2025年3月31日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(6)

シルクロードのものがたり(60)

東奔西走、中国各地への旅(1)

シルクロードを往復してインドで勉強した玄奘は、16年という長期間の旅をした人である。ところが、インドに向けて出発するまでの修行の跡をたどっていて、私は仰天した。10代ー20代の若いころ、玄奘が「ほぼ中国大陸一周」ともいえる長い旅をしているのを知ったからだ。

添付の地図が、玄奘の若いころの足跡である。長江(揚子江)以南は、当時は化外(けがい)の地といわれていた。よってこれを外し、黄河と長江に囲まれた中国北部一帯をほぼ一周している。これには恐れ入った。師を求めての求道の旅であったであろうが、旅そのものが好きな人、だった気がしないでもない。足も丈夫だったのであろう。

そういえば、司馬遷もまた若いころ中国全土を歩き、その土地の古老たちから土地のいわれや伝説などを聞き取り調査をしている。「万巻の書を読み、万里の道を往く」という古い言葉がある。もしかしたら、司馬遷や玄奘三蔵を意識して使われ始められた言葉なのかも知れない。


洛陽の浄土寺での修業期間は5年程度と思われる。玄奘が16歳になった618年、隋は滅び唐の時代が始まる。しかし洛陽の町には暴徒がはびこり、殺人強盗が横行する。供料が断たれた多くの僧侶は生活に窮し離散した。陳兄弟も例外ではなかった。弟は兄に「一緒に長安に行きましょう」と提案し、すぐに実行した。

長安では荘厳寺にわらじを脱いだ。ところが長安の治安も期待したものではない。名僧の多くはすでに蜀の国(四川の成都)に移っていた。「ここで空しく時を過ごすより蜀に行って指導を受けましょう」と再度兄にすすめ、また二人して蜀に向かった。長安に滞在したのは数カ月に満たなかったと思える。

成都では空慧寺にわらじを脱ぐ。この地は肥沃な四川盆地の中心にあって、町は平穏で食料を含め物資は豊かである。名僧も多く、講座には数百人が集まるという盛況ぶりであった。

玄奘は寸暇を惜しんで学び、その精通ぶりは誰よりも抜きんでていた。兄の長捷も父に似て仏教のみならず老荘にも通じ、多くの人々に慕われた。20歳のとき、玄奘はこの成都で、僧侶としての高い資格を得るための具足戒(ぐそくかい)を受けている。玄奘が四川の成都を去り、長江(揚子江)を船で下るのは、21歳か22歳の時だと思われる。成都での修業期間は4-5年であった。

成都ではもう求めるものがなくなったと判断した玄奘は、「ふたたび長安に向かいたい」と兄に申し出る。成都で着々と地位を固めつつあった温厚な兄は、弟の昂(たかぶり)をなだめ、この地に留まることを説く。同時に寺には掟(おきて)があり、すぐには寺を離れることは出来ないことを諭した。ところが、これをふり切って玄奘は寺を脱出するのである。

この場面にもし、ヘッドハンターの田頭が同席していたら、私はお兄さんの肩を持ったような気がする。「玄奘さん、ウロウロと短期間で場所を変えないで、お兄さんのおっしゃるように、もう少し腰を据えてここで修業をなさるほうが良いと思います」と。ところが玄奘は、兄の意見に逆らって成都の空慧寺を出奔(しゅっぽん)するのである。


「親の意見を承知ですねて、曲がりくねった六区の風よ、つもり重ねた不幸のかずを、なんと詫びよかおふくろに、背中で泣いてる唐獅子牡丹」 このときの玄奘の兄に対する気持ちは、このようなものではなかったかと思う。しかし、歴史の結果を見れば、年長者の説教に逆らって寺を飛び出た、この時の若者の軽挙は成功であったといえる。

老ヘッドハンターの田頭は、若い候補者がひんぱんに転職しようとするのをたしなめることがある。私の考えが正しいのか、若者たちの考えが正しいのか、近頃自問している。


10代―20代での玄奘の国内旅ルート



 

2025年3月17日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(5)

