2025年11月21日金曜日

中国の風力発電・トルファンからウルムチへ

 シルクロードのものがたり(83)

高昌故城、カレーズ地下水路などを見学したあと、トルファンでのおしまいの観光は「ウイグル族のお宅へ家庭訪問」とスケジュール表に書いてある。

なんだろう?と思っていたら、ウイグル族のぶどう農家を訪問して、立派な葡萄棚の下で生のぶどうや干ぶどうをご馳走になる。葡萄棚の下からたわわに実る葡萄を見上げると、「西域にやってきたな!」という実感がする。素朴な感じの老農夫が対応してくれるが、この人、商売っ気は感じられない。そのぶっきらぼうな対応が「剛毅朴訥(ごうきぼくつとつ)仁に近し」の感じがして、好感が持てる。

「ここでは美味しい自家製のワインが買えます」とガイドのエイさんは言うのだが、老人は買ってくれとも言わないし、商品も見せない。こうなると、人の心は面白いものだ。「ワインはどこにあるの?1本買いたいから見せてください」とつい言ってしまう。ウルムチのホテルで3人で飲もうと思い、白ワインを1本買う。3000円ほどだ。


その後、バスでトルファンからウルムチに向かう。約200キロの行程をトイレ休憩を入れて3時間で走る。時速80キロ前後のスピードだ。右も左も草木は一本もない砂漠の中を走る。鳴沙山のような細かい砂ではなく、小石が混じる「礫砂漠・れきさばく」といわれる荒野が続く。はじめの40分ほどは、なにもない荒野だったが、そのあと急に景色が変わる。

バスの右側にも左側にも、巨大な風力発電のプロペラが出現して、それがえんえんと続く。ウルムチに着くまで、2時間もこの光景が続き、とても驚いた。

「このあたりは世界最大の風力発電地帯です。ここからは見えませんが、あの丘の向こう側にも同じくらい造られています」とエイさんが説明してくれる。「中国の風力発電のスタートは1995年です。デンマークから500基の小型のプロペラを購入したのが最初です。現在では世界一の風力発電の国になりました」

「どのくらいの数のプロペラが設置されているのですか?」との質問には「わかりません」との返事だ。自分なりに知恵をしぼり計算してみる。時速80キロのバスで2時間走るのだから160キロだ。右側に20基、左側にも20基のプロペラが見える。500メートル間隔で設置されていると仮定して計算すると、1万2800基という数字が出る。丘の向こうにも同じくらい設置されているとすれば、2万5600基となる。これら以外に火力発電所の煙突も見える。太陽光発電は見えなかったが、「別の場所に大量に設置されている」という。

「こんなに大量の電力、新疆ウイグル自治区だけで消費できるのですか?」

「青海省やチベット自治区にも、ここから電気を送っています。北京や上海は距離が遠いので、電線で送ると電圧が下がります。よって現在、中国では蓄電池の研究・製造に全力を挙げています」とエイさんは教えてくれる。

新疆ウイグル自治区の電気料金はずいぶん安いらしい。ちなみにエイさんの家の電気代を聞いてみると、「家族5人でエアコン・扇風機・冷蔵庫はもちろん使っているが、ひと月の電気代は1500円程度」だそうだ。日本に比べると十分の一くらいの安さだ。


私はこのCO2削減・脱炭素に関しては積極的な賛成派である。一刻を争う重要事項だと考えている。ただ、今回この中国の気が遠くなるような数の風力発電所を見て、日本の将来を考えると、気持ちが萎えてきて頭を抱えている。地理的条件(風土)と、政治・行政などの条件を考えると、中国のほうが日本より圧倒的に有利な立場にある。日本の陸上・洋上風力発電にかかる巨額な費用に比べると、中国は極めて安価で発電できるのが素人目にもわかる。

さあ、日本はどうするかだ。バイオや地熱による発電が効率が悪いことは承知している。それでも、日本人は知恵をしぼってこのCO2削減に邁進する必要がある。私の専門の分野ではないが、この問題は日本にとって待ったなしの、極めて重要な課題であると考えている。

