2025年11月13日木曜日

【トルファン】玄奘と〇〇将軍(3)

 シルクロードのものがたり(81)

〇〇将軍のことが気になってしかたがない。ただ、これから書こうとすることには歴史的事実の裏付けは少ない。よってノンフィクションとは言い難い。そうかといって、小説にもならない気がする。洛陽出身の〇〇さんは、どのような理由で高昌国の人となったのか、高昌国がなぜ亡びたかについての、私の空想であり夢想である。

いくつかの想像ができる。

この人は高昌国で将軍になったのだから、若い頃は隋帝国の将校であった可能性が高い。高句麗遠征で敗北した軍団の中の将校の一人であったのか。あるいは、巨大運河建設を指揮する将校で、その仕事が嫌だったのか。いずれにしても、本人は隋王朝に愛想をつかし、もしくは追われるように亡命のかたちで、隋から高昌国に入ったような気がする。そしてこの国で将軍になったのだから、有能な人物だったのであろう。

高昌国だけではない。新疆ウイグル地域のいくつもの小・中の国々は、何千年に渡り、つねに中国(このときは唐)と西方の強国(このときは西突厥・にしとっけつ)との間に挟まれ、両大国の勢力を見極めながら、いわば「コウモリ外交」を展開してきた。これ以外に生き残るすべがなかったのだ。


高昌国は、隋王朝に対しては一目置き、これを尊敬していた。これに比べ、建国まもない唐王朝を軽んじていたように感じる。

高昌王・麴文泰は「私は先王と中国に遊び、隋帝に従って各地を訪れました」と慧立の記述の中で語っている。そして他の「隋史」を読むと、「高昌国王・麴伯雅(きく・はくが・文泰の父)は自国の将兵を率いて、隋の高句麗遠征に従軍した」とある。あるいは息子の文泰も、父と共に高句麗軍と戦ったのかも知れない。この事実は、〇〇将軍と高昌国王親子との関係を想像させる材料になる。

いくつかの書物によると、隋という国は自国民に対して無慈悲だったのに比べ、朝貢してくる周辺の国々に対しては、派手で気前の良い王朝だったらしい。大盤振る舞いの派手な宴会を繰り返し、彼らの帰国に際しては莫大な贈り物を持たせた。これにより、高昌国だけでなく西域の小・中の国々は、隋は強大な大国だと認識しこれを尊敬した。隋に比べ建国当初の唐は、国力の増強に力を入れ、自国内に富を蓄えようとして、大盤振る舞いをしなかった。西域の小・中の国々から見たら、初期の唐は地味でけち臭い王朝に見えたのかもしれない。


さて、高昌国の最後についてである。玄奘が西に向かって出発するとき、高昌国王は西突厥王に、莫大な贈答品を献上している。同時に、西突厥王への手紙の内容を見ても、当時、高昌国が西突厥と政治的にとても距離が近いことが読み取れる。このころすでに、高昌国は唐とは政治的には疎遠であったように感じられる。

具体的な唐と高昌国との対立は、次のようなものであった。639年、高昌国王・麴文泰は近辺の三つの小国を攻撃してその城を占領した。敗北した三つの国はこれを唐王朝に訴え、助けを求めた。唐の太宗は麴文泰に対して、事情聴取をしたいので長安に来るようにと命じた。いざとなれば西突厥が助けてくれると思っていた麴文泰は、病を理由に太宗の命令に応じなかった。激怒した太宗は640年大軍を高昌国に送った。西突厥は助けてくれなかった。

〇〇将軍の死後、麴文泰の側近には、的確に自国を取り囲む国際的な政治状況を判断する人がいなかったのではあるまいか。よって、麴文泰は政治判断を誤ったと私は考えている。


慧立の『玄奘三蔵伝』には、このとき高昌国に二人の漢人の僧がいたと、その名前も書き残されている。将軍であり宰相であり、かつ玄奘とこれだけ縁のある〇〇将軍の名前がこの伝記に書かれていないのは、私には腑に落ちない。私なりにじっと考えてみる。

玄奘はこの将軍の名前と、将軍が洛陽の出身であることを含め、彼との会話の内容を弟子の慧立に語ったと考える。そうでないと、玄奘が天山北路を止めて、天山南路にある高昌国に立ち寄った理由が、弟子の慧立に理解できないからだ。

