2026年4月3日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(1)

シルクロードのものがたり(102)

蘇武(そぶ)は19年間の匈奴の地での捕虜生活を終え、長安に帰国することになった。別れに臨んで李陵(りりょう)は、胡地において友のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。そのとき李陵は蘇武の前で、この詩を歌いかつ舞ったという。

いきなりこの詩を紹介しても、前後の事情がわからないと、この詩を深く味わうことができない気がする。しかし私のつたない文章では、この詩をつくるに至った李陵の心境を十分に説明することはむずかしい。中島敦の筆を借りるのが一番良いと考えた。彼の短編の名作『李陵』の中からいくつかの文章を引用させていただく。この項は少し長くなるかも知れない。


「漢の武帝の天漢二年(前99年)秋九月、騎都尉(きとい)李陵は歩卒五千を率い、辺塞 遮虜鄣(しゃりょしょう)を発して北へ向かった。 (中略) 陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広(りこう)の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉(しゅせん)・張液(ちょうえき)に在って射を教え兵を練っていた。年齢も四十に近い血気盛りであった」

歩兵五千を率いたというから、二個聯隊を指揮した少将・旅団長くらいの立場であったと思われる。ところが、騎馬に乗った胡兵8万に囲まれ、本軍の大将軍・李広利(りこうり)も副軍の将軍・李陵も共に大敗北を期したのである。

「九月に北へ立った五千の漢軍は十一月に入って、四百の敗残兵となって辺塞に辿りついた。敗報は駅伝をもって長安に達した。武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍の李広利の大軍さえ惨敗している。一支隊の李陵の軍が敗北するのはやむを得ないと思っていた。それに武帝は李陵が戦死していると思っていたのである。ところが翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕らえられて虜(ろ)に降(くだ)ったのだとの確報が届いた。武帝は始めて嚇怒(かくど)した」

ちなみに、李広利という大将軍は李陵の祖父の将軍・李広とは関係ない。別人であり、親戚でもない。史書によれば、「李という名の将校が匈奴の兵の軍事教練を行っている」との情報が武帝の耳に入り、これを李陵だと誤解した帝は激怒した。この人物は李陵とは別人の李緒(りしょ)という人物であったことが後日判明した。「李」という名の将校が軍団の中に何人もいたようである。

「武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。帝の震怒(しんど)を犯してまで陵のために弁じようとする者は無い。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵(ののし)った」

「ただ一人、苦々しい顔をしてこれを見守っている男がいた。いま口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数ヶ月前李陵が都を辞する時に盃(さかずき)をあげてその行を壮(さか)んにした連中ではないか。漠北から使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃(たた)えたのもまた同じ連中ではないのか。人間がそういうものとは知ってはいるが、それにしても不愉快であった」

「その時、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に仕えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず、もって国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして一度破れたが、五千に満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を相手に白刃を冒して死闘している。軍敗れたりとはいえ、その善戦は天下に顕彰(けんしょう)するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、潜(ひそ)かにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。並みいる群臣は驚いた。こんな事のいえる男が世にいようとは考えられなかったからである」

向う見ずなこの男、太史令(たいしれい)・司馬遷が帝の前を退くと、奸佞(かんねい)の一人が武帝に次のようにささやいた。

「司馬遷がこれほど李陵を褒めるのは、帝が信頼されている大将軍・李広利に功が無かったことを言いたいのです。彼をおとし入れんがためです。そもそも太史令程度の分際で(注・俸禄六百石)、帝に対してこのような発言をするのは余りにも不遜な態度です」

おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、司馬遷は「宮刑・きゅうけい」と決まった。これ以降、司馬遷は人として生きることをやめた。屈辱を耐え忍び、ひたすら『史記』の執筆とその完成に一生をささげたのである。


蘇武と李陵は親友で、司馬遷と李陵も友人であった。蘇武と司馬遷がどの程度のつきあいだったのかは分からない。ただ、互いが好意と尊敬の気持ちを持っていたのは間違いないと思う。この三人は二千年以上昔の人なので、生年がはっきりしない。私の想像では、年齢は上から司馬遷・蘇武・李陵の順で、それぞれ2ー3歳の年齢差があったように感じている。ただ、陳舜臣はその著書の中で、司馬遷は李陵より9歳ほど年長と書いている。

小説『李陵』の中で、中島敦は李陵と蘇武の関係を次のように描いている。

「李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中(近衛将校)を勤めていたことがある。天漢元年に蘇武が北へ立ってから間もなく、蘇武の老母が病死した時も、陵は蘇家の墓地までその葬(そう)を送った。蘇武の妻が良人の再び帰る見込み無しと知って、去って他家に嫁(か)したという噂を聞いたのは、陵が北征出発直前のことであった。その時、陵は友のためにその妻の浮薄(ふはく)をいたく憤(いきどお)った」

李陵の老母・妻・子・弟に至るまで一族全員が殺された。

この事実が李陵の耳に入ったのはその半年ほど後のことである。ある漢人の口からそれを聞いた李陵は、立ち上げあってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめたといわれる。

「李陵が匈奴に降るよりも早く、その一年前から、漢の中郎将・蘇武は胡地に引留められていた。元来蘇武は、平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某(なにがし)が匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚(とら)えられてしまった」

その後、蘇武は北海(バイカル湖)のほとりの人無き所に移されて、独りで羊を飼うことを命じられた。牡羊(おひつじ)が乳を出さねば帰るのを許さん、と匈奴の単于(たんう・王様)が言ったという話は有名である。このころ、李陵は蘇武を何度か訪問して、慰労している。

その後、武帝は崩御した。漢の新政権は李陵に対してきわめて好意的で、なんとかして李陵を長安に連れ戻そうといろいろと工作をしている。李陵の友人の何人もが新政権の大臣に就任していた。ちょうどその頃、蘇武は偶然にも漢に帰れることになった。

「漢の天子が上林苑(じょうりんえん)中で得た雁(かり)の足に蘇武の帛書(はくしょ)がついていた云々、というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于(たんう)を説破するための出鱈目であった」

このでたらめをもって、漢側は蘇武を救出することに成功したのである。この方法を使って、北朝鮮から横田めぐみさんを救出することは出来ないだろうか、と時々考えることがある。

蘇武の漢への帰国に臨んで、李陵は友のために宴を張った。蘇武は再度、李陵に一緒に漢に帰ることを強く勧めた。この宴席で、李陵が立ち上がり、舞いかつ歌ったのがこの「別れの歌」である。

別れの歌    李陵

万里を径(わた)って 沙漠を度(わた)り

君(きみ)が将と為(な)って 匈奴に奮(ふる)う

路窮(みちきわま)り絶えて 矢刃(しじん)摧(くだ)け

士衆滅(ししゅうほろ)びて 名已(なすで)に隤(お)つ

老母 已(すで)に死せり

恩を報いんと欲すと雖(いえど)も 将(は)た安(いつ”)くにか帰(き)せん

「蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年(前74年)に胡地で死んだということの外は」と、中島敦は『李陵』という小説をしめくくっている。そうだとすると、李陵は65歳くらいで亡くなったことになる。

(次号に続く)