2026年9月10日木曜日

大神(おおみわ)神社

 大和の寺社・参拝紀行(5)

F君と一緒の、奈良の寺社・参拝紀行がはじまった。

この神社は「日本最古の神社」と多くの書物で紹介されている。「おおかみ」と読まないで「おおみわ」と読む。漢字の読み方は便利というか、いいかげんだ。ある意味自由自在ともいえる。百済を「ひゃくさい」と読むことはまれにあるが、多くは「くだら」と読むのに似ている。いずれの読み方にも、いにしえ人の深い思い入れがあるようだ。

よってこの神社を最初に参拝して、次に大和(おおやまと)神社と石上(いそのかみ)神宮をお参りするのが日本人としての礼儀であろうと考えた。ただ、あとでお参りした大和・石上の二社の由緒書にも、それぞれ「日本最古の神社」と書かれてあった。

先に述べた「神社の起源は縄文時代」から、話がずれてしまう。しかし、それはそれとして、ここでは、おおらかで素直な気持ちで対応する。屁理屈は言うまい。神道には「言挙(ことあげ)せず」という言葉があるそうだ。「神々のことについてはあれこれ議論すべきではない」というほどの意味らしい。「この三つは大和朝廷が成立して以降の、この地における古い神社の大物三人衆」との認識で筆をすすめていく。


JR奈良駅から桜井線に乗り南に30分、三輪という小さな無人駅で降りる。駅から歩くこと5分、うっそうと茂る樹木をバックに「大神神社」と刻んだ立派な石柱と大きな鳥居が見える。

境内に足を踏み入れると「日本最古の神社」の言葉が頭にあるせいか、いささか緊張して、霊感のようなものを身体に感じる。私は単純なところがあり、話を聞くとすぐにその気になる弱点がある。快晴に恵まれたが、2月5日の午前10時なのでずいぶん寒い。でも、神社をお参りするには寒い時期が気が引き締まって良いなあ、と思った。

「うしろにひかえる三輪山がご神体なのでこの神社には本殿はない」と聞いている。私が参拝した立派な建物は拝殿らしい。

学生時代から師匠の故・鮫島豪太郎さんから教えを受けている。「神社にお参りして家内安全・健康長寿をお願いするのは悪いことではない。しかし、同時に、かならず国家の安寧(あんねい)を祈らなくてはいけない」と。近頃は神社参拝の時は、国家の安寧だけをお祈りしている。心を込めて「日本国の安寧」をお祈りする。お賽銭は500円。これも、5年玉や10円玉では神さまに失礼だ、という鮫島さんの教えである。

参拝を終えて、社務所でご朱印と由緒書をいただく。この神社の由来についてはお参りする前から調べていたが、分からないことだらけだ。東京に戻りこの神社の元宮司・中山和敬氏の書かれた『大神神社』を購入して読み、同時に『記紀』の中にあるこの神社に関係する箇所を丁寧に読んでみた。しかし、読めば読むほど矛盾が出てきて、いよいよわからなくなる。『古事記』と『日本書紀』では言うことが違うので困ってしまう。迷路に迷い込んだ気になる。

しかし、分かりません、では読者の方々に対して男が立たない。私のわかる範囲で語ってみたい。基本は『日本書紀』をベースに話をすすめたい。


『日本書紀』には次のようにある。

五年、国内に疫病多く、民の死亡するもの半ば以上に及ぶほどであった。 六年、百姓の流離(りゅうり)するもの或いは反逆するものあり。その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。七年、天皇の夢に一人の貴人が現われ、自ら大物主(おおものぬし・大国主)と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。わが子大田田根子(おおたの・たねこ)に吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう」と告げた。 あまねく天下に告げて大田田根子を探し求め、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)(現在の大阪府八尾市付近)に見つけてお連れした。この人を大物主を祀る祭主とした。ここで疫病ははじめて収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく稔って百姓は賑わった。


五年というのは、第十代・崇神(すじん)天皇の即位五年の意味だが、これがいつなのかわからない。令和八年(西暦2026年)は皇紀では2686年にあたる。「神武天皇が日本という国を建国されて今年で2686年になる」というのはロマンがあって良いのだが、常識で考えるとずいぶん無理がある。その頃はまだ縄文時代だ。

水野祐博士が言われるように、崇神天皇と神武天皇は同一人物であり、二代・綏靖(すいぜい)天皇から九代・開化(かいか)天皇までの八代の天皇は、後世に創作された架空の天皇(欠史八代)との説明のほうが納得感がある。私だけでなく、大方の日本人はこれを是としているように思える。

