2024年11月20日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(14)

 シルクロードのものがたり(43)

法顕(ほっけん)と鳩摩羅什(くまらじゅう)

先述したように、法顕が船で山東半島に帰着したのは412年7月14日である。鳩摩羅什(350-409)は、この時すでに中国で没していた。この人には344-413年説もあるが、ここでは先の生没年を採る。

今までポツリポツリとこの鳩摩羅什の名前が出てきたが、ここで整理して、この人のことを紹介したい。「高僧伝」の冒頭に次のようにある。

「鳩摩羅什、中国名は童寿(どうじゅ)は天竺の人である。家は代々宰相であった。羅什の祖父の達多(だった)は才気抜群、名声は国中に鳴り響いた。父の鳩摩炎(くまえん)は聡明で気高い節義の持ち主であったが、宰相の位を継ごうとする時になって、なんとそれを断って出家し、東のかた葱嶺(そうれい・パミール高原)を越えた。亀茲(きゅうじ・クチャ)王は彼が世俗的な栄誉を棄てたと聞いてとても敬慕し、わざわざ郊外まで赴いて出迎え、国師となってくれるよう要請した。

王には妹がおり、年は二十になったばかり。頭が良くて聡明鋭敏。そのうえ体に赤いほくろがあって、智慧のある子を産む相だとされ、諸国は嫁に迎えようとしたけれども、どこにも出かけようとはしなかった。ところが摩炎を見るに及んで、自分の相手はこの人だと心にきめた。王はそこで無理に摩炎に迫って妹を妻とさせ、やがて摩什を懐妊した」

これだけで、鳩摩羅什が名門の家系に生まれた、ただならぬ人物だとわかる。七歳になると母親と共に出家して、各地に留学したり名僧のもとで修業し、二十代でその名声ははるか東方の中国(前秦)の皇帝・符堅(ふけん)の耳にまで入った。


この当時の中国政治の変遷はめまぐるしい。その後の16年間、鳩摩羅什はこの中国政治の動乱の人質になったといえる。

381年、前秦の皇帝・符堅の命を受けて、西域に派遣された将軍・呂光(ろこう)は亀茲(クチャ)城を攻略して鳩摩羅什の身柄を確保した。ところが前後して「淝水の戦い」で前秦が東晋に大敗して、符堅はあえない最期をとげる。呂光は2万頭のラクダに乗せた財宝と7万の将兵と共に鳩摩羅什を伴って涼州に帰り、386年、武威を拠点として後涼国を建国した。しかし、401年5月、後秦の跳興(ちょうこう)が軍勢七千騎を派遣して後涼軍を打ち破り、河西諸国一帯は、後秦の跳興の支配するところとなった。

すなわち、鳩摩羅什は36歳から52歳までの16年間、軟禁のかたちで武威の城内にとどめられた。ただし、その身柄は丁重に扱われている。呂光からは国政・軍事の顧問として相談を受けた。言葉を変えれば友人のような形で遇されている。外出の自由を失っただけで、場内では普通の生活をしている。この間に、中国語を完璧に習得したといわれる。

「高僧伝」によると、鳩摩羅什が武威の城を出て、長安の地に入ったのは401年12月20日とある。新皇帝・跳興みずからが出迎え、鳩摩羅什を国師と仰ぎ、彼の翻訳を補助するために五百人(多い時は二千人)の僧侶を配置した。以来409年8月に亡くなるまでの約八年間、鳩摩羅什は膨大な量の仏典をサンスクリット語から漢語に翻訳した。






2024年11月13日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(13)

 シルクロードのものがたり(42)