 シルクロードのものがたり(59)

玄奘の最初の幸運

洛陽の浄土寺時代の、興味深い話を紹介したい。

次兄を頼って浄土寺の門を叩いた11歳の玄奘は、少年行者(童行・どうぎょう)という一番初心者の扱いを受けた。これは当然のことである。最初に手にした仏典は『維摩経・ゆいまきょう』と『法華経・ほけきょう』だといわれる。両方とも鳩摩羅什の漢訳と思われる。

しばらくして、「洛陽において27人の官僧を度す」との勅令が煬帝(ようだい)の名で下された。官費の僧になれば、生活費の支給だけでなく兵役や税金も免除される。よってこの時、洛陽周辺の学業優秀な数百人が役所の試験場に殺到した。

齢が足らず、また修行も充分でない玄奘は、役所の公門をくぐることもできない。わびしく、一人で門前にたたずんでいた。この少年に目をとめたのが、この試験の最高責任者である鄭善果(ていせんか)という人である。鄭は少年に声をかける。「どこの家の者か?」、「僧になりたいのか?」、「出家してどうしたいのか?」 少年は臆するふうもなく答える。「遠く如来(にょらい)の教えを継ぎ、近くは遺法をつぎたいと願っております」

これを聞いた鄭はその志に感銘し、またその容貌が賢そうなので、特別にこの少年を合格させることにした。そして部下の試験官たちに言った。「経典の研究は難しいことではないが、人物を得ることは難しい。このような才能ある男は失うべきではない」 少年時代の玄奘の能力を見抜き、彼を引き上げたのである。この一事をもって、鄭善果という人はそれ以降の中国において「名伯楽」と称賛されるようになった。


この幸運な出来事を、どう解釈すればよいのか?

背が高くハンサムで賢そうな少年の風貌に、高官・鄭善果は惹かれたのか。学道に邁進している少年の迫力がその顔つきに表れオーラを発していたのか。これを見て、鄭は少年の能力を見抜いたのか。それとも、単に鄭の気まぐれであったのか。色々なことが私の頭の中をよぎる。

次のような推測は、ロマンがない、現実的すぎる、と多くの人からひんしゅくを買うかも知れない。でも、私の心の内を正直に明かすと次のように思う。「どこの家の者か?」と聞かれた少年は、当然、父と祖父の名前を答えたに違いない。祖父も父も洛陽の有名人であった。この鄭善果という高官は、少年の祖父の陳康(ちんこう)と父の陳慧(ちんえ)の名前と立派な人となりを知っていたのではないか。私にはこのように思えてならない。

「親の七光りも実力、運も実力のうち」という言葉がある。ともあれ玄奘少年は年若くして、あっぱれ官僧になれた。これ以降の玄奘の勉学ぶりは、寝食を忘れるほど凄まじいものであったといわれる。一度講義を聞けばすべてを理解した。衆僧はみな驚き、少年を座に登らせて再度講述をさせた。その講述は読みも解釈も師の教えとまったく変わらなかった。こうして玄奘の名声は、13歳にして洛陽の人々の知るところとなった。


「笈を負う・きゅうをおう」という古くて味わい深い日本語があることを、私は最近になって知った。『史記・蘇秦伝』に源があるらしい。「本箱を背負って旅をすること」「遠く故郷を離れて勉学すること」という意味である。玄奘三蔵だけでなく、中国の昔の名僧たちが背中に重そうな荷物を背負っている絵は今まで何度か見た。「中に何が入っているのだろう?下着や食料かな?」と私は思っていたのだが、これは「書物」であるらしい。ずいぶん重かったに違いない。

笈を負う玄奘


2025年3月10日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(4)

 シルクロードのものがたり(58)

玄奘の生たち

玄奘の生年は紀元600年から602年の間といわれるが、602年説が有力なようだ。ここでは602年説を採る。年齢については満年齢で表示したい。没年は664年とはっきりしている。よって満62歳で没したことになる。

