2026年2月2日月曜日

玄奘三蔵の話(5)

 「長安での二十年」(2)

シルクロードのものがたり(93)

じつは、玄奘には各種仏典の翻訳よりも先に、急いでやらなけらばいけない大仕事があった。せっかち皇帝・太宗からの命令である、玄奘が西域やインドで見聞したことの皇帝への報告書『大唐西域記』の完成である。

この書物は、地理誌・風土風俗誌として正確であると同時に後世の文学に与えた影響がとても大きい、と高く評価されている。私の手元にあるのは、平凡社版、中国文学大系『大唐西域記』で、大型版326ページの大冊である。原典は全12巻でこの数倍以上のボリュームだと聞く。

本書に由来する逸話のいくつかが『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に収められていることからして、奈良・平安時代から日本人がこの書物を熱心に読んでいたことがわかる。そして、なんといっても明代に呉承恩によって書かれた『西遊記』こそ、この書物あってこその作品といえる。

この『大唐西域記』の筆者についての表記は、他の書物に例を見ない珍しい書き方である。原典には、「三蔵法師玄奘奉詔訳、大総持寺沙門弁機撰」とある。「奉詔・ほうしょう」には「天子の命令を承ること」の意味がある。不思議に感じるのはその次の「訳」という文字だ。現在の感覚だと「著」とするのが自然だと思うが、「訳」には「翻訳」という意味と同時に「記述する」という意味があったようだ。「撰」には「詩や文章を作成する、または多くのものの中から選び出す」という意味がある。

手元にある平凡社版の『大唐西域記』には、「玄奘訳、弁機撰、水谷真成訳」とあり、「訳」の文字が二度使われている。水谷真成氏は1917年生まれで1995年没、京都大学に学び名古屋大学で教授をされ、これを中国語から日本語に翻訳された方である。


玄奘が長安に帰国したのは、先述したように645年1月6日である。日本では大化の改新の年だ。膨大な分量の、しかもきわめて正確と評価の高いこの書物が完成したのは646年7月だ。すぐさま太宗に献上された。これほどの大作がわずか1年半で完成している事実に、驚きを超えて不思議な思いがしている。

なぜこれほどの短期間で、これだけの分量の正確な書物を完成させることができたのか。この方面の研究者は次のように語っている。「玄奘は16年間の間に書いたメモや地図など大量の資料を保管していた。これらを弟子の弁機(べんき)に渡し、弁機がこれを整理して玄奘がそれを監修した」

おそらく弁機は、これらのメモを単に整理して清書したのではなく、不明な点はいちいち玄奘に問い質したのであろう。同時に玄奘の勘違いを防ぐために、第三者の資料も活用して正確を期したと思われる。いずれにしても、弁機という人は並外れた才能の持ち主であった。


ところが、この弁機については不明なことが多い。

この人の生年は620年、没年は648といわれる。ということは、満27~8歳で亡くなっているのだ。645年に中国にもどった玄奘は43歳であった。後日『玄奘三蔵伝』を書く慧立(えりゅう)は30歳、このとき弁機(べんき)は25歳である。優秀であったので、玄奘はこの若者に白羽の矢を立てたに違いない。弁機はその期待に十分に応えた。その彼が、この書物の完成の1~2年後に、「腰斬」という胴体を腰からまっぷたつに切るという残酷な刑によって死刑に処せられたのである。

処刑の理由は尋常ではない。太宗皇帝の第十七皇女であり、宰相・房玄齢の次男である房遺愛に降嫁していた高陽公主という女性と、不義密通を犯したというのである。僧侶の不倫ということで極刑に処せられたのだという。

讒言(ざんげん)説もあるが、私が知るかぎりではこれは事実であったと思われる。夫の房遺愛という人は宰相の父親に比べると凡庸でおそまつな人物で、結婚当初から夫婦仲は冷えていた。弁機とこの女性の関係は、645年に彼が『大唐西域記』の執筆にたずさわる以前からだという研究者もいる。私もそのように感じる。20代前半の弁機にくらべて女性のほうが年齢が高かったと思われる。弁機から手を出したとは考えにくい。女性から弁機に対して積極的なアプローチがあったように思え、私としては弁機に同情している。

ただ、この事件についての玄奘のコメントは何も残っていない。弁機の兄弟子にあたる『玄奘三蔵伝』の筆者・慧立も何の記述も残していない。