『日本書紀』は唐に見せることを前提に、完璧な漢文で書かれている。聖徳太子以降、我が国の指導者たちは司馬遷の『史記』を丁寧に読んで、中国の長い歴史については充分に認識していた。日本の建国史の「皇紀」は、中国にあなどられないために、無理に無理を重ねて日本史を引き伸ばしたのだと私は考える。

『紀』が言う通りの、初代・神武127歳、二代・綏靖(すいぜい)84歳、三代・安寧(あんねい)57歳、四代・懿徳(いとく)77歳、五代・孝昭(こうしょう)113歳、六代・孝安(こうあん)137歳、七代・孝霊(こうれい)128歳、八代・孝元(こうげん)116歳、九代・開化(かいか)111歳の九代の天皇の享年を合わせると950年になる。全員が100歳以上ではあまりにも不自然だ。よって、84歳・57歳・77歳の天皇をつくった。要するに、『日本書紀』の編纂者は、苦労に苦労を重ねて日本史を950年ほど引き伸ばした、と私は考えている。

今年の皇紀2686年からこの950年を引くと、1736年という数字が出る。これが大和朝廷が成立して以降の日本の歴史だと私は考えている。西暦2026年からこれを引くと、崇神天皇の即位は西暦290年頃ということになる。そうであれば、前後の多くの出来事とのつじつまが合う。


『紀』は、大田田根子(おおたの・たねこ)を大物主の子供のような表現で記しているが、多くの書物には「数代のちの子孫」と書かれている。こちらのほうが自然に感じられる。有名な『延喜式・神名帳』(延長5年・928年)にはこの神社は、「大神大物主(おおみわの・おおものぬし)神社」と書かれている。いくつかの書物には「崇神天皇よりも昔から、この神社には大物主命(大国主命)は祀られていた」とも書かれている。

子供の頃、私は親や学校の先生に「大国主命・おおくにぬしのみこと」と教えてもらった。この表現のほうが自分は親しみを感じる。よって、今後、大国主命という言葉を使うことが多いかも知れない。

出雲族の大国主命は、出雲の地から大和の地に打って出て、一度は中原を支配した。その後、天照大神ら高天原の神々に国を譲り、その代わりに立派な宮殿(出雲大社)で祀られることを条件に身を引いた。これが「国譲り神話」であり、私もそのように理解していた。

司馬遼太郎はこれと異なる考えを持っていたようだ。彼はイズモ(出雲)というのは地名ではなく、種族の名だという。しかも大和土着の種族であり島根県とはまったく関係ないという。イズモ族の中に二つのグループがあり、一つが大和盆地の南東のミワ(三輪)・グループで、いま一つが盆地の南西のカモ(鴨)・グループだという。大国主命はこのイズモ族の中のミワ・グループの大王であり、大和盆地の南東部を仕切っていた。そこに現れたのが渡来系の崇神天皇だと、司馬遼太郎はいう。カモ・グループは後に、鴨、加茂、加毛、蒲生などと書き、日本各地にちらばっていった。「イズモ族の使っていた言語がこんにちの日本語の原型であろう」と彼は言っている。渡来系である崇神天皇を含めたそれ以降の倭王たちは、故郷の大陸の言葉を捨てて、このイズモ族の言語に同化したに違いない、とまで司馬遼太郎は語っている。この考え方も魅力的である。


『紀』に言う「崇神天皇の五年、国内に疫病多く、民の半ばが死亡した」の疫病とは、「天然痘」のことだ。「弥生時代から平安時代に至る千年間の日本史は、天然痘との戦いの歴史」ともいえる。島国に住むゆえに、この病気に対する免疫力のなかった倭人は、大陸からの渡来人、そして隋や唐・三韓各国との交流によって列島に侵入したこの天然痘によって、すさまじい苦しみを味わった。この当時、ずいぶん多くの人々が天然痘で亡くなっている。

じつは、日本列島に、今なおこれほど多くの神社と仏閣が残っているのは、天然痘と深い関係がある。我々の先祖たちが、この天然痘に打ち勝つべく強い力を得たいと、神様と仏様に助力を求めた結果なのだ。現在、我々が参拝している多くの神社や仏閣には、いにしえの日本人の苦難と涙、そして希望のなごりが残っているのである。神社・仏閣にお参りするとき、私はいつもこのことを思う。


大神(おおみわ)神社

由緒書

拝殿


大神神社 ご朱印


2026年9月3日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(3・完)

 大和の寺社・参拝紀行(4)

