武蔵国が「秩父郡で銅が発見されました」と朝廷に献上したのは708年1月11日である。2月11日に造幣局長官を任命し、5月11日には銀銭、8月10日には銅銭の和同開珎を流通させたというのである。「待ってました」というような、あまりにも早い動きである。
現在と比べて交通の不便だった時代である。恐ろしいほどの熱気・行動力である。国家建設に燃えていた時代である。官民ともにありったけの力を振り絞ったのであろうが、それにしても早すぎる。「製錬を必要としない自然銅が大量に発見されました」との情報は、この記録にある半年か1年ほど前に、すでに大和朝廷に報告されていたような気がしてならない。
銅は重い。どのような手段で鋳造所のあった河内国(現在の堺市)まで運んだのであろうか。当時の船は沈没の危険が高かった。貴重品の銅である。馬か荷車に乗せて運んだのでは、と当初は思っていた。調べてみて、当時は現在の東海道はきちんと整備されてなかった。鋳造所が海辺の河内国に置かれていたという事実から、ある程度の危険を覚悟の上で、大和朝廷は船で大量の銅を運んだ、と考えるのが妥当かと今は考えている。
1970年、この「和同開珎」の銀銭が中国で発見された。中国西安市の郊外の唐代の遺跡から、二つの大がめが発見された。この中に、ササン朝ペルシャの銀貨や東ローマ帝国の金貨に混じって、わが和同開珎の銀銭5枚が含まれていた。
宝物が埋められていたのは、唐の玄宗(げんそう)皇帝のいとこにあたる人の屋敷跡であった。756年の安禄山(あんろくざん)の乱のとき、玄宗皇帝やその一族、高級官僚はみな四川に逃れた。この時逃げ遅れたのが、王維と杜甫である。逃げ遅れたためこの二人は苦労している、この安禄山の乱の時、玄宗の従弟は、あわてて土中に隠したのであろう。
この銀銭は、日本からの遣唐使が献上したものに違いない。玄宗皇帝の従弟の一人が5枚持っていたのだから、皇帝自身を含めてその兄弟や高級官僚を含めると、数百枚もしくは数千枚の大量の銀銭を、贈答品として遣唐使船は日本から運んだと思われる。
これを運んだと思われる遣唐使船に便乗していた人の中に、阿倍仲麻呂・吉備真備・大伴古麻呂などがいる。「ついに日本も自前の通貨を発行したのだ」と彼らも鼻高々であったに違いない。
このように苦労して造った和同開珎だが、日本臣民の多くはこれを使おうとしない。同時に贋金造りをやる輩が排出する。これらに対応する大和朝廷の苦労ぶりを「続日本紀」は克明に記録している。これは次回にご紹介したい。
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