2025年10月17日金曜日

【トルファン】ウイグル料理と胡姫の舞踊

 シルクロードのものがたり(74)

トルファンでのガイドはエイさんという名のウイグル人の男性だ。年のころ40過ぎか。この人が次のウルムチを含め、新疆ウイグル自治区全体を案内してくれる。この人もタバコを吸うのですぐに仲良しになる。エイさんにもライターをもらった。

「中学生のとき、ウルムチに住む日本人に日本語を教えてもらいました。ウルムチの日本語学校に通ったこともありますが、自分の日本語はほぼ独学です」と本人は言う。とても分かりやすい日本語を話す。本人の努力もさることながら、語学の才能があるのだろう。歴史の造詣も深くたいした人物である。

エイさんに案内され、バスでウイグル族の郷土料理のレストランでの夕食に向かう。どんな料理が出てくるのかと身構えていたが、写真に見えるとおり十種類の料理と共に米やナンを食べる。イスラム教徒が多いからであろう、豚肉は出ない。鶏料理が多いかと思っていたが案外少ない。牛肉と羊肉が多い。魚のスープも出るが、当然ながら淡水魚だ。まったく違和感は感じないで、美味しく食べられる。地元名産の赤ワインがサービスで出るが、これも美味しい。

食事が半ばを過ぎると、三人の胡姫が舞台に上がり、音楽とともにダンスをはじめる。三人の胡姫は感じも良く、踊りも上手だが、長い間自分がイメージしていた胡姫と違い、アジア人の顔立ちをしている。


高校時代から愛唱してきた李白の詩、「少年行」の中の胡姫のイメージが頭にしみついていたのかも知れない。

五陵の年少 金市(きんし)の東

銀安白馬 春風を度(わた)る

落花踏み尽くして 何処にか遊ぶ

笑って入る 胡姫(こき)酒肆(しゅし)の中

この詩には、「西域から来た金髪で青い目をした胡姫のいる外人バー」といった感じの解説があった。これにより、胡姫というのは、金髪で青い目をしたイラン系の彫の深い女性だと思い込んでいた。そういえば、ガイドのエイさんも、自分はウイグル族だというが、私から見たら日本人の顔とあまり違わない。

翌日のタバコ時間に、エイさんにこのことを聞いてみる。どうも私の認識が誤っていたようだ。ウイグル族というのは、人種的におおざっぱにいえば、「モンゴロイドとコーカソイド(コーカサス地方に住む原住民)の混血」らしい。これにイランやさらに西方から入ってきた金髪・青い目の人種の血がほんの少し混じっている。よって、町ゆく人の100人に2・3人ぐらいが私のイメージしていた胡人の顔であり、残る大部分は我々日本人の顔に似ている。


3人の胡姫が二曲ほど踊ったあと、我々のテーブルに向かい、男性客に舞台に上がって欲しいと言う。一緒に踊ろうというのだ。だれもが尻込みするなかで、成蹊ヨット部出身のS君はさすがだ。勇んで舞台に上がっていく。アフリカやベトナムでの駐在が長いので、こういう場面に慣れているのかもしれない。S君の踊りは結構上手い。やんやの喝采である。

S君一人では足りない、もう一人か二人上がってくれと、他の胡姫が手と顔でテーブルに向かって合図する。テーブルの男性客はみんな下を向いて目線が合わないようにしている。私も同じように下を向いていた。そうしていたら、一人の胡姫がつかつかと舞台から降りてきて、私の腕をつかんで上がって一緒に踊ろうという。

美人の胡姫にここまでされて、グズグズするのは日本男児として恥ずかしい。私は意を決して舞台に上がる。下手な踊りを二つほどこなしてテーブルに戻ると「良くやった!」とみんなが言ってくれた。踊りの旨い下手ではない。破れかぶれの行動に対してのようだ。

下手な踊りでも、身体を動かして汗をかくと気持ちが良い。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らなにゃ損損」という言葉がある。本当だな、と思った。


トルファン・ウイグル族の郷土料理

胡姫の踊り






2025年10月13日月曜日

中国の新幹線・敦煌からトルファンへ

 シルクロードのものがたり(73)

