシリーズで、則天武后についてポツリポツリと断片的に語ってきた。「日本一の外交官・粟田真人」の箇所でも述べた。「玄奘三蔵の話」を終えるにあたり、もう一度この女性皇帝に登場していただく。

唐代前半の仏教についての本を読んでいると、この則天武后という女傑が巨大な存在として私の眼前に迫ってくる。「呂公・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」「英知・残虐性とも超弩級」「中国史上最大の権力者」などの悪口だけでこの人を判断するのは間違いである気がする。則天武后が悪女・悪婆の見本のように言われるのは、宋代に書かれた『新唐書』『資治通鑑』の偏見であると主張する学者が多い。同感である。私は、この則天武后という人は中国史上まれにみる偉大な指導者であったと考えている。

人は権力を持つと、甘い言葉でお世辞を言う部下を好む。則天武后という人は朱敬則(しゅ・けいそく)という役人を含め、正論をもって彼女に厳しく諫言(かんげん)する者を引き立てたという。これはとても珍しい。奸佞(かんねい)のお世辞で道を誤る権力者が多い中で、これだけをもってしても、この女性皇帝はただならぬ人物であったと考える。


唐という王朝(618-907)は建国以来仏教を大いに保護した王朝である、と私は思っていた。ところが最近になって、この認識はかならずしも正しくないことを知った。

初代高祖・李淵、二代太宗・李世民、三代高宗・李治の時代にあっては、「道先仏後」が唐王朝の宗教に対するスタンスであったことを知ったからである。すなわち、道教が第一、仏教が第二という考えである。なぜそうであったかというと、唐王朝の祖である李淵が、建国早々、天下の人民に対して「自分の先祖は老子様(李耼・りたん)である」と大見栄を切ったことによる。老子・荘子は道教の祖だといわれている。

太宗・高宗の両帝から尊信を受けた玄奘三蔵は、その臨終にあたって、国の宗教を「先仏後道」にすることを懇願したものの、聞き入れられなかった。

太宗が道教に思い入れが強かったことを示す興味深い話がある。『大唐西域記』が完成した翌年の647年、太宗は玄奘に『老子・道徳経』のサンスクリット語訳を命じている。太宗はこれをインドへの使節に持たせようと考えていた。しばらくして太宗は崩御したので、これが完成したかどうかは定かではない。太宗という人は、老子の思想は仏教と張り合えるだけの価値があると考えていたようだ。

老子(李耼・BC571-BC470頃)は実在の人物らしいが、なぞの多い人だ。実在の人物だとしても李淵(AD566-AD635)から見て千年以上も昔の人だ。姓が同じだからといって「俺の先祖は老子様だ」というのはかなり無理がある。


じつは、この「道先仏後」のスローガンをひっくりかえし、「仏先道後」すなわち仏教が第一で道教が第二、としたのが則天武后であったことを、私は最近になって知った。これを知って、自分がこの20年間不思議に思いスッキリしなかったある出来事が理解できた。

それは『続日本紀』の、文武天皇の慶雲(きょううん)元年(704)の次の記述である。

秋7月1日、正四位下の粟田(あわた)朝臣真人(まひと)が、唐から大宰府に帰った。初め唐に着いた時、人がやってきて「何処からの使人か」と尋ねた。そこで「日本国の使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、答えて「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて「以前は大唐であったのに、いま大周という国名にどうして変わったのか」というと、答えて「永淳2年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后・則天武后)が即位して、称号を聖神皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。

粟田真人は50年前に8歳で入唐している。70年以上も続いた唐という国号が、三代皇帝の崩御だけが理由で突然、周という国号に変わったことが納得できなかたはずだ。「どのような理由で国号を変えたのか?」と真人はくいさがって質問を続けたに違いない。しかし、この地(現在の江蘇省の海辺の町)の下級役人は答えることができなかったようだ。『続日本紀』の記述はこれで終わっている。

私もこのことを長い間不思議に思っていた。なぜ則天武后は唐という国号を廃し、周という国号に変えたのか。かなり意識してこの20年間唐代の史書を読んだのだが、答を得ることができないでいた。

