2026年4月24日金曜日

魏晋南北朝・「木蘭(もくらん)の詩」(1)

 シルクロードのものがたり(105)

魏晋南北朝時代とは、後漢が滅び隋が中国を統一するまでの動乱の期間をいう。西紀220年から589年までの約370年間で、この時代には数多くの王朝が中国大陸に割拠した。この時代にも数多くの西域詩がつくられているが、その多くは悲しい詩である。その中にあって、珍しく前向きで清々しい詩を見つけた。これを紹介したい。


「木蘭の詩」という。私はこれを読んで感激した。久しぶりに瞼が潤んだ。木蘭という美少女の心意気に勇気をもらった。この詩には王維の「少年行」の最後の句、「縦(たと)い死すとも猶(な)お侠骨(きょうこつ)の香(かんば)しきを聞かしめん」の気迫が感じられる。

かなり長い詩で、短編小説のようでもある。この詩をもって「西域詩の紹介」を終えたいと思う。同時に、今まで100回以上にわたって掲載してきた「シルクロードのものがたり」を終了したいと考えている。少し長くなるが、最後までおつきあいいただけるとありがたい。

これは北魏(AD386-535)のころの詩だ。中国には孔子様の生きた戦国時代と、諸葛亮孔明が五丈原で魏と戦った三国時代、過去に二度「魏」という国があった。邪馬台国の女王・卑弥呼が「親魏倭王」の金印をもらったのはAD238年のことで、これは二番目の魏から受けている。

これらと区別するために、三番目の魏のことを「北魏」と呼んでいる。この北魏が滅んだあと50年ほどいくつかの王朝が興るが、それらを滅ぼして589年に統一王朝を建てるのが「隋」である。


この「木蘭の詩」は、この北魏のころに流行した民歌だといわれる。木蘭という名の美少女が老父の代わりに男装して従軍し、大功を立てて凱旋したという実話にもとつ”いて作られた詩で、木蘭本人の作ではない。木蘭という美少女の姓は「花・か」といい、それ以外のことは残っていない。

この項の原稿を書いているとき、古い友人のKさんにランチをご馳走になった。「こんな詩を読んで感激しました」と言うと、「そんな内容の映画、たしか数年前に放映されましたよね」とおっしゃる。しばらくして「ムーラン・戦場の花」という題名だとの連絡をもらった。ビデオをAmazonで購入しようとネットで調べていたら、無料で今すぐパソコンで観れるとの表示があった。仕事を放り出して、すぐにその90分の映画を観た。

たしかにその通りで、従軍する若い兵士の胸に「花木蘭」と木の名札がつけてある。木蘭の勇敢な戦闘シーンを手に汗を握りながら観る。そして匈奴の大軍に追い詰められ、敗北のシーンに移る。将軍も戦死して、しまいには木蘭を含め数名の兵士しか残っていない。

「これはジョン・ウェインの西部劇『駅馬車』の映画と同じだ。観客をハラハラさせておいて、絶体絶命のところで騎兵隊の大軍が現れてアパッチの集団から駅馬車を助けたように、きっと魏の援軍が助けに来るに違いない」

私はこう思って、イライラしながら今か今かと待っていた。ところが援軍は来ない。木蘭たち全員は戦死してしまう。私はがっかりした。「魏のために死す!」と木蘭に言わせて、木蘭を戦死させるほうが観客の胸を打つと、映画の監督は考えたのかも知れない。

このことをKさんに伝えた。「あれっ、私が観た映画では、絶対絶命の局面で魏の皇太子が大軍を率いて助けに来ましたよ。木蘭は無事生還しますよ」とおっしゃる。この映画には二つのバージョンがあることを我々は知った。私が観たのが最初のバージョンの気がする。これに対して観客からのブーイングが強く、Kさんが観た第二バージョンを制作したのだろうか。

映画の製作にはこのようなことが時にあるらしい。西部劇の「荒野の決闘(原題・いとしのクレメンタイン)」や寅さんの「男はつらいよ」にもこの種の話を聞いたことがある。

これは現在の中国の映画製作者の感性の問題なので、この「木蘭の詩」の本質とはまったく関係がない。前置きが長くなってしまった。本題に入る。

(次号に続く)