古代のひとびとは、山を見て、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げた。と先に述べた。それと同じく、人々の幸せを念じ、人々の幸せのために努力した有徳の人の霊にも、敬慕の気持ちを抱いて祈りを捧げたようである。

縄文人たちは、きっとこのような人を神としてお祀りしたに違いない、と思える話が『街道をゆく・北のまほろば』の中に出てくる。

青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺蹟が発見されたのは1994年だから、司馬遼太郎にとってその晩年にあたる。「4500年前の巨大木柱出土」という朝日新聞の夕刊記事を読んで興奮した彼は、すぐに現地に取材に出かけている。ここから出土した高楼と巨大な翡翠(ひすい)を見ながら、次のような縄文時代の光景を想像したと語っておられる。


さて高楼のことである。現場で、私はただ一つの想像をするだけにした。農耕時代になって政治的権力者があらわれる。だから、採集の世の楼閣は、首長の権力をあらわすものではなかったろう。ひとびとは、丸木舟に乗って、海で漁をする。おえると、この高楼をめざして帰ってきたのに違いない。夜、漁からもどらない者があると、「高く、火を焚け」というのが、首長だったにちがいない。闇の海で方角をうしなった者は、望楼の火を見つつ帰ってくる。首長は情義の機関だったのではないか。むしろ宗教的存在といってもいい。

翡翠(ひすい)も出てきた。越後の糸魚川の産である。岡田主査が、現場で二個の翡翠をみせてくれた。野球のボールほどのもので、二つとも紐(ひも)通しの孔(あな)が、きれいに貫通されている。掌(て)にのせると、ばかに重かった。人が海から帰らぬ日、あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が =この翡翠をくびからぶらさげて= 待っていたであろうことを想像した。


このような人を、その方が亡くなったあと、縄文時代の人々は神として祀ったのであろうか。


おしまいに、西行法師の和歌一首を紹介したい。

「なにごとのおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

西行法師が伊勢神宮を参拝したときに詠んだ歌だといわれる。この歌の解釈にはいろいろの説がある。僧である西行が信じていたものは、古代の自然信仰のようなものであろうという人がいる。山や森・滝や河・岩や岬など、古代人があこがれ、感謝し、また恐れていたものを、西行もまた体で感じたのであろうという人もいる。私もそのように思っている。

西行法師は、この神宮の祭神である天照大神(あまてらす・おおみかみ)に対して、かたじけない気持ちで涙を流したのではないような気がする。

皇大神宮(内宮・ないくう)は天照大神を祀る二千年の古社だといわれる。これを否定する気持ちはまったくない。同時に私は、伊勢神宮を崇拝する気持ちは人一倍強い。そうではあるが、私の心の中には、それよりもはるか以前から、ここに「なにか」が祀られていたような気がしてならない。もしかしたら、西行法師も同じように感じておられたのではあるまいか。





2026年8月27日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(2)

 大和の寺社・参拝紀行(3)

奈良の神社・仏閣の紹介に入りたいのだが、今しばらく余談話におつきあい頂きたい。日本の神社の起源は縄文時代にあるということを、お伝えしたいからである。ここでは相模国一之宮・寒川神社と、安房国一之宮・安房神社での私の体験をお話ししたい。


寒川神社は八方除(はっぽうよけ)の神さまとして有名だ。私がこの神社が好きなのは、この神社の狛犬(こまいぬ)像が巨大で怖そうな顔をして迫力満点だからだ。時に、笑っているような、にやけた顔の狛犬に出会うことがある。可愛らしい、と女性に評判だと聞くこともあるが、狛犬は怖い顔でなければものの役には立たない。悪い奴の進入を防ぐ門番であるからだ。

この神社近くのJR宮前駅は現在は相模湾の海岸線から8キロほど北に位置するが、7千年前はこのあたりが相模川の河口になる。すなわち寒川神社のある場所の目の前が相模湾だった。私の手元に7千年前の相模湾の海岸線を示した地図があるが、現在のJRの平塚・茅ヶ崎・藤沢駅はすべて海の中である。

地球の寒暖はCO2の増減だけが原因ではなく、何千年周期で繰り返されているらしい。太陽活動の変化で気温が上がったり、火山の大爆発で火山灰が飛び散り太陽光が遮断されて気温が下がる、などの現象が過去何万年ものあいだ繰り返されている。1万2千年続いた縄文時代で一番気温が高かったのは今から4300年前、というのが考古学者の一致した見解である。この時が縄文時代の人口のピークで、日本列島全体で26万人、気温は現在より2度高かったと、その方面の研究者は言う。

