2022年12月5日月曜日

李陵と司馬遷

 シルクロードのものがたり(3)

李陵は李広将軍の孫にあたる。李広の長男・李当戸の長男が李陵である。ただ、陵が生まれる半年前に父・当戸が亡くなったので、陵は祖父・広に育てられた。

史記の李将軍列伝の終わりに、短い李陵伝があるが、これは後世の人が加筆したもので司馬遷の筆ではない。

「史記」の約二百年後に書かれた、中国の二番目の正史(青史)「漢書・かんじょ」の中に、李陵の伝記が詳しく書かれてある。この「漢書」をもとに、昭和17年10月に33歳の中島敦が喘息の発作にあえぎながら一気に書き上げたのが、名作「李陵」である。同年12月4日に中島敦は没した。

今、机上の「漢書」と「中島・李陵」を読み比べているが、後者の方がより迫力があり理解しやすい。名作だと、改めて感じている。これを参考にして、李陵の小伝と司馬遷との関係を簡潔に紹介したい。

「漢の武帝の天漢2年(前99年)9月、騎都尉(きとい)・李陵は歩卒五千を率い、辺塞(へんさい) 遮虜障(しゃりょしょう)を発して北へ向かった」と名文ははじまる。

大将軍・李広利(李広とはまったく別人)の支隊として歩兵だけ五千を率いて出発したのだが、八万の匈奴の騎兵に取り囲まれ、大半の兵が戦死し李陵は捕虜になった。11月に入って、将を失った四百の敗残兵は漢の領土の最北端にたどりつき、敗報はただちに駅伝をもって都・長安に伝えられた。

武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍である李広利の大軍さえ惨敗しているのだ。一支隊の李陵の寡軍には大した期待はしてなかったようだ。それに、武帝は李陵が戦死していると思っていた。翌、天漢3年の春になって、李陵は戦死したのではない、とらえられて捕虜になったのだという確報が届いた。これで武帝は激怒した。

武帝は重臣たちを集めて、李陵の処置について会議をおこなった。帝の激怒を知って、あえて李陵のために弁解する者はいない。みなが自己保全に走ったのだ。重臣たちは口をきわめて李陵の売国的行為を罵った。李陵のごとき男と一緒に朝に仕えていたと思うと今更ながらはずかしい、と言い出す者もいる。

彼らは数カ月前に李陵が都を出発するときに、杯をあげてその出陣を祝い、名将李広の孫である陵を讃えた者たちである。ーこのような光景はワンマン社長をトップにいただく日本の大企業によく見られるもので、珍しいことではない。人間というものは、悲しいかなこのような行動をとるものなのであるー

この時、一人の男が、はっきりと李陵を褒めあげた。

「陵の平生を見るに親に仕えて孝、士と交わりて信、身を顧みず国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして事敗れたりといえども、五千に満たぬ歩兵を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を奔命(ほんめい)させた。軍敗れたりといえど、その善戦は天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜(とりこ)になったのは、ひそかにかの地にあって、何事か漢に報いんと期してのことに違いあるまい」

こう言って、李陵のために弁じたのが、ほかならぬ司馬遷であった。

司馬遷が席を去ったあと、君則の佞人たちは、司馬遷と李陵の親しい関係について武帝の耳に入れ、たかが太史令の身分の者が皇帝に対して余りにも不遜な態度であるといきまいた。武帝は、司馬遷の李陵弁護を自分の寵愛する大将軍・李広利への誣告(ぶこく)と思った。

そして、この会議の結論として、司馬遷は「死刑」と決まった。死をあがなう五十万銭が準備できず、司馬遷は「宮(腐刑・ふけい)」の刑になった。

その後、李陵の母・妻子など一族は処刑され、財産は没収された。この時の各人の年齢は、李陵・四十手前、司馬遷・四十五前後、武帝・六十くらいであったと推測する。


中島敦の小説「李陵」の成立と題名について、「李陵と蘇武」の著者・冨谷至氏は次のように述べている。

中島敦が亡くなったあと、未亡人は部屋に残っていた草稿を深田久彌氏(1903-1971)に渡した。深田は、一高・東大時代の中島の先輩で、「文学界」という雑誌の創刊者であり、中島は生前この「文学界」にいくつかの作品を発表していた。

この原稿を高く評価した深田は、「文学界」に載せた。原稿用紙には題名がついてないので、仮の題名として深田は「李陵」として発表した。

ところが、後日、中島敦の遺品の中から別のメモ書きが発見された。それには、「李陵・司馬遷 莫北悲歌」、「莫北」、「莫北悲歌」などの文字が残されていた。これらの題名が中島の頭にあったようである。

秦・漢代の武人 辻道雄氏提供










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