アメリカの大統領は「石油や石炭を、掘って掘って掘りまくれ」と言っている。これは間違いだと思う。これに比べると中国政府はCO2削減のための再生エネルギー、特に風力と太陽光に本気で力を入れている。この「CO2削減」一点に絞ると、今後、世界の心ある国々(人々)は、アメリカではなく中国に対して、尊敬の気持ちを抱くようになるのではないかと思った。


トルファンの葡萄棚

葡萄をご馳走になる


風力発電 トルファン・ウルムチ間


風力発電のプロペラ
ウルムチ近くになり、草も見える

2025年11月17日月曜日

【トルファン】カレーズ(地下水路)

シルクロードのものがたり(82)

 新疆ウイグル地域にかぎらず、イラン・アフガニスタン・メソポタミア・アラビア半島・エジプト・北アフリカなどの砂漠・乾燥地帯には、多くの人が住み、しかも高度の文明を築いてきた。水の供給さえできれば、砂漠や乾燥地は人間が住むには適した場所らしい。第一に病原菌が少ない。第二に人を襲う猛獣が少ない。

「エジプトはナイルの賜物」とヘロドトスが言うとおり、エジプト文明はナイル河の恩恵による。メソポタミア文明も、チグリス・ユーフラテス両大河の恵みによる。これらに比べ、ここ新疆ウイグル自治区を含め、イラン・アフガニスタン・アラビア半島・北アフリカなどの砂漠地帯の人々は、この人工の地下水路による水で生活してきた。高山に降る雪や雨水を、地下水路を通して人間が住む場所に運んだのだ。

このカレーズの起源は古代ペルシャ(イラン)にあるという。イラン中央部で3000年以上前に建設された人工の地下水路が発見されている。イランではこれを「カナート」というそうだ。このイラン中央部の水源は、ザクロ(石榴)の原産地といわれるザクロス山脈にある。この巨大な山脈には雪をいただく4500メートル級の山々が連なっている。地下水路によって水を得るというやり方は、古代ペルシャで始まり東と西に波及したようである。

少し焦点がずれてきた。本題のトルファンのカレーズに話を戻す。


年間降雨量16ミリのトルファンの人々は、このカレーズのおかげで生活できている。トルファンのカレーズの水源は、いうまでもなく雪をいただく天山山脈にある。ウルムチ・クチャなどの都市も天山山脈の水の恵を受けているが、ここトルファンがその代表的なオアシス都市だと、ガイドのエイさんは説明してくれる。

カレーズ建設の方法を文章で説明するのはむずかしいが、ひと言でいうと次のようになる。「天山山脈の雪解け水や雨水が地下にもぐる。その水脈に見当をつけて縦穴を掘る。水が出るようであれば横穴を掘る。土砂はもっことロープを使って、人力と馬の力で地表に出す。同時に20メートルおきぐらいに別の縦穴を掘り、横穴とつなぐ。土砂は同じく人力と馬の力で地表に上げる」

この作業をくりかえし、何キロ・何十キロの地下水路を建設する。この説明では充分に理解できないかもしれない。カレーズ見学の際、付属の博物館で写したカレーズ建設の写真がある。これを見ていただければ理解が早いかもしれない。

体力を要する、同時に危険をともなう作業だ。当然、莫大な費用がかかる。よって、新しくカレーズを造るのはその時代のお金持ちの仕事となる。何十人・何百人もの人を雇い、何十頭もの馬を使って、この作業を何か月も何年も続けて完成させる。

「カレーズ(枯れず)といいますが、トルファンのカレーズはずいぶん枯れてきました。昔は1200のカレーズに水が流れていましたが、現在は500ほどです」とエイさんはダジャレを交えながら説明してくれる。「この数十年、自宅用の井戸を掘る技術が発達し、また費用も安くなりました。自宅に井戸を掘る人が増えて、そのためにカレーズの水が枯れてきたのです。ですから、自治政府は最近、市民がかってに自分の井戸を掘るのを禁止しました」

古代からごく最近まで、このカレーズの水の権利は、掘った人の家に所属したという。水道のメーターはないので、水を使用する各人の農耕面積や家族の人数をもとに、一か月いくら、と金額を決め代金を徴収したという。