インドに5年、セイロンを経由して船で青州(山東半島の青島)に漂着す


ホータン(和田)を出発して、パミール高原を越えた後も、〇〇国・△△国・××国など、法顕の記録にはやたら小さい国の名前が出てきて閉口する。

これについて、司馬遼太郎との対談で陳舜臣が、「村より小さい国」と題してユーモラスに語っている。NHK取材班に同行して西域各地を旅した昭和50年代の話であろう。

「今度の旅行から帰ってきて、旅行記を書くんで調べていたら、通ったところの一つに ”昔ここは西夜国” と『漢書』に出ていた。戸数が350。そこには52の国名が出てくるんですけど、これはしめた、これが西域最小の国にまちがいない、そう書いてやろうと思った。だけど一応念のためと思って調べたら、まだちっちゃいのがある。戸数41戸の国もある。烏貧言離国(うひんげんりこく)というものものしい国名をもっていた」

たしかに、法顕や玄奘の旅行記だけでなく、「史記」「漢書」を含め中国の古い史書に書かれた西域の数多くの国名には閉口させられる。あまりこだわらないで、このような村があるといった感じで、軽い気持ちで読み進んでゆくのが良いと思う。


このあとの法顕の旅については、「大幅に端折(はしょ)り」、要点だけを紹介する。

下記の地図が、法顕が長安を出発して12年後に中国に帰るまでの旅のルートである。法顕と青年僧の道整(どうせい)がサーへト・マヘート(祇園精舎の地)にたどりついたのは、405年の秋、法顕70歳のときである。

その後、地図にあるように、二人はインド北部をあちこち歩いているが、2年間をパータリプトラ(赤いしるしをつけた)に滞在している。ここは、古代アショカ王の時代に首都であったところで、ブッダが悟りを開いた場所でもある。また後世、玄奘三蔵が学んだナンダーラ大学(僧院)もここにあった。この地で法顕は熱心に梵語(サンスクリット語)を学んだと伝えられるが、いくら法顕でも70歳を過ぎての外国語の学習は骨が折れただろうと同情する。しかし、その好奇心・努力には感服する。

青年僧の道整と別れたのはこのパータリプトラである。「この地にとどまり、命が尽きるまで修行に努めたいと思います」と言う道整に、「それもよろしかろう。ただ私は中国にもどります」と答えている。

その後、法顕は一人で、経典などの荷物があったので何人かの現地の人夫が同行したと思うが、ガンジス川を下り、タームラリプティという港町に着いた。当初の法顕の考えは、ガンジス川河口のこの港町から中国に向かう商船を見つけるつもりだったようだ。

この町で、法顕は一人の中国人商人と巡り合う。どういういきさつか判らないが、法顕はこの中国人の船でセイロンに向かった。その後1年以上セイロン島に滞在している。

その中国人の世話になり、集めた経典を大船に乗せてセイロンを出帆した。船員と乗客を合わせて200人、救命ボート1隻を船尾につないであったというから、大きな船である。中国の船ではなく、アラビア船員の船もしくは海洋民族のクメール人(カンボジア)が運航する船であった可能性が高い。余談だが、カンボジアのプノンペン・ベトナムのホーチミンの沖のメコン川下流の海中から、現在でもBC100-AD200年頃のローマの金貨が時おり発見されるという。紀元前から、ローマと東南アジア・中国を結ぶ「海のシルクロード」があったようだ。

この船は、途中でスマトラ島のジャンビ(パレンバンの北方)に寄港している。この地に5ヶ月滞在して、別の中国人の支援を得て、別の大船に乗り換えて中国に向かった。「この大船にも200人ばかりの人が乗り50日分の食料が用意されていた」と法顕は記録している。

この船は中国南部の広州を目指していたのだが、航海術の未熟な時代である、風雨にほんろうされながら、結果的には中国北部の山東半島に漂着した。

412年7月14日のことである。法顕は77歳であった。






2024年11月6日水曜日

みちのく一人旅(4)

 岩手県の田頭(でんどう)城跡、20年後の訪問

翌朝、ご夫妻に大湊駅まで車で送っていただいた。このとき山崎医師が3本の万年筆をくれた。1本はペン先を曲げた極太文字や絵の描ける万年筆、2本は万年筆を太文字のボールペンに改造したものだ。このボールペンがとても書きやすい。以来、ブログなどの原稿用紙の下書きにはこれを使っている。私にはとてもできない芸当だが、バイク修理工場主の山崎医師にはたやすいことのようだ。