これを聞いていた慧立は、玄奘の没後、伝記を執筆しながら考えたに違いない。すでに〇〇将軍は亡くなって、高昌国も滅んではいるが、たった二十数年前のなまなましい出来事である。この『玄奘三蔵伝』は、どこかの時点で唐の皇帝や大官が読むことになるであろう。僧の名前は記して良いが、〇〇将軍の名前は記載しないほうが良い。慧立はこのような政治的配慮をしたように、私には思える。




【トルファン】玄奘と〇〇将軍(2)

 シルクロードのものがたり(80)

玄奘も〇〇将軍も、ともに洛陽の出身である。そういえば、洛陽という地名に私は薄い記憶があった。昔読んだ本の中に、洛陽は中国で仏教が始まった土地、というかすかな記憶である。今回、あらためてその書物を取り出してみた。

慧皎(えこう)著・『高僧伝』という岩波文庫四冊の大冊である。著者は495年に生まれ、554年に没している。中国で最初に仏教の信者になった王族は、後漢の明帝(在位西紀57-75年)の異母弟である楚王・英(えい)だといわれる。その少し前に、西紀のはじめ頃、仏教は中国に入ったようである。それ以降、中国随一の崇仏皇帝といわれる六世紀の梁(りょう)の武帝に至るまで、およそ450年の間に名をとどめた僧侶約500人の簡潔な伝記である。鳩摩羅什や法顕はもちろんこの中に紹介されている。筆者より百歳ほど若い玄奘の名は、当然ながらない。

私には、この伝記の中の最初の頃の外国人僧の数人は、全員が洛陽で仏教を布教したというかすかな記憶があった。私の記憶は正しかった。同時に、今回調べてみて、この「後漢」という国の首都は当初は洛陽にあり、その後長安に遷都したことを知った。すなわち、インドから中国に仏教が伝わったとき、中国の首都は洛陽だったのだ。

一人目、漢の洛陽の白馬寺の摂摩騰(しょうまとう・インド人)。二人目、漢の洛陽の白馬時の竺法蘭(じくほうらん・インド人)。三人目、漢の洛陽の安清(あんせい・ペルシャ人)。四人目、漢の洛陽の支楼迦讖(しるかしん・大月氏国人・現在のウズベキスタン南部)。五人目、魏の洛陽の曇柯迦羅(どんかから・インド人)と、西紀の初め頃、異国の仏僧が洛陽で仏教を広めたことが書かれている。

すなわち、中国における仏教の発祥の地は、長安ではなく洛陽であった。以前、このブログの玄奘の項で、「洛陽において二十七人の官僧を度すとの勅令が煬帝の名で下された」と書いた。そのときは、洛陽以外の大都市でも同じことが行われた、と私は思っていた。今考えてみるに、これは中国仏教の聖地である洛陽にかぎられたことであったように思える。

人の価値観や生き方は、その人の生まれた環境、すなわち風土によるところが大である。玄奘があれほど思い詰めて、そして危険をおかして、インドまで仏典を求めて旅をしたのは、彼が洛陽に生まれたということに大きな理由があるような気がする。





2025年11月4日火曜日

【トルファン】玄奘と〇〇将軍

 シルクロードのものがたり(79)

もう一度、慧立の『玄奘三蔵伝』の記述にもどる。

「ときに高昌王の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日、高昌国に帰ろうとしていたが、たまたま法師に会い、帰国して王に報告した」とある。

玄奘とこの使者はどのような会話をしたのか。そして使者は国王にどのような報告をしたのか。国王に同席してこれを聞いていた〇〇将軍は、この時どのような反応を示したのか?

