2025年3月3日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(57)

玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)

玄奘という人が日本に縁の深い人であることを伝えたい気持ちで、このことを紹介したい。日本の二番目の正史(青史)である『続日本紀』は、大和朝廷の行政日誌の感がある。『日本書紀』が神話を含めて文学的な香りがするのに比べると、淡々と事実だけを記していて、あまり面白い書物とはいえない。しかしそれゆえに、史書としての評価は極めて高い。

この書物の初めの頃の箇所に、玄奘三蔵から直接指導を受けた「道照和尚・どうしょうわじょう」のことが記されている。冷静で淡々とした書きっぷりの『続日本紀』の中で、この道照和尚の箇所は筆者(記録官)の心の高ぶりのようなものが感じられる。この道照和尚の死去が、当時の日本人にとって、とても大きな悲しみであったことが推測される。以下は『続日本紀』からの抜粋である。


文武天皇四年(700)三月十日 道照和尚が物化(ぶっか・死去)した。天皇はそれを大へん惜しんで、使いを遣わして弔い物を賜った。和尚は河内(かわち)国丹比(たじひ)郡の人である。俗姓は船連(ふねのむらじ)、父は少錦下(しょうきんげ・従五位下相当)の恵釈(えさか)である。ある時、弟子がその人となりを試そうと思い、ひそかに和尚の便器に穴をあけておいた。そのため穴から漏れて寝具をよごした。和尚は微笑んで、「いたずら小僧が人の寝床をよごしたな」と言っただけで一言の文句もいわなかった。

孝徳天皇の白雉四年(653)に遣唐使(第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、三蔵は次のように言った。「私が昔、西域を旅したとき道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べて気力が日々すこやかになった。お前こそあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」と。

その後、道照が帰朝するとき、別れ際に三蔵は、所持した舎利(しゃり・釈迦の骨)と経綸を和尚に授けた。また一つの鍋を和尚に授けて言った。「これは私が西域から持ち帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いるといつも霊験があった」と。そこで和尚はつつしんで礼を述べ、涙を流して別れた。

(中略)

あるとき、にわかに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き居間に入ると、和尚は縄床(じょうしょう・縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息が絶えていた。弟子たちは遺言に従って栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。天下の火葬はこれからはじまった。火葬が終わったあと、親族と弟子とが争って和尚の骨を取り集めようとすると、にわかにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、どこに行ったかわからなくなった。人々はふしぎがった。

以上は『続日本紀』の記述である。


第二次遣唐使(653)の第一船(121人乗り組み)に乗ったのが、この道照(24歳)と中臣鎌足の長男・定恵(じょうえ・10歳)そして、「日本一の外交官」として以前このコーナーで紹介した粟田真人(あわたのまひと・8歳)である。第二船(120人乗り組み)は難破して5人を除く全員が死亡している。

道照は年長者で学問も進んでいたからであろう、玄奘三蔵に直接指導を受けている。鎌足の長男・定恵は、玄奘の弟子の神泰法師に教えを受けている。『続日本紀』は「玄奘は道照を同じ部屋に住まわせた」と書いているが、薬師寺長老の安田暎胤老師はその著書に、「自分の近くの房に住まわせるように命じた」と書いておられる。常識的に考えると、後者が事実のような気がする。






2025年2月25日火曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(2)

 シルクロードのものがたり(56)

日本にある玄奘三蔵のご頂骨(ちょうこつ・頭の骨)

昭和17年12月23日、南京に駐屯していた日本陸軍の高森部隊によって、玄奘三蔵の頂骨が発見された。部隊長の高森隆介中佐(18年に大佐に昇進)は、この場所に稲荷神社を建設しようとして、小高い丘陵を工事していて石棺に出会った。石棺には文字が刻まれていた。

「宋の天聖5年(1027)に玄奘三蔵の頂骨は演化大師とその弟子たちによって長安から南京に運ばれ、2月5日の命日に天憘寺の東の岡に葬られた。その後、明の洪武19年(1386)に寺の南側に遷された」と。(写真参照)

世が乱れると、中国では皇帝の御陵でも盗掘される。この危険をさけて遷されたものと考えられる。石棺の中にはまさしく頂骨が安置され、仏像・銀錫の箱・銅や陶器の仏具・珠玉・唐宋明代の古銭が納められていた。