旅の5日目、8月27日(水曜日)。この日はバスで2時間30分、新幹線で3時間30分と、6時間かけて敦煌からトルファンに移動する。

午前中はホテルから南西に50キロ、バスで1時間弱の西千仏洞に向かう。莫高窟の西にあるのでこう呼ばれている。同じように石窟の中に仏像・仏画がおさめられている。美術品としての価値は莫高窟に劣るといわれるが、川の流れと豊かな樹木の緑が心を癒してくれる。この西千仏洞からさらに西に30キロ進むと、王維の詩に出てくる「陽関・ようかん・南の玉門関」があるが、我々は行かない。玉門関にくらべると保存状態が良くないと聞いた。

その後、敦煌の町に戻り、夜光杯を売る店に案内される。「葡萄の美酒 夜光の杯」という王翰(おうかん)の有名な詩がある。よって、ここで買うのはワイングラスが似合うのだが、私には自宅でワインを飲む習慣がない。しかも2つセットで数万円と高い。原石から一つ一つ手作りするので、値段が高いらしい。純米酒を冷で飲むとき使おうと思い、ぐいのみを一つ買う。2杯で1合といった感じの大きさで、1万円だ。

このあとバスで2時間30分かけて、敦煌の町中から新幹線の柳園南駅に移動する。ガイドブックには敦煌の人口は14万人とある。2日間この街をウロウロした私の直感では、もう少し人口が多い気がするのだが。


敦煌はオアシスの町なので、町の周辺には畑があり果樹園がある。バスの中から目を凝らして見ていると、一番多いのは葡萄畑だ。「ハミウリ畑は?ハミウリ畑は?」とキョロキョロするのだが、なかなか見つからない。「あれがハミウリ畑だよ」と余さんが言うので、あわててスマホを取り出すが、その時はすでにハミウリ畑は過ぎ去っている。葡萄以外で目に付く農作物は、小麦と綿(わた)だ。樹木で一番多いのはポプラの木だ。あれは桑(くわ)の木です、と余さんが言うのを2度ほど聞いた。

ただし、町中から30分も走ると、あたりの景色はまた砂漠一色に変わる。玄奘が突然あらわれた僧にもらった梨をかじりながら、成都で助けたインド人の病僧がくれたサンスクリット語の般若心経、「ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー」を唱えながら、この砂漠の中を一人で北に向かった姿を想像する。


中国の新幹線は思ったより乗り心地が良い。でも、私が広島県に帰るとき毎月乗る「のぞみ号」に比べるとスピードが遅い気がする。添乗員のOさんがくれた列車案内を見ると、柳園南駅から吐魯番(トルファン)北駅までの乗車時間は3時間33分とある。距離は633キロだから、スピードは時速180キロとなる。のぞみ号は260-270キロだから遅く感じるのは当然だ。中国の新幹線に一抹の不安を持っている私は、あまりスピードを出さないで欲しいと思っていたので、これくらいがちょうどいいやと思った。

柳園南駅と吐魯番(トルファン)北駅のほぼ中間に哈密(ハミ)駅がある。「停車時間はたった2分間ですから、ホームには絶対に降りないでください」と添乗員のOさんは大声で注意するのだが、そうはいかない。ハミウリの哈密である。同時に、玄奘が苦難の末にたどり着いた場所が、この哈密の近くの伊吾(イゴ)なのだから。ホームに降りて、急いで写真を撮る。

予定通り20時45分にトルファン駅に到着する。荷物を受け取り、駅の改札を出たのはちょうど21時だ。外の夕焼けがとても美しい。


柳園南駅

新幹線の乗車案内

時刻表
これらは普通列車の寝台車
2日も3日もかかる鉄道の旅だ
広道なので新幹線と同じレールを使っているようだ

中国の新幹線

哈密駅

トルファン北駅

夜9時のチャイムと同時にネオンが灯った



2025年10月10日金曜日

【敦煌】玉門関と漢長城跡

 シルクロードのものがたり(72)