現在、CO2の増加による地球の温暖化が大きな問題になっている。このままだと南極・北極の氷がとけて海洋の水位が上がり、太平洋の小島のいくつかが水没する恐れがあるといわれている。じつは、現在以上の地球の温暖化現象が4300年前にすでにあったのだ。それゆえに、南極・北極の氷がとけて、寒川神社のすぐ前までが海だったのである。

この神社をお参りして私が興奮したのは、寒川神社の周辺から縄文時代の住居の遺跡が数多く発掘されていることだ。寒川町にある岡田遺跡は、日本で最大級の縄文住居跡である。確認された住居の数は600軒で、専門家は1000から1500軒の集落があったであろうと推測している。約4300年前のものといわれている。

古代の人々は、山を見て祈り、川を見て、滝を見て、岬を見て、岩や巨木を見て、畏(おそれ)を抱いて祈りを捧げたといわれる。この寒川の縄文人が畏れ敬い、祈りを捧げたのは相模川の水霊(すいれい)であった。豊かな魚介類や生活用水を恵んでくれるこの大河は、時として獰猛(どうもう)になって氾濫を起こし、人も住居もすべてを押し流してしまう。この水霊を鎮(しず)めるために、彼らは常緑樹の枝を縄文式土器に飾り、木の鳥居を建てて、心を込めて祈りを捧げたに違いない。


安房神社での体験は簡単に述べたい。

ご朱印をいただく時、若い神官に聞いてみた。「この神社は由緒ある古い神社と聞きますが、いつ頃できたのでしょうか?」「創建は養老元年(717)だと聞いています」多くの神社はこのように、神社の創建を飛鳥・奈良時代の年号で答えてくださる。これは多くの場合、寺院の真似をして、瓦ぶきの建物を建築したときの年代のようである。

「そうですか。私はもっともっと古い歴史を持つ神社だと睨んでいますがねえ」と無遠慮に言った。私の声は大きいらしい。社務所の奥に座っておられた80歳ぐらいの神官(おそらく宮司さんだと思う)が、にっこり笑って私のほうに近つ”いて来られた。「おぬし、なかなかわかっているな」といいたげな、すこぶる好意的な眼差しで次のように話してくださった。

「じつは、一昨年、この神社の裏山の洞窟で人骨が発見されました。古い人骨のようで事件性はないと思ったのですが、一応警察に届けました。警察は念のためにと千葉大学に鑑定を依頼しました。約4500年前の縄文人の人骨ということでした」

ひと言つけ加えておきたい。

日本の神社の起源が縄文時代というのは、私の奇説・珍説ではない。神道考古学者のほぼ一致した見解である。学者の中には、それ以前の石器時代から人々は神への祭祀(さいし)を行っていたと主張する人もいるが、それを裏付ける祭祀跡は今のところ発見されていない。縄文遺跡からは、あきらかに古代人が祭祀したと確認できる遺物がいくつも出土している。

ただ、カナダの鳥居については、私の新発見ではないかとひそかに思っている。私が知る限り、今までこれに言及した神道考古学者の論文や記事を見たことがないからだ。





寒川神社の狛犬








2026年8月20日木曜日

神社の起源はいつ頃なのか?(1)

 大和の寺社・参拝紀行(2)

私は30代の半ばから3年間ほどシンガポールに駐在していた。勤務していた海運会社が会社更生法を申請したので、いわば人質の形で帰国できなかった。その後、東京地裁が更生手続き開始決定を決めてくれたので1年後に帰国することができた。このようなわけで、後半の1年間はわりあい暇だった。

この頃、日本とはいったいなんだろうかと、ぼんやりと考えていた時期がある。シンガポールは暑い。雨季と乾季はあるが四季はないので、次のようなことをよく夢想していた。今思うと、日本恋しさのホームシック気味だったのかも知れない。

日本に帰ったら、ひんやりとした晩秋の頃、信州か東北地方のひなびた温泉宿に数日間、続けて泊まりたい。芭蕉の『奥の細道』を読み、利休の真似をして抹茶をたてて飲みたい。私は高校時代は剣道部にいたが、部の友人の一人が茶道に凝っていて彼の手ほどきを受けた。門前の小僧程度の茶の湯の知識はある。道元禅師が懐かしい。西行法師の和歌にも心が癒される。そして、新古今・古今・万葉集へと思いはさかのぼる。そこから先の「懐かしいもの」はなんだろうかと考えたあげく、私がたどり着いたのが「神社」だった。「つまるところ、日本人の心のふるさとは神社ではあるまいか」と思った。この気持は現在も続いている。

