2024年10月14日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(12)

 シルクロードのものがたり(41)

法顕は、病気はしなかったのだろうか?

65歳で長安を出発して陸路インドに向かい、77歳でセイロンから商船に便乗して海路中国に帰った。この事実からしても、法顕が頑強な人だったことがわかる。65歳で天竺に行こうと考えるだけでも、体力には自信があったのだろう。

しかし、法顕とて人間である。病気をしたり弱気になったりしたことはなかったのだろうか?インドに到着するまでの「法顕伝」や他の書物を読む限り、そのような事実は見えない。むしろ、自分の強い体力をベースに物事を判断したために、他者への思いやりに欠けていたのではないか、と反省する場面が見える。

パミール高原を超えて現在のアフガニスタン領に入った。ヒンズークシ山脈のふもとを通って、現在のカブールの東方・ジャラバードあたりからカイバル峠を越える。このあと現在のパキスタン領に入り峠をくだり、インダス川を渡る予定だ。このカイバル峠はインドに入るための重要拠点で、かつてはBC4世紀にアレキサンダー大王が、7世紀には玄奘もこの峠を越えている。

このあたりで慧景(えけい)という青年僧が、口から白い泡を吹いて亡くなった。高山病だったのかも知れない。じつは、ここに到る以前にも、3人の僧が中国に引き返している。このとき、「頑張れ、頑張れ。初志を貫き天竺まで行こう」と法顕は僧たちを励ましている。ところが、僧の一人は「あなたは常人ではありません。私たちは平凡な人間です」と答えている。これは法顕の強靭な体力を言ったものと思える。

「わかった。気を付けて帰りなさい」と法顕は答えている。このようにして、無事にインドに到着したのは、法顕と道整(どうせい)という青年僧の二人だけであった。


ところが、ある書物で、「法顕がインドで病気にかかって弱気になり、しょんぼりしていた」という話を発見した。法顕も人の子であったのだと、私はこの話に興味を持った。

ある書物とは、吉田兼好の「徒然草」である。第八十四段に次のようにある。

法顕三蔵の天竺に渡りて、故郷(ふるさと)の扇を見て悲しび、病(やまい)にふしては、漢(かん)の食(じき)を願ひたまひけることを聞きて、「さばかりの人、むげにこそ、心弱き気色(けしき)を、人の国にて見えたまひけり」と人の言ひしに、弘融僧都(こうゆうそうつ”)、「優(ゆう)になさけある三蔵なり」と言ひたりしこそ、法師の様にもあらず、心にくくおぼえしか。

私の成蹊の古い先輩である川瀬一馬先生は、次のように現代語訳されている。

法顕三蔵がインドへ渡って、故郷の扇(おうぎ)を見ては悲しみ、また病気にかかっては、故郷(中国)の食物を欲しがられたことを聞いて、「それほどのえらい人が、ばかに弱気なところを、他国でお見せになったものだ」とある人が言ったところ、弘融僧都(こうゆうそうつ”)が、「やさしくも、情味のある三蔵だな」と言ったのは、坊主のようでもなく、おくゆかしく感ぜられたことだ。


私も兼好法師と同じ思いだ。この話を聞いて、ますます法顕が好きになった。弘融僧都は仁和寺の僧であったと解説にある。兼好法師とこの人は仲良しだったような気がする。

吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人だ。この頃、日本ではこの法顕について、読書階級の多くが知っていたようである。






2024年10月7日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(11)

 シルクロードのものがたり(40)

法顕、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超える

法顕はホータンが大いに気に入ったようだ。カラシャール(烏夷国)での冷たい仕打ち、タクラマカン砂漠を決死の覚悟で横断をしたあとである。これを思えば理解できる。

「この国は豊かで人民の生業は盛んである。人々はみな仏法を奉じ喜び楽しんでいる。僧侶はなんと数万人もいる。国王は自分たちを大乗学の寺に住まわせた。この寺では三千人の僧が、ケンツイ(日本の禅寺の魚板のようなもの)を合図に食事をする。一切が寂然(じゃくぜん)として器鉢(きはつ)の音一つしない。給仕人に食物をおかわりするときは、声を出して呼んではいけない。ただ手でさし招くだけである」