白馬塔の見学を終え、玉門関に向かう。いよいよ玉門関かと思うと、少し緊張する。鳴沙山・莫高窟・白馬塔は敦煌の市街地の南15-20キロに位置し、この3つは互いに近い。これに比べ、玉門関は市街地から北西100キロの場所にあり、バスで1時間半かかる。漢長城跡は玉門関のとなり合わせだ。

砂漠の一本道をバスは80キロのスピードで走る。砂漠だけの景色もあれば、時に緑の草が見える。円形にかたまった草を指し、「あれはラクダ草です。ラクダだけでなく馬やロバも好物です」と余さんが教えてくれる。もう一種類、別の植物が見える。私には笹(ささ)に見えたが、「葦(あし)の一種です。私が子供の頃はあれでほうきを作っていました」と余さん。

玉門関の遺跡の前に立つと、とても緊張する。目の前にある遺跡は漢の武帝のころに造られたものだという。その歴史の重みが、私に強い圧迫感を与える。

玄奘はどのあたりで、夜の闇にかくれて水を飲んだのであろうか。兵士に見つかり隊長の前に連行された。中国は文字の国・歴史の国だ。この隊長さんの名前が残っている。王祥(おう・しょう)という人だ。立派な人物であった。王祥は部下に水と食料(ナン)を用意させ、みずから十里ばかり玄奘を見送ってくれた。そして別れるときこう言った。「第二・第三の烽(ほう)には近寄らないで、この道をまっすぐ第四烽(ほう)にむかってください。第四烽の人は心正しい人物です。彼は私の一族の者で、姓は王、名は伯隴(はくりゅう)といいます。私の名前を言ってください」

玄奘のインドへの旅の途中、このような第三者の善意・好意によって助けられる場面が、いくつも、いくつも、出てくる。人はこれを幸運という言葉で表現するかもしれない。私はそうは思わない。玄奘の持つ熱意と、清らかな魂が、出会う人々をして、この人を助けたいと思う気持ちにさせたような気がしてならない。

玄奘だけではない。過去何千年のあいだ、この玉門関において、幾千・幾万の喜びと悲しみのものがたりが展開されてきたかと思うと、しばらくのあいだ、私は無口になってしまった。

漢長城跡は、ひと言でいえば、玉門関を取り囲む土塀だ。壁の強度を高めるため、土と土のあいだに藁(わら)・葦(あし)・柳の枝を入れて、上から槌(つち)で何度も何度も叩いて固めてある。雨が極度に少なく、地震もないからだろう。2100年前のものが、そのままの形で見える。これを造った兵士たちの姿が見え、その声が聞こえるような気がする。あの張騫(ちょうけん)も、あの李広・李陵も、そしてあの蘇武(そぶ)も、この土塀を見たに違いない。


バスの出発前のトイレタイム、灰皿の前で余さんが少年時代の思い出を語ってくれる。余さんは敦煌郊外の農家の生まれだという。

「子供の頃の私の役目は、さっきバスから見えたラクダ草と葦(あし)を集めることでした。ラクダ草は馬とロバの餌で、葦はほうきを作る材料です。それ以外にもこの二つの草はとても貴重です。乾かして燃料にします。湯を沸かしたり料理に使います。この二つの草を、私の村では親は『宝草・たからぐさ』と子供たちに教えていました。ラクダや馬・ロバのフンも集めました。これらも乾燥させて燃料にします。この辺りは木が少ないのです」

48歳の余さんの少年時代といえば、たった40年前である。文化大革命は終わり、鄧小平の「改革開放」はすでに始まっていた。そのような時、甘粛省の北西端の敦煌の農村の生活はこのようなものであったことを知り、中国の経済発展はごくごく最近の出来事なのだと改めて認識した。

この晩の敦煌での夕食は日本料理だった。鯖(さば)の塩焼き定食で、脂の乗りが少ない気はしたが、酢の物・漬物・茶碗蒸し・味噌汁が美味しかった。経営者は日本人ではなく現地の人だ。「日本酒もあるよ」と言ってくれたが、値段が3倍くらいするし、何よりも外国に輸出する日本酒には大量の防腐剤が入っている。酒は地元のものを飲むにかぎる。地元のビールを注文する。とても美味しい。


