2025年9月9日火曜日

上海ー西安の機上から、隋の煬帝(ようだい)を想う

シルクロードのものがたり(63)

 羽田から上海までは2時間半の飛行だ。四国沖を西に向かうのかと思っていたら、本州の上空を真西に飛び、広島県尾道市の私の実家の上空を横切っている気配がする。どれどれ、我が家の畑の里芋の成長ぐわいは、と目を凝らしたが、雲があってよく見えなかった。その後、山口県、長崎県の五島列島の上空を通過して上海に到着した。

上海で、北京時間に合わせて1時間時計の針を先に進める。すなわち11時25分を12時25分にした。その後1週間、北西へ、北西へと、飛行機・新幹線・高速バスで長時間移動したのだが、新疆ウイグル自治区でも北京時間を使っているので、新幹線でトルファンの駅に着いたのは夜の9時だったが夕焼けが美しかった。

上海からトランジットで西安に向かう。上海空港から一駅だけ地下鉄に乗り、ローカル線の飛行場に移動する。地元の若い女性が、我々のグループ最年長の84歳の日本人女性に「どうぞ、どうぞ」と席をゆずったのには感心した。地下鉄の中で大声でしゃべる中国人はいない。中国人のマナーは良く、民度が向上している気がする。多くの人が黙ってスマホを見ている姿は日本の地下鉄の光景と同じだ。

16時45分上海発、18時45分西安着の予定だったが、出発が1時間ほど遅れた。それでも西安空港に到着するころに陽が没したので、窓側の席から上海・西安間の景色をじっくりと見ることができた。

機上から中国大陸をながめた印象をひと言でいうと、「大河と湖と巨大運河。そしてそれらを結ぶ小川と小運河」という風景である。大河は長江(揚子江)で巨大運河は隋の煬帝が造ったものだ。農業用水や生活用水として、同時に物資や人間を運ぶ運搬手段として、たくみに河川と運河と湖を活用している。14億の人々を食わせる米・小麦など穀物の生産は、この上手な河川の利用によるのだな、と思った。


秦帝国も漢帝国も黄河と揚子江の治水と活用に力を入れたが、この両大河を結びつける巨大運河を建設し、さらに網の目のような小運河を造り、農業生産と交通の便を飛躍的に向上させたのは隋の煬帝である。

隋という王朝は、初代・文帝(ぶんてい)15年、2代・煬帝(ようだい)14年、計29年と短く、西紀618年に滅びている。しかも煬帝は「中国史上まれにみる淫乱暴虐な君主」として今なお中国での評判はよろしくない。大運河の建設や高句麗との戦争で、何百万人もの人が死んだのも理由の一つであろう。

その後、煬帝は都落ちした。部下の将兵や息子・皇后・多数の美女の妃たちを引き連れて、長安から洛陽へ、そして江南の地に移動した。そして、部下の将軍の手によって江南の地で殺されている。

煬帝の最後の光景を、宮崎市定氏はその著書『隋の煬帝』の中で次のように述べている。

煬帝は白刃をつきつけた将軍に向かって言った。

「朕は何の罪があってこのような目にあわされるのか」

将軍は嘲笑って、詰問した。

「陛下は外国に向かって戦争をしかけ、国内では贅沢のかぎり尽くされました。兵士は戦争で命を失い、婦人子供は飢えで死にました。人民は失業し盗賊が蜂起している中に、陛下はおべっかい者の言うことばかりを聞いて、人民の声を聞こうとされませんでした。それでも罪がないとおっしゃるのですか」