2026年4月17日金曜日

漢代の詩・二首

 シルクロードのものがたり(104)


非愁(ひしゅう)の歌    伝 烏孫公主(うそん・こうしゅ)

吾(わ)が家 我を嫁す 天の一方(いっぽう)に

遠く異国の 烏孫王(うそん・おう)に託す

穹廬(きゅうろ)を室(しつ)と為し 氈(せん)を壁と為し

肉を以て食と為し 酪(らく)を漿(しょう)と為す

居常(きょじょう)に土(くに)を思うて 心内(うち)に傷む

願わくは黄鵠(こうこく)と為りて 故郷に還(かえ)らん

この女性は漢の武帝の甥にあたる江都王・劉建(りゅうけん)の娘で、名を細君(さいくん)という。烏孫(うそん)国の王、昆漠(こんはく)に嫁した。昆漠の老後はその孫の岑陬(しんすう)の夫人となった。 烏孫国とは新疆とカザフスタンとの国境近く、イリ河流域・天山山脈の北西あたりにあったトルコ系遊牧民族の国である。

当時、漢帝国は西方に勢力を拡大しており、このとき、たまたま烏孫国とのあいだに平和条約が結ばれ、その証明として王族の女性を嫁がせたのである。いわば政略結婚であり、人質ともいえる。このような嫁入りのときは、たった一人で行くのではない。お付きの者が数百人も同行し、その中の数十人は現地で一生、主人である女性公主と生活を共にしたようである。

この詩は本人の自作ではなく、彼女に同行した漢人が公主に代わって、遠く異国に嫁した悲しみを歌った詩といわれている。松枝茂夫氏は次のように訳している。

わたしは天の果てに嫁がされ、遠い異国の烏孫王に身を託すことになりました。丸い天幕(パオ)がわたしの住み家、毛氈(もうせん・毛織の布)が部屋の仕切りです。主食は獣の肉、飲みものは獣の乳。明けても暮れても本土のことを思って胸が痛みます。できることなら大型の雁(かり・ガン)になって、故郷に帰りたいものを。

私の部屋の本箱の片隅に高校時代の漢文の教科書が置いてある。覗いてみたら、この詩が冒頭に出ている。読み下し文もない、和訳もない、漢文だけである。他の箇所の陶淵明の詩も、司馬遷の『史記列伝』も、すべて漢文だけで書かれている。16、7歳の頃、ずいぶん難しいことを教えられていたものだ。


この詩も悲しいが、次の詩はもっと悲しい。これは後漢(AD25-AD220)の時代のものと思われる。

十五にして軍に従いて征く   無名氏

十五にして軍に従いて征(ゆ)き

八十にして始(はじ)めて帰るを得たり

道に郷里に人に逢(あ)う

「家中(かちゅう) 誰か有(あ)る」

「遥(はる)かに看(み)ゆるは 是(これ)君が家」

松柏(しょうはく) 塚(つか) 累累(るいるい)たり

兎(うさぎ)は狗竇(くとう)より入(い)り

雉(きじ)は梁上(りょうじょう)より飛ぶ

中庭(ちゅうてい)には旅穀(りょこく)を生じ

井上(せいじょう)には旅葵(りょき)を生ず

穀(こく)を舂(つ)きて 持って飰(めし)を作り

葵(あおい)を採(と)りて 持って羹(あつもの)を作る

飰(めし)と羹(あつもの)は一時に熟するも

知らず 阿誰(たれ)にか貽(おく)らん

門を出でて 東に向かいて看(み)れば

涙落ちて 我が衣(ころも)を潤(うるお)す

十五で徴兵されて従軍し、八十になってやっと帰郷することができた。道で郷里の人に会い、「わが家には誰かいるかね」とたずねると、「ずっと向こうに見えるのがあなたの家です」と答える。見ればマツやカシワの木がはえ、土饅頭がいくつも重なっている。ウサギがイヌの通り抜けの穴から出入りし、キジが梁(はり)から飛び立つ。庭には野生の穀物が一面にはえ、井戸のまわりには野生のアオイがはえている。さっそく穀物を舂(つ)いて飯を作り、アオイをつんでスープを作った。飯とスープはすぐにできたが、さて一緒に食べてくれる人は誰もいない。門から出て、はるか東方をながめれば、涙はとめどなく流れて着物を濡らす。

