2026年7月2日木曜日

奈良時代・平安時代の定年

 奈良時代・平安時代、日本人は定年というものについてどのように考えていたのか。これを振り返ってみたい。その頃は株式会社というものはないので、該当する人々は役人ということになる。農民や漁民・商工業に従事する人々は、元気であれば、いわば死ぬまで働いていたという認識で正しいと思う。

月一回、数日間、郷里広島県の農園で畑仕事を続けている私には、現在でも農村では昔と変わらないように思える。元気な者は80歳でも85歳でも働いている。ポツンと一軒家だけでない。日本全国の農村・山村・漁村では、同じように80歳を過ぎた人が数多く働いている。


「奈良時代の役人の定年70歳」という題で7年ほど前このブログに掲載したので、重複は避けたい。ポイントを整理すると次のようになる。

①奈良時代の中央官庁の役人(国司・現在の県知事・を含む)の定年は70歳だった。これは唐の律令制度をそのまま導入したからである。

②かたや、地方の役人(郡司およびその部下たち)の定年はなかった。飛鳥時代・奈良時代には70代・80代の老齢の、中には認知症でよぼよぼした、地方役人が何人もいたのだ。

大化の改新のあと、天智天皇と中臣鎌足は中央集権国家をつくったのではあるが、それは地方豪族たちの協力(サポート)を前提としていた。西欧と異なり大和朝廷の基本方針は、敵対する者を皆殺しにして絶対的強権を持つのではなく、地方豪族たちの協力と支持のもとに、共に存在しようとしたゆるやかな政権であった。「和をもって尊し」を基本としたようだ。

よって、大化の改新の後、大和朝廷は地方の有力豪族たちの反乱を恐れていた。彼らの職を奪うことへの反発を極度に恐れていたのだ。それゆえに、定年無しの障害を承知の上で、郡司以下の地方役人たちの人事をすべて地方豪族に一任している。郡司以下の地方役人に70歳の定年制が導入されたのは、じつに、大化改新から89年後の聖武天皇の御代・天平6年(734)4月26日のことだと、『続日本紀』は記している。この頃になってやっと、大和朝廷の権力基盤は盤石となったのだ。


平安時代末期のサムライの話をしたい。これを「定年」という言葉でいうのはどうか、とも思うが、89歳で死んだこのサムライはその死の瞬間までバリバリの現役であったことを考えれば、「89歳で現役を退いた」というのは間違いではない。

私はこの話が気に入っている。物語的なタッチになるが、このサムライ・三浦大介義明(みうらのおおすけ・よしあき)のことを紹介したい。

源頼朝が伊豆で挙兵したのは、治承4年(1180)8月である。平家側の反撃により敗北した頼朝は、相模湾をわたり安房に脱出すべく、落ち武者たちと共に小舟で真鶴港を出帆した。

平家側から頼朝寄りと見られていた三浦大介は、このとき三浦半島の衣笠山の城にいた。頼朝は「支援を頼む」、と使者をこの城に派遣していた。平家側は多数の軍勢をもってこの衣笠城を攻撃した。ここから先は、迫力ある司馬遼太郎の筆にゆだねたい。

三浦大介義明はこの城のそばで生まれ、ここで死んだ。生涯は89年で当時としては奇跡のような長寿である。大介は病床にいた。床(とこ)を払わせ、一族をあつめ、戦え、と命じた。「われらは累代の源氏の家人(けにん)である」ともいったらしい。一日、平家側との攻防戦があった。

夜に入って大介義明は子供らを招き、「わしは十分に生きた」と言い、このわし一人をこの城にのこせ、といった。一同は海へ落去せよ、しかるのちに佐殿(すけどの・頼朝)をさがし、御行末(おんすえ)を共にすべし、と命じた。これは、わしの命令(げち)である、抗(あがら)うな、とも言った。一同は、結局そのようにせざるをえなかった。翌朝、義明はわずかな郎党とともによく戦い、やがて自刃した。城は落ちた。

落人の頼朝は、いまの東京湾口を小舟で漂っていた。そこへ衣笠城からきた三浦勢と海上で出会う。たがいに、奇跡だった。その上、三浦勢は無傷の新鮮な兵力であり、そのおかげで、房総半島に上陸しても、土地の者たちからあなどられずに済んだ。頼朝は、この海上での邂逅を、終生わすれなかった。