常識的に考えれば、次のような会話だったと思う。

「あなたのお名前は?中国のどちらからおいでですか?これからどちらに向かわれるのですか?」と使者は玄奘に聞いた。これに対して、玄奘は次のように答えたはずだ。

「いなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)と申します。洛陽の生まれです。天竺に赴き仏教を学ぼうと思います」玄奘が語った言葉の中で重要なのは、「洛陽の生まれで、俗姓は陳・ちん」の部分だ。

使者から、玄奘の立派な風貌と、本人のこの答えを王のそばで聞いていた〇〇将軍は、はたと膝を打ち、喜色を浮かべたような気がする。この将軍は玄奘より30歳ほど年長であるから、玄奘の父親の世代の人である。「あの方の孫だ!あの方の息子に違いない!」と将軍はすぐにひらめいたのではあるまいか。

慧立は『玄奘三蔵伝』のはじめに、玄奘の祖父と父について、次のように記している。

「玄奘の祖父の康(こう)は学問に優れ、北斎に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。大柄で眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かく・ゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世しようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念することになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病気を理由に就任しなかった。洛陽の識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」

玄奘の祖父の陳康(ちん・こう)と父の陳慧(ちん・え)は、洛陽の誰もが知る有名人であったのだ。


「王様、私はこの陳という若者の祖父も父も知っております。両人ともただならぬ立派な人物です。この若者を、なんとしてでも我が国に迎え入れようではありませんか!」〇〇将軍は国王・麴文泰に、このように興奮して熱っぽく語ったような気がする。老齢に入りつつあるこの将軍が、故郷の若者に会いたいと思う個人的な願望もあったかもしれない。しかし、それを悪く思ってはいけない。人間として当然の心情である。

慧立の記述の中に、「高昌王は貴臣を奔走させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾に停まること十余日ばかり、王の心中を述べ、いんぎんに来てくれるよう拝請(はいせい)した」とある。

この文章だけでは、はっきりとは分からないが、「貴臣」とは〇〇将軍の可能性がある。もしかしたら、将軍自身が使者として伊吾国におもむき、玄奘に直接、高昌国に来てくれと頼んだ可能性をも感じる。




2025年10月27日月曜日

【トルファン】玄奘と高昌国王(3)

 シルクロードのものがたり(78)

後半には次のようにある。

「ときに高昌王・麴文泰の使者が伊吾に滞在していた。彼はこの日、高昌国に帰ろうとしていたが、たまたま法師に会い、帰国して王に報告した。高昌王は即日使者を送り、伊吾王に勅(みことのり)して、法師を高昌へ送るよう命じた。そして上馬数十匹を選び、貴臣を奔走させ、宿舎を整えて出迎えさせた。使者は伊吾にとどまること十余日ばかり、王の心中を述べ、いんぎんに来てくれるよう拝請(はいせい)した」

これから察するに、高昌国王は玄奘に会う前から、ただならぬ決意で玄奘を高昌国に招こうとしていたことがわかる。同時にこの記述から、当時、高昌国が伊吾など周辺の国に対して強い立場でものが言える強国であったことが想像できる。

亀茲国(クチャ)の鳩摩羅什の場合、名僧としてその盛名は、中国の中原の地まで鳴り響いていた。これに比べ、玄奘は優秀な僧とはいえ当時は高名な僧ではない。その若い僧に対して、これほどの関心を寄せた理由は何なのか?

伊吾国から高昌国に帰る使者と、玄奘とのあいだに、どのような問答が交わされたのか。使者は帰国後、高昌王・麴文泰にどのような報告をしたのか。このあたりが、私が一番気になる点である。


これに関するヒントが、偶然に、しかも意外な場所で私に与えられた。ウルムチでの最終日、8月30日、新疆ウイグル自治区博物館のミイラ館を見学したときである。

じつは、私は博物館でのミイラ見学は好きではない。若いころ欧米の博物館を見学したとき、エジプト・中近東などからのミイラが数多く展示されているのを見て、私はとても嫌な思いがした。学術研究かどうか知らないが、墓地で静かに眠っておられる遺体を引きずり出して、それを展示するのは死者に対する冒瀆(ぼうとく)だと思う。欧米人の他の民族に対する思い上がりだと思う。この気持ちは現在も変わらない。しかし、私はミイラ館には絶対行きません、というほどの固い信念もない。この時も、気が進まないまま、ガイドのエイさんのあとに従った。

「この中に、玄奘と手を取り合った、抱き合ったと思われる人物のミイラがあります」とエイさんは言う。「〇〇将軍です。この人は国王がもっとも信頼した将軍で宰相でもありました。玄奘と会った3年後に60歳ぐらいで病気で亡くなりました。玄奘と同じ洛陽出身の人です」