私は今、次のように考えている。

「中国の宗教に関する国是を”道先仏後”から”仏先道後”に変えるには、どうしても唐という王朝を一度つぶす必要がある」 みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりだと信じ、仏教を中心にした国造りが最重要だと考えていた則天武后は、こう考えたのではあるまいか。

中国史上二度目となるこの「周」という王朝は、690年から705年まで中国大陸に存在した。このとき都は長安から洛陽に遷都されている。すなわち、唐王朝は西紀690年にいったん滅亡したことになる。歴史家はこれを「武周革命」と呼んでいる。その後、則天武后の崩御とともに、国号はふたたび「唐」にもどっている。


玄奘が没したのは664年、満62歳であった。当時としてはかならずしも短命ではないが、唐代の僧侶の中には80代・90代の人が何人もいるので、長命とはいえない。趙州(じょうしゅう)という僧侶は大暦13年(778)の生まれで乾寧4年(897)9月29日に没している。享年百二十。本当かなと思い、丁寧に調べてみたが、どうも本当のようである。

玄奘は悪寒と高熱をくりかえす「冷病・れいびょう」という病に冒されていた。現在の病名だとマラリアらしい。インドで感染したと思われる。満32歳で亡くなったアレキサンダー大王の死因もこのマラリアだといわれている。満62歳で亡くなられたのではあるが、玄奘という人は、普通の高僧の千年分くらいの仕事をされた方のように思える。








2026年2月2日月曜日

玄奘三蔵の話(5)

 「長安での二十年」(2)

シルクロードのものがたり(93)

じつは、玄奘には各種仏典の翻訳よりも先に、急いでやらなけらばいけない大仕事があった。せっかち皇帝・太宗からの命令である、玄奘が西域やインドで見聞したことの皇帝への報告書『大唐西域記』の完成である。

この書物は、地理誌・風土風俗誌として正確であると同時に後世の文学に与えた影響がとても大きい、と高く評価されている。私の手元にあるのは、平凡社版、中国文学大系『大唐西域記』で、大型版326ページの大冊である。原典は全12巻でこの数倍以上のボリュームだと聞く。

本書に由来する逸話のいくつかが『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に収められていることからして、奈良・平安時代から日本人がこの書物を熱心に読んでいたことがわかる。そして、なんといっても明代に呉承恩によって書かれた『西遊記』こそ、この書物あってこその作品といえる。

この『大唐西域記』の筆者についての表記は、他の書物に例を見ない珍しい書き方である。原典には、「三蔵法師玄奘奉詔訳、大総持寺沙門弁機撰」とある。「奉詔・ほうしょう」には「天子の命令を承ること」の意味がある。不思議に感じるのはその次の「訳」という文字だ。現在の感覚だと「著」とするのが自然だと思うが、「訳」には「翻訳」という意味と同時に「記述する」という意味があったようだ。「撰」には「詩や文章を作成する、または多くのものの中から選び出す」という意味がある。

手元にある平凡社版の『大唐西域記』には、「玄奘訳、弁機撰、水谷真成訳」とあり、「訳」の文字が二度使われている。水谷真成氏は1917年生まれで1995年没、京都大学に学び名古屋大学で教授をされ、これを中国語から日本語に翻訳された方である。


玄奘が長安に帰国したのは、先述したように645年1月6日である。日本では大化の改新の年だ。膨大な分量の、しかもきわめて正確と評価の高いこの書物が完成したのは646年7月だ。すぐさま太宗に献上された。これほどの大作がわずか1年半で完成している事実に、驚きを超えて不思議な思いがしている。

なぜこれほどの短期間で、これだけの分量の正確な書物を完成させることができたのか。この方面の研究者は次のように語っている。「玄奘は16年間の間に書いたメモや地図など大量の資料を保管していた。これらを弟子の弁機(べんき)に渡し、弁機がこれを整理して玄奘がそれを監修した」