「ですから、金持ちの先祖がカレーズを造ってくれたら、子孫は何百年もこの水の代金だけで生活ができました。私の先祖は貧乏だったので、子孫は恩恵を受けませんでした。でも、人民共和国が成立して以降は、このカレーズの水の利権はなくなりました」とエイさんは言う。

カレーズの水の利権が突然ゼロになったのか、それとも日本の徳川時代の士族が、明治維新のとき、何年か分の生活費として一時金をもらったように、なんらかの保証があったのかは聞きそびれた。


トルファンのカレーズ


清流が流れている

カレーズの造り方

カレーズの造り方

カレーズの造り方

上空から見たカレーズ


「日本の首相がここで写真を撮りました」
とエイさんが言うのでみんなそれに倣った

2025年11月13日木曜日

【トルファン】玄奘と〇〇将軍(3)

 シルクロードのものがたり(81)

〇〇将軍のことが気になってしかたがない。ただ、これから書こうとすることには歴史的事実の裏付けは少ない。よってノンフィクションとは言い難い。そうかといって、小説にもならない気がする。洛陽出身の〇〇さんは、どのような理由で高昌国の人となったのか、高昌国がなぜ亡びたかについての、私の空想であり夢想である。

いくつかの想像ができる。

この人は高昌国で将軍になったのだから、若い頃は隋帝国の将校であった可能性が高い。高句麗遠征で敗北した軍団の中の将校の一人であったのか。あるいは、巨大運河建設を指揮する将校で、その仕事が嫌だったのか。いずれにしても、本人は隋王朝に愛想をつかし、もしくは追われるように亡命のかたちで、隋から高昌国に入ったような気がする。そしてこの国で将軍になったのだから、有能な人物だったのであろう。

高昌国だけではない。新疆ウイグル地域のいくつもの小・中の国々は、何千年に渡り、つねに中国(このときは唐)と西方の強国(このときは西突厥・にしとっけつ)との間に挟まれ、両大国の勢力を見極めながら、いわば「コウモリ外交」を展開してきた。これ以外に生き残るすべがなかったのだ。


高昌国は、隋王朝に対しては一目置き、これを尊敬していた。これに比べ、建国まもない唐王朝を軽んじていたように感じる。

高昌王・麴文泰は「私は先王と中国に遊び、隋帝に従って各地を訪れました」と慧立の記述の中で語っている。そして他の「隋史」を読むと、「高昌国王・麴伯雅(きく・はくが・文泰の父)は自国の将兵を率いて、隋の高句麗遠征に従軍した」とある。あるいは息子の文泰も、父と共に高句麗軍と戦ったのかも知れない。この事実は、〇〇将軍と高昌国王親子との関係を想像させる材料になる。

いくつかの書物によると、隋という国は自国民に対して無慈悲だったのに比べ、朝貢してくる周辺の国々に対しては、派手で気前の良い王朝だったらしい。大盤振る舞いの派手な宴会を繰り返し、彼らの帰国に際しては莫大な贈り物を持たせた。これにより、高昌国だけでなく西域の小・中の国々は、隋は強大な大国だと認識しこれを尊敬した。隋に比べ建国当初の唐は、国力の増強に力を入れ、自国内に富を蓄えようとして、大盤振る舞いをしなかった。西域の小・中の国々から見たら、初期の唐は地味でけち臭い王朝に見えたのかもしれない。


さて、高昌国の最後についてである。玄奘が西に向かって出発するとき、高昌国王は西突厥王に、莫大な贈答品を献上している。同時に、西突厥王への手紙の内容を見ても、当時、高昌国が西突厥と政治的にとても距離が近いことが読み取れる。このころすでに、高昌国は唐とは政治的には疎遠であったように感じられる。

具体的な唐と高昌国との対立は、次のようなものであった。639年、高昌国王・麴文泰は近辺の三つの小国を攻撃してその城を占領した。敗北した三つの国はこれを唐王朝に訴え、助けを求めた。唐の太宗は麴文泰に対して、事情聴取をしたいので長安に来るようにと命じた。いざとなれば西突厥が助けてくれると思っていた麴文泰は、病を理由に太宗の命令に応じなかった。激怒した太宗は640年大軍を高昌国に送った。西突厥は助けてくれなかった。

