2025年2月6日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(2)

 シルクロードのものがたり(53)

ラクダの話(2)

戦国時代の弁舌家・蘇秦(そしん)は、楚の王様に次のように献策した。「自分の言うとおりにすれば、韓(かん)・魏(ぎ)・斉(さい)・燕(えん)・趙(ちょう)・衛(えい)の妙音(妙・たえなる音楽)と美人はかならず後宮に充ち、燕(えん)・代(だい)の駱駝(らくだ)・良馬はかならず外厩(がいきゅう・宮殿の外のウマ屋)に実(み)たん」

これからして、ラクダは美人や良馬とならんで、当時の諸侯が欲しがったものであることがわかる。唐代には火急のときは、早馬ではなく早ラクダを用いた。これを「明駝使」と呼んだ。馬は速くてもすぐにバテるが、ラクダはバテないからだ。

1970年代にNHK取材班は何度もシルクロード方面に遠征し調査している。このとき同行した記者の一人は、ラクダの性癖やその乗り心地を次のように記述している。

人間に飼いならされたラクダとはいえ、荷物を積まれるときは相当抵抗する。気の荒いラクダは後足を跳ねあげ、人を寄せ付けようとしない。荷物を振り落とすラクダもいる。長距離を旅するときは、大きなラクダでは140キロぐらい、小さなラクダなら100キロぐらいの荷物が理想的だ。歩行速度は1時間に3キロ。もちろんもっと速く歩けるし、走ることもできる。でも長距離キャラバンの場合は、それがもっともラクダの耐久力にかなう理想的な速度だと、地元の人はいう。

ラクダの乗り心地は、前後左右に揺れるが、予想したほど悪くはない。前日に砂塵にまみれ激しい振動をしたジープとトラックに比べれば、ラクダの背のほうが楽である。ただ一つ不安なのは、転落しないかということだ。ラクダの背は、乗る前の予想よりはるかに高い。


陳舜臣は、ハミウリと同時にこのラクダにも思い入れが強い。彼が地元の人から聞いたという話を含めて、いくつかの興味深い話を書き残している。

ラクダはその長い旅の道中で子を産む時もある。砂の上に生まれ落ちたばかりのラクダを、母親の背に乗せてやらないと、母ラクダは歩こうとしない。また、不幸にも子が死んだときは、母の背から降ろしてはいけない。死骸が朽ちはてるまで母とともにいなければ、母ラクダは一歩たりとも前に進もうとしないという。

また、キャラバンの先頭には、一番優秀なラクダを歩かせるという。先頭のラクダが歩けば、どんな険しいところでも、後続のラクダは黙ってついていくという。沙漠の船といわれるラクダで旅をしたいにしえの旅人は、1日におよそ30キロくらい進んだ。オアシスからオアシスまでの距離がほぼ30キロから40キロであったからである。

中国人であるこの人は、食への関心も強い。以下も陳舜臣の文章の引用である。

旅をしているうちに、ラクダの背中のコブはしだいに小さくなる。そこから栄養分を補給しているのであろう。当然コブのなかには、生命のエッセンスが詰まっているにちがいない。さぞかしそこは美味であろうと中国人が考えるのは、自然な発想といえる。

古来、中国では、ぜいたくなご馳走のことを、「駝峯熊掌・だほうゆうしょう」という。「熊のてのひら」は日本にも輸入され、それを含むコース料理が数十万円の値段になったということが新聞に出ていた。「駝峯(だほう)すなわちラクダのコブ」が輸入されたとは聞かない。清代の汚職大官のぜいたくぶりを描写する文章に、「一皿の駝峯を得るために何頭ものラクダを屠(ほふ)り、コブだけを取って残りはすてた」というくだりがあったのを覚えている。

私はイランのペルセポリスの近くでラクダを食べたことがある。ピンク色をした肉で、そんなにまずいものではない。中国の酒泉賓館(しゅせんひんかん)のレストランで「駝蹄・だてい」が出た。蹄(ひつ”め)というが、じつはラクダの足の裏の軟骨部分である。これはまず美味といってよかった。私にはこの二回の経験しかない。もちろん「駝峯(だほう)」を味わったことはない。


ヒトコブラクダ