日本という国の将来像はかくあるべし、と最初に考えた人は聖徳太子ではあるまいか。設計図・青写真を描いたのは、太子の没4年後に生まれた天智天皇の気がする。中臣鎌足が補佐した。壬申の乱という日本史の不幸を乗り越えて、天武天皇がこれを実行に移した。天武天皇亡き後これを完成させたのは、天智の娘であり天武の皇后であった持統女帝である。藤原不比等がこれを補佐した。
飛鳥から奈良時代の日本史の大きな流れをひと言でいうと、このようになるかと思う。
大宝律令の完成(701年・文武天皇)、日本書紀の完成(720年・元正天皇)は日本史の重要事項だが、いずれも天武天皇が在位中に命じたものである。和同開珎鋳造(708年・元明天皇)、平城京遷都(710年・元明天皇)も日本史の重要事項である。
具体的に奈良に「みやこ」を移すという考えまではなかったかも知れないが、将来唐の長安を模した「永遠のみやこ」を建設したいとの考えを、天武天皇は持っておられたのではないかと私は考えている。こう考えると、56歳で崩御された天武天皇の日本史における役割は極めて大きい。
この平城京遷都と和同開珎の鋳造とはセットになっていたらしい。天武天皇の崩御は686年だが、12年後の「続日本紀」には、鉱物資源に関しての記述がとても多い。大和朝廷は貨幣を鋳造するために、やっきになって金・銀・銅を探していた様子がわかる。
「続日本紀」は次のように記す。
文武天皇2年(698)
3月5日 因幡国が銅の鉱石を献じた。
7月27日 伊予国が鉛(なまり)の鉱石を献じた。
9月10日 周防国が銅の鉱石を献じた。
文武天皇大宝元年(701)3月21日 対馬嶋が金を献じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。
元明天皇和銅元年(708)春正月11日 武蔵国の秩父郡が和銅(製錬を要しない自然銅)を献じた。これに関し天皇は次のように詔(みことのり)した。
「そのため慶雲5年を改めて、和銅元年と元号を定める。全国に大赦を行う。和銅元年1月11日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪も、獄につながれている囚人もすべて許す。武蔵国の今年の庸(よう)と、秩父郡の調(ちょう)・庸(よう)を免除する」大和朝廷が大喜びしている様子がよくわかる。
「続日本紀」を続ける。
和銅元年 2月11日 初めて催鋳銭司(さいじゅせんし・銭貨の鋳造を監督する役人)をおいた。従五位上の多治比真人三宅麻呂がこれに任じた。
5月11日 はじめて和同開珎の銀銭を使用させた。
8月10日 はじめて和同開珎の銅銭を使用させた。
12月5日 平城京の地鎮祭を行った。
これらの記述から、大和朝廷の動きがおそろしくスピーディであったことがわかる。
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