2025年1月10日金曜日

崑崙の玉の話(2)

 シルクロードのものがたり(49)

ずいぶん古い、中国人の玉(ぎょく)への信仰

「8000年前の中国の遺跡から玉器が発見された」と聞いてびっくりしたのだが、冷静になって考えれば、これは別に驚くことではない。8000年前の新石器時代には、世界中の人々が硬い石を割り、削り、磨いて、斧(おの)・包丁(ほうちょう)などの生活用品としていた。また、鏃(やじり)・槍(やり)・刀などをつくり、狩猟や武器に使っていた。

青森県・三内丸山の縄文時代の遺跡からは、北海道産の黒曜石の斧や鏃(やじり)が数多く出土している。糸魚川産の翡翠(ひすい)製品もたくさん出ている。「石器時代からの流れ」の中で考えれば、高級石器である「玉製品」が古くから珍重されていたのは、自然なことだと思われる。

石器時代には、世界中の人々が石を加工して生活用品として使っていた。その中にあって、唯一、古代中国人だけが「玉には禍(わざわい)を遠ざける神秘的な霊力がある」と信じていたようである。硬くて光沢のある玉に不死の生命力や霊の力があると感じ、玉を身につけることでその霊力を借りようとしたのであろうか。


1928年、西安から南東400キロに位置する殷墟の墓から、1928点の出土品が見つかり、このうちなんと4割に近い756点が玉器であった。この墓は、殷王朝22代の王・武丁(ぶてい)の妃(きさき)である婦好(ふこう)という人のものであると、青銅器の銘文により確定されている。この女性は、単に武丁の妃の一人との認識でははかることのできない大物女性である。

この婦好という女性は、祭祀をとりおこない占いを得意とした。また自ら一万三千の兵を率いて周辺の敵を征伐した。古代の日本でいうと、卑弥呼(ひみこ)と神功皇后(じんぐうこうごう)を合わせたような女傑であったらしい。酒池肉林におぼれて滅亡した殷朝最後の30代・紂王(ちゅうおう)が死んだのはBC1048年だから、この婦好(ふこう)はその200年ほど前の人だと考えられる。今から3300年ほど昔の人である。

材質を分析したところ、その大部分が西域のホータンやヤルカンド(ホータンの北西300キロ・タクラマカン砂漠の最西端)のものだとわかった。すなわち、これらは崑崙(こんろん)産の玉であったのだ。

これより1000年のちの漢代のお墓からの出土品について紹介したい。1968年に河北省・満城(まんじょう)県の満城漢墓(まんじょうかんぼ)から出土した金縷玉衣(きんるぎょくい)は非常に豪華なものである。この墓は、前漢の武帝の異母兄である中山靖王・劉勝(ちゅうざいせいおう・りゅうしょう)とその妻のなきがらを葬ったもので、二人は金縷玉衣に包まれていた。劉勝の玉衣は、2498枚の玉片一枚一枚の四隅に孔(あな)をあけ、金の糸でつつ”りあわせたもので、金糸だけで1100グラムにおよんでいる。

この玉の成分を分析したところ、これらもホータン産の玉と同じであった。玉衣とは、これで包めば遺体は完全に保存できるという信仰にもとつ”いており、玉崇拝の極みともいえる考えである。

これらの事実から考えると、ユーラシア大陸を東西に通じるシルクロードと呼ばれるこの道は、「絹(シルク)の道」よりも「玉の道」としての歴史のほうが、より古いような気がする。西から来るのが「玉」、西に行くのが「絹」という時代が何千年も続いたと思われる。


漢代の玉衣






2024年12月23日月曜日

崑崙(こんろん)の玉(ぎょく)の話

 シルクロードのものがたり(48)

玉(ぎょく)とはいったい何なのか?

