さて、鑑真招聘についてである。
日本に向かう4隻の船は、広陵郡の黄̪泗浦(こうしほ)から出帆する。のちの寧波(ニンポー)である。66歳の鑑真ら24人は、この港から北西に徒歩だと数日の所にある揚州の寺から、揚子江経由でこの港に到着していた。
帰国の船に積み込まれた仏像や経典はぼう大な量であった。鑑真と従僧14人は大使・清河の第一船に、10人の同行僧は真備の第三船に乗った。これらの僧の中には中国人だけでなく、鑑真を慕う西域・インド・ベトナム人の僧もいた。前回の入唐留学僧の2人の日本人僧は古麻呂の第二船に乗船が決まった。
ところが、ここで事件が発生する。遣唐大使・藤原清河が突然、鑑真一行24人に下船を命じたのだ。おそらくこれは、副使・吉備真備の助言と思われる。古麻呂には何の相談もなかった。こんにちになってこれを考えれば、優等生学者の真備と藤原の貴公子・清河の、唐政府や広陵郡の地方政府に対する「過剰な忖度」であったような気がする。
鑑真招聘については不明な点が多い。井上靖の「天平の甍」はこのことを書いた作品である。小説ではあるが、歴史的背景を丁寧に調べており、出港直前の鑑真をめぐる清河・真備と古麻呂の対立は、おそらくこの小説のような光景であったと思われる。
鑑真以下24人は仏像・経典と一緒に、清河の船から降ろされてしまった。この動きを古麻呂に急報し助けを求めたのは、鑑真の弟子であり古麻呂の第二船に乗る予定の2人の日本人僧であった。
「なに。そんな馬鹿なことがあるか。それなら俺の船に乗せろ。清河や真備などの小心者の言うことなど放っておけ。責任は俺が持つ」快男児・大伴古麻呂はこう一諾した。すでに5回日本への渡航に失敗している鑑真は、古麻呂のこの決断で6度目にして日本への投稿に成功する。
古麻呂と鑑真が乗る第二船は、薩摩半島の南端に漂着する。そこから陸路で大宰府に向かった。これに遅れて真備の第三船は屋久島に漂着し、そこから海路で紀伊國に向かい、その後平城京に帰着している。一方、藤原清河と阿倍仲麻呂が乗る第一船は、ベトナムに漂着した。大部分の乗組員は亡くなり、清河・仲麻呂などの少数者は命からがら長安に戻った。
この二人が生存していることを大和朝廷が知ったのは、その5年後である。第四船の行方はまったくわからない。全員が死亡したと思われる。当時の遣唐使の航海は、「運がすべて」と言っても過言ではない。結果良ければすべて良しである。清河の第一船から降ろされ古麻呂の第二船に乗った鑑真には、運が残っていたのであろう。
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