2020年9月19日土曜日

快男児・大伴古麻呂(2)

 「続日本紀」は言う。

正月三十日、遣唐副使・大伴宿禰古麻呂が唐国から帰国した。古麻呂は次のように奏上した。

大唐の天宝十二年正月一日に、唐の百官の人々と、朝貢の諸外国の使節は朝賀を行ないました。天子(玄宗皇帝)は蓬莱(ほうらい)宮の含元殿(がんげんでん)において朝賀をうけました。この日、唐の朝廷は古麻呂の席次を、西側にならぶ組の第二番の吐蕃(とばん・チベット)の下におき、新羅(しらぎ)の使いの席次を東側の組の第一番の大食国(たいしょくこく・ペルシャ)の上におきました。そこで古麻呂は次のように意見を述べました。

「昔から今に至るまで、久しく新羅は日本国に朝貢しております。ところが今、新羅は東の組の第一の上座に列(つら)なり、我(日本)は逆にそれより下座におかれています。これは義にかなわないことです」と。

その時、唐の将軍・呉懐実(ごかいじつ)は、古麻呂がこの席次を肯定しない様子を見て、ただちに新羅の使いを導いて西の組の第二番の吐蕃の下座につけ、日本の使い(古麻呂)を東の組第一番の大食国の上座につけました。


この報告の中に、大使・藤原清河のことがひと言も触れられていないのは、とても不自然である。考えられる一つの理由は、この時点では大和朝廷も古麻呂も、清河・阿倍仲麻呂の乗る第一船は遭難し両名は死亡したと考えていた。二つ目の理由として、遣唐使の期間中、古麻呂と清河は一貫して対立しており犬猿の仲であった。

このように考えられるが、もしそうであったとしても、大納言・藤原仲麻呂が可愛がる従弟で、かつ孝謙天皇の親戚でもある行方不明の大使・藤原清河についてひと言も触れてないことに異常さを感じる。この時、古麻呂はもう少し藤原清河に対して配慮ある奏上をしておけばよかったのに、と大伴氏びいきの筆者は悔やんでいる。

この三年半後、古麻呂は非業の死をとげる。従弟の家持の無念さと孤独感はいかほどであったことか。陰謀を企てたということになっているが、はっきり言って、藤原仲麻呂にはめられて殺されたように思われる。


この奏上は古麻呂の得意の一節であろうが、その後の日本史を現在からながめてみると、もう一つの古麻呂が強行した「唐僧・鑑真招聘」のほうが、大きな意味を持つように思える。もっとも、この帰朝時点においては、その後の鑑真の日本仏教への貢献については誰もわかっていない。仏教に造詣の少なかった古麻呂が、鑑真の偉大さを理解してなかったとしても、それはやむを得ないことだったと思う。








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