ホータンの人々の親切に感謝し、彼らに対する尊敬の気持ちが感じられる。このホータンに3ヶ月滞在したあと、法顕は何人かの僧と一緒にタクラマカン砂漠の南を西に歩き、パミール高原を超えることになる。


ここで少し趣(おもむき)を変えて、法顕が長安を出発したあと滞在した町々の現在の様子を眺めてみたい。滞在はしないが、名前の出たいくつかの町も簡単に紹介したい。これらは、2021-2022年版の「地球の歩き方」を参考にした。

「蘭州・らんしゅう」  長安から西北600キロの都市で、法顕はここで3ヶ月滞在している。物資や人夫の手配をしたのだと思う。この町の現在の人口は322万人とあり、甘粛省の省都でもあり、青海省に発した黄河が初めて通過する大都市である。李広将軍・その孫の李陵の故郷の天水は、長安とこの蘭州の中間点にある。

「張掖・ちょうえき」 北涼王・段業の庇護のもと、ここで1年間滞在した。この町は元(げん)の時代にマルコ・ポーロも1年近く滞在している。現在の人口は132万人。中国の人口は漢の時代に約6000万人で、現在はその20倍といわれる。これを参考に推定すると、法顕がこの張掖に滞在したころの人口は10万人程度だったと思える。

「酒泉・しゅせん」  霍去病(かくきょへい)が武帝からもらった十樽の酒を泉に入れて、兵士全員が歓喜して飲んだこの場所は、現在は人口101万人の都市である。

「敦煌」  李広将軍の16代孫の李暠に1ヶ月世話になったこの町は、現在でも多くの観光客が訪れる。人口は14万人とある。

「高昌国・トルファン」  法顕自身はここに立ち寄っていない。烏夷国(カラシャール)での冷たい待遇に憤慨したとき「智厳・ちげん・等三人の僧は引き返して高昌国に移った」と記録するあの高昌国である。この高昌国は玄奘三蔵が往路で、この国の王様に異常なくらいの親切を受け、天竺に行かないで国師としてこの国に残ってほしい、と懇願された場所でもある。現在でも観光地として名高い。私の友人・先輩の二人もここを訪問したことを話してくれ、羨ましく思った。現在の人口は63万人とある。

「烏夷国・カラシャール」  法顕一行が冷たくされたこの場所の現在が気になったが、「地球の歩き方」には何も紹介されていない。パグラシュ(ボスデン)湖の北西、という言葉を頼りに地図を見ると、和静(ホーチン)という地名が見える。おそらくこの町だと思うが、現在は特筆する場所ではないみたいだ。

「亀茲国・庫車・クチャ」  符公孫が法顕に、絶対に立ち寄るな、と言ったであろうこの町の現在の人口は47万人である。先述した鳩摩羅什(くまらじゅう)の父親はインドの名門貴族だが、母親はこの亀茲国の王族の娘である。玄奘三蔵も天竺に向かう往路でこの地に立ち寄っている。法顕や玄奘の頃、このクチャはタクラマカン砂漠周辺のオアシス都市の中で群を抜く大きな都市で、当時の人口は10万人を超えていたという。

「和田・ホータン」  法顕が気に入り、玄奘が絹の伝来の物語を記したホータンの現在の人口は33万人とある。ここは現在でも「絹」と「玉」が大きな産業のようだ。

「楼欄・ローラン」  法顕が滞在した町の中で、このローランだけは今はあとかたもない。法顕が立ち寄った時が、この国の終末に近い頃であったようだ。その250年後にこのあたりを歩いた玄奘の時は、住む人もない廃墟と化していた。「幻のみやこ楼欄」という言葉の通り、消えてなくなったのである。