50年前の本も嬉しかったが、今回いただいた筆記用具も大変ありがたい。とても書きやすいので、執筆意欲がさらに高まりそうだ。


大湊駅を出発した電車は、右手に陸奥湾を見ながら南下する。八戸駅で新幹線に乗り換え盛岡駅で降りる。盛岡駅からローカル線で北上して8つ目の大更(おおぶけ)駅近くにある田頭城跡を訪問するためだ。この城跡については、「岩手県の古城跡(田頭城)」という題で、2019年5月にこのコーナーで紹介した。

城跡を再訪したい気持が2割ほど、あとの8割はあの時のタクシー運転手さんに会って、20年前に渡しそびれた1万円のチップを渡したいとの気持ちだった。1度会っただけの運転手さんで、この方の名前はわからない。会えないにしても、彼の消息はつかめるのではないか。そういう気持ちが心の中にあった。

正午過ぎに盛岡駅に着いた。以前と同じくローカル線で啄木のふるさと渋民駅経由で大更(おおぶけ)駅に向かおうとしたら、次の電車の出発は午後4時過ぎだという。これには驚いた。帰りの電車はいつになるやらわからない。20年の間にローカル鉄道の便数はずいぶん減っている。「バスだと1時間後に駅前から出ますよ」と駅員さんが教えてくれる。バスだと50分と鉄道より時間がかかるが、違った景色が見られるのでバスの旅も楽しい。

大更駅前でバスを降りて、タクシー乗り場に向かう。2台のタクシーが停まっている。20年前に、「ここでタクシー運転手をしているのは私だけですよ」と私と同い年だという運転手は言っていたが、2人のタクシー運転手は共に50歳前後に見える。先頭の運転手に声をかけて聞いてみるが、「知りませんなあ」と愛想がない。

2人目の運転手はその方を知っていた。「ああ、その人なら数年前にお百姓に専念するといって会社を辞められましたよ。大きなお百姓さんでしてね、時々この駅前で見かけますよ。今はちょうど稲刈りで忙しそうですよ」とおっしゃる。「そうか、お元気なんだ!」と私は嬉しくなった。このタクシーに乗り田頭城跡に向かう。6ー7分で到着する。

20年前の運転手は、嬉々としてまるで従者のように城跡のてっぺんまで同行してくれた。私のことをこの城の若君の子孫だと思い込んでいる運転手は、私とは400年前の因縁がある身内だ、と思ってくださったからであろう。今度の運転手は、いわば他人だ。「ここで待っていますから」と城跡の下の駐車場にタクシーを停めた。

1人で50メートルほどの山城に登る。20年前と異なるのは、「ずいぶん長い滑り台」と「公衆便所」が造られているだけで、それ以外は何も変わらない。訪問客は私以外はだれもいない。八幡平市は観光名所にしたいらしいが、どうもそうでもないらしい。25分ほどで降りてきた。「桜の時期にはけっこう観光客がいるんですがねえ」と運転手は言う。

大更駅に着いた。待機料金2000円ほどを加えた料金が提示されたので、チップは払わなかった。それでも親切な人で、タクシーから降りてきて、「電車が早いかな、それともバスが早いかな?」とそれぞれの時刻表を調べてくれている。結局、40分待ちの電車で盛岡駅に向かった。


20年前の運転手さんは、お元気で400年以上続いているご先祖様の田圃で稲作に専念されていることがわかった。よかった、よかった。今年はお米の値段が高いから、米農家さんには良い年であろう。この岩手県への小旅行も愉快な旅であった。






2024年10月30日水曜日

みちのく一人旅(3)

 50年前の浪人生との再会(3)

自宅で美味しいリンゴとお茶をいただきながら、1時間ほど語り合う。50年間の出来事を1時間で語り尽くすのはむずかしい。「青年は弘前の人で医者の息子」と私は長い間ずっと思っていた。なぜ北の果てのむつ市で医者をやっているのか、何か問題をおこし父親に勘当されたのだろうか、と気にしていた。このことをお聞きした。

