2022年11月15日火曜日

西域(さいいき)への憧れ



 シルクロードのものがたり(1)

司馬遼太郎「街道をゆく」中国・閩(びん)のみち、の中に次のような一節がある。

「日本人というのは変だなあ。なぜシルクロードが好きなんですか」と、中国人から聞かれたことがある。「漢書・かんじょ」以来「西域」とよばれた中国新疆ウイグル自治区に、私がはじめて行ったのは1972年だった。

そのときも、同行した若い中国側の人から上記の趣旨の質問を受けた。私は相手を満足させるような返事ができず、逆に質問してみた。「中国人にとって、どういうイメージがありますか」と。「単に田舎です」とそのひとは言った。

この話には、私も合点がいく。

三光汽船に勤務していたころ、シンガポール駐在時代を含め、東南アジアの仕事に長く従事した。この頃、多くの台湾人・香港人・東南アジア各地の華僑の人たちとの交流があった。ヘッドハンターになってからは、中華人民共和国からの留学生を含め、少なくても百人以上の中国人にお会いした。

子供のころからシルクロードへの憧れの強かった私は、何人かの中国人にこの話題を振ってみたのだが、強い関心を示す人はいなかった。ただ一人、シンガポール時代の部下で、私より一歳若いエディ・タン(陳)だけが目を輝かせた。

「将来ふた月ほどかけて、一緒にシルクロードの旅に出ようぜ」と約束したのだが、まだ実現できていない。彼の父親は海南島から新嘉坡にやってきたというが、なぜタン(陳)君が西域に関心を持っているのか聞かずじまいだった。十年ほど会ってないが、彼はオーナー社長としてまだ仕事をしている。今度シンガポールに行ったら聞いてみようと思う。

司馬遼太郎は次のようにも言っている。

奈良朝・平安初期の日本は遣唐使を派遣して、唐の文明を摂取しつつ”けた。遣唐使が廃止されたのは9世紀末であり、以後日本は文化的には鎖国のかたちとなった。同時に、世界でも独自な平安文化が醸成された。その一方で、唐の記憶は文化として日本人の心の中に強烈に残った。

本場の中国では、当然のことながら唐以降も歴史が続き、遠い盛唐の文化の記憶はしだいにうすらいでいった。ところが海東の日本にあっては、唐の記憶は氷詰めにされて残った。平安期いっぱい、日本の教養人たちは飽きることなく唐詩を読みつつ”けた。中国人はその後変化したことを考えると、中国人よりむしろ日本人のほうが、唐の文化的な子孫であるといえる。小項目でいえば、唐詩の西域への異国趣味は、中国ではなく日本に残ったのである。


たしかに、そんな気がする。

子供のころからの私の西域への憧れも、多くの日本人と同じく「唐の文化の精神的子孫」であることに由来するのではないかと思う。私の西域への憧れの源は、童謡「月の沙漠」にあるような気がしている。

月の沙漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました

金と銀との鞍置いて 二つならんでゆきました

4番まであり最後の句は、「砂丘を超えてゆきました 黙って越えてゆきました」とある。

大学時代の友人・内島照康君も、三光汽船時代の友人・春名豪君もこの歌が好きだった。「母親がこの歌が好きだった」と両君とも言っていた。他にも同世代の友人の中に、この歌が好きな人は多い。ただ、若い世代の人の中には少ないような気がする。

加藤まさを、という挿絵画家が千葉県の御宿海岸の砂浜を見て、大正時代に作詞したものだといわれる。素晴らしい詩だと思う。

ところが、この詩にいちゃもんをつけて批判した馬鹿者がいる。本多勝一という元朝日新聞の記者だ。曰く。「現実ではありえない点がいくつもある。遊牧民は水を運ぶのに甕(かめ)ではなく革袋を使う。王子と姫が二人だけで旅をしていたら、たちまちベドウィン(アラブの遊牧民)に略奪される。うんぬん」 「もののあわれ」を感じることのできない可哀そうな人だと思う。

奈良・平安時代から千年間、日本人は、王翰(おうかん・687-726)、王維(おうい・701-761)、李白(りはく・701-763)、岑参(しんじん・715-770)たち盛唐の詩人が書いた、「西域・胡姫・葡萄の美酒」などをテーマにした詩を読み続けてきた。その間に、事実以上に美化され憧憬の域まで達した「西域感」が日本人の心の中に醸成されてきたような気がする。いわばこの千年間の日本人の西域への憧憬の結晶が、大正期に書かれたこの「月の沙漠」ではあるまいかと思っている。

私自身、この詩はシルクロードの景色を見て日本人が書いたものだと、長い間信じていた。御宿海岸の砂浜を見て書かれたと知ったのはずっと後である。しかし、それはどうでもよいことだ。この曲を聴き、歌い、幸福感を感じることができるのは、「唐の精神文化のDNA」を受け継いだ日本人のしあわせだと思っている。


先日、故郷の広島県の実家に帰ったとき、母との会話の中で、「月の沙漠の歌」が気に入っているという話をした。すかさず96歳の母は、「そりゃそうよ」と言う。「のぶちゃんが赤ん坊のとき背中に背負って、散歩に出たり買い物に行く時は、歩きながら私はいつも ”月の沙漠” を歌っていた」

調べてみると太平洋戦争が終わったあと、「リンゴの唄」「青い山脈」と共にこの「月の沙漠」が、日本中で爆発的に流行したことを知った。15年にも及ぶ暗い戦争の時代が終わり、人々が明るく希望に満ちた、そしてロマンチックな歌を好んだからに違いない。

内島君も春名君も、きっと私と同じく、赤ちゃんの時から母親の背中でこの歌を聴いていたのに違いない。「三つ子の魂百まで」という言葉を思い出した。

全部で何篇になるかわからない。心惹かれる人物に焦点をあてて、行ったことのない「シルクロードのものがたり」を私なりに書いてみたい。

辻道雄氏 提供








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