おそらく弁機は、これらのメモを単に整理して清書したのではなく、不明な点はいちいち玄奘に問い質したのであろう。同時に玄奘の勘違いを防ぐために、第三者の資料も活用して正確を期したと思われる。いずれにしても、弁機という人は並外れた才能の持ち主であった。


ところが、この弁機については不明なことが多い。

この人の生年は620年、没年は648といわれる。ということは、満27~8歳で亡くなっているのだ。645年に中国にもどった玄奘は43歳であった。後日『玄奘三蔵伝』を書く慧立(えりゅう)は30歳、このとき弁機(べんき)は25歳である。優秀であったので、玄奘はこの若者に白羽の矢を立てたに違いない。弁機はその期待に十分に応えた。その彼が、この書物の完成の1~2年後に、「腰斬」という胴体を腰からまっぷたつに切るという残酷な刑によって死刑に処せられたのである。

処刑の理由は尋常ではない。太宗皇帝の第十七皇女であり、宰相・房玄齢の次男である房遺愛に降嫁していた高陽公主という女性と、不義密通を犯したというのである。僧侶の不倫ということで極刑に処せられたのだという。

讒言(ざんげん)説もあるが、私が知るかぎりではこれは事実であったと思われる。夫の房遺愛という人は宰相の父親に比べると凡庸でおそまつな人物で、結婚当初から夫婦仲は冷えていた。弁機とこの女性の関係は、645年に彼が『大唐西域記』の執筆にたずさわる以前からだという研究者もいる。私もそのように感じる。20代前半の弁機にくらべて女性のほうが年齢が高かったと思われる。弁機から手を出したとは考えにくい。女性から弁機に対して積極的なアプローチがあったように思え、私としては弁機に同情している。

ただ、この事件についての玄奘のコメントは何も残っていない。弁機の兄弟子にあたる『玄奘三蔵伝』の筆者・慧立も何の記述も残していない。






2026年1月26日月曜日

玄奘三蔵の話(4)

「長安での二十年」(1)

 シルクロードのものがたり(92)

玄奘が敦煌に着くと、太宗皇帝からの手紙が届いていた。それには、ホータンからの運搬費をすべて敦煌の役所が支払うこと、近く高句麗に遠征するので自分はしばらく国を離れること、しかし不在であっても宰相の房玄齢(ぼう・げんれい)に手厚く迎えるよう命じてある、等が書かれてあった。

じつは、太宗は玄奘がホータンから奉じた書面を見る前に、すでに玄奘という僧がインドから中国に向かって帰国の途にあることを知っていた。インドの戒日王(ハルシャ・ヴァルタ)が玄奘法師との出会いに感激して、玄奘がインドを出発した直後に、唐に国交を求めて使節団を送っていたからである。チベット経由の最短コースであったので、インド王からの国書のほうが玄奘の上奏文よりも早く長安に届いていた。インド王の文書には、当然ながら玄奘のことがべた褒めされていた。

本当のことを言うと、「隋王朝と違い唐王朝は長期の政権になると思われる。よって唐と国交を樹立しておくことはインドにとって得策である」と戒日王にアドバイスしたのは、ほかならぬ玄奘自身であったことが前後の動きからして読みとれる。この行為は、仏教を学ぶ一学僧の域を超えている。あきらかに、辣腕外交官・政治家の発想であり動きである。

太宗からの手紙を読むや、玄奘は長安への帰国を急ぎに急いだ。敦煌から長安までの距離は1650キロある。通常はこのように大量の荷物を持っての移動は、1日に30キロとされている。単純に計算すると56日を要することになる。ところが玄奘は、22頭の馬に経典を積み、各馬を疲れていないフレッシュな新馬に20回も取り換え、1日に60キロの移動を強行させ、半分の30日をもって長安城外に到着したのである。

貞観19年(645)の正月6日の夕刻であった。到着があまりにも早かったので、宰相・房玄齢の出迎えが間に合わなかったといわれている。これほどまでに玄奘が帰国を急いだのは、太宗が高句麗遠征に出かける前に拝謁して、仏典の翻訳に関して国家援助の確約を取っておきたかったからである。