ただ、長いあいだ、日本の神社は大和朝廷の成立と深い関係があると、漠然と思っていた。天照大神・須佐之男命・神武天皇・応神天皇(誉田別尊・ほんだわけのみこと)・日本武尊・神功皇后・仲哀天皇、などなど、皇室のご先祖様を祭神とした神社が多いからだ。


この考えは間違いかも知れない、と思ったのは45歳の頃である。人材紹介の仕事に入って5年ほど経った頃だ。「不思議なもの」を私は見たのだ。

仕事でカナダの銀行の部長さんを訪問した。約束の時間に伺ったら、恐縮しながら会議が長引いているので30分ほど待ってくださいとおっしゃる。旧知の人で、急ぐ用もないので応接間でお待ちした。その部屋には、カナダ観光庁が発行した美しい写真付きの観光案内のパンフレットが高く積まれていた。この銀行の協力を得て、日本からカナダへの観光客を増やしたい意向のように思えた。

これを何気なく見ていた私は、一枚の写真にクギ付けになった。石でできた古代の大きな鳥居がそのパンフレットに写っているのだ。私の記憶では、形は日本の鳥居とほぼ同じだが、もう少し太かった気がする。グラマーな鳥居だった。

場所は、米国アラスカ州に接するカナダの西の地である。今、これを書きながら、カナダ西部の大きな地図を見ている。北極海の近くにイヌビク、フォート・マクファーソンという町が見える。そこから南西に位置する山奥の川沿いにドーソンという町が見える。これらの近くだった気がするのだが、どの町かはわからない。美しい夏の緑の森林の中に、どっしりとした立派な鳥居が建っていた。

この銀行の部長さんの快諾を得て、私はこのパンフレットを二部いただき、宝物のようにしてオフィスに持ち帰った。大事に仕舞い込んだようだ。今回、心当たりの場所を探したが見つからない。出てきたら、すぐにこの「カナダの鳥居の写真」をこのブログに掲載したい。


北米・南米の両大陸には人類は独自には誕生しなかった。新人類のモンゴロイドが、当時氷結していたベーリング海峡をシベリアから徒歩でアラスカに渡った。1万5千年前だといわれる。そして2千年という短時間で、彼らの一部は南米最南端のケープホーンまで到達している。食糧探しや仲間割れもあったかも知れない。しかし、前進に前進を重ねたそのエネルギーの大半は、「好奇心」であったと私は考えている。この先に何があるのか?という好奇心である。人間というものの偉大さを思う。好奇心の強い人が本物の人間だと思う。好奇心のない人は、人間の顔をしているが実は人間ではない、私は思っている。

この時、私は一つの想像をした。

この鳥居を造った人々は、1万5千年前の第一陣ではなかったと思う。着の身着のまま、食うや食わずで、地球の最北端の海峡を歩いて渡ってきた人々に、これほど巨大な石造物を造るエネルギーはあるまい。彼ら第一陣はこの地に住みついて集団で生活を営み、人口も増加していった。何百年かのち、ここをシベリア方面からの新たな集団が通過した。彼らは先住の人々の好意でしばらくこの地にとどまった。

先住の人々の行う神事や祭りを見ていた彼らが言った。「我々のシベリアの村では、鳥居を設けてお祈りしていました。こんな格好のものですよ」と、地面に鳥居の絵を描いてくれた。「そういえば昔、死んだ爺さまからそんな話を聞いたことがある。爺さまも、そのまた爺さまから聞いたと言われていた」土着の長老は、遠くを見つめるような眼差しで、そうつぶやいた。

新たな集団の指導のもとで、みんなが力を合わせて10年の歳月をかけ、この立派な石の鳥居は完成した。このような物語があったのかもしれない。

幸運なことは、この地には鳥居の材料となる軟らかい石材と、これを加工するに充分な硬い石材の両方があったことだ。カナダに比べると日本列島の鳥居向けの石材は硬かった。1万年前・5千年前の縄文人が使う石器では歯が立たなかった。やむをえず、縄文人は木で鳥居をつくった。木材は時が経てば朽ち果ててしまう。それゆえに、縄文遺跡から鳥居が発見されていないのだと私は考えている。


このカナダの鳥居の写真を見て以来、鳥居の原型は1万数千年前に、シベリアもしくは中国東北部に住んでいたモンゴロイドが造ったものであり、そのころ日本列島にこれを持ち込んだのも彼らであったろうと私は考えている。