その理由は、ひとことで言えば、人間が生きるために必要な水がなくなったのである。このあたりのことは、ヘディンの「さまよえる湖」や井上靖の「楼欄」に詳しい。


1979年からシルクロードを取材したNHKの取材班は、当初、楼欄地域を取材することを禁止されていたという。「理由は何ですか?」との日本側の問いに、「それはみなさんが想像される通りです」と中国側の役人は答えたという。ところが、最終的には、撮影は中国側だけが行うという前提でこれは許可された。同行の中国の放送局CCTVのスタッフにとっても、思いがけない喜びであったらしい。「楼欄に入るのは、解放後、私たちが初めてです」と日本側の人に、何度も何度も繰り返したという。

軍事に関する地域、というのがその理由であった。1964年から25回行なわれた中国の核実験は、いずれもこの楼欄地域で行われた。私は今まで、周辺住民の健康への配慮で、この核実験はタクラマカン砂漠のど真ん中で行われたと思い込んでいた。この沙漠の東のはてのローラン遺跡の近くで行われたことを、最近知って驚いている。

理由は知らない。おそらく核実験の設備や資材の搬入の問題ではないかと思う。タクラマカン砂漠の砂は、ゴビ砂漠・サハラ砂漠などの砂とはまったく異なり、粒子が極めて細かい小麦粉のようなパウダー状であるらしい。少し風が吹くだけで、足跡がすぐに消えてなくなるという。ジープやトラックでの走行は難しい。この沙漠を35日間かけて横断した法顕の苦労が偲ばれる。


ロバに乗りバザールに向かうホータンの庶民 1970年代





2024年9月30日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(10)

 シルクロードのものがたり(39)

法顕、ローラン(楼蘭)を経由して天山山脈の南東・カラシャール(烏夷国)に到着す

今のペースで筆を進めると、法顕が船で中国に帰り着くまでに、あと20回ほど書くことになりそうだ。これでは読者も飽きてくると思う。よって、話を大幅にスピードアップしていきたい。あと4-5回で法顕の話を終えたいと考えている。


敦煌からローランまで17日間で到着した。法顕は次のように書いている。

「敦煌太守・李暠が資財を提供してくれたので、沙河(さか・敦煌ー楼蘭間の大沙漠)を渡った。見渡すかぎりの沙漠で、ただ死人の枯骨を標識として進んだ。行くこと17日、鄯善国(ぜんぜんこく・ローラン)に着いた。その地はやせてゴツゴツしており、俗人の衣服はだいたい中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なる。国王は仏教を奉じおよそ4000人の僧がいる」

「ここ鄯善国(ローラン)にひと月滞在し、また西北に行くこと15日で烏夷国(ういこく・カラシャール)に到った」

烏夷国(カラシャール)は天山山脈の南東に位置し、パグラシュ湖の北西にある。ここでの法顕一行に対する地元民の対応はすこぶる悪かったようだ。ずいぶん悪口を書いている。

「中国の僧はこの国の僧たちの儀式の仲間に加えてもらえない。烏夷国の人は礼儀知らずで、非常に粗末に一行を待遇したので、智厳(ちげん)等三人の僧は引き返して高昌国に移り、旅の資金を求めようとした。法顕らは符公孫(ふこうそん)から出資の提供を受けたので、二ヶ月余り滞在したのち、西南方面に直進することができた。この行路中は住む人もなく、艱難、経験した苦しみは、とうていこの世のものとは思われなかった。こうして旅すること35日、干闐国(うてんこく・ホータン・和田)に到ることが出来た」


この箇所は少し説明が要る。なぜカラシャールの人々が、法顕一行に対して冷淡であったかを知るために。

法顕一行がこの烏夷国(ういこく・カラシャール)に到着する十数年前のことである。前秦(ぜんしん・五胡十六国の一つ)の王・符堅(ふけん)は、配下の将軍・呂光に7万の兵を与えて、カラシャール(烏夷国)およびクチャ(亀茲国・庫車)方面を攻略させるため軍団を送った。この地域を自己の支配下に置き、同時に亀茲国の秘宝といわれた僧・鳩摩羅什を拉致・獲得するためである。382年9月のことだ。

