2025年10月6日月曜日

【敦煌】白馬塔と梨の果樹園

 シルクロードのものがたり(71)

莫高窟での感激が大きかっただけに、直後の白馬塔見学は付け足しの気がして、さほど期待はしていなかった。ところが、この白馬塔見学は、今まで私の頭の中でモヤモヤしていたことの二つを、すっきりと解消してくれた。

余さんは次のように話してくれる。

「鳩摩羅什は亀茲国(きじこく・クチャ)から中国の中原に向かう途中、敦煌で何日か休息しました。ある夜、夢をみました。自分が今まで乗ってきた白馬が夢に出てきて言うのです。 ”私は今まであなたをお守りしてここまでたどり着きました。ここまで来ればもう安心です。私は自分のやるべき勤めをはたしました” そう言って白馬は消えてしまった。不安に思った鳩摩羅什は、すぐに厩舎(きゅうしゃ)にかけつけました。馬はすでに死んでいました。地元の人々もこれを悲しみ、白馬をここに埋葬して塔を建てました。その後、何度も改修され現在の塔は清代に造られたものです。直径7メートル、高さは12メートルです」

鳩摩羅什は自国の敗北後、将軍・呂光に捕らえられ中国に連行される。385年のことだ。皇帝・符堅(ふけん)から「高僧・鳩摩羅什を連れて帰れ」と命令されていたので、手荒な扱いはしていないと思ってはいたが、この話から、将軍・呂光が鳩摩羅什に対して礼を尽くして丁寧に対応していたことが確認でき、とても嬉しく思った。

「この白馬塔の周りを、男性は右まわりに女性は左まわりに、3回まわると願い事が叶うといわれています」と余さんが教えてくれる。ツアー仲間の多くは3回まわっていたが、距離もあり、しかも直射日光が暑い。私には特に願い事はないので、右まわりで1回だけまわった。

白馬塔の手前に回廊(かいろう)があり、朱色の柱が何本も立っていて、それぞれの柱に鳩摩羅什が翻訳した「般若心経」が漢字で書いてある。スマホで撮ったのだが、ハンドルミスで消えてしまった。玄奘の訳とはかなり異なる。冒頭部分の玄奘訳は「観自在菩薩・かんじざいぼさつ」とあるが、鳩摩羅什の訳は「観自音菩薩・かんじおんぼさつ」と書いてあった。

白馬塔の敷地のとなりに果樹園がある。青い実がいっぱい見える。熟す前のリンゴではないかと思った。余さんに聞くと、「梨です。このあたり一帯は梨の名産地です」と答えてくれる。これでひらめいた。「そうなんだ!」と私は一人で合点して、思わず笑みが浮かんだ。


というのは、玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)が残した言葉が真実だとわかったからだ。この話は『続日本紀・しょくにほんぎ』の最初あたりに記されている。文武天皇四年(700年)三月二十七日に道照が72歳で亡くなったときの、大和朝廷の行政日誌である。一部を引用する。

「道照は孝徳(こうとく)天皇の白雉四年(654年)に遣唐使(注・第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。『私が昔、西域に旅した時、道中飢えで苦しんだが、食を乞うところもなかった。そのとき突然一人の僧が現れ、手にもっていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。お前はあのとき私に梨を与えてくれた法師にそっくりである』と」

玄奘の天竺への旅で一番苦しかったのは、玉門関から伊吾国(イゴ・哈密の近く)の間であったと考えている。よって、この梨の話には合点がいく。別に疑ってはいなかったけれど、敦煌やトルファン(高昌国)あたりの果物は、ザクロ・葡萄・ハミウリなどが有名で、梨がよくできるとは思っていなかった。この梨の果樹園を見て、そして余さんの説明を聞いて、玄奘と道照の二人の高僧の言葉が真実であったと認識した。

この白馬塔でもバスの出発前にトイレ時間がある。早々とトイレをすませて、わきにある灰皿の前で余さんとおしゃべりをする。ここで余さんは、鳩摩羅什と玄奘の般若心経の違いを次のように解説してくれた。この二人の高僧の年齢差は268歳で、鳩摩羅什が先輩である。両者ともサンスクリット語を漢語に翻訳した。

「どちらが優れているかというのは難しい問題で、私にはわかりません。鳩摩羅什の父親はインドの王族で、母親は亀茲国(クチャ)の王様の妹です。9歳のときインド北部のカシミールに留学しています。よって彼はインド哲学を充分に理解した上で、サンスクリット文字の内容を正確に漢語に訳しています。これにくらべ、玄奘のものは、できるだけ中国人が理解しやすいようにと配慮して、かなり意訳されている、といわれています」