はるかのち、頼朝は、三浦大介義明の十七忌がこの衣笠山で営まれたとき、鎌倉から来、墳墓に拝礼した。そのとき、頼朝は、生ける大介に語りかけるように、「私はあなたとともに生きている」と、ふしぎなことをいった。どうやら論理的にいえば、あなたはあのとき死んだのではない、私とともにこの十七年生きてきた、私はそのようにみなす、という意味だったらしい。

この時代、恩賞は、生者に厚く死者に薄かった。頼朝は義明を生者とみて、その菩提寺に多くの禄を寄進したのである。義明の死は数え年89だった。それに17年足せば百六つになる。江戸時代のめでためでたやの門付け歌の、「鶴は千年、亀万年、三浦大介百六つ」の「三浦大介百六つ」が鶴や亀よりもめでたいとされるのは、死んでもなお生けるがごとく禄をもらったからというのである。


吉野山 奥千本の桜 西行庵前











2026年6月25日木曜日

明治以降の定年(2)

 それでは、陸軍の大佐(聯隊長)の定年を55歳に定めた理由はどこにあるのか。「体力」というのが第一の理由の気がする。


私は以前、『香月経五郎と三郎の美学』という小冊を書いた。その中での話である。

明治37年11月30日、乃木第三軍の配下にあった後備歩兵第十五聯隊長の香月三郎は、聯隊の三分の一の900人の決死隊を率いて203高地を攻略した。頂上の占領に成功した後、生き残った15人の部下と共に山を下りたのは12月6日である。この聯隊の203高地での戦闘は8日間におよんでいる。出撃するとき各人は2日分の食糧と水を背負っていた。旅順の山頂の寒風の中で岩肌にしがみつきながらの戦闘で、この間、香月聯隊長はほとんど睡眠をとっていない。戦死した戦友やロシア兵の持つ水・食糧で命をつないだのであろうが、この成功の裏には聯隊長の強い精神力と同時に強靭な体力があった。

戦場においては、ときに、このような過酷な環境に身を置くことがある。聯隊長に強靭な体力が求められたことは理解できる。

先表の大佐の定年「陸軍55歳・海軍54歳」に、私は首をかしげている。海軍大佐の場合、大型艦の艦長・航空隊の司令だから、陸軍の聯隊長にくらべると戦闘時においてもそれほど体力を要しない気がする。これが逆であれば納得できるのだが、海軍大佐の定年が陸軍大佐より1歳若いことの理由は、私にはわからない。

数年前、私は役職定年という制度に興味を持った時期がある。お客様の人事の方々にお会いするたびに「おたくの役職定年は何歳ですか?」としきりに聞いていた。「うちは54歳です、うちは55歳です」と決まってこの二つの年齢を答えられた。他の年齢は聞いたことがない。ははあ、ここは海軍式だな、ここは陸軍式だな、と思った。

軍が定年を定めた二つ目の理由は、「新陳代謝」という考え方であろう。陸士・海兵を卒業した若い将校に対して、適度なインターバルで、昇進の機会を与えてやらなばならない。

この二つの考えを基に陸海軍の定年制が決まり、それを真似して明治以降の大企業は定年・役職定年を定めたのだろうと私は考えている。

第二の理由については今なお考慮する必要があるが、第一については現在は大きな意味を持たない。企業はすでにこのことに気付いて、役職定年および定年そのものを伸ばしているのだと思う。


私は、定年を65歳にあるいは70歳に延長すべきだという、積極的な自分の考えは持っていない。ものごとには一長あれば一短がある。各企業が考えれば良いことで、正直どっちでも良いと思っている。定年問題について国が指針を出すのもどうかな、と否定的に考えている。

ただ、私がどう思おうが、多くの日本企業の定年は今後3年以内に65歳になり、5年以内に70歳になるに違いない、と考えている。

国家が行うべきことは、定年延長の指針を示して企業に圧力をかけることではなく、健康で働く意欲がある60代・70代・80代の人たちが、やる気が出る政策を実行することではあるまいか。改革すべきと考えるのは、たとえば年金支給の問題である。65歳以上の人で一定金額以上の収入のある人には、基礎年金は支給されるが厚生年金は支給されないと聞く。