384年7月、呂光は亀茲(クチャ)城の攻略に成功した。ところがそれ以前、383年に淝水(ひすい)の戦いにおいて、符堅は晋軍に大敗し敗走したのである。符堅は385年に殺され、前秦は滅亡した。

本国がこのような状態であることを知った将軍・呂光は、いったん占領した亀茲(クチャ)・烏夷国(カラシャール)地方を放棄して中国に帰国する。385年のことである。この時、2万頭のラクダに略奪した金・銀・財宝を積んで中国に持ち帰ったと伝えられている。私が高校生時代に使った「世界史年表」を見ると、この呂光について、「386年呂光自立・後涼国」と書かれている。1600年後の異国の高校生の使う年表に記載されるのだから、呂光もかなりの大物だったようだ。

このような出来事のたった15年後である。中国人僧の法顕一行がカラシャールで歓迎されるはずは元からなかったと言える。この国において、ただ一人親切にしてくれた、と法顕が書き残している符公孫(ふこうそん)という人物について語りたい。


名前から察せられる通り、じつはこの人は秦王・符堅(ふけん)の甥であった。この人の烏夷国での立場はきわめて微妙であった。大王・符堅は将軍・呂光に対する目付け役として、この甥を文官として遠征軍に加わらせていた。中国における符堅の敗北を知った呂光は、獲得した西域の領土を放棄して奪った財宝を持って中国に帰る決意をした。ところが、呂光は放棄とは言わなかった。「大王・符堅さまの甥の符公孫を都督として、西域の経営の一切をまかせる」と宣言して、自分は7万の兵と2万頭のラクダを連れて中国に帰ってしまったのだ。

いってみれば、符公孫は置き去りにされたのだ。四面すべてが敵である。一兵も帯びず、この都督の役がつとまるわけがない。自立を決意した呂光にとって、旧主の甥は厄介な存在であった。簡単に殺すことはできない。呂光の部下の中には符堅の恩顧の将校が何人もいた。東帰するにも、「前王の遺志を継いで」という旗印が要る。だからその甥を殺してはならない。そうかといって東帰に同行させばその処遇に気を使わねばならない。そこで考えたのが、置き去りであった。

掠奪した財宝を2万頭のラクダに乗せて引揚げた占領軍は、ただ都督という名だけの符公孫一人を残して去って行った。「ここで死ね」という意味にひとしい。

ところが符公孫は死ななかった。

「私は仏教に帰依します」 呂光が烏夷国を立ち去った直後、符公孫は烏王にそう宣言して、個人の財産すべてを寺院に喜捨した。呂光からもらった「都督」の印綬も放棄した。しかし、彼の命を救ったのはこれらの行為ではなかった。普段の彼の生活態度にあったのだ。彼は当初から、この国の人たちに謙虚な姿勢で親切に接した。征服者的な言動は一切しなかった。烏夷国王やその側近たちは、呂光と符公孫のどちらが悪玉でどちらが善玉かは当初からわかっていたようだ。すなわち、符公孫は彼らの同情を得て、好かれていたのである。

符公孫には烏夷王から、定期的に給与が渡されていた。よって、法顕一行の二ヶ月程度の食事の提供にはまったく問題はなかった。ただ法顕一行のインド行きには、ラクダや人夫の手配でまとまった資金が必要である。符公孫は法顕にこう言った。

「伯父の大王の腹心の将校がおりました。呂光が引き揚げるときその人物が私を訪ねてきました。むろん呂光側近の人たちが監視しています。うかつなことは言えません。私は彼を送り出すとき、庭を横切って門に行くまで、二人きりになりました。そのとき彼は小声でこう申したのです。”万一のときの用意に、かくかくしかじかの場所に財宝を埋めておきました” と」その後、15年間、符公孫はこの財宝にはまったく興味がなく放っておいたという。