昭和18年2月23日、日本政府は、これらのすべてを時の南京政府(汪兆銘政権)に返還した。南京政府は感激して、その奉還式典を盛大に催し南京城内に安置した。昭和19年10月10日に、南京郊外の玄武山に塔を建築して落慶式が行われた。式典には日本側から重光葵(まもる)大使や日本仏教界会長の倉持秀峰師・水野梅暁師が参列した。式典に参列した日本側に対し、中国側から日本への分骨の提案がなされた。「法師は仏教東漸史上の大恩人である。中日両国の仏教徒はこれを祭り、永遠に法師の遺徳を尊ぶべし」との宣言を行って、このご頂骨は倉持代表に手渡された。

このような経緯で日本に奉持帰国したのは、昭和19年10月の下旬であった。日本仏教会の本部(東京の芝増上寺内)では空襲の被害を受ける可能性が高い。当時仏教会の事業部長であった大島見道師の寺が埼玉県の岩槻にあり、寺名を慈恩寺(じおんじ)という。長安の大慈恩寺と同じ名前であり、しかも慈覚大師円仁が、長安の大慈恩寺と景観が似ているといったことから寺名がつけられたという由来がある。ここがふさわしいと衆議一決し、昭和19年12月23日(発見された同月日)に上野の寛永寺で盛大な法要をして、慈恩寺に奉安された。そして終戦をむかえる。

ところが、ある問題が提起される。正式に中国政府より贈呈されたとはいえ、戦時中のことであり、それを日本に持ち帰ったことになる。現在の中国の政権(蒋介石政権)に確認すべきではないかとの意見が出たのである。このご頂骨を受けてきた水野梅暁氏には、蒋介石主席と親交のある中国人の知己がいた。この人を経由して蒋介石主席の意向を打診してもらうことにした。

すると昭和21年12月23日、ご頂骨奉迎2周年の式典法要を営んでいた所に、中国外交部長(外務大臣)の謝南光氏が、わざわざ蒋介石主席の返事を持って日本まで来られた。その内容は、「ご頂骨の返還はしなくてよい。広く顕彰することはむしろ喜ばしいことである」とのことであった。


太平洋戦争末期から終戦にかけての混乱の中で、日本政府と日本陸軍のとった対応はみごとである。同時に、これに対する汪兆銘政権・蒋介石政権の対応も共に立派であったと感激している。


石棺に刻まれていた碑文




2025年2月17日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう

 シルクロードのものがたり(55)

玄奘三蔵とはどんな人だったのか?

『大唐大慈恩寺(じおんじ)三蔵法師伝』など何冊かの伝記を読みながら、玄奘三蔵とはどのような人だったか想像している。

「大柄で背が高く身体が丈夫。色白で肌はやや赤みをおびたハンサムな人」と記録にある。「人と話すときは相手の目をまっすぐ見て、純粋な人という印象を与えた。話し方はゆっくりと明瞭で、無駄な言葉はなく物静かな人」、「聡明で兄弟仲が良く、明るく親切で優しい人」、「意志が強く行動力があり、語学の才があった。サンスクリット語を含め西域各地の言葉を短期間でおぼえた」、このような記述も残されている。

行動力があるということは、慎重すぎる人ではなかったということだ。言葉を変えれば、多少は軽はずみなところもあった人かと思える。幾多の困難と数えきれないほどの身の危険にも遭遇している。ところが、不思議なことに、絶体絶命の窮地に達するたびに、突然目の前に彼を助けてくれる人が現れる。人は風貌から受ける印象で相手の人物を察知するという。玄奘という人は、初対面の人を惹きつける磁石のような強い魅力を備えていたように思える。

日本の幕末の志士にたとえると、坂本龍馬が私の持つ玄奘のイメージに一番近い。西郷隆盛をもうすこしハンサムにした感じか。私が一番好きな幕末の志士は高杉晋作だが、玄奘のイメージからは遠い。現在の日本人だと、大谷翔平選手をいま少し知的にした感じかな。このように想像している。


玄奘三蔵については、私以上に研究され、多くの知識を持っておられる方が多いと思う。自分なりにこの人を理解して、文章にまとめたいと考えているのだが、「群盲象を評す」の言葉が自分に迫ってくる。象の長い鼻にさわって、あるいはそのシッポに触れて、「これが象ですよ」と述べる箇所があるやも知れない。