この考え方の背景には、奈良時代から現在まで続く、貧富の差を少なくしようとする日本特有の平等思想がある気がする。ある意味、社会主義的なものの考え方であり、これは仏教の影響から来たものだと思う。私自身はこの考え方は立派で尊重すべき考えだと思っている。西欧文明にはあまり見ない優れた点だと思う。ただ、年金支給の問題に関しては、元気な高齢の日本国民のやる気を削いでいるのではないかと心配している。

「年金は貴殿が支払ったものが原資なので、その年齢が来たら希望者には全額支給します。その後、働ける人は年収一千万円でも二千万円でも稼いでください。そして、それにふさわしい所得税を国に収めてください」このような考えを国民に示し、元気な60代・70代・80代の国民にやる気を起こさせることが大切ではあるまいか。そうすれば、国全体が明るくなり活力がみなぎり、日本全体の国力が強化されるのではないか。私はこのように考えている。


吉野山 中千本の桜








2026年6月18日木曜日

明治以降の定年(1)

 長いあいだ「シルクロードのものがたり」という題で、転職に関係ないことを掲載してきた。「人材紹介会社だろ、もっと仕事に関係あることを書いたら」と、お叱りに近いアドバイスをいただいたこともある。もっともだと思う。

ごく最近のことだが、「小さい会社だが定年90歳の会社が東京の港区にあるらしい」という噂を聞いた。この会社のことは、後半でお話ししたい。

ここでは、「明治以降の定年」・「奈良時代・平安時代の定年」・「江戸時代の定年」・「定年90歳の会社」・「大学卒の初任給50万円」という題で、日本企業の「定年」と「初任給」の問題について、数回にわたり考えてみたい。


まずは「定年」についてである。いま流行のAIに「日本の定年制は?」と聞いてみると、「日本の定年は法律上は60歳未満の定年は禁止されていて、65歳までの雇用確保が企業の義務、70歳までの就業機会確保を企業の努力目標としている」と答えてくれる。

数年前、このブログで「奈良時代の役人の定年70歳」と題して二回ほど掲載した。AIさんの言うのが正しければ、現在の日本は定年に関しては、奈良時代に戻ろうとしているかのようだ。大化の改新時や奈良時代の定年については、後半でもう一度簡単に振り返ってみたい。

まず最初に、明治維新以降、明治・大正・昭和から現在まで続いている「大企業の定年制度」について、どのような理由でこのように定められたのか考えてみたい。

数年前には「54・5歳で役職定年になります。その後は給与が大幅に下がるので、今の給与がキープできる会社があれば転職したい」とおっしゃる方が少なからずおられた。この種の転職希望者はこの1、2年減っているような気がする。企業が役職定年を伸ばしているのか、もしくはその年齢に達し役職定年になった場合でも給与の減額を少なくしているのか、いずれかであろう。若者の人口が減っているので、高齢者に働いてもらわないと困るのかも知れない。

それでも、今なお、この役職定年という制度は、いくつもの大企業では残っている。日本の大企業はなぜ、こういう制度を定めたのであろうか。


私は学生時代から戦記物の本を読むのが好きで、かなり多く読んできた。それらの知識から、「明治以降の大企業の定めた定年・役職定年は、旧陸軍・海軍の定年制を真似したのではあるまいか」と以前から考えている。明治・大正期だけでなく昭和になってからも、大企業の場合「役員を除く職員の定年そのものが54歳・55歳」というケースが多かった。

「陸海軍現役将校定限年齢表」というものが手元にある。明治・大正・昭和とも大きくは違わない。昭和期の表には次のようにある。

大佐  陸軍55歳 海軍54歳

少将  陸軍58歳 海軍58歳

中将  陸軍62歳 海軍62歳

大将  陸軍65歳 海軍65歳

ここでは「大佐」という地位に焦点を当てて定年について考えてみたい。というのは、陸軍士官学校や海軍兵学校を卒業した若手将校たちが、立身出世の一つの頂点と考えていたのがこの大佐のポジションであったからだ。もちろん上位5パーセントほどの優秀な将校は陸軍大学校・海軍大学校に進み、将官を目指した。しかしこの将官というものは能力以上に運の部分が大きく、「大佐まで昇進できれば、まずは成功」というのが陸士・海兵を卒業した若手将校のほぼ共通した認識であった。