日本の神社の起源は、大和朝廷が成立した千五百年前・二千年前といった、そんな真新しいものではなく、一万年以上昔だと私は考えている。

日本列島に渡来して支配者階級となった大和朝廷の倭王(天皇)たちは、これに「上乗り」したように思える。「上乗り」の意味は、古い祭神と同時に天皇家の先祖を相殿神としてお祭りしたということだ。中国東北部(満州)方面から渡来したといわれるこの騎馬民族の故郷には、もしかしたら同じような鳥居の文化が残っていたのかも知れない。彼らは日本列島に先住する人々の木の鳥居に、なつかしいもの感じたのかも知れない。








2026年8月13日木曜日

大和の寺社・参拝紀行

 20年ほど前から約10年間、日本各地の神社を参拝していた時期がある。東京に一人、郷里の広島県に一人神社好きの友人がいて、一緒に地方の神社を中心に参拝してご朱印をもらうのを楽しみに、小旅行を続けていた。

10年ほどで百数十社の神社をお参りすることができた。そういえば、数年前このブログで熱田神宮・宗像大社・二荒山神社・高麗神社などをご紹介した。

自慢の朱印帳を知人に見てもらうたびに、「地方の神社が多いね。本家筋の奈良や京都には行かないの?」とよく言われていた。「うん。奈良や京都には由緒ある神社が多いけど、年を取ってからでも行けるよ。足腰の丈夫なうちは僻地の神社をお参りするんだ」と答えていた。

あれから相当の月日が経った。自分もいい歳になってきた。そして、その間にあることに気がついた。神社参拝には一つの掟(おきて)があるのだ。どの神社にも「下馬札・げばふだ」というものが立っている。

「下馬」「下乗」と書いた札が立ち、たとえ大納言や参議などの高級貴族でも、そこから先は馬・牛車・籠から降りて自分の足で歩かねばならなかった。現在の人々も同じである。車椅子はどうなんだろうと思ったが、神さまから見たら牛車と同じく車の一種らしい。車椅子で本殿を参拝する人の姿は、私は今まで一度も見たことがない。(もっとも、友人の一人は車椅子で参拝する人を一度見た、と言う。神社によっては許しているのかも知れない)


行動を開始する時がきたのだ。

奈良と京都どちらが先かといえば、当然、奈良だ。歴史の古い順からお参りしなくてはいけない。大神(おおみわ)神社・大和(おおやまと)神社・石上(いそのかみ)神宮。この三つの旧官幣大社からお参りを始めるのが、日本人としての礼節であろうと考えた。

20年前の私は、「神社だ、神社だ」といって、近くに由緒ある仏閣があっても興味を持たなかった。学識ある学友のU君から、「お前、それじゃダメだよ。お寺さんにもお参りしなくちゃいかんよ」とよく小言をいわれていた。この20年で私も少し進歩したのかも知れない。U君が言っていたことが分かりはじめた。近頃はお寺にも強い興味を持っている。神社を参拝するとき、私が真ん中を歩くのをU君はしばしば注意してくれた。「ダメだよ。まんなかは神さまが歩く道だよ。もっと右側に寄れよ」と。U君の教えを、神社・仏閣をお参りするたびに思い出す。

奈良の由緒あるお寺といえば、飛鳥寺・法隆寺・興福寺・東大寺・薬師寺・唐招提寺・長谷寺・久米寺などが頭に浮かぶ。御朱印帳は神社と仏閣とに分けて、常に二冊を携帯している。ただ、「神仏混淆・しんぶつこんこう」という言葉もある。紀行文としては寺社を分けないで、参拝した順番に紹介するほうが自然な気がしている。


奈良市にF君という古い友人が住んでいる。三光汽船という海運会社に入社したときの同期で、このF君が47人の同期のトップ入社だと、当時仲間内で言われていた。私は、たまたま彼と同じ木材輸送の課に配属され、F君が北米材、私が南洋材とNZ材を担当した旧知の仲良しである。

私が三光汽船を辞めたのと同じ頃F君も辞め、奈良の企業に転職して成功された。今は悠々自適で日本各地の旧跡を訪ね、日本史の研究をされている。司馬遼太郎の文庫本250冊を持っていて、すべて読んだという智の巨人である。現在二回目を読んでいるそうだ。奈良の神社・仏閣のほぼすべてを参拝したという。昨年は先達(せんだつ)さんを雇って、山伏修行の聖地で有名な大峰(おおみね)山の山頂登山を終えたという強者(つわもの)だ。