じつは私は、小学校にあがる前から玄奘三蔵という名のお坊さまのことを知っていた。といっても、私は寺の子ではない。私の先祖には長寿者が多いのだが、祖父・田頭佐市だけは残念なことに、昭和19年に50歳で亡くなった。村にある曹洞宗の寺・法運寺の住職さまが祖父と仲が良く、頻繁に我が家に来られ祖父の供養をしてくださっていた。「のぶちゃんも一緒にやれ。爺さまの供養になる」と言われて、字も知らないときから和尚様の口元を見ながら、もぐもぐと「般若心経」のまねごとを唱えていたような記憶がある。祖父の思い出話を聞かせてくださったあと、道元さま、玄奘さまの話をしてくださっていた。

「玄奘三蔵のあとを思うべし!」と言うのがこの和尚さまの口癖だった。子供の私にはその意味が分からなかったが、これが『正法眼蔵随聞記』の中にある言葉だと、大学生になって知った。


及川政志という有名な建築家がおられる。画もたくみな人だ。早稲田大学の建築科を出られた方で、私とは高校も大学も異なるのだが、武蔵小金井の金光教東京寮という所で同じ釜の飯を食った間柄である。私は大学1年生の時から、1年先輩のこの人に兄事してきた。それから半世紀、現在でも指導していただいている。ありがたいことだ。「万巻の書を読み万里の道を征く」という言葉がある。及川さんのような人をいうのであろう。

4年ほど前だったか、夕食をご一緒した時「旅行で高昌国に行ってきたよ!」とスケッチブックを見せてくださった。今回この及川さんにお願いして、そのスケッチに色を付けてもらい、この「シルクロードのものがたり」に使わせていただくことにした。


トルファンの玄奘三蔵像 画 及川政志氏 



2025年2月13日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(3)

 シルクロードのものがたり(54)

ロバの話

私自身、馬についての知識は少ない。よって馬についてはここでは触れず、書物によって私が知ったロバの話しをしたい。


我々日本人はロバという動物にはなじみが少ない。日本の昔話にロバが登場する話は聞かない。かたや、中国の昔話にはこのロバは頻繁に登場する。有名な『枕中記・ちんちゅうき』に登場する蘆(ろ)という青年が乗っていたのはロバであろう。アジアの乾燥地帯においては、ロバという動物は古来から現在に至るまで、人の役に立つ超重要な動物らしい。

ブライアン・フィガンという英国人の著書『人類と家畜の世界史』の中に、次のように記されている。「ロバは人間と共に8000年以上働いてきた。馬やラクダよりもロバが家畜化されたほうが古い。東地中海地域では、人を輸送する手段として馬とラクダが登場するまでは唯一ロバを使っていた」

とはいうものの、ロバは歴史の中でつねに目立たない役割を演じてきた。「トボトボと歩く」と表現すれば、それは馬ではなくロバだと想像できる。さっそうと走る馬にくらべると、ロバという動物はいかにも地味な感じがする。

人類がいつどこで、ロバを家畜化したのかははっきりとは判っていない。ただBC6000年頃にはサハラ砂漠南部の人たちがロバを家畜として使っていた、というのがその方面の研究者たちの常識らしい。

BC2350年頃のエジプト第六王朝の宰相であったメレルカは、王様以上の権力を持っていたといわれる。この人の墓から出土した石の壁画には、10頭近くのロバを誘導する男の姿が描かれている。エジプトではBC4000年頃にはすでにロバを家畜として使用していた。古い歴史書の中にも、「エジプト人はロバの隊商を使って沙漠の鉱山に到着した」とか、「アッシリアからアナトリアまで、黒いロバが錫(すず)を運んだ」などの記述がある。

また古代エジプトでは、裕福な庶民であるロバの所有者が、一ヶ月二ヶ月単位でロバを貸し出してその代金を受け取り、これが儲かる商売であったとパピルスに記録されているという。今日でいえばレンタカーの貸出業者と同じである。

ロバは足取りが軽く、牛よりも速く歩く。起伏のある荒地ではとりわけ速い。馬にくらべるとスピードは劣るが耐久力に優れ、小さな体で馬と同じくらい100キロの荷を運ぶ。余談だが、ロバのおすと馬のめすが交配すると、ラバという強くて賢い動物が生まれる。

NHK取材班に同行した陳舜臣は、自分が見たロバのことを次のように語っている。

ロバが引く一輪車もあった。何度も見ているうちに、一つの発見をした。ラクダや馬の荷車を引く人たちは、歩いたりあるいは荷台の上から鞭をならしながら進んでいくのだが、ロバの上の人たちはなぜか、ほとんど眠りこけているのだ。中国側の魏(ぎ)さんが笑いながら説明してくれた。「ロバは賢いので自分の主人が眠っていても、いつも通い慣れた道を覚えていて、目的地まで運んでくれます。家に着いても荷車の上で朝まで寝ていた人もいるという笑い話もあります」


