遣唐副使・大伴古麻呂は顔を真っ赤にして抗議している。
「なんだこれは。なめるんじゃないぞ!」
大唐の天宝12年(753)正月元旦の朝、場所はみやこ長安の蓬莱(ほうらい)宮である。しばらくしたら玄宗(げんそう)皇帝が姿をあらわし、諸外国の使節から朝賀を受ける。唐の百官はすでに式場で待機している。
「冗談じゃない。こんな馬鹿げた席順で座れるかよ。俺は絶対に座らん!」
すさまじい迫力で古麻呂は吼え続けている。唐の役人を相手に文句を言うのだから、一応中国語で話しているのだが、おそろしく下手だ。 遣唐大使・藤原清河(きよかわ)も副使・吉備真備もおろおろするばかりだ。
じつは、この二人にとって古麻呂の反論はありがたい。この席順で座ったとなると、帰国後、国粋派の連中から国威を汚したと攻撃されるのは明らかである。日本の右翼・国粋派の筆頭である大伴家の実力者が、ここでこう主張してくれるのは二人にとっては好都合である。
そうではあるが、古麻呂のこの蛮勇はいかがなものか。もう少しまともな中国語がしゃべれないのか。17年間の入唐留学で中国語に堪能なエリート官僚の真備は、複雑な気持ちでこれをながめている。そのくせ、自分が騒ぎに加わりこれを解決しようとはしない。やはり、エリートの学者気質はぬぐえない。
そう。古麻呂は充分な中国語がしゃべれないのである。57歳の真備も43歳の古麻呂も、入唐留学経験者というふれこみだが、中身はまったく違う。真備は22歳で阿倍仲麻呂などと共に入唐し、長安で17年間勉強した本物の留学生だ。学問・礼儀作法・中国語ともに教養ある中国人と変わらない。
かたや古麻呂のほうは、30歳前で長安の地を踏むものの、1年間ほど長安の町をウロウロと見聞し、連日大酒を飲んで帰国したにすぎない。いってみれば遊学組である。学問をしてないどころか、唐式の礼儀作法など頭から無視している。
片言の中国語なのだが、不思議なことに通じている。真っ赤な顔で怒鳴り散らすのだから、相手にも怒っているのはわかる。儀典長は弱り切っている。元旦の朝、玄宗皇帝が外国の使節から朝賀を受けるのは、めでたい恒例の儀式だ。その直前に、席順が気にくわないと日本の使節が席に座らないとなると、儀典長の大失態になる。
その時である。呉懐実(ご・かいじつ)という名の唐の将軍が、古麻呂の存在に気付く。「なんだ。お前かよ!」 そう言われた古麻呂は、呉に同じ言葉を投げ返す。十数年前、長安の街をウロウロしていた時の、仲の良かった飲み友達である。義兄弟のちぎりを結んだその男が、今は将軍になっている。
呉将軍は、自分より格下の儀典長に耳打ちする。「この男、言い出したら絶対あとに引かん。ここは俺にまかせろ。俺が新羅に話をつけるから。ええな!」儀典長にすれば、願ったりかなったりである。こういう次第で、朝賀の席順の問題は解決した。
つねに淡々と味気のない表記の「続日本紀」なのだが、これを記録した天平勝宝6年(754)1月30日の箇所は、古麻呂の得意顔と記録官の気の昂(たか)ぶりがわずかに感じられる。
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