三光汽船のシンガポール駐在員の頃は、マレーシア・インドネシア・タイ・香港が守備範囲だったので、この方面には頻繁に出張していた。出張というと聞こえがいいが、日本からの荷主・現地での受け荷主・代理店の方々と一緒に本船を訪問したり、食事やゴルフをしたり、時には彼らと一緒に1-2泊で旅行をすることもあった。

日本郵船・商船三井を含め海運会社の駐在員は、お客様との信頼関係を築くのが仕事のメインで、事務的な仕事はローカルスタッフにまかせ、自分ではほとんどしない。だから、船会社以外の商社や銀行などの駐在員からは、「船会社の人っていつも遊んでいるみたいだね」とよく言われていた。

各地をウロウロと旅をしていて、これらの国に住む中国系の人々の指輪の「へんてこな石」が気になって仕方なかった。ダイヤモンドやルビーなどの宝石ではない。ただの石っころを、嬉しそうに指輪にしているのだ。

二度・三度食事を一緒しているうちに心やすい関係になる。「その指輪の石、いったい何なの?」と聞いてみる。「これは石ではないよ。玉(ぎょく)なんだ。ルビーやサファイヤより値段が高いんだぜ」と口をとがらせる。そして、この玉なるものがどれほど貴く自分の身の安全を守ってくれるかを、長時間とうとうと弁じる。何人もの人が、同じように得意げに説明してくれた。「石に対する一種の信仰だな」と私は思った。

今回シルクロードに関する本を読んでいて、この玉に対する中国人の愛着・信仰の歴史は、私が考えていた以上に古いものだということがわかった。当初は3500年ほど昔の殷の時代がその起源かと考えていたのだが、どうももっと古いらしい。


「8000年前の新石器時代の興隆窪(こうりゅうわ)文化の遺跡から玉器が発見された」と常素霞著「中国玉器発展史」の中に書かれている。中国人が書いたものなので、少し眉唾ではあるまいかと当初は疑っていたのだが、何冊かの他の本を読んでみて、どうも本当のようだ。

じつはこう書いている今でも、「玉とはいったい何なのだろう?」との気持ちが自分の心の中にある。広辞苑にはこう書いてある。「たま。宝石。珠(じゅ・貝の中にできる丸い球)に対して美しい石をいう。硬玉・軟玉の併称。白玉・翡翠(ひすい)・黄玉の類」 わかったようで、よくわからない。40年前に私が持った認識は、かならずしも間違っていなかったような気もする。

ただ、玉というものはその言葉からして、貴く、得難く、価値あるものであることはわかる。玉体(ぎょくたい)・玉顔(ぎょくがん)・玉璽(ぎょくじ)・玉音(ぎょくおん)・玉酒(ぎょくしゅ)・玉杯(ぎょくはい)などは、皇帝や天皇に関係する言葉のような気がする。玉砕(ぎょくさい)という言葉からは太平洋戦争を思い浮かべるが、中国の古書「北斉書」の中に見える。玉石混淆(ぎょくせきこんこう)・金科玉条(きんかぎょくじょう)という言葉も中国の古典の中にある。私の文章はいわば「石稿」だが、優れた文章のことを「玉稿」という。すべての言葉に、「すぐれて貴い」という意味が込められているようだ。

切磋琢磨(せっさたくま)という言葉は『詩経』の中にある。当時から現在と同じく、自己研鑽ぶりを表した四文字熟語であるが、本来はそれぞれの文字が、材料を加工する作業を表示しているのだという。「切」は骨を切って加工する作業。「磋」は象牙をといで加工する作業。「琢」は玉(ぎょく)を打って加工する作業。「磨」は石を磨いて加工する作業。このような意味らしい。








2024年12月16日月曜日

ハミウリ(哈密瓜)の話(3)

 シルクロードのものがたり(47)

ハミウリ(哈密瓜)の話(3)

陳舜臣の「シルクロード旅ノート」を読んでいて、はっとした。私の大好きな人物の名前が目に飛び込んできたからだ。阮籍・陶淵明・李白・杜甫・陸游など中国の横綱級の詩人が、この人を敬慕して詩に書いている。ただ、散文の中でこの人について語っているのは、私が知る限り今までに二人しかいない。