大佐の位階(いかい)は「従五位・じゅごい」だから、国家の定める社会的地位は県知事と同格だ。この位階というものは、天皇と本人との距離を示す。陸軍なら三千人の将兵を指揮する聯隊長であり、海軍なら巡洋艦・戦艦などの大型軍艦の艦長、もしくは航空隊の司令で千五百人から三千人の将兵を指揮した。中央官庁に勤務する大佐は、陸海軍共に「課長」で、極めて大きな権限を持っていた。

給与は昭和期であれば、月額370円・年額4400円で別に賞与が出た。戦地勤務の時は別に戦地手当てが出た。べらぼうに高いとはいえないが、定年まで勤務すれば子供に大学教育を受けさせ、貸家の2、3軒を持つことができた。それに加えて軍人恩給が相当高額であったから、家族を含めた自身の生活には困らなかった。もっとも、太平洋戦争の敗北により軍人恩給の支給停止とインフレによって、かつての職業軍人の生活が困窮したのは事実である。


筆者近影






2026年5月1日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(2・完)

 シルクロードのものがたり(106・完)


木蘭(もくらん)の詩    無名氏

喞喞(そく・そく) 復(ま)た喞喞(そく・そく)

木蘭 戸(こ)に当たりて織(お)る

機杼(きちょ)の声を聞かず

唯(た)だ女(むすめ)の嘆息(たんそく)を聞くのみ

女(むすめ)に問う 「何の思(おも)う所ぞ」

女(むすめ)に問う 「何の憶(おも)う所ぞ」

「女(むすめ) 亦(ま)た思う所無く

女(むすめ)亦(ま)た憶う所無し

昨夜 軍帖(ぐんちょう)を見るに

可汗(かかん)大いに兵を点(てん)じ

軍書十二巻

巻巻(かんかん)に爺(ちち)の名有り

阿爺(ちち)に大児(だいじ)無く

木蘭に長兄無し

願わくは為に(ため)に鞍馬(あんば)を市(か)い

此(こ)れより爺(ちち)に替(かわ)って征(ゆ)かん」

松枝茂夫氏は次のように訳している。

ハーッ、ハーッ、しきりにため息をつきながら、木蘭が戸口に向かって機(はた)を織っている。機の音はとだえがちで、木蘭のため息ばかりが聞こえてくる。「木蘭よ、おまえはだれのことを思っているのか、何を思い出しているのか」

「いいえ、わたしはだれを思うのでも、何を思い出したわけでもありません。わたしは昨夜、徴兵名簿を見たのです。このたび国王は大規模な徴兵を命ぜられ、名簿は十二巻にものぼりましたが、どの巻にもお父さんの名前が記載されていました。(私のお父さんは年老いていて病弱です・田頭挿入)お父さんに代わって兵隊になるような男の子がありません。わたしの上には兄もいないのです。私は馬と馬具を買って装備を整え、これからお父さんの代わりに出征する決心をいたしました」


東市に駿馬(しゅんめ)を買い

西市に鞍韉(あんせん)を買い

南市に轡頭(ひとう)を買い

北市に長鞭(ちょうべん)を買う

旦(あした)に爺嬢(ちちはは)を辞し去って

暮(くれ)には黄河の辺(ほとり)に宿(やど)る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 黄河の流水の鳴くこと濺濺(せんせん)たるを

旦(あした)に黄河を辞し去り

暮(くれ)に黒山の頭(ほとり)に至る

聞かず 爺嬢(ちちはは)の女(むすめ)を喚(よ)ぶ声を

但(た)だ聞く 燕山(えんざん)の胡騎(こき)の鳴くこと啾啾(しゅうしゅう)たるを

木蘭はあちこちの市場をめぐり歩き、駿馬と馬具類ー鞍・鞍敷・くつわ・鞭ーを買いととのえた。ある日の朝、父と母に別れを告げた木蘭は、日暮れに黄河のほとりに達して一夜の宿をとった。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、黄河の流れのザーッ、ザーッという響きが聞こえるだけである。翌朝、黄河を離れ、夕方には黒山のふもとに達した。もはや父母の娘を呼ぶ声は聞こえず、燕山の胡人の乗馬のもの悲しいいななきが聞こえるだけである。