玄奘と対面した太宗は上機嫌であった。しかし、皇帝は玄奘に対して二つの難題を突きつけた。一つは、「還俗して俗人にもどり、朕を補佐してほしい」との依頼である。太宗という人は好奇心旺盛で積極的な気質の人だったようだ。かつて漢の武帝が、豪傑外交官の張騫や蘇武を見たのと同じような目で、太宗はこの玄奘を見ていたことが感じ取れる。いま一つ、太宗は、「しばらくすると自分は東方へ遠征する。自分に同行して、毎夜西域での珍しい見聞を聞かせてくれ」と要請している。

この二つを、いずれも玄奘は体よく断っている。それでいて、太宗から嫌われていない。かつて、玄奘は高昌国やインドにおいて国王の依頼を断ったものの、両王様から嫌われていない。これと同じことが太宗とのあいだにも見ることができる。不思議な能力を持っていた人だ。

玄奘は王様や皇帝に対して、はっきりと自分の考えや希望を述べている。だからといって、かたくなに自己主張を続けるという態度ではない。相手に歩み寄れることであれば、柔軟性をもって譲歩している。たとえば次のような出来事があった。

インドから持ち帰ったサンスクリット語の経典は657部もあり、これを翻訳することが玄奘の後半生の最重要の仕事である。この翻訳作業に没頭するには、人里はなれた僻地が良いと考えた玄奘は、自分の故郷である洛陽の山中にある「少林寺」が最適だと太宗に希望を伝えた。「面壁九年」の達磨(だるま)大師と縁の深い古寺である。自分の故郷であり、同時に中国仏教の聖地でもある洛陽の山中の寺ということが、玄奘の心にかなったのであろう。

しかし、これに対して太宗は異を唱える。「いや、あの山中は遠くてよくない。朕は母の供養のために長安の静かな場所に弘福寺を建立した。ここを使用しなさい」と。太宗は玄奘を自分の手元に置いて、ひんぱんに西域の珍しい話を聞きたいと希望している。これを察知した玄奘は、すぐさま少林寺案をひっこめ、弘福寺案に同意している。

こうして弘福寺において3年、その後は大慈恩寺において16年、玄奘は遷化する一ヶ月前までの19年間にわたり、多いときには54名の翻訳者を使い、74部、1335巻の仏典の翻訳を完成させている。



2026年1月19日月曜日

玄奘三蔵の話(3)

「天竺から長安への帰路」

 シルクロードのものがたり(91)

ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王・かいじつおう)からの莫大な喜捨のおかげで、玄奘は今までに収集したものに加え、多量の仏典や仏像を購入することができた。多数の従者と共にインドを出発して北に向かった。戒日王の指示で、北インド王の軍隊が玄奘一行を護衛した。仏典や仏像の輸送は軍隊にゆだね、玄奘自身は美しく飾った象に乗って北へ進んだと記録にある。

644年のことだ。インドに滞在した期間は13年となり、このとき玄奘は42歳であった。

現在の世界地図でアフガニスタン最北端にあるクンドゥズで、玄奘一行は一か月滞在した。ここは戒日王の配下にある北インド王国の都である。ここで、高昌国の滅亡と国王・麴文泰の死を知った。玄奘の無念はいかほどであったことか。しかし、このことは『玄奘三蔵伝』には何も記述されていない。〇〇将軍と同じく、筆者の慧立が意識的に削ったのであろう。

高昌国に立ち寄ることができなくなった玄奘は、帰路のルートを変更した。長安までの距離が短いタクラマカン砂漠の南側を通る「西域南道」を選択している。すなわち、カシュガル・ヤルカンド・ホータン・ニヤを経由して敦煌(玉門関)に至るルートである。