いってみれば、鳩摩羅什の般若心経は「直訳」で、玄奘のものは「意訳」ということらしい。我々日本人が日頃使っている般若心経は、すべて玄奘の訳したものである。玄奘の愛弟子である法相宗の道照からの流れであろう。中国では現在どちらの般若心経が使われているのかは聞きそびれたが、たぶん玄奘のものではないかと思う。

中華人民共和国が成立して以降、中国では仏教はすたれている私は思っていた。しかし、この余さんにしても、莫高窟研究員の王さんにしても、仕事柄とはいえ、仏教についての知識を豊富に持っておられたのには驚いた。

私が手に持っている小型バックの中に、たまたま般若心経を一枚入れてあるのを思い出した。それを取り出し、漢字で書かれた262文字の般若心経を余さんに見せた。

余さんは驚いた顔で、「日本人はこれが読めるのか?日本人はいつも般若心経を持ち歩いているのか?」と聞く。私は郷里の広島県に帰ると、仏壇で般若心経を何十年も唱えているのでだいた覚えている。「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーおんかいくう、、、、、」とそらで、三分の一ほど、このお経を唱えてみせた。

余さんはびっくり顔で、「すごい、すごい。日本人はみんな般若心経を暗唱しているのか?」と聞く。「そうですよ」と答えて、日本人の民度の高いことを誇示しようかとも思ったが、嘘はいけない。「いいえ。寺のお坊さま以外で般若心経を暗唱している人は、私みたいな変わり者だけですよ。普通の人はやりません」と答える。余さんはホッとしたような顔をしていた。

西安の高さん、敦煌の余さんとの会話の中で、数多く出た中国人の歴史上の人物の名前は、秦の始皇帝・漢の武帝・則天武后・張騫、そして僧では鳩摩羅什・玄奘であった。私の好きな李広・李陵、そして僧・法顕(ほっけん)の名前は出なかった。

余さんが、「現在、中国の高校の歴史の教科書で、唐代に出てくる日本人の名前は3人です」と教えてくれる。阿倍仲麻呂(晁衡)、吉備真備、空海だそうだ。これには納得できる。


白馬塔


敦煌の梨畑








2025年10月2日木曜日

【敦煌】莫高窟(ばっこうくつ)

 シルクロードのものがたり(70)

敦煌という文字には「おおいに盛んなり」という意味があるそうだ。砂漠の都なので昔から沙州(さしゅう)とも呼ばれている。

敦煌が前秦・符堅(ふけん)の支配下にあった西紀366年ごろ、西方から来た楽僔(らくそん)という僧が、鳴沙山の東の断崖に洞窟を掘り仏塑像(そぞう)を安置した。これが莫高窟美術のはじまりだという。この楽僔という人はインド人だったと思われる。

同じ頃、亀茲国(きじこく・庫車・クチャ)の若き高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)は符堅の部下の将軍・呂光の捕虜となり、この敦煌を経由して、武威(ぶい)・長安へと連行されている。この二人の異国の僧は西方から中国に仏教を伝えた。同じころ、私の大好きな中国人僧・法顕(ほっけん)は、長安を出発して敦煌を経由しシルクロードを西に進み、インドで仏教を学んだ。

この三人の僧が、どこかで出会ったということは史書には残されていない。多分出会ってはいないだろう。しかし、ほぼ同じ時期に、この三人の僧が敦煌の景色を見ながら敦煌の空気を吸ったことを想像すると、えもいえぬ感動が私の胸に湧いてくる。

その後、元の時代に至るまでの千年間、修行僧・仏師の手によって洞窟での仏教美術の制作が続けられ、現在でも492窟にその作品が残っている。西方のカシュガル(喀仕)・クチャ(庫車・亀茲国)・ホータン(和田)の仏教美術品はイスラム教徒によって徹底的に破壊された。それに比べ、この莫高窟の仏教美術品が残ったのは、この地が漢族・チベット族・蒙古族によって支配されイスラムの侵入を防いだからである。

しかし、この莫高窟にも文化財の破壊や持ち出しの苦難の時代があった。19世紀後半から20世紀前半にかけての、欧州列強の探検隊による発掘と文化財の持ち出しである。英国のオーレル・スタイン、仏国のポール・ペリオ、スエーデンのスウェン・ヘディンらが有名である。大谷探検隊という日本人の名前も出てくる。浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が指揮した探検隊である。