〇〇将軍の死後、麴文泰の側近には、的確に自国を取り囲む国際的な政治状況を判断する人がいなかったのではあるまいか。よって、麴文泰は政治判断を誤ったと私は考えている。


慧立の『玄奘三蔵伝』には、このとき高昌国に二人の漢人の僧がいたと、その名前も書き残されている。将軍であり宰相であり、かつ玄奘とこれだけ縁のある〇〇将軍の名前がこの伝記に書かれていないのは、私には腑に落ちない。私なりにじっと考えてみる。

玄奘はこの将軍の名前と、将軍が洛陽の出身であることを含め、彼との会話の内容を弟子の慧立に語ったと考える。そうでないと、玄奘が天山北路を止めて、天山南路にある高昌国に立ち寄った理由が、弟子の慧立に理解できないからだ。

これを聞いていた慧立は、玄奘の没後、伝記を執筆しながら考えたに違いない。すでに〇〇将軍は亡くなって、高昌国も滅んではいるが、たった二十数年前のなまなましい出来事である。この『玄奘三蔵伝』は、どこかの時点で唐の皇帝や大官が読むことになるであろう。僧の名前は記して良いが、〇〇将軍の名前は記載しないほうが良い。慧立はこのような政治的配慮をしたように、私には思える。




【トルファン】玄奘と〇〇将軍(2)

 シルクロードのものがたり(80)

玄奘も〇〇将軍も、ともに洛陽の出身である。そういえば、洛陽という地名に私は薄い記憶があった。昔読んだ本の中に、洛陽は中国で仏教が始まった土地、というかすかな記憶である。今回、あらためてその書物を取り出してみた。

慧皎(えこう)著・『高僧伝』という岩波文庫四冊の大冊である。著者は495年に生まれ、554年に没している。中国で最初に仏教の信者になった王族は、後漢の明帝(在位西紀57-75年)の異母弟である楚王・英(えい)だといわれる。その少し前に、西紀のはじめ頃、仏教は中国に入ったようである。それ以降、中国随一の崇仏皇帝といわれる六世紀の梁(りょう)の武帝に至るまで、およそ450年の間に名をとどめた僧侶約500人の簡潔な伝記である。鳩摩羅什や法顕はもちろんこの中に紹介されている。筆者より百歳ほど若い玄奘の名は、当然ながらない。

私には、この伝記の中の最初の頃の外国人僧の数人は、全員が洛陽で仏教を布教したというかすかな記憶があった。私の記憶は正しかった。同時に、今回調べてみて、この「後漢」という国の首都は当初は洛陽にあり、その後長安に遷都したことを知った。すなわち、インドから中国に仏教が伝わったとき、中国の首都は洛陽だったのだ。

一人目、漢の洛陽の白馬寺の摂摩騰(しょうまとう・インド人)。二人目、漢の洛陽の白馬時の竺法蘭(じくほうらん・インド人)。三人目、漢の洛陽の安清(あんせい・ペルシャ人)。四人目、漢の洛陽の支楼迦讖(しるかしん・大月氏国人・現在のウズベキスタン南部)。五人目、魏の洛陽の曇柯迦羅(どんかから・インド人)と、西紀の初め頃、異国の仏僧が洛陽で仏教を広めたことが書かれている。

すなわち、中国における仏教の発祥の地は、長安ではなく洛陽であった。以前、このブログの玄奘の項で、「洛陽において二十七人の官僧を度すとの勅令が煬帝の名で下された」と書いた。そのときは、洛陽以外の大都市でも同じことが行われた、と私は思っていた。今考えてみるに、これは中国仏教の聖地である洛陽にかぎられたことであったように思える。

人の価値観や生き方は、その人の生まれた環境、すなわち風土によるところが大である。玄奘があれほど思い詰めて、そして危険をおかして、インドまで仏典を求めて旅をしたのは、彼が洛陽に生まれたということに大きな理由があるような気がする。





2025年11月4日火曜日

【トルファン】玄奘と〇〇将軍

 シルクロードのものがたり(79)

もう一度、慧立の『玄奘三蔵伝』の記述にもどる。

「ときに高昌王の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日、高昌国に帰ろうとしていたが、たまたま法師に会い、帰国して王に報告した」とある。

玄奘とこの使者はどのような会話をしたのか。そして使者は国王にどのような報告をしたのか。国王に同席してこれを聞いていた〇〇将軍は、この時どのような反応を示したのか?