この説明を聞いて、ハッとした。点と点が結びついた気がして、いくつもの想像が頭をよぎった。エイさんはこの将軍の名前を語ってくれたのだが、私はメモする時間がなく、残念ながら名前を失念してしまった。東京に戻って、この将軍の名前を見つけ出そうと試みているのだが、いまだにわからない。ご存じの方がおられたら、ぜひ教えてほしい。





【トルファン】玄奘と高昌国王(2)

 シルクロードのものがたり(77)

高昌国王・麴文泰(きく・ぶんたい)が玄奘に示した好意は尋常ではない。それでも、10日間以上生活を共にして説法を聞き、王が玄奘の人物に惚れ込んだと考えれば、理解できなくもない。

それ以上に私が不思議に思うのは、天山北路を進みインドに向かう決心をしていた玄奘が、なぜ天山南路にあたる高昌国(トルファン)に立ち寄ったかということだ。玄奘が高昌国に立ち寄ることを決めた背景には、とても大きな力が働いたはずだ。それは何なのか?

伊吾(吟密)は、シルクロードの天山北路の入り口に位置する。ここから天山山脈北側のステップ草原を西に進むと、ウルムチ・シーホーズ(石河子)・イリ・トクマク・タシケント・サマルカンドに至る。そしてアフガニスタンのヒンズークシ山脈を越えてインドに入る。天山南路に比べると距離は長くなるものの、気候的にしのぎやすく又安全であることを、玄奘は長安でインドや西域の僧から聞いて知っていた。

天山北路を西に進むために、玉門関から砂漠の中を北進して、苦難の末に伊吾にたどり着いたのだ。玉門関から伊吾まで何日かかったのか、はっきりしない。徒歩だったの半月以上かかったのではあるまいか。伊吾国から高昌国までは馬で六日間、とその伝記にある。

じつは、ヘロドトスも司馬遷も、遊牧騎馬民族のスキタイ人が天山山脈の北側のステップ草原を、ユーラシア大陸を自由に東西に行き来していたことを、その著書に書き残している。シルクロードは大きく分けて3つのルートがある。天山北路・天山南路・西域南道(タクラマカン砂漠の南・崑崙山脈の北側)である。その中で一番北のこのルートが、古来からもっとも安全だと万人が認めるルートだった。


玄奘が伊吾に着いてから高昌国に行く決心をするまでを、慧立は『玄奘三蔵伝』に次のように記している。

「伊吾に着くとある寺に泊まった。寺には中国僧が三人おり、中に一人の老僧がいた。彼は帯も結ばず、はだしで飛び出して出迎え、法師を抱いて泣き、『今日になって、ふたたび中国の人に会えるとは夢にも思わなかった』といった。法師もまた思わずもらい泣きした。伊吾と近辺の胡僧や胡王は、ことごとくやってきて法師に参謁(さんえつ)した。伊吾王は法師を王宮に招き、つぶさに供養した」

前半のこの記述には、「そうだろうなあ」と私にも充分納得でき、その光景が自然に目に浮かぶ。しかし、後半の次の箇所には気になる点が1、2ある。




2025年10月24日金曜日

【トルファン】玄奘と高昌国王

シルクロードのものがたり(76)

玄奘の伝記は、中国でも日本でも、また欧米でも、数多く出版されている。『西遊記』 は小説である。奇想天外なものがたりで事実とはずいぶん異なるが、これも玄奘の行跡からヒントを得て書かれたものであることはご承知の通りだ。

玄奘のすべての伝記の基となり、一番信頼できるものは、慧立(えりゅう)・彦悰(げんそう)著・『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』だといわれている。これは、当然のことなのだ。

玄奘がインドから大量の経典を持ち帰り、長安の浩福寺において(2年後に大慈恩寺に移る)漢語への翻訳に取りかかったのは645年のことだ。スタート時の翻訳チームは10人で、伝記作者の慧立という僧はこのスタートメンバーの一人である。このとき玄奘は43歳、慧立は30歳であった。大慈恩寺に移ったあと、翻訳チームは54人に増え、そのうち僧侶は44人だったという。慧立の没年ははっきりとは分からない。玄奘の没年664年の5年~7年後くらいと思われる。