玉門関
左はヨット部のS君


玉門関

建物の内部

漢長城跡

漢長城の土塀
土の間に藁や葦が見える

呆然と立ちすくむ田頭

唐代の役人の姿をした観光局の人

2025年10月6日月曜日

【敦煌】白馬塔と梨の果樹園

 シルクロードのものがたり(71)

莫高窟での感激が大きかっただけに、直後の白馬塔見学は付け足しの気がして、さほど期待はしていなかった。ところが、この白馬塔見学は、今まで私の頭の中でモヤモヤしていたことの二つを、すっきりと解消してくれた。

余さんは次のように話してくれる。

「鳩摩羅什は亀茲国(きじこく・クチャ)から中国の中原に向かう途中、敦煌で何日か休息しました。ある夜、夢をみました。自分が今まで乗ってきた白馬が夢に出てきて言うのです。 ”私は今まであなたをお守りしてここまでたどり着きました。ここまで来ればもう安心です。私は自分のやるべき勤めをはたしました” そう言って白馬は消えてしまった。不安に思った鳩摩羅什は、すぐに厩舎(きゅうしゃ)にかけつけました。馬はすでに死んでいました。地元の人々もこれを悲しみ、白馬をここに埋葬して塔を建てました。その後、何度も改修され現在の塔は清代に造られたものです。直径7メートル、高さは12メートルです」

鳩摩羅什は自国の敗北後、将軍・呂光に捕らえられ中国に連行される。385年のことだ。皇帝・符堅(ふけん)から「高僧・鳩摩羅什を連れて帰れ」と命令されていたので、手荒な扱いはしていないと思ってはいたが、この話から、将軍・呂光が鳩摩羅什に対して礼を尽くして丁寧に対応していたことが確認でき、とても嬉しく思った。

「この白馬塔の周りを、男性は右まわりに女性は左まわりに、3回まわると願い事が叶うといわれています」と余さんが教えてくれる。ツアー仲間の多くは3回まわっていたが、距離もあり、しかも直射日光が暑い。私には特に願い事はないので、右まわりで1回だけまわった。

白馬塔の手前に回廊(かいろう)があり、朱色の柱が何本も立っていて、それぞれの柱に鳩摩羅什が翻訳した「般若心経」が漢字で書いてある。スマホで撮ったのだが、ハンドルミスで消えてしまった。玄奘の訳とはかなり異なる。冒頭部分の玄奘訳は「観自在菩薩・かんじざいぼさつ」とあるが、鳩摩羅什の訳は「観自音菩薩・かんじおんぼさつ」と書いてあった。

白馬塔の敷地のとなりに果樹園がある。青い実がいっぱい見える。熟す前のリンゴではないかと思った。余さんに聞くと、「梨です。このあたり一帯は梨の名産地です」と答えてくれる。これでひらめいた。「そうなんだ!」と私は一人で合点して、思わず笑みが浮かんだ。


というのは、玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)が残した言葉が真実だとわかったからだ。この話は『続日本紀・しょくにほんぎ』の最初あたりに記されている。文武天皇四年(700年)三月二十七日に道照が72歳で亡くなったときの、大和朝廷の行政日誌である。一部を引用する。

「道照は孝徳(こうとく)天皇の白雉四年(654年)に遣唐使(注・第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。『私が昔、西域に旅した時、道中飢えで苦しんだが、食を乞うところもなかった。そのとき突然一人の僧が現れ、手にもっていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。お前はあのとき私に梨を与えてくれた法師にそっくりである』と」

玄奘の天竺への旅で一番苦しかったのは、玉門関から伊吾国(イゴ・哈密の近く)の間であったと考えている。よって、この梨の話には合点がいく。別に疑ってはいなかったけれど、敦煌やトルファン(高昌国)あたりの果物は、ザクロ・葡萄・ハミウリなどが有名で、梨がよくできるとは思っていなかった。この梨の果樹園を見て、そして余さんの説明を聞いて、玄奘と道照の二人の高僧の言葉が真実であったと認識した。