万里 戎機(じゅうき)に赴(おもむ)き

関山(かんざん) 度(わた)ること飛ぶが若(ごと)し

朔気(さくき) 金柝(きんたく)を伝え

寒光(かんこう) 鉄衣(てつい)を照らす

将軍は 百戦して死し

壮士(そうし)は 十年にして帰る

木蘭の従軍した部隊は、遠く万里の彼方、決戦場へと向かった。まるで飛ぶかのように、関所の山をつぎつぎに越えていった。北の冷たい空気がドラの響きを伝え、冷たい光がよろいを照らす。このような戦場で、百たびもの戦いのすえ将軍は戦死したが、若き兵士木蘭は従軍十年ののち、ようやく帰還することができた。


帰り来たりて 天子(てんし)に見(まみ)ゆるに

天子 明堂(めいどう)に座(ざ)す

策勲(さくくん)は 十二転し

賞賜(しょうし)は 百千強なり

可汗(かがん) 欲する所を問う

「木蘭は尚書郎(しょうしょろう)を用(もち)いず

願わくは 千里の足を馳(は)せ

児(じ)を送って 故郷に還(かえ)さんことを」

帰還した木蘭は国王に召し出された。国王は明堂(重要な政務をとるときの御殿)に座して引見した。その功をねぎらって一足飛びに十二階級も昇進させ、千を越える賞与の品々を賜った。そして、さらに言葉をかける。「ほかに欲しいものがあれば申してみよ」木蘭は答えた。「わたくしは尚書郎(注・中央官庁の課長・部長級の地位)というような高い位は望みません。それよりも一日千里を走る馬を駆って、少しでも早く、わたくしを故郷に帰していただきたいのでございます」


爺嬢(ちちはは)は 女(むすめ)の来(きた)るを聞き

郭(かく)を出でて 相扶将(あいふしょう)す

阿姉(あね)は 妹の来るを聞き

戸(こ)に当たって 紅妝(こうしょう)を理(おさ)む

小弟(おとうと)は 姉の来るを聞き

刀(とう)を磨き 霍霍(かくかく)として豬羊(ちょよう)に向かう

我が東閣(とうかく)の 門を開き

我が西閣(せいかく)の 牀(しょう)に座し

我が戦時の 袍(ほう)を脱ぎ

我が旧時(きゅうじ)の 裳(しょう)を着け

窓に当たって 雲鬢(うんびん)を理(おさ)め

鏡(かがみ)に対して 花黄(かこう)を付(つ)け

門を出でて 火伴(かはん)を看(み)るに

火伴(かはん) 皆(み)な驚惶(きょうこう)す

「同行すること十二年 知らず 木蘭の是(こ)れ女郎(じょろう)なるを」

父と母は娘の帰還の知らせると聞くや、城門を出て、手を引きあいながら迎えた。姉は妹が帰ると聞くや、戸口に向かってお化粧を始めた。弟は姉が帰ると聞くや、シュッシュッと刀を研いで、さっそく豚や羊を屠(ころ)しにかかった。やがて木蘭は家に着くと、わが家の東の二階家の戸を開けて入り、西の居間の寝台に腰をかけた。これまで着ていた軍服を脱いで、むかしの衣裳を身につける。窓に向かって髪をととのえ、鏡を見ながら白粉(おしろい)をつけた。その姿で表に出ると、同行の戦友たちは、ひとり残らずびっくり仰天。十二年間も行を共にしていながら、木蘭が女であることにだれも気がつかなかったのだ。


西域や蒙古の人たちは、あまり風呂に入らないらしい。しかし水浴くらいはするだろう。十二年間だれも気付かなかったとは考えられない。不思議、不思議である。

いやいや。そんな細かいことは言うまい。木蘭の生還を心から喜ぶ。めでたし、めでたしであった。













2026年4月24日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(1)

 シルクロードのものがたり(105)

魏晋南北朝時代とは、後漢が滅び隋が中国を統一するまでの動乱の期間をいう。西紀220年から589年までの約370年間で、この時代には数多くの王朝が中国大陸に割拠した。この時代にも数多くの西域詩がつくられているが、その多くは悲しい詩である。その中にあって、珍しく前向きで清々しい詩を見つけた。これを紹介したい。