そうではなく、元々むつ市の生まれだとおっしゃる。両親が教育に理解があり、中学・高校の6年間を弘前市に遊学させてもらった。親は立派な職業だが医者ではない。50年前に弘前高校の卒業だと聞いた私は、本人が医学部を目指して勉強していたので、勝手に弘前の医者の息子だと思い込んでいたようだ。陸軍士官学校を卒業して硫黄島から生還された陸軍中尉の父上の若い頃のものがたりは、戦史に関心を持つ私にはとても興味深いものだった。

自宅からホテルに移動する前、「ちょっと私の研究所を覗いてください」と言われる。外科医の研究所というから、人間の骨でも飾ってあるのかな、と恐る恐るついていく。自宅の隣が駐車場で、その向こうに研究所がある。入口にモーターバイクが2・3台並んでいる。ドアを開けると中にもバイクが置いてあり、バラバラに解体してそれを再度組みなおしている様子だ。おびただしい数の工作道具が整然と置かれている。これはまさにモーターバイクの修理工場だ。「これが趣味なんですよ」と笑いながらおっしゃる。


このあと自宅近くのホテルにチェックインしてシャワーを浴びる。二人が6時半前に迎えに来てくださり、徒歩で夕食の場所に向かう。

田名部(たなぶ)の中心街を歩いているらしい。『街道をゆく・北のまほろば』の中に、司馬遼太郎が旧会津藩士の末裔の人たちと夕食を一緒するくだりがある。ふとそれを思い出し、「あの店はこの近くですか?」と二人に尋ねると、「そこの右側のお店です」と奥様が答えてくださる。ご主人だけでなく奥様も相当な読書家のようだ。

夕食の店に着いた。「東(あずま)寿し」という立派な寿司割烹だ。店の前を清流が流れていて小さな橋を渡って店に入る。この店の経営者とも二人は親しい仲のようだ。出てくる料理のすべてが極上の味だ。私はビールのあと純米酒を一合いただく。山崎医師はビールのジョッキ2杯を軽く空けた。さらに日本酒を注文して、奥様を交えて3人で酒盛りを続ける。実に愉快だ。

「堀さん、内島さん、中村さんはお元気ですか?」と突然山崎医師が問うたのには驚いた。3人とも私の成蹊の学友だが、この3人と隣の部屋の青年が会ったのは、多くても2-3回のはずだ。しかも50年前のことだ。立派な大学の医学部に合格したのだから、青年はもともと頭が良かったに違いない。でも、それだけが理由とも思えない。この3人の言動の何かが、当時20歳前後の青年の心に響いたのではあるまいか。ともあれ、50年前の青年が私の学友3人の名前を憶えていたことに、とても不思議な思いがした。

青年からもらった『一休狂雲集』をカバンに入れていた。「贈 田頭東行大兄 昭和五十二年七月二十九日 山崎總一郎」と書いてある。

「久しぶりです。一筆書いてください」とお願いした。山崎医師は口元にわずかに笑みを浮かべて私の万年筆を握った。

「犬も歩けば、猫も歩く。再会50年 山崎總一郎」

禅味のある、じつに味わい深い言葉である。

令和六年。今年も楽しいことがいくつもあった。その中でも、私にとっての楽しいことの筆頭がこの下北半島への旅であった。山崎ご夫妻に心から感謝している。




みちのく一人旅(2)

50年前の浪人生との再会(2)

訪問のひと月前、奥様から丁寧な案内をいただいた。「主人が田頭さんをお連れしたい場所があると言っています。当日は昼前に下北駅に着けるよう、始発の新幹線に乗ってください」とのことだ。令和6年10月12日、06時32分東京駅発のはやぶさ1号に乗り、八戸でローカル線に乗り換え、11時07分に下北駅に着いた。

ご夫婦で駅に迎えに来てくださっていた。お互い顔を見てすぐにわかった。50年前はひょうきんで快活な若者、との印象を持っていた。今回会ったら重厚な感じの紳士である。50年間の自己錬磨の賜物であろう。他者に対して気配りする親切な気質は昔と変わらない。