この白馬塔でもバスの出発前にトイレ時間がある。早々とトイレをすませて、わきにある灰皿の前で余さんとおしゃべりをする。ここで余さんは、鳩摩羅什と玄奘の般若心経の違いを次のように解説してくれた。この二人の高僧の年齢差は268歳で、鳩摩羅什が先輩である。両者ともサンスクリット語を漢語に翻訳した。

「どちらが優れているかというのは難しい問題で、私にはわかりません。鳩摩羅什の父親はインドの貴族で、母親は亀茲国(クチャ)の王様の妹です。9歳のときインド北部のカシミールに留学しています。よって彼はインド哲学を充分に理解した上で、サンスクリット文字の内容を正確に漢語に訳しています。これにくらべ、玄奘のものは、できるだけ中国人が理解しやすいようにと配慮して、かなり意訳されている、といわれています」

いってみれば、鳩摩羅什の般若心経は「直訳」で、玄奘のものは「意訳」ということらしい。我々日本人が日頃使っている般若心経は、すべて玄奘の訳したものである。玄奘の愛弟子である法相宗の道照からの流れであろう。中国では現在どちらの般若心経が使われているのかは聞きそびれたが、たぶん玄奘のものではないかと思う。


中華人民共和国が成立して以降、中国では仏教はすたれている私は思っていた。しかし、この余さんにしても、莫高窟研究員の王さんにしても、仕事柄とはいえ、仏教についての知識を豊富に持っておられたのには驚いた。

私が手に持っている小型バックの中に、たまたま般若心経を一枚入れてあるのを思い出した。それを取り出し、漢字で書かれた262文字の般若心経を余さんに見せた。

余さんは驚いた顔で、「日本人はこれが読めるのか?日本人はいつも般若心経を持ち歩いているのか?」と聞く。私は郷里の広島県に帰ると、仏壇で般若心経を何十年も唱えているのでだいた覚えている。「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーおんかいくう、、、、、」とそらで、三分の一ほど、このお経を唱えてみせた。

余さんはびっくり顔で、「すごい、すごい。日本人はみんな般若心経を暗唱しているのか?」と聞く。「そうですよ」と答えて、日本人の民度の高いことを誇示しようかとも思ったが、嘘はいけない。「いいえ。寺のお坊さま以外で般若心経を暗唱している人は、私みたいな変わり者だけですよ。普通の人はやりません」と答える。余さんはホッとしたような顔をしていた。

西安の高さん、敦煌の余さんとの会話の中で、数多く出た中国人の歴史上の人物の名前は、秦の始皇帝・漢の武帝・張騫・則天武后、そして僧では鳩摩羅什・玄奘であった。私の好きな李広・李陵、そして僧・法顕(ほっけん)の名前は出なかった。

余さんが、「現在、中国の高校の歴史の教科書で、唐代に出てくる日本人の名前は3人です」と教えてくれる。阿倍仲麻呂(晁衡)、吉備真備、空海だそうだ。これには納得できる。


白馬塔


敦煌の梨畑








2025年10月2日木曜日

【敦煌】莫高窟(ばっこうくつ)

 シルクロードのものがたり(70)

敦煌という文字には「おおいに盛んなり」という意味があるそうだ。砂漠の都なので昔から沙州(さしゅう)とも呼ばれている。

敦煌が前秦・符堅(ふけん)の支配下にあった西紀366年ごろ、西方から来た楽僔(らくそん)という僧が、鳴沙山の東の断崖に洞窟を掘り仏塑像(そぞう)を安置した。これが莫高窟美術のはじまりだという。この楽僔という人はインド人だったと思われる。

同じ頃、亀茲国(きじこく・庫車・クチャ)の若き高僧・鳩摩羅什(くまらじゅう)は符堅の部下の将軍・呂光の捕虜となり、この敦煌を経由して、武威(ぶい)・長安へと連行されている。この二人の異国の僧は西方から中国に仏教を伝えた。同じころ、私の大好きな中国人僧・法顕(ほっけん)は、長安を出発して敦煌を経由しシルクロードを西に進み、インドで仏教を学んだ。

この三人の僧が、どこかで出会ったということは史書には残されていない。多分出会ってはいないだろう。しかし、ほぼ同じ時期に、この三人の僧が敦煌の景色を見ながら敦煌の空気を吸ったことを想像すると、えもいえぬ感動が私の胸に湧いてくる。

