シルクロードのものがたり(80)
玄奘も〇〇将軍も、ともに洛陽の出身である。そういえば、洛陽という地名に私は薄い記憶があった。昔読んだ本の中に、洛陽は中国で仏教が始まった土地、というかすかな記憶である。今回、あらためてその書物を取り出してみた。
慧皎(えこう)著・『高僧伝』という岩波文庫四冊の大冊である。著者は495年に生まれ、554年に没している。中国で最初に仏教の信者になった王族は、後漢の明帝(在位西紀57-75年)の異母弟である楚王・英(えい)だといわれる。その少し前に、西紀のはじめ頃、仏教は中国に入ったようである。それ以降、中国随一の崇仏皇帝といわれる六世紀の梁(りょう)の武帝に至るまで、およそ450年の間に名をとどめた僧侶約500人の簡潔な伝記である。鳩摩羅什や法顕はもちろんこの中に紹介されている。筆者より百歳ほど若い玄奘の名は、当然ながらない。
私には、この伝記の中の最初の頃の外国人僧の数人は、全員が洛陽で仏教を布教したというかすかな記憶があった。私の記憶は正しかった。同時に、今回調べてみて、この「後漢」という国の首都は当初は洛陽にあり、その後長安に遷都したことを知った。すなわち、インドから中国に仏教が伝わったとき、中国の首都は洛陽だったのだ。
一人目、漢の洛陽の白馬寺の摂摩騰(しょうまとう・インド人)。二人目、漢の洛陽の白馬時の竺法蘭(じくほうらん・インド人)。三人目、漢の洛陽の安清(あんせい・ペルシャ人)。四人目、漢の洛陽の支楼迦讖(しるかしん・大月氏国人・現在のウズベキスタン南部)。五人目、魏の洛陽の曇柯迦羅(どんかから・インド人)と、西紀の初め頃、異国の仏僧が洛陽で仏教を広めたことが書かれている。
すなわち、中国における仏教の発祥の地は、長安ではなく洛陽であった。以前、このブログの玄奘の項で、「洛陽において二十七人の官僧を度すとの勅令が煬帝の名で下された」と書いた。そのときは、洛陽以外の大都市でも同じことが行われた、と私は思っていた。今考えてみるに、これは中国仏教の聖地である洛陽にかぎられたことであったように思える。
人の価値観や生き方は、その人の生まれた環境、すなわち風土によるところが大である。玄奘があれほど思い詰めて、そして危険をおかして、インドまで仏典を求めて旅をしたのは、彼が洛陽に生まれたということに大きな理由があるような気がする。

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