2023年2月10日金曜日

「香月経五郎と三郎の美学」 出版のお知らせ

 推敲にもたもたと時間がかかっていましたが、一昨日、最終原稿を長野県諏訪市にある出版社・鳥影社に送りしました。


題名:香月経五郎と三郎の美学ー副島種臣・江藤新平の憂国の志を継ぐー

出版社:鳥影社(長野県諏訪市)

筆者:田頭信博

出版予定日:令和5年3月13日


一昨日、最終原稿をお送りしたのですが、

すぐに出版社から、「Amazonなどで、もう予約受付が出来ますから」と連絡がありました。スピーディーでありがたい話です。「たいして売れない本だと思うから、しっかり宣伝してくださいよ」との意味と理解しました。

この題名で今、インターネット検索しましたら、

Amazon、honto、Rakutenブックス、紀伊国屋書店 などで購入できるようです。紀伊国屋書店の中でも、「東京大手町の紀伊国屋書店」と「佐賀市の紀伊国屋書店」に注文していただければ、鳥影社から手配します、とのことです。

「本の画像が写ってないのでインパクトが少ないかも?」と言いましたら、「近いうちに各販売ルートに画像を載せます」とのご返事でした。

ヘッドハンティングの話はどこにも出ていないので、このコーナーで宣伝するのは恥ずかしいのですが、歴史好きの方に読んでいただければ思い、ご案内させていただきます。

本がまだ出来上がっていないので、下記の写真は、出版社から見本としていただいた表紙の写真です。


(目次より)

1、香月経五郎略伝

2、佐賀・弘道館と長崎・致遠館

3、明治二年五月、岩倉・鍋島連立政権

4、大学南校・江藤新平宅に寄宿

5、幕末の日本人はすべて「攘夷派」だった

6、アメリカへの旅立ち

7、岩倉使節団・鍋島直大と久米邦武

8、イギリスに向け大西洋を渡る

9、経五郎の帰国

10、「征韓論」と香月経五郎

11、佐賀の乱をどう呼ぶべきか

12、経五郎、江藤と共に佐賀に向かう

13、弟・香月三郎






2023年2月6日月曜日

張騫(ちょうけん)とシルクロード(1)

 シルクロードのものがたり(7)

張騫に「アジアのコロンブス」という名を付けたのは19世紀の欧州の学者らしいが、私としては面白くない。そもそもが、大航海時代以降、ヨーロッパ人はそれ以外の地域の人々に対して「上から目線」の態度がある。この風潮は現在でも続いているような気がする。アジア人の一人として、それがなんとも不愉快である。

欧米人にとって、コロンブスはアメリカ大陸を発見した英雄らしいが、黄金を得るためにアメリカインディアンを大虐殺したことを知っている日本人の私は、コロンブスをそれほど立派な人とは思っていない。いや、けしからん男だと思っている。


19世紀以降、スエーデンの探検家・ヘディンや、ハンガリー出身でイギリスの考古学者・スタインなどが、タクラマカン砂漠を含む西アジア探検のきっかけをつくった。この中央アジア探検ブームに、20世紀にはいると我々日本人も乗り出した。1902年から14年にかけて(明治35-大正3)三次にわたって、浄土真宗西本願寺派第二十二代法主・大谷光瑞(25歳)が隊長をつとめた大谷探検隊である。

じつは、我々日本人が憧れを感じている「シルクロード」という言葉の歴史は極めて短い。

ドイツの地理学者・リヒトホーフェンが1867-1872年にかけて中国大陸を調査して「シナ」という本を出版した。その中に、「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」という言葉をはじめて使った。このドイツ語が英語に訳されて「シルクロード」となったわけで、この言葉の歴史は150年に満たない。

これらヨーロッパの探検家たちが、この地域を探検して、また司馬遷の「史記・大苑伝」を読んで、「2000年前に張騫とかいう、とんでもない大冒険家がいたぞ」と驚いて「アジアのコロンブス」という有難くもない名前の付けたのであろう。「新しい交通ルートを発見した英雄」との気持ちであろうが、張騫を尊敬している私としては、余計なことをしやがって、、、という気持ちである。

この張騫という人はただならぬ豪傑である。勇気と智謀だけでなく、人情味があり、誰からも好かれた。人間としてはコロンブスよりよほど上質の人である。

「シルクロードのものがたり」は、桃李成蹊の李広将軍から始めた。よって、その孫の李陵、友人の司馬遷、蘇武と続けたのだが、歴史の流れの順番からすれば、李広将軍の次にこの張騫を書くのが順番としては正しかった。

張騫の生年は不明、とあるが、細かく推測することにはあまり意味がないと思う。だいたいのイメージとして、この張騫は李陵や司馬遷の父親と同じ世代の人と考えて良い。李広将軍が衛青(えいせい)大将軍に従って匈奴征伐に出陣して道に迷って、責任を取って自ら首を刎ねた話は先に述べた。

この時、同じく道に迷い合戦の期日に遅れて、斬罪を言い渡されたのがこの張騫である。この斬罪の刑というのは、いきなり首を刎ねるものではないらしい。自分の財産をすべて朝廷に差し出し、官位はく奪の上庶民への格下げを甘んじることによって、命は助かるケースが多かった。張騫は李広と異なり、この道を選び命をつないでいる。

李広はこの時「自分は六十を過ぎた」と言っているが、張騫はこの時四十前後だったと思われる。李広と同じ規模の軍団を率いているので、この張騫もまた陸軍中将クラスの軍人であったと思われる。

ウズベキスタンのざくろ 辻道雄氏提供