2025年3月3日月曜日

26歳の玄奘、天竺に向かう(3)

 シルクロードのものがたり(57)

玄奘三蔵から直接指導を受けた日本人僧・道照(どうしょう)

玄奘という人が日本に縁の深い人であることを伝えたい気持ちで、このことを紹介したい。日本の二番目の正史(青史)である『続日本紀』は、大和朝廷の行政日誌の感がある。『日本書紀』が神話を含めて文学的な香りがするのに比べると、淡々と事実だけを記していて、あまり面白い書物とはいえない。しかしそれゆえに、史書としての評価は極めて高い。

この書物の初めの頃の箇所に、玄奘三蔵から直接指導を受けた「道照和尚・どうしょうわじょう」のことが記されている。冷静で淡々とした書きっぷりの『続日本紀』の中で、この道照和尚の箇所は筆者(記録官)の心の高ぶりのようなものが感じられる。この道照和尚の死去が、当時の日本人にとって、とても大きな悲しみであったことが推測される。以下は『続日本紀』からの抜粋である。


文武天皇四年(700)三月十日 道照和尚が物化(ぶっか・死去)した。天皇はそれを大へん惜しんで、使いを遣わして弔い物を賜った。和尚は河内(かわち)国丹比(たじひ)郡の人である。俗姓は船連(ふねのむらじ)、父は少錦下(しょうきんげ・従五位下相当)の恵釈(えさか)である。ある時、弟子がその人となりを試そうと思い、ひそかに和尚の便器に穴をあけておいた。そのため穴から漏れて寝具をよごした。和尚は微笑んで、「いたずら小僧が人の寝床をよごしたな」と言っただけで一言の文句もいわなかった。

孝徳天皇の白雉四年(653)に遣唐使(第二次)に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、三蔵は次のように言った。「私が昔、西域を旅したとき道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べて気力が日々すこやかになった。お前こそあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」と。

その後、道照が帰朝するとき、別れ際に三蔵は、所持した舎利(しゃり・釈迦の骨)と経綸を和尚に授けた。また一つの鍋を和尚に授けて言った。「これは私が西域から持ち帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いるといつも霊験があった」と。そこで和尚はつつしんで礼を述べ、涙を流して別れた。

(中略)

あるとき、にわかに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き居間に入ると、和尚は縄床(じょうしょう・縄を張って作った腰かけ)に端座したまま息が絶えていた。弟子たちは遺言に従って栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。天下の火葬はこれからはじまった。火葬が終わったあと、親族と弟子とが争って和尚の骨を取り集めようとすると、にわかにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、どこに行ったかわからなくなった。人々はふしぎがった。

以上は『続日本紀』の記述である。


第二次遣唐使(653)の第一船(121人乗り組み)に乗ったのが、この道照(24歳)と中臣鎌足の長男・定恵(じょうえ・10歳)そして、「日本一の外交官」として以前このコーナーで紹介した粟田真人(あわたのまひと・8歳)である。第二船(120人乗り組み)は難破して5人を除く全員が死亡している。

道照は年長者で学問も進んでいたからであろう、玄奘三蔵に直接指導を受けている。鎌足の長男・定恵は、玄奘の弟子の神泰法師に教えを受けている。『続日本紀』は「玄奘は道照を同じ部屋に住まわせた」と書いているが、薬師寺長老の安田暎胤老師はその著書に、「自分の近くの房に住まわせるように命じた」と書いておられる。常識的に考えると、後者が事実のような気がする。






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