カシュガルでの滞在は短い。『大唐西域記』では、「カシュガルの人の性質は乱暴で、俗は詭(いつわり)が多く、礼儀は軽薄で、学芸は浅はかである」と手厳しい。

次のホータン(和田)では、当時のクスタナ国の王様に暖かく迎えられ、この地に十ヶ月も滞在している。カシュガルよりもずいぶん印象が良かったようだ。『大唐西域記』には次のようにある。「クスタナ国(ホータン)は穀作(こくさく)に良く、いろいろな果実が多い。紡績・つむぎに巧みで人々の多くは木綿を着ている。また白玉や黒玉(注・崑崙の玉)を産する。俗は礼儀を知り、人の性格は温和で、好んで学芸に励む。人々は富裕で、家々は業に安んじている。仏教を崇敬し、伽藍百余ヶ所、僧徒は五千余人いる。大部分は大乗教を学習している」

玄奘が十ヶ月もこのホータンに滞在したのは、暖かいもてなしを受け居心地が良かっただけが理由ではない。この地で二つの大事な案件を処理している。これらを片つ”けるのには、たしかに十ヶ月程度は必要だったと思われる。

さきにインダス川を渡った際に、象が溺死していくつかの経典を紛失していた。クチャとカシュガルにお金を充分持たせた使者を送り、これらの経典を補充している。

いま一つは、さらに重要であった。国禁を犯して唐を密出国した玄奘は、太宗皇帝に詫びる必要があり、同時に唐への快い入国許可を得なければならない。さらに、可能であれば皇帝の援助を受けたい。太宗に対する上奏文をしたため、高昌国生まれの馬玄智という青年に託し、何名かのキャラバン隊を編成して長安に向けて出発させた。


このときの上奏文が残っている。

かなり長いものだが、太宗皇帝をその気にさせる見事な内容である。国禁を犯したことを詫びながらも、自己の行動の正統性を述べている。同時に自分がその目的を達したことを伝え、自分の仏教修行・仏典の収集・見聞した情報が、これからの唐にとっていかに重要かを述べている。私が興味深く思ったのは、太宗皇帝のことを褒めたたえ、たっぷりのお世辞を述べている点だ。皇帝とて人である。「人たらし玄奘」の面目躍如たるものを感じる。弘法大師空海が、桓武天皇や嵯峨天皇に上奏した文章もこれに似ている。

ごく一部を引用する。

「長安を出発して天竺に参りました。その間に通った所は五万里におよび、困難危険は山ほどありました。しかし天威(注・太宗皇帝の威徳)のおかげで、どこへ行っても道は開け、手厚い歓迎を受け、身も辛苦をせず、目的を達成することができました」

「今まで見たこともない仏跡を拝観し、聞いたこともない経典を聴聞し、全世界の不思議を見つくしました。各地では唐において太宗皇帝陛下の徳がゆきわたっていることを述べ、人々の陛下に対する思いを啓発してまいりました。こうして周遊すること17年、大河を渡り、パミールを越え、ホータンまで帰ってまいりました。ところが、連れてきた大象が大河で溺死したため、大量の経典を運搬することができません。そのためここに停まり、一刻も早く馳せ参じ、陛下に拝謁いたしたいのですができません。これ以上延期することは堪えられませんので、高昌国から来ている俗人に依頼し、商隊に随行させ上表分を奉り、ご報告申し上げる次第です」

これを読めば、太宗皇帝も悪い気はしなかったであろう。

返事が届くのに7ヶ月かかった。その間に玄奘はホータンの僧侶たちに仏教の講義をおこなった。聴講者は毎回千人を超えたという。太宗皇帝からの返書には歓迎の意が表されていた。

「聞くところによると、法師は遠く西域を歴訪し、いま帰還されたとのこと。朕は歓喜無量である。すみやかに帰国して朕と会見せよ。クスタナ国(ホータン)の僧で梵語や経典を解する者も自由につれて来られよ。朕はすでに沿道の国々に法師を保護するよう命じた。人足や駅馬も不足しないよう手配した。敦煌の役人にも流沙まで出迎えさせる」










2026年1月13日火曜日

玄奘三蔵の話(2)

「天竺でのできごと」

 シルクロードのものがたり(90)