なんとも悲しい詩である。

15歳で従軍したというのは理解できるが、80歳の老兵というのは世にいない。おそらくこの人は、蘇武や李陵と同じように、働き盛りのころ、匈奴か胡人の捕虜になったのであろう。北方もしくは西域の地で何十年もの捕虜生活を送り、捕虜交換条約が成立して帰国を果たしたのであろう。それにしても、悲しい詩である。





2026年4月10日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(2)

 シルクロードのものがたり(103)

李陵は自分の家族全員が殺されたと思っていた。それが漢の新政権からの帰国せよとの説得にも応じず、彼が漢に帰らなかった最大の理由である。ところが、幼い息子だけは生き残っていたのだ。もし李陵がこれを知っていたら、彼は祖国にもどっていたかも知れない。


成蹊学園という小さな学校で学んだ私には、将軍・李広と孫の李陵、そして司馬遷には強い思い入れがある。

『史記列伝』の中でも、「李将軍列伝」は白眉だといわれている。筆者の筆にずいぶん力が入っているのが二千年後の異国の読者にもわかる。これは、司馬遷が青年時代に、友人の李陵の引き合わせで、彼の祖父の李広将軍に会ったことがあるからだと思う。

史記列伝のおしまいに、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。次のように記されている。

太史公曰くー

伝(いいつたえ)に、「その身が正しければ、命令しなくても行われ、その身が正しくなければ、命令しても人は従わない」(『論語』子路篇)とあるが、これは李将軍などを言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も、知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。彼の忠実な心が、まことの士大夫に信ぜられていたのである。諺に言う。「桃や李はもの言わぬが、その木の下には自然に蹊(こみち)ができる。桃李不言下自成蹊」 この言葉は小さなことを言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩えることができるのである。

成蹊学園の校名は、この故事に由来する。


李陵の幼い息子が生き残っていたことは、以前、「シルクロードのものがたり(33)」の「65歳の法顕天竺に向かう(4)」で紹介した。

インドへ向かう途中、僧・法顕(ほっけん)は西紀401年ごろ敦煌を経由している。彼が敦煌に到着する直前に、同地でクーデターが勃発した。それまでの無能で無慈悲な太守を、部下の人望が厚かった李暠(り・こう)という将軍が追い出して、自分が太守の座にすわった。旅の僧・法顕はこの新太守の李暠に親切にサポートしてもらっている。

この李暠という人は、「自分は漢の将軍・李広の十六世の孫だ」とみずから名乗っている。すなわち李陵の十四世の孫ということになる。この人は隴西郡狄道県(ろうせいぐん・てきどうけん)の人と史書にある。隴西郡とは秦代から唐代にかけて、現在の甘粛省の東南部にあった郡で、現在の甘粛省の地図を見ると隴西という地がある。郡はなくなったものの隴西という地名は現在も中国に残っている。この隴西の南東に天水という町が見える。天水市静寧県に成紀という村がある。

じつは、この成紀(天水)が、漢の将軍・李広が生まれたところなのである。司馬遷は「李将軍列伝」の冒頭で次のように言う。「李将軍広(こう)は隴西郡の成紀(せいき)の人である。その先祖を李信(り・しん)という。李信は秦代に将軍になり、燕(えん)の太子丹(たん)を追撃して捕らえた人物である」と。

どの史書にも書き残されていないが、あのとき、長安にいた李陵の友人もしくは親戚の者が、李陵の幼い息子を匿ったと思われる。かくまう場所としては、李家の墳墓の地である、山奥の隴西郡成紀の近くがふさわしい。この李陵の幼い息子を匿うために裏で指揮を執ったのは、宮刑になる直前の司馬遷だったのではあるまいか、と私はひそかに考えている。司馬遷という人はただならぬ漢(おとこ)であった。


じつは、この李暠(り・こう)の物語には、まだ続きがあるのだ。


618年に唐王朝を建国したのは李淵(り・えん・566-635)であると何度も述べた。李淵が「俺のご先祖は老子様(李耼・り・たん)だ」と自称したことも、以前お話しした。