煬帝は相手をにらみつけて言った。

「なるほど、おれは人民に対して申し訳ないことをしたと思っている。ところでいったい、今日の首謀者は誰か。会って話をしたいのだ」

「天下の人間すべてが首謀者でしょう。誰といって一人の名前をあげるわけにはいきません」

この問答、公平に見て煬帝の負けであろう。


2013年、上海と南京のほぼ中間の揚州市で煬帝の墓が発見されたという。江南の地だ。父は文帝(ぶんてい)と呼ばれるのに、息子は煬帝(ようだい)と呼ばれているのを不思議に思っていた。帝を漢音では「てい」と読み、呉音では「だい」と読むらしい。仏典と同じく江南の地、呉音での読み方が日本に伝わったのではあるまいか。

たしかに煬帝は暴君であった。しかし機上から大運河を見ていると、暗君とは呼べないような気がする。

煬帝の死から200年後、日本から空海が入唐する。流着した閩(びん・福建)の浜辺から長安まで、もちろん馬や徒歩で陸路をも進んでいるが、行程の半分以上はこの煬帝が建設した運河と川を利用して、船で進んだといわれている。空海の34年後に入唐した最澄の弟子・円仁もまたこの運河の恩恵を受けている。そして現在でも、中国の人々はこの運河の恵みを受け続けている。

始皇帝が統一した秦帝国の寿命はわずか15年でしかない。その短い間に、度量衡と貨幣の統一・幹線道路の建設・万里の長城の修復を行っている。それらを土台として、長期の漢帝国が繫栄した。

科挙制度を最初に導入したのは隋王朝である。秦の後、漢が長期にわたって繁栄したのと同じように、唐の長期の繁栄の前に、短い期間ではあったが、隋という帝国の存在は大きな意味があったように思う。


西安の空港で荷物を受け取り、迎えのバスに乗り込んだのは夜の9時半を過ぎていたが、外の気配と我々の腹ぐあいは夜7時ごろという感じがする。すぐに夕食のレストランに向かった。

西安での食事
10種類ほどの総菜と共に、左奥にある炒飯・焼きそば・ジャージャー麺を食べる

ジャージャー麺はこのような漢字になる(当て字らしいが)

西安・咸陽国際空港




















2025年9月4日木曜日

田頭、シルクロードの入り口を行く!

シルクロードのものがたり(62)

「シルクロードのものがたり」という題で60編ほど書いているが、行ったことのない場所の物語を書くことに少し気恥ずかしい思いがしていた。辛口の友人の一人が、「うんちくを並べておるが迫力が足りんなあ。行ったことがないからだよ」と言う。自分でもそう思う。それゆえにこの数か月、筆が止まっている。

「松岡譲は敦煌を見ずに『敦煌物語』を書き、それに触発されて井上靖も『敦煌』を書いた」という陳舜臣の言葉に励まされてこの物語を書き始めたのだが、漱石門下の優等生の松岡譲や芥川賞作家の井上靖に比べると、自分の筆力はいささか劣ることに気が付いた。

そうしているうちに、成蹊大学の友人S君(ヨット部)とY君(陸上部)が、「9日間の西安・敦煌・トルファン(高昌国)・ウルムチのツアー旅行に行かないか」と声をかけてくれた。S君はヨット部で4年間、年間150日合宿所で同じ釜の飯を食い、3年生・4年生の2年間は吉祥寺の二部屋だけの小屋のような下宿で一緒に生活をした。いわば兄弟のような間柄である。陸上部のY君はS君と同じゼミで、私とも学生時代から仲良しだった。

S君は鉄鋼会社でアフリカ・ベトナム駐在が長く、Y君は商社でアメリカ・中国駐在が長い。両君とも「万里の道を旅した人」だ。この二人が一緒だと心強い。即断即決で8月23日出発のこのツアー旅行参加を決めた。8月にしたのは暑いのだがハミウリ(哈密瓜)が旨い季節だからだ。ハミウリのことは以前このブログでも書いた。私はこのハミ瓜にはかなりのこだわりがある。