その後、元の時代に至るまでの千年間、修行僧・仏師の手によって洞窟での仏教美術の制作が続けられ、現在でも492窟にその作品が残っている。西方のカシュガル(喀仕)・クチャ(庫車・亀茲国)・ホータン(和田)の仏教美術品はイスラム教徒によって徹底的に破壊された。それに比べ、この莫高窟の仏教美術品が残ったのは、この地が漢族・チベット族・蒙古族によって支配されイスラムの侵入を防いだからである。

しかし、この莫高窟にも文化財の破壊や持ち出しの苦難の時代があった。19世紀後半から20世紀前半にかけての、欧州列強の探検隊による発掘と文化財の持ち出しである。英国のオーレル・スタイン、仏国のポール・ペリオ、スエーデンのスウェン・ヘディンらが有名である。大谷探検隊という日本人の名前も出てくる。浄土真宗本願寺派法主の大谷光瑞が指揮した探検隊である。

彼らは、この地に勝手に侵入して物品を奪い去ったというわけではない。清朝政府の了解のもとに、仏像や経典を管理する寺の住職に代価を払って購入している。ただ今日の感覚からすれば、弱体化した清朝政府の弱みにつけこみ、不当に安い代価をもって貴重な文化財を奪いとったという印象はぬぐえない。

ごく最近にも、敦煌・莫高窟の危機があった。文化大革命である。多数の紅衛兵がこの地に押し寄せて仏教遺跡を破壊しようとした。「紅衛兵を絶対に敦煌に入れるな」と人民解放軍に指示して、これを防いだのは宰相・周恩来だと聞いた。


男性ガイドの余さんが8つの洞窟を案内してくれる。わかりやすい説明で、それぞれの仏像や仏画も美しく感激する。ただし、この莫高窟内部はすべて写真撮影は禁止されている。特に美術価値の高い重要窟には昼間でも鍵がかかっていて、余さんは案内できない。

4つの重要窟を案内してくれたのは、敦煌研究院の研究員、王(おう)さんだ。王さんは35・6歳の美しい女性で、知的で人柄も良い。機転が利くというか、打てば響くといった感じの会話のやりとりが心地よい。「王さんは美人ですね。まるで楊貴妃みたいです」と私が言うと、睨み顔で「楊貴妃を見たこともないくせに!」と言って、あとでにっこりと笑う。

4つの重要窟を案内してもらった。その中の第45窟は、492窟あるなかで一番価値の高い最重要美術品だという。中央に釈迦の像があり、こちらから見て釈迦の左に弟子の阿難(あなん)、右に同じく弟子の迦葉(かしょう)の像が立っている。そのとなりには一体つ”つ、健康美あふれる菩薩像が立つ。その両外側には一体つ”つ、鬼を踏みつけている勇ましい武人の像が見える。盛唐を代表する第一級の塑像(そぞう)だそうだ。仏教美術に素人の私にも、これが素晴らしい作品だということがわかる。

「修復や、休館などで、この第45窟を見学するのはとても難しいのです。みなさんは幸運です」と王さんは言う。井上靖は、「第45窟を頂点とする唐代の諸像こそ、日本の白鳳・天平の仏たちの原流ではないかと思われる」と語っている。

王さんは中国の大学で歴史を専攻し、その後、東京の成城大学に留学したとおっしゃる。「王さん、私は敦煌がとても気に入りました。日本からここに移住して仏教修行をしようかと思います。その時は、週2-3回、王さんの助手で日本人観光客相手にガイドのアルバイトをしたいと思います」

こう言うと、「それは良い考えですね!」とにっこりと笑う。美人の王さんの写真を撮り忘れたのは、今回のシルクロード旅行での最大の不覚である。

莫高窟

莫高窟から見た外の景色
樹木はポプラ


ヨット部のS君は砂塵でくしゃみが出るらしい

2025年9月29日月曜日

【敦煌】敦煌のハミウリは旨い!

