シルクロードのものがたり(87)
旅の8日目、この日の夕方のフライトでウルムチから上海に移動する予定だ。朝一番でウルムチ中心部にある紅山(こうざん)公園に向かう。紅山は標高934メートルだというが、ウルムチ市街地の海抜が700メートルだから、我々の感覚では200メートル少々の小山に登るといった感じだ。ここからウルムチ市街地が一望でき、遠くは天山山脈が遠望できるという。
150メートルほどはバスで登る。広場があり、地元の人たちが太極拳をしている。広場から頂上までの50メートルほどは徒歩で移動する。朝の空気がすがすがしく、とても気持ちが良い。道教の寺らしき建物が見える。
頂上に着くと大きな石像が建っている。近くに寄ってみると林則徐の像だ。
アヘン戦争に敗北した清国は、南京条約により香港を英国に割譲する。欽差大臣(きんさだいじん・特命担当大臣)としてアヘン問題処理の最高責任者であった林則徐は、アヘン戦争が決着する南京条約が結ばれる以前に、新疆に左遷されている。
林則徐が対応に失敗したからではない。英国側の艦砲射撃や英陸兵の上陸作戦に恐れをなした北京の皇帝側近の高級役人たちが、対英強硬策を採る林則徐を批判して、彼の更迭を皇帝に進言した。皇帝・道光帝は弱気になって変心し、林則徐を解任して琦善(きぜん)という男を新たに任命した。琦善は広東に着くや、林則徐のやったことをことごとくひっくりかえした。すなわち、林則徐ははしごを外されたのである。
アヘン戦争の経過を語るのがこの小文の目的ではない。しかし、あの時、英国に怯えることなく林則徐の方針の下で清国が徹底的に対英抗戦を続けていたら、清国は英国に勝利したのは間違いないと私は考えている。
国の外交にとって、相手国との交渉よりも、自国内の一致団結がなによりも重要であることを、このアヘン戦争は日本人に教えてくれた。高杉晋作をはじめとする明治維新直前の日本人は、これを他山の石とした。そして日本は西欧列強の植民地になることから免れた。しかし、現在の日本で気になることがある。新たに就任した女性の内閣総理大臣の政策や言動に対して、以前の男性の内閣総理大臣が批判めいた発言を繰り返している。これは国家にとって害多くして、益は一つもない。怪しからぬことである。自分が男を下げるだけだ。おおいに慎んでもらいたい。
林則徐が左遷された場所は、ウルムチよりさらに600キロ西方のイリ(イーニン・伊寧)である。ロシア(現在はカザフスタン)との国境の地だ。彼はウルムチを経由してイリに入っているが、この間の移動に16日間を要している。現在の新疆ウイグル自治区の首府はウルムチだが、清朝末期においてはイリが新疆ウイグル地域の中心都市であったようだ。
林則徐のアヘン問題処理での果断な実行力には大きな拍手を送りたい。同時に、この辺境の地イリでの善政にも目を見張るものがある。特に水利事業に力を入れ、農業生産を飛躍的に向上させている。具体的には河川から農地への水路を数多く建設し、同時にトルファンで紹介した「カレーズ」(地下水路)を大量に造らせている。先に述べたように、カレーズは林則徐が発明したものではないが、イリ地方の人々は現在でもこれを、林公井(リンコンチン)と呼んでいるそうだ。林則徐の政治姿勢は、外敵・英国に対しては「タカ派」であり、自国住民に対しては「ハト派」であったように見える。立派な人物である。
林則徐の娘婿に沈葆偵(しん・ほてい)という人がいる。この人は明治7年(1897)、明治4年に起きた宮古島の島民が台湾に漂着して原住民に殺害された事件の解決にあたった清国側の代表者である。義父と同じく欽差大臣(台湾問題担当)として対応した。ちなみに、このときの日本側の代表者は大久保利通であった。
この人にかぎらず、林則徐の子孫で、外交官・政治家・大学教授として活躍し、中国史に名を残した人物は10指にのぼる、と作家の陳舜臣は語っている。ご先祖の遺徳であろうか。
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| 林則徐の像 |
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| 紅山の山頂から見たウルムチ市街 |
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| 紅山公園の山頂のお堂 |

