彼らは、この地に勝手に侵入して物品を奪い去ったというわけではない。清朝政府の了解のもとに、仏像や経典を管理する寺の住職に代価を払って購入している。ただ今日の感覚からすれば、弱体化した清朝政府の弱みにつけこみ、不当に安い代価をもって貴重な文化財を奪いとったという印象はぬぐえない。

ごく最近にも、敦煌・莫高窟の危機があった。文化大革命である。多数の紅衛兵がこの地に押し寄せて仏教遺跡を破壊しようとした。「紅衛兵を絶対に敦煌に入れるな」と人民解放軍に指示して、これを防いだのは宰相・周恩来だと聞いた。


男性ガイドの余さんが8つの洞窟を案内してくれる。わかりやすい説明で、それぞれの仏像や仏画も美しく感激する。ただし、この莫高窟内部はすべて写真撮影は禁止されている。特に美術価値の高い重要窟には昼間でも鍵がかかっていて、余さんは案内できない。

4つの重要窟を案内してくれたのは、敦煌研究院の研究員、王(おう)さんだ。王さんは35・6歳の美しい女性で、知的で人柄も良い。機転が利くというか、打てば響くといった感じの会話のやりとりが心地よい。「王さんは美人ですね。まるで楊貴妃みたいです」と私が言うと、睨み顔で「楊貴妃を見たこともないくせに!」と言って、あとでにっこりと笑う。

4つの重要窟を案内してもらった。その中の第45窟は、492窟あるなかで一番価値の高い最重要美術品だという。中央に釈迦の像があり、こちらから見て釈迦の左に弟子の阿難(あなん)、右に同じく弟子の迦葉(かしょう)の像が立っている。そのとなりには一体つ”つ、健康美あふれる菩薩像が立つ。その両外側には一体つ”つ、鬼を踏みつけている勇ましい武人の像が見える。盛唐を代表する第一級の塑像(そぞう)だそうだ。仏教美術に素人の私にも、これが素晴らしい作品だということがわかる。

「修復や、休館などで、この第45窟を見学するのはとても難しいのです。みなさんは幸運です」と王さんは言う。井上靖は、「第45窟を頂点とする唐代の諸像こそ、日本の白鳳・天平の仏たちの原流ではないかと思われる」と語っている。

王さんは中国の大学で歴史を専攻し、その後、東京の成城大学に留学したとおっしゃる。「王さん、私は敦煌がとても気に入りました。日本からここに移住して仏教修行をしようかと思います。その時は、週2-3回、王さんの助手で日本人観光客相手にガイドのアルバイトをしたいと思います」

こう言うと、「それは良い考えですね!」とにっこりと笑う。美人の王さんの写真を撮り忘れたのは、今回のシルクロード旅行での最大の不覚である。

莫高窟

莫高窟から見た外の景色
樹木はポプラ


ヨット部のS君は砂塵でくしゃみが出るらしい

2025年9月29日月曜日

【敦煌】敦煌のハミウリは旨い!

シルクロードのものがたり(69)

今回のツアーは少しだけ値段の高いものを選んだ。西安のホテルも立派で部屋も広い。一人一部屋なので快適だ。ホテルの朝食を含め、外のレストランでの昼食・夕食も美味しい。ただ食後にデザートとして出る、西瓜はそれなりに美味なのだが、ハミウリの味がよくない。

私にすれば唯一、これが面白くない。

日本から同行したベテラン添乗員のO女史にこれを言うと、「こんなもんじゃありませんか」と答える。そんなことはない。若い頃、香港で食べたハミウリはこんな味ではなかった。もっと美味しかった。しかも8月のツアーを選んだのは、ハミウリが一番旨い時期と知っての上だ。司馬遼太郎も陳舜臣も、あちこちに感激の気持ちを込めて「ハミウリの旨さ」を語っている。こんななさけないハミウリを食べて日本に帰ることになれば、私としては男が立たない。

私がハミウリに異常な執着心を持っているのを察したOさんは、助け舟を出してくれる。
「この前の仕事で敦煌に行ったとき、お客様を連れてバザールに行きました。ハミウリを売っている果物屋が数軒ありました。あそこに行けば美味しいハミウリがあるかも知れません」

親切な提案に感謝して、「よろしくお願いします」と答えたのだが、内心では大きな期待はしていなかった。「敦煌は中国の北西端に位置するが、中国本土である甘粛(かんしゅく)省にある。旨いハミウリは、やはり本場の新疆ウイグル自治区のトルファン・ウルムチに行かなければ食べることができないのではないか」と勝手に想像していた。