「いまこそ、その人物が言った、万一の時が来たのだと思います」符公孫は法顕にそう語った。その後の符公孫のことは、史書には何も書かれていない。おそらくこのカラシャールの地で没したのだと思われる。しかしこの人は、法顕へ喜捨したことに満足して、幸せな気持ちで死んでいったに違いない。

「クチャ(亀茲・庫車)には絶対に立ち寄ってはいけない。命の危険がある。それよりも、タクラマカン沙漠を横断するほうがまだしも危険が少ない」こう強く法顕に忠告したのは、この符公孫であったと、私は考えている。


提供 辻道雄氏













2024年9月22日日曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(9)

 シルクロードのものがたり(38)

法顕、安西(瓜州)を経由して敦煌に到着す

法顕はまだ張掖(ちょうえき)にいるのに、王維の詩とか、ホータン(和田)の絹(シルク)の話とか、ずいぶんと先回りをしてしまった。


法顕が一年ほど張掖に滞在しているあいだに、敦煌の太守問題は解決した。李広将軍の16代の孫・李暠(りこう)が勝利したのである。北涼王・段業側についていた晋昌(酒泉)太守の唐瑶(とうよう)が、段業に反旗をひるがえして李暠を支持したのだ。これ以上李暠と対立していたら自分の身が危うい。そう考えた段業は李暠に鎮西将軍の称号を与えた。李暠の自立を認めた恰好である。史書は李暠について、「温毅(おんき)にして恵政有り」 と書いている。民に情をかける仁徳の人だったようだ。

張掖を出発する際に、段業は護衛の兵士をつけ、法顕にラクダを贈った。法顕はここではじめてラクダに乗っている。長安から同行した四人の僧に加え、張掖周辺の五人の僧が徒歩であとに続いた。このように多い時には十人程度の僧が法顕に従っているが、かならずしも法顕が全体を指揮する統率者といった感じではない。その後も、問題が発生して次の目的地を決める際には、法顕は各自の意見・希望を尊重している。途中で法顕とわかれ別の方向に向かった僧が何人もいる。

張掖から安西(瓜州)に向かう中間点に、酒泉(しゅせん)という町がある。

この町の名は、前漢の大将軍・霍去病(かくきょへい)に由来する。霍去病はBC121年に匈奴を攻撃して河西の地を奪取した。これを喜んだ武帝は、霍去病のもとに十樽の酒を送り届けた。全兵士に飲ませてやりたいと思ったが、それほどの量ではない。霍去病は近くにあった泉に兵士を集め、酒をそそいだ。すると泉の水はたちまち芳醇な酒となり、兵士全員が飲むことができたという。それ以来、この泉は酒泉と呼ばれ、やがて町の名になったという。いい話である。

ちなみに、この李暠は敦煌における鎮西将軍に満足せず、西涼(せいりょう)国を建国し、みずから西涼王を名乗った。そして405年この酒泉の地に遷都した。西涼国の領土は現在の内モンゴル・トルファン・張掖一帯に及んだというから、日本の面積より広い。

安西(瓜州)で休養を取った法顕一行は、150キロ西の敦煌に向かった。敦煌に着いたのは400年の9月で、1カ月ほど滞在して10月に出発している。敦煌では太守の李暠と直接面談をして、次の目的地までの支援を要請している。李暠は快諾し、必要な物資の補給と護衛の要員について確約した。

法顕が1ヶ月あまり滞在している間に、敦煌では新朝廷樹立の準備が進められていた。李暠は新政権の樹立を西方の国々に知らせたいとの意向を持っており、その使節団に法顕一行は同行することになった。