常識的に考えれば、次のような会話だったと思う。

「あなたのお名前は?中国のどちらからおいでですか?これからどちらに向かわれるのですか?」と使者は玄奘に聞いた。これに対して、玄奘は次のように答えたはずだ。

「いなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)と申します。洛陽の生まれです。天竺に赴き仏教を学ぼうと思います」玄奘が語った言葉の中で重要なのは、「洛陽の生まれで、俗姓は陳・ちん」の部分だ。

使者から、玄奘の立派な風貌と、本人のこの答えを王のそばで聞いていた〇〇将軍は、はたと膝を打ち、喜色を浮かべたような気がする。この将軍は玄奘より30歳ほど年長であるから、玄奘の父親の世代の人である。「あの方の孫だ!あの方の息子に違いない!」と将軍はすぐにひらめいたのではあるまいか。

慧立は『玄奘三蔵伝』のはじめに、玄奘の祖父と父について、次のように記している。

「玄奘の祖父の康(こう)は学問に優れ、北斎に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。大柄で眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かく・ゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世しようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念することになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病気を理由に就任しなかった。洛陽の識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」

玄奘の祖父の陳康(ちん・こう)と父の陳慧(ちん・え)は、洛陽の誰もが知る有名人であったのだ。


「王様、私はこの陳という若者の祖父も父も知っております。両人ともただならぬ立派な人物です。この若者を、なんとしてでも我が国に迎え入れようではありませんか!」〇〇将軍は国王・麴文泰に、このように興奮して熱っぽく語ったような気がする。老齢に入りつつあるこの将軍が、故郷の若者に会いたいと思う個人的な願望もあったかもしれない。しかし、それを悪く思ってはいけない。人間として当然の心情である。

慧立の記述の中に、「高昌王は貴臣を奔走させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾に停まること十余日ばかり、王の心中を述べ、いんぎんに来てくれるよう拝請(はいせい)した」とある。伊吾国の城内に、高昌国の役人が寝泊まりできる宿舎があったように思える。

この文章だけでは、はっきりとは分からないが、「貴臣」とは〇〇将軍の可能性がある。もしかしたら、将軍自身が使者として伊吾国におもむき、玄奘に直接、高昌国に来てくれと頼んだ可能性をも感じる。




2025年10月27日月曜日

【トルファン】玄奘と高昌国王(3)

 シルクロードのものがたり(78)

後半には次のようにある。

「ときに高昌王・麴文泰の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日、高昌国に帰ろうとしていたが、たまたま法師に会い、帰国して王に報告した。高昌王は即日使者を送り、伊吾王に勅(みことのり)して、法師を高昌へ送るよう命じた。そして上馬数十匹を選び、貴臣を奔走させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾にとどまること十余日ばかり、王の心中を述べ、いんぎんに来てくれるよう拝請(はいせい)した」

これから察するに、高昌国王は玄奘に会う前から、ただならぬ決意で玄奘を高昌国に招こうとしていたことがわかる。同時にこの記述から、当時、高昌国が伊吾など周辺の国に対して強い立場でものが言える強国であったことが想像できる。

亀茲国(クチャ)の鳩摩羅什の場合、名僧としてその盛名は、中国の中原の地まで鳴り響いていた。これに比べ、玄奘は優秀な僧とはいえ当時は高名な僧ではない。その若い僧に対して、これほどの関心を寄せた理由は何なのか?