砂漠見物のあと外のレストランで夕食を終え、ホテルにチェックインする。敦煌のホテルも立派だ。各人は部屋でシャワーを浴び、ほぼ全員でホテルから徒歩5分のバザールに向かったのは夜の10時を過ぎていた。でも、敦煌の夏の日没は夜9時過ぎなので、「これからが涼しいバザールのはじまり」といった感じで、観光客の数がとても多い。300ほどの店が並び大変な賑わいだ。

入り口から4-5軒目に大きな果物屋がある。ここで買おうと思ったが、余さんが、「そんなにセカセカしないで、全体を一回り見物したあとでいいのでは」と言う。もっともだと思い、40分ほど数軒の果物屋を含めてバザール全体を見て歩く。

結局、最初の果物屋で買うことにする。一番大きいよく熟した8キロのハミウリを、Oさんに交渉してもらい75元で買う。1500円だから安いものだ。果物屋の主人はその場で切って、大型のプラスチック容器2つに山盛りにして、竹の串を10本つ"つ付けてくれる。容器に入りきらない10片ほどはここで食ってくれと言う。

その場に居合わせた仲間数人で、2切れつ”つ立ったまま食べる。素晴らしく旨い。「旨い!旨い!」の歓声がみんなからあがる。容器一つでも我々3人で食べきるのはむずかしい。「ほかの方々にも食べてもらってください」ともう一つの容器を添乗員のOさんに渡す。

ホテルに戻ると、果物屋に寄らなかったツアー仲間の数人が、ロビーに座って休んでいる。その場で食べてもらった。「旨い!旨い!」と皆さん大変喜んでくださる。
この美味しいハミウリとの出会いで、私は敦煌がいっぺんに好きになってしまった。

これに味をしめて、「トルファンでもウルムチでもハミウリを丸ごと買って食べるぞ!」と意気込んでいたのだが、いずれの地でも、食後に出るハミウリが大量でしかも美味しい。丸ごとハミウリの購入は敦煌だけで終わった。

敦煌のハミウリ

果物屋のご主人


仲良しになった

果物は豊富だ

パパイアもある

ロビーで仲間の皆様に食べてもらった

2025年9月26日金曜日

【敦煌】鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっかせん)

 シルクロードのものがたり(68)

西安から敦煌までの飛行は2時間弱だが、出発が少し遅れたので、敦煌空港に着いたのは午後3時を過ぎていた。迎えのバスですぐに鳴沙山に向かう。日没は夜の9時ごろなので時間は充分ある。驚いたのは、空港を出てバスに乗ろうとしたら雨が降っている。パラパラであるが、敦煌の雨は珍しい。20分ほどでやんだ。

鳴沙山は、東西40キロ、南北20キロの砂漠のはしっこにある。空港から15分ぐらいでずいぶん近い。あまりにも突然、「月の砂漠をはるばると、、、」の世界が眼前に現れたのでびっくりする。

月牙泉は鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉(オアシス)で、漢の時代から今に至るまで一度も枯れたことがないという。縦200メートル、幅は広いところで50メートル、深さは平均5メートルだそうだ。「魚もいるよ」とガイドさんが言う。

敦煌でのガイドは余(よ)さんという漢人で、48歳の男性だ。大柄でゆったりとした言動の人で、中国の「大人・たいじん」といった雰囲気の人だ。余さんとはすぐに仲良しになる。共に喫煙者だということに理由がある。今回中国を旅行して驚いたのは、飛行機・新幹線に乗るたびに危険物ということでライターを取り上げられた。とても厳重にチェックをする。

よって、次の町に着くと同時に「ライターはどこで買えるの?」とガイドさんに聞くことになる。空港を出て余さんにこれを聞く。余さんはポケットからライターを取り出し、「これをやるよ」と言う。西安で買い物をしておつりをもらっていたので、10元札が数枚ある。一枚を渡そうとすると、「いいよ、いいよ。カバンの中にもう1個あるから」と笑って受け取らない。「謝謝、謝謝!」と二度言って頭をペコリとさげる。これで二人の間には、一種の友情らしき感情が芽生える。

喫煙者は世界中どこでも、軽蔑され虐げられていて、絶滅寸前の少数人種になりつつある。タバコを吸うというだけで、お互いが親近感を持つということがどの国でもあるようだ。種の保存という動物の本能が、互いに助け合おうという気持ちにさせるのであろうか。