次の目的地はローラン(楼蘭・鄯善国・ぜんぜん)である。これは理解できる。地図を見ればローランに向かうのは自然である。ところが法顕はこのローランのあと、北西に進路を取りカラシャール(烏夷国・うい)に向かう考えを持っていた。カラシャールは天山山脈の南東の端に位置し、パグラシュ(ボスデン)湖という大きな湖の北にある。トルファン(高昌国)とクチャ(亀茲・庫車)の中間あたりである。あと戻りとまでは言えないものの、相当なデビエーション(離路)となる。結果として、法顕はこのカラシャールに到着している。


不思議である。インドに早く到着するには、ローラン(楼蘭)からタクラマカン砂漠の南を通る西域南道を歩き、ホータン(和田)を経由してパミール高原を超えるのが常識だ。

ここから先は私の想像である。

〇一つは李暠の使節団が、当初からローランのあとカラシャールに行く予定があり、これに同行するのが安全だと考えたのか。

〇二つめは、カラシャールのあと天山南路・西域北道(玄奘三蔵が往路に通った道)を通ってクチャを経由して、パミール高原に向かう考えを元から持っていたのか。

〇三つめは、クチャ(亀茲・庫車)の北方にある千仏洞を含め、天山南路・西域北道に点在する数多くの仏教寺院や遺跡を見学したいとの希望があったのか。

私が考えられるのは以上の三つだが、その時、法顕が何を考えていたのかはわからない。


ラクダの隊商 提供 辻道雄氏





2024年9月17日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(8)

 シルクロードのものがたり(37)

中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ(2)

玄奘三蔵がホータンでこの話を聞いて1200年余り経った20世紀の初頭、英国の考古学者のオーレル・スタインは、この伝説の物語を描いた一枚の板絵をホータン北東の沙漠の中の仏教遺跡から発見した。

大英博物館に保管されているこの板絵は、高さ12センチ、幅46センチで、6世紀のものとの説明がある。日本の神社に奉納される絵馬に似た感じの板絵である。

左から二番目の人物が中国からホータンに嫁いだ王女で、左の人物は侍女で王女の冠を指している。王女の右の像は織物の守護神、その右はホータン王といわれている。科学的な測定により、この絵が描かれたのは6世紀ごろというのは間違いないらしい。それでは、この王女が中国からホータンに嫁いできたのはいつ頃なのか?との疑問が湧く。

川村哲夫氏はその著書「法顕の旅・ブッダへの道」の中で、次のように述べている。

「ホータンに養蚕の技術が持ち込まれた時期は定かではないが、前漢の武帝によって匈奴の勢力が駆逐された以降で、かつ後漢の班超(はんちょう・この人は「漢書」をまとめた班固・はんこ・の弟である)が西暦78年にホータン(和田)に遠征した以前であろう。すると西暦一世紀の前半あたりということになる」

常識的に考えてうなずける話で、私もこれに納得する。倭国の北九州の豪族に「漢委奴国王」の金印をくださった後漢の光武帝(在位25-57年)の頃、このお姫様はラクダに乗ってホータン王に嫁いできたと考える。

スタインは、掘り出されたこの板絵が何を意味するのかわからなかった。長い間土中にあったので、ぜんたいに黒ずんでいた。彼は現状のままロンドンの大英博物館にこれを送った。1901年のことである。博物館では科学的な洗浄をおこない、板絵の絵はかなりあざやかに見えるようになった。しかし、この板絵が何を意味するのか、博物館の職員にもわからなかった。

仏寺跡から出土したものなので、仏教に関係があると思い、当初は仏伝やブッダの生前の物語を調べたが該当するシーンはない。いくばくかの時が経ったとき、誰かが玄奘三蔵の「大唐西域記」の中の記録と一致することに気付いた。英国人の中にも、玄奘三蔵を深く研究した偉い人がいたらしい。

絹を伝えたこの王妃は、この地で神として祀られたという。よってこの板絵は、ホータン王妃の子孫か、あるいは絹の製造業者が、その600年ほど後に、絹を伝えたこの王妃を讃えて奉納したものかも知れない。スタインの調査によれば、ホータンの3世紀の地層に、桑が栽培された形跡が認められるという。