中国元への両替は、東京の銀行や空港の両替所には100元札(約2000円)はいっぱいあるのだが、枕銭やチップに使う10元札はどこを探しても手に入らない。アメリカのアムトラック鉄道旅行の時は米1ドル札を常に100枚購入していた。それを思い出し、米1ドル札を50枚購入した。毎回2-3枚を枕銭・チップとして使ったが大変喜ばれた。アメリカ合衆国は近頃落ちぶれてきた気がするが、米ドルの価値は健在だと感じた。

写真は「玉門関」のものだ。

国禁をおかして長安を密出国した玄奘は、玉門関の水場で夜ひそかに水を飲んでいたら、いきなり矢が飛んできた。防備の兵士に見つかったのだ。将校の前に連行された。慈悲深い将校は玄奘の心意気に感じるところがあり、同情してくれた。しかし国禁を犯して密出国した者を城門の中に入れると、他の将校の目に触れ捕獲される恐れがある。親切な将校は皮袋に詰めた水といくばくかの食料を玄奘に与えた。そして玄奘の次の目的地である哈密(ハミ)県の伊吾(イゴ・哈密の西方で現在の地名は鄯善・ゼンゼン)への道順を丁寧に教えてくれた。

玄奘は革袋の水といくばくかの食料を背負い、月明かりの中、一人北に向かった。

玄奘の苦労を想い、私は思わず敬礼の姿勢で敬意を表した。

玉門関で玄奘を偲ぶ











羽田空港出発
左からY君、S君、田頭

2025年4月7日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(7)

 シルクロードのものがたり(61)

東奔西走、中国各地への旅(2)

玄奘が不良青年だったとは思わない。しかし、従順でまじめ一筋の若者ではなかったように思える。漢の高祖・劉邦は、若い頃は不良青年たちに慕われた彼らの兄貴分だった。玄奘という人にもこの種の「任侠・おとこぎ」の血が流れていたような気がしてならない。

古代の中国では季布(きふ)や候嬴(こうえい)、日本では清水次郎長や吉良仁吉、そして近くでは高倉健の「昭和残侠伝」の世界の「侠」の血である。そしてこの「侠の血」こそが、この人がその後何度も遭遇する生死の瀬戸際を助けたような気がしてならない。困難に遭遇したとき助けてくれる人がいるということは、こちらも何かを備えておく必要がある。「友に交わるにすべからく三分の侠気を帯ぶべし」という言葉がある。玄奘というひとは、この「三分の侠気」を持っていた人のように思える。


兄の忠告に逆らい、寺のおきてを破り、「そこで玄奘はひそかに商人たちと仲間になり、舟で三峡を経て揚子江を逃げくだり、荊州(洞庭湖の北)の天皇寺に至った」とその伝記にある。商人やその配下の船頭や馬方など、気の荒い連中のサポートを得たのであろう。

「お兄さん、本気でおきてを破り、寺を出奔する覚悟がおありでござんすか?そんなら、俺たちもひと肌脱ぎますぜ!」任侠の徒たちからこのような声援を受けた可能性を感じる。

長江を下り、重慶を経由して荊州に到着し天皇寺に宿を求めたのは22歳の頃と思える。荊州都督の漢陽王・李瑰(りかい)の求めにより、この寺で玄奘の講座が開かれ聴衆が殺到する。お布施が山のように積まれたが玄奘は受け取らず、それを寺に喜捨した。さらに、長江を東に下り揚州(南京)に向かい、名僧・智琰(ちえん)を訪ねている。

その後、進路を北にとり、北方の相州(そうしゅう)に名僧・慧休(えきゅう)法師を訪ねる。ここは黄河の北側に位置し、殷墟(いんきょ)の近くである。「世に稀なる若者よ」、慧休が玄奘を送り出すときにつぶやいた言葉として残っている。その後、玄奘はさらに北上して趙州に向かい道深(どうしん)法師を訪ねる。この人は慧休の兄弟分にあたる人なので慧休の紹介であったのは間違いない。このように、面談した高僧が玄奘の人柄と知識に感服して、さらに次の高僧を紹介するということが繰り返し続いている。

