シルクロードのものがたり(2)
「李将軍列伝」は司馬遷の「史記列伝」の中の白眉だといわれている。友人の李陵の祖父にあたる人だから司馬遷も熱も入ったのだと思うが、なによりも司馬遷自身が、この李広将軍に直接会って感銘を受けたことが、一番の理由であろう。
「李将軍広は、甘粛省成紀(せいき)県の人である。広の家は、代々弓射の法を受け継いでいた。孝文帝の十四年に匈奴が甘粛省に侵入した。広は良家の子弟として従軍して匈奴を撃った。騎射にすぐれていて、敵兵を殺して首を取り又捕虜にしたのが多かったので、漢の郎官にとりたてられ八百石の俸禄を賜った」と李将軍列伝の冒頭にいう。
李広が若い頃つかえた文帝は、初代の高祖(劉邦)からして五代目の皇帝である。李広はその後、景帝・武帝にもつかえることになる。
狩猟でおとし穴に落ちたけものに、若い李広は飛びかかって格闘をしたという。文帝は李広のその勇気を愛し、称賛して言った。「残念だなあ。きみは時勢にめぐりあわなかった。もしきみが高祖さまの時代に生まれていたら、一万戸の大名になっていたのになあ」
その後、李広は合戦でしばしば手柄を立てる。しかし、戦(いくさ)は水ものである。常に百戦百勝とはいかない。時には負けいくさの責任を取らされ、官位を返上して平民に降格され、自宅でしょんぼりと暮らした時代もある。そしてまた匈奴が攻めてくると、再度将軍として出陣して大活躍をする。李広だけでなく、武官も文官も、昔の中国ではこのようなことが繰り返されている。
「広は清廉で、金品を賞賜されるとそのたびに部下に与えた。死ぬまでに四十年間も俸禄二千石の身分にあったが、家には余分の財産はなかった。広が将軍として出征したときには、物資の乏しいところでは、水を見つけても、士卒が飲み終わるまでは水に近つ”かず、士卒が食べ終わらなければ食べなかった。のびやかでこせつかなかったので、士卒は思慕し喜んでその命令に従った」
軍神・橘周太中佐の、「兵休まざれば休むべからず。兵食わざれば食うべからず」の言葉も、この列伝に由来するのではないかと考える。
ほかにも李将軍列伝に由来する格言が日本にある。軍歌「敵は幾万」の中にもある「石に矢の立つためしあり」という言葉である。「一心を込めて立ち向かえば、不可能と思えることも可能となる」との意味で、単なる精神論だと軽んじる人もいるが、私は意味のある言葉だと思っている。
「あるとき広は猟に出かけ、草の中の石を虎だと思って射ると、命中して鏃(やじり)が石の中にめりこんだ。よく見ると石だったので、さらにまた射てみたが、二度と矢を石に立てることはできなかった」と列伝にいう。
晩年、李広は大将軍・衛青(えいせい)に従って匈奴征伐に出陣するのだが、道に迷って大将軍の戦列に後れをとった。大将軍はこれを咎め、後日の日本陸軍でいう憲兵隊の係官を李広のもとに派遣して取り調べをしようとした。李広はこれをいさぎよしとせず、自害した。
列伝はいう。
「部下の将校たちには罪はない。わたしが自分で道に迷ったのだ。わたしは元服してこのかた匈奴とは大小七十余度も戦った。今回、幸いにも大将軍に従って出撃し、単于(ぜんう・匈奴の君主)と戦うところだった。ところが大将軍が私の部署を移したので、迂回路を行くことになり、道に迷って遅れてしまった。まことに天命ではなかろうか。かつまた、わたしはすでに六十余歳だ。いまさら刀筆(とうひつ)の史(憲兵隊の小役人)に対応することなどできるものか」
こう言って刀を引き寄せて、みずから首をはねた。広の軍では、将校も兵も全軍がみなが泣いた。庶民もこれを聞くと、広を知る人も知らない者も、老人も壮者も、みな広のために涙を流した。
列伝のおしまいの箇所に、「太史公曰く」という司馬遷自身のコメントがある。
太史公曰く。
伝に、「その身が正しければ命令しなくても行われ、その身が正しくなければ命令しても人は従わない」(論語・子路篇)とある。これは李将軍のような人を言ったのであろう。わたしは李将軍と会ったことがある。誠実・謹厚で田舎者のようであり、ろくに口もきけない様子であった。彼が死んだ日には、天下の彼を知っている者も知らない者も、みな彼のために哀しみを尽くした。
ことわざに言う。「桃や李(すもも)はもの言わぬが、その木の下に自然と蹊(こみち)ができる」この言葉は小さな事を言っているのであるが、そのまま大きなことにも喩(たと)えることができるのである。
諺に曰く。「桃李言わざれども、下自(おのず)から蹊(こみち)を成す」と。
私の学んだ成蹊学園の校名は、この李将軍列伝に由来する。
成蹊学園 |
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