司馬遷は「項羽本紀・こううほんぎ」と「蕭相国世家・しょうしょうこくせいか」で、この人物について記している。今一人、司馬遼太郎は「項羽と劉邦」に中にこの人物を登場させている。陳舜臣が三人目である。私はこの人物に惚れ込んでしまって、2年ほど前に「小説・東陵の瓜」と題し、このコーナーで紹介した。この人物の名前は、東陵候・召平という。


陳舜臣は次のように書いている。

18世紀半ばに、新彊に左遷された紀昀(きいん・1724-1805)の「烏魯木斉・ウルムチ・雑詩」の中に、次のような詩がある。

種(しゅ)は東陵子母(とうりょうしぼ)の瓜に出つ”

伊州(いしゅう・哈密のこと)の佳種(かしゅ) 相誇る無し

涼(りょう)は冰雪(ひょうせつ)と争い 甜(てん)は蜜(みつ)と争う

消(しょう)し得たり 温暾顧渚(おんとんこしょ)の茶

秦の東陵候であった召平は、秦がほろびた後、故郷の長安の城東で瓜をうえ、それがたいそう美味であったという。子母とは繁殖を象徴することばである。その種が伝わってできたように、つめたく、また甜(あま)い。それにあたためた顧渚の茶(浙江産の銘茶)を飲めば消化もよろしいのである。

以上は陳舜臣の筆による。


この紀昀(きいん)という人が読んだのは、阮籍(げんせき)の詩に間違いあるまい。紀昀は「召平の瓜の種が伝わってきたかのようだ」と言っているが、私は「西域のハミウリを漢代初頭に、召平は長安の地でつくっていた」と考えている。魏の阮籍(竹林七賢人の筆頭・210-263)は次のように詠(うた)う。

昔聞く 東陵の瓜 近く青門の外に在り

畛(あぜ)に連なり 阡陌(せんぱく)に到(いた)り 

子母(しぼ)相鉤帯(あいこうたい)す

五色 朝日(ちょうじつ)に耀(かがや)き 嘉賓(かひん)四面より会(かい)せりと

昔こんな話を聞いたことがある。東陵候が瓜をつくった場所は、長安の都の青門の近くだった。あぜ道からずうっと東西・南北の道まで、大きな瓜、小さな瓜がつながり合っていた。その瓜は、朝日をうけて五色に輝き、立派な客が四方から集まってきたという。


召平の瓜畑では、五色の瓜が朝日を受けて輝いていたという。そして、「季布に二諾なく」のあの季布(きふ)が、「中国史上群を抜く名宰相」といわれたあの簫何(しょうか)が、召平のあばらやに瓜を買いに来たのだという。秦が滅びて東陵候の爵位を失った召平は、故郷の長安郊外に帰り農夫になって瓜を作った。そして楽しく充実した人生を送り、百歳近い長寿を保ち、死んでいった。これを多くの人々が讃え、また羨ましがったようである。日本でも掛け軸に、かっぱを着た老人が畑で農作業をしている絵を見ることがある。召平がウリ畑の手入れをしている姿である。

二千年前、長安郊外の畑で、召平がこのハミウリをつくっていたのは間違いないと、田頭は考えている。そして、召平の真似をして、郷里広島県の畑で西瓜やまくわ瓜をつくっているのだが、なかなか良いものが収穫できない。

白く見えるのがハミ瓜 ウズベキスタン 提供
辻道雄氏








2024年12月9日月曜日

ハミウリ(哈密瓜)の話(2)

 シルクロードのものがたり(46)

ハミウリ(哈密瓜)の話(2)

陳舜臣は神戸生まれだが、ご先祖様は中国人である。このことが理由か、司馬遼太郎以上にハミウリへの思い入れが強く、またこの瓜の故事にも造詣が深い。この人の書いた西域関係の数冊に目を通したが、その多くにハミウリのことを記している。よって、以下はこれらの本からの引用が多い。

司馬遼太郎は「明の永楽帝に献上」というが、陳舜臣は「清の皇帝に献上」と述べている。しかし、これはたいした問題ではない。明の皇帝への献上が喜ばれたので、ハミの王様は清朝にも献上を続けたのであろう。