これらの旅の途中で、故郷の洛陽にも立ち寄ったと思えるが、伝記には何も記されていない。ぐるり一周の中国北域の旅を終えて、再度長安に到着したのは25歳の頃と思える。


インドに向けて出発するまでの1年程度は、長安で過ごしたようである。10年前の長安に比べると、治安や経済も落ち着きはじめていた。「天竺に行きたい。二百数十年前、法顕三蔵は65歳で天竺に向かわれたではないか。それから見れば自分は孫のような年齢ではないか。やればできる」 このような気持ちが玄奘の心に沸いてきたのは自然なことである。再度の1年間の長安では、法常(ほうじょう)や僧弁(そうべん)という高僧たちから教えを受けると同時に、インドや西域諸国から来た外国人僧侶たちから、語学を含めてインドへの道順や注意点などを教えてもらったと思える。

準備を整え、玄奘は数人の同志と共に、出国の許可を役所に申請した。しかし許可は得られなかった。唐王朝が建国されてまだ10年足らず、国内治世はまだ安定していない。政府は国境の往来をきびしく制限していて、いわば半鎖国の状態であった。唐王朝政府のこの対応は理解できる。友人たちはあきらめる。しかし玄奘は諦めきれず、国禁を冒してでも天竺に行くことを決意する。

彼の持つ「侠」の血を抑えることが出来なかったのであろう。「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」 このときの玄奘の心の内は、この吉田松陰の気持ちに似ていたように思える。




西安 西大門
ここがシルクロードの出発点
画 及川政志氏





2025年3月31日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(6)

シルクロードのものがたり(60)

東奔西走、中国各地への旅(1)

シルクロードを往復してインドで勉強した玄奘は、16年という長期間の旅をした人である。ところが、インドに向けて出発するまでの修行の跡をたどっていて、私は仰天した。10代ー20代の若いころ、玄奘が「ほぼ中国大陸一周」ともいえる長い旅をしているのを知ったからだ。

添付の地図が、玄奘の若いころの足跡である。長江(揚子江)以南は、当時は化外(けがい)の地といわれていた。よってこれを外し、黄河と長江に囲まれた中国北部一帯をほぼ一周している。これには恐れ入った。師を求めての求道の旅であったであろうが、旅そのものが好きな人、だった気がしないでもない。足も丈夫だったのであろう。

そういえば、司馬遷もまた若いころ中国全土を歩き、その土地の古老たちから土地のいわれや伝説などを聞き取り調査をしている。「万巻の書を読み、万里の道を往く」という古い言葉がある。もしかしたら、司馬遷や玄奘三蔵を意識して使われ始められた言葉なのかも知れない。


洛陽の浄土寺での修業期間は5年程度と思われる。玄奘が16歳になった618年、隋は滅び唐の時代が始まる。しかし洛陽の町には暴徒がはびこり、殺人強盗が横行する。供料が断たれた多くの僧侶は生活に窮し離散した。陳兄弟も例外ではなかった。弟は兄に「一緒に長安に行きましょう」と提案し、すぐに実行した。

長安では荘厳寺にわらじを脱いだ。ところが長安の治安も期待したものではない。名僧の多くはすでに蜀の国(四川の成都)に移っていた。「ここで空しく時を過ごすより蜀に行って指導を受けましょう」と再度兄にすすめ、また二人して蜀に向かった。長安に滞在したのは数カ月に満たなかったと思える。

成都では空慧寺にわらじを脱ぐ。この地は肥沃な四川盆地の中心にあって、町は平穏で食料を含め物資は豊かである。名僧も多く、講座には数百人が集まるという盛況ぶりであった。