中国のどこの観光地でも、バスを降りたあと入園・入館のゲートで顔写真を撮り、ものものしくチェックする。そこから目的の地点まで数百メートル、1-2キロの距離があることが多い。昔は歩いたようだが、今は電動のカートで移動する。15-20人が乗れ運転手もいる。この鳴沙山観光もそのスタイルだ。オレンジ色の綿製品の靴カバーを余さんがみんなに配っている。25元のレンタルで、靴の中に砂が入らないようにこれで靴を覆う。

鳴沙山は60-70メートルの高さで、登りやすいように、ワイヤーと木板で簡易階段がつくられている。みんなが一列になって、ワッセ・ワッセと登っている。楽ではないが、今年の4月からスポーツジムで体を鍛えているのでそれほど辛くはない。

頂上に到着すると、微風が吹いてとても涼しい。見晴らしも良く、月牙泉の泉の周辺だけにある樹木の緑が、砂だらけの景色の中でひときわ美しく見える。玄奘だけではない。古来から何千年のあいだシルクロードの砂漠をラクダと共に歩いた旅人たちが、目的地のオアシスにたどり着き、緑輝く樹木を見たときの感激がどれほどのものであったか、想像できる。

砂だらけの鳴沙山を降りるとき、砂の中にスマホが落ちているのを見つけた。古いものではない。今日か昨日の落し物らしい。中国語の画面が見える。山から下りて余さんに渡した。「ほう、良いことをしましたね。落とした人は喜ぶでしょう」そう言って、余さんは管理事務所に届けた。

砂山から降りて、ラクダに乗ろうと思った。100元(二千円)払えば30分ほど乗せてくれる。ところが、「今年から65歳以上の人は乗れないという規則ができた」と余さんが言う。なんでも、今年の春ごろ北京から来た60代後半の男性観光客が、ラクダから落ちて大怪我をしたのだという。「田頭さんは若く見えるから64歳と言ってもよいのだが、パスポートを見せろというから無理だな」と言う。

若い頃、タイで象に乗ったことがある。今回ラクダに乗るのを楽しみにしていたので、誠に残念であった。

敦煌の砂漠にも楊貴妃が何人もいた




お揃いの靴カバーをして砂山に登る

左の三日月形が月牙泉

ラクダには乗れなかった


2025年9月24日水曜日

【西安】西大門

シルクロードのものがたり(67)

 西安に2泊して8月25日(月曜)、12時25分発の飛行機で敦煌に向かう予定だ。西安・敦煌・ウルムチは同じホテルに2泊、トルファンと最終日の上海は1泊だ。同じホテルに連泊するのは、何かにつけて便利で好都合だ。手洗いした下着や靴下がよく乾いて気分が良い。

西安の町の花はザクロ、木はアカシアだと聞く。これからしても、ここが乾燥した土地であることがわかる。中心部の人口は800万人、郊外を含めると1300万人というから大きな町だ。地形は地図でわかる通り盆地である。盆地だが海抜400-700メートルで乾燥しているので、東京や上海の蒸し暑さに慣れている我々には、かなり涼しく感じる。

飛行機の出発までには時間があるので、バスで最後の見学地である西大門に向かう。ここがシルクロードへの出発点である。

唐の時代、西域に向かう軍人・役人・商人たちを見送るために、家族や友人は西安から40キロ北西にある咸陽まで同行するのが慣習だったそうだ。歩いていくのは大変だな、と思ったが、旅人の多くは上級の軍人・役人・富豪の商人だったので、家族や友人たちもいわば富裕層である。馬車や馬で移動したようだ。

彼らは咸陽に一泊か二泊して、酒盛りをして旅人を見送る。咸陽は渭城(いじょう)ともいう。王維の「渭城の朝雨 軽塵を浥し」のあの渭城である。この「元二の安西に使いするを送る」の詩のはなしは、以前このブログのどこかで一度紹介している。機会があれば、どこかでもう一度整理・加筆してこれをお話ししたいと考えている。この詩を深く掘り下げて考えると、中国・日本の古代史が理解しやすい気がする。


高さんに案内され、西門の城壁に登る。城壁の上は思っていた以上に幅が広く、しかも頑強に造られている。れんがと石でできた現在のものは、明の洪武帝の頃(1370年頃)に築かれ、その後しばしば修復されているそうだ。

「少し傾いているのがわかりますか?」と高さんが聞く。言われてみれば、そうかなと感じる。雨が少ない土地なので、ほんの少し傾斜をつけておき、降った貴重な雨水を城壁の内側に流れるようにしている。あとで写真を見ると、たしかに右側に排水溝が見える。