私の計画を伝えると喜んでくれ、「俺が案内してやるよ」と言ってくれる。博覧強記のF君が一緒だとじつに心強い。なんでも教えてもらえる。司馬遼太郎と一緒に『街道をゆく』を旅した須田剋太・安野光雅の両画伯と同じ立場になれると思い、心が躍った。

「ふた月に一度、2・3泊のペースで奈良に来たらいいよ。それでも二年ほどかかるかな」とF君は言う。奈良盆地内だけでは駄目だ、吉野山と十津川には絶対に行く必要がある。日本史を深く理解するには、大阪府と和歌山県(熊野古道)にも足をのばす必要がある。と教えてくれる。

このように、話がトントンと進み、令和八年の二月から、F君と一緒の「大和の寺社・参拝紀行」がはじまった。





2026年8月6日木曜日

大学卒の初任給50万円(2)

 いま一つ、喫茶店のコーヒーの値段の話をしたい。

私は大学時代は体育会のヨット部に所属していたので合宿が多く、アルバイトはほとんどしなかった。ただ、冬場にひと月ほど好きなアルバイトをしてお金を稼ぎ、部費としてヨット部に納めるという制度があった。大学一年生の冬、ひと月ほど武蔵小金井の喫茶店でウェイターのアルバイトをした。

この店の雇われ店長は日大の学生で、私はこの人にずいぶん可愛がってもらった。日大に8年間も籍があり、あと一年で単位が取れないと退学になると言っておられた。「卒業しないと田舎の親が悲しむので、なんとしてでも卒業するんだ」と、仕事の合間に本を読んでおられた。

この店長が言うのだ。「アイスコーヒーを飲む奴は馬鹿だ。お前なぁ、喫茶店では絶対にアイスコーヒーを注文するんじゃないぞ」 どうしてですかと聞くと、日大8年生の店長は、秘密を打ち明けるように、次のように教えてくれた。

「うちの店ではホットもアイスも60円で売っている。ホットコーヒーの原価はコーヒー豆4円、ミルクと砂糖で2円、計6円だ。これに比べるとアイスコーヒーの豆は品質が悪いのを使うので安い。原価は2円なんだ。ミルクと砂糖を加えて原価4円のものをホットと同じく60円で売っている。他の店ではホットより高い70円で売っているところもあるんだぜ。だからなぁ、お前、喫茶店ではアイスコーヒーだけは絶対に飲むんじゃないぞ」

このようなことがあったので、私はよほど暑い時に、ごくまれにアイスコーヒーを飲むことはあるが、普通は夏でもホットコーヒーを飲む。アイスコーヒーを注文する時はいつもこの店長のことを思い出す。そして、なんだか申し訳ないことをしているような、軽い罪悪感を持つのである。同時に、あの店長はあっぱれ日大を卒業されのだろうかと、今でも思うことがある。

さて、現在のホットコーヒーの値段である。ベローチェ・ドトールなどは300円前後で、ホテルオークラ・東京會舘あたりだと1000円前後だ。コーヒーの値段は場所代が大きく関係するようだ。昔風の喫茶店では、2・3年前までは400円から450円位だった。ところが、現在私が通う中野の二つの喫茶店では、一つの店が600円、もう一つの店が650円だ。ちょうど10倍になっている。これが、「大卒の初任給を50万円にすべきだ」と私が考える第二の理由である。


ハガキとコーヒーの値段だけで決めつけるなよ、との声があるかもしれない。でもこの二つは、庶民の生活感を感じる場合、大きな指標になると考える。

じつは、新築マンションの値段も10倍になっている。親の援助を受けて私が西船橋に3LDKの新築マンションを購入したのは、入社4年目の28歳の時だ。昭和53年のことで、1380万円だった。入社以降の4年間に二度のオイルショックがあった。それに伴うインフレで、28歳の私の基本給は9万円前後だったと記憶する。4年前の入社時点であれば、同じマンションが1000万円弱で買えていたと思う。

「初任給40万円・50万円の会社がいくつか出てきた」と近頃の新聞で読む。嬉しいことだ。

すべての会社は無理だとしても、業績の良い会社の初任給の多くは、今後3~5年で50万円程度になるような気がする。それが出来ない企業の経営者には退陣していただく。あるいは、優れた経営者のいる優良企業に買収していただく。そうすれば、自然に初任給50万円の新入社員は増加することになる。このような動きは、日本にとって良いことだと思っている。


吉野山 「杉林」








2026年7月30日木曜日

大学卒の初任給50万円(1)