高級車のトランクに私の荷物を入れ、すぐに奥様の運転で北に向かった。しばらくすると海が見えた。快晴でかなり風がある津軽海峡はキラキラと輝いている。そのまま海岸線に沿って走り、正午過ぎに着いたのはまぐろで有名な大間(おおま)漁港だ。


「さつ丸」というまぐろ料理店に入った。大トロのまぐろ丼 の上に生うにが乗せてある。素晴らしく旨い。70代半ばのご主人が「さつ丸」の船長で鮪を獲っていて、奥様がこの店を切り盛りしている。奥様の名前が「さっちゃん」というらしい。この日は時化ているので漁が休みなのだろうか、ご主人も店におられる。若い女性が「山崎さんの奥様には大変お世話になっています」とおっしゃる。この女性はむつ市に住んでいて、通いでこの店を手伝っている。さつ丸夫婦の姪(めい)らしい。「サービスです」と、あぶったタコの足が皿に乗って出てきた。店の写真の右上にタコの足が干してあり、その下にコンロが見える。塩味だけのこのタコの足がとても旨い。

漁港のこのような雰囲気の海鮮レストランは、台湾の花蓮港(かれんこう)やマレーシアのフィッシャーマンズ・マーケットで何度か立ち寄ったことがある。店のつくりは素朴でシンプルだが、魚の味は超一流、というのが世界中で共通している。若い頃、東南アジアの港町をウロウロしていた頃を思い出す。

美味しい大トロのまぐろ丼で腹いっぱいになり、徒歩で「本州最北端の地」の石碑に向かう。津軽海峡の向こうに函館がはっきりと見える。3人で周辺を20分ほど散歩する。「さつ丸」と同じような海鮮レストランが10軒以上あちこちに見える。観光客が多い。アメリカ人らしき子供2人が海鮮料理店の前に立っていたので、片言の英語で話していたら、両親が勘定を済ませて店から出てきた。「三沢から来た」とおっしゃる。「グレイトUSエアーフォースですね!」と言ったらずいぶん喜んでくれる。お返しのつもりか、「お前さん英語がうまいね」とお世辞を言ってくれた。


大間漁港をあとにして、車は南に向かって山に入っていく。恐山(おそれざん)に向かっているらしい。山道はきれいに舗装されているのだが、道の中を5匹・10匹の猿の群れが我がもの顔で歩いているので、運転する奥様があわててブレーキを踏む。

恐山については多少の知識は持っていたが、自分がここに来る機会があるとは思ってもいなかった。比叡山・高野山と共に日本三大霊山の一つ。恐山菩提寺の創建は862年、慈覚大師円仁による。このようにいわれている。山形県の立石寺(りっしゃくじ)は860年、円仁によって創建といわれているが、円仁自身ではなくそのお弟子さんの手によるものらしい。これと同じく、この恐山も円仁の弟子か孫弟子によって開山されたと私は考えている。ともあれ、この恐山に連れてきてもらえたのは僥倖(ぎょうこう)であった。

恐山の菩提寺・賽の河原をあとにして、右にカルデラ湖を見ながら、車はどんどん山を登っていく。航空自衛隊のレーダー基地近くの展望台に連れて行かれた。あとで地図を見ると、この山は釜臥山らしい。ここから大湊湾が一望できる。

会津藩がこの地に入り、斗南(となみ)藩を名乗ったのは明治3年5月である。この地で藩政を担った3人の人物は偉かった。山川浩(ひろし)・広沢安任(やすとう)・長岡久茂(ひさしげ)である。長岡はこの大湊をひらいて、10年後には世界の船を寄港させようと奮闘した。明治35年、日本海軍はこの地に大湊水雷団を置いた。その後、軍港として発展した。津軽海峡の防備、すなわちロシアの日本侵入を防ぐ防人(さきもり)たちの軍事拠点である。山のてっぺんから大湊湾を眺めながら先人たちの労苦を想った。