明の永楽帝がはじめてハミウリを食べた中国の皇帝だとは思わない。この瓜は別にハミ(哈密)地方が原産地でもなければ、哈密だけの特産物でもない。タクラマカン砂漠周辺の全域のみならず、その西方のカザフスタン・キルギス・ウズベキスタン・トルクメニスタン・アフガニスタンあたりでも、立派なハミウリが大量に生産されている。よって、漢代の張騫(ちょうけん)・蘇武(そぶ)・李広(りこう)・李陵(りりょう)たちもこのハミウリを食べたであろうし、漢の武帝も西域からのお土産としてこのハミウリを食べたのは、ほぼ間違いないと私は思っている。

陳舜臣は「シルクロード旅ノート」の中で、「炎天下、瓜を割って食べるたのしさ」と題し、次のように語っている。

シルクロードの果物の雄である瓜について述べよう。炎天下、ようやく探し当てた木陰で、瓜を割って食べるたのしさは、たとえようがない。チンギス汗に従って、サマルカンド地方に遠征した耶律楚材(やりつそざい・1190-1244)の「西域に新瓜(しんか)を嘗(な)む」と題する詩が思い出される。

征西の軍旅 未(いま)だ家に還(かえ)らず                             

六月 城を攻めて汗(あせ) 沙(すな)に滴(したた)る

自ら不才を愧(は)ずるも  還(ま)た幸(しあわせ)有り

午風(ごふう)涼しき処(ところ)に 新瓜(しんか)を剖(さ)く

この遠征は、足かけ7年にわたる血なまぐさいものであった。燕京(えんけい・北京)出身の彼には耐えがたいものであった。そんなとき、わずかに幸せを感じるのは、「木陰で新しくとれた瓜を割る」ことだという。シルクロードを旅していると、この気持ちがよくわかる。詩に六月とあるが、もちろん陰暦のことだから、太陽暦の七月である。夏が瓜の食べごろなのだ。秋に行けば瓜がないということではない。ただ夏のほうがおいしい。

哈密(ハミ)という新彊(しんきょう)の地名をとって、ふつう哈密瓜(ハミウリ)と呼ばれているが、なにも哈密だけにできるものではない。トルファンでも、カシュガル、ホータンでもシルクロードのいたるところで生産されている。だから哈密以外の土地の人たちにとって、このウリに「哈密」という特定の地名が冠せられているのが面白くないらしい。彼らはこの瓜を「甜瓜・てんか・甘い瓜」と呼んでいる。


「美味は神秘性を帯びる」と題し、次のようにも語っている。

清朝時代、この瓜は貢品として、朝廷に毎年献上されていた。朝廷ではこれを群臣に下賜したが、よほどの寵臣でなければ一個まるごともらえない。半分に切ったものとか、四分の一をもらうといったことだったらしい。ハミウリを下賜されるのは、朝臣のごく一部であったので、それだけにその美味は、皇帝の寵愛度と重なり、神秘性を帯びた。禁じられた美味として、下級官僚や裕福な庶民たちはあこがれたのである。

清朝末期の役人で宋伯魯(そう・はくろ)という人がいた。1886年の進士及第だという。この人が新彊に赴任して、はじめてあこがれのは哈密瓜にありついた。それに感激して「哈密瓜を食す」という題の詩がある。(冒頭のみを紹介する・田頭)

我(われ)、毀歯(きし)より 已(すで)に耳に熟(じゅく)せるも

玉(ぎょく)を剖(さ)くに縁無(えんな)く 空(むな)しく嘆嗟(たんさ)せり

毀歯とは歯が生えかわる時期のことで、7歳・8歳ごろとされる。このころから美味しいと噂に聞いていたが、玉(哈密瓜の美称)を割く縁がなく、むなしくため息ばかりついていたという意味である。ひょっとすると、この詩には、哈密瓜を下賜されるほどの高官に昇進しなかったことを嘆くニュアンスも含まれているのかも知れない。