守備隊の兵士は何百メートルかごとに複数名配置され、昼夜を問わず見張りを続けたという。兵士が宿泊するための巨大な宿舎が城門の上に造られている。将校の宿舎は近くに別棟がある。次の交代者が来るまで、将兵はこの城門の上で何か月も生活したようである。

西大門の見学を終え、バスで空港に向かう。空港内にある韓国料理店でビビンバとキムチを食べるが、これがとても美味しい。

右側が少し傾いていて排水溝が見える


兵士の宿舎
将校の宿舎は写真の左後にある

西大門 
画 及川政志氏

2025年9月18日木曜日

【西安】大慈恩寺・大雁塔と青龍寺

 シルクロードのものがたり(66)

咸陽で兵馬俑を見学したあと、ふたたびバスで西安市に戻り、西安中心部にある大慈恩寺(だいじおんじ)に向かう。

もとは隋代に建立された寺だが、隋末期の戦乱で焼失したあと、唐の三代皇帝・高宗が母親の文徳皇后を供養するために再建したという。647年のことだ。

玄奘が密出国から16年を経てインドから大量の経典を長安に持ち帰ったのは645年、二代皇帝・太宗の晩年である。日本では大化改新の年だ。当初、玄奘は浩福寺という寺で翻訳事業を開始したが、この事業の拠点は完成したばかりのこの大慈恩寺に移された。その後、高宗の肝いりで、大量のサンスクリット語の経典や仏像を保存するために建てられたのが大雁塔(だいがんとう)である。唐代、この寺の敷地は現在の7倍の広さだったという。

大雁塔は64メートルの高さで、てっぺんまで登れば西安市を一望できるとガイドの高さんは言う。唐代に建立されたものはインド風の丸型の五層の仏塔だったが、明代に現在の姿の四角七層に造り直されたとも教えてくれる。

陸上部のY君とヨット部のS君は共に健脚だ。てっぺんまで登るという。私は足がだるかったので、「二人を下から仰ぎ見ているよ」と言って、木陰にある喫煙所でタバコを吸いながら二人が降りてくるのを待った。それでもこの夜スマホを覗いたら、この日、2万歩あるいていた。

そのあと、近くの青龍寺にバスで移動する。

空海ゆかりの寺である。

空海は師匠の恵果(えか)から、短期間で密教の秘法を伝授された。恵果が何十人もの中国人の高弟子たちを飛び越えて、空海を自分の後継者に決める感動的なものがたりを肌で感じるには、司馬遼太郎の『空海の風景』を読むのが一番早い。805年のことである。

じつは、天台三代座主・円仁(えんにん)も五代座主・円珍(えんちん)も、この青龍寺で学んでいる。円仁がここで学んだのは840年頃で、空海はその5年前に高野山で没している。円珍は四国の讃岐の豪族・佐伯氏の生まれである。空海の甥(おい)、もしくは姪(めい)の息子といわれている。円珍という人は面白い人で、親戚である空海の高野山に赴かず、そのライバル最澄の比叡山に学んでいる。いわば福沢諭吉の甥が慶応にいかないで早稲田で勉強したようなものだ。円珍がここで学んだのは850年ごろである。

円仁・円珍がこの青龍寺に来山したとき、恵果から空海と一緒に教えを受けた中国人僧は、すでに老僧となっていたが、まだ何人もこの寺に残っていた。二人の日本人僧は、空海の伝説的な成功物語を、空海を直接見た青龍寺の中国人の老僧から聞いたにちがいない。

じつはこの青龍寺は千年間近く、廃墟となり地上から消えていた。唐末期から宋代にかけて、中国では仏教は衰退していく。円仁・円珍の入唐のころから廃仏運動のきざしがあり、その後この運動は長く続いた。北宋の元佑元年(西紀1086)以降、この寺は次第に荒廃し、ついに仏閣は地上から消えてしまった。

この青龍寺が再度建立されたのは、じつに、1980年代に入ってからである。仏閣と同時に恵果・空海記念堂が建立され、また空海記念碑が造られた。「これらの費用の多くを、日本の四国の八十八のお寺さんが寄進してくださったのです」と高さんが教えてくれる。高野山金剛峰寺も多額の寄進をしたに違いない。西安市と四国四県は現在でも定期的な交流が行われているそうだ。