ロバ




2025年2月6日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(2)

 シルクロードのものがたり(53)

ラクダの話(2)

戦国時代の弁舌家・蘇秦(そしん)は、楚の王様に次のように献策した。「自分の言うとおりにすれば、韓(かん)・魏(ぎ)・斉(さい)・燕(えん)・趙(ちょう)・衛(えい)の妙音(妙・たえなる音楽)と美人はかならず後宮に充ち、燕(えん)・代(だい)の駱駝(らくだ)・良馬はかならず外厩(がいきゅう・宮殿の外のウマ屋)に実(み)たん」

これからして、ラクダは美人や良馬とならんで、当時の諸侯が欲しがったものであることがわかる。唐代には火急のときは、早馬ではなく早ラクダを用いた。これを「明駝使」と呼んだ。馬は速くてもすぐにバテるが、ラクダはバテないからだ。

1970年代にNHK取材班は何度もシルクロード方面に遠征し調査している。このとき同行した記者の一人は、ラクダの性癖やその乗り心地を次のように記述している。

人間に飼いならされたラクダとはいえ、荷物を積まれるときは相当抵抗する。気の荒いラクダは後足を跳ねあげ、人を寄せ付けようとしない。荷物を振り落とすラクダもいる。長距離を旅するときは、大きなラクダでは140キロぐらい、小さなラクダなら100キロぐらいの荷物が理想的だ。歩行速度は1時間に3キロ。もちろんもっと速く歩けるし、走ることもできる。でも長距離キャラバンの場合は、それがもっともラクダの耐久力にかなう理想的な速度だと、地元の人はいう。

ラクダの乗り心地は、前後左右に揺れるが、予想したほど悪くはない。前日に砂塵にまみれ激しい振動をしたジープとトラックに比べれば、ラクダの背のほうが楽である。ただ一つ不安なのは、転落しないかということだ。ラクダの背は、乗る前の予想よりはるかに高い。


陳舜臣は、ハミウリと同時にこのラクダにも思い入れが強い。彼が地元の人から聞いたという話を含めて、いくつかの興味深い話を書き残している。

ラクダはその長い旅の道中で子を産む時もある。砂の上に生まれ落ちたばかりのラクダを、母親の背に乗せてやらないと、母ラクダは歩こうとしない。また、不幸にも子が死んだときは、母の背から降ろしてはいけない。死骸が朽ちはてるまで母とともにいなければ、母ラクダは一歩たりとも前に進もうとしないという。

また、キャラバンの先頭には、一番優秀なラクダを歩かせるという。先頭のラクダが歩けば、どんな険しいところでも、後続のラクダは黙ってついていくという。沙漠の船といわれるラクダで旅をしたいにしえの旅人は、1日におよそ30キロくらい進んだ。オアシスからオアシスまでの距離がほぼ30キロから40キロであったからである。

中国人であるこの人は、食への関心も強い。以下も陳舜臣の文章の引用である。

旅をしているうちに、ラクダの背中のコブはしだいに小さくなる。そこから栄養分を補給しているのであろう。当然コブのなかには、生命のエッセンスが詰まっているにちがいない。さぞかしそこは美味であろうと中国人が考えるのは、自然な発想といえる。

古来、中国では、ぜいたくなご馳走のことを、「駝峯熊掌・だほうゆうしょう」という。「熊のてのひら」は日本にも輸入され、それを含むコース料理が数十万円の値段になったということが新聞に出ていた。「駝峯(だほう)すなわちラクダのコブ」が輸入されたとは聞かない。清代の汚職大官のぜいたくぶりを描写する文章に、「一皿の駝峯を得るために何頭ものラクダを屠(ほふ)り、コブだけを取って残りはすてた」というくだりがあったのを覚えている。

私はイランのペルセポリスの近くでラクダを食べたことがある。ピンク色をした肉で、そんなにまずいものではない。中国の酒泉賓館(しゅせんひんかん)のレストランで「駝蹄・だてい」が出た。蹄(ひつ”め)というが、じつはラクダの足の裏の軟骨部分である。これはまず美味といってよかった。私にはこの二回の経験しかない。もちろん「駝峯(だほう)」を味わったことはない。


