シルクロードのものがたり(81)
〇〇将軍のことが気になってしかたがない。ただ、これから書こうとすることには歴史的事実の裏付けは少ない。よってノンフィクションとは言い難い。そうかといって、小説にもならない気がする。洛陽出身の〇〇さんは、どのような理由で高昌国の人となったのか、高昌国がなぜ亡びたかについての、私の空想であり夢想である。
いくつかの想像ができる。
この人は高昌国で将軍になったのだから、若い頃は隋帝国の将校であった可能性が高い。高句麗遠征で敗北した軍団の中の将校の一人であったのか。あるいは、巨大運河建設を指揮する将校で、その仕事が嫌だったのか。いずれにしても、本人は隋王朝に愛想をつかし、もしくは追われるように亡命のかたちで、隋から高昌国に入ったような気がする。そしてこの国で将軍になったのだから、有能な人物だったのであろう。
高昌国だけではない。新疆ウイグル地域のいくつもの小・中の国々は、何千年に渡り、つねに中国(このときは唐)と西方の強国(このときは西突厥・にしとっけつ)との間に挟まれ、両大国の勢力を見極めながら、いわば「コウモリ外交」を展開してきた。これ以外に生き残るすべがなかったのだ。
高昌国は、隋王朝に対しては一目置き、これを尊敬していた。これに比べ、建国まもない唐王朝を軽んじていたように感じる。
高昌王・麴文泰は「私は先王と中国に遊び、隋帝に従って各地を訪れました」と慧立の記述の中で語っている。そして他の「隋史」を読むと、「高昌国王・麴伯雅(きく・はくが・文泰の父)は自国の将兵を率いて、隋の高句麗遠征に従軍した」とある。あるいは息子の文泰も、父と共に高句麗軍と戦ったのかも知れない。この事実は、〇〇将軍と高昌国王親子との関係を想像させる材料になる。
いくつかの書物によると、隋という国は自国民に対して無慈悲だったのに比べ、朝貢してくる周辺の国々に対しては、派手で気前の良い王朝だったらしい。大盤振る舞いの派手な宴会を繰り返し、彼らの帰国に際しては莫大な贈り物を持たせた。これにより、高昌国だけでなく西域の小・中の国々は、隋は強大な大国だと認識しこれを尊敬した。隋に比べ建国当初の唐は、国力の増強に力を入れ、自国内に富を蓄えようとして、大盤振る舞いをしなかった。西域の小・中の国々から見たら、初期の唐は地味でけち臭い王朝に見えたのかもしれない。
さて、高昌国の最後についてである。玄奘が西に向かって出発するとき、高昌国王は西突厥王に、莫大な贈答品を献上している。同時に、西突厥王への手紙の内容を見ても、当時、高昌国が西突厥と政治的にとても距離が近いことが読み取れる。このころすでに、高昌国は唐とは政治的には疎遠であったように感じられる。
具体的な唐と高昌国との対立は、次のようなものであった。639年、高昌国王・麴文泰は近辺の三つの小国を攻撃してその城を占領した。敗北した三つの国はこれを唐王朝に訴え、助けを求めた。唐の太宗は麴文泰に対して、事情聴取をしたいので長安に来るようにと命じた。いざとなれば西突厥が助けてくれると思っていた麴文泰は、病を理由に太宗の命令に応じなかった。激怒した太宗は640年大軍を高昌国に送った。西突厥は助けてくれなかった。
〇〇将軍の死後、麴文泰の側近には、的確に自国を取り囲む国際的な政治状況を判断する人がいなかったのではあるまいか。よって、麴文泰は政治判断を誤ったと私は考えている。
慧立の『玄奘三蔵伝』には、このとき高昌国に二人の漢人の僧がいたと、その名前も書き残されている。将軍であり宰相であり、かつ玄奘とこれだけ縁のある〇〇将軍の名前がこの伝記に書かれていないのは、私には腑に落ちない。私なりにじっと考えてみる。
玄奘はこの将軍の名前と、将軍が洛陽の出身であることを含め、彼との会話の内容を弟子の慧立に語ったと考える。そうでないと、玄奘が天山北路を止めて、天山南路にある高昌国に立ち寄った理由が、弟子の慧立に理解できないからだ。
これを聞いていた慧立は、玄奘の没後、伝記を執筆しながら考えたに違いない。すでに〇〇将軍は亡くなって、高昌国も滅んではいるが、たった二十数年前のなまなましい出来事である。この『玄奘三蔵伝』は、どこかの時点で唐の皇帝や大官が読むことになるであろう。僧の名前は記して良いが、〇〇将軍の名前は記載しないほうが良い。慧立はこのような政治的配慮をしたように、私には思える。