玄奘三蔵は唐代の名僧、と我々は認識しているが、生まれたのは隋の初代皇帝・文帝の御代である。推古天皇の15年(607)に小野妹子は、聖徳太子が起草した国書を二代皇帝・煬帝(ようだい)に手渡した。このとき玄奘は5歳の少年であった。高祖・李淵(りえん)が唐王朝を建国するのが618年であるから、玄奘が少年期から青年期にさしかかる頃である。中国政治の大きな動乱の時代に、玄奘が少年時代を送ったことは認識しておく必要がある。

『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』は冒頭で次のように言う。

「法師はいなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)といい、陳留(河南省陳留県)の人である。祖父の康(こう)は学問に優れ、北斉に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。彼は身のたけ八尺、眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かくゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世をしようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念するようになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病身を理由に就任しなかった。識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」

これからして、玄奘は氏素性の良い、学問をする家系に生まれたことがわかる。父の身のたけ八尺には驚いたが、当時の一尺は24.6センチと知り、計算してみたらそれでも196.8センチとなる。中国人の表現は時として大げさだ。それを考慮しても190センチ前後の大男だったように思える。とびぬけて大柄でしかも人物が立派なのだから、洛陽では有名人だったと思える。ちなみに玄奘自身の身のたけは七尺といわれている。172センチ強だから、当時としては大柄である。


このような恵まれた家庭に生まれた少年は、11歳のとき突如洛陽の浄土寺(じょうどじ)で仏門に入る。仏教に惹かれたのだとは思うが、そうせざるをえない理由があったようだ。玄奘が5歳のとき、母(落州長史・宋欣の娘)が突然世を去った。そして10歳のとき、父もまた突如この世を去ったのである。

このとき、次男の長徢(ちょうしょう)は先に出家していて、洛陽の浄土寺で修業していた。玄奘にとって頼るべき場所は、次兄の止宿する浄土寺しかなかったように私には思われる。長男と三男については、玄奘三蔵の伝記には何も記されていない。

ただ、薬師寺長老の安田暎胤老師の著書『玄奘三蔵のシルクロード』の中に、「玄奘三蔵のふるさとは今も洛陽郊外の陳河村にある。当主の陳小順氏は陳家の47代目にあたり、村長を務めておられる」と書かれてある。同時にこの村長さんと一緒の写真が掲載されている。玄奘の祖父・の陳康からかぞえて47代であろう。ひと世代30年として1410年間であるので、つじつまは合う。

これからすると、私の想像は間違っているのかも知れない。長兄が面倒を見ると言ったのをふり切って、仏教にあこがれて、次兄のいる寺に向かった可能性も考えられる。


左端が47代目当主・陳小順氏 その右が安田暎胤老師





2025年3月3日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(57)

玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)

玄奘という人が日本に縁の深い人であることを伝えたい気持ちで、このことを紹介したい。日本の二番目の正史(青史)である『続日本紀』は、大和朝廷の行政日誌の感がある。『日本書紀』が神話を含めて文学的な香りがするのに比べると、淡々と事実だけを記していて、あまり面白い書物とはいえない。しかしそれゆえに、史書としての評価は極めて高い。

この書物の初めの頃の箇所に、玄奘三蔵から直接指導を受けた「道照和尚・どうしょうわじょう」のことが記されている。冷静で淡々とした書きっぷりの『続日本紀』の中で、この道照和尚の箇所は筆者(記録官)の心の高ぶりのようなものが感じられる。この道照和尚の死去が、当時の日本人にとって、とても大きな悲しみであったことが推測される。以下は『続日本紀』からの抜粋である。


文武天皇四年(700)三月十日 道照和尚が物化(ぶっか・死去)した。天皇はそれを大へん惜しんで、使いを遣わして弔い物を賜った。和尚は河内(かわち)国丹比(たじひ)郡の人である。俗姓は船連(ふねのむらじ)、父は少錦下(しょうきんげ・従五位下相当)の恵釈(えさか)である。ある時、弟子がその人となりを試そうと思い、ひそかに和尚の便器に穴をあけておいた。そのため穴から漏れて寝具をよごした。和尚は微笑んで、「いたずら小僧が人の寝床をよごしたな」と言っただけで一言の文句もいわなかった。