ヒトコブラクダ





2025年1月30日木曜日

”沙漠の船” ラクダとロバと馬

 シルクロードのものがたり(52)

ラクダの話

名産品という言葉から少しずれるが、シルクロードを語ってラクダを語らないわけにはいかない。このような題にしたのだが、主役はラクダで、ロバと馬は脇役である。

今までは歴史のうんちくを語ることが多かったので、この章では「動物学的な視点」から入りたい。といっても、これもその方面の先生方の受け売りである。

ラクダ科の動物の先祖が生まれたのは、4500万年前、場所は意外にも北米大陸だという。700万年前に現在のベーリング海峡を越えて(当時は陸続きであった)ユーラシア大陸に渡ってきたのがラクダである。動物学では「ラクダ科・ラクダ亜科」という。北米大陸と南米大陸は大昔は離れていた。300万年前にパナマあたりでくっついて陸続きになった。南に進んだ動物がリャマ・アルパカとなりアンデス高原に住みついた。これを「ラクダ科・リャマ亜科」という。すなわち、ラクダとリャマ・アルパカは ”またいとこ” くらいの親戚関係になる。

シベリアから南下したラクダのうち、モンゴル高原・ゴビ砂漠・南ロシア・新疆ウイグル・アフガニスタン北部あたりで飼育されたのが「フタコブラクダ」であり、さらに西に移動してアラビア半島・北アフリカのサハラ砂漠あたりで飼育されたのが「ヒトコブラクダ」である。どこかで進化・変化したのであろう。よってこの二つは ”兄弟” の関係である。

以上は、川本芳先生(京都大学・霊長類研究所)の論文の一部である。


ラクダは沙漠の生活に耐えるように、耳の内側に毛がはえ、まつげが長く、鼻孔は自由に開閉できる。かたい植物が食べられる丈夫な歯・舌・唇をもち、胃は牛と同じく四室にわかれて反芻(はんすう)してよく消化する。

ヒトコブラクダは体温が40度以上に上がるまで汗をかかない。必要な水分は血液だけでなく、筋肉などの体組織からも供給されるので、体中の40パーセントの水分を失っても生存できる。よって、ラクダには「熱中症」という病気はないらしい。干し肉(ビーフジャーキー)の一歩手前のようにカラカラになっても生きているというから、たいしたものだ。その直後に水を飲ませたら、10分間で92リットル飲んだという記録がある。また30数日間一滴も水を飲まずに旅を続けた記録もあるとも聞いた。これには私は首をかしげているが。

乳は飲めるし、肉は食用になり、毛は立派な織物になる。ここまでは羊と同じだが、荷物を運んだり、人を乗せたりするところは、ラクダのほうが優れている。良質な毛がとれることは、リャマ・アルパカの ”またいとこ” という氏素性からして合点がいく。

「いいことずくめ」のラクダに惚れ込んだ陳舜臣は、「シルクロードのあちこちにラクダの銅像を建てるべきだ!」とまで言っている。


フタコブラクダ




2025年1月23日木曜日

崑崙の玉の話(4・完)

 シルクロードのものがたり(51)

玉壁(ぎょくへき)の話

『中国玉器発展史』は、8000年前の玉斧(ぎょくふ)からはじまって、19世紀の清朝に至るまでの多種の玉製品を紹介している。呼び方は色々とあるが、斧(おの)・耳飾り・首飾り・祭祀用の器・亀や鳥の置物・玉人といわれる人間の像・象や怪獣の置物・儀仗用の戈(ほこ)や刀・帯留めや玉杯などが、秦漢時代までにつくられている。

隋唐以降は、玉冊(ぎょくさく)という玉の板に文字を刻んだもの・観音像・舎利を安置する玉石棺のなども作られている。宋代以降は、動物や魚の置物・玉の印鑑・筆を洗う器など、工芸品が多い。台北の故宮博物院にある有名なコオロギがとまっている白菜や、豚の角煮などの工芸品は清朝時代の作品だが、これらも玉で作られている。私も若いころ三度ほど台北の故宮を訪問したが、コウロギの白菜には感嘆した。

本当かどうかわからないが、その時案内してくれた友人の台湾人の船長は、「膨大な財宝が倉庫にある。年二回新しいものを展示する。全部を展示するのに50年ほどかかる。年二回毎年台北に見学に来たとして、全部を見終わるのは田頭さんが80歳過ぎた頃だ」と説明してくれた記憶がある。