「木蘭の詩」という。私はこれを読んで感激した。久しぶりに瞼が潤んだ。木蘭という美少女の心意気に勇気をもらった。この詩には王維の「少年行」の最後の句、「縦(たと)い死すとも猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん」の気迫が感じられる。

かなり長い詩で、短編小説のようでもある。この詩をもって「西域詩の紹介」を終えたいと思う。同時に、今まで100回以上にわたって掲載してきた「シルクロードのものがたり」を終了したいと考えている。少し長くなるが、最後までおつきあいいただけるとありがたい。

これは北魏(AD386-535)のころの詩だ。中国には孔子様の生きた戦国時代と、諸葛亮孔明が五丈原で魏と戦った三国時代、過去に二度「魏」という国があった。邪馬台国の女王・卑弥呼が「親魏倭王」の金印をもらったのはAD238年のことで、これは二番目の魏から受けている。

これらと区別するために、三番目の魏のことを「北魏」と呼んでいる。この北魏が滅んだあと50年ほどいくつかの王朝が興るが、それらを滅ぼして589年に統一王朝を建てるのが「隋」である。


この「木蘭の詩」は、この北魏のころに流行した民歌だといわれる。木蘭という名の美少女が老父の代わりに男装して従軍し、大功を立てて凱旋したという実話にもとつ”いて作られた詩で、木蘭本人の作ではない。木蘭という美少女の姓は「花・か」といい、それ以外のことは残っていない。

この項の原稿を書いているとき、古い友人のKさんにランチをご馳走になった。「こんな詩を読んで感激しました」と言うと、「そんな内容の映画、たしか数年前に放映されましたよね」とおっしゃる。しばらくして「ムーラン・戦場の花」という題名だとの連絡をもらった。ビデオをAmazonで購入しようとネットで調べていたら、無料で今すぐパソコンで観れるとの表示があった。仕事を放り出して、すぐにその90分の映画を観た。

たしかにその通りで、従軍する若い兵士の胸に「花木蘭」と木の名札がつけてある。木蘭の勇敢な戦闘シーンを手に汗を握りながら観る。そして匈奴の大軍に追い詰められ、敗北のシーンに移る。将軍も戦死して、しまいには木蘭を含め数名の兵士しか残っていない。

「これはジョン・ウェインの西部劇『駅馬車』の映画と同じだ。観客をハラハラさせておいて、絶体絶命のところで騎兵隊の大軍が現れてアパッチの集団から駅馬車を助けたように、きっと魏の援軍が助けに来るに違いない」

私はこう思って、イライラしながら今か今かと待っていた。ところが援軍は来ない。木蘭たち全員は戦死してしまう。私はがっかりした。「魏のために死す!」と木蘭に言わせて、木蘭を戦死させるほうが観客の胸を打つと、映画の監督は考えたのかも知れない。

このことをKさんに伝えた。「あれっ、私が観た映画では、絶対絶命の局面で魏の皇太子が大軍を率いて助けに来ましたよ。木蘭は無事生還しますよ」とおっしゃる。この映画には二つのバージョンがあることを我々は知った。私が観たのが最初のバージョンの気がする。これに対して観客からのブーイングが強く、Kさんが観た第二バージョンを制作したのだろうか。

映画の製作にはこのようなことが時にあるらしい。西部劇の「荒野の決闘(原題・いとしのクレメンタイン)」や寅さんの「男はつらいよ」にもこの種の話を聞いたことがある。

これは現在の中国の映画製作者の感性の問題なので、この「木蘭の詩」の本質とはまったく関係がない。前置きが長くなってしまった。本題に入る。

(次号に続く)






2026年4月17日金曜日

漢代の詩・二首

 シルクロードのものがたり(104)


非愁(ひしゅう)の歌    伝 烏孫公主(うそん・こうしゅ)