玄奘は仏教を学び仏典を収集するためにインドに渡った。しかし、すでにその頃インドにおいては仏教は衰退のきざしを見せはじめていた。

宮廷の保護を受け、宗教としての存在感は保っていたものの、民衆のあいだではバラモン教に土着の信仰が加わったヒンズー教が勢力を拡大しつつあった。いま一つ、商人を中心にジャイナ教という宗教が存在感を増していた。このジャイナ教の信者は現在でもインドに500万人いて、日本の神戸にもジャイナ教の寺院があると聞く。どのような教義かは知らないが、中野にあるカレー屋のインド人オーナーに聞いたら、ジャイナ教の信者は菜食主義者だと言っておられた。イスラム教がインドに入るのは8世紀初頭というから、玄奘がインドに渡った80年ほど後である。

少し古いが2011年の統計によれば、インドの宗教概況は次のようである。ヒンズー教(79.8%)、イスラム教(14.2%)、キリスト教(2.3%)、シク教(1.7%)、仏教(0.7%)、ジャイナ教(0.4%) 仏教徒は少ないながらも、今なお滅亡せずに信者が残っている。ジャイナ教の2倍、約1000万人もの信者がいるそうで、他国のことではあるがなんだか心強く嬉しい気がする。


「玄奘がインドに入国したとき、仏教は衰退のきざしを見せていた」ということに、私は強い関心を寄せている。この事実が、玄奘に強い危機感を抱かせ、仏教の研究と仏典の翻訳に全力投入させるエネルギーとなったのだと思う。

同じようなことが、日本から仏教を学ぶために唐に渡った最澄・空海・円仁・円珍にもあてはまる気がする。最澄・空海が唐に渡ったのは803年だ。玄奘が長安に帰国した158年後である。じつはこの頃、唐においては、「大きく花開いた仏教は衰退のきざしを見せ始めていた」のである。最澄の弟子の円仁が入唐したのは839年、円珍は853年だが、この頃には「あきらかに廃仏の動きが中国内にあった」ことが円仁の『入唐求法巡礼行記』の中に読み取れる。

ただし、この廃仏運動に対する反発エネルギーなのか、この頃、黄檗・臨済・洞山・趙州といった骨太の大物禅僧が続出している。困難との遭遇によって人は偉大になるのかも知れない。そして、これら仏教の新しい流れである禅宗は、栄西や道元、そして南宋から日本に亡命して鎌倉幕府に保護された中国人僧・無学祖元(仏光国師)などによって、ごっそりと日本に導入されている。

奈良時代末期から平安時代の日本人僧は、日本で仏教を学び、それを深める目的を持って唐に渡った。ところが、仏教の聖地であると思っていたかんじんの唐では、すでに仏教は衰退のきざしを見せはじめている。これではいけない。日本に正統の仏教を伝えなければならないと、各人が使命感に燃えて発奮したように思える。

空海の場合、仏教史の流れとして、これがはっきりと読み取れる。真言宗第七祖である青龍寺の慧果(えか)は、短期間で真言密教の奥儀を空海に伝授した。そして、ただちに空海を第八祖に指名して、その直後に慧果は没している。これによって、真言密教の正統は中国ではなく日本に移ったのである。

以上のできごとを合わせて考えてみると、日本という国は、インドで発生して中国で熟成・蒸留された「仏教という普遍的で偉大な宗教」を、いいとこ取りする形で、ごっそりと導入できた、世界でも珍しい幸運な国であったような気がする。


またしても本題からはずれてきた。インドでの玄奘について、大急ぎで紹介したい。


玄奘が5年間学んだのは、インド東北部に位置し、インド仏教の最高学府といわれる「ナンダーラ僧院」である。「オックスフォードやケンブリッジよりも古い世界初の全寮制大学」と表現する人もいる。仏教の聖地で、僧徒は一万人といわれた。玄奘はこの学舎で副主講という立場に昇進している。どのような地位なのか私にはわからないが、この地でも「折り紙付きのエリート」として遇されている。

