シルクロードのものがたり(60)
東奔西走、中国各地への旅(1)
シルクロードを往復してインドで勉強した玄奘は、16年という長期間の旅をした人である。ところが、インドに向けて出発するまでの修行の跡をたどっていて、私は仰天した。10代ー20代の若いころ、玄奘が「ほぼ中国大陸一周」ともいえる長い旅をしているのを知ったからだ。
添付の地図が、玄奘の若いころの足跡である。長江(揚子江)以南は、当時は化外(けがい)の地といわれていた。よってこれを外し、黄河と長江に囲まれた中国北部一帯をほぼ一周している。これには恐れ入った。師を求めての求道の旅であったであろうが、旅そのものが好きな人、だった気がしないでもない。足も丈夫だったのであろう。
そういえば、司馬遷もまた若いころ中国全土を歩き、その土地の古老たちから土地のいわれや伝説などを聞き取り調査をしている。「万巻の書を読み、万里の道を往く」という古い言葉がある。もしかしたら、司馬遷や玄奘三蔵を意識して使われ始められた言葉なのかも知れない。
洛陽の浄土寺での修業期間は5年程度と思われる。玄奘が16歳になった618年、隋は滅び唐の時代が始まる。しかし洛陽の町には暴徒がはびこり、殺人強盗が横行する。供料が断たれた多くの僧侶は生活に窮し離散した。陳兄弟も例外ではなかった。弟は兄に「一緒に長安に行きましょう」と提案し、すぐに実行した。
長安では荘厳寺にわらじを脱いだ。ところが長安の治安も期待したものではない。名僧の多くはすでに蜀の国(四川の成都)に移っていた。「ここで空しく時を過ごすより蜀に行って指導を受けましょう」と再度兄にすすめ、また二人して蜀に向かった。長安に滞在したのは数カ月に満たなかったと思える。
成都では空慧寺にわらじを脱ぐ。この地は肥沃な四川盆地の中心にあって、町は平穏で食料を含め物資は豊かである。名僧も多く、講座には数百人が集まるという盛況ぶりであった。
玄奘は寸暇を惜しんで学び、その精通ぶりは誰よりも抜きんでていた。兄の長捷も父に似て仏教のみならず老荘にも通じ、多くの人々に慕われた。20歳のとき、玄奘はこの成都で、僧侶としての高い資格を得るための具足戒(ぐそくかい)を受けている。玄奘が四川の成都を去り、長江(揚子江)を船で下るのは、21歳か22歳の時だと思われる。成都での修業期間は4-5年であった。
成都ではもう求めるものがなくなったと判断した玄奘は、「ふたたび長安に向かいたい」と兄に申し出る。成都で着々と地位を固めつつあった温厚な兄は、弟の昂(たかぶり)をなだめ、この地に留まることを説く。同時に寺には掟(おきて)があり、すぐには寺を離れることは出来ないことを諭した。ところが、これをふり切って玄奘は寺を脱出するのである。
この場面にもし、ヘッドハンターの田頭が同席していたら、私はお兄さんの肩を持ったような気がする。「玄奘さん、ウロウロと短期間で場所を変えないで、お兄さんのおっしゃるように、もう少し腰を据えてここで修業をなさるほうが良いと思います」と。ところが玄奘は、兄の意見に逆らって成都の空慧寺を出奔(しゅっぽん)するのである。
「親の意見を承知ですねて、曲がりくねった六区の風よ、つもり重ねた不幸のかずを、なんと詫びよかおふくろに、背中で泣いてる唐獅子牡丹」 このときの玄奘の兄に対する気持ちは、このようなものではなかったかと思う。しかし、歴史の結果を見れば、年長者の説教に逆らって寺を飛び出た、この時の若者の軽挙は成功であったといえる。
老ヘッドハンターの田頭は、若い候補者がひんぱんに転職しようとするのをたしなめることがある。私の考えが正しいのか、若者たちの考えが正しいのか、近頃自問している。
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10代―20代での玄奘の国内旅ルート |