このお姫様は、長安を出発してはるばるとホータン王に嫁いだ。ラクダの背に乗って半年以上の旅だったに違いない。月が出ていれば、沙漠は夜のほうが涼しい。満月の月明りを浴びながら、このお姫様は、夫となる国王がどんな人かと、期待と不安の気持ちを抱きながら、西へ西へと旅を続けたのであろう。

神として祀られたことからして、このお姫様はきっと王様にも可愛がられ、ホータンの人々からも慕われ、この地で幸せな人生を送ったに違いない。よかった。よかった。





2024年9月10日火曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(7)

 シルクロードのものがたり(36)

中国からの姫、繭(まゆ・シルク)を冠の中に隠しホータン王に嫁ぐ


法顕はクチャには立ち寄らず、その南東あたりから、南西に向かってタクラマカン砂漠を横断し、ホータンに到着した。401年の3月頃と思われる。35日間をかけての危険な沙漠の横断で、法顕は次のように記している。「この行路中には住む人もなく、沙漠の艱難と苦しみはとうていこの世のものとは思われなかった」

玄奘三蔵がインドからの帰路、このホータン(和田)に立ち寄ったのは646年だから、法顕が訪問した245年のちである。玄奘三蔵は、この時ホータンで聞いたある伝説を「蚕種西漸伝・さんしゅせいぜんでん」として「大唐西域記」に書き残している。

「その昔、この国では桑や蚕(かいこ)のことを知らなかった。東方の国にあるということを聞き、使者に命じてこれを求めさせた。ところが、東国の君主はこれを秘密にして与えず、関所に桑や蚕の種子を出さないように厳命した。ホータン王はそこで辞を低くしてへりくだり、東国に婚姻を申し込んだ。東国の君主は遠国を懐柔する意思を持っていたので、その請いを聞き入れた。

ホータン王は使者に嫁を迎えに行くように言いつけ、”汝は東国の君主の姫に、わが国には絹や桑・蚕の種子がないので持ってきて自ら衣服を作るようにと伝えよ” と言った。

姫はその言葉を聞いてこっそりと桑と蚕の種子を手に入れ、その種子を帽子の中に入れた。関所にやって来ると役人はあまねく検索したが、姫の帽子だけは調べる非礼はしなかった。それで種子を携えたまま、ホータン国の王宮に入った」

井上靖・長澤和俊の両泰斗は、このことを次のように解説している。私にはこの説明が理解しやすい。

「昔、西域南道一帯に勢力を張っていたホータン王は、絹をつくりだす秘法を東方の国(中国)に求めたが、養蚕の技術は国外不出なので中国の君主はこれを許さなかった。しかし中国人が愛玩する玉(ぎょく)を産する西域の強国、ホータン王の願いを無下にしりぞけることは憚られたのであろう。中国の君主は、その王女をホータン王に嫁がせることでこれを懐柔しようとした。

ここで一計を案じたのがホータン王である。彼は妃となるべき王女に、ひそかに蚕の繭玉を持ち来るよう、使いを遣って依頼した。王女は未来の夫の言いつけをよく守った。彼女は自らの冠の中に蚕の繭玉を忍ばせ、みごと国禁を犯してそれをホータンの国にもたらしたのである」

ここで「玉(ぎょく)」という言葉が出てきて、私は大きく納得した。ホータンは古来から玉(ぎょく)の名産地である。シルクロードは言葉を換えれば、ホータンの玉が中国へ運ばれる「玉の道」でもあった。もしかしたら、「絹の道」よりも「玉の道」のほうが古い歴史があるような気がする。これについでは、またどこかで語りたい。

中国の君主が玉を産するホータン王に気を使った、というのは理解できる。


左から二人目が王女、その左は侍女で冠を指している。王女の右は織物の神、その右は王様といわれている。






















2024年9月2日月曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(6)

 シルクロードのものがたり(35)