当時、この地を含む北部インド全域を支配していたのは、ハルシャ・ヴァルダナという実力王であった(在位606-647)。東はベンガル湾、西はアラビア海に至る、北部インドの東西に伸びる肥沃で広大な領域である。文武両面に秀で名君といわれたこの王様を、玄奘は「戒日王・かいじつおう」と記述している。

衰退のきざしが見えていたインド仏教を再建するため、戒日王は玄奘に対して、「貴殿のために100の寺院を建てるからインドにとどまってくれないか」と持ちかけたが、玄奘はこれを断り帰国の途についている。戒日王はやむなく、おびただしい量の金貨・銀貨を玄奘に贈り、彼を護送するようにと、沿道の各地に命令をくだしている。

それにしても、と不思議な思いがする。

高昌国の麴文泰、西突厥のセブグ・カハン(可汗)、そしてインドのハルシャ・ヴァルダといった、そうそうたる実力王たちが、玄奘をここまでサポートした理由はどこにあったのか。風貌が立派で学問があり、かつ人柄が良い。外交能力と政治力も兼ね備えている。これらの言葉をもってしても説明できないような、「なにか特別な魅力」を持っていた人のように思える。

『玄奘三蔵伝』を丁寧に読み、この人の行動をながめていると、次のような特色が私には見えてくる。

玄奘という人は、自分が危険な状態にあっても、相手が信頼できる人物だと思えば、本音をペラペラしゃべっている。用心深さが足りないのではないかと、ハラハラする場面が多々ある。しかし、結果的にこれによって相手から信頼を受け、この若者をなんとかして助けてやろうと相手に思わせている。それでいて、ときには、深く考えて慎重な上にも慎重にものごとを進めている。意識してなのか、それとも無意識なのか、大胆さと慎重さのバランスが絶妙である。

冒険家であると同時に哲学者。高僧であると同時に「生き方の達人」という印象を受ける。二重人格というと言葉が悪いが、その体の中に、二種類の性格を持っていた人のようにも思える。俗っぽく表現すると、「横綱級の人たらし」でもあった。ここで言う「人たらし」とは、「出会う人をことごとく自分の味方に引き込む魅力を持った人」という意味である。

日本史のなかで「人たらしの横綱級」といえば、「行基」「空海」「西行」「北条泰時」「足利尊氏」「豊臣秀吉」などが頭に浮かぶ。

この二百年の日本史では、人たらしの横綱は「西郷隆盛」であろう。大関クラスとして、「坂本龍馬」「伊藤博文」「頭山満」「徳富蘇峰」「山本玄峰」あたりが思い浮かぶが、さてどうであろう。これらの番付は各人の好みによる。




















2026年1月5日月曜日

玄奘三蔵の話(1)

 シルクロードのものがたり(89)


玄奘について、「26歳の玄奘天竺に向かう」という題でこのブログに7回掲載した。そのあとシルクロード方面を9日間ほど旅行した。この旅行で〇〇将軍についての興味深い話を聞いたので、トルファン(高昌国)の玄奘の項で6編ほど追加した。

しかし、それでもまだ、玄奘についての記述は、「尻切れトンボ」の状態にある。かといって、「65歳の法顕天竺に向かう」と同じスタイルで、往路・復路のこまごまとした地名をあげながら細かく語りすぎるのも、読者にとって面白くない気がする。

よって、「高昌国から天竺へ」・「天竺でのできごと」・「天竺から長安への帰路」・「長安での二十年」と、その後の玄奘の動きを4つに分けて紹介し、玄奘の話を終わらせたいと考えている。


「高昌国から天竺へ」

高昌国(トルファン)を出発した玄奘は、30人の供と一緒に天山南路を西に進み、クチャ(庫車・亀茲国)に向かった。この事実から、このときの玄奘の心の内とその決断について考えてみたい。