この展望台を最後に、車はお二人の自宅に向かった。


さつ丸

本州最北端の碑

まぐろ一本釣の町 おおま




恐山

大湊湾 左がむつ市

2024年10月24日木曜日

みちのく一人旅

 50年前の浪人生との再会

私の小さな書斎の本箱に1冊の本がある。『一休狂雲集』という古典だ。引越しのたびに大事に持ち運んでいた。50年ほど前にこの本をくれたのは、同じアパートで隣の部屋に住む、医学部を目指して勉強していた青年である。

私は27歳、独身で三光汽船に勤務していた。吉祥寺の井の頭公園にほど近いアパートで、場所が便利なので成蹊の学友や三光汽船の仲間がよく泊まりに来ていた。私がこの竹貫アパートに住んだのは1年ほどだった。友人たちには、「となりは浪人生だから、大声を出してはいけないよ」と、私なりに浪人生に気を使っていた。

しばらくしてこの青年が、「田頭さん今夜一緒に夕食しませんか?」と誘ってくれた。土曜日か日曜日の夕方だった。快諾して、1時間ほどして彼の部屋に入ると2人分の料理が並んでいる。自分でつくったらしい。

食事が始まる前、青年は部屋の電灯を消し、古めかしいランプに火をともした。ランプに凝っていて、大正時代や昭和初期の骨とう品のランプをいくつか持っていると言う。変わった若者だなと思った。たしかにランプの灯のもとで食事をするのは心が落ち着いて雰囲気が良い。料理もとても美味しい。食事が終わったらランプを消して電灯をともした。

食後の一服と思い、私がタバコに火をつけようとしたら、「ダメダメ」と言う。タバコを吸うのがダメというのではないらしい。「食事が終わったらすぐに食器を洗わなくてはいけません。私も自分の分は洗います。田頭さんも自分の食器を洗ってください」 これが終わって、タバコを吸わせてもらった。

うるさいことを言うなあ、とこの時は思ったのだが、その後これが私の習慣となった。今でも家内の旅行中とか郷里広島県の実家で一人で食事をするときには、食事が終わったら1分も経たないうちに食器を洗う。お返しのつもりで、私もこの青年を自分の部屋に招いて何度か食事を一緒した。双方合わせて10回程度の会食だった気がする。このアパートを出たのは私が先だった。その時、青年が餞別だといってくれたのがこの本である。


以来50年、「彼は元気かな、立派なお医者さんになったのかなぁ」と時々この青年のことを思い浮かべていた。住所も電話番号もわからない。ただ、名前はわかっている。本に私と自分の名前を書いてくれていた。青森県の人だったという記憶もある。今年の8月、中野の自分の部屋で彼のことを想っていたら、ふと頭の中にひらめいた。もし青森県で医師として働いておられるなら、青森県医師会に聞いたらわかるのではないか。

ネットで調べたら電話番号が出ていたので、思い切って電話をかけてみた。「50年前のことなのですが、かくかくしかじか。この名前の医師が青森県にいらっしゃいますか?」と聞いたら、「いますよ」との返事だ。年配の男性の声だ。「私の名前と電話番号をお伝えします。先生にお伝えいただき、よろしかったら先生から私にお電話をいただきたいのですが、、」と言いかけたら、「電話番号を教えますよ。自分で電話をしてください」とおっしゃる。

このおおらかな返答に私は嬉しくなった。西欧文明の性悪説から出る発想なのだろうか、近頃は個人情報の保護だとか、メールに添付する書類にパスワードをかけるとか、人を疑うような話が多い。私のことを信用してくださったからであろうが、このおおらかな対応に、「これぞ日本人同士の会話だ。さすが、みちのくの人は人物が大きい!」と、私はこの方の対応に感激してしまった。

その病院は青森県の最北端、下北半島のむつ市にあるという。電話を入れると今度は若い女性の声だ。「50年前にお会いした田頭と申します」と伝えたら「少々お待ちください」と快活な声だ。しばらくして、本人が電話口に出た。「いやあ、田頭さん、お久しぶり!」 これが彼の第一声だった。これには感激した。久しぶりも久しぶり、50年ぶりなのだ。