吾(わ)が家 我を嫁す 天の一方(いっぽう)に

遠く異国の 烏孫王(うそん・おう)に託す

穹廬(きゅうろ)を室(しつ)と為し 氈(せん)を壁と為し

肉を以て食と為し 酪(らく)を漿(しょう)と為す

居常(きょじょう)に土(くに)を思うて 心内(うち)に傷む

願わくは黄鵠(こうこく)と為りて 故郷に還(かえ)らん

この女性は漢の武帝の甥にあたる江都王・劉建(りゅうけん)の娘で、名を細君(さいくん)という。烏孫(うそん)国の王、昆漠(こんはく)に嫁した。昆漠の老後はその孫の岑陬(しんすう)の夫人となった。 烏孫国とは新疆とカザフスタンとの国境近く、イリ河流域・天山山脈の北西あたりにあったトルコ系遊牧民族の国である。

当時、漢帝国は西方に勢力を拡大しており、このとき、たまたま烏孫国とのあいだに平和条約が結ばれ、その証明として王族の女性を嫁がせたのである。いわば政略結婚であり、人質ともいえる。このような嫁入りのときは、たった一人で行くのではない。お付きの者が数百人も同行し、その中の数十人は現地で一生、主人である女性公主と生活を共にしたようである。

この詩は本人の自作ではなく、彼女に同行した漢人が公主に代わって、遠く異国に嫁した悲しみを歌った詩といわれている。松枝茂夫氏は次のように訳している。

わたしは天の果てに嫁がされ、遠い異国の烏孫王に身を託すことになりました。丸い天幕(パオ)がわたしの住み家、毛氈(もうせん・毛織の布)が部屋の仕切りです。主食は獣の肉、飲みものは獣の乳。明けても暮れても本土のことを思って胸が痛みます。できることなら大型の雁(かり・ガン)になって、故郷に帰りたいものを。

私の部屋の本箱の片隅に高校時代の漢文の教科書が置いてある。覗いてみたら、この詩が冒頭に出ている。読み下し文もない、和訳もない、漢文だけである。他の箇所の陶淵明の詩も、司馬遷の『史記列伝』も、すべて漢文だけで書かれている。16、7歳の頃、ずいぶん難しいことを教えられていたものだ。


この詩も悲しいが、次の詩はもっと悲しい。これは後漢(AD25-AD220)の時代のものと思われる。

十五にして軍に従いて征く   無名氏

十五にして軍に従いて征(ゆ)き

八十にして始(はじ)めて帰るを得たり

道に郷里に人に逢(あ)う

「家中(かちゅう) 誰か有(あ)る」

「遥(はる)かに看(み)ゆるは 是(これ)君が家」

松柏(しょうはく) 塚(つか) 累累(るいるい)たり

兎(うさぎ)は狗竇(くとう)より入(い)り

雉(きじ)は梁上(りょうじょう)より飛ぶ

中庭(ちゅうてい)には旅穀(りょこく)を生じ

井上(せいじょう)には旅葵(りょき)を生ず

穀(こく)を舂(つ)きて 持って飰(めし)を作り

葵(あおい)を採(と)りて 持って羹(あつもの)を作る

飰(めし)と羹(あつもの)は一時に熟するも

知らず 阿誰(たれ)にか貽(おく)らん

門を出でて 東に向かいて看(み)れば

涙落ちて 我が衣(ころも)を潤(うるお)す

十五で徴兵されて従軍し、八十になってやっと帰郷することができた。道で郷里の人に会い、「わが家には誰かいるかね」とたずねると、「ずっと向こうに見えるのがあなたの家です」と答える。見ればマツやカシワの木がはえ、土饅頭がいくつも重なっている。ウサギがイヌの通り抜けの穴から出入りし、キジが梁(はり)から飛び立つ。庭には野生の穀物が一面にはえ、井戸のまわりには野生のアオイがはえている。さっそく穀物を舂(つ)いて飯を作り、アオイをつんでスープを作った。飯とスープはすぐにできたが、さて一緒に食べてくれる人は誰もいない。門から出て、はるか東方をながめれば、涙はとめどなく流れて着物を濡らす。

なんとも悲しい詩である。

15歳で従軍したというのは理解できるが、80歳の老兵というのは世にいない。おそらくこの人は、蘇武や李陵と同じように、働き盛りのころ、匈奴か胡人の捕虜になったのであろう。北方もしくは西域の地で何十年もの捕虜生活を送り、捕虜交換条約が成立して帰国を果たしたのであろう。それにしても、悲しい詩である。





