シルクロードのものがたり(58)
玄奘の生たち
玄奘の生年は紀元600年から602年の間といわれるが、602年説が有力なようだ。ここでは602年説を採る。年齢については満年齢で表示したい。没年は664年とはっきりしている。よって満62歳で没したことになる。
玄奘三蔵は唐代の名僧、と我々は認識しているが、生まれたのは隋の初代皇帝・文帝の御代である。推古天皇の15年(607)に小野妹子は、聖徳太子が起草した国書を二代皇帝・煬帝(ようだい)に手渡した。このとき玄奘は5歳の少年であった。高祖・李淵(りえん)が唐王朝を建国するのが618年であるから、玄奘が少年期から青年期にさしかかる頃である。中国政治の大きな動乱の時代に、玄奘が少年時代を送ったことは認識しておく必要がある。
『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』は冒頭で次のように言う。
「法師はいなみは緯(い)、字(あざな)は玄奘、俗姓は陳(ちん)といい、陳留(河南省陳留県)の人である。祖父の康(こう)は学問に優れ、北斉に仕えて国子博士となり周南(河南省洛陽県)に封ぜられた。そこで子孫はこの地に住みついた。父の慧(え)は英傑で雅(みやび)やかであり、若い時から経学に通じていた。彼は身のたけ八尺、眉目(みめ)うるわしく、ゆったりした衣服を着て儒者の姿を好んだので、人々から郭有道(かくゆうどう・後漢の名士)のようだといわれた。性恬淡(てんたん)で出世をしようともせず、そのうえ隋の政治も衰えてきたので、ついに古書の研究に専念するようになった。州郡(地方政府)はしきりに官途につくことを勧めたが、彼はいつも病身を理由に就任しなかった。識者はその態度を誉めそやした。彼には四人の男の子があり、法師はその四男であった」
これからして、玄奘は氏素性の良い、学問をする家系に生まれたことがわかる。父の身のたけ八尺には驚いたが、当時の一尺は24.6センチと知り、計算してみたらそれでも196.8センチとなる。中国人の表現は時として大げさだ。それを考慮しても190センチ前後の大男だったように思える。とびぬけて大柄でしかも人物が立派なのだから、洛陽では有名人だったと思える。ちなみに玄奘自身の身のたけは七尺といわれている。172センチ強だから、当時としては大柄である。
このような恵まれた家庭に生まれた少年は、11歳のとき突如洛陽の浄土寺(じょうどじ)で仏門に入る。仏教に惹かれたのだとは思うが、そうせざるをえない理由があったようだ。玄奘が5歳のとき、母(落州長史・宋欣の娘)が突然世を去った。そして10歳のとき、父もまた突如この世を去ったのである。
このとき、次男の長徢(ちょうしょう)は先に出家していて、洛陽の浄土寺で修業していた。玄奘にとって頼るべき場所は、次兄の止宿する浄土寺しかなかったように私には思われる。長男と三男については、玄奘三蔵の伝記には何も記されていない。
ただ、薬師寺長老の安田暎胤老師の著書『玄奘三蔵のシルクロード』の中に、「玄奘三蔵のふるさとは今も洛陽郊外の陳河村にある。当主の陳小順氏は陳家の47代目にあたり、村長を務めておられる」と書かれてある。同時にこの村長さんと一緒の写真が掲載されている。玄奘の祖父・の陳康からかぞえて47代であろう。ひと世代30年として1410年間であるので、つじつまは合う。
これからすると、私の想像は間違っているのかも知れない。長兄が面倒を見ると言ったのをふり切って、仏教にあこがれて、次兄のいる寺に向かった可能性も考えられる。
![]() |
左端が47代目当主・陳小順氏 その右が安田暎胤老師 |
0 件のコメント:
コメントを投稿