2021年12月13日月曜日

丈部浜足(はせつかべ・はまたり)の証文

 この借金証文の日付は、宝亀(ほうき)3年(771)11月27日とある。東大寺の造営を担当する「造東大寺司」に属す役所「写経所」の下級役人、丈部浜足が書いたものである。

浜足このとき54歳。式部省(しきぶしょう)から写経所に出向して二十数年になっていた。正七位上、という位階を持っていた。戦前の軍隊でいうと、一兵卒から営々三十余年勤務して、定年間際で「特務中尉か特務大尉」になったくらいの地位の人であろう。

現在の役所だと一般職で入って定年間際の「係長」といったところか。米価から換算すると彼の年収は現在の感覚で500-600万円位かと思う。(現在の役所の係長さんはそれよりは多いと思うが)

つとめ先の写経所から「月借銭・げつしゃくせん)という形で融資を受けている。「丈部浜足解 申請月借銭事」という文面で始まっている。

浜足はこの日、一貫文(1000文)の金を一ヶ月の期限で借りることを願い出た。証文に記された書き込みによると、「利息は130文、質物(しきもつ・担保)は平城京右京三条三坊にある約125坪の宅地と板屋3間の住宅、さらに葛下郡に拝領していた口分田(くぶんでん)3町8段」とある。

浜足は、この証文に、驚くべき文言を書き加えている。「若期日過者、妻子等質物成売、如数将進納」すなわち、「もし、期日までに金を工面できなければ、妻子を売ってでも返済する」と書いているのである。

金を借りるのに、全財産、そして最愛の家族まで担保にするとは、浜足はよほど追い詰められていたのだろう。病気の妻の薬代か、孫娘の結婚費用か、はたまた、ばくちで負けてやくざ者に追い詰めつめられていたのか。1240年前の人のことながら、気にかかる。


さて、この時、浜足が借りた1000文は現在でいくらぐらいの価値の金なのであろうか。正確に言い当てることは出来ないが、米価に換算すると次のような推測が出来る。

和同開珎が出来た時、(和銅元年・708)大和朝廷は、銅銭一枚の価値を一日分の労働の値(力役・りきえき)とし、米6升買えるとした。ところが10年後には、和同開珎一枚で、米が1升五合しか買えなかったという。極度のインフレである。よって、60年後の浜足の時代、和同開珎銅銭1文にどれだけの価値があったか、はっきりとはわからない。

かなり甘く見て、1文で米が一升買えたとと仮定する。そうすれば、米1000升の価値がある。米1升は1.5キロである。現在新潟産コシヒカリ5キロが2800円で売られている。1キロ560円となる。すなわち、1500キロのコメの値段は84万円となる。わずかこれだけのお金を借りるために妻子を担保にするとは、なんとも心が痛む。お金(和同開珎)が鋳造されてなかったら、このようなことにはならなかったはずだ。

それにしても、丈部浜足はこのお金を無事に返却出来たのであろうか。妻子は売り飛ばされないで済んだのであろうか。1200年以上前の家族のことながら、気になって仕方がない。















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