このような背景から、青龍寺では日本人にとても親切にしてくださる。我々もお茶をご馳走になり、「参拝弘法大師修行古刹・青龍寺」と書いた御朱印をプレゼントしていただいた。日本で使っている仏閣用の朱印帳を持参していたので、開いてお願いしたら、達筆で「青龍寺」と書いてくださった。こちらには、日本と同じくらい500円程度お礼をした。

両方に「第0番札所」の朱印が押してある。四国八十八ヶ所、第一番札所である阿波・霊山寺(りょうぜんじ)の前の寺という意味らしい。

青龍寺にかぎらず、新疆ウイグル自治区を含め、中国の観光地のあちこちで、唐代の貴婦人の格好をした若い女性に数多く出会った。コスプレというのか。邦貨で二千円程度払うと、唐代貴婦人の衣装を着せて厚化粧をしてくれる。それをボーイフレンドや親たちが嬉しそうにスマホで撮っている。商売人がビジネスで行っているのだが、その背後には、過去の中国の栄光の歴史を国民に認識させたいとの、政府の意図があるようにも感じた。良いことだと思う。

楊貴妃に似た女性がいたら一枚撮ろうとキョロキョロするのだが、なかなか見当たらない。青龍寺を出る直前に、はつらつとした感じの良い若い女性がいたので、あわててスマホのボタンを押した。あとで拡大して見ると、楊貴妃とは少し違うような気がする。ヨット部のS君が撮ったのは、熟女の楊貴妃のようだ。



大慈恩寺の大雁塔


青龍寺


楊貴妃スタイルのお嬢さん

恵果から後継者に指名される空海



熟女の楊貴妃







右が日本からの添乗員のOさん、左が西安でのガイド高さん
中央の二人が長野県から参加の82歳と84歳の女性
お二人の健脚ぶりには恐れ入った

2025年9月17日水曜日

【西安】唐歌舞ショー・則天武后

シルクロードのものがたり(65)

朝、ホテルから兵馬俑へ移動するバスの中で、ガイドの高さんがみんなに質問する。

「昔日本には、女性の天皇が何人もおられました。中国では女性の皇帝は一人しかいません。さて誰でしょうか?」

そんなの簡単だ。「則天武后でーす」と大声で答える。

「ほう、良くできました!」と褒めてくれる。いつもは、あちこちで歴史のうんちくをひけらかして、家族や身近の人たちからひんしゅくを買っているのだが、ここでは、先生に褒められた小学校の優等生のような格好になった。

「今夜、西安第一の劇場で則天武后を主人公にした唐歌舞(かぶ・うたまい)のショーがあります。一人260元です。希望する方は私に言ってください」日本円で五-六千円だ。小学校の優等生の立場でもあるし、以前ブログの「日本一の外交官・粟田真人」を書くとき、則天武后のことは少し調べて知識もあったので興味を持ち、すぐに申し込みをした。グループ10人のうち6-7人が参加された。この観劇に参加したのは正解だった。

午前の兵馬俑、午後の大慈恩寺・青龍寺を見学したあと、西安名物の餃子料理を食べ、この唐歌舞ショーに向かう。ちなみに西安の餃子は数種類出たががすべて「蒸し餃子」で、我々の感覚からすれば「シュウマイ」「香港の点心」といった感じがする。とても美味しい。


日本でいうと歌舞伎座と宝塚劇場を合わせたような、本格的な劇場だ。我々は外のレストランで食事を終えていたので、うしろの席で見物する。前のほうの席は食事やお酒を楽しみながら見物するスタイルで、欧米人の客が多い。一番前の席で飲食しながらショーを観ると、一人五万円とか十万円ぐらいかかるのではあるまいか。唐代の長安には歌舞を鑑賞しながら食事をとる劇場がいくつもあったらしい。この劇場はそれを再現したものだという。

この歌舞ショーはひと言でいえば、則天武后の一代記を踊りと歌で表現したものだ。則天武后には頭の良い娘がいて、母の死後、この娘が母親の一代記を書きそれが残っている。これをベースに脚本した歌舞だと高さんが教えてくれる。

役者は中国語でしゃべり、遠くに英語の字幕が出る。私はある程度の予備知識があったので、だいたいの流れは理解できたが、外国人にとってこの劇の内容を把握するのはむずかしい。それでも、きらびやかな衣装での舞と、豪華な舞台装置なので、意味がわからなくても充分楽しめる。

則天武后は、「中国史上最大の権力者」「英知・残虐性とも超弩級」「呂后・西太后をしのぐ中国三大悪女の筆頭」と言われている。同時に、「知性あふれる絶世の美女」との伝承もある。