シルクロードのものがたり(69)

今回のツアーは少しだけ値段の高いものを選んだ。西安のホテルも立派で部屋も広い。一人一部屋なので快適だ。ホテルの朝食を含め、外のレストランでの昼食・夕食も美味しい。ただ食後にデザートとして出る、西瓜はそれなりに美味なのだが、ハミウリの味がよくない。

私にすれば唯一、これが面白くない。

日本から同行したベテラン添乗員のO女史にこれを言うと、「こんなもんじゃありませんか」と答える。そんなことはない。若い頃、香港で食べたハミウリはこんな味ではなかった。もっと美味しかった。しかも8月のツアーを選んだのは、ハミウリが一番旨い時期と知っての上だ。司馬遼太郎も陳舜臣も、あちこちに感激の気持ちを込めて「ハミウリの旨さ」を語っている。こんななさけないハミウリを食べて日本に帰ることになれば、私としては男が立たない。

私がハミウリに異常な執着心を持っているのを察したOさんは、助け舟を出してくれる。
「この前の仕事で敦煌に行ったとき、お客様を連れてバザールに行きました。ハミウリを売っている果物屋が数軒ありました。あそこに行けば美味しいハミウリがあるかも知れません」

親切な提案に感謝して、「よろしくお願いします」と答えたのだが、内心では大きな期待はしていなかった。「敦煌は中国の北西端に位置するが、中国本土である甘粛(かんしゅく)省にある。旨いハミウリは、やはり本場の新疆ウイグル自治区のトルファン・ウルムチに行かなければ食べることができないのではないか」と勝手に想像していた。


砂漠見物のあと外のレストランで夕食を終え、ホテルにチェックインする。敦煌のホテルも立派だ。各人は部屋でシャワーを浴び、ほぼ全員でホテルから徒歩5分のバザールに向かったのは夜の10時を過ぎていた。でも、敦煌の夏の日没は夜9時過ぎなので、「これからが涼しいバザールのはじまり」といった感じで、観光客の数がとても多い。300ほどの店が並び大変な賑わいだ。

入り口から4-5軒目に大きな果物屋がある。ここで買おうと思ったが、余さんが、「そんなにセカセカしないで、全体を一回り見物したあとでいいのでは」と言う。もっともだと思い、40分ほど数軒の果物屋を含めてバザール全体を見て歩く。

結局、最初の果物屋で買うことにする。一番大きいよく熟した8キロのハミウリを、Oさんに交渉してもらい75元で買う。1500円だから安いものだ。果物屋の主人はその場で切って、大型のプラスチック容器2つに山盛りにして、竹の串を10本つ"つ付けてくれる。容器に入りきらない10片ほどはここで食ってくれと言う。

その場に居合わせた仲間数人で、2切れつ”つ立ったまま食べる。素晴らしく旨い。「旨い!旨い!」の歓声がみんなからあがる。容器一つでも我々3人で食べきるのはむずかしい。「ほかの方々にも食べてもらってください」ともう一つの容器を添乗員のOさんに渡す。

ホテルに戻ると、果物屋に寄らなかったツアー仲間の数人が、ロビーに座って休んでいる。その場で食べてもらった。「旨い!旨い!」と皆さん大変喜んでくださる。
この美味しいハミウリとの出会いで、私は敦煌がいっぺんに好きになってしまった。

これに味をしめて、「トルファンでもウルムチでもハミウリを丸ごと買って食べるぞ!」と意気込んでいたのだが、いずれの地でも、食後に出るハミウリが大量でしかも美味しい。丸ごとハミウリの購入は敦煌だけで終わった。

敦煌のハミウリ

果物屋のご主人


仲良しになった

果物は豊富だ

パパイアもある

ロビーで仲間の皆様に食べてもらった

2025年9月26日金曜日

【敦煌】鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっかせん)

 シルクロードのものがたり(68)

西安から敦煌までの飛行は2時間弱だが、出発が少し遅れたので、敦煌空港に着いたのは午後3時を過ぎていた。迎えのバスですぐに鳴沙山に向かう。日没は夜の9時ごろなので時間は充分ある。驚いたのは、空港を出てバスに乗ろうとしたら雨が降っている。パラパラであるが、敦煌の雨は珍しい。20分ほどでやんだ。