孝徳天皇の白雉四年(653)に遣唐使(第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、三蔵は次のように言った。「私が昔、西域を旅したとき道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べて気力が日々すこやかになった。お前こそあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」と。

その後、道照が帰朝するとき、別れ際に三蔵は、所持した舎利(しゃり・釈迦の骨)と経綸を和尚に授けた。また一つの鍋を和尚に授けて言った。「これは私が西域から持ち帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いるといつも霊験があった」と。そこで和尚はつつしんで礼を述べ、涙を流して別れた。

(中略)

あるとき、にわかに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き居間に入ると、和尚は縄床(じょうしょう・縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息が絶えていた。弟子たちは遺言に従って栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。天下の火葬はこれからはじまった。火葬が終わったあと、親族と弟子とが争って和尚の骨を取り集めようとすると、にわかにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、どこに行ったかわからなくなった。人々はふしぎがった。

以上は『続日本紀』の記述である。


第二次遣唐使(653)の第一船(121人乗り組み)に乗ったのが、この道照(24歳)と中臣鎌足の長男・定恵(じょうえ・10歳)そして、「日本一の外交官」として以前このコーナーで紹介した粟田真人(あわたのまひと・8歳)である。第二船(120人乗り組み)は難破して5人を除く全員が死亡している。

道照は年長者で学問も進んでいたからであろう、玄奘三蔵に直接指導を受けている。鎌足の長男・定恵は、玄奘の弟子の神泰法師に教えを受けている。『続日本紀』は「玄奘は道照を同じ部屋に住まわせた」と書いているが、薬師寺長老の安田暎胤老師はその著書に、「自分の近くの房に住まわせるように命じた」と書いておられる。常識的に考えると、後者が事実のような気がする。






2025年2月25日火曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(2)

 シルクロードのものがたり(56)

日本にある玄奘三蔵のご頂骨(ちょうこつ・頭の骨)

昭和17年12月23日、南京に駐屯していた日本陸軍の高森部隊によって、玄奘三蔵の頂骨が発見された。部隊長の高森隆介中佐(18年に大佐に昇進)は、この場所に稲荷神社を建設しようとして、小高い丘陵を工事していて石棺に出会った。石棺には文字が刻まれていた。

「宋の天聖5年(1027)に玄奘三蔵の頂骨は演化大師とその弟子たちによって長安から南京に運ばれ、2月5日の命日に天憘寺の東の岡に葬られた。その後、明の洪武19年(1386)に寺の南側に遷された」と。(写真参照)

世が乱れると、中国では皇帝の御陵でも盗掘される。この危険をさけて遷されたものと考えられる。石棺の中にはまさしく頂骨が安置され、仏像・銀錫の箱・銅や陶器の仏具・珠玉・唐宋明代の古銭が納められていた。

昭和18年2月23日、日本政府は、これらのすべてを時の南京政府(汪兆銘政権)に返還した。南京政府は感激して、その奉還式典を盛大に催し南京城内に安置した。昭和19年10月10日に、南京郊外の玄武山に塔を建築して落慶式が行われた。式典には日本側から重光葵(まもる)大使や日本仏教界会長の倉持秀峰師・水野梅暁師が参列した。式典に参列した日本側に対し、中国側から日本への分骨の提案がなされた。「法師は仏教東漸史上の大恩人である。中日両国の仏教徒はこれを祭り、永遠に法師の遺徳を尊ぶべし」との宣言を行って、このご頂骨は倉持代表に手渡された。

このような経緯で日本に奉持帰国したのは、昭和19年10月の下旬であった。日本仏教会の本部(東京の芝増上寺内)では空襲の被害を受ける可能性が高い。当時仏教会の事業部長であった大島見道師の寺が埼玉県の岩槻にあり、寺名を慈恩寺(じおんじ)という。長安の大慈恩寺と同じ名前であり、しかも慈覚大師円仁が、長安の大慈恩寺と景観が似ているといったことから寺名がつけられたという由来がある。ここがふさわしいと衆議一決し、昭和19年12月23日(発見された同月日)に上野の寛永寺で盛大な法要をして、慈恩寺に奉安された。そして終戦をむかえる。