同時に、李淵は「自分は李暠の八世の孫である」とも名乗っているのだ。千年前の老子様の話は疑わしいものの、こちらはわずか二百年前の話である。中国は文字・歴史の国だ。充分に信ぴょう性がある。かつ、中国の正史(青史)である『唐書』には「唐王朝を創始した李淵すなわち高祖は隴西郡の西紀(せいき)の人である」と書かれている。そして、作家の陳舜臣は「成紀は現在の甘粛省の天水市にある」と指摘している。

すなわち、ここで、李広・李陵・・・・・李暠・・・李淵の全員の出身地が、現在の甘粛省の天水市の近くだと、ピタリと一致した。

これが正しければ、母方の祖父が初代皇帝高祖・李淵の曾孫、母方の祖母が二代皇帝太宗・李世民の曾孫といわれる詩人の杜甫もまた、漢の将軍・李広や李陵の血を引く人だといえる。







2026年4月3日金曜日

漢代の詩・李陵の「別れの歌」(1)

シルクロードのものがたり(102)

蘇武(そぶ)は19年間の匈奴の地での捕虜生活を終え、長安に帰国することになった。別れに臨んで李陵(りりょう)は、胡地において友のために宴を張った。蘇武は李陵に、自分と一緒に帰国することを強く勧めた。そのとき李陵は蘇武の前で、この詩を歌いかつ舞ったという。

いきなりこの詩を紹介しても、前後の事情がわからないと、この詩を深く味わうことができない気がする。しかし私のつたない文章では、この詩をつくるに至った李陵の心境を十分に説明することはむずかしい。中島敦の筆を借りるのが一番良いと考えた。彼の短編の名作『李陵』の中からいくつかの文章を引用させていただく。この項は少し長くなるかも知れない。


「漢の武帝の天漢二年(前99年)秋九月、騎都尉(きとい)李陵は歩卒五千を率い、辺塞 遮虜鄣(しゃりょしょう)を発して北へ向かった。 (中略) 陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広(りこう)の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉(しゅせん)・張液(ちょうえき)に在って射を教え兵を練っていた。年齢も四十に近い血気盛りであった」

歩兵五千を率いたというから、二個聯隊を指揮した少将・旅団長くらいの立場であったと思われる。ところが、騎馬に乗った胡兵8万に囲まれ、本軍の大将軍・李広利(りこうり)も副軍の将軍・李陵も共に大敗北を期したのである。

「九月に北へ立った五千の漢軍は十一月に入って、四百の敗残兵となって辺塞に辿りついた。敗報は駅伝をもって長安に達した。武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍の李広利の大軍さえ惨敗している。一支隊の李陵の軍が敗北するのはやむを得ないと思っていた。それに武帝は李陵が戦死していると思っていたのである。ところが翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕らえられて虜(ろ)に降(くだ)ったのだとの確報が届いた。武帝は始めて嚇怒(かくど)した」

ちなみに、李広利という大将軍は李陵の祖父の将軍・李広とは関係ない。別人であり、親戚でもない。史書によれば、「李という名の将校が匈奴の兵の軍事教練を行っている」との情報が武帝の耳に入り、これを李陵だと誤解した帝は激怒した。この人物は李陵とは別人の李緒(りしょ)という人物であったことが後日判明した。「李」という名の将校が軍団の中に何人もいたようである。

「武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。帝の震怒(しんど)を犯してまで陵のために弁じようとする者は無い。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵(ののし)った」

「ただ一人、苦々しい顔をしてこれを見守っている男がいた。いま口を極めて李陵を讒誣(ざんぶ)しているのは、数ヶ月前李陵が都を辞する時に盃(さかずき)をあげてその行を壮(さか)んにした連中ではないか。漠北から使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃(たた)えたのもまた同じ連中ではないのか。人間がそういうものとは知ってはいるが、それにしても不愉快であった」

「その時、この男はハッキリと李陵を褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に仕えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず、もって国家の急に殉ずるは誠に国士の風あり。今不幸にして一度破れたが、五千に満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴数万の兵を相手に白刃を冒して死闘している。軍敗れたりとはいえ、その善戦は天下に顕彰(けんしょう)するに足る。思うに、彼が死せずして虜に降ったというのも、潜(ひそ)かにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。並みいる群臣は驚いた。こんな事のいえる男が世にいようとは考えられなかったからである」