玄奘は寸暇を惜しんで学び、その精通ぶりは誰よりも抜きんでていた。兄の長捷も父に似て仏教のみならず老荘にも通じ、多くの人々に慕われた。20歳のとき、玄奘はこの成都で、僧侶としての高い資格を得るための具足戒(ぐそくかい)を受けている。玄奘が四川の成都を去り、長江(揚子江)を船で下るのは、21歳か22歳の時だと思われる。成都での修業期間は4-5年であった。

成都ではもう求めるものがなくなったと判断した玄奘は、「ふたたび長安に向かいたい」と兄に申し出る。成都で着々と地位を固めつつあった温厚な兄は、弟の昂(たかぶり)をなだめ、この地に留まることを説く。同時に寺には掟(おきて)があり、すぐには寺を離れることは出来ないことを諭した。ところが、これをふり切って玄奘は寺を脱出するのである。

この場面にもし、ヘッドハンターの田頭が同席していたら、私はお兄さんの肩を持ったような気がする。「玄奘さん、ウロウロと短期間で場所を変えないで、お兄さんのおっしゃるように、もう少し腰を据えてここで修業をなさるほうが良いと思います」と。ところが玄奘は、兄の意見に逆らって成都の空慧寺を出奔(しゅっぽん)するのである。


「親の意見を承知ですねて、曲がりくねった六区の風よ、つもり重ねた不幸のかずを、なんと詫びよかおふくろに、背中で泣いてる唐獅子牡丹」 このときの玄奘の兄に対する気持ちは、このようなものではなかったかと思う。しかし、歴史の結果を見れば、年長者の説教に逆らって寺を飛び出た、この時の若者の軽挙は成功であったといえる。

老ヘッドハンターの田頭は、若い候補者がひんぱんに転職しようとするのをたしなめることがある。私の考えが正しいのか、若者たちの考えが正しいのか、近頃自問している。


10代―20代での玄奘の国内旅ルート



 

2025年3月17日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(5)

 シルクロードのものがたり(59)

玄奘の最初の幸運

洛陽の浄土寺時代の、興味深い話を紹介したい。

次兄を頼って浄土寺の門を叩いた11歳の玄奘は、少年行者(童行・どうぎょう)という一番初心者の扱いを受けた。これは当然のことである。最初に手にした仏典は『維摩経・ゆいまきょう』と『法華経・ほけきょう』だといわれる。両方とも鳩摩羅什の漢訳と思われる。

しばらくして、「洛陽において27人の官僧を度す」との勅令が煬帝(ようだい)の名で下された。官費の僧になれば、生活費の支給だけでなく兵役や税金も免除される。よってこの時、洛陽周辺の学業優秀な数百人が役所の試験場に殺到した。

齢が足らず、また修行も充分でない玄奘は、役所の公門をくぐることもできない。わびしく、一人で門前にたたずんでいた。この少年に目をとめたのが、この試験の最高責任者である鄭善果(ていせんか)という人である。鄭は少年に声をかける。「どこの家の者か?」、「僧になりたいのか?」、「出家してどうしたいのか?」 少年は臆するふうもなく答える。「遠く如来(にょらい)の教えを継ぎ、近くは遺法をつぎたいと願っております」

これを聞いた鄭はその志に感銘し、またその容貌が賢そうなので、特別にこの少年を合格させることにした。そして部下の試験官たちに言った。「経典の研究は難しいことではないが、人物を得ることは難しい。このような才能ある男は失うべきではない」 少年時代の玄奘の能力を見抜き、彼を引き上げたのである。この一事をもって、鄭善果という人はそれ以降の中国において「名伯楽」と称賛されるようになった。


この幸運な出来事を、どう解釈すればよいのか?