伊吾国から高昌国に帰る使者と、玄奘とのあいだに、どのような問答が交わされたのか。使者は帰国後、高昌王・麴文泰にどのような報告をしたのか。このあたりが、私が一番気になる点である。


これに関するヒントが、偶然に、しかも意外な場所で私に与えられた。ウルムチでの最終日、8月30日、新疆ウイグル自治区博物館のミイラ館を見学したときである。

じつは、私は博物館でのミイラ見学は好きではない。若いころ欧米の博物館を見学したとき、エジプト・中近東などからのミイラが数多く展示されているのを見て、私はとても嫌な思いがした。学術研究かどうか知らないが、墓地で静かに眠っておられる遺体を引きずり出して、それを展示するのは死者に対する冒瀆(ぼうとく)だと思う。欧米人の他の民族に対する思い上がりだと思う。この気持ちは現在も変わらない。しかし、私はミイラ館には絶対行きません、というほどの固い信念もない。この時も、気が進まないまま、ガイドのエイさんのあとに従った。

「この中に、玄奘と手を取り合った、抱き合ったと思われる人物のミイラがあります」とエイさんは言う。「〇〇将軍です。この人は国王がもっとも信頼した将軍で宰相でもありました。玄奘と会った3年後に60歳ぐらいで病気で亡くなりました。玄奘と同じ洛陽出身の人です」

この説明を聞いて、ハッとした。点と点が結びついた気がして、いくつもの想像が頭をよぎった。エイさんはこの将軍の名前を語ってくれたのだが、私はメモする時間がなく、残念ながら名前を失念してしまった。東京に戻って、この将軍の名前を見つけ出そうと試みているのだが、いまだにわからない。ご存じの方がおられたら、ぜひ教えてほしい。





【トルファン】玄奘と高昌国王(2)

 シルクロードのものがたり(77)

高昌国王・麴文泰(きく・ぶんたい)が玄奘に示した好意は尋常ではない。それでも、10日間以上生活を共にして説法を聞き、王が玄奘の人物に惚れ込んだと考えれば、理解できなくもない。

それ以上に私が不思議に思うのは、天山北路を進みインドに向かう決心をしていた玄奘が、なぜ天山南路にあたる高昌国(トルファン)に立ち寄ったかということだ。玄奘が高昌国に立ち寄ることを決めた背景には、とても大きな力が働いたはずだ。それは何なのか?

伊吾(吟密)は、シルクロードの天山北路の入り口に位置する。ここから天山山脈北側のステップ草原を西に進むと、ウルムチ・シーホーズ(石河子)・イリ・トクマク・タシケント・サマルカンドに至る。そしてアフガニスタンのヒンズークシ山脈を越えてインドに入る。天山南路に比べると距離は長くなるものの、気候的にしのぎやすく又安全であることを、玄奘は長安でインドや西域の僧から聞いて知っていた。

天山北路を西に進むために、玉門関から砂漠の中を北進して、苦難の末に伊吾にたどり着いたのだ。玉門関から伊吾まで何日かかったのか、はっきりしない。徒歩だったの半月以上かかったのではあるまいか。伊吾国から高昌国までは馬で六日間、とその伝記にある。

じつは、ヘロドトスも司馬遷も、遊牧騎馬民族のスキタイ人が天山山脈の北側のステップ草原を、ユーラシア大陸を自由に東西に行き来していたことを、その著書に書き残している。シルクロードは大きく分けて3つのルートがある。天山北路・天山南路・西域南道(タクラマカン砂漠の南・崑崙山脈の北側)である。その中で一番北のこのルートが、古来からもっとも安全だと万人が認めるルートだった。


玄奘が伊吾に着いてから高昌国に行く決心をするまでを、慧立は『玄奘三蔵伝』に次のように記している。

「伊吾に着くとある寺に泊まった。寺には中国僧が三人おり、中に一人の老僧がいた。彼は帯も結ばず、はだしで飛び出して出迎え、法師を抱いて泣き、『今日になって、ふたたび中国の人に会えるとは夢にも思わなかった』といった。法師もまた思わずもらい泣きした。伊吾と近辺の胡僧や胡王は、ことごとくやってきて法師に参謁(さんえつ)した。伊吾王は法師を王宮に招き、つぶさに供養した」

前半のこの記述には、「そうだろうなあ」と私にも充分納得でき、その光景が自然に目に浮かぶ。しかし、後半の次の箇所には気になる点が1、2ある。