2026年4月10日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(2)

 シルクロードのものがたり(103)

李陵は自分の家族全員が殺されたと思っていた。それが漢の新政権からの帰国せよとの説得にも応じず、彼が漢に帰らなかった最大の理由である。ところが、幼い息子だけは生き残っていたのだ。もし李陵がこれを知っていたら、彼は祖国にもどっていたかも知れない。


成蹊学園という小さな学校で学んだ私には、将軍・李広と孫の李陵、そして司馬遷には強い思い入れがある。

『史記列伝』の中でも、「李将軍列伝」は白眉だといわれている。筆者の筆にずいぶん力が入っているのが二千年後の異国の読者にもわかる。これは、司馬遷が青年時代に、友人の李陵の引き合わせで、彼の祖父の李広将軍に会ったことがあるからだと思う。

史記列伝のおしまいに、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。次のように記されている。

太史公曰くー

伝(いいつたえ)に、「その身が正しければ、命令しなくても行われ、その身が正しくなければ、命令しても人は従わない」(『論語』子路篇)とあるが、これは李将軍などを言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も、知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。彼の忠実な心が、まことの士大夫に信ぜられていたのである。諺に言う。「桃や李はもの言わぬが、その木の下には自然に蹊(こみち)ができる。桃李不言下自成蹊」 この言葉は小さなことを言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩えることができるのである。

成蹊学園の校名は、この故事に由来する。


李陵の幼い息子が生き残っていたことは、以前、「シルクロードのものがたり(33)」の「65歳の法顕天竺に向かう(4)」で紹介した。

インドへ向かう途中、僧・法顕(ほっけん)は西紀401年ごろ敦煌を経由している。彼が敦煌に到着する直前に、同地でクーデターが勃発した。それまでの無能で無慈悲な太守を、部下の人望が厚かった李暠(り・こう)という将軍が追い出して、自分が太守の座にすわった。旅の僧・法顕はこの新太守の李暠に親切にサポートしてもらっている。

この李暠という人は、「自分は漢の将軍・李広の十六世の孫だ」とみずから名乗っている。すなわち李陵の十四世の孫ということになる。この人は隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人と史書にある。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった郡で、現在の甘粛省の地図を見ると隴西という地がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。この隴西の南東に天水という町が見える。天水市静寧県に成紀という村がある。

じつは、この成紀(天水)が、漢の将軍・李広が生まれたところなのである。司馬遷は「李将軍列伝」の冒頭で次のように言う。「李将軍広(こう)は隴西郡の成紀(せいき)の人である。その先祖を李信(り・しん)という。李信は秦代に将軍になり、燕(えん)の太子丹(たん)を追撃して捕らえた人物である」と。

どの史書にも書き残されていないが、あのとき、長安にいた李陵の友人もしくは親戚の者が、李陵の幼い息子を匿ったと思われる。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である、山奥の隴西郡成紀の近くがふさわしい。この李陵の幼い息子を匿うために裏で指揮を執ったのは、宮刑になる直前の司馬遷だったのではあるまいか、と私はひそかに考えている。司馬遷という人はただならぬ漢(おとこ)であった。


じつは、この李暠(り・こう)の物語には、まだ続きがあるのだ。


618年に唐王朝を建国したのは李淵(り・えん・566-635)であると何度も述べた。李淵が「俺のご先祖は老子様(李耼・り・たん)だ」と自称したことも、以前お話しした。

同時に、李淵は「自分は李暠の八世の孫である」とも名乗っているのだ。千年前の老子様の話は疑わしいものの、こちらはわずか二百年前の話である。中国は文字・歴史の国だ。充分に信ぴょう性がある。かつ、中国の正史(青史)である『唐書』には「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西郡の西紀(せいき)の人である」と書かれている。そして、作家の陳舜臣は「成紀は現在の甘粛省の天水市にある」と指摘している。

すなわち、ここで、李広・李陵・・・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水市の近くだと、ピタリと一致した。

これが正しければ、母方の祖父が初代皇帝高祖・李淵の曾孫、母方の祖母が二代皇帝太宗・李世民の曾孫といわれる詩人の杜甫もまた、漢の将軍・李広や李陵の血を引く人だといえる。