以上は陳舜臣の筆による。


念のため、この宋伯魯について調べてみたら、1856-1932と書かれている。日本でいうと昭和7年まで生きた人だ。この詩を書いたのは、日清戦争のあとで、おそらく日露戦争の前後だと思われる。清朝が滅亡するほんの少し前の詩である。

丸ごと一個もらえたのは宰相クラスだけというから、並みの大臣は半分というところか。そうだとすれば、次官・局長が四分の一、課長クラスはもらえないか、せいぜい八分の一だったに違いない。

前年に八分の一をもらった課長が、局長に昇進して、あるいは大きな手柄を立てて、今年は四分の一のハミウリを皇帝からもらった姿を想像する。大喜びで自慢げに家に持ち帰り、皇帝からの寵愛に感激の涙を流しながら、妻子を含めた一族郎党と一緒に、このハミウリを薄く切って皆で分け合って食べている姿を想像すると、なんともほほえましい。


ウズベキスタン 手前がハミウリ、向こうが西瓜 提供・辻道雄氏 








2024年12月6日金曜日

ハミウリ(哈密瓜)の話

 シルクロードのものがたり(45)

法顕の話が長くなってしまった。ここで少し趣を変えて、シルクロード地域の特産品に目を向けて、軽いタッチで紹介したい。


ハミウリ(哈密瓜)の話

はじめて私がハミウリを食べたのは30歳を少し過ぎた頃で、場所は香港だった。当時は海運会社に勤務していて、年に3-4回東京から香港に出張していた。35歳のときシンガポール駐在員になり同地に3年間ほど住んだが、この時もおなじくらいの頻度で香港に行っていた。

香港での食事は、代理店・ドッドウェルのマネージャーの郭(かく)さんと一緒の時が多かった。郭さんは食い道楽の広東人だが、中産階級のサラリーマンなので値段の高い店には行かない。接待費の枠も、上司の英国人にくらべ少なかった。いま考えると、この人は安くて旨い店を見つける名人だった気がする。

日本人観光客が一人もいない鯉魚門(レイユームン)にも、しばしば連れて行ってもらった。はじめてハミウリを食べたのはどこの店だったか忘れたが、郭さんと一緒だったことは覚えている。「美味しい瓜ですね」と言うと、「これは旨い瓜なんだよ。でも夏から秋の時期しか食べられない」と答えた。

シンガポールでは、パパイア・マンゴー・マンゴスチン・ランプ―タンなど食後のフルーツは豊富で、ハミウリは出てこない。「日本では見たことがないし、シンガポールでも見かけませんよ」と言うと、「瓜には害虫がつきやすいので、どの国でも植物検疫がうるさいんだよ」と教えてくれた。私がハミウリを食べたのは計10回ほどだが、いずれも香港だった。特に高価だったという記憶はない。香港では庶民が食べる果物だった。

「市場(いちば)では丸ごと売っているの?」と私がもの欲しげに問うと、「売ってはいるが大きいのは10キロほどもあるから、一人では食べきれないよ。シンガポールには持って帰れないし、食後にレストランで食べるのが無難だよ」と言って、郭さんは市場には連れていってくれなかった。


司馬遼太郎と陳舜臣の二人の作家は、NHK取材班に同行してシルクロード各地を何度も旅している。二人は別々の地域を担当したようだが、両人ともこの「ハミウリ」には感激したようで、熱の入った文章が残っている。ここでは、司馬遼太郎の「シルクロード、民族の十字路イリ・カシュガル」からその一部を紹介したい。

「美味格別なり、ハミウリ」

次の日、私たち取材班は哈密(ハミ)郊外の農村へと車を走らせた。10キロほど走ったとき中国側の屠(と)さんが、「ハミウリ畑です」と指さした。道路脇に集められたウリを手にとると、ラグビーのボールくらいの大きさ。黄色く熟したウリは5キロほどの重さがある。年配のウイグル人が、ハミウリの由来を説明してくれる。ウイグル語から中国語へ、そして日本語への二段通訳で。