その一代記をここで語るには紙面が足りない。よって、ほんのさわりだけを紹介する。

14歳のとき、二代・太宗の妃(きさき)として後宮に入り太宗の寵愛を受ける。太宗の病が重くなると看護した皇太子(のちの三代・高宗)に一目惚れされる。太宗の死後、高宗の妃となり皇后を蹴落して自分が皇后の地位につく。父の妃を息子がいきなり自分の妃にすることは儒教のおきてに背く。よって一年間仏門に入り尼となる。ただし、この寺は宮廷内にあったようで、喪が明ける以前から、二人はこっそりとあいびきを重ねていたに違いない、と私はにらんでいる。夫の高宗が亡くなったあとは、普通は皇太后となり息子に皇帝の地位を譲るのだが、彼女は息子たちを殺して自分が皇帝になる。そして、国名を「唐」から「大周」に変更する。高宗の統治時代も、この皇后は気の弱い皇帝に代わり垂簾(すいれん)政治をおこない、自分が政治と軍事を取り仕切った。倭国・百済の連合軍が白村江で唐に大敗したとき(660年)、唐側の実質的な最高権力者はこの則天武后であった。

高宗の皇后時代の34年間、自身が皇帝であった15年間、合わせて50年近く、この女性が唐の政治と軍事を仕切ったのである。そして705年に81歳で没している。

時代的には初唐の後半に位置し、隋が敗北した高句麗を滅ぼし、西域の領土を拡大し、このころ唐は過去最大版図を実現している。則天武后の時代の唐の西方の勢力範囲は、現在のウズベキスタン共和国のタシケント・サマルカンドを超えて、さらに西のアラル海まで達している。則天武后の時代のあとで、大唐文化の華が咲く盛唐の時代に入る。よって、現在の中国ではこの人は偉大な皇帝として尊敬を受けている。

則天武后のことを長々と書いているのには、じつは、わけがある。「日本国・日本人」にとって、過去2000年間で一番お世話になった中国の皇帝は、じつはこの則天武后であろうと私は考えているからである。


「漢委奴國王印」を北九州の豪族が後漢の光武帝からもらったのは西紀57年だ。「委奴國」は「倭國」と同じ意味である。「親魏倭王」の印を卑弥呼が魏の皇帝・曹叡からもらったのは西紀237年である。この頃から中国は日本のことを「倭国」と呼んでいた。

当初、漢字の意味がよくわからなかった我々のご先祖は、しばらくして、「倭」という文字に「小柄な人・ちびっこ」、「ヘイヘイと、人の言うことに従う従順な者」という意味があることを知った。聖徳太子の頃から、百年近く、日本は中国に対して「倭国と呼ばないで日本と呼んでください」とお願いを続けていた。そのつど中国側は「倭国のやつがなまいき言ってるぜ」という感じで相手にしてくれなかった。

それが西紀703年、突如として中国は我が国のことを「日本」と呼ぶようになる。702年、第七次遣唐使で唐に渡った粟田真人(あわたのまひと)が、出来上がったばかりの「大宝律令」を唐側に見せて、この則天武后に「日本と呼んでください」と強く要請して、それが認められたからである。

粟田真人を「異常に気に入った」則天武后は、宰相と担当の大臣を呼びつけて言った。「今日以降、倭国と呼ぶことを私は絶対に許しません。真人さんが、これだけ懇願されているのです。このまま我が国が倭国と呼び続けていたら、お国に帰られたあと、真人さんの面子がつぶれます。私は皇帝の権限で、今日以降この国のことを日本国と呼ぶことに決定します」と一方的に命令を下した。

この則天武后の厳命以降、すべての中国の正史は、我が国のことを「日本」と表記するようになる。朝鮮半島・越南などの漢字文化圏の国々も、すぐさまこれに倣った。『旧唐書』の前半は「倭国」と表記されているが、この日以降は「日本国」と表記されている。『新唐書』『宋史』『元史』『明史』『清史』などのすべては、「日本」「日本国」で統一されている。そしてそれが現在まで続いている。則天武后の命令の直後、うっかり「倭国」と口を滑らした大臣や将軍の二人や三人が殺された可能性がある。

則天武后以降、千三百年に渡り、日本嫌いの中国の為政者を含めて、中国政府は公式には我が国のことを「日本」と言い続けている。則天武后の「威令」はすさまじいものであった。

則天武后と粟田真人の話は、ブログの初めの頃、「日本一の外交官・粟田真人」で紹介した。


唐歌舞(かぶ)ショー

左から将軍、則天武后、胡姫