2020年10月12日月曜日

快男児・大伴古麻呂(5)

 淡々とした表記の「続日本紀」の行間を想像をふくらませて読んでいると、清河・真備グループと古麻呂とは、遣唐使の全期間を通じて対立していたと考えられる。

そもそも、出発前の遣唐使の正使・副使の任命時点から、政治的な匂いが強く感じられる。藤原氏の若手エリートではあるが、30歳過ぎの清河の大使任命はあまりにも若い。優秀で見栄えの良いハンサムな人であったらしいが。「続日本紀」には次のようにある。

「天平勝宝2年(750)9月24日 遣唐使を任命した。従四位下の藤原朝臣清河を大使に任じ、従五位下の大伴宿禰古麻呂を副使に任じた」

この頃、聖武太上天皇は健康がすぐれず、女帝・孝謙天皇の御代である。左大臣・正一位の橘諸兄が太政官の筆頭であるが、実際には孝謙天皇の側近の大納言・藤原仲麻呂が太政官を仕切っていた。のちの恵美押勝(えみのおしかつ)である。30歳を少し超えていた清河をむりやり大使に抜擢したのは、年上の従兄にあたる実力者・仲麻呂であったと考えられる。副使に古麻呂を押したのは、おそらく橘諸兄だったと思う。

この大使・副使の任命から1年以上も経って、天平勝宝3年(751)の記述に「11月7日、従四位上の吉備朝臣真備を遣唐使の副使に任命した」とある。

これはきわめて異例の人事だ。なぜこのような人事が発令されたのか、想像をめぐらせてみる。

①遣唐使は体力の要る役職であり、過去の例を見ると大使は40代、副使は30代・40代が多い。702年の粟田真人の50代後半は異例中の異例で、しかも真人はこの時、大使・高橋笠間の上席の「遣唐執節使」として入唐している。よって、この時すでに50半ばを超えていた真備の副使任命は、年齢的にも本人の高い位階の両方からして、異例である。

②当初の「大使・清河、副使・古麻呂」の辞令に関し、古麻呂はやる気満々だったと思う。もしかしたら、大使は俺のほうが適任だ、と思っていたかも知れない。かたや清河は、うるさ型の古麻呂を抑え切れるか、と悩んでいたのではあるまいか。

「お前は藤原氏の若手のホープだ。頑張れ」と、従兄の実力者の大納言・仲麻呂は励ましてくれるものの、年若い貴公子・清河は不安であった。仲麻呂に頼み込んで、急遽、真備を自分の補佐役として、無理やり副使に加えてもらったような気がしてならない。この慌てぶりを裏付けるような記述が「続日本紀」にある。4隻の船が出帆する直前である。

「天平勝宝4年(751)閏3月9日 遣唐使の副使以上を内裏に招集し、詔して節刀を与えた。よって大使で従四位上の藤原朝臣清河に正四位下を、副使で従五位上の大伴宿禰古麻呂に従四位上を授けた」とある。真備との位階のバランスをとるため、清河の位階を二階級上げ、古麻呂を四階級も特進させている。

このひと月後、4月9日の記述に、「東大寺の蘆舎那(るしゃな)大仏の像が完成して、開眼供養(かいがんくよう)した」とある。

③吉備真備と阿倍仲麻呂は717年の遣唐留学生として一緒に入唐した。真備は17年後に帰国するが、仲麻呂は在唐のまますでに35年になる。この友人を連れ帰る目的が真備にあったのではないか、と主張する研究者もいる。しかし、真備の学者タイプの冷徹な人柄を考えるに、友人を連れ帰るために危険を冒して自分からすすんで唐に行くという侠気は感じられない。清河が藤原一族の実力者・仲麻呂に真備の同行を頼み込んだと考えるのが、自然ではあるまいか。


事実、藤原清河の予感は的中した。清河と真備の二人が一致団結しても、朝賀の席順でも鑑真招聘でも、古麻呂の蛮勇に二人が押されっぱなしだったという事実が、それを物語っている。

大伴古麻呂は快男児であった。快男児ゆえに非業の死をとげた。古麻呂が刑死した時の大伴家持の悲しみと孤独感はいかほどであったか。これを思うと胸が痛む。






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