「モンゴル帝国が滅び、明王朝が建った。永楽帝(えいらくてい)の治世1404年のことである。この地を治めていたアンクテムルという王は、永楽帝にウリを献上した。ひと口食べた皇帝は、”うまい” と口走った。そして臣下にたずねた。”これはいかなるウリじゃ” だが、臣下たちは、ハミからの献上品という以外は何ひとつ知らない。”いかなるウリじゃ”  帝は重ねてたずねた。 ”ハ、ハミウリにございます” と役人は答えた。それ以来、永楽帝に献上されたウリは、ハミウリと呼ばれ、天下に広まった」

私たちも、とりたてのハミウリをご馳走になった。メロンの甘さとスイカの淡白さを合わせもち、口に入れると舌にとけてゆく。「うまいなあ。私たちだけで食べるのも気がひけるから、日本に持ち帰って友達にもあげようか」と、後藤カメラマンと相談していると、早くも、それに気つ”いた通訳の張永富(ちょうえいふ)君が、「ぜひ、日本の友人に持ち帰ってください」と言って、特別大きなウリを8個もかかえて来てくれた。


後日、それからおよそひと月たって、私たちは成田空港に帰った。私はハミウリを検査官の前にさしだした。「ハミから持って来ました。検査してください」「ハミ?ハミってどこですか?」「中国のずっと奥にある町です。シルクロード取材の帰りです」「ハミ?弱りましたなあ、このウリ」と検疫官は困り顔である。「ちょっと待ってください」と言って、事務所の中にひっこみ、何か相談をしている。もどってきた係官は法律の綴じ込みをかかえている。

「これは輸入禁止品ですなあ。残念ですが」「ハミウリが輸入禁止品ですか。誰も持ってきた人はいないでしょう。それなのにどうして禁止品に入っているのですか?」「それは、まあ、そうですが。とにかく、ウリ全体がだめなんですよ」 はるばる遠いところから運んで来たのに、ここで取り上げられるのはなんとも残念である。しつこく係官にくいさがった。しかし、結局、だめであった。ハミウリは焼却処分された。

司馬遼太郎の無念そうな顔が目に浮かぶ。


この写真は哈密の西北西600キロ、石河子のものである


      



2024年11月27日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(15・完)

 シルクロードのものがたり(44)

法顕と鳩摩羅什(2)

さて、法顕の話にもどる。

法顕は苦難の旅をしながら天竺におもむき、危険な航海の末に多くの経典を中国に持ち帰った。しかし、これらの経典の多くはすでに鳩摩羅什の手によって漢語に翻訳されていた。

最澄・空海など唐への留学僧の場合も、現地で修業して仏教の奥儀を習得すると同時に、いかに多くの価値ある経典を我が国に持ち帰るかが重要な使命であった。このことはインドに向かった中国僧も同じである。多くのサンスクリット語の経典を中国に持ち帰り、漢語に翻訳することがとても重要だったのだ。「高僧伝」の鳩摩羅什37ページ、法顕13ページの差は、両者の人物の差だけではなく、翻訳した経典の分量にも関係があるのではないか、と法顕びいきの私は考えている。

北涼王・段業の保護を受けて、法顕が張掖に1年間滞在したことは以前に述べた。400年前後のことである。じつはこの時、鳩摩羅什は張掖より長安寄りの武威という町で、呂光に保護軟禁されて、すでに10年以上が経っていたのである。鳩摩羅什の軟禁のことは極秘とされていて、法顕はまったく知らなかった。あるいは、法顕がもし武威に滞在していたら、現地の僧たちからこの秘密の噂を聞いた可能性はある。

地図を見るとわかるが、通常は長安から張掖(ちょうえき)に行く場合は武威(ぶい)を経過するが、このとき法顕はバイパスを通っていて、武威には立ち寄っていない。もちろん法顕は、自分より年下の、鳩摩羅什という名僧の存在は充分知っていた。