元二(げんじ)の安西(あんせい)に使いするを送る(2)

元二は安西に使いする。王維は冒頭でそう述べている。陽関(ようかん)は安西(あんせい)の西250キロに位置する関所である。安西に使いする元さんの弟が、なぜ陽関まで行き、さらに西方に向かう必要があるのか?という疑問が当然のこととして湧く。

「変だな、変だな。感情が高ぶった王維の筆が滑ったのかな」とも思った。天才・李白ならありうることかも知れない。しかし、真面目人間の王維には考えられないことだ。このように悩み続け、私はこの二ヶ月間を悶々として過ごしていた。


この私の悩みを解決してくれたのが、森安孝夫先生の「シルクロードと唐帝国」という本の中にある 「七世紀の太宗・高宗時代の唐の最大勢力圏」 の下の地図である。これを見て私の目からウロコが落ちた。安西(あんせい)というのは固有の地名ではないのだ。「西を安んじる」ために置かれた節度使(せつどし)の軍事拠点(駐屯地)のことだったのだ。

安西①③、安西②④の文字が見える。安西①③は敦煌の東方150キロであるから、この地図は正確ではない。この地図よりも何百キロも東方に位置する。(私は鉛筆で→をつけた)つまりこの軍事拠点(駐屯地)は中国の軍事力・政治力の盛衰と共にあちこちに移動していたのである。

すなわち、当初の安西①は敦煌の東150キロの瓜州にあった。太宗・高宗の時代に唐の勢力圏は拡大し、安西②はクチャ(庫車・亀茲)まで進出した。安西①より1000キロ西まで唐の勢力範囲は拡大したのである。王維がこの詩を書いたのは玄宗皇帝の時代だが、唐の勢力はまだ強大であり、この時の安西はクチャにあったのだ。これがわかれば、王維の「西のかた陽関を出つ”れば故人無からん」の文章に合点がいく。

三代皇帝・高宗の頃は(在位649-668)、唐の勢力範囲は(領土ではない)西はタシケント・サマルカンドを含みカスピ海の東のアラル海まで達している。南西はパミール高原を含み、バーミアン・ガンダーラまで、すなわち現在のアフガニスタン、パキスタン北部まで、唐の影響力が広がっていた。

玄宗皇帝が楊貴妃の色香にうつつをぬかしたためか、はたまた安禄山の乱が理由か、唐の国力は衰えていき、やがて安西③はもとの瓜州にもどった。余談だが8世紀前半(玄宗皇帝が即位した頃)、クチャ(②の安西)にあった安西節度使の持つ兵力は、将兵24,000人・馬2,700頭と記録に残っている。

この地図を見ると、安西と同時に安東もあった。この地図には入っていないが安東①は朝鮮半島の平壌にあったが、国力の衰退によるものであろう、安東②は遼東半島に後退している。安北①はバイカル湖のすぐ南だが、国力の衰退と共に安北②まで後退している。その位置がまったく変わらないのは安南のみで、一貫して現在のハノイにあった。阿倍仲麻呂は文官なので節度使ではないが、一時期この安南の長官に就任している。


この「安西」「安東」などの文字は、唐の時代よりも以前から使われていたようだ。

「宋書・倭国伝」には、宋(隋の前の中国の国名)の皇帝が、何人もの倭の国王に安東将軍の称号を与えたことが記されている。「倭の珍を安東将軍・倭国王を除(じょ)す」「倭国王の済(せい)を安東将軍に任ず」「倭王の興(こう)を安東将軍に任ず」「倭国王の武を安東大将軍・倭王に除す」などの文字が見える。仁徳天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇たちだと言われているので、紀元300年代の後半から400年代の半ば過ぎのことだ。ちょうどこの主人公の法顕が生きていた時代である。

日本側にはそのような意識はなかったかも知れないが、宋(中国)側は、「これで中国の東の勢力範囲は日本列島まで拡大したよ!」と喜んでいたように思う。