シルクロードのものがたり(71)
莫高窟での感激が大きかっただけに、直後の白馬塔見学は付け足しの気がして、さほど期待はしていなかった。ところが、この白馬塔見学は、今まで私の頭の中でモヤモヤしていたことの二つを、すっきりと解消してくれた。
余さんは次のように話してくれる。
「鳩摩羅什は亀茲国(きじこく・クチャ)から中国の中原に向かう途中、敦煌で何日か休息しました。ある夜、夢をみました。自分が今まで乗ってきた白馬が夢に出てきて言うのです。 ”私は今まであなたをお守りしてここまでたどり着きました。ここまで来ればもう安心です。私は自分のやるべき勤めをはたしました” そう言って白馬は消えてしまった。不安に思った鳩摩羅什は、すぐに厩舎(きゅうしゃ)にかけつけました。馬はすでに死んでいました。地元の人々もこれを悲しみ、白馬をここに埋葬して塔を建てました。その後、何度も改修され現在の塔は清代に造られたものです。直径7メートル、高さは12メートルです」
鳩摩羅什は自国の敗北後、将軍・呂光に捕らえられ中国に連行される。385年のことだ。皇帝・符堅(ふけん)から「高僧・鳩摩羅什を連れて帰れ」と命令されていたので、手荒な扱いはしていないと思ってはいたが、この話から、将軍・呂光が鳩摩羅什に対して礼を尽くして丁寧に対応していたことが確認でき、とても嬉しく思った。
「この白馬塔の周りを、男性は右まわりに女性は左まわりに、3回まわると願い事が叶うといわれています」と余さんが教えてくれる。ツアー仲間の多くは3回まわっていたが、距離もあり、しかも直射日光が暑い。私には特に願い事はないので、右まわりで1回だけまわった。
白馬塔の手前に回廊(かいろう)があり、朱色の柱が何本も立っていて、それぞれの柱に鳩摩羅什が翻訳した「般若心経」が漢字で書いてある。スマホで撮ったのだが、ハンドルミスで消えてしまった。玄奘の訳とはかなり異なる。冒頭部分の玄奘訳は「観自在菩薩・かんじざいぼさつ」とあるが、鳩摩羅什の訳は「観自音菩薩・かんじおんぼさつ」と書いてあった。
白馬塔の敷地のとなりに果樹園がある。青い実がいっぱい見える。熟す前のリンゴではないかと思った。余さんに聞くと、「梨です。このあたり一帯は梨の名産地です」と答えてくれる。これでひらめいた。「そうなんだ!」と私は一人で合点して、思わず笑みが浮かんだ。
というのは、玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)が残した言葉が真実だとわかったからだ。この話は『続日本紀・しょくにほんぎ』の最初あたりに記されている。文武天皇四年(700年)三月二十七日に道照が72歳で亡くなったときの、大和朝廷の行政日誌である。一部を引用する。
「道照は孝徳(こうとく)天皇の白雉四年(654年)に遣唐使(注・第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。『私が昔、西域に旅した時、道中飢えで苦しんだが、食を乞うところもなかった。そのとき突然一人の僧が現れ、手にもっていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。お前はあのとき私に梨を与えてくれた法師にそっくりである』と」
玄奘の天竺への旅で一番苦しかったのは、玉門関から伊吾国(イゴ・哈密の近く)の間であったと考えている。よって、この梨の話には合点がいく。別に疑ってはいなかったけれど、敦煌やトルファン(高昌国)あたりの果物は、ザクロ・葡萄・ハミウリなどが有名で、梨がよくできるとは思っていなかった。この梨の果樹園を見て、そして余さんの説明を聞いて、玄奘と道照の二人の高僧の言葉が真実であったと認識した。
この白馬塔でもバスの出発前にトイレ時間がある。早々とトイレをすませて、わきにある灰皿の前で余さんとおしゃべりをする。ここで余さんは、鳩摩羅什と玄奘の般若心経の違いを次のように解説してくれた。この二人の高僧の年齢差は268歳で、鳩摩羅什が先輩である。両者ともサンスクリット語を漢語に翻訳した。
「どちらが優れているかというのは難しい問題で、私にはわかりません。鳩摩羅什の父親はインドの王族で、母親は亀茲国(クチャ)の王様の妹です。9歳のときインド北部のカシミールに留学しています。よって彼はインド哲学を充分に理解した上で、サンスクリット文字の内容を正確に漢語に訳しています。これにくらべ、玄奘のものは、できるだけ中国人が理解しやすいようにと配慮して、かなり意訳されている、といわれています」
いってみれば、鳩摩羅什の般若心経は「直訳」で、玄奘のものは「意訳」ということらしい。我々日本人が日頃使っている般若心経は、すべて玄奘の訳したものである。玄奘の愛弟子である法相宗の道照からの流れであろう。中国では現在どちらの般若心経が使われているのかは聞きそびれたが、たぶん玄奘のものではないかと思う。
中華人民共和国が成立して以降、中国では仏教はすたれている私は思っていた。しかし、この余さんにしても、莫高窟研究員の王さんにしても、仕事柄とはいえ、仏教についての知識を豊富に持っておられたのには驚いた。
私が手に持っている小型バックの中に、たまたま般若心経を一枚入れてあるのを思い出した。それを取り出し、漢字で書かれた262文字の般若心経を余さんに見せた。
余さんは驚いた顔で、「日本人はこれが読めるのか?日本人はいつも般若心経を持ち歩いているのか?」と聞く。私は郷里の広島県に帰ると、仏壇で般若心経を何十年も唱えているのでだいた覚えている。「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーおんかいくう、、、、、」とそらで、三分の一ほど、このお経を唱えてみせた。
余さんはびっくり顔で、「すごい、すごい。日本人はみんな般若心経を暗唱しているのか?」と聞く。「そうですよ」と答えて、日本人の民度の高いことを誇示しようかとも思ったが、嘘はいけない。「いいえ。寺のお坊さま以外で般若心経を暗唱している人は、私みたいな変わり者だけですよ。普通の人はやりません」と答える。余さんはホッとしたような顔をしていた。
西安の高さん、敦煌の余さんとの会話の中で、数多く出た中国人の歴史上の人物の名前は、秦の始皇帝・漢の武帝・則天武后・張騫、そして僧では鳩摩羅什・玄奘であった。私の好きな李広・李陵、そして僧・法顕(ほっけん)の名前は出なかった。
余さんが、「現在、中国の高校の歴史の教科書で、唐代に出てくる日本人の名前は3人です」と教えてくれる。阿倍仲麻呂(晁衡)、吉備真備、空海だそうだ。これには納得できる。
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白馬塔 |
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敦煌の梨畑 |