よって慧立は、玄奘の弟子としてまた翻訳チームの重要人物として、玄奘のすぐ側で20年近く生活を共にしたことになる。慧立という僧名は皇帝・高宗から直接賜ったものといわれるので、この翻訳チームの指導的立場の高僧であったと察せられる。彦悰は慧立の弟子である。

それゆえに『玄奘三蔵伝』は、筆者が本人から何度か取材して、短時間で書いたという薄いものではない。20年近くにわたって、玄奘本人から根掘り葉掘り聞いたことの結晶であると考えてよい。本当かな?と思える箇所がいくつもあるが、ほぼすべて本当のことだと私は考えている。


玄奘が高昌国に入って十余日あと、その人物と識見に惚れ込んだ国王・麴文泰(きく・ぶんたい)は、インドに行かないでこの国に留まってくれと玄奘に懇願する。玄奘はこれを断るが、王は執拗に留まるように説得する。これに対して、玄奘はハンガーストライキを決行する。3日間の断食と断水で、玄奘の体力は急速に衰えてくる。深く恥じ恐れた国王は、頭を地につけて、「師よ、どうか自由に西行してください。どうか早く食事をしてください」と言った。

そして国王は、母親の張太妃(ちょう・たいひ)を立ち合い人として、玄奘と義兄弟の契りを結ぶ儀式を行う。「師よ、帰還のときは、どうかこの国に三年留まって私の供養を受けてください。出発をまげて、あと一か月ここに留まって我々に仏典の講義をしてください。その間に、師のために旅行用の服を作り、旅の準備をいたします」

玄奘は、国王・麴文泰のこの提案を受け入れる。そして、出発の日がやってくる。

慧立はその著書に、次のように記している。

「王は法師のために4人の少年僧を給侍とし、法服30具を作り、また西域は寒いので、面衣(めんい・オーバーコート)・手袋・靴・足袋(たび)などを数個ずつ作った。また黄金一百両・銀銭三万・綾(うすぎぬ)および絹(きぬ)など五百疋(ぴき)を法師の往還20年の経費に充てた。別に馬30匹・苦力(クーリー)25人を支給し、殿中侍御史(でんちゅうぎょし・役人)歓信(かんしん)をつかわし、西突厥(にし・とっけつ・当時の西域の大国)の葉護可汗(ヤブク・カガン)の衙帳(がちょう・西突厥王の居城・現在のカザフスタンにあった)に道案内させた。また24の封書を作り、屈支(クチャ)などの24国にあて、1封書ごとに大綾(たいりょう)一疋(いっぴき)を贈物としてつけた。別に綾絹(あやぎぬ)500疋と果物二車を葉護可汗(ヤブク・カガン)に献上させた」

当時の高昌国は十分な国力・財力があったのであろうが、目を見張るばかりの好意である。

慧立はさらに記している。

「そして、可汗への手紙には、『法師は私の弟です。仏法を婆羅門に求めようとしています。どうか可汗よ、師を憐れむこと私を憐れむようにしてください』と書いてあった。こうして高昌国以西の諸国に勅(みことのり)し、それぞれ駅馬を給し、逓送(ていそう)して次の国まで送るよう要請した」

考えられるかぎりの、至れり尽くせり、の配慮である。



大慈恩寺にある晩年の玄奘像










2025年10月20日月曜日

【トルファン】高昌故城

 シルクロードのものがたり(75)

トルファンは一泊だけなので、盛りだくさんの観光地見学で大忙しだ。特に印象が強かったこの高昌故城と、そのあとのカレーズ(地下水路)での見聞だけをお伝えしたい。

トルファンに関係する歴史上の重要人物は「玄奘三蔵」だと思う。トルファン観光とは少しずれるが、この玄奘についての私の考察を、次の掲載で、数編書き加えたいと考えている。玄奘に関心のない方にはあまり面白くないかもしれないが。

高昌国王・麴文泰(きく・ぶんたい)の玄奘に対する異常なまでの尊敬と好意について、私は何十年も不思議な気持を抱き続けてきた。麴文泰はなぜ、あれほどまでの好意を示したのか。いまひとつ。玄奘がインドから帰国するとき再度この地に立ち寄り、3年間ここに留まるという二人の固い約束は実行されなかった。高昌国が唐に滅ぼされたからである。高昌国はなぜ滅びたのか。