鳴沙山は、東西40キロ、南北20キロの砂漠のはしっこにある。空港から15分ぐらいでずいぶん近い。あまりにも突然、「月の砂漠をはるばると、、、」の世界が眼前に現れたのでびっくりする。

月牙泉は鳴沙山の谷あいに湧く三日月形の泉(オアシス)で、漢の時代から今に至るまで一度も枯れたことがないという。縦200メートル、幅は広いところで50メートル、深さは平均5メートルだそうだ。「魚もいるよ」とガイドさんが言う。

敦煌でのガイドは余(よ)さんという漢人で、48歳の男性だ。大柄でゆったりとした言動の人で、中国の「大人・たいじん」といった雰囲気の人だ。余さんとはすぐに仲良しになる。共に喫煙者だということに理由がある。今回中国を旅行して驚いたのは、飛行機・新幹線に乗るたびに危険物ということでライターを取り上げられた。とても厳重にチェックをする。

よって、次の町に着くと同時に「ライターはどこで買えるの?」とガイドさんに聞くことになる。空港を出て余さんにこれを聞く。余さんはポケットからライターを取り出し、「これをやるよ」と言う。西安で買い物をしておつりをもらっていたので、10元札が数枚ある。一枚を渡そうとすると、「いいよ、いいよ。カバンの中にもう1個あるから」と笑って受け取らない。「謝謝、謝謝!」と二度言って頭をペコリとさげる。これで二人の間には、一種の友情らしき感情が芽生える。

喫煙者は世界中どこでも、軽蔑され虐げられていて、絶滅寸前の少数人種になりつつある。タバコを吸うというだけで、お互いが親近感を持つということがどの国でもあるようだ。種の保存という動物の本能が、互いに助け合おうという気持ちにさせるのであろうか。


中国のどこの観光地でも、バスを降りたあと入園・入館のゲートで顔写真を撮り、ものものしくチェックする。そこから目的の地点まで数百メートル、1-2キロの距離があることが多い。昔は歩いたようだが、今は電動のカートで移動する。15-20人が乗れ運転手もいる。この鳴沙山観光もそのスタイルだ。オレンジ色の綿製品の靴カバーを余さんがみんなに配っている。25元のレンタルで、靴の中に砂が入らないようにこれで靴を覆う。

鳴沙山は60-70メートルの高さで、登りやすいように、ワイヤーと木板で簡易階段がつくられている。みんなが一列になって、ワッセ・ワッセと登っている。楽ではないが、今年の4月からスポーツジムで体を鍛えているのでそれほど辛くはない。

頂上に到着すると、微風が吹いてとても涼しい。見晴らしも良く、月牙泉の泉の周辺だけにある樹木の緑が、砂だらけの景色の中でひときわ美しく見える。玄奘だけではない。古来から何千年のあいだシルクロードの砂漠をラクダと共に歩いた旅人たちが、目的地のオアシスにたどり着き、緑輝く樹木を見たときの感激がどれほどのものであったか、想像できる。

砂だらけの鳴沙山を降りるとき、砂の中にスマホが落ちているのを見つけた。古いものではない。今日か昨日の落し物らしい。中国語の画面が見える。山から下りて余さんに渡した。「ほう、良いことをしましたね。落とした人は喜ぶでしょう」そう言って、余さんは管理事務所に届けた。

砂山から降りて、ラクダに乗ろうと思った。100元(二千円)払えば30分ほど乗せてくれる。ところが、「今年から65歳以上の人は乗れないという規則ができた」と余さんが言う。なんでも、今年の春ごろ北京から来た60代後半の男性観光客が、ラクダから落ちて大怪我をしたのだという。「田頭さんは若く見えるから64歳と言ってもよいのだが、パスポートを見せろというから無理だな」と言う。

若い頃、タイで象に乗ったことがある。今回ラクダに乗るのを楽しみにしていたので、誠に残念であった。

敦煌の砂漠にも楊貴妃が何人もいた




お揃いの靴カバーをして砂山に登る

左の三日月形が月牙泉

ラクダには乗れなかった