 3年ほど前から、お客様の人事の方にお会いするたびに、次のように言ってひんしゅくを買っていた。私が出入りしている企業の人事の方々はおおらかで懐が深い。この無遠慮な発言を理由に、出入りを禁止された会社はない。

「初任給が27~8万円では若者の生活が大変です。50万円が適当だと思います。もっと新卒の初任給を上げるべきです」

怖い顔で、「馬鹿なことを言わないでください。我が社にはとてもそんな体力はありません」とおっしゃる方が多かった。中には笑いながら、「新卒採用は少ないから50万円程度なら払うことは出来ますよ。でも、そのそうなると、入社2~10年の社員の給与が新卒より低くなってしまいますよ」と言われる方もあった。


この「初任給」については歴史のうんちくではなく、私自身の体験をベースに語りたい。次のような体験である。最初に葉書の値段についてお話したい。

昭和39年4月、私は岡山県の金光学園高等学校に入学して、山の中にある大正時代に建てられた古い寄宿舎に入った。15歳の春のことだ。一緒に入寮した同期生は約50人だった。入寮したその晩の、69歳の老舎監長・佐藤岩男先生がおっしゃった言葉を今でもハッキリと覚えている。

「週一回かならず親にハガキを書いて近況報告をしなさい。週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。書くことはいっぱいある。もし本当に書くことがないなら、今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと、1週間分の寄宿舎の夕食の料理を書き並べなさい。それだけで両親は安心される」

各人が一冊のノートを持たされ、文具でも牛乳でも、そして郵便局のハガキでも、すべてツケで買っていた。郵便局でツケでハガキを買うなんて、今思うと不思議な気がする。舎監長先生はこのノートをチェックされる。月4枚のハガキを買っていない生徒は、舎監長室に呼ばれて頭をゴツンと殴られて説教される。このような環境だったので、私はかならず週一回親にハガキを書いていた。大学生になってからもこの習慣は続いた。高校時代・大学時代のハガキの値段は1枚7円だったと記憶する。

大学を卒業して三光汽船に入社したのは、昭和47年4月だ。自宅が東京にある人が数人いたが、関西出身者が多く大部分の新入社員は横浜の寮に入った。このとき、人事総務担当専務の平山隆三さんは、新入社員47人を前に次のような訓示ををされた。私はこれを聞いて、とても驚いた。

「辞令にある通り、君たちはこれから月給5万1千円をもらう。千分の一の50円でハガキが5枚買える。週一回親にハガキを書いて近況報告をしなさい」驚いたのはこれに続く次の言葉である。

「週一回も書くことはないと言う者がいるかも知れないが、それは間違いだ。もし本当に書くことがないなら、会社の寮で今夜は何を食べた、昨晩は何を食べたと1週間分の寮の食事を書き並べなさい。それだけでご両親は安心される」

異なる場所と人の瓜二つの言葉に、私は長い間、不思議な気持ちを抱いていた。平山専務は太平洋戦争末期、大本営の少佐参謀で瀬島龍三中佐の部下だった、と後で他の人から聞いた。それ以前、陸大を卒業してからの1年間は大阪陸軍幼年学校の教官をされていたという。

高校寄宿舎の老舎監長の佐藤岩男先生は、戦争中は寮生の食糧確保のため、地元の教え子の自宅を一軒つ”つ回って米・麦・芋を手に入れるため努力・苦労をされていた。同時に生徒たちと共に山野を開墾して、さつま芋やじゃがいもを植えておられた、そして豚や鶏を飼っておられた、と後になって寄宿舎の大先輩からお聞きした。

食糧難の頃、15・6歳の少年多数を預かっていた先生方は、このような思いで生徒や親たちに接しておられたのかと思い、深く感じ入るものがあった。真面目人間の私は、この尊敬するお二人のいいつけをその後も守り続けた。そしてハガキを書くことが一つの楽しみになった。母親が99歳までボケないで元気でいてくれたおかげで、私は週一回のハガキ書きを60年続けるという幸運に恵まれた。


念のため、当時のハガキの値段を改めて調べてみたが、私の記憶に間違いなかった。昭和36年から46年までは7円。私が社会人になる前年の昭和46年からは10円に改正され、その4年後には20円になっている。2年前の令和6年9月から、ハガキは85円に値上がりした。現在進行中のインフレを考えると、今後2~3年の間には100円を軽く超えると思われる。

ハガキが10円の時、私の初任給は5万1千円だった。ハガキが100円になろうとする現在、大卒初任給50万円は当然の話だと思う。これが、「大卒の初任給は50万円であるべきだ」と私が考える理由の一つである。


吉野山の「白桜」