このような疑問を持っていた私にとって、この高昌故城は先の玉門関と並び、今回の旅行の最重要の見学地である。そして、まったくの偶然の出来事により、点と点が結びついた格好で、私の疑問はほぼ解消することができた。そして自分なりの仮説を組み立てることができた。学問的にどれだけの価値があるか分からないが、私としては「歴史の大発見」をしたような気持でいる。これについては、この先で語りたい。

高昌故城は、トルファン市街から東40キロの場所にある。城の周囲は約5キロ、城内の面積は200万平方メートルというから東京ドームの約40倍ほどの広さだ。

この高昌国という国は、6世紀・7世紀になって突如、麴(きく)氏という漢人がつくった国ではない。その歴史は古い。漢の武帝のころ、この地は中国の勢力圏に入った。武帝のひ孫の宣帝の時代、軍人とその家族がこの地に派遣され、いわゆる屯田兵としてこの地域の守備を行うことになる。中原の王朝の勢力が強いときには、彼らは中央の命令に従う軍人である。ところが、王朝が衰退したり他の王朝が取って代わると、彼らは独立した王様として行動し、中央の言いなりにならない。このような形での漢人によるこの地の支配が、「魏・晋・南北朝」の混乱のあいだ400年ほど続いたあと、麴氏・高昌国は140年ほど繁栄することになる。


入城手続きを終えると、ここでも15人乗りくらいの運転手付きカートで城内を移動する。カートが入れない場所は徒歩で歩く。高昌故城の入り口には、玄奘の像が勇ましい姿で建っている。玄奘に敬意を表し、帽子を脱いで写真を撮る。

故城の内部は、砂漠の中に土と煉瓦と石でできた宮殿跡・仏閣跡・住居跡があちこちに見えるといった光景である。英語・漢語・ウイグル語での案内板が見える。玄奘がこの地を訪れたと書いてある。我々日本人は、漢語を読むと8割がた理解できる。

「このお堂で玄奘が説法しました」とエイさんが教えてくれる。広いお堂ではない。30-40人程度が入れるスペースだ。ぎっしり詰めれば50人が入れるかもしれない。「今は上部は崩れていて青い空が見えますが、当時はレンガが積まれた立派な建物でした。音響効果も良く、マイク無しでも玄奘の声は全員にはっきり聞こえたはずです」とエイさんは説明する。

私からエイさんに質問する。「玄奘は中国を出発する前、サンスクリット語を含め西域の言葉を勉強していて、外国語にかなり堪能だったと聞きます。このお堂では何語で説法したのでしょうか?」

「漢語です」とエイさんは断定的に答えた。「当時の高昌国は支配層の漢人が人口の1割を占めていました。ウイグル人でも宮廷に出入りする人は、漢語を不自由なく使えたはずです」とエイさんは説明してくれる。現在のウイグル人もだいたい漢語が話せる。漢語が話せると豊かな生活ができるからだ。千五百年前のウイグル人も日常的に漢語を使っていたように思える。

帰路のカートの中でエイさんが言う。「あれを見てください。あそこが西門です。西門はVIP専用の出入り口です。玄奘があの門からこの城に入ったのは間違いありません」

エイさんの説明を聞いて私は胸が躍った。そして、その時の玄奘の姿を想像してみた。徒歩ではあるまい。馬車でもラクダでもない。玄奘は馬に乗って、この西門から入ったと考える。


城跡を出て、ここに隣接した食堂で西瓜をご馳走になる。私がハミウリに入れ込んでいるのを知っているエイさんは、「あれがハミウリの苗だよ。西瓜やハミウリを食べたお皿を店の人が洗ったあと、ハミウリの種が勝手に芽を出したんだ」と教えてくれる。私が田舎の畑に植えている胡瓜やまくわ瓜の苗とほとんど変わらない。これは、私にとっては貴重な光景だった。


高昌故城入り口にある玄奘の像


故城内部の景色

故城内部の景色

故城内部の景色

ここで玄奘が説法した



高昌故城全体の航空写真

食堂の流し場で見たハミウリの苗