〇〇将軍と国王・麴文泰の強い誘いにより、玄奘は天山南路に位置する高昌国に立ち寄った。ここまでは一応納得する。しかし、これによって、玄奘は麴文泰からの紹介状と贈物を届けるため、西突厥(にしとっけつ)のヤブグ・カハン(可汗)を訪問する義務が生じた。この国王の居場所は天山山脈の北西部で、現在のカザフスタン南東部、キルギス東部にあたる。すなわち、どこかで天山山脈の峠を越えて北側に出て、天山北路に入る必要がある。

天山北路に入るには、高昌国から馬で6日間の伊吾国にもどるのが一番簡単だ。しかし、たとえ6日間であっても、これでは後戻りになる。「不東・ふとう」(インドにたどり着かなければ中国には戻らない)をモットーとしていた玄奘にすれば、これは面白くない。

いま一つルートがあった。我々がバスで3時間かけて横断した、トルファン・ウルムチ間の200キロの礫(れき)砂漠を北西に進む行程である。ウルムチは天山北路にある町だ。麴文泰が手配してくれた30人の従者と30頭の馬と共に進めば、5-6日でウルムチに到着できたはずだ。しかし、これも実行していない。


玄奘がクチャ(庫車・亀茲国)に向かった最大の理由は、先達・鳩摩羅什への尊敬と憧れの気持ちがよほど強かったからであろう、と私は考えている。

クチャで60日間滞在している。三百年ほど昔の鳩摩羅什の時代には大乗仏教であったクチャの仏教は、このころは小乗が中心になっていた。尊敬に値する高僧に出会うこともできず、史跡を見学する以外は、玄奘にとってクチャ滞在はもの足りないものであった。それでも60日も滞在したのは、天山山脈の雪解けを待つためであった。

天山山脈の、どの峠を通って北側に入ったかには諸説あるが、クチャから西方のマクスに進み、そのあと4000メートルの「ペダル峠」を越えたであろうというのがおおかたの説である。雪解け待ちを急ぎ過ぎたらしい。「7日間の山越えの後、ようやく山路を出ることができた。キャラバンの内、凍病死したものが10人のうち3・4人もあり、牛馬はそれ以上だった」と伝記にある。4割が死んだのなら、同行者30人のうち12人が亡くなったことになる。

西突厥のヤブク・カハン(可汗)は玄奘を大歓迎した。宴会で可汗や大臣は酒を飲んだが、玄奘は葡萄ジュースを飲んだと記録にある。

ゾロアスター教(拝火教)信者の可汗は、「お疲れのところ申し訳ございませんが、少しだけ仏教の教えを授けていただけませんか」と玄奘の前で拝した。可汗は玄奘の説法をうなずきながら聞いたという。そして、中国語と西域諸国の言葉が話せる若者を国内で探し出し、彼を通訳官に任命し、玄奘に同行するように命じた。玄奘が無事にインドに到着できたのは、この青年の存在が大きいとその方面の研究者は言う。青年の名は残っていないが、「長安で数年生活したことがある」との記述がある。

その後、サマルカンド・バーミアンを経由して、アレキサンダー大王も通った有名な「カイバル峠」を越えて、ガンダーラ国のペシャワールに到着した。ここはインダス川の上流に位置する。AD127年に即位した有名なカニシカ王は、ここペシャワールに釈迦の遺骨を納めるストゥーパ(仏舎利塔)を建て、この地を仏教研究の中心都市に発展させた。現在の世界地図ではここはパキスタン領であるが、当時の認識ではここはまぎれもない「天竺」であった。

当時の「天竺」は、現在の世界地図でいうとインド・アフガニスタン東部・パキスタン・バングラディシュを含む広範囲の地域であったことを、私は最近になって知った。

AD400年頃この地を訪問した私の大好きな僧・法顕(ほっけん)は、「高さは120メートルもあり、その美しさは類を見ない」と仏舎利塔のことを賞賛している。しかし、AD631年に訪れた玄奘は、「ペシャワールの仏教寺院はかなり荒廃している」と記録している。

玄奘が長安を出発したのは629年の8月だ。天竺に到着するのに2年を要したことになる。631年といえば、マホメッドが没する1年前である。イスラム教はまだインドには入っていない。


高昌故城(トルファン)の玄奘像