私が青年のことを時おり思い浮かべていたように、彼もまた私のことを気にかけてくれていたようだ。私が三光汽船という海運会社で働いていたことは彼は知っている。同じアパートの時から10年後、三光汽船は「史上最大の倒産」ということで新聞紙上を賑わせた。その時、私はシンガポールにいた。「田頭さんはどうしているのだろう、ちゃんと食っているのかしら」と心配してくれていたようである。「下北まで遊びに行きたいよ」と言ったら、「来い、来い!」という話になって、少し涼しくなった10月頃に、この地を訪問する約束をした。





2024年10月14日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(12)

 シルクロードのものがたり(41)

法顕は、病気はしなかったのだろうか?

65歳で長安を出発して陸路インドに向かい、77歳でセイロンから商船に便乗して海路中国に帰った。この事実からしても、法顕が頑強な人だったことがわかる。65歳で天竺に行こうと考えるだけでも、体力には自信があったのだろう。

しかし、法顕とて人間である。病気をしたり弱気になったりしたことはなかったのだろうか?インドに到着するまでの「法顕伝」や他の書物を読む限り、そのような事実は見えない。むしろ、自分の強い体力をベースに物事を判断したために、他者への思いやりに欠けていたのではないか、と反省する場面が見える。

パミール高原を超えて現在のアフガニスタン領に入った。ヒンズークシ山脈のふもとを通って、現在のカブールの東方・ジャラバードあたりからカイバル峠を越える。このあと現在のパキスタン領に入り峠をくだり、インダス川を渡る予定だ。このカイバル峠はインドに入るための重要拠点で、かつてはBC4世紀にアレキサンダー大王が、7世紀には玄奘もこの峠を越えている。

このあたりで慧景(えけい)という青年僧が、口から白い泡を吹いて亡くなった。高山病だったのかも知れない。じつは、ここに到る以前にも、3人の僧が中国に引き返している。このとき、「頑張れ、頑張れ。初志を貫き天竺まで行こう」と法顕は僧たちを励ましている。ところが、僧の一人は「あなたは常人ではありません。私たちは平凡な人間です」と答えている。これは法顕の強靭な体力を言ったものと思える。

「わかった。気を付けて帰りなさい」と法顕は答えている。このようにして、無事にインドに到着したのは、法顕と道整(どうせい)という青年僧の二人だけであった。


ところが、ある書物で、「法顕がインドで病気にかかって弱気になり、しょんぼりしていた」という話を発見した。法顕も人の子であったのだと、私はこの話に興味を持った。

ある書物とは、吉田兼好の「徒然草」である。第八十四段に次のようにある。

法顕三蔵の天竺に渡りて、故郷(ふるさと)の扇を見て悲しび、病(やまい)にふしては、漢(かん)の食(じき)を願ひたまひけることを聞きて、「さばかりの人、むげにこそ、心弱き気色(けしき)を、人の国にて見えたまひけり」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうつ”)、「優(ゆう)になさけある三蔵なり」と言ひたりしこそ、法師の様にもあらず、心にくくおぼえしか。

私の成蹊の古い先輩である川瀬一馬先生は、次のように現代語訳されている。

法顕三蔵がインドへ渡って、故郷の扇(おうぎ)を見ては悲しみ、また病気にかかっては、故郷(中国)の食物を欲しがられたことを聞いて、「それほどのえらい人が、ばかに弱気なところを、他国でお見せになったものだ」とある人が言ったところ、弘融僧都(こうゆうそうつ”)が、「やさしくも、情味のある三蔵だな」と言ったのは、坊主のようでもなく、おくゆかしく感ぜられたことだ。


私も兼好法師と同じ思いだ。この話を聞いて、ますます法顕が好きになった。弘融僧都は仁和寺の僧であったと解説にある。兼好法師とこの人は仲良しだったような気がする。

吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人だ。この頃、日本ではこの法顕について、読書階級の多くが知っていたようである。