ところが、ある問題が提起される。正式に中国政府より贈呈されたとはいえ、戦時中のことであり、それを日本に持ち帰ったことになる。現在の中国の政権(蒋介石政権)に確認すべきではないかとの意見が出たのである。このご頂骨を受けてきた水野梅暁氏には、蒋介石主席と親交のある中国人の知己がいた。この人を経由して蒋介石主席の意向を打診してもらうことにした。

すると昭和21年12月23日、ご頂骨奉迎2周年の式典法要を営んでいた所に、中国外交部長(外務大臣)の謝南光氏が、わざわざ蒋介石主席の返事を持って日本まで来られた。その内容は、「ご頂骨の返還はしなくてよい。広く顕彰することはむしろ喜ばしいことである」とのことであった。


太平洋戦争末期から終戦にかけての混乱の中で、日本政府と日本陸軍のとった対応はみごとである。同時に、これに対する汪兆銘政権・蒋介石政権の対応も共に立派であったと感激している。


石棺に刻まれていた碑文




2025年2月17日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう

 シルクロードのものがたり(55)

玄奘三蔵とはどんな人だったのか?

『大唐大慈恩寺(じおんじ)三蔵法師伝』など何冊かの伝記を読みながら、玄奘三蔵とはどのような人だったか想像している。

「大柄で背が高く身体が丈夫。色白で肌はやや赤みをおびたハンサムな人」と記録にある。「人と話すときは相手の目をまっすぐ見て、純粋な人という印象を与えた。話し方はゆっくりと明瞭で、無駄な言葉はなく物静かな人」、「聡明で兄弟仲が良く、明るく親切で優しい人」、「意志が強く行動力があり、語学の才があった。サンスクリット語を含め西域各地の言葉を短期間でおぼえた」、このような記述も残されている。

行動力があるということは、慎重すぎる人ではなかったということだ。言葉を変えれば、多少は軽はずみなところもあった人かと思える。幾多の困難と数えきれないほどの身の危険にも遭遇している。ところが、不思議なことに、絶体絶命の窮地に達するたびに、突然目の前に彼を助けてくれる人が現れる。人は風貌から受ける印象で相手の人物を察知するという。玄奘という人は、初対面の人を惹きつける磁石のような強い魅力を備えていたように思える。

日本の幕末の志士にたとえると、坂本龍馬が私の持つ玄奘のイメージに一番近い。西郷隆盛をもうすこしハンサムにした感じか。私が一番好きな幕末の志士は高杉晋作だが、玄奘のイメージからは遠い。現在の日本人だと、大谷翔平選手をいま少し知的にした感じかな。このように想像している。


玄奘三蔵については、私以上に研究され、多くの知識を持っておられる方が多いと思う。自分なりにこの人を理解して、文章にまとめたいと考えているのだが、「群盲象を評す」の言葉が自分に迫ってくる。象の長い鼻にさわって、あるいはそのシッポに触れて、「これが象ですよ」と述べる箇所があるやも知れない。

じつは私は、小学校にあがる前から玄奘三蔵という名のお坊さまのことを知っていた。といっても、私は寺の子ではない。私の先祖には長寿者が多いのだが、祖父・田頭佐市だけは残念なことに、昭和19年に50歳で亡くなった。村にある曹洞宗の寺・法運寺の住職さまが祖父と仲が良く、頻繁に我が家に来られ祖父の供養をしてくださっていた。「のぶちゃんも一緒にやれ。爺さまの供養になる」と言われて、字も知らないときから和尚様の口元を見ながら、もぐもぐと「般若心経」のまねごとを唱えていたような記憶がある。祖父の思い出話を聞かせてくださったあと、道元さま、玄奘さまの話をしてくださっていた。

「玄奘三蔵のあとを思うべし!」と言うのがこの和尚さまの口癖だった。子供の私にはその意味が分からなかったが、これが『正法眼蔵随聞記』の中にある言葉だと、大学生になって知った。