向う見ずなこの男、太史令(たいしれい)・司馬遷が帝の前を退くと、奸佞(かんねい)の一人が武帝に次のようにささやいた。

「司馬遷がこれほど李陵を褒めるのは、帝が信頼されている大将軍・李広利に功が無かったことを言いたいのです。彼をおとし入れんがためです。そもそも太史令程度の分際で(注・俸禄六百石)、帝に対してこのような発言をするのは余りにも不遜な態度です」

おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、司馬遷は「宮刑・きゅうけい」と決まった。これ以降、司馬遷は人として生きることをやめた。屈辱を耐え忍び、ひたすら『史記』の執筆とその完成に一生をささげたのである。


蘇武と李陵は親友で、司馬遷と李陵も友人であった。蘇武と司馬遷がどの程度のつきあいだったのかは分からない。ただ、互いが好意と尊敬の気持ちを持っていたのは間違いないと思う。この三人は二千年以上昔の人なので、生年がはっきりしない。私の想像では、年齢は上から司馬遷・蘇武・李陵の順で、それぞれ2ー3歳の年齢差があったように感じている。ただ、陳舜臣はその著書の中で、司馬遷は李陵より9歳ほど年長と書いている。

小説『李陵』の中で、中島敦は李陵と蘇武の関係を次のように描いている。

「李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中(近衛将校)を勤めていたことがある。天漢元年に蘇武が北へ立ってから間もなく、蘇武の老母が病死した時も、陵は蘇家の墓地までその葬(そう)を送った。蘇武の妻が良人の再び帰る見込み無しと知って、去って他家に嫁(か)したという噂を聞いたのは、陵が北征出発直前のことであった。その時、陵は友のためにその妻の浮薄(ふはく)をいたく憤(いきどお)った」

李陵の老母・妻・子・弟に至るまで一族全員が殺された。

この事実が李陵の耳に入ったのはその半年ほど後のことである。ある漢人の口からそれを聞いた李陵は、立ち上げあってその男の胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめたといわれる。

「李陵が匈奴に降るよりも早く、その一年前から、漢の中郎将・蘇武は胡地に引留められていた。元来蘇武は、平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某(なにがし)が匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚(とら)えられてしまった」

その後、蘇武は北海(バイカル湖)のほとりの人無き所に移されて、独りで羊を飼うことを命じられた。牡羊(おひつじ)が乳を出さねば帰るのを許さん、と匈奴の単于(たんう・王様)が言ったという話は有名である。このころ、李陵は蘇武を何度か訪問して、慰労している。

その後、武帝は崩御した。漢の新政権は李陵に対してきわめて好意的で、なんとかして李陵を長安に連れ戻そうといろいろと工作をしている。李陵の友人の何人もが新政権の大臣に就任していた。ちょうどその頃、蘇武は偶然にも漢に帰れることになった。

「漢の天子が上林苑(じょうりんえん)中で得た雁(かり)の足に蘇武の帛書(はくしょ)がついていた云々、というあの有名な話は、もちろん、蘇武の死を主張する単于(たんう)を説破するための出鱈目であった」

このでたらめをもって、漢側は蘇武を救出することに成功したのである。この方法を使って、北朝鮮から横田めぐみさんを救出することは出来ないだろうか、と時々考えることがある。

蘇武の漢への帰国に臨んで、李陵は友のために宴を張った。蘇武は再度、李陵に一緒に漢に帰ることを強く勧めた。この宴席で、李陵が立ち上がり、舞いかつ歌ったのがこの「別れの歌」である。

別れの歌    李陵

万里を径(わた)って 沙漠を度(わた)り

君(きみ)が将と為(な)って 匈奴に奮(ふる)う

路窮(みちきわま)り絶えて 矢刃(しじん)摧(くだ)け

士衆滅(ししゅうほろ)びて 名已(なすで)に隤(お)つ

老母 已(すで)に死せり

恩を報いんと欲すと雖(いえど)も 将(は)た安(いつ”)くにか帰(き)せん

「蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年(前74年)に胡地で死んだということの外は」と、中島敦は『李陵』という小説をしめくくっている。そうだとすると、李陵は65歳くらいで亡くなったことになる。

(次号に続く)