背が高くハンサムで賢そうな少年の風貌に、高官・鄭善果は惹かれたのか。学道に邁進している少年の迫力がその顔つきに表れオーラを発していたのか。これを見て、鄭は少年の能力を見抜いたのか。それとも、単に鄭の気まぐれであったのか。色々なことが私の頭の中をよぎる。

次のような推測は、ロマンがない、現実的すぎる、と多くの人からひんしゅくを買うかも知れない。でも、私の心の内を正直に明かすと次のように思う。「どこの家の者か?」と聞かれた少年は、当然、父と祖父の名前を答えたに違いない。祖父も父も洛陽の有名人であった。この鄭善果という高官は、少年の祖父の陳康(ちんこう)と父の陳慧(ちんえ)の名前と立派な人となりを知っていたのではないか。私にはこのように思えてならない。

「親の七光りも実力、運も実力のうち」という言葉がある。ともあれ玄奘少年は年若くして、あっぱれ官僧になれた。これ以降の玄奘の勉学ぶりは、寝食を忘れるほど凄まじいものであったといわれる。一度講義を聞けばすべてを理解した。衆僧はみな驚き、少年を座に登らせて再度講述をさせた。その講述は読みも解釈も師の教えとまったく変わらなかった。こうして玄奘の名声は、13歳にして洛陽の人々の知るところとなった。


「笈を負う・きゅうをおう」という古くて味わい深い日本語があることを、私は最近になって知った。『史記・蘇秦伝』に源があるらしい。「本箱を背負って旅をすること」「遠く故郷を離れて勉学すること」という意味である。玄奘三蔵だけでなく、中国の昔の名僧たちが背中に重そうな荷物を背負っている絵は今まで何度か見た。「中に何が入っているのだろう?下着や食料かな?」と私は思っていたのだが、これは「書物」であるらしい。ずいぶん重かったに違いない。

笈を負う玄奘


2025年3月10日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(4)

 シルクロードのものがたり(58)

玄奘の生たち

玄奘の生年は紀元600年から602年の間といわれるが、602年説が有力なようだ。ここでは602年説を採る。年齢については満年齢で表示したい。没年は664年とはっきりしている。よって満62歳で没したことになる。

玄奘三蔵は唐代の名僧、と我々は認識しているが、生まれたのは隋の初代皇帝・文帝の御代である。推古天皇の15年(607)に小野妹子は、聖徳太子が起草した国書を二代皇帝・煬帝(ようだい)に手渡した。このとき玄奘は5歳の少年であった。高祖・李淵(りえん)が唐王朝を建国するのが618年であるから、玄奘が少年期から青年期にさしかかる頃である。中国政治の大きな動乱の時代に、玄奘が少年時代を送ったことは認識しておく必要がある。

『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』は冒頭で次のように言う。

「法師はいなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)といい、陳留(河南省陳留県)の人である。祖父の康(こう)は学問に優れ、北斉に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。彼は身のたけ八尺、眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かくゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世をしようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念するようになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病身を理由に就任しなかった。識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」

これからして、玄奘は氏素性の良い、学問をする家系に生まれたことがわかる。父の身のたけ八尺には驚いたが、当時の一尺は24.6センチと知り、計算してみたらそれでも196.8センチとなる。中国人の表現は時として大げさだ。それを考慮しても190センチ前後の大男だったように思える。とびぬけて大柄でしかも人物が立派なのだから、洛陽では有名人だったと思える。ちなみに玄奘自身の身のたけは七尺といわれている。172センチ強だから、当時としては大柄である。


このような恵まれた家庭に生まれた少年は、11歳のとき突如洛陽の浄土寺(じょうどじ)で仏門に入る。仏教に惹かれたのだとは思うが、そうせざるをえない理由があったようだ。玄奘が5歳のとき、母(落州長史・宋欣の娘)が突然世を去った。そして10歳のとき、父もまた突如この世を去ったのである。

このとき、次男の長徢(ちょうしょう)は先に出家していて、洛陽の浄土寺で修業していた。玄奘にとって頼るべき場所は、次兄の止宿する浄土寺しかなかったように私には思われる。長男と三男については、玄奘三蔵の伝記には何も記されていない。