作家の陳舜臣は、「もしこのとき、法顕と鳩摩羅什が武威で会っていたら、法顕の仏典に関する疑義はほとんど解けていたであろう。そして鳩摩羅什の書庫にあるおびただしい仏典を見て狂喜したであろう。もしかしたら、わざわざ天竺へ行く必要はないと、インド行きを中止したかも知れない」とまで言っている。これについては、仏教に無知な私はよくわからないし、コメントもできない。

ともあれ、鳩摩羅什はおびただしい量の経典を翻訳した。約300巻の仏典を漢訳し、玄奘とともに、中国における「二大訳聖」といわれている。

「三蔵法師」という言葉がある。仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三つに精通した僧侶に対する尊称である。のちに、法顕・玄奘・義浄(ぎじょう)を含め、何人もの三蔵法師が中国に生まれるが、最初にこの尊称を受けたのは鳩摩羅什であるらしい。

日本においては、天皇が名僧に贈る「大師」という尊称がある。現在までに二十五人が与えられたと聞く。我が国最初の大師は、下野国出身の僧・円仁で、866年に清和天皇から「慈覚大師」の尊称を賜った。「弟子に贈るなら、その師匠の最澄にも、、、」という話になったらしい。同じとき、最澄は「伝教大師」の尊称を賜った。両人とも没後である。空海の「弘法大師」は、その55年後で、921年に醍醐天皇から賜った。

ところが、現在の日本では「お大師さま」といえば「弘法大師・空海」を指す。中国、日本において三蔵法師といえば、一般的に「玄奘三蔵」を指す。これらからして、玄奘と空海という二人の人物は、だれもが感服する「群を抜いた人物」だったのであろう。


私は、「般若心経・はんにゃしんぎょう」は玄奘がはじめて梵語から漢語に翻訳したと思い込んでいたのだが、最初にこれを翻訳した人物は鳩摩羅什だと最近になって知った。じつは、この「般若心経」は今までに八人の中国僧によって、漢語に翻訳されている。

一番目が鳩摩羅什訳 魔訶般若波羅蜜多大明呪経

二番目が玄奘訳   般若波羅蜜多心経

三番目が義浄訳   仏説能断金剛般若波羅蜜多経

四番から八番は省略する。

三番目の義浄(ぎじょう)という人も傑物で、玄奘より33歳若い(635-713)。法顕や玄奘のあとを慕い、往復路ともに海路で天竺に行き、玄奘が学んだナーナンダ大学(僧院)で10年以上勉強している。

私の家は曹洞宗なので、本山は越前の永平寺である。法事の時にはお坊さまと一緒に、この般若心経を大声を張り上げて唱える。262文字の中身は玄奘三蔵さまの翻訳と承知しているが、不思議に思うことが一つある。それは私の手元にある永平寺版には、「魔訶般若波羅蜜多心経」と書かれている。もしかしたら、この「魔訶・まか」の二文字は鳩摩羅什の翻訳の一部をちょうだいして、玄奘さまの翻訳に付け加えたのであろうか?ご存じの方がおられたら教えていただきたい。

この般若心経というお経は、いままでに日本人が読んだ文章の中では群を抜いて多い気がする。源氏物語や枕草子などとは比べ物にならない。司馬遼太郎や松本清張も真っ青になるくらい、般若心経は多くの人に読まれている。超ベストセラーといえる。

下の写真は、江戸時代に文字の読めない人向けに作られた般若心経である。絵だけで表示してある。ご飯を炊く釜を逆さにして「まか」と読ませ、般若のお面で「はんにゃ」と読ませ、人がものを食べる姿で「くう」と読ませるなど、苦心惨憺のあとが見えて興味深い。


このように、法顕が中国に帰国した時には、彼の持ち帰った経典の多くが、すでに鳩摩羅什の手によって漢訳されていた。それでも法顕は、持ち帰った経典の翻訳作業をコツコツと続けた。文化勲章を受章した有名なインド哲学者・仏教学者の中村元は、「ブッダの発病後の描写においては他のどの諸本より法顕本がもっとも原典に近い」と法顕の翻訳を高く評価されている。