このような流れの中で、新石器時代から清朝に至るまでの8000年間、一貫して作り続けられてきた不思議な玉の製品がある。「玉壁・ぎょくへき」という。

玉をうすく輪のかたちに磨きあげたもので、これを作るには巨大な玉(ぎょく)の原石を必要とする。同時に、これを削り磨くためには膨大なエネルギーと時間を必要とする。まんなかに丸い穴がある。もともとは、「日月を象徴する祭器として祭礼用の玉器のうち最も重要なもの」とされたらしい。それが、春秋戦国時代あたりから、長寿・権力・財力などの幸運をもたらすものとして珍重されたようである。(各時代の玉壁の写真を下に添付する)

出典を忘れたので記憶を頼りに紹介すると、中国の古い本に次のように書かれていた。

「高級な玉壁は部屋に置いておくと、夕方にはぼおっと光を放ち部屋が明るくなる。夏は部屋が涼しくなり、冬には部屋が暖かくなる」 まるで、蛍光灯と冷房・暖房のエアコンを兼ねた電気製品のようである。

蛍光物資の入った蛍石(ほたるいし)などの鉱物であれば、夕方部屋で光を放つことはありうる。でも、それにより部屋が涼しくなったり暖かくなるとは考えにくい。玉は冷たいので夏には少し涼しくなったのだろうか。冬に外に出して太陽にあてれば熱を得る。夕方これを部屋に入れれば少し暖かくなったのかな?とも思うが、信仰だから、「気のせい」の部分が多かった気がする。

『淮南子・えなんじ』は、漢の武帝のころ、淮南王・劉安(えなんおう・りゅうあん)が学者を集めて編纂した思想書だ。この中に、「聖人は尺の玉壁を貴ばずして、寸の陰を重んず」という言葉がある。「賢人は直径一尺もある玉壁を愛することなく、寸陰の時間を惜しんだ」との意味である。この当時、人々が玉壁を珍重したことがこれから分かる。


中国の戦国時代、趙(ちょう)の恵文王(けいぶんおう)の有名な話を紹介したい。この人の弟が、食客数千人を集めていた、あの有名な平原君(へいげんくん)である。

この恵文王は「和氏の壁・かしのへき」というすぐれた玉壁(ぎょくへき)を持っていた。西の強国である秦の昭王(しょうおう・始皇帝の曾祖父)はこれが欲しくてたまらない。秦の領内にある15の城(町・領土)とこの玉壁を交換して欲しいと申し出てきた。秦は強さにモノをいわせて「和氏の壁」を取り上げるだけで、15の城を渡すつもりはないのではあるまいか、と恵文王もその側近たちも懸念した。そうかといってこの申し出を無視すれば、秦は兵力にものをいわせて趙に侵攻してくるかもしれない。

どうしよう、どうしよう、と趙の宮廷内部は思案に暮れた。このとき使者として秦に派遣されたのが、藺相如(りんしょうじょ)という人物である。彼は「和氏の壁」を持って秦に向かう。出発のとき相如は恵文王に言った。「秦王が15の城を本当に趙に渡すなら、この壁を秦王に渡します。城を入手できないなら、壁を完う(まっとう)して趙に持ち帰ります」

趙(ちょう)側が懸念した通りだった。秦王はああだこうだと言って、約束の15の城を渡そうとしない。強さにモノをいわせて、玉壁だけを取り上げる魂胆だったのだ。これを見破った藺相如は、敵ともいえる秦の宮殿の中で、秦の昭王を相手に命がけのかけひきをおこなう。(この話は『史記列伝・藺相如列伝』の中にある。列伝の中では長い文章だが、とても面白い。興味ある方は司馬遷の原文を読まれると良い)


命を危険にさらしながら、藺相如はこの玉壁を取り上げられることなく、無事に趙の国に持ち帰った。彼の抜群の交渉力の結果である。その後も秦が武力で趙に侵攻することはなかった。あっぱれ、あっぱれである。すなわち、「壁を完うする・へきをまっとうする」ことができたのである。現在日本でも使われている「完璧・かんぺき」という言葉はこの故事に由来する。

この藺相如という人は故事逸話の多い人で、「刎頸の交わり・ふんけいのまじわり」という言葉もこの人に由来する。この話も『史記・欄相如列伝』の中にある。道元禅師は藺相如が好きだったようで、『正法眼蔵随聞記』の中にも、この「完璧」の話が紹介されている。


石器時代から周の時代








春秋戦国時代

秦漢時代から宋清時代