及川政志という有名な建築家がおられる。画もたくみな人だ。早稲田大学の建築科を出られた方で、私とは高校も大学も異なるのだが、武蔵小金井の金光教東京寮という所で同じ釜の飯を食った間柄である。私は大学1年生の時から、1年先輩のこの人に兄事してきた。それから半世紀、現在でも指導していただいている。ありがたいことだ。「万巻の書を読み万里の道を征く」という言葉がある。及川さんのような人をいうのであろう。

4年ほど前だったか、夕食をご一緒した時「旅行で高昌国に行ってきたよ!」とスケッチブックを見せてくださった。今回この及川さんにお願いして、そのスケッチに色を付けてもらい、この「シルクロードのものがたり」に使わせていただくことにした。


トルファンの玄奘三蔵像 画 及川政志氏 



2025年2月13日木曜日

”砂漠の船” ラクダとロバと馬(3)

 シルクロードのものがたり(54)

ロバの話

私自身、馬についての知識は少ない。よって馬についてはここでは触れず、書物によって私が知ったロバの話しをしたい。


我々日本人はロバという動物にはなじみが少ない。日本の昔話にロバが登場する話は聞かない。かたや、中国の昔話にはこのロバは頻繁に登場する。有名な『枕中記・ちんちゅうき』に登場する蘆(ろ)という青年が乗っていたのはロバであろう。アジアの乾燥地帯においては、ロバという動物は古来から現在に至るまで、人の役に立つ超重要な動物らしい。

ブライアン・フィガンという英国人の著書『人類と家畜の世界史』の中に、次のように記されている。「ロバは人間と共に8000年以上働いてきた。馬やラクダよりもロバが家畜化されたほうが古い。東地中海地域では、人を輸送する手段として馬とラクダが登場するまでは唯一ロバを使っていた」

とはいうものの、ロバは歴史の中でつねに目立たない役割を演じてきた。「トボトボと歩く」と表現すれば、それは馬ではなくロバだと想像できる。さっそうと走る馬にくらべると、ロバという動物はいかにも地味な感じがする。

人類がいつどこで、ロバを家畜化したのかははっきりとは判っていない。ただBC6000年頃にはサハラ砂漠南部の人たちがロバを家畜として使っていた、というのがその方面の研究者たちの常識らしい。

BC2350年頃のエジプト第六王朝の宰相であったメレルカは、王様以上の権力を持っていたといわれる。この人の墓から出土した石の壁画には、10頭近くのロバを誘導する男の姿が描かれている。エジプトではBC4000年頃にはすでにロバを家畜として使用していた。古い歴史書の中にも、「エジプト人はロバの隊商を使って沙漠の鉱山に到着した」とか、「アッシリアからアナトリアまで、黒いロバが錫(すず)を運んだ」などの記述がある。

また古代エジプトでは、裕福な庶民であるロバの所有者が、一ヶ月二ヶ月単位でロバを貸し出してその代金を受け取り、これが儲かる商売であったとパピルスに記録されているという。今日でいえばレンタカーの貸出業者と同じである。

ロバは足取りが軽く、牛よりも速く歩く。起伏のある荒地ではとりわけ速い。馬にくらべるとスピードは劣るが耐久力に優れ、小さな体で馬と同じくらい100キロの荷を運ぶ。余談だが、ロバのおすと馬のめすが交配すると、ラバという強くて賢い動物が生まれる。

NHK取材班に同行した陳舜臣は、自分が見たロバのことを次のように語っている。

ロバが引く一輪車もあった。何度も見ているうちに、一つの発見をした。ラクダや馬の荷車を引く人たちは、歩いたりあるいは荷台の上から鞭をならしながら進んでいくのだが、ロバの上の人たちはなぜか、ほとんど眠りこけているのだ。中国側の魏(ぎ)さんが笑いながら説明してくれた。「ロバは賢いので自分の主人が眠っていても、いつも通い慣れた道を覚えていて、目的地まで運んでくれます。家に着いても荷車の上で朝まで寝ていた人もいるという笑い話もあります」


ロバ