ただ、薬師寺長老の安田暎胤老師の著書『玄奘三蔵のシルクロード』の中に、「玄奘三蔵のふるさとは今も洛陽郊外の陳河村にある。当主の陳小順氏は陳家の47代目にあたり、村長を務めておられる」と書かれてある。同時にこの村長さんと一緒の写真が掲載されている。玄奘の祖父・の陳康からかぞえて47代であろう。ひと世代30年として1410年間であるので、つじつまは合う。

これからすると、私の想像は間違っているのかも知れない。長兄が面倒を見ると言ったのをふり切って、仏教にあこがれて、次兄のいる寺に向かった可能性も考えられる。


左端が47代目当主・陳小順氏 その右が安田暎胤老師





2025年3月3日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(57)

玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)

玄奘という人が日本に縁の深い人であることを伝えたい気持ちで、このことを紹介したい。日本の二番目の正史(青史)である『続日本紀』は、大和朝廷の行政日誌の感がある。『日本書紀』が神話を含めて文学的な香りがするのに比べると、淡々と事実だけを記していて、あまり面白い書物とはいえない。しかしそれゆえに、史書としての評価は極めて高い。

この書物の初めの頃の箇所に、玄奘三蔵から直接指導を受けた「道照和尚・どうしょうわじょう」のことが記されている。冷静で淡々とした書きっぷりの『続日本紀』の中で、この道照和尚の箇所は筆者(記録官)の心の高ぶりのようなものが感じられる。この道照和尚の死去が、当時の日本人にとって、とても大きな悲しみであったことが推測される。以下は『続日本紀』からの抜粋である。


文武天皇四年(700)三月十日 道照和尚が物化(ぶっか・死去)した。天皇はそれを大へん惜しんで、使いを遣わして弔い物を賜った。和尚は河内(かわち)国丹比(たじひ)郡の人である。俗姓は船連(ふねのむらじ)、父は少錦下(しょうきんげ・従五位下相当)の恵釈(えさか)である。ある時、弟子がその人となりを試そうと思い、ひそかに和尚の便器に穴をあけておいた。そのため穴から漏れて寝具をよごした。和尚は微笑んで、「いたずら小僧が人の寝床をよごしたな」と言っただけで一言の文句もいわなかった。

孝徳天皇の白雉四年(653)に遣唐使(第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、三蔵は次のように言った。「私が昔、西域を旅したとき道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べて気力が日々すこやかになった。お前こそあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」と。

その後、道照が帰朝するとき、別れ際に三蔵は、所持した舎利(しゃり・釈迦の骨)と経綸を和尚に授けた。また一つの鍋を和尚に授けて言った。「これは私が西域から持ち帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いるといつも霊験があった」と。そこで和尚はつつしんで礼を述べ、涙を流して別れた。

(中略)

あるとき、にわかに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き居間に入ると、和尚は縄床(じょうしょう・縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息が絶えていた。弟子たちは遺言に従って栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。天下の火葬はこれからはじまった。火葬が終わったあと、親族と弟子とが争って和尚の骨を取り集めようとすると、にわかにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、どこに行ったかわからなくなった。人々はふしぎがった。

以上は『続日本紀』の記述である。


第二次遣唐使(653)の第一船(121人乗り組み)に乗ったのが、この道照(24歳)と中臣鎌足の長男・定恵(じょうえ・10歳)そして、「日本一の外交官」として以前このコーナーで紹介した粟田真人(あわたのまひと・8歳)である。第二船(120人乗り組み)は難破して5人を除く全員が死亡している。

道照は年長者で学問も進んでいたからであろう、玄奘三蔵に直接指導を受けている。鎌足の長男・定恵は、玄奘の弟子の神泰法師に教えを受けている。『続日本紀』は「玄奘は道照を同じ部屋に住まわせた」と書いているが、薬師寺長老の安田暎胤老師はその著書に、「自分の近くの房に住まわせるように命じた」と書いておられる。常識的に考えると、後者が事実のような気がする。