法顕の没年については、八十二歳説と八十六歳説とがある。その晩年、弟子たちは、稀有な体験をした師匠にその旅行譚を聞かせて欲しいと度々せがんだという。快く旅の思い出を語ったあと、法顕は最後に、「私は命を必死の地に投じて、万に一つの希望を達したのです」とかならずつけ加えたといわれる。自己の完遂したこの体験に、大きな満足感を持っていたと思われる。

絵で表示された般若心経



















2024年11月20日水曜日

65歳の法顕、天竺に向かう(14)

 シルクロードのものがたり(43)

法顕(ほっけん)と鳩摩羅什(くまらじゅう)

先述したように、法顕が船で山東半島に帰着したのは412年7月14日である。鳩摩羅什(350-409)は、この時すでに中国で没していた。この人には344-413年説もあるが、ここでは先の生没年を採る。

今までポツリポツリとこの鳩摩羅什の名前が出てきたが、ここで整理して、この人のことを紹介したい。「高僧伝」の冒頭に次のようにある。

「鳩摩羅什、中国名は童寿(どうじゅ)は天竺の人である。家は代々宰相であった。羅什の祖父の達多(だった)は才気抜群、名声は国中に鳴り響いた。父の鳩摩炎(くまえん)は聡明で気高い節義の持ち主であったが、宰相の位を継ごうとする時になって、なんとそれを断って出家し、東のかた葱嶺(そうれい・パミール高原)を越えた。亀茲(きゅうじ・クチャ)王は彼が世俗的な栄誉を棄てたと聞いてとても敬慕し、わざわざ郊外まで赴いて出迎え、国師となってくれるよう要請した。

王には妹がおり、年は二十になったばかり。頭が良くて聡明鋭敏。そのうえ体に赤いほくろがあって、智慧のある子を産む相だとされ、諸国は嫁に迎えようとしたけれども、どこにも出かけようとはしなかった。ところが摩炎を見るに及んで、自分の相手はこの人だと心にきめた。王はそこで無理に摩炎に迫って妹を妻とさせ、やがて摩什を懐妊した」

これだけで、鳩摩羅什が名門の家系に生まれた、ただならぬ人物だとわかる。七歳になると母親と共に出家して、各地に留学したり名僧のもとで修業し、二十代でその名声ははるか東方の中国(前秦)の皇帝・符堅(ふけん)の耳にまで入った。


この当時の中国政治の変遷はめまぐるしい。その後の16年間、鳩摩羅什はこの中国政治の動乱の人質になったといえる。

381年、前秦の皇帝・符堅の命を受けて、西域に派遣された将軍・呂光(ろこう)は亀茲(クチャ)城を攻略して鳩摩羅什の身柄を確保した。ところが前後して「淝水の戦い」で前秦が東晋に大敗して、符堅はあえない最期をとげる。呂光は2万頭のラクダに乗せた財宝と7万の将兵と共に鳩摩羅什を伴って涼州に帰り、386年、武威を拠点として後涼国を建国した。しかし、401年5月、後秦の跳興(ちょうこう)が軍勢七千騎を派遣して後涼軍を打ち破り、河西諸国一帯は、後秦の跳興の支配するところとなった。

すなわち、鳩摩羅什は36歳から52歳までの16年間、軟禁のかたちで武威の城内にとどめられた。ただし、その身柄は丁重に扱われている。呂光からは国政・軍事の顧問として相談を受けた。言葉を変えれば友人のような形で遇されている。外出の自由を失っただけで、場内では普通の生活をしている。この間に、中国語を完璧に習得したといわれる。

「高僧伝」によると、鳩摩羅什が武威の城を出て、長安の地に入ったのは401年12月20日とある。新皇帝・跳興みずからが出迎え、鳩摩羅什を国師と仰ぎ、彼の翻訳を補助するために五百人(多い時は二千人)の僧侶を配置した。以来409年8月に亡くなるまでの約八年間、鳩摩羅什は膨大な量の仏典をサンスクリット語から漢語に翻訳した。