次の話も父から聞いた。勇ましい話ではないが、なぜか記憶に残っている。二つとも戦争に負けた後の話である。
8月15日に玉音放送が流れたあとも、厚木などいくつかの航空隊で徹底抗戦の声が上がり、数日間あちこちの航空隊で混乱があった。それらに比べ、佐伯航空隊の司令は偉物(えらぶつ)であったようだ。8月16日の朝、司令から次のような訓示があったという。
「戦(いくさ)が終わったので皆は順次復員することになる。ただ、一度も飛行機に乗ったことのない整備員が多数いる。同じ海軍航空隊にいたのに、一度も飛行機に乗らないで故郷に帰すのは可哀想だ。国に帰ってからも肩身が狭かろう。整備員全員を飛行機に乗せてやりたい」
このようなわけで、三座の飛行機に操縦員一人が乗り、本来は偵察員と通信員が乗る空いた座席に二人ずつ整備員を乗せ、30分程度の遊覧飛行を16日と17日の両日行った。そのあと、身に着けたライフジャケットのまま飛行機乗りの格好で、呼んでいた写真屋に写真撮影をさせた。「故郷に帰ってからの土産話ができた」と整備の人たちは大喜びしたという。
終戦の3日後、8月18日にも奇妙な指示があった。司令や飛行長などお偉いさんのそばに、佐伯の漁業組合長さん以下の幹部が立ち並んでいる。司令はこう話された。
「大東亜戦争がはじまった時、ここ佐伯湾には山本長官が座上される聯合艦隊の旗艦・長門がいた。以来、この港は海軍が使ってきた。佐伯湾の中での漁は一切禁じたので、漁業組合には不自由をかけた。4年近く漁をしてないので、この湾にはたくさんの魚がいるそうだ。これから組合長さんに話をしてもらう。海軍としてはこれに協力したい」
この時、佐伯には零式三座水偵が12機あった。2機を選び、潜水艦攻撃に使う爆雷を積んで上空で待機してほしい、と組合長は言う。伝馬船に乗った漁師が、魚がたくさんいそうな場所で大きな白旗を振る。伝馬船は急いでそこから離れる。この場所に爆雷を投下してほしいと組合長は続ける。
たまたまその1機に父が選ばれたらしい。爆雷を投下すると、おびただしい量の魚が浮かび上がってくる。それを10隻以上の伝馬船で漁師たちが回収してゆく。何度も爆雷を落とした。中には水圧で腹の裂けた魚もいたが、採ったばかりなので問題なく食べられる。
「海軍さん、ありがとうございます」
その日の午後、形の良い鯛や黒鯛、ヒラメ、ブリなど大量の魚が、漁業組合から佐伯航空隊に届けられた。
「搭乗員は戦犯として一番に捕まる恐れがある」とのことで、父は8月20日過ぎには早々と広島県の実家に復員を命じられたという。
佐伯航空隊の最後の司令は野村勝という人で、海兵52期で高松宮・源田実と同期である。普通は航空隊の司令には大佐が任ぜられるのだが、この人は海軍中佐であった。